世界の色を緩やかに取り戻し、朦もう朧ろうとしていた意識が徐々に覚醒する。

 遅れてきた青春は──終わった。そう悟らせたのは、薬臭い空間に運ばれたのを察したからだ。さっきまでの光景は夢じゃない。夢なんかで済ませない。

 感覚を取り戻した指先は、完成させた曲を描くことができる。鞘さや音ねからもらった言葉の一つ一つを、鮮明に思い出すこともできる。

 しかし、強制的に終わったのだ。とっくに忘れていたゴミ処理用の爆弾によって。

 無数のベッドと、医療器具に囲まれた処置室。すぐ側そばで医師と母さんが会話しているのは、おぼろげながら分かった。恐らくここは、先日も訪れた春はる咲さき総合病院。

 俺は生きているらしい。ベッドに寝かされてはいるが、普通に呼吸はできるし身体からだも動く。多少の頭痛は居残っているものの、体調はだいぶ安定したみたいだ。

 拗こじらせた風邪……ではない。自分の身体だ。自分が一番理解している。医師が淡々と病状を説明してくれるが、大半は先日の診察結果と類似した小難しい単語の組み合わせ。

 このまま日帰りできる程度には容態も回復した、という報告だけで構わない。

 俺は上半身を起こし、ベッドサイドへ腰掛けた。

「おいおい……大丈夫かよ?」

 医師から許可を得た母さんが、血相を変えながら駆け寄ってくる。

「もう元気だから。心配かけてごめん」

「はあぁあ……世話が焼けるぜ。お前が倒れたって聞いたから、マジで焦ったっつーの」

 胸を撫なで下おろしたのか、肺の酸素を根こそぎ吐き出した母さん。作業着姿ということは、職場から直行してくれたのか。迷惑や心配ばかりかけて頭が下がる。

「そういえば、このことを誰から聞いたの?」

「桐きり山やまんちの鞘音ちゃんに決まってんだろ。あの子が救急車を呼んでくれて、アタシの職場に連絡してきたんだから、あとで礼を言っとけ」

 そっか、あいつにも迷惑をかけたな……。

「さっきまで鞘音ちゃんもロビーで待ってたんだが、修しゆうが倒れた原因を説明したら安心したみたいだったぞ」

「あ、安心? どんなことを言ったの?」

「昼夜逆転した不規則な生活と睡眠不足が招いた高血圧。お前、最近は割と忙しかったみたいだし、説得力はあるよな?」

 もちろん口から出任せ。鞘音に過度な不安を与えない、という母さんなりの配慮だ。

「あの子、怒ってたぞぉ。『余計な心配かけるな馬鹿って伝えてください』だとさ」

 怒り顔が容易に想像できる。エミ姉ねえのレッスンを受けたり、徹夜で曲作りしたりと、睡眠不足なのは事実とはいえ、心配してくれる人がいる──それが、なによりも嬉うれしくて。

 俺の人生は、自分だけのものじゃない。

 大切な人たちに支えられて、俺はこの二十年を生きてきた。

 ゴミクズとか底辺とか、勝手に括くくって卑下できる安っぽい代物じゃないんだ。

 感謝するのが遅すぎる。今さら自覚したのかよ……情けない、本当に。

「それで……鞘音は?」

「さっき、電車で実家に帰った。顔は見なくても大丈夫、とかで」

 淡泊なところは実に鞘音らしい。東京に帰る当日に、病院まで付き添ってもらったことが申し訳なさすぎて。

「荷物をまとめたら東京に戻るらしいじゃんよ。電話でもしてやったらどうだ?」

「あいつの携帯番号、知らないから……」

「あらら、くそヘタレ息子だな」

 ぐわぁああ……会心の言葉が心臓を一突き。くそヘタレ息子でごめんなさい。

「あと、これ預かったぞ。修に渡してくれって」

 母さんから俺の手に置かれたのは一枚のピック。中学生の小遣いで買えそうな安っぽいデザインは、当時とまったく同じで。

「俺が渡したやつだよ、これ……」

 見覚えのある三角の物体は、誕生日プレゼントの担保として渡したもの。目を凝らすと、新品同様ではなかった。使い古したと思われる小傷が、無数に刻まれていたのだ。

 こんな安物を、大事に使っていたのか……。

 本物のプレゼントを受け取る日が来るまで……そんな運命が巡ると信じながら。

「もちろん、お前の不調は睡眠不足なんかじゃねぇ。今回は軽度の症状で収まったらしいが、危険の前兆みたいな感じだとしてもおかしくはねぇんだよ」

 若干、語気を強めた母さん。

「このまま放置すれば……徐々に悪化していくだけだ。手術をしても完治はないし、後遺症は残るかもしれねぇが──」

 再発や後遺症のリスクは一生付き纏まとう。

 母さんは平常な面持ちを保とうとしていたが、瞬間的に唇を嚙かみ締めた。

「でもな……生きられる。お前が生きていられる可能性は、間違いなく上がるんだ」

 俺の手を取り、母さんは自らの両手で覆おおい被かぶせた。

 この感触も懐かしい。父さんが死んでからは、母さんが俺の手を握ってくれていた。幼かった息子を、絶対に離さないように。

 記憶に残る手触りより、やや硬くなっているけれど……父さんの代わりに、俺を育ててくれた苦労の証あかし。そんな一人だけの母親を、胸を張って誇りに思う。

「病名は違うが、姿が被かぶるんだよ……死んだ旦那と」

「父さんと?」

「あいつも最初はヘラヘラしてたんだ。自覚症状があった頃には手遅れで……そこからはあっという間だったな……」

 何が〝あっという間〟だったのか、明言されなくても察してしまう。

「だが……最後まで笑顔は絶やさなかったぜ。昔から甘ったれで、滅めつ多たに怒らない奴やつだったけど……優しかった。中学で怖がられていたアタシに、気兼ねなく話しかけてきた時点で物好きな馬鹿なんだけどな」

