俺たちは、生まれたときから一緒だった。

 同年に同じ病院で生まれ、旅たび名な川がわで育ってきた。お互いの実家は徒歩五分、母親同士が同級生という御縁もあり、物心ついた頃にはもう、鞘さや音ねが隣にいた気がする。

 父さんはいつも笑顔で、俺のワガママをいつも叶かなえてくれた。欲しい物をなんでも買ってくれて、色んな場所に連れて行ってくれる。

 厳しかった母さんは「修しゆうを甘やかすんじゃねぇ」と、常に怒っていたけれど。

 幼稚園に入園してから、父さんが病気で亡くなった。

 薄れてしまった記憶だけど〝死ぬ〟という概念を理解していなかった俺の代わりに、母さんが悲痛に泣いていたのは覚えている。

 俺はあまり泣かなかった。母さんがいたから、寂しくなかったのかもしれない。

 そして──

「わたしがずっといっしょにいるーっ!」

 鞘音も側そばにいてくれる。欠けたピースを補ってくれる大切な存在。

「母さん! 俺、お隣の音楽教室に通いたい!」

「はぁ? スターリングさんちのか?」

 小学校に進学するのと同時期、母さんに頼み込んで音楽教室に通い始めた。

 理由は単純にして明快。お隣から笑顔を振ふり撒まく中学生のエミ姉と、お近づきになりたかったからだ。憧れのお姉さんに褒められたいから、ピアノを頑張ろう……みたいな。

 そんな邪よこしまな思惑を察したのか、鞘音も数日後にレッスンの見学を希望してくる。

「修と一緒にいるのはわたしだもん」

「あらあら、鞘音ったらヤキモチ焼いて~」

「ヤキモチじゃなくて見張りーっ!」

 見学後、すぐに母親を引っ張ってきて、入会の申し込み書にサインさせていた。

 ちょうど、この頃だろうか。喧けん嘩かをやらかしたトミさんが中学を停学になり、俺たち相手に暇潰しとして遊び始めるようになったのは。

 服をだらしなく着崩した金髪のトミさんは、無人の旅名川駅で昼寝していたのだが、

「へいへい、そこの小学生カップルぅ。俺と山手線ゲームでもするべぇ?」

 小学校帰りの俺たちに、三下丸出しの声をかけてくる。

 ほぼ初対面だった俺と鞘音は「不良に絡まれた」と臆し、ダッシュで自宅に避難。

 最終兵器の母さんを召喚した。

「豊とよ臣とみさんちの正まさ清きよじゃねーか! てめぇ、ウチの息子たちを怖がらせてんじゃねぇ!」

「い、依い夜よ莉り姉さんのお子さんだったんすか!? さーせんしたぁ!!」

 無人駅の前で母さんに土下座するトミさん、究極にダサかったなぁ……。

 それからというもの、暇人のトミさんはウチに度々顔を出すようになる。釣りに行ったり、チャリで地元を疾走したり……俺と鞘音にとって、面白い地元の兄ちゃんになった。

「うぇええええん……トミお兄ちゃぁん……」

 小学校近くの児童館で遊んでいた鞘音が、トミさんに泣きついたことも。遊んでいたブランコを上級生に横取りされたからだ。

「トミさん! 俺に喧嘩を教えてくれ! 鞘音を泣かせた高学年の奴やつらを倒す!」

「まぁ、待で待で。殴り合いの喧嘩なんざ、小坊には早えぇど。俺が小坊のときに流行はやった遊びなんだが、スポーツマンシップに乗っ取ったリベンジを教えてやっから」

 頭に血がのぼる俺を宥なだめたトミさんは〝しけい〟という遊びを教えてくれた。

 手のひらサイズのボールを屋根に投げ、名前を指名された人がノーバウンドで捕球。また屋根に放り、転がり落ちてくる前に別の人を指名して……を繰り返すらしい。

「一回負けた奴は〝いちけい〟。四回で〝しけい〟になった奴は、罵倒されながらボールを投げ当てられる公開処刑の罰ってわけだ。平和的なやり返しにはもってこいだべ?」

 トミさんに小技を伝授された俺と鞘音は、上級生に勝負を挑み、罰ゲームで容赦なく泣かせた。あくまで、子供のお遊びでボコボコにしたというのが痛快。

 泣かせた翌日、悔しがった上級生たちは兄を連れてきた。旅たび中ちゆうの学ランを着た男どもの襟元には、中学三年生の学年章。小学一年生だった俺たちの体格を遥はるかに凌りよう駕がしている。

