様々なことを、思い返した。


 二十歳になって、五年ぶりに鞘さや音ねと再会し、トミさんやエミ姉を介しながら会うようになり、一度きりでも共にライブをしたから──だろうか。

 旅たび名な川がわ祭りの翌日。楽しい夢物語のあとは、虚むなしい孤独が舞い降りる。俺は自室のベッドで仰あお向むけになりながら、ずっと、あいつとの過去を振り返っていた。

 記憶の彼方かなたへ捨てた破片を、一つ一つ、拾い集めながら。

 明日は、あいつの誕生日。俺と同じ、二十歳になる。


 ……わたしはもう、一人に戻るね。幼おさな馴な染じみの桐きり山やま鞘音は、そろそろお終しまい


 昨日の別れ際、鞘音はそう言い残した。

 東京に戻り、SAYANEとして活動を再開するという意味……だと思う。あいつは精神的な問題を克服できたのかな。前に進むための鍵を、地元で得られたのかな。

 そんなわけないだろ……!

 最後のオリジナル曲で、あいつは泣いていた。嬉うれし涙なみだには、到底思えない。

 このまま、重圧と期待の孤独な世界に戻ったら……あいつは壊れてしまう。

 そう危惧してしまうくらい、あいつの表情は儚はかなくて、突然にでも崩れ出しそうで。取り繕った仮面の下は、河川敷で立ち尽くしていた素顔に酷似している。

 東京に帰してしまったら、もう二度と、俺たちは会えない。

 そんな気がしてならないんだ。

 会ったあと、どうするかなんて無計画。

 何も考えていないけれど、もう一回……声を聞かせてくれ。それだけでいいから。


 平日の午後、秋空は泣き出しそうな曇り模様。思い立った俺はチャリに飛び乗り、鞘音の家へとペダルを漕こぐ。

 五分もかからずに、だだっ広い庭へ突入したものの、

「あの子、いないわよ?」

 玄関にて出迎えてくれた鞘音の母さんに、あっさりと不在を言い渡された。

「もう……東京に戻ったんですか?」

「んーん? 三輪自転車でどこかに行ったわねぇ」

 ということは、遠出はしていないはず。

 鞘音の母さんにお礼を言い、公民館や旅館がある地区へ向かってみる。行く途中に旅名川大橋を渡るも、殺風景な河川敷には誰もいないしチャリもない。

「どこに行ったんだよ……」

 立ち寄った中学校にもチャリがなかったので、居場所が思い当たらないんですが。

 あとはリーゼの周辺……あいつなら、ありえるかも。

 リーゼとはトークアプリのIDを交換していたので、鞘音がいないかメッセージを送ってみる。五時間授業なら、そろそろ下校している時間帯だけど。

 いったん、立ち止まって送信してから数秒後……

【サヤネ イル】

 という返信。リーゼがどこにいるか尋ねると、

【ブドーカン】

 武道館!? リーゼも大物ギタリストになったのう。

 無粋なツッコミは省くとして、児童館の間違いだよな?