「友達いなかったの? 母さん、旅たび名な川がわ祭りで同級生に囲まれてたじゃん」

「旦那のおかげだよ。担任の杉浦に唆そそのかされたあいつがバンドに誘ってきて……仕方なく文化祭で演奏したら、なんかクラスの連中も話しかけてくるようになったっつーか」

「父さんと教頭の計算だったのかな。学校生活に溶け込みやすくするための」

「分からねぇが……あの二人なら考えそうなこった。お節介過ぎんだよ、腹立つくらい」

 言葉とは裏腹に、母さんは険しげな表情を緩和させた。こうして母さんが過去を話してくれたのは、たぶん初めて。

 エピソードの数々が新鮮味に溢あふれ、母さんの初々しい青春が垣かい間ま見みえた。

「旦那が亡くなったとき、あの温厚な杉浦に叱しつ咤たされたんだ。毎日泣なき喚わめいて、酒や煙草たばこに溺れるアタシを見ていられなかったんだろうよ」

 脳裏に蘇よみがえったのは、父さんの葬式に参列していた教頭の声。


 絶望している暇なんてない。依い夜よ莉りには守らないといけないものがある。


 思い出せるのは部分的な回想だけど……この台詞せりふだけは絶対に言っていた。

 母さんが酒や煙草をやめたのは──幼かった俺のため。

「アタシは心が弱い。旦那がいなくなって、辛つらさから逃げたかった。でもな……お前がいてくれたから、アタシは立ち直ることができたんだぞ」

 母さんの台詞が次第に湿り気を帯び、節々が霞かすんでいく。

「ついこの間までは『生きろ』なんて言えなかった……! 自分の人生なのに、お前は他人ひと事ごとみたいに無関心で……ちゃんと生きてるのに、死んだような目をしやがって!」

 数日前までの俺は、ゾンビみたいな酷ひどい顔をしていたのだろうか。

「……だけどよ、久しぶりに正まさ清きよたちとつるむようになって、鞘音ちゃんのために頑張って……楽しそうなツラを見せてくれるようになったんだぜ」

 楽しそうな、じゃない。たぶん、素直に楽しかった。

 この一週間が、噓うそ偽りなく幸せだったんだ。

「だから……言わせろ! 勝手に人生諦めてんじゃねぇ! 親孝行も初孫も期待しねぇからよ……ただ、元気な顔を見せてくれよ……。アタシの話し相手に……なれよ! お前までいなくなったら……アタシは……どうすりゃあいいんだ」