「女の前で格好つけたいだけのマセガキが。謝れば許してやるけどよォ」

 最寄りの畑に呼び出され、大人気のない謝罪を要求されるも、怖がる鞘音を守るように俺は立ちはだかった。

「小学生の喧嘩に混ざるなんてだっせぇな! だからモテないんだよ!」

「モテないのは関係ねーだろうがァ! 高校にいけば彼女なんて楽勝にできるんだよ!」

 俺の煽あおりに憤った数人の男どもが、拳を振り上げた絶体絶命の瞬間──

「んだんだ。よく言ってやったど、修!」

 男どもは背後から蹴りを浴びせられ、情けなく転んでいた。

「小学生の喧嘩に中学生が手を出すなんざ、だっせぇだっせぇ。依夜莉姉さんが最高に嫌うタイプだな」

「と、豊臣!? 部外者が口を挟むんじゃねえ!」

「はっはっはぁ! ちょうどいいべ! 部外者同士……仲良くやろうや!」

 俺の……俺たちのヒーローはトミさん。中学の同級生相手に怯ひるむことなく、数発の殴る蹴るの瞬殺を決め、畑の藻も屑くずと化した男どもは、半泣きで帰っていった。

 さすが、頼れる地元の兄ちゃん……と、無む垢くな俺たちは懐いていたのだが、トミさんにも打算はあったらしい。

 ある日……なぜかお洒落しやれしたトミさんは、音楽教室にも付き纏まとってきたのだが、

「あ、あーっ、ここって、え、ええ、エミリィさんの家だったのかー」

「隣のクラスの……豊臣くん? 修くんたちの知り合いだったんだぁ」

「い、いやぁ~、修たちに見学してって頼まれてな!」

 誰も頼んでいない。あんたが勝手に付いてきただけだろ、と今なら思う。

 エミ姉との初々しいやり取りは、ぎこちなさすぎて笑える。トミさんの棒読みと肩の強こわ張ばりが、小学生の目から見ても尋常じゃなかった。

「トミさんはねぇ、すっごく面白くて頼りになるんだーっ!」

「へぇ~意外だよぉ。学校では不良で怖いってイメージがあったからさぁ」

 今思うと、トミさんが片思いしていたんだろう。

 不良気取りのくせに、純情だから一度も話しかけられない。だから悪い頭脳をフル活用し、俺たちを交流の切り口に使ったんだ。

 俺や鞘音がトミさんを褒めるもんだから、エミ姉の警戒心も解けたみたいだし『孤高の不良が、実は良い奴』みたいな好印象の法則に活用されてしまったというわけだ。

 恋人になるまでの道筋は、また別の物語として──

 そんな淡い青春の手助けもしつつ、週三回のレッスンを六年間。幼おさな馴な染じみの二人は一緒に足を運びながら、音楽の基礎と魅力を学んだ。


「……最高に痺しびれるフレーズを思いついたので、授業抜けます」

 中学生にもなると、鞘音はちょっとした有名人になっていた。

 思春期になり物静かな性格になった反面、頻繁に授業を抜け出しては、体育館前の階段でエミ姉のアコギを弾いていたから。

 メロディの破片を作り出しては首を捻ひねり、トライ&エラーを繰り返す音楽少女……生徒がさほど多くない校内では、特に奇人ぶりが目立つ。

 先生に頼まれて、いつものように鞘音を授業へ連れ戻しにきたのだが、

「あまり授業をサボっていると、高校に進めなくなるぞ」

「……時間や規則に縛られているあなたが可哀かわいそうよ」

「ふふっ」

「……うるさい。黙れ。笑うな」

 唇を尖とがらせる鞘音に、思わず綻んでしまう。こいつは、結構ポンコツ。

 真剣な顔でシュールなことを言うし、静かな校内に響き渡る音量で自作の楽曲を気持ちよさそうに歌ったりする。木造校舎の屋根裏に座椅子やギターを持ち込み、作曲部屋として改造。教師にバレるまで不法占拠した逸話も忘れてはいけない。

 そんな天才肌の幼馴染みを隣で見ているのが、俺は好きだった。

 放課後、河川敷の階段に腰を下ろし、借りたアコギで弾き語る鞘音──隣という特等席に座り、菜の花の絨じゆう毯たんを眺めながら、優しい音色を聴くのが大好きだった。

 背後に聳そびえ立たつ桜並木から舞い散った花吹雪。春の暖かい陽気に誘われて、うっかり眠りに落ちたりしても、寄りかかった俺に肩を貸してくれる。

「……バカ面で寝るな、ばか」

 目を覚ました瞬間、冷たく叱られたりするけれど、

「鞘音って……良い匂いするのな」

「……そういうの、ずるい」

 褒められると視線を逸そらす可愛かわいらしい一面も、俺はよく知っている。

「顔も綺き麗れいだし……瞳も透き通っていて、ん、んんっ」

「……調子に乗らないで」

 頰ほおを桜色に染めた鞘音は、俺の減らず口に手を被かぶせて封を閉じる。

「もうちょっとだけ、このままでもいいか?」

「……好きにすれば」

「それじゃあ、お言葉に甘えて……あいたっ」

 無防備な太ももを膝枕にしようとしたら、軽く小突かれたけど。珍しく上機嫌な日には膝枕してくれることもあった。

 鞘音が河川敷に降臨すると、散歩していた老人や子供たちが集まり、小規模なストリートライブになることも珍しくない。

 決して人数は多くなかったが、俺たちの軌跡は、歩みは、もう始まっていたんだ。

 鞘音が曲に吹き込む歌詞は、ほとんどが女性目線。好きな人との距離が近すぎて、接し方が分からないもどかしさを表現したり、変わり映えのない日常がずっと続いていきますように……という願いを込めている。

 甘酸っぱくて、切なくて、青春の味が詰まった恋愛の歌は──強い共感を揺り起こした。

 恋人より近い距離で歩いてきた二人は、青春の過ごし方がいまいち摑つかめない。

 俺たちは、どんな関係なんだろう。


「修……わたしと一緒に曲を作って欲しい」

 いつものように春色の河川敷で寄り添っていると、そう訴えかけてくる鞘音。

「俺、作曲なんてしたことないんだけど」

「わたしが植えた種を、あなたはどう成長させるのか……試してみたい。わたしの声が、もっと多くの人に届くように……あなたと、ずっと歌っていきたいの」

「いずれ、足を引っ張ることになってもか……?」

「……馬鹿ね。あなたがいるから、桐きり山やま鞘音は……気持ちよく歌えているのに」

 鞘音は照れ臭そうに俯うつむきながら、自分の髪の毛をくるくると指に巻く。

 自信はないが、身体からだの芯から震え立つ。キーボードや作曲の基礎を齧かじっただけの俺が、鞘音の役に立てるのなら……彼女が描いている景色を、二人で共有できるのなら。