 小学校の近くにある旅名川児童館。

 下校時刻を過ぎた小学生が遊んだり、親が迎えに来るまで時間を潰す施設。屋内で遊ぶための平屋と、屋外で遊ぶための広場や遊具がある。

 小学三年生まではオヤツがもらえたり……そんなことはどうでもいいか。

 とにかく、チャリの進行方向を児童館へ。

「やっぱりな……」

 愛用の三輪自転車は児童館に停とめられていた。

 遠目から見ても、ハーフな容姿とゴスロリ服のリーゼは目立つ。リーゼがブランコを立ち漕ぎしている隣には、ブランコに腰掛けた女性。体格的に明らかな大人だ。

「SAYANEだーっ! ほんもののSAYANEーっ!」

 田舎には不相応な若手のスター。本人は伊達だてメガネで変装しているつもりだろうが、見破った子供たちに騒がしく囲まれている。

 安心……した。いつ、この町を去ってもおかしくないから。

 俺の手が、言葉が、まだ届くところにいてくれたのが、そこはかとなく嬉うれしい。

 こっそりと、あいつらの背後に回り込み、

「すみません。女児の近くに怪しい大人がいるとの通報を受けまして、任意で事情聴取させていただければと」

「え、えっ!? 違うんです!! わたしはただ、リーゼちゃんに癒いやされにきただけで!!」

 鞘音の肩に手を置く。当の本人は慌てたのか、謎の言い訳をしながら上半身だけで振り返った。すぐに俺の悪戯いたずらだと気付くと、心底ウザったそうなシワを眉間に刻む。

 こわっ……!! さっきまでリーゼの保護者気取りだったくせに。

 空気を和ませるための手段だったが、逆効果だったらしい。反省しよう。

「……あなたは何しにきたのよ?」

「……いや、なんとなく」

「……そう。ヒマなニートなのね」

 鞘音の隣に立ってみるが、普通に気まずい。

 お互いに相手の出方を探っている感じだ。

 リーゼがブランコを漕ぐギコギコという音が、沈黙のむず痒がゆさを若干緩和させる。

 周辺で遊んでいる子供たちを見ていると、無邪気だった自分の面影と重なった。鞘音と過ごし、トミさんと遊んで、エミ姉にレッスンを受けて……笑顔が絶えなかったな、と。

「……ここに来るとね、子供だった頃を思い出すの。悩みもなくて、苦しさもなくて、ひたすら楽しく遊んでいた面影を」

「俺も同じことを思った」

「……どうして、こうなったのかな。わたしは、どうすればよかったのかな」

 弱い素顔を悟られないよう、鞘音が俯うつむく。暴風を支配した昨日の歌声とは真逆。風に攫さらわれそうな細い声は、俺の心境を粘着的に締め上げる。

「鞘音は間違っていない。結果を残して、大勢のファンに愛されているじゃないか」

「……それが、あなたの本音?」

「五年前と変わらないよ。俺は遊び感覚だったから、諦めも早かった。そんな足あし手で纏まといな奴やつと手を切ったから、鞘音は才能を無駄にせず、メジャーデビューの道が開けたんだ」

「……修しゆうは相変わらず、噓うそが下手」

「……噓じゃないって」

 鞘音は押し黙り、ブランコの座面を支える両端の鎖を強く握った。

「……本音は言えないのね」

「俺が……本音を隠しているとでも?」

「……お互いに、よ」

 困惑する俺を後目に、鞘音はブランコの座面から起立。折り重なった積乱雲から僅かに顔を覗のぞかせる茜あかね色いろを背景に、俺を正面から見据えた。

 それと同時に、

「ワッショイ!」

 立ち漕ぎからの大跳躍を披露したリーゼが着地し、誰も使っていないゴムボールを拾い上げて、俺たちに高々と掲げてくる。

「譲れないモノがあるのナラ、戦うノダ」

 敏感に空気を読む幼女リーゼ……いや、救世主メシアネーム イズ リーゼロッテ。

 キメ顔で凛り々りしい台詞せりふを発しながら、鞘音にボールを手渡した。

 さすが、トミさんの血を引く選ばれし者。

 平和的な決闘の方法は、よく存じているらしい。

「わたしの前から消えた罪を裁くため、スポーツマンシップに則のつとったリベンジをしてあげる。敗者は……勝者から一方的に罵倒され、痛めつけられるの」

 そして、鞘音は児童館の屋根を指さす。

「今からクズのあなたを〝しけい〟に処すから」


 望むところだ。


 ******


 一滴、二滴──次第に数えるのも馬鹿らしいほどの雨粒が、頭上から降り注ぐ。不機嫌だった空色が泣き出し、五年前の十月十五日を連想させた。

「……修!」

「くっ!? ボールに回転を……!」

 子供たちは全員、児童館の屋内へ早々に引っ込んでいる。当然だ。全身ずぶ濡ぬれになり、手足を冷やしながら軒下を走り回っている大人が異常なんだよ。

 鞘音が投げ込んだボールには強烈なスピンが効いており、屋根に接した瞬間、弧を描きながら屋根の表面を這はう。軒下にいる俺たちは屋根の上が死角。ボールの軌道が見えづらいため、予測は困難を極める。

 鞘音は俺を指名した。落下までの時間は約三秒。

 傾斜のある屋根から転がり落ちるボールを、ノーバウンドで捕球しないと──

「ここだ……!」

 俺は落下地点を計算し、左へ走りながら指先でキャッチした。

「鞘音!」

 すぐに反撃。今度は鞘音の名を宣言しながら、屋根に投げ返す。

 この攻防を数回繰り返しているうちに、

「はぁ……はぁ……」

 きた……ヒキニートの運動不足。昔なら朝飯前だったのに、この程度のダッシュやボール投げの動作で疲ひ労ろう困こん憊ぱいに陥るなんて……!