「母さん……」

「親より先に死ぬなんて、絶対に許さねぇからな!!」

 怒りというよりは、哀願。以前は晒さらさなかった潜在的な弱さ。母親としての貧弱な内面が、溢あふれ出だして抑えきれていない。

 今思うと、俺の病気が発覚してから、母さんは無意識に弱さを露呈していた。やめていた酒と煙草に縋すがったのは、底知れぬ不安や喪失感から逃避するため。

 息子に甘くなったのは、失った父さんの代わりを担おうとしていたため。

 俺がいなかったら、鞘音や母さんはどうなってしまうのだろう。


 軽トラに揺られる帰路では、父さんとの惚のろ気け話をしてもらった。

 思い出すと辛い。だから、母さんは過去の話題を十数年も封じ込めていた。

 アタシとお前はやっぱり親子だなぁと、母さんに茶ちや化かされる。目を背けたい過去を、記憶から消し去ろうとしていたところが似ている……とか。

 その通り、俺と母さんは似ているよ。

 甘酸っぱい青春の味が忘れられない。大切な人を失ってから、もっと好きになる。隣にいないだけで、すぐに自分を見失う。そして、駄目人間と化す。

 俺たちはこんな親子だ。

 それでも、再び立ち上がることができる。足りないものを補う存在によって。

 車窓からの風景は一面の黒。軽トラのヘッドライトと心こころ許もとない街灯が、最低限の進路を照らしているだけ。それでも、徐々に近づく旅名川を感じ取れる。

 数日前は見たくもなかった。こんな闇夜で永遠に隠れていてほしかった。みっともなく身を屈かがめながら「ご近所さんに見られたくない」とか抜かして。

 今は……違う。

 この町に鏤ちりばめた面影の欠片かけらを、自分から探そうとしている。

 俺の人生は、ロスタイムどころかスタートライン。

「俺さ……意識を失う前に願ったんだ。生きたい──って」

 大切な人たちの隣を、もう一度歩き始めるために。


「手術を受けるよ。こんなに楽しくて、大好きな人がいる最高の人生だから」


 ******


 実家に到着すると、すでに午後の八時近く。

 鞘音が乗ると言っていたのは、最終の新幹線。あと三十分もすれば、春咲駅行きのローカル線が旅名川駅に到着してしまう。

 俺は自室で鞘音のことだけを延々と考えていた。刻一刻と別れが近づいているのに、最初の一歩を踏み出せない。

 今のあいつは、プロとして背負っているものがある。鞘音個人の意思だけでは大人の柵を覆すことはできないし、本人も……そう言っていたはずだ。

 でも、鞘音の気持ちはどうなのだろうか。

 病院で会おうと思えば会えたのに、鞘音は一足先に立ち去った。俺の顔を見たくない、と言わんばかりに。

 病院まで付き添ってくれたのに、旅立つ前は会わない──彼女の心理は、彼女にしか分からなくて。

 答えは誰も教えてくれない。自ら行動し、探し出すしかない。

 最後の踏ん切りがつかず、自室で悶もん々もんとしている間に、現時刻は八時二十分。

 あいつが旅名川を離れるまで、あと十一分。時計を確認している途中にも一秒、また一秒と刻まれていく。旅名川駅まではチャリで十分もかからない。

 床に根が張った両足を踏み出せれば、の話だが。

 こっちから会いに行く口実はある。倒れる直前に聞こえた〝あの言葉〟は、幻聴なんかじゃない。そんな安っぽい勘違いで終わらせたくない。

 修のために歌ってあげる──この口約束はどうなるのか。俺は五年越しながら……約束を果たすことができた。遅すぎた誕生日プレゼントを渡せたんだ。

 鞘音は五年後に歌ってくれるのか?

 身勝手だけど、俺は待つことができない。今日別れてしまったら二度と会えないと、直感が煩うるさく叫ぶ。逃げる奴の思考回路は、俺が痛いほど身に染みているんだぞ。

 鞘音が俺に会う理由は、もはや無い。

 依存を、渇望を、完成した新曲で満たすことができたなら。

 だけど、今度は反対。俺に伝染した〝渇望〟が止めどなく溢れ出す。

 こんなに会いたくて、声が聞きたくて、鈍痛に胸が締め付けられる。依存してしまうと、こんなにも相手のことしか考えられないのかよ……!!

 あいつは待ち続けた。遠くに離れても、意思を叫び続けた。回りくどく、我慢し続けていた。俺は絶対に待てない。遠くから叫ぶなんて、まどろっこしい真似まねは無理だ。

 せめて、サビだけでも聴かせてくれ。

 言いたいことがあるなら、率直な声を発してくれ。

 抱いている喜怒哀楽を、直接伝えてくれ。

 俺も、勇気を出して伝える。噓偽りなく、お前への想おもいを打ち明けるから。

 こっちから会いに行く。

 頼まれなくても、迷惑でも、勝手に出向く。

 逃がさない。かつての逃亡者を模倣するなんて百年早いんだよ。

 俺は──お前を摑まえてみせる。

「そういえば……!」

 ふと思い立った俺は、自室に置かれていた学習机の引き出しを漁あさる。

 捨てていないはず。捨てられなかったはず。

 キーボードと同じく、処分できなかった思い出の欠片が……。

「あった!」

 経年により、多少劣化したメモ用紙。表面に書き殴られていた十一桁の番号。

 あいつが教えてくれたじゃないか。携帯番号知らないから……じゃねぇよ、くそヘタレ息子。辛いから忘れようとしていただけだろ。

 鞘音がどんな想いで連絡先を渡したのか、知ろうともしなかったくせに。

 もう逃げないと誓った。

 松まつ本もと修は、桐山鞘音と真正面から向き合うと決めた。

 すべてをかけて、隣を歩き続けると決めたんだ。

 自らのスマホにその番号を入力し、発信ボタンをタップする。

 耳奥に木霊するのは、数回のコール。

 …………。

 ……。

 途切れた。

 画面は通話中に切り替わっている。

 周囲の雑音らしきものは聞こえるが、通話相手の音声は皆無。

「……………………」

 初電話は、完全な無言。

 もしかしたら、とっくに番号が変わっているかもしれないけど。

「俺は……お前に東京へ行ってほしくない! 今から迎えに行くから……!」

 無言から無音へ。

 かろうじて交わった通話は一方的に切られた。


 ローカル線の発車時刻まで十分も残されていない。

 あいつが旅名川からいなくなる。

 必死に手を伸ばしても、届かない距離になってしまう。

「遅いんだよ……俺は、いつもいつも!」

 髪の毛を乱雑に搔かき毟むしり、自分への鬱憤を募らせるしかない。いったい何度、同じ過ちを繰り返すのか。肝心なところで臆して、傷つくのを恐れてしまう。

 近づいて、離れて、また近づいて、離れる……こんなのばかり。

 自ら手放しておいて、こんな願望がおこがましいのは百も承知。それでも、願わずにはいられない。

 鞘音の隣に並び立たせてくれ。これからは、もっと頑張っていくから。

「一度くらいは……! 最後までやり遂げて見せろ……! 松本修っ!!」

 自分自身に喝を注入しながら、実家の廊下を疾走。

 小汚いスニーカーを足裏で攫さらい、玄関から外へと飛び出す。

 一応は倒れたばかりの病人という立場。あとで怒られないよう【鞘音に会ってくる】というメッセージを母さん宛てに送信すると、すぐに届いたのは母さんらしい返事だった。

【恋には早いも遅いもねえ。派手にぶちかましてこい】

 こう背中を蹴り出されたら、がむしゃらにチャリを走らせるしかないじゃん。

 漕こぐペースに連動し、点ついたり消えたりするライト。暗闇の田舎道に漂うチャリの心許ない明かりはさしずめ、飛び交う蛍のよう。

 旅名川駅までは十分もかからない……というのは、あくまで道のりが平へい坦たんだったら、だ。

 実際には五百メートル近い距離の上り坂がラストに待ち構えて、元チャリンコ暴走族の心臓を破りにかかってくる。

「はあ……はあ……はっ……」

 太ももの裏が攣つりそうになり、痛みと硬直が波打つ。第一波、第二波と疲労の大波が全身を覆い尽くす。身体からだの軸がぶれ、真まっ直すぐな最短距離を走行することができない。