「やるよ。鞘音が求めてくれるのなら──」

 どこにでもいる普通の人間にとって、天才に寄り添える時間は有限だと定められているとしても、こんなに嬉うれしいことはない。

「約束。これから先、進む道に迷うことがあったら……また、ここで会うこと」

 鞘音が差し出してきた小指に、

「ああ、約束する」

 俺は自らの小指を結ぶ。

 それは四月──中学一年の遠い昔に交わした、無責任な約束。


「今はデモテープを手売りしたり、ストリートでファンを増やす時代じゃないと思うよぉ。手軽にできるのは、SNSと連動したライブ配信サービスとか? そこから徐々に知名度を上げて、地方のワンマンライブ成功みたいな流れがインディーズの理想かなぁ」

「……なるほど。ありがとうございます、エミ姉」

 まずは知名度を上げるため、隣の実家にいたエミ姉に相談。既にトミさんと結婚し、幼い子供リーゼを抱いていたけど、俺たちのために時間を割いてくれた。

「ばぶばぶ、よちよち~。すごいすごい~っ! よくできました~」

 よちよち歩きのリーゼと戯れる鞘音の深刻な語彙力低下はさておき、

「もちろん、修くんも協力していくんでしょ?」

「はい。ずっと、鞘音の隣を歩いて行きたいですから」

 俺の返答を聞いたエミ姉は頷きながら、お馴な染じみの練習部屋へ。俺たちがいる茶の間に、長方形のソフトケースを持ってきた。

 ケースの中に入っていたのは、俺が音楽教室で使っていたシンセサイザー。

「ワタシからの細ささやかなプレゼント。鞘音ちゃんに貸していたアコギも、もう返さなくていいよ」

「エミ姉……」

「大変だと思うケド、がんばれ教え子。お姉さんはいつでも、アナタたちの味方です」

 俺と鞘音の頭に、ゆっくりと手を添えたエミ姉。

 ありがとう。あなたみたいな人に出会えて、俺たちは世界一幸せな田舎者に違いない。

 二人は深々と頭を下げ、大切な恩師に感謝の言葉を告げた。


 ******


 せっかちな幼馴染みは、思い立ったらすぐに行動する。

 鞘音は実家の農作業を手伝ったり、真面目に授業を受けると誓い、ちょろい親を懐柔。ライブ配信の基盤になるスマホを買ってもらうことに成功した。

 それと並行して、鞘音は本格的な作曲にも着手。ギターや鼻歌で構築したメロディラインを、俺が自分なりに鍵盤とシーケンスソフトで編集していく。原曲の大半は鞘音の功績だが、刺さるフレーズはより尖せん鋭えいに。それを鞘音がまとめ、弦を用いて再構築していった。

 最初の曲が七割ほど形になってきた六月頃、学校からのライブ配信をスタート……。

「あ、あれ……ばっくあっぷ? じーぴーえす? すとれーじ?」

 ライブ配信を……。

「文字ってどうやって打つのよ……日本語に変換されないんだけど……!」

 ライブ配信どころのレベルじゃない。

 昼休み──体育館前の階段という定位置に居座り、スマホ画面と睨にらめっこするポンコツ少女。そう……鞘音は根っからのアナログ人間だから、電子機器に疎いのだ!

「配信とかSNSの運営は俺がやるから、お前は音楽活動に専念してくれ」

「……修に気を遣われるなんて、なんだか納得いかない」

 鞘音の不機嫌そうなジト目を受け流し、預かったスマホを持ち主の代わりに設定。一ひと先まず使える状態にし、有名なSNSやライブ配信のアプリをインストールした。

 俺はスマホを持ってないけど、ソシャゲー目的で母さんのスマホを弄いじっているから、扱いには慣れている。

「ネット上の名前はどうする? 本名にすることもできるけど」

「……SAYANE、でいいわ。ローマ字で」

 直球な性格だから本名にするかと思いきや、意外とアーティストっぽい響きの名前を考えていたらしい。

「……桐山鞘音は、親しい人だけ呼んでほしいの」

「その中には、俺も含まれてる?」

「……いちいち言わなくても分かれ、ばか」

 消え入りそうな声で、ぼそぼそと呟つぶやく鞘音。

 不覚にも、心の中で悶もだえてしまった……やばい。今の鞘音、すげぇ可愛い。

 中学一年生。恋心なんて未知の感情だけど、まさか、これが……? 分からん!

