世界の色を緩やかに取り戻し、
遅れてきた青春は──終わった。そう悟らせたのは、薬臭い空間に運ばれたのを察したからだ。さっきまでの光景は夢じゃない。夢なんかで済ませない。
感覚を取り戻した指先は、完成させた曲を描くことができる。
しかし、強制的に終わったのだ。とっくに忘れていたゴミ処理用の爆弾によって。
無数のベッドと、医療器具に囲まれた処置室。すぐ
俺は生きているらしい。ベッドに寝かされてはいるが、普通に呼吸はできるし
このまま日帰りできる程度には容態も回復した、という報告だけで構わない。
俺は上半身を起こし、ベッドサイドへ腰掛けた。
「おいおい……大丈夫かよ?」
医師から許可を得た母さんが、血相を変えながら駆け寄ってくる。
「もう元気だから。心配かけてごめん」
「はあぁあ……世話が焼けるぜ。お前が倒れたって聞いたから、マジで焦ったっつーの」
胸を
「そういえば、このことを誰から聞いたの?」
「
そっか、あいつにも迷惑をかけたな……。
「さっきまで鞘音ちゃんもロビーで待ってたんだが、
「あ、安心? どんなことを言ったの?」
「昼夜逆転した不規則な生活と睡眠不足が招いた高血圧。お前、最近は割と忙しかったみたいだし、説得力はあるよな?」
もちろん口から出任せ。鞘音に過度な不安を与えない、という母さんなりの配慮だ。
「あの子、怒ってたぞぉ。『余計な心配かけるな馬鹿って伝えてください』だとさ」
怒り顔が容易に想像できる。エミ
俺の人生は、自分だけのものじゃない。
大切な人たちに支えられて、俺はこの二十年を生きてきた。
ゴミクズとか底辺とか、勝手に
感謝するのが遅すぎる。今さら自覚したのかよ……情けない、本当に。
「それで……鞘音は?」
「さっき、電車で実家に帰った。顔は見なくても大丈夫、とかで」
淡泊なところは実に鞘音らしい。東京に帰る当日に、病院まで付き添ってもらったことが申し訳なさすぎて。
「荷物をまとめたら東京に戻るらしいじゃんよ。電話でもしてやったらどうだ?」
「あいつの携帯番号、知らないから……」
「あらら、くそヘタレ息子だな」
ぐわぁああ……会心の言葉が心臓を一突き。くそヘタレ息子でごめんなさい。
「あと、これ預かったぞ。修に渡してくれって」
母さんから俺の手に置かれたのは一枚のピック。中学生の小遣いで買えそうな安っぽいデザインは、当時とまったく同じで。
「俺が渡したやつだよ、これ……」
見覚えのある三角の物体は、誕生日プレゼントの担保として渡したもの。目を凝らすと、新品同様ではなかった。使い古したと思われる小傷が、無数に刻まれていたのだ。
こんな安物を、大事に使っていたのか……。
本物のプレゼントを受け取る日が来るまで……そんな運命が巡ると信じながら。
「もちろん、お前の不調は睡眠不足なんかじゃねぇ。今回は軽度の症状で収まったらしいが、危険の前兆みたいな感じだとしてもおかしくはねぇんだよ」
若干、語気を強めた母さん。
「このまま放置すれば……徐々に悪化していくだけだ。手術をしても完治はないし、後遺症は残るかもしれねぇが──」
再発や後遺症のリスクは一生付き
母さんは平常な面持ちを保とうとしていたが、瞬間的に唇を
「でもな……生きられる。お前が生きていられる可能性は、間違いなく上がるんだ」
俺の手を取り、母さんは自らの両手で
この感触も懐かしい。父さんが死んでからは、母さんが俺の手を握ってくれていた。幼かった息子を、絶対に離さないように。
記憶に残る手触りより、やや硬くなっているけれど……父さんの代わりに、俺を育ててくれた苦労の
「病名は違うが、姿が
「父さんと?」
「あいつも最初はヘラヘラしてたんだ。自覚症状があった頃には手遅れで……そこからはあっという間だったな……」
何が〝あっという間〟だったのか、明言されなくても察してしまう。
「だが……最後まで笑顔は絶やさなかったぜ。昔から甘ったれで、
「友達いなかったの? 母さん、
「旦那のおかげだよ。担任の杉浦に