 あいつは電話を切った。ど田舎とはいえ、電波は普通に良好。機器の問題や自然現象により切れたのではなく、向こうからの拒否ということ。

 会いたくない。そんな無言の意思表示に思えた。

 あいつは自らを「構ってちゃん」と卑下していたが、俺も……同類だよ。会いたくないなんて言われたら、一方的に逃げられたら、もっと好きになってしまう。求めてしまう。

 好きな女の子に構ってほしい。

 直接話せる距離にいてほしい。

 お前の意思表示を跳ね除のける自己中心な勇気がほしい。

 五年前には迎えに行くことができなかった。

 待っていてくれたのに、逃げ出してしまった。

「…………っ!」

 推力が停滞してしまったチャリは左側へよろめき、転倒の寸前で片足を突く。肩を上下に激しく揺らしながら、酸素を肺に送り込む。

 中学生の体力だったら、とっくに間に合っていただろうか。心の中は前に、ひたすら前に進んでいるのに、身体が付いて来ないなんて。

 心が死んでいた頃と、真逆になってしまう。行けるのに、行かない。行きたいのに、行けない。そんな皮肉などいらないんだよ。

「お前が待っていてくれるなら……俺は……行く……から……! 鞘音ぇえええ……」

 冷たく乾燥した秋の夜。

 カラカラに砂漠と化した喉から、二酸化炭素混じりの掠かすれた絶叫を吐き出す。

 誰も応答してくれない坂道の頂点に向かって。

 腑ふ抜ぬけながら蛇行していたチャリは、すでに止まりかけているのというのに。

 発車時刻なんて、もう絶対に過ぎているのに。

「くっ……」

 再び漕ぎ始めた足に力が入らず、チャリごと転んでしまう。擦すり剝むいた肌の痛みなど味わう余裕もなく、チャリを無理やりにでも引き起こす。

「はあ……はあ……」

 怪け我がをしても、病気でも、疲ひ労ろう困こん憊ぱいでも、未いまだに身体は動いてくれる。

 生きている限り──お前のところに行くことができるから。

 逃げ出す、引き返す、という過去の選択肢を、今では鼻で笑えるのだ。


 …………やかましい。


 徐々に接近してきたのは、重低の排気音と軽快なヒップホップ音楽。旅名川駅方面から差し込むヘッドライトの発信源が誰なのか、わざわざ運転手を確認しなくても分かる。

 あの人は昔から親友みたいで、頼れるヒーローだった。

 路肩に駐車した黒のワンボックスカーが、パワーウィンドウを開けてくる。

「よう、チャリンコ暴走族。調子はどうだ?」

「……たった今、失恋したばかりだよ」

「ちっげーよ。体調不良で倒れたんだべ? 救急車も来たし、ご近所の噂うわさになってるど」

「大したことなかった。慣れない早起きと睡眠不足が重なってさ」

 こんなのはご挨拶。トミさんがこのタイミングで来た理由は、すぐに理解できた。

「さっき、エミリィとリーゼも連れて鞘音の見送りしてきたど」

「そっか……」

「鞘音に電話かけてきたの……お前だべ?」

 ……お見通しか。流石さすがはトミさんだな。

「電話を切られた。間に合わなかった……遅かったんだよ」

 涙声で俯うつむきながら落ち込む後輩を見て、厳いかつい先輩は呆あきれを混ぜた溜ため息いきを漏らす。

「ホントに面倒くせぇなぁ。超奥手なくせに独占欲が強くて、気ぃ遣いだから建前ばがり上手うまくなりやがる」

「そうだね……自分の性格は一番よく分かってる」

「いいや、お前じゃなくて鞘音のことだぜ。俺の目が正しければ、今のあいつは本音を隠してっから」

 ぶつけてほしいんだ。

「発車した電車の中で、少しだけ泣いてたんだど……あいつ」

 鞘音の本音を。

「直接、聞きに行くべさ。今から、あいつの想いを」

「トミさん……」

 この人は昔から悪知恵の働く男だった。

 旅たび中ちゆうに連れて行かれた俺が、鞘音と再会したのは偶然なんかじゃない。

「借りは返すのが男ってもんだ。今度は俺が〝お前らの青春〟を応援してやるよ」

 鞘音の母さんが、あいつの居場所を教えていたとしたら──必然。

 格好つけた顔で言い放ったのは癪しやくだが、俺は迷わない。ナイスタイミングの粋な恩返しに感謝し、着の身着のまま、チャリを歩道に放置。助手席に乗り込んだ。

 地元に救われて、地元の大切な人たちに励まされて、俺は少しだけ変わることができたから、時間稼ぎはここで終わり。