 心身の動揺を誤ご魔ま化かすため、SAYANEのアカウント制作に没頭した。

「時間もないし、一曲だけ歌ってみてくれないか」

 昼休みは残り五分程度。お試しとして、一曲だけ動画配信してみることに。

 スマホのカメラを向けると、鞘音はいつもの数倍も表情を険しくしかめた。

 怒っているのではなく、たぶん緊張している。

「……はぁ」

 俺が苦笑いした理由を察したのか、鞘音は一回だけ大きく深呼吸。若干硬さが和らいだ顔つきになり、俺からの合図と同時にアコギを構えた。

「……どうも。さ、SAYANEと申します。中学二年生……なんですかね?」

 なぜ疑問形? 笑いそうになるからやめてくれ。

「プロにならなくてもいいので、わたしたちの楽曲を大勢の人たちに聴いてもらいたいです。喋しやべるのは苦手なのと、もう昼休みが終わるので……さっさと歌いますね」

 淡々とした雑なトークもご愛あい嬌きよう。

 わたしたち……俺の存在も含まれているという表現が、地味に嬉しかったり。

「制作中のオリジナル曲です。〝be with you〟」

 カメラのことを意識から削除し、右手に摘まんだピックで弦を震わせる。そっと触れるような繊細さを持つ音色ながらも、歌声は芯が通った力強さ。

 荒れたグラウンドにも木霊し、昼休みで騒々しかった校内の生徒も聞き耳を立てる。まだまだ荒削りながら、鞘音の歌は雑念を消し去り、人々は聴き入ってしまう。

 最初に窓を開けた教頭へ続けとばかりに、教室や職員室の窓は次々と開放された。

 微かすかな息づかいやビブラートの切れ端まで聴き洩もらさぬように。

 のどかな田舎の屋外とはいえ、完全無音な環境などではない。春風や車の走行音が邪魔しているはずなのに、俺の世界には、鞘音の歌しか存在しない。

 ──大好きだ。

 いつまでも、歌う姿を眺めていたい。一番近い距離で声を聴いていたいよ。

「ありがとうござい……ひゃ……!?」

 演奏を終えた鞘音が、周囲の違和感に気付いて後あと退ずさり。歌に引き寄せられてきた数十人の生徒に四方八方を囲まれ、分厚い拍手や賞賛の喝采を受けたからだ。

「…………さよならっ!」

 あっ、逃げた。

 群衆を搔かき分わけて、鞘音はどこかに走り去って行く。撮影していた動画には、赤面した鞘音が走り去るまでをバッチリ記録した。これはこれで、ネタ的に面白いかもしれない。

 せっかくだから、SAYANEチャンネルを立ち上げ、有名な動画投稿サイトにもアップしてみよう。

 鞘音が歌った曲は、未完成なんかじゃない。いや、未完成じゃなくなった。

 まさか……歌いながら未完の部分を自然に引き出し、本番で完成させてしまうなんて。

 俺は感慨深さと共に、一抹の不安を覚えてしまう。幼おさな馴な染じみの『桐山鞘音』は、アーティストとしての『SAYANE』の片へん鱗りんを見せ始めている、と。

「すごいな……あいつ」

 鞘音の歌が大勢の人々に届くのは歓迎するべきことなのに、寄り添ってくれていた〝幼馴染み〟が遠くに行ってしまった気がして。

 悶もん々もんとした矛盾が、俺の中で根深い焦燥を生み出していた。


「ま、マジかよ……」

 ネット上で活動を開始してから、十ヵ月後──俺は毎日のように、動画に添えられた数字を確認しては打ち震えていた。心情は主に驚きよう愕がく。ライブ配信の総視聴者数は八十万人を突破し、動画投稿サイトへのアクセス数も比例して頭打ちを知らない。

 寄せられた多数のコメントも好意的なもので占められており、一日一回、恒例になったライブ配信では、鞘音が「……お晩です」とぎこちなく挨拶すると、数倍の挨拶が視聴者からリアルタイムで返ってくる。

 度々見せていたポンコツっぷりも、彼女の人気を後押し。鞘音はネットのトレンド女王に登り詰めていった。

 放課後の河川敷から配信するのも慣れてきた頃から、視聴者が親しみやすいよう、五分程度のトークタイムを設けていたのだが、

【SAYANEちゃんが好きなアーティストとかジャンルは?】

「……切ない恋愛系の歌が好きですけど、ギターを教えてくれた音楽教室のお姉さんが好きな曲に影響されたりもしています。例えば──」

 最初に比べると、質問への回答も滑らかになってきた。フリートークは未いまだに厳しいんだけど、音楽以外は不器用な鞘音の性格を考慮すれば、進化は歴然。

「持ち歌はまだ一曲しかないので、今日はカバーソングを歌います」

 エミ姉が頻繁に聴いていた曲のアコースティックアレンジ。

 恋人との別れと春の桜をテーマにしたこのバラードを、SAYANEのファン層である十代の若者はあまり知らないだろう。

 しかし──彼女がアレンジしながら弾き語るだけで、ライブ会場のような一体感。

 曲を知らなくても関係ない。鞘音の歌声が、演奏が、表情が、秀逸な原曲が持つ無限の可能性を、異なったフィールドにも引き出している。

 オリジナル曲以外は、大半が既存曲のカバー。俺が伴奏しながら鞘音が歌うピアノアレンジも好評だが、やはり、コメントでは新曲の要望も目立つ。

「新曲も制作中だから、待っていてください」

 鞘音がこう釈明するのも、何度目だろうか。

 オリジナル二作目となる新曲は、未だ完成する気配がない。鞘音から基礎になるメロディや歌詞はもらっているのに、俺でストップしているのが現状。鞘音の持ち味を殺していないか苦悩し、自分の存在意義を自問自答する日々が続く。