 踏ん張れない足元のぬかるみ、屋根からは捕球を遮るような雨水の滝……無駄に体力が削られ、露骨に動きが鈍ってきた俺だが、鞘音はまったく容赦しない。

 左へ右へと揺さぶりをかけ、貧弱な俺を徹底的に走らせる。

「……しまった!」

 落下に間に合わず、ボールは地面を転々。見計らった鞘音が遠くに逃げていた。

 鬼がボールをノーバン捕球できなかった場合、他の人は逃げることができる。鬼がボールを摑み「ストップ」と言うまで、だ。

「ストップ!」

 俺がストップ宣言したと同時に、逃げていた鞘音が静止。

 くっ……二十メートル以上は逃げられてしまった。俺がボールを拾った位置から、鞘音にボールを投げ当てられないと俺の負け。当てられたら鞘音の負け。

「確か……鬼は三歩なら移動OKだったよな?」

「……そうね」

 地方によって若干ルールが異なるらしいが、トミさん方式だと鬼は三歩だけ移動できる。三歩であいつとの距離を縮めないと、ボールを投げ当てられる可能性は低い。

「いぃーっちぃいいいいい!」

 トミさん式テクニック【スケーティング】を発動! 大ジャンプをすることで、普通の歩幅より距離を稼ぎつつ着地し、勢いを利用しながら靴底をスケートのように滑らせる。

 こうすると、約三メートルは稼げるのだ。

「ちょっと! 滑るのズルい! 一歩じゃないわ!」

 怒りの抗議が聞こえるけど無視。傍はたから見たら小学生よりガキだな、俺ら。

「にぃーっいぃいいいいい!」

 大ジャンプ二回目。

「さぁーあぁあああああん!」

 湿りきった汚泥を潤滑油に、ラストの三歩目も長いスケーティングになった。

 鞘音との距離、十メートルちょい。

「覚悟しろよ。俺は躊ちゆう躇ちよなく当てるからな」

 自信に満ちた俺だったが、鞘音は涼しい雰囲気を崩さない。

 右手に握りこんだゴムボールを振りかぶり、俺は勝利への一球を放つ。

 ……直後、啞あ然ぜんとせざるを得ない。

 ボールは鞘音に掠かすりもせず、暴投になってしまったから。投げる瞬間に踏ん張った足腰が悲鳴をあげ、投球フォームを乱したのだ。

「ただのヒキニートが、体力トレーニングを欠かさない現役の歌手に勝てると思った? あの小こ賢ざかしいジャンプ技も、脆ぜい弱じやくな今のあなたには諸もろ刃はの剣よ」

 冷静な口調で煽あおってくる鞘音。

「まだ〝いちけい〟だろ。もう勝った気でいるのか?」

「ふっ……五分で終わらせてあげる」

 完全敗北での罰ゲームは四回負けたとき。つまり〝しけい〟になったら……だが、余力を隠し持つ鞘音は鼻で笑い捨てる。

 最初から勝てるわけがなかった勝負。キックベースも満足に熟こなせなかったのに、なぜ挑発に乗ってしまったんだろう。冷静に考えれば、すぐに判断できるじゃないか。

 五分後──俺は完全敗北し、四よつん這ばいで雨に打たれていた。


「……あなたが勝負を受けた瞬間、わたしの勝利は決定したも同然なの。これは、わたしが一方的にあなたへ与える罰ゲームなんだから」

 俺は口実が欲しかったのかもしれない。

 鞘音の噓偽りのない感情に、ただ黙って殴られ続けられる口実が。

 逃げ続けてきた大罪人に対する公開処刑を、俺自身が待ち望んでいたとしたら。

 黙って歩き出した鞘音の後ろに付き従う。

 処刑人に連行される受刑者と同様の扱いで、見知りすぎた処刑場に連行された。

 旅名川河川敷。

 地名の由来となった川沿いを人工的に整備した場所だが、桜並木の土手や菜の花畑は昔のまま人々を見守る。特に春は陽気な天候に導かれて、色鮮やかに着飾る草木。

 けれど、現在は退屈な殺風景。秋雨に凍えた自然の生命は、無秩序にくすんだ鈍にび色いろ。

 俺たちと酷似している。心情を表している。

 鞘音から逃げ出し、残酷に見捨てた場所へ、こんな形で帰ってくるなんて。

 幹や枝の骨組みだけを露出した桜並木の土手。

 鞘音はそこで踵きびすを返し、為なされるがままの俺と相対した。

 悪口、罵倒、嫌いや味み、皮肉……そんな裁きでは許されない。許される世界などありはしない。鞘音の言葉を受け止めるのが、最後の償いなのだと。

 五年後に再会した意味は、青春という美しいものではなく、罰ゲーム。

「どうして……」

 言葉を紡ぎ出す鞘音。

 その表情は鉄仮面ではなく──

「どうして…………わたしを独りにしたの…………」

 頰ほおを流れ落ちるのは、雨粒に混ざった透明な雫しずく。

 また、鞘音を泣かせてしまったのか。五年前と同じように、大好きな女の子を悲しませて、ずっと苦しませて。

「俺は……お前の隣にいるような器じゃなくて……」

「喋しやべるな!! わたしが一方的に与える罰よ!!」

 激げき昂こうした鞘音に胸ぐらを摑つかまれ、その場凌しのぎの噓や言い訳は搔かき消けされる。

「働かなくてもいい!! 女遊びしたりギャンブルしたって構わない!! わたしはそんなことで、大切な修を見放さない!! でも……修に見放されたら……わたしは何もできない……もう、隣に誰もいないのは嫌だよ……限界だよ……」


 そんなこと……ない。お前は立派に一人でも夢を摑つかんでいた──


「二人だから夢ができた……二人だから歩き出せたのに……後ろから支えるふりして……わたし一人だけ舞い上がって……馬鹿みたい…………」


 何も言い返すことができない──紛れもない事実が、残酷すぎて。


「……修がいなくなってから、音楽なんてやめようと思ったけど……独りでも歌い続ける意味を見み出いだしたの。とにかく有名になって、修と作ったあの曲を、大勢の人が聴いてくれたら……修の曲は凄すごいって……みんなが褒めてくれるんじゃないかって……」


 知らなかった。俺は、知ろうともしなかった。


「だから、わたしは嫌な仕事もやった。わたしが書いた曲を、よく分からない大人どもスタッフに弄いじられながら……それでも、ひたすら歌い続けた」


 やめろ。それ以上、聞きたくない。

 耳を、塞ぎたい。


「失ってしまった好きな人に、大好きな修に、わたしの声を届けたかったから──」


 それだけのためにお前は、傷ついて、心を殺して、ボロボロになって。


「心が折れそうになっても、わたしは頑張ることができた。会えなくても、同じ東京には修がいて、すぐ近くで繫がっているんじゃないかって……ひょっとしたら、応援してくれているんじゃないかって……そう思えたのに…………」