 臆病で失った五年前を補完する青春の余命ロスタイムを駆け抜けよう。

 最後まで足搔あがいて、立ち向かって、試合終了前に逆転してやろうじゃないか。

 発進した車の目的地は春咲駅。新幹線の発車時刻まで、あと四十分を切っている。旅名川から春咲駅までは、車だと片道四十五分……といったところか。

「お前らを見てるとな、もどかしいんだよ」

 車を運転しながら、トミさんが話を切り出した。

「関係が拗こじれた理由はよく知らんが、お前らが未いまだに、お互いを強く意識してんのは嫌でも分かる」

「やっぱり分かるの?」

「あったりまえだっちゃ。二十歳はたちになったくせに、初めて付き合った中学生カップルみてぇに不器用なんだもん」

 自覚なかった……。俺と鞘音からは、濃縮された青臭さが抜けていないらしい。

「お前が鞘音から離れたのは、足手纏まといになると思ったからか?」

「うん……。今回の祭りだって俺の影響力は皆無だったし、鞘音に動かされた観客ばかりだったと思うよ……」

「でも、お前の行動は無意味じゃなかった。鞘音っていう強大な存在を引っ張り出せたのは、修が無意味を積み上げ続けたからだっちゃ?」

「無意味を積み上げても、結局は無意味じゃないの?」

「あっはっはーっ! 行動の意味や結果はどうでもいいんだよ! 行動を起こすことが相手の気持ちを動かすんだべや!」

 しんみりとした空気になるかと思いきや、トミさんは大口を開けて愉快に笑った。

「エミリィがプロを目指してたのは知ってるべ? 高校を卒業する直前まで、あいつは上京するつもりだったんだど」

「そうだったの!?」

 プロ志望は知っていたけど、上京まで考えていたのは初耳だ。

「長男の俺は親の面倒とか実家の米作りもあるし、エミリィも本気で音楽漬けになりたいからって。中途半端な遠距離恋愛になるなら、円満に別れたほうが、お互いのため……みたいな空気があったわけだ」

 厳密には異なるけど、心情は俺と似ているかもしれない。

「夢を追うあいつの邪魔をしちゃいけないとか、悩みまくった日々もあったど? でも、俺はエミリィが好きすぎたから、意地でも別れたくなかった」

「それで、トミさんはどうしたの?」

「究極の結論に辿たどり着ついた。結婚を申し込むっていうな」

 この人の行動力は化け物だ。

 俺たちのコネでエミ姉と知り合った時代から、格段に進化している。

「だって好きなもんは仕方しやーないべ。当時流行はやってた自己紹介サイトの『住んでいるところ』欄に『エミリィのとなり(わら)』とか書いていたレベルだおん。メアドはもちろん、付き合い出した記念日+Foreverみたいな感じだったぜ」

 きもっ。寒気がした。

「苦笑いしてんじゃねぇ! ガラケー世代の青春をバカにすんなや!」

「するよ! 歩く黒歴史じゃん!」

「メールの返事待ちでセンターに何度も問い合わせしたり、電波が悪いとアンテナをひたすら揺すったりな! エミリィ用の着ムービーが流れた時は嬉うれしかったぁ!」

「何を言ってるのか一つも分かんないってば!」

 トミさんが「それでな~」と仕切り直し、脱線しかけた話題を戻す。

「十年前の上京の日、旅名川駅から電車に乗ろうとしたエミリィを、咄とつ嗟さに抱き締めたのは憶おぼえてる。お前が夢を諦めたぶん、俺が世界一幸せにするから……って」

「クサい台詞せりふだね」

「は? めちゃくちゃ感動のプロポーズだべや!」

「うん……憧れる。俺と違ってトミさんは男らしいから、行動を起こせるんだ」

 五年前、俺も勇気を出していれば……違う未来になっていたのかな。

「エミリィを平凡な人生に道連れてしまったけどよ、後悔はしてねぇ。音楽の道で成功していたとしても、それに負けねぇくらいの幸せな家庭にする自信があっから」

「エミ姉も後悔なんてしてないと思うよ。夢はリーゼに託した……ってさ」

 俺の言葉を聞き、

「そうかぁ。そりゃあよかった。あんとき勇気を出して……よかった」

 厳いかつい容姿に似合わない穏和な表情になるトミさん。

「俺らみたいな凡人は、手が届くうちに摑つかまえないと一生後悔するど。エミリィも速かったが、鞘音の進歩は比べ物にならねぇ。凡人にも千載一遇のチャンスは巡ってくるが、ほとんどが気付けずに終わる。気付いたとしても、ほんの一瞬だけだ」