 せっかく人気も沸騰してきたのに。話題性抜群なタイミングなのに……。

「〝be with you〟のPVを作らないか? 動画サイトにアップすれば、宣伝効果も高いと思うんだ」

 中学二年になった凡人が考え付く限られた選択肢。そんな苦し紛れの提案だったが、鞘音は「うん」と了承してくれる。

 四月下旬の河川敷を鞘音が歩くだけで、もはや青春映画の一シーン。エミ姉から借りたビデオカメラを使い、監督気取りの男が被写体の笑顔を写した。

 優美な背景を魅力的に彩る幼馴染みの姿に、カメラを持つ手が打ち震えてしまう。

「ごめん……手ブレしちゃったから、菜の花畑のシーンを撮り直したいんだけど」

「はっ?」

 笑顔が睨にらみに切り替わって怖いよぉ……。

「……笑顔ってかなり疲れるの。慣れてないから」

 文句を呟つぶやきながらも、鞘音は最初の位置に戻ってくれた。菜の花畑を無邪気に歩き回る女の子を、何度でも撮り直したいとさえ思うよ。

 この幸せな時間が、何度でもやり直せたらいいのに。

 大人になんか、ならなければいいのに。

 ……………………

 …………

「ちゃんと撮れ、ばか」

「うおっ……!?」

 ほぼゼロ距離からレンズを覗のぞき込まれ、ビビりを禁じ得ない。夢中……というか、恥ずかしながら魅了されていたので、鞘音の接近に全く気が付かなかったのだ。

「それじゃあ、サビは桜並木の前で撮ろう。ギターを弾きながら歌う自然体の鞘音を」

「……分かった。ちゃんとやるから、ちゃんと撮ってね」

 俺の浮ついた心を読み取ったのか、ジトっとした視線を受け取るものの、

「いつでもいい。いつでも歌える」

 アコースティックギターを構えると、瞬時に表情を引き締めた。アマチュアとは思えない洗練された空気感は、こんな心理を抱かせる。

 こんな片田舎で消える才能じゃない。

 大勢の人々を虜とりこにし、あるいは救い、溶けるほど熱狂させる使命があるんだ、と。

 ちゃんと撮るから。

 世界一と誇れるくらい可愛かわいらしく……記録と思い出に残すから。

 春の陽気に歌声を躍らせ、散り始めた花びらを纏まとい六弦を揺らす幼馴染みが──いつまでも隣にいますように。

 鞘音の使命と俺の願いは、共存が不可能だった。


 ******


 十月、時間稼ぎの青春は無情に経過していく。

 自室に引きこもり、闇雲に鍵盤と相対していた俺を気に病んだ鞘音が──背中に両手を添えてきた。演奏技術や編集技能を磨こうともせず、苦悩しているふりだけが上手うまい男へと。そして、ハリボテな劣等感や凝り固まった弱い心を包む、太陽の温ぬくもり。

 たぶん、怠惰な俺を背後から抱き締めている。

「わたしは独りだと何もできない。二人だから、ここまでやってこられた」

「さや……ね……」

「歌い始めたのも、ギターを弾き始めたのも、修を追っかけたのが始まりだったの。わたしたちなら、どんな夢だって叶かなえられる。どんなことでも、可能になる……そうでしょ?」

 そう思いたい。こいつに寄り添うと決めたときには、そう思って疑わなかった。

 予想以上に早かったのだ。

 天才と凡人の格差が浮き彫りになる瞬間が。

「修が作ったものなら、どんな曲でも歌う。〝be with you〟も、そうやって作り上げた」

「そう……だな。あのときと、同じ気持ちで──」

 もう、こんなに遠くまで来てしまった。

 鞘音のためだけに作っていた去年とは、責任の重さも期待値も違う。

 ……などと、逃げ道の口上を模索して陥るのは、底が見えない自己嫌悪の螺ら旋せん。

「二週間後……旅名川祭りでファーストライブをやろう。そして、今度は新曲をたくさん用意してさ、でかい箱でワンマンライブとかできたらいいな」

「うん……できる。きっと、修とならできる」

「今年の誕生日は、大したプレゼントもできないけどさ……」

 制服のポケットに忍ばせておいたものを、鞘音に手渡す。少し早い誕生日プレゼントは、春咲市の楽器店で買ったピック。中学生だからこんな安物しか買えない……新曲なんて到底無理だったから、せめてもの罪滅ぼしになればいい、と。