「父さんと教頭の計算だったのかな。学校生活に溶け込みやすくするための」
「分からねぇが……あの二人なら考えそうなこった。お節介過ぎんだよ、腹立つくらい」
言葉とは裏腹に、母さんは険しげな表情を緩和させた。こうして母さんが過去を話してくれたのは、たぶん初めて。
エピソードの数々が新鮮味に
「旦那が亡くなったとき、あの温厚な杉浦に
脳裏に
絶望している暇なんてない。
思い出せるのは部分的な回想だけど……この
母さんが酒や煙草をやめたのは──幼かった俺のため。
「アタシは心が弱い。旦那がいなくなって、
母さんの台詞が次第に湿り気を帯び、節々が
「ついこの間までは『生きろ』なんて言えなかった……! 自分の人生なのに、お前は
数日前までの俺は、ゾンビみたいな
「……だけどよ、久しぶりに
楽しそうな、じゃない。たぶん、素直に楽しかった。
この一週間が、
「だから……言わせろ! 勝手に人生諦めてんじゃねぇ! 親孝行も初孫も期待しねぇからよ……ただ、元気な顔を見せてくれよ……。アタシの話し相手に……なれよ! お前までいなくなったら……アタシは……どうすりゃあいいんだ」
「母さん……」
「親より先に死ぬなんて、絶対に許さねぇからな!!」
怒りというよりは、哀願。以前は
今思うと、俺の病気が発覚してから、母さんは無意識に弱さを露呈していた。やめていた酒と煙草に
息子に甘くなったのは、失った父さんの代わりを担おうとしていたため。
俺がいなかったら、鞘音や母さんはどうなってしまうのだろう。
軽トラに揺られる帰路では、父さんとの
思い出すと辛い。だから、母さんは過去の話題を十数年も封じ込めていた。
アタシとお前はやっぱり親子だなぁと、母さんに
その通り、俺と母さんは似ているよ。
甘酸っぱい青春の味が忘れられない。大切な人を失ってから、もっと好きになる。隣にいないだけで、すぐに自分を見失う。そして、駄目人間と化す。
俺たちはこんな親子だ。
それでも、再び立ち上がることができる。足りないものを補う存在によって。
車窓からの風景は一面の黒。軽トラのヘッドライトと
数日前は見たくもなかった。こんな闇夜で永遠に隠れていてほしかった。みっともなく身を
今は……違う。
この町に
俺の人生は、ロスタイムどころかスタートライン。
「俺さ……意識を失う前に願ったんだ。生きたい──って」
大切な人たちの隣を、もう一度歩き始めるために。
「手術を受けるよ。こんなに楽しくて、大好きな人がいる最高の人生だから」
******
実家に到着すると、すでに午後の八時近く。
鞘音が乗ると言っていたのは、最終の新幹線。あと三十分もすれば、春咲駅行きのローカル線が旅名川駅に到着してしまう。
俺は自室で鞘音のことだけを延々と考えていた。刻一刻と別れが近づいているのに、最初の一歩を踏み出せない。
今のあいつは、プロとして背負っているものがある。鞘音個人の意思だけでは大人の柵を覆すことはできないし、本人も……そう言っていたはずだ。
でも、鞘音の気持ちはどうなのだろうか。
病院で会おうと思えば会えたのに、鞘音は一足先に立ち去った。俺の顔を見たくない、と言わんばかりに。
病院まで付き添ってくれたのに、旅立つ前は会わない──彼女の心理は、彼女にしか分からなくて。
答えは誰も教えてくれない。自ら行動し、探し出すしかない。
最後の踏ん切りがつかず、自室で
あいつが旅名川を離れるまで、あと十一分。時計を確認している途中にも一秒、また一秒と刻まれていく。旅名川駅まではチャリで十分もかからない。
床に根が張った両足を踏み出せれば、の話だが。
こっちから会いに行く口実はある。倒れる直前に聞こえた〝あの言葉〟は、幻聴なんかじゃない。そんな安っぽい勘違いで終わらせたくない。
修のために歌ってあげる──この口約束はどうなるのか。俺は五年越しながら……約束を果たすことができた。遅すぎた誕生日プレゼントを渡せたんだ。
鞘音は五年後に歌ってくれるのか?