 実体験したトミさんが言うと、かなりの説得力がある。

 俺のラストチャンスは、この一瞬だけ。

 歩き出すのが遅すぎた俺でも、懸命に叫べば手が届く。闇雲に迷走していた鞘音が一時的に立ち止まっているとしたら──お互いの未来は未だ、繫がっている。

 俺の人生に鞘音がいる未来へと、必ず繫がっているんだ。

「今度は後悔しないように、自分の感情を出し切ってこい。鞘音のためとか、相手の立場とか、そんなことは排除しろっちゃ。好きになったら、そんなことは関係ねぇ」

「好きになったら……」

「修が鞘音をどう想おもっているのか、どうしたいのか、それだけを伝えればいいのさ。お前が気持ちをぶつければ、鞘音も全力で投げ返してくれっから!」

 左手を握り締め、こちらに突き出してくるトミさん。俺は同じように右拳を突き出し、お互いにコツンと軽く当てた。

 男の友情は頼もしい。逡しゆん巡じゆんの靄もやを振り払ってくれたり、迷った背中を押してくれる。

「俺……トミさんと出会えて良かったよ。これからもよろしく!」

「おう! 制限速度で飛ばしていくど!」

 無骨に歯を見せて笑みながら、トミさんはアクセルを踏み直す。窓から望める街並みは、既に春咲市の中心に差し掛かっていた。

 待っていてくれ。

 お前を見送りに行くんじゃない。

 俺の隣へ連れ戻しに行くから、告白される心構えをしながら待っていろ。


 ******


「寒い……」

 わたしは分厚い手袋の両手を擦こすり合わせた。

 東京に比べて、ここの夜はだいぶ冷え込む。肌に馴な染じむ乾いた冷風とも、今日でお別れなんだけど。懐かしかったな。地元の風景、温泉の香り、人々の温かさ。

 夜九時七分──春咲駅。ローカル線から、新幹線に乗り換えるための場所。

 新幹線の到着時刻までは、多少の余裕があった。

 自動販売機でホットココアを買い、小規模な待合室の椅子に腰掛ける。凍りつきそうな身体からだの芯。手袋を外した手にじんわりと染み渡るココア缶の微熱。

 駅構内のアナウンスは、在来線や新幹線の終電時刻を知らせていた。もう間もなく、春咲市が眠りにつこうとしている。時間的に利用客も疎まばらだし、変装用の伊達だてメガネは掛けなくてもよかったかな。