 鞘音は胸ぐらを摑む腕を震わせながら──


「どうして!! あなたはモニター越しのわたしすら見ていないの!? 逃げ続けるあなたに向かって歌い続けた!! 叫び続けた!! 届け!! 届け!! 届けって!!」


 喉奥に焦げ付いていた本心を吐き出す。

 東京にいれば『SAYANE』から、嫌でも逃げられなかった。街を歩けば街頭のモニターやコンビニから曲が流れ、大学にいけば同年代がSAYANEの話題を出す。

 辛つらかった。他人の手で、俺の知らない鞘音になっていくのが。

 メジャーとはいえ、全国的には新人。売れるために計算された曲を歌ったり、不慣れなバラエティや女優業をやらされたり……直視していられなかったんだ。

「……一度は捨てた地元に逃げ帰れば、苦しみから救われるとでも思った? こんな面倒臭い拗こじらせ幼おさな馴な染じみの面影を……振り払えるとでも思ったの?」

 俺の沈黙は、もはや肯定を表すしかない。

 日々、心が砕かれそうだった。

 才能があれば、努力を怠らなければ、ほんの僅かな勇気さえあれば。

 虚無感が精神を擦り減らし、外部からの情報を遮断。アパートの部屋にこもっていたら、いつの間にか大学を辞めてしまって……。

 完全に失ったんだ、その場凌ぎの逃げ道を。鞘音を忘れるために縋すがった大学受験が終わり、精神的な逃避を絶たれた俺に残されたのは、果てない自責と後悔だけだった。

「……わたしがこうなったの……あなたのせいなのに」

「ごめん……」

「……〝麻薬〟みたいね、あなた。気持ちの良い幻想を見せたあとは、わたしの心を渇望させてしまう」

「本当にごめん……」

「……謝らなくていい。そんな麻薬に、わたしが〝依存〟しているだけだもの」

 俺が罪を償うためには、死ぬしかない。

 無駄に生き長らえることは、罪の塗り重ねでしかないから。

「ねえ、教えてよ……」

「えっ……?」

 浅はかな思惑が見透かされていたからこそ、鞘音は未いまだに縋ってしまう。

 綺き麗れいに築き上げられた過去の幻想を、いつか取り戻せると夢見て。

 一つしかない。

 鞘音の渇望を満たす方法は、たぶん一つだけだ。


「あなたと夢見た幻想の……忘れ方を教えて」


 ******


「えーっとぉ……とりあえず、お風呂に入ったら?」

 困惑を禁じ得ないのは、作さ務む衣えを着こなすエミ姉ねえ。

「ヤレヤレ、世話の焼ける奴やつらダ。中世ヨーロッパなら死んでいたゾ」

 怠だるそうに肩を竦すくめながら、ドヤ顔しているリーゼ。

 全身びしょ濡ぬれの俺と鞘音は、リーゼに連れられて三み雲くも旅館にやってきた。偶然にもエミ姉が勤務中のシフトだったらしく、俺たちを(困り笑顔で)出迎えてくれる。

 まあ、びっくりするよな。突然、水揚げされた魚みたいな状態の知人が訪れたら。

「髪を拭くタオルだけ貸していただければ……」

 遠慮する鞘音だったが、

「……くちゅん」

 仏頂面に不似合いな可愛かわいらしい音が聞こえた。

「ほらぁ、くしゃみしてるぅ。風邪ひいたら大変だし、温泉入っていきなさい」

 エミ姉の言う通りにしたほうがいい。瘦せ我慢していても、鞘音が寒そうに震えているのは一目瞭然。実家まではチャリで帰らなくてはいけないし、雨宿りさせてもらおう。

 だが、鞘音の発想は一味違った。