身勝手だけど、俺は待つことができない。今日別れてしまったら二度と会えないと、直感が
鞘音が俺に会う理由は、もはや無い。
依存を、渇望を、完成した新曲で満たすことができたなら。
だけど、今度は反対。俺に伝染した〝渇望〟が止めどなく溢れ出す。
こんなに会いたくて、声が聞きたくて、鈍痛に胸が締め付けられる。依存してしまうと、こんなにも相手のことしか考えられないのかよ……!!
あいつは待ち続けた。遠くに離れても、意思を叫び続けた。回りくどく、我慢し続けていた。俺は絶対に待てない。遠くから叫ぶなんて、まどろっこしい
せめて、サビだけでも聴かせてくれ。
言いたいことがあるなら、率直な声を発してくれ。
抱いている喜怒哀楽を、直接伝えてくれ。
俺も、勇気を出して伝える。噓偽りなく、お前への
こっちから会いに行く。
頼まれなくても、迷惑でも、勝手に出向く。
逃がさない。かつての逃亡者を模倣するなんて百年早いんだよ。
俺は──お前を摑まえてみせる。
「そういえば……!」
ふと思い立った俺は、自室に置かれていた学習机の引き出しを
捨てていないはず。捨てられなかったはず。
キーボードと同じく、処分できなかった思い出の欠片が……。
「あった!」
経年により、多少劣化したメモ用紙。表面に書き殴られていた十一桁の番号。
あいつが教えてくれたじゃないか。携帯番号知らないから……じゃねぇよ、くそヘタレ息子。辛いから忘れようとしていただけだろ。
鞘音がどんな想いで連絡先を渡したのか、知ろうともしなかったくせに。
もう逃げないと誓った。
すべてをかけて、隣を歩き続けると決めたんだ。
自らのスマホにその番号を入力し、発信ボタンをタップする。
耳奥に木霊するのは、数回のコール。
…………。
……。
途切れた。
画面は通話中に切り替わっている。
周囲の雑音らしきものは聞こえるが、通話相手の音声は皆無。
「……………………」
初電話は、完全な無言。
もしかしたら、とっくに番号が変わっているかもしれないけど。
「俺は……お前に東京へ行ってほしくない! 今から迎えに行くから……!」
無言から無音へ。
かろうじて交わった通話は一方的に切られた。
ローカル線の発車時刻まで十分も残されていない。
あいつが旅名川からいなくなる。
必死に手を伸ばしても、届かない距離になってしまう。
「遅いんだよ……俺は、いつもいつも!」
髪の毛を乱雑に
近づいて、離れて、また近づいて、離れる……こんなのばかり。
自ら手放しておいて、こんな願望がおこがましいのは百も承知。それでも、願わずにはいられない。
鞘音の隣に並び立たせてくれ。これからは、もっと頑張っていくから。
「一度くらいは……! 最後までやり遂げて見せろ……! 松本修っ!!」
自分自身に喝を注入しながら、実家の廊下を疾走。
小汚いスニーカーを足裏で
一応は倒れたばかりの病人という立場。あとで怒られないよう【鞘音に会ってくる】というメッセージを母さん宛てに送信すると、すぐに届いたのは母さんらしい返事だった。
【恋には早いも遅いもねえ。派手にぶちかましてこい】
こう背中を蹴り出されたら、がむしゃらにチャリを走らせるしかないじゃん。
旅名川駅までは十分もかからない……というのは、あくまで道のりが
実際には五百メートル近い距離の上り坂がラストに待ち構えて、元チャリンコ暴走族の心臓を破りにかかってくる。
「はあ……はあ……はっ……」
太ももの裏が
あいつは電話を切った。ど田舎とはいえ、電波は普通に良好。機器の問題や自然現象により切れたのではなく、向こうからの拒否ということ。
会いたくない。そんな無言の意思表示に思えた。
あいつは自らを「構ってちゃん」と卑下していたが、俺も……同類だよ。会いたくないなんて言われたら、一方的に逃げられたら、もっと好きになってしまう。求めてしまう。