 鞘音から受け取る言葉は──ありがとう。

 今にも泣き崩れてしまいそうな脆もろい微笑ほほえみで、精一杯の感謝をくれる。

「来年の誕生日には、最高の曲を贈るよ。だから、待っていてほしい」

「うん……待ってるわ。約束した場所で、ずっと待ってる」

 すぐにでも、逃げ出したい。

 増大していく重圧に耐えうるだけの自信と才能が、ない。

 なのに、本心とは真逆の馬鹿な戯たわ言ごとを、どうして口走ってしまうのか。

 鞘音を安心させるためだけの綺き麗れいな言葉で、その場凌しのぎしかできない臆病者のくせに。

「……そういえば、修は携帯を買わないの?」

 おもむろに、鞘音はそんな問いを投げかけてくる。

「うーん。ウチは母さんが厳しいから、高校生になってからだろうな」

 俺の背中に接していた温もりと感触が遠ざかる。反射的に踵きびすを返すと、鞘音がメモ帳の切れ端に数字とローマ字を記入。やや視線を逸そらしつつ、その切れ端を差し出す。

「家電でしか連絡つかないの、すっごく不便だから……早く買ってもらって。わたし……メールとかトークアプリ……してみたいの」

 頰ほおを夕焼け色に完熟させた鞘音から、スマホの連絡先が書かれた切れ端を受け取った。

 ──卑ひ怯きようだろ。こんなタイミングで恋心を教えてくれるとかさ。過熱した心音が抑えきれないどころの騒ぎじゃないぞ。

 隣にいたい。いつもの不機嫌そうな顔も、恥じらった顔も、不意に笑った顔も、ぜんぶ好きな女の子だから──

「母さんに頼んでみるから、もし買ってもらえたら……真っ先に連絡するよ」

「……分かったわ。アドレス帳、誰も登録しないで待ってるね」

「いや、家族くらいは早く登録してやってくれ……」

 ほんの僅か。唇の両端をほんの僅かに上向かせるお前が、噓うそ偽りなく大好きだから。

 引き延ばしてしまう。

 俺はまた、無意味な時間稼ぎを繰り返してしまう。


 旅名川祭りで開催したファーストライブは、大盛況に終わった。

 ライブ動画が公式アカウントから拡散することで、鞘音の知名度は〝常識〟という天井を軽々と超越。人気の証あかしなのか、春咲市中心部の中高生が電車で旅名川を訪れ、学校帰りの鞘音を出待ちする行為も増え始めていた。

「鞘音は神経質だから、そういうのやめてもらっていいかな」

 執しつ拗ような輩やからには口頭で注意するも、

「あんたはSAYANEちゃんの何? 彼氏とか?」

「いや……幼馴染みだけど」

「あ~あ、ただ家が近いだけでSAYANEちゃんと親しいとか羨ましいね」

 ファンが何気なく発した嘆き。

 無意識に右拳が固く握られ、殴りかかりたい衝動に駆られる。

 行き場のない憤りは、図星の裏返し。俺の現在地を的確に表し、脆い心を覆う薄皮を剝はぎ取とられた焦燥と八つ当たり。

 情けない。格好悪い。だが、見返すための行動はしない。

 どうせ無理、才能がない、今さら努力しても遅い。

 自分に甘い奴やつに限って、他人から指摘されると無性に腹が立つ。

 言葉では鞘音を応援し続け、自分は苦悩しているふりを惰性で続けていた。


 ファーストライブから一ヵ月が過ぎ、三ヵ月、半年、九ヵ月。

 路肩の雑草は、ただただ、呼吸をしながら、無駄に身体からだを成長させながら、唯一無二の太陽を眺めているだけだった。

 いつの間にか義務教育の最上級生になり、こっちが敬語で話しかける相手は教師だけ。

「修……早く現実を見たほうがいいぞ」

 放課後に指導室で行われた進路調査の面談。俺は担任の先生に苦言を呈されていた。

「進路調査書には『作曲家』と書いてあったが、厳しい職種だと思う。食えるようになるには、一握りの才能と努力、そして運がないと無理だ」

「だから、これから頑張っていきたいんです。独学で勉強しながら、ネットに投稿したりして……」

「高校を卒業してからでは遅いのか? 今のご時世、中卒では苦労する。現実を見てから就職したいと考えたとき、学歴がないと選択肢が大幅に狭まるんだ」

 反論の余地もない正論を並べ立てる担任。生徒を思っての言い草なのに、ガキだった俺は反抗心しか湧かなかった。若かったのだ、外見以上に中身が。

「遅いんです。三年も無駄にしたら、鞘音は手の届かない距離に行ってしまう……」

「いいか、修。俺たち大人は、子供に〝夢を追え〟と発破をかけるが、同時に〝現実を見ろ〟と諦めさせようともする理不尽な生き物だ。鞘音は応援するに値するだけの可能性が既に伴っているが、お前はどうなんだ? 暇を持て余せば、成果を出せるのか?」

「それは…………」

 自らに甘い者の心情を見透かされている。

 時間があればあるだけ、先送りにしてしまうことを。

「お前は母子家庭だろ。堅実な進路のほうが、母親の負担も軽いんじゃないか?」

 正論をこれでもかと叩たたきつけられ、ついには黙秘権で逃げるしかない。

「もう六月も終わった。受験勉強するなら、早いに越したことはないからな」

 今思えば、担任は教え子第一の真っ当な人間だった。無駄に焦るだけの馬鹿は、子供の夢を頭ごなしに否定する糞くそなテンプレ大人としか感じなかったけど。

 高校を卒業してから音大か専門学校……なんて、悠長な余裕はない。これも言い訳。

「今の俺が鞘音と一緒にいられるのは、幼おさな馴な染じみとして生まれた運だけ……か」

 指導室から出ると、そんな自虐を呟いてしまう。

 夢見がちのくせに打たれ弱い男は、未来の目標を完全に見失っていた。

 大人を見返すために奮起する、という選択肢を脳内から消したまま。


 初夏に差し掛かると、春咲駅の駅前広場でストリートライブを決行する。新幹線が通る大型駅での本格デビューは、利用者が往来するだけの情景をがらりと一変。

 真夏の野外フェス。

 そう錯覚させる人間の大波、焦げ付く灼しやく熱ねつの歓喜が止まらない。

 SNSやライブ配信で告知しただけだが、ネットを通じて膨れ上がったファンが結集したため、ライブの大成功は必然だった。

 エミ姉やトミさん、母さんも歓声の一部となり、物静かな教頭まで見に来てくれた。

 インディーズの中学生が、知人以外の数百人以上を動員する。これが、どんなに凄すごい偉業なのか……同業者に聞けば一発で分かるだろう。手売りのために用意した百枚の自作CDが一瞬で足りなくなったのも、大きな成果と胸を張れる。