「エミリィさん、代金は払うので一晩だけ泊まってもいいですか? 二人一部屋で構いません」

 借りたタオルで髪の毛を拭きながら、そう問いかけた鞘音。

「平日だから二人部屋も普通に空すいてるんだけどぉ……二人で泊まるの? 同じ部屋で?」

「……勘違いしないでください。合宿です。わたしがいないと、こいつは怠けるので」

 こいつ? こいつとは……誰だ? いや、メンバー的に予想はつくけど。つくけどさ。

 鞘音が俺を後しり目めにしているということは──

「俺も泊まるの……か?」

「……合宿なんだから、当たり前でしょ。修の家でやろうと思っていたけど、こうなったらここでも構わないわ」

「お金ないんだけど……」

「……ニートに割り勘なんて期待してない。わたしが立て替えるから」

 な、情けねぇ男だ……。ただのヒモじゃないか……。

「エミリィお姉ちゃんに任せて! 最高の一夜にしてあげるねぇ♪」

 なぜか声色を弾ませるエミ姉に腕を引っ張られながら、半ば強引に旅館の奥へ。

 エミ姉のご厚意により、貸切露天風呂を使わせてもらえることになった。ここの露天風呂は初めてだけど、他の一般客は入れないから、静かに疲れを癒いやすには最適らしい。

 なんにせよ、長湯をしていると鞘音に怒られそうだ。

 男側の脱衣所で湿った衣服をさっさと脱ぎ、申し訳程度のタオルを腰に巻き、露天風呂へと足を踏み入れる…………も、

「えっ?」「えっ?」

 直後に入ってきた女性と視線が合い、同じ平仮名一文字を漏らした。鎖骨のやや下からタオルが巻かれているとはいえ、女性から伸びる太ももや肩は無防備。

 冷えた外気の効果で濃霧となった湯気が、余計に艶なまめかしい。

 ミディアムな髪の毛はヘアゴムで纏まとめられ、新鮮なポニーテールに見み惚ほれてしまう。

「……変なこと考えないで、えろ男」

「いやいや、えっ? どうしてお前が?」

「……それはこっちのセリフ。どういうことなの……?」

 屋根つき露天風呂で遭遇したのは鞘音だった。

 お互いに状況確認の処理が追いつかず、タオル一枚姿のまま視線を逸そらすしかない。

「ウチの貸切露天風呂は、家族とか夫婦、恋人向けの用途だからぁ♪ ごゆっくり!」

 おいっ! エミ姉、それ言うの遅すぎるんだけど!

 女性側の脱衣所から一瞬だけ顔を覗のぞかせたエミ姉は、青い瞳をキラッキラに煌きらめかせながら仕事に戻っていった。

「エミ姉……絶対に何か勘違いしてるよな?」

「……ええ、だいたいの見当はつくけどね」

 たぶん、俺と鞘音が仲直りした勢いで一夜を過ごす……みたいな、煩悩めいた勘違いをしているんだろう。すぐに修復できるような生易しい亀裂じゃないのに。

 いや、俺らがちゃんと説明しなかったのも悪いけど……この状況、どうしよう。

「……時間がもったいないし、さっさと入りましょ」

 こいつは平常通り、澄ました冷静さを保っている。

 泥で薄汚れた身体からだを洗うべく、洗い場へ座った鞘音だったが、

「……きゃっ!? ちべたっ!?」

 冷水のシャワーが降り注ぎ、悲鳴をあげていた。あいつ、内心はめちゃくちゃ緊張していたりするんじゃ……? 心なしか、頰が赤い気もする。

 というか、身体を洗うということは、タオルは取らないといけないわけで? えっ?