好きな女の子に構ってほしい。
直接話せる距離にいてほしい。
お前の意思表示を跳ね
五年前には迎えに行くことができなかった。
待っていてくれたのに、逃げ出してしまった。
「…………っ!」
推力が停滞してしまったチャリは左側へよろめき、転倒の寸前で片足を突く。肩を上下に激しく揺らしながら、酸素を肺に送り込む。
中学生の体力だったら、とっくに間に合っていただろうか。心の中は前に、ひたすら前に進んでいるのに、身体が付いて来ないなんて。
心が死んでいた頃と、真逆になってしまう。行けるのに、行かない。行きたいのに、行けない。そんな皮肉などいらないんだよ。
「お前が待っていてくれるなら……俺は……行く……から……! 鞘音ぇえええ……」
冷たく乾燥した秋の夜。
カラカラに砂漠と化した喉から、二酸化炭素混じりの
誰も応答してくれない坂道の頂点に向かって。
発車時刻なんて、もう絶対に過ぎているのに。
「くっ……」
再び漕ぎ始めた足に力が入らず、チャリごと転んでしまう。
「はあ……はあ……」
生きている限り──お前のところに行くことができるから。
逃げ出す、引き返す、という過去の選択肢を、今では鼻で笑えるのだ。
…………やかましい。
徐々に接近してきたのは、重低の排気音と軽快なヒップホップ音楽。旅名川駅方面から差し込むヘッドライトの発信源が誰なのか、わざわざ運転手を確認しなくても分かる。
あの人は昔から親友みたいで、頼れるヒーローだった。
路肩に駐車した黒のワンボックスカーが、パワーウィンドウを開けてくる。
「よう、チャリンコ暴走族。調子はどうだ?」
「……たった今、失恋したばかりだよ」
「ちっげーよ。体調不良で倒れたんだべ? 救急車も来たし、ご近所の
「大したことなかった。慣れない早起きと睡眠不足が重なってさ」
こんなのはご挨拶。トミさんがこのタイミングで来た理由は、すぐに理解できた。
「さっき、エミリィとリーゼも連れて鞘音の見送りしてきたど」
「そっか……」
「鞘音に電話かけてきたの……お前だべ?」
……お見通しか。
「電話を切られた。間に合わなかった……遅かったんだよ」
涙声で
「ホントに面倒くせぇなぁ。超奥手なくせに独占欲が強くて、気ぃ遣いだから建前ばがり
「そうだね……自分の性格は一番よく分かってる」
「いいや、お前じゃなくて鞘音のことだぜ。俺の目が正しければ、今のあいつは本音を隠してっから」
ぶつけてほしいんだ。
「発車した電車の中で、少しだけ泣いてたんだど……あいつ」
鞘音の本音を。
「直接、聞きに行くべさ。今から、あいつの想いを」
「トミさん……」
この人は昔から悪知恵の働く男だった。
「借りは返すのが男ってもんだ。今度は俺が〝お前らの青春〟を応援してやるよ」
鞘音の母さんが、あいつの居場所を教えていたとしたら──必然。
格好つけた顔で言い放ったのは
地元に救われて、地元の大切な人たちに励まされて、俺は少しだけ変わることができたから、時間稼ぎはここで終わり。
臆病で失った五年前を補完する青春の
最後まで
発進した車の目的地は春咲駅。新幹線の発車時刻まで、あと四十分を切っている。旅名川から春咲駅までは、車だと片道四十五分……といったところか。
「お前らを見てるとな、もどかしいんだよ」
車を運転しながら、トミさんが話を切り出した。
「関係が
「やっぱり分かるの?」
「あったりまえだっちゃ。
自覚なかった……。俺と鞘音からは、濃縮された青臭さが抜けていないらしい。
「お前が鞘音から離れたのは、足手
「うん……。今回の祭りだって俺の影響力は皆無だったし、鞘音に動かされた観客ばかりだったと思うよ……」
「でも、お前の行動は無意味じゃなかった。鞘音っていう強大な存在を引っ張り出せたのは、修が無意味を積み上げ続けたからだっちゃ?」