 エミ姉にバイオリンで協力してもらい、俺のキーボードと鞘音の声で既存のバラード曲をアレンジ。大勢の人が涙を流してくれたのを、生涯忘れることはない。

「最後の曲はオリジナルです。〝be with you〟」

 演奏された全五曲のうち、四曲がカバーソング。俺は、奥歯を嚙かみ締しめる。

 未いまだオリジナルが一曲だけという現状を歯は痒がゆく思い、自分の至らなさに苛いら立だち、熱気が渦巻くこの空間でただ一人……理不尽に募らせる自責の感情。

 鞘音は向こう側で、俺はこっち。

 俺は名もなき雑踏側の人間にしかなれないのだと、改めて思い知らされたのだ。

 運に恵まれた無能の夢物語も、そろそろ終わり。

 引き際を間違えたら、なおさら傷つくことになる。

 趣味の範はん疇ちゆうであるうちに、大空へ飛び立つ翼から落とされても軽傷で治るように〝自分の意志〟を告げなくてはならない。


 ストリートライブの翌日。

 俺たちは学校をサボった。とっくに散った桜並木と、枯れた菜の花畑を二人で眺めながら、熱い汗を振ふり撒まいたライブの余韻に浸る。いや、浸りたかった。

 今はただ、照り付ける夏の太陽が肌を炙あぶり、汗がシャツを濡ぬらす不快感だけ。

「わたしたち、どこまで行けるのかな? 高校生になっても、大学生になっても、その先も……ずっと、突っ走って行ける?」

 お前だけなら、行ける。どこまででも、飛んでいける。

 鞘音の代わりはいない。俺の代わりはいくらでも存在する。人気者に寄生し、自分も成し遂げた気になっているゴミカスは、あれから一曲も作っていない。

 動画・画像の撮影や編集、SNSの運営、ライブの許可取り、楽器の運搬、レコーディングの補助、労ねぎらいの声掛け……こんな程度、レコード会社や芸能事務所の下位互換。

 近い将来、専門職の大人に取って代わられることなんて分かりきっている。

「修……何か言ってよ」

 口を噤つぐんでいた俺の顔を覗のぞき込んでくる鞘音。

 無表情の仮面に隠れた不安の眼まな差ざしが、俺には分かってしまう。

「何か答えてよ……いつもみたいに応援して……修……」

 感じ取っていたんだ。底辺の葛藤に、時間稼ぎに、鞘音は薄々気付きながら──俺に笑顔を見せてくれていた。最高の歌を、届けてくれた。

「お前の人気と実力なら、地方のワンマンライブだって成功させられる。けどさ、今のままじゃ……すぐに限界は来てしまうんだ」

「わたしがもっと頑張ればいい。もっと、もっと歌って──」

「……違う。鞘音一人でこの先に進むか、俺の代わりが有能だったら良いだけの話だ」

 俺は自分の鞄かばんから、十枚以上のCD‐ROMを取り出す。

「この一年、鞘音が持ち込んでくれたデモテープ……俺がちゃんと完成させることができていたら、今ごろワンマンライブだって可能だったかもしれない」

「それは……でも、修も頑張って、悩んで……」

「努力しない凡人がたったの〝1〟で満足している間に、努力する天才は過去の結果を超えようとする。努力しているふりだけが上手うまい奴の傍かたわらで、お前は『結果』だけを提示して努力を示し続けているんだ」