「……じろじろ見ないで。湯船にでも浸つかってろ」

「はい」

 悍おぞましい形相で威嚇された……。

 できるだけ鞘音を視界に入れないよう、鈍く濁った温泉に浸かりながら、正面の庭園を眺めていた。周辺に囲いがあるため、外部からは見えないようになっている。

 木霊する雨音は止やまない。鞘音が身体を洗う音も、執しつ拗ように鼓膜を擽くすぐってくる。意識するな。意識するな。小さい頃は、一緒の湯船に浸かったじゃないか。

 さっき、数秒だけ瞳に映った幼馴染みのタオル姿。胸部の膨らみは豊満ではなかったけど、引き締まったボディラインと、瑞みず々みずしい純白肌に吸い寄せられそうだった。

 シャワーの気配が止む。

 ふと、水が跳ねるような生々しい反響音が聞こえたと思いきや、湯船に張られた温泉が波打った。俺の背後で、どんな事態が起きている……?

「……振り返らないで」

 俺の行動を予見したのか、鞘音が釘くぎを刺す。

「……タオル外してるの」

「ああ、タオルを湯につけるのはマナー違反だもんな」

 松まつ本もと修よ。マナー違反だもんな、じゃねぇ!

 気取った物言いに徹したけど、こちとら理性が爆発寸前なんじゃあ……!!

 全体的な状況と雰囲気で推測する。湯船に入浴してきた鞘音が、俺の背後あたりに腰を下ろし、湯に浸かっているのだ。

「………………」

「………………」

 二人揃そろって無言だから、雨音がなおさら煩うるさく感じる。

 どっ、どっ、どっ…………やけに速い自分の心音も数えられるくらいだ。

 チラッと背後を確認すると、華きや奢しやで美しい背筋が瞳に焼き付いた。俺たちは背中合わせで体育座りの体勢になっているらしい。もちろん、お互いが全裸。

 珍しくポニテだから、普段は晒さらさないうなじが……大変優美だったな。

「……変なこと考えてるでしょ」

「ノーコメントで」

 やけに鋭い。

「……ねぇ」

「なんだ?」

「……明日は、何の日か分かる?」

 表情は窺うかがえない。

 でも、恐る恐るといった微弱な声色なのは察せる。

「お前の誕生日だろ」

「……それじゃあ、中学の頃に交わした約束は憶おぼえてる?」

「進む道に迷ったときは、あの場所で会うこと。鞘音の誕生日に、俺が作った曲をプレゼントすること……忘れるわけがない」

 どちらも、破ってしまったけれど。

「……旅名川を離れる前に、約束を叶かなえて欲しいの。そうすれば、わたしは修の存在を断ち切れる。心残りなく、SAYANEに戻ることができるわ」

「お前は……独りでも進んでいけるのか?」

 数秒の雨音を挟んだあと──

「……ええ」

 鞘音は微かすかな肯定を絞り出す。

「明日……最終の新幹線に乗るから」

 独り言のように、彼女はそう呟つぶやくが、見送りを求めているわけでもあるまい。

 どうすればいいのか……反応に苦慮してしまう。

「地元に留とどまるわけには……いかないのか? あと一ヵ月……いや、一週間でもさ」

 馬鹿か。

「わたしを待っている大勢のファンやスタッフがいるの。これ以上、小娘の気まぐれで振り回すわけにはいかないわ」

 そう答えるに決まっている。

 たかが素人のガキ臭い無知なワガママは、天才を戸惑わせるだけだ。

「だから……残り僅かだけれど、五年前みたいな関係に戻りたいなって」

 分かった。それが、桐山鞘音としての最後の甘えなら──

「お前が望むなら……やってみせる。今度は、鞘音だけのために」

 好きな女の子のために、松本修は遅れてきた青春を捧ささげるよ。

 俺の返答を受けた鞘音は、慎つつましい水音と共に起立。お湯を切り裂くような、くぐもった足音が遠ざかり、背後に感じていた鞘音の気配は消えた。

 どんな表情をしていたのだろう。

 俺には知る術すべが、ない。


 冷え切った身体を湯煎したら、次は本格的な曲作りの始まり。

 母さんにキーボード類やノートパソコンを旅館まで運搬してもらい、オーソドックスな和室の二人部屋は幼おさな馴な染じみだけの空間と化した。

 汚れた私服はエミ姉が旅館で洗濯してくれているため、俺たちの格好は浴衣。合宿の夜みたいな様相になりつつ、鞘音と共に一曲を組み上げていく。

 少しずつ、少しずつ、鈍のろ間まな亀と大差ないペースだけれど……二人が描く旋律の欠片かけらを、火ほ照てった指先で繫つなぎ合あわせていった。

 ごめんな、愛機のMOTIF‐ES7。狭い押入れに五年も閉じ込めて、埃ほこり塗まみれになって、苦しかっただろ。もうちょっとだから、青春のロスタイムに力を貸してくれ。