「無意味を積み上げても、結局は無意味じゃないの?」
「あっはっはーっ! 行動の意味や結果はどうでもいいんだよ! 行動を起こすことが相手の気持ちを動かすんだべや!」
しんみりとした空気になるかと思いきや、トミさんは大口を開けて愉快に笑った。
「エミリィがプロを目指してたのは知ってるべ? 高校を卒業する直前まで、あいつは上京するつもりだったんだど」
「そうだったの!?」
プロ志望は知っていたけど、上京まで考えていたのは初耳だ。
「長男の俺は親の面倒とか実家の米作りもあるし、エミリィも本気で音楽漬けになりたいからって。中途半端な遠距離恋愛になるなら、円満に別れたほうが、お互いのため……みたいな空気があったわけだ」
厳密には異なるけど、心情は俺と似ているかもしれない。
「夢を追うあいつの邪魔をしちゃいけないとか、悩みまくった日々もあったど? でも、俺はエミリィが好きすぎたから、意地でも別れたくなかった」
「それで、トミさんはどうしたの?」
「究極の結論に
この人の行動力は化け物だ。
俺たちのコネでエミ姉と知り合った時代から、格段に進化している。
「だって好きなもんは
きもっ。寒気がした。
「苦笑いしてんじゃねぇ! ガラケー世代の青春をバカにすんなや!」
「するよ! 歩く黒歴史じゃん!」
「メールの返事待ちでセンターに何度も問い合わせしたり、電波が悪いとアンテナをひたすら揺すったりな! エミリィ用の着ムービーが流れた時は
「何を言ってるのか一つも分かんないってば!」
トミさんが「それでな~」と仕切り直し、脱線しかけた話題を戻す。
「十年前の上京の日、旅名川駅から電車に乗ろうとしたエミリィを、
「クサい
「は? めちゃくちゃ感動のプロポーズだべや!」
「うん……憧れる。俺と違ってトミさんは男らしいから、行動を起こせるんだ」
五年前、俺も勇気を出していれば……違う未来になっていたのかな。
「エミリィを平凡な人生に道連れてしまったけどよ、後悔はしてねぇ。音楽の道で成功していたとしても、それに負けねぇくらいの幸せな家庭にする自信があっから」
「エミ姉も後悔なんてしてないと思うよ。夢はリーゼに託した……ってさ」
俺の言葉を聞き、
「そうかぁ。そりゃあよかった。あんとき勇気を出して……よかった」
「俺らみたいな凡人は、手が届くうちに
実体験したトミさんが言うと、かなりの説得力がある。
俺のラストチャンスは、この一瞬だけ。
歩き出すのが遅すぎた俺でも、懸命に叫べば手が届く。闇雲に迷走していた鞘音が一時的に立ち止まっているとしたら──お互いの未来は未だ、繫がっている。
俺の人生に鞘音がいる未来へと、必ず繫がっているんだ。
「今度は後悔しないように、自分の感情を出し切ってこい。鞘音のためとか、相手の立場とか、そんなことは排除しろっちゃ。好きになったら、そんなことは関係ねぇ」
「好きになったら……」
「修が鞘音をどう
左手を握り締め、こちらに突き出してくるトミさん。俺は同じように右拳を突き出し、お互いにコツンと軽く当てた。
男の友情は頼もしい。
「俺……トミさんと出会えて良かったよ。これからもよろしく!」
「おう! 制限速度で飛ばしていくど!」
無骨に歯を見せて笑みながら、トミさんはアクセルを踏み直す。窓から望める街並みは、既に春咲市の中心に差し掛かっていた。
待っていてくれ。
お前を見送りに行くんじゃない。
俺の隣へ連れ戻しに行くから、告白される心構えをしながら待っていろ。
******
「寒い……」
わたしは分厚い手袋の両手を
東京に比べて、ここの夜はだいぶ冷え込む。肌に
夜九時七分──春咲駅。ローカル線から、新幹線に乗り換えるための場所。
新幹線の到着時刻までは、多少の余裕があった。
自動販売機でホットココアを買い、小規模な待合室の椅子に腰掛ける。凍りつきそうな