 旅名川はとっくに真っ暗だろうけど。わたしが実家を出発する頃には、もう明かりが灯ともる家のほうが少なかったしね。

 東京は夜でも眩まぶしい。上京してから一ヵ月くらいは慣れなかった。

 ホームシックになり、何度も泣きそうになった田舎者。

 でも、数ヵ月で適応した。学業と音楽業の忙せわしない毎日を送るうちに、寂しさを忘れることができたから。

 ただ一つ──修への気持ちを除いて。存在を失ってから、日に日に膨張していく渇望に抗あらがえない。絶対に忘れることができない。

 彼は麻薬みたいな奴やつ。繫つながりを絶とうとしても、発作のように脳が追い求めてしまう。

「二十歳はたち……か」

 実感がない。容姿は成長しても、内面は中学生のまま止まっている。わたしの時間も、五年前に縛られ続けている。いや……過去形になった。

 わたしは、断ち切るために帰ってきた。修への依存を。桐山鞘音としての過去を払拭し、新たなスタートを切るために。

 中学から機種変をしていない旧型のスマホ。最新の着信履歴には、アドレス帳に登録されていない番号が表示されていた。

「今ごろ初めて連絡してくるとか……なんなの」

 遅すぎるでしょ。わたしが連絡先を渡したのは五年以上前だよ。

 もう、あなたの隣にいた桐山鞘音じゃない。

 今さら……電話してこないで。旅名川を離れる瞬間は、あなたに会わないようにしていたんだから。声だって……聞きたくない。聞くわけにはいかない。

 今、あなたに会ってしまったら、わたしは──

 アドレス帳への登録画面に触れるも、数秒後にキャンセル。着信履歴から削除した。

 これでいい。なぜか震える自分に、そう言い聞かせる。

 思ったより楽しかったな、地元。家族も元気そうだったし、寂れた町並みでも地元の人たちの活気は変わっていない。

 閉校になる前の旅中を訪問できてよかった。バカ清……トミお兄ちゃんやエミリィさん、リーゼちゃんと再会できて嬉しかった。

 皆と旅名川祭りに参加したのは想定外だった。

 修の近くで歌えるなんて、夢にも思わなかった。

 楽しい夢は、いつか終わる。桐山鞘音の時間も、もうすぐ終わり。

 帰ってくる度に思い出すのは嫌だから、暫しばらくは帰らない。わたしは独りでも大丈夫。

 未練と依存を断ち切り、先の見えない不透明な未来へ進む。

 自分の意思を殺す。感情なんて捨てる。大量に売るための楽曲を製造し、大多数の趣向を反映させながら歌い続ける。

 わたしはSAYANE──あなたのためには、もう歌えない。


 緩やかに経過したカウントダウン。温ぬるくなったココアを飲み切ったのと同時に、新幹線の到着予定を知らせるアナウンスが流れた。

 そろそろ、行かなきゃ。

 空き缶をゴミ箱へ。アコギ入りのギターケースを背負い、キャリーバッグを引きながら待合室を出る。スマホに接続したイヤホンを両耳に差すのも忘れない。

 ローカル線の車内でも、繰り返し聴いていた曲を再生した。曲名が付くことはない。世の中に流れないのだから、気取った名前なんて不要。

 歌詞は振ってあるけれど、歌う相手はいない。

 最後に歌いたかった。たった一人の、好きな人のために。

 閑散としたホームに降り立つ。アナウンスと共に刻々と迫る新幹線の足音が、夢物語の終演をはっきりと告げてくれた。

 お酒は飲めなかったけど、あなたの家でやった飲み会……楽しかったよ。もうちょっと誕生日が前倒しできたら良かったのにね。

 釣りとかキックベース……たまにやるだけなら悪くないかな。あなたは運動不足すぎるから、一から鍛えて出直しなさい。

 旅名川祭り……もっと、もっと、たくさんの楽曲をやりたかった。新曲もお披ひ露ろ目めしたかったけど、もう不可能だと思う。ごめん。

 ほろ苦い記憶が詰まった旅中が、閉校になるのは寂しい。せめて、あなただけでも思い出の最後を看み取とってきてくれるかな。

 体調悪かったみたいだから、ずっと心配。面倒な女は消えるので、たっぷり休養をとって健康なニート生活を満喫してください。


 気が向いたら、鍵盤にも触ってください。

〝be with you〟を、名前の無い新曲を、忘れないように……弾いてください。


 誕生日プレゼント……ありがとう。

 好きな人が約束を果たしてくれて、わたしは幸せ者です。

 断ち切るための歌をもらっても、忘れない。わたしは、今年の誕生日を忘れないから。


 じゃあね、修。

 桐山鞘音は、あなたが大好きでした。


 ******


 駅前ロータリーに車を停車させたトミさん。助手席から飛び降りるように駆け出した俺は、改札へと繫つながる階段をひたすら昇る。

 新幹線の発車時刻など、疾とうに過ぎているにも拘かかわらず。

 運動不足なんて知るか。足の骨や筋肉など、ぶっ壊れてもいい。

 鞘音に会わせてくれ。

 二度と離れたくないんだ。一いち縷るの希望など、あり得ないかもしれない。自分の気持ちに気付くのが遅すぎたのかもしれない。

 静まり返っていた構内。売店は営業時間を終え、駅員や利用客は片手で数えられるほど。淡い電灯が照らす待合室にも人影はなかった。

 あいつは離れていく。必死に手を伸ばしても届かない距離へと。

 探す。探し続ける。

 数ヵ所もある駅の出入り口付近を見回したり、誰もいない切符売り場や待合室を執しつ拗ように往復したり。激しく息を切らしながら、ガラスの膝を酷使する。

 いない。鞘音の姿はどこにも見当たらない。

 いるはずのない人を探すとか、憐あわれで無様にも程がある。もしかしたら擦れ違っているだけかも、実はどこかに隠れているだけかも。

 希望というよりは切望。俺を突き動かすのは、もはやそれだけ。

 後悔したくないんだ。臆病な行動であいつを傷つけ、積み上げた信頼をぶち壊したからこそ、今度は──絶対に追いついてみせる。


 唯一の心当たりがあるとしたら駅前の広場。鞘音と初めての路上ライブを決行した場所だが、今現在は無数のベンチが薄暗く佇たたずんでいるだけ。

 脳裏に再生されたのは、最初で最後のストリートライブ。不慣れだったから、市役所への許可取りに手こずった。鞘音より緊張して、当日は腹痛だった。百枚ほど用意した自作CDがまったく足りず、買えない人からクレームの嵐だった。