 松本修という存在を、小さな夢を語り合った幻想を、鞘音に忘れさせるために。

 届けられなかったものを、あの頃と同じ距離感で、紡ぎ出していこう。

「ああ……ギター……ギターがあれば……もっと痺しびれるフレーズが……うう……」

 ギターが無いため、鞘音は手持ち無沙汰な様子だったが、

「リーゼの聖剣を貸してヤル。ありがたク思うノダ」

 途中でリーゼがアコギを貸しに来てくれた。

 エミ姉から話を聞き、わざわざ気を遣ってくれたんだろう。本当に凄すごいスーパー幼女だよ、救世主メシア様は。いったい、どこの最高な両親に育てられたんだか。

「失礼いたします。お食事のご用意ができましたぁ」

 うおぉ……噂うわさをすれば、笑顔が美しすぎる母親の登場。地元産の野菜や海沿いで採れた魚の和食が、御膳に乗せられながら運ばれてくる。

 もてなしを受けたい……受けたいけど!

「お気持ちは嬉うれしいですけど、俺たちは夕飯より作曲を進めないと。なぁ、さや──」

「リーゼちゃん美味おいしい? 美味しいね? よく嚙かみ嚙みして、はい、ごっくん♪」

 うん。食べるか、俺も。蕩とろけた顔でリーゼにご飯を食べさせているロリ山さんを目撃したから、俺は深く考えるのを諦めた。もうやけくそ。

 うめぇ! 三雲旅館の料理、こんなに秀逸だったのか!

 金きん目め鯛だいの煮付け! 山菜の天ぷら! ミニサイズのすき焼き! 小皿に添えられた刺身! 幼馴染みの金で食べる旅館飯は魔性の味だぜーっ!