駅構内のアナウンスは、在来線や新幹線の終電時刻を知らせていた。もう間もなく、春咲市が眠りにつこうとしている。時間的に利用客も
旅名川はとっくに真っ暗だろうけど。わたしが実家を出発する頃には、もう明かりが
東京は夜でも
ホームシックになり、何度も泣きそうになった田舎者。
でも、数ヵ月で適応した。学業と音楽業の
ただ一つ──修への気持ちを除いて。存在を失ってから、日に日に膨張していく渇望に
彼は麻薬みたいな
「
実感がない。容姿は成長しても、内面は中学生のまま止まっている。わたしの時間も、五年前に縛られ続けている。いや……過去形になった。
わたしは、断ち切るために帰ってきた。修への依存を。桐山鞘音としての過去を払拭し、新たなスタートを切るために。
中学から機種変をしていない旧型のスマホ。最新の着信履歴には、アドレス帳に登録されていない番号が表示されていた。
「今ごろ初めて連絡してくるとか……なんなの」
遅すぎるでしょ。わたしが連絡先を渡したのは五年以上前だよ。
もう、あなたの隣にいた桐山鞘音じゃない。
今さら……電話してこないで。旅名川を離れる瞬間は、あなたに会わないようにしていたんだから。声だって……聞きたくない。聞くわけにはいかない。
今、あなたに会ってしまったら、わたしは──
アドレス帳への登録画面に触れるも、数秒後にキャンセル。着信履歴から削除した。
これでいい。なぜか震える自分に、そう言い聞かせる。
思ったより楽しかったな、地元。家族も元気そうだったし、寂れた町並みでも地元の人たちの活気は変わっていない。
閉校になる前の旅中を訪問できてよかった。バカ清……トミお兄ちゃんやエミリィさん、リーゼちゃんと再会できて嬉しかった。
皆と旅名川祭りに参加したのは想定外だった。
修の近くで歌えるなんて、夢にも思わなかった。
楽しい夢は、いつか終わる。桐山鞘音の時間も、もうすぐ終わり。
帰ってくる度に思い出すのは嫌だから、
未練と依存を断ち切り、先の見えない不透明な未来へ進む。
自分の意思を殺す。感情なんて捨てる。大量に売るための楽曲を製造し、大多数の趣向を反映させながら歌い続ける。
わたしはSAYANE──あなたのためには、もう歌えない。
緩やかに経過したカウントダウン。
そろそろ、行かなきゃ。
空き缶をゴミ箱へ。アコギ入りのギターケースを背負い、キャリーバッグを引きながら待合室を出る。スマホに接続したイヤホンを両耳に差すのも忘れない。
ローカル線の車内でも、繰り返し聴いていた曲を再生した。曲名が付くことはない。世の中に流れないのだから、気取った名前なんて不要。
歌詞は振ってあるけれど、歌う相手はいない。
最後に歌いたかった。たった一人の、好きな人のために。
閑散としたホームに降り立つ。アナウンスと共に刻々と迫る新幹線の足音が、夢物語の終演をはっきりと告げてくれた。
お酒は飲めなかったけど、あなたの家でやった飲み会……楽しかったよ。もうちょっと誕生日が前倒しできたら良かったのにね。
釣りとかキックベース……たまにやるだけなら悪くないかな。あなたは運動不足すぎるから、一から鍛えて出直しなさい。
旅名川祭り……もっと、もっと、たくさんの楽曲をやりたかった。新曲もお
ほろ苦い記憶が詰まった旅中が、閉校になるのは寂しい。せめて、あなただけでも思い出の最後を
体調悪かったみたいだから、ずっと心配。面倒な女は消えるので、たっぷり休養をとって健康なニート生活を満喫してください。
気が向いたら、鍵盤にも触ってください。
〝be with you〟を、名前の無い新曲を、忘れないように……弾いてください。
誕生日プレゼント……ありがとう。
好きな人が約束を果たしてくれて、わたしは幸せ者です。
断ち切るための歌をもらっても、忘れない。わたしは、今年の誕生日を忘れないから。