 それでも、ライブの直後に二人で分け合った充実感。鞘音とファミレスのドリンクバーで乾杯したり「次のライブは~」なんてお互いに妄想したり……。

 いろいろ……いろいろな光景が忙せわしなく過よぎる。

 その翌日には逃げ出してしまったけど、鮮明な思い出は偽りでも幻想でもない。

 だって……あいつも同じ。共有した記憶が絶対に残っているはずだから。

 確かに存在していたんだ。

 俺たちの軌跡が、この場所にも。


 規則正しく立ち並んだ街灯の光源が、おぼろげに照らしてくる中で、自らのスマホを操作。冷え切った耳に、そっと押し当てた。

 あいつの番号は、五年前と変わっていない。

 電波では繫がっている。

 諦めの悪い男が、最後に足搔あがく理由としては充分だろう。


 …………。

 ……。

 頼む。

 …………。

 ……。

 細すぎる糸だとしても、完全に途切れていなければ──


 十回目のコールに差し掛かった瞬間、機械的な音が消失。

 反射的に確認した画面は『通話中』の文字と秒数が表示された。

「違う人だったらすみません」

 無言の誰かさんに、

「でも、鞘音だったら聞いてほしい」

 一方的な想おもいを伝えるのを許してくれ。

「……お前に捨てられるのが怖かった。いずれ、才能に追いつけなくなるのが分かっていたから、応援するふりをして……逃げたんだ」

 ──聞こえるのは、僅かな息遣い。

「俺は……お前がプロになることを望んでいたんじゃない! 俺のために歌ってほしかったんだ!」

『──うん。わたしも、修のために歌いたい』

 声が……繫がった。

『──あなたが……修が求めてくれるなら、わたしは側そばにいる。いつまでも、側にいる』

 伸ばした手を、摑つかんでくれる人がいてくれた。

「……どうして、俺たちは素直になれなかったんだろうな」

『──思春期っていうのは……そんなものよ。わたしたちは恋人より近すぎたから、一度は離れないと見えないものがあった……それだけ』

 生まれてから十数年の人生を、幼おさな馴な染じみの隣で過ごした二人。

 一緒にいて当たり前だった関係に思春期の変化が生じたとき、俺たちはどうしていいのか分からず、幼馴染みでいることすら放棄してしまった。

「幼馴染みじゃなかったら、お互いの青春を失うこともなかったのかな?」

『──いや』

「えっ……?」

 電話の向こう側からでも分かる。心なしか不機嫌になった雰囲気を。

『──修と過ごしたすべての日々が好き。だから、二度とそんなことを言わないで』

「ごめんなさい……」

 相も変わらず、怒られる。俺はたぶん、父さんと同じで尻に敷かれるタイプだ。

『──離れていた五年間は〝空白〟じゃないわ。そんな言葉で片付けたくないの』

「俺もそう思う。恋人より近い人を失ったからこそ、自分の気持ちを再確認できたんだ」

 苦しんだ末に失った時間は、何もない空白なんかと同義じゃない。

 渇望に喘あえぎ、お互いを病的に求め合う感情が、確かに存在していた。

『──わたしは依存を断ち切ろうと思ったのに……どうして電話してくるの? どうして、会いにきてしまったの?』

「俺は、お前から逃げたけど……この想いだけは、どこにも消えることはなかった」


 答えなんて、一つしかない。


「鞘音が好きだから。ずっと、俺の隣にいてほしいと心から願うよ」


 ……沈黙が苦しい。

 電話口からは、何も聞こえてはこない。

 それもそのはずだ。


「わたしも、修が大好き。ずっと前から、ずっと好き」


 踵きびすを返すと、そこにいてくれるのだから。

 柔らかく微笑ほほえみながら、俺を真正面から見据えてくれる女の子。

「お前……最終の新幹線は……?」

「……あんなタイミングで電話とか……ズルい。あなたが迎えに来るなら、わたしは待たなきゃいけない。あの場所であなたと過ごしたいって……思っちゃうよ」

 遅すぎた初電話は二人を繫つなぎ止とめてくれる魔法。

 俺が「迎えに行く」と誓ったから、鞘音は信じて、踏み止とどまってくれた。

 五年前は逃げ出してしまったけれど、今度は、今度こそは、約束を守ることができた。

「ごめん……本当に遅くなったな」

「……アドレス帳に登録するね。ダメって言われても登録するけど」

「むしろ、よろしくお願いします」

 ようやく、追いつくことができた。

 最愛の人に、気持ちを伝えることができたんだ。

「一人で登録できるのか?」

「馬鹿にしないで。もう子供じゃないから」

 胸を躍らせながら、俺の番号をアドレス帳に登録する鞘音が愛いとおしい。

「……ほら、登録した」

 完了した登録画面を見せつけてくる鞘音が、この世の何よりも愛おしい。

「俺がお前と出会えたのは、母親同士が同級生で、偶然にも実家が近くて、同じ年代に生まれた〝ただの運〟だけだと思っていたんだ。でもさ、それが〝運命〟だとしたら、壮大で素敵なことだと思わないか?」

「ふふっ……キザすぎ。そういうのは歌詞だけにしておいて」

 冷え切った口元を緩ませ、悪戯いたずらな微笑を吹き出す鞘音。

 こんなクサい台詞せりふを堂々と披露できる今の俺に、怖いものなどあるわけがない。


「俺は──お前の隣を歩いていたい。同じ速度で、置いていかれないように。頑張るからさ……。お前のために生きるから、俺のために歌ってくれますか……?」


「……うん」


「もう一度、一緒に人生を歩んでくれますか……?」


「……うん」


「松本修のすべてをかけて、桐山鞘音を好きになってもいいですか……?」


 潤み切った瞳から溢こぼした彼女の涙。

 本当に嬉うれしそうで、触ってしまったら壊れそうなくらい繊細で。


「遅いよ……ばか。何年待たせるんだか」


 思わず駆け出した鞘音が、俺の懐に飛び込む。失ったはずの感触や香りを逃がさないよう、全力で抱き締めた。華きや奢しやな身体からだを、すべて包み込むように。

 手放さない。やっと、やっと……お互いの想いが重なったのだから。

「これからは……修といっぱいライブしたい」

 できなかったライブ……いっぱいやろう。

「修と……甘いお酒が飲みたい」

 いつでも大歓迎だ。

「修と過ごした日々は……幻想なんかじゃない」

 五年前、俺たちは麻薬と依存の関係に陥った。物理的に離れていても、精神的に離れられない。渇望が発作を起こしても、自分の側に相手はいない。恋人より近かった幼馴染みは、近すぎて焦点が合わなかった。遠すぎても視界に入らなかった。

 終止符を打つ。

 二人が適切な距離を見み出いだし、不器用でも歩み寄ったことで。

 触れたいときに触れ合える。体温まで交わせる距離に君がいる。

 直接、歌声を聴かせてくれる。それだけで良かった。

 幼馴染みではなく、恋人として。


 小さな夢を語らう等身大の日々に戻ろう。


「鞘音、誕生日おめでとう」


 最後は笑って死ねる、じゃない。

 俺は笑って、鞘音と生きる。

 ずっと、あの場所で──運命が二人を別わかつことになろうと。


「あなたと作った新曲を、あなたのために歌わせてください」


 大切な人を、場所を、思い出を、記憶から奪われたとしても。

 言語に障害をきたし、名を呼べなくなったとしても。

 身体に麻ま痺ひが生じ、この人のために曲を作れなくなっても。

 最愛の姿が瞳に映らなくなったとしても。

 俺が生きていることで、幸せになってくれる人がいるのなら。