「修くん」

「なんですか?」

「敷くお布団……一枚でいいかなぁ?」

「二枚お願いします」

 悪戯いたずらに口元を綻ばせながら、エミ姉は一ひと先まず退散していった。

 あの人、この状況をかなり楽しんでないか? 風呂の件もそうだが、変な方向からアシストしようとしてくるし。

「はいはいー♪ 暗いから気を付けて、ね? 悪い人がいたら防犯ブザー鳴らすんだよ? お姉ちゃんがやっつけるからね~♪ はーい、バイバーイ♪」

 夕飯の時間が終わり、自宅へ引き上げていくリーゼを部屋の窓から見送った。

 すると、五秒前まではロリ山さんモードだったのに──

「修、お遊びは終わりよ。集中してくれないと困るの」

 瞬時に瞳を研ぎ澄まし、アーティストへと変貌するのは流石さすがとしか言いようがない。

 ただ、遊んでいたのはお前だぞ。

 ここからはノンストップ。俺たちに不可能はない。二人が揃そろえば、どんなことでもできる。身体が発する赤信号なんて無視すればいいだけだ。

 根が腐っても、成人元年と間もなく成人。多少の無理で死にはしない。夜更かし・徹夜は当たり前なのが青春時代ってもんだろ。

 鞘音が思い描く景色と、俺が思い描く景色。まったく異なる感受性を融合させ、ほろ苦く、そして甘酸っぱい過去が一つの線になって蘇よみがえる。

 近すぎる二人が歩いてきた道のり、擦れ違い、挫折、別れ、孤独……生々しくも具体的な詩と、それらを導く光源となる音色。

 再会した二人がどうなるのか、未来はどちらも知らない。だけど、創作の中くらいは、幸せな結末にしたって良いだろう。ハッピーエンドでも、文句は言わせない。

 売れるとか、赤の他人に受け入れられるとか、スタッフやお偉いさんの方針とか、外野の不純物は一切存在しない、二人だけの世界。

 だって、これは誕生日プレゼント。

 好きな人にだけ、送るものだから。


 無我夢中になっていたら、ふとした瞬間に陽光が射さす。

 部屋の時計は、早朝の五時半……体感的には三十分程度だったけど、かなりの時間が経過していたようだ。雨音は一切無く、冷感による身震いが眠気を打ち消す。

 いったん、意識が普段通りになったためか、肩に乗った心地良い重量感に気付く。

「すう……すう……」

 記憶を何年先まで遡ればいいのだろうか。

 あどけない寝顔の鞘音が、俺の肩に寄りかかっているなんて。こんなに無防備な幼馴染みは、久しぶりすぎる。こっそり悪戯したいほど、ガードの緩さにほのぼのしてしまう。

「……んっ」

 怠だるそうに瞳を擦こすりながら、眠り姫が目覚めた。

「おはよう、鞘音」

「……記念すべき二十歳を、あなたの隣で迎えることになるなんてね」

 不本意そうに眉をひそめながらも、

「……修、あと五分だけこのままで……いたい」

「ああ、好きにしてくれ」

 中学の頃とは、真逆になった懐かしいやり取り。

「おめでとう、とは言わないよ。あのときの約束を果たすまでは」

「……待ってる。楽しみに……待ってるね」

 永遠に続けばいい。今だけの五年前が、遅れてきた青春が、この瞬間が。

 静かすぎる早朝の肌寒い部屋は、全世界が凍りついたかのよう。でも、秒針が五周するのを防ぐ手段はない。一定の間隔で時を刻む時計の針は、絶対に止まらない。

 確実に迫っている──俺たちの別れ。

 終わりが近い有限の青春で、やり遂げなければいけないことが残っている。

「最後までやり遂げよう」

「うん……わたしたちなら、どんなことでもできる」

 お互いの体温と感触がゆっくりと離れ、各々の愛機に向かう。

 取り柄もなく、度胸もなく、逃げてばかりのクズだったが、最後に笑って死ねる資格が欲しい。暗闇に迷い込んだ鞘音を、おぼろげな光で導こう。

 そのために、人生を捧ささげよう。

 やっと、俺の生き様は『意味があった』と確信したんだ。

 徹夜明けの影響だろうか……順調に描いていた情景が濁り、音で紡いでいた物語は断片的に抜け落ちる。若いつもりだったけど、やっぱり中学時代と比べては駄目だな。

 雨に濡ぬれたせいで、風邪でも拗こじらせたか……?

 鍵盤の白黒が複雑に歪ゆがむ。

 勘弁してくれ、こんなときに。左手の指先が震えて、不協和音になってしまう。

 最高の一曲を……作るんだ。

 鞘音に…………喜んでほしい……から……。


 骨組みができたMIDIに詳細な打ち込みを施し、キーボードの音はパソコンに接続して録音。更なる編集により調整を加えた後、一般的な音楽ファイルに変換させる。

 鞘音のスマホに完成した新曲を転送し、俺の役目は終了した。

「……お疲れ様」

 もらった労ねぎらいの一言が、果てしなく遠い。

 褒めてくれる鞘音の表情が……世界から欠けてしまう。

 無邪気に喜んでくれる顔が……見たかったのに……。

 昼前に旅館をチェックアウトするも、身体からだの異常は赤信号のレベルどころじゃない。

 ──不規則に欠落する視界と、混濁する思考回路。

 暑くもないのに、異様なほど滲にじみ出でる脂汗と突き刺すような頭痛。

「河川敷に行きましょう。歌詞を振ってから、修のために歌ってあげる」

 今夜、地元から離れる鞘音に、余計な心配をかけさせるわけには…………目の前に停とめてあるチャリに乗れ。爽やかな秋空の下で、早く歌ってほしいんだ。

 動け。動けよ。小学生でもできることが、なぜできない。

「…………っ……た……」

「修……?」

 声が、届かない。

 こんなに近くにいるのに。

 楽しみにしてる──その一言が、零こぼれ落おちない。


 ふざけるな。

 神様とやらは、持ち上げてから盛大にぶち壊す性癖でもあるのか。

 底辺人間を好き勝手に弄もてあそんで、満たされるのか。

 忘れさせやがって。走馬灯のアルバム作りにしては、演出が過剰すぎる。

 間違ってんだよ。ゴミ処理用に埋め込まれた時限爆弾のタイミングが。


 せっかく、人生に希望を見み出いだせるようになったのに。

 ようやく、約束を果たすために走り出したのに。

 いつ死んでもいい……こんな戯たわ言ごとは、土下座で撤回させてくれ。


 俺は────

 生きたい。


 真っ暗にフェードアウトしていく。

 最後に映したのは、俺に向けて必死に叫び続ける鞘音の姿。

 その声は次第に遠のき、鮮やかに色付いていた世界は、完全な無になった。