じゃあね、修。
桐山鞘音は、あなたが大好きでした。
******
駅前ロータリーに車を停車させたトミさん。助手席から飛び降りるように駆け出した俺は、改札へと
新幹線の発車時刻など、
運動不足なんて知るか。足の骨や筋肉など、ぶっ壊れてもいい。
鞘音に会わせてくれ。
二度と離れたくないんだ。
静まり返っていた構内。売店は営業時間を終え、駅員や利用客は片手で数えられるほど。淡い電灯が照らす待合室にも人影はなかった。
あいつは離れていく。必死に手を伸ばしても届かない距離へと。
探す。探し続ける。
数ヵ所もある駅の出入り口付近を見回したり、誰もいない切符売り場や待合室を
いない。鞘音の姿はどこにも見当たらない。
いるはずのない人を探すとか、
希望というよりは切望。俺を突き動かすのは、もはやそれだけ。
後悔したくないんだ。臆病な行動であいつを傷つけ、積み上げた信頼をぶち壊したからこそ、今度は──絶対に追いついてみせる。
唯一の心当たりがあるとしたら駅前の広場。鞘音と初めての路上ライブを決行した場所だが、今現在は無数のベンチが薄暗く
脳裏に再生されたのは、最初で最後のストリートライブ。不慣れだったから、市役所への許可取りに手こずった。鞘音より緊張して、当日は腹痛だった。百枚ほど用意した自作CDがまったく足りず、買えない人からクレームの嵐だった。
それでも、ライブの直後に二人で分け合った充実感。鞘音とファミレスのドリンクバーで乾杯したり「次のライブは~」なんてお互いに妄想したり……。
いろいろ……いろいろな光景が
その翌日には逃げ出してしまったけど、鮮明な思い出は偽りでも幻想でもない。
だって……あいつも同じ。共有した記憶が絶対に残っているはずだから。
確かに存在していたんだ。
俺たちの軌跡が、この場所にも。
規則正しく立ち並んだ街灯の光源が、おぼろげに照らしてくる中で、自らのスマホを操作。冷え切った耳に、そっと押し当てた。
あいつの番号は、五年前と変わっていない。
電波では繫がっている。
諦めの悪い男が、最後に
…………。
……。
頼む。
…………。
……。
細すぎる糸だとしても、完全に途切れていなければ──
十回目のコールに差し掛かった瞬間、機械的な音が消失。
反射的に確認した画面は『通話中』の文字と秒数が表示された。
「違う人だったらすみません」
無言の誰かさんに、
「でも、鞘音だったら聞いてほしい」
一方的な
「……お前に捨てられるのが怖かった。いずれ、才能に追いつけなくなるのが分かっていたから、応援するふりをして……逃げたんだ」
──聞こえるのは、僅かな息遣い。
「俺は……お前がプロになることを望んでいたんじゃない! 俺のために歌ってほしかったんだ!」
『──うん。わたしも、修のために歌いたい』
声が……繫がった。
『──あなたが……修が求めてくれるなら、わたしは
伸ばした手を、
「……どうして、俺たちは素直になれなかったんだろうな」
『──思春期っていうのは……そんなものよ。わたしたちは恋人より近すぎたから、一度は離れないと見えないものがあった……それだけ』
生まれてから十数年の人生を、
一緒にいて当たり前だった関係に思春期の変化が生じたとき、俺たちはどうしていいのか分からず、幼馴染みでいることすら放棄してしまった。
「幼馴染みじゃなかったら、お互いの青春を失うこともなかったのかな?」
『──いや』
「えっ……?」
電話の向こう側からでも分かる。心なしか不機嫌になった雰囲気を。
『──修と過ごしたすべての日々が好き。だから、二度とそんなことを言わないで』
「ごめんなさい……」
相も変わらず、怒られる。俺はたぶん、父さんと同じで尻に敷かれるタイプだ。
『──離れていた五年間は〝空白〟じゃないわ。そんな言葉で片付けたくないの』
「俺もそう思う。恋人より近い人を失ったからこそ、自分の気持ちを再確認できたんだ」
苦しんだ末に失った時間は、何もない空白なんかと同義じゃない。
渇望に
『──わたしは依存を断ち切ろうと思ったのに……どうして電話してくるの? どうして、会いにきてしまったの?』
「俺は、お前から逃げたけど……この想いだけは、どこにも消えることはなかった」
答えなんて、一つしかない。
「鞘音が好きだから。ずっと、俺の隣にいてほしいと心から願うよ」
……沈黙が苦しい。
電話口からは、何も聞こえてはこない。
それもそのはずだ。
「わたしも、修が大好き。ずっと前から、ずっと好き」
柔らかく
「お前……最終の新幹線は……?」
「……あんなタイミングで電話とか……ズルい。あなたが迎えに来るなら、わたしは待たなきゃいけない。あの場所であなたと過ごしたいって……思っちゃうよ」
遅すぎた初電話は二人を
俺が「迎えに行く」と誓ったから、鞘音は信じて、踏み
五年前は逃げ出してしまったけれど、今度は、今度こそは、約束を守ることができた。
「ごめん……本当に遅くなったな」
「……アドレス帳に登録するね。ダメって言われても登録するけど」
「むしろ、よろしくお願いします」
ようやく、追いつくことができた。
最愛の人に、気持ちを伝えることができたんだ。
「一人で登録できるのか?」
「馬鹿にしないで。もう子供じゃないから」
胸を躍らせながら、俺の番号をアドレス帳に登録する鞘音が
「……ほら、登録した」
完了した登録画面を見せつけてくる鞘音が、この世の何よりも愛おしい。
「俺がお前と出会えたのは、母親同士が同級生で、偶然にも実家が近くて、同じ年代に生まれた〝ただの運〟だけだと思っていたんだ。でもさ、それが〝運命〟だとしたら、壮大で素敵なことだと思わないか?」
「ふふっ……キザすぎ。そういうのは歌詞だけにしておいて」
冷え切った口元を緩ませ、
こんなクサい
「俺は──お前の隣を歩いていたい。同じ速度で、置いていかれないように。頑張るからさ……。お前のために生きるから、俺のために歌ってくれますか……?」
「……うん」
「もう一度、一緒に人生を歩んでくれますか……?」
「……うん」
「松本修のすべてをかけて、桐山鞘音を好きになってもいいですか……?」
潤み切った瞳から
本当に
「遅いよ……ばか。何年待たせるんだか」
思わず駆け出した鞘音が、俺の懐に飛び込む。失ったはずの感触や香りを逃がさないよう、全力で抱き締めた。
手放さない。やっと、やっと……お互いの想いが重なったのだから。
「これからは……修といっぱいライブしたい」
できなかったライブ……いっぱいやろう。
「修と……甘いお酒が飲みたい」
いつでも大歓迎だ。
「修と過ごした日々は……幻想なんかじゃない」
五年前、俺たちは麻薬と依存の関係に陥った。物理的に離れていても、精神的に離れられない。渇望が発作を起こしても、自分の側に相手はいない。恋人より近かった幼馴染みは、近すぎて焦点が合わなかった。遠すぎても視界に入らなかった。
終止符を打つ。
二人が適切な距離を
触れたいときに触れ合える。体温まで交わせる距離に君がいる。
直接、歌声を聴かせてくれる。それだけで良かった。
幼馴染みではなく、恋人として。
小さな夢を語らう等身大の日々に戻ろう。
「鞘音、誕生日おめでとう」
最後は笑って死ねる、じゃない。
俺は笑って、鞘音と生きる。
ずっと、あの場所で──運命が二人を
「あなたと作った新曲を、あなたのために歌わせてください」
大切な人を、場所を、思い出を、記憶から奪われたとしても。
言語に障害をきたし、名を呼べなくなったとしても。
身体に
最愛の姿が瞳に映らなくなったとしても。
俺が生きていることで、幸せになってくれる人がいるのなら。