 鞘音は押し黙るしかない。

 根拠のない浅はかな励ましが、かえって俺を追い詰めるのを悟っているから。

「お前は無意識に、俺のレベルまで下げた曲を考えていた。もっと凄い曲を生み出せるのに、俺の存在がお前の才能を殺しているんだよ」

「やめる……なんて言わないよね? わたしが求めてくれるなら曲を作るって……ずっと、隣を歩いてくれるって……」

 鞘音の声に涙が混じり、脆ぜい弱じやくに擦かすれていく。

「思い出作りの遊びにしては、楽しい夢を見させてもらったよ。でも、そろそろ受験勉強もしなきゃマズイしさ、ここら辺が俺の引き際かなって」

「噓……だよね、修。遊びだなんて……」

「現実見ようぜ? 口先だけの無能ほど、夢を語りたがるもんさ。そして、俺みたいに飽きやすくて諦めも早い」

「わたし、修となら本気で……どこまでも目指せるって……疑ってない。わたしは……わたしはぁ…………」

 好きな人が、言葉を紡げない。

 目尻から絶えず溢あふれる大粒の涙で、綺き麗れいな顔がぐちゃぐちゃに水没しているからだ。

「お前が全国的な有名人になったら自慢できるからなー。SAYANEの歌を作ったことがあるんだぜーって」

「………………い」

「まあ、プロの世界は才能があっても消える奴なんてゴロゴロいるし、お前が売れる保証なんてないけどさ。陰ながら応援させてもら──!?」

 痺しびれるような頰の痛み。

 同時に激しく視界が揺さぶられ、俺の軽口は打ち消された。


「だいっきらい!!」


 悲ひ愴そうと憤怒。

 その二つが混在した鋭角な両眼で睨にらみ付け、憎たらしい頰に叩きつけたのだ。

 走り去っていく鞘音を、傍観することしかできない。

 これで、いい。

 これで、あいつは一人でも歩いていくことができる。

 あいつは優しいから、無能の歩幅に合わせようとしてくる。それが、自分の才能を埋もれさせる結果になろうとも、厭いとわない。迷わない。

 俺が普通に身を引けば、あいつも音楽から離れてしまう。

 あいつは、そういう奴だから。

 優しい……本当に、俺にはもったいない素敵な女性だから。

「もっと聴かせてくれ……。俺以外と作った歌でもいいから……お前の声を」

 足あし手で纏まといが突き放してしまえば、新たな可能性が迎え入れてくれる。負けず嫌いなあいつは、意地でも頂点を目指す。軽薄な男の心無い軽口を、見返すために。

「ちくしょう……さや……ね……」

 これでよかったはずなのに、なぜ、俺の視界も濁ってしまうのだろう。

 胸が締め付けられて、ぶたれた頰ほおが痛すぎて、あいつがいなくなった河川敷に立ち尽くしながら、汚い嗚お咽えつを吐き出す。

 最初の逃避にして、最大の逃亡。

 努力しても追いつけないなら無駄。

 だったら、最初から真剣になるほうが馬鹿らしい。

 大学からも、バイトや就職からも、鞘音からも、逃げ続ける人生になった分岐点。

 俺たちが過ごした十五年は、一緒に育んだ思い出は──恋人より近くて遠い関係が生み出した春色の幻想。

 掛け替えのないこの場所で、短すぎた青春が──終わった。


 ******


 何日目だろうか。

 鍵盤に触れていた指が、受験勉強のペンを握るようになったのは。

 幼馴染みと会話すらしなくなったのは。

 同じクラスのはずなのに、二人は視線すら交差することはない。クラスの奴らは空気を察し、異様な光景に日々困惑している。

 毎日のように、ではない。俺と鞘音は、毎日一緒にいた。

 今は過去形だけれど。

 十月──卒業の気配が滲にじむ季節になっても、それは変わらない。旅名川祭りや鞘音の誕生日があろうと、終わった青春は二度と始まらないのだ。

 授業やHRホームルームをサボる悪癖が再発したらしく、担任の要望で俺がプリントを持って行かされることになったのは憂鬱だが、鞘音の家に届ければいいだけ。

 放課後。見知りすぎている庭に、あいつの三輪自転車がないことを確認。留守のタイミングを見計らって、鞘音の母さんにプリントを手渡す。

「あの子と何かあった?」

「いえ……特には」

 お茶を濁したが、思い詰めた様子で考え込む鞘音の母さん。

「最近の鞘音、すぐに出かけて行ってしまうのよ。まるで誰かを待っているみたいに、夜まで帰ってこないわ」

 ただ、屋外でギターを弾いているだけだろ。

 自分自身に、そう言い聞かせる。


 約束。これから先、進む道に迷うことがあったら……また、ここで会うこと。


 一年以上前の指切りが、鮮明にフラッシュバック。

 進む道に迷ったときに、俺たちが会うと約束した場所…………まさか、な。


 十月十五日──学校から帰宅し、埃ほこり塗まみれのキーボードが放置された自室にいると、外から聞こえてきたのは冷たい雨音。五分もすれば、平屋の屋根を雨粒が煩うるさく叩たたきつける。

 夕方だけど寒い。屋内にいても、暖房がなければ凍えるくらいに。

 今日は、鞘音の誕生日。

 俺の隣にあいつがいない、初めての誕生日。

「……くそっ!」

 苛いら々いらする。腕が小刻みに震えるのは、気温だけの問題じゃない。身体からだが、脳が、記憶が、未知の空白に戸惑っているのだろうか。さすがに、今日は室内にいるだろう。

 こんな日に外でギターを弾いているなんて、まともな人間の行動じゃないからな。

 ………………つまんねぇ。

 気を紛らわせるためテレビゲームをしても、空白が満たされることは絶対ない。

 教科書や参考書を開いてみても、集中などできはしなかった。

 脳内の漠然とした靄もやを洗い流すため、周囲の景色が霞かすむ土砂降りの中、傘を差しながら歩いてみる。あいつは関係ない。ただ、俺がそうしたかったから。

 いるわけがないんだよ。たいした用事もないのに、こんな悪天候で外出する奴やつなんか。

 ほんの数分で靴は水浸しになり、ズボンの裾も濡ぬれ雑巾みたいになった。近くを車が通る度、汚泥の水みず飛沫しぶきが襲う。

 もはや、ビニール傘など無意味な飾り。冷えた身体を無心に動かし、辿たどり着ついた旅名川大橋から河川敷を見下ろすと──

「何してんだよ……あいつ」

 俺は一歩ずつ後あと退ずさりしながら、絶句を禁じ得ない。


 鞘音が──ずぶ濡ぬれのまま、立ち尽くしているからだ。


 春には菜の花畑になるところも、現在は青々とした雑草地帯。泥水が点々と水みず溜たまりとして蔓延はびこり、春季の幻想的な面影など、どこにもありはしない。

 その殺風景な世界に、鞘音はひたすら立ち続ける。

 来ない誰かを、待っているかのように。以前から、約束していたかのように。


 来年の誕生日には、最高の曲を贈るよ。だから、待っていてほしい

 うん……待ってるわ。約束の場所で、ずっと待ってる


 馬鹿か、あいつは。

 こんな口約束を、叶かなうはずもない未来を、延々と信じているなんて。

 最悪な突き放し方をしたクズに、まだ夢を抱いているのか。

 やめてくれ。俺は、そんな人間じゃないから。

 お前の夢を応援しているふりをして、傷つく恐怖から逃げただけなんだ。

 絶望から逃げた奴を、希望で追わないでくれ。

 醜く腐れた心に、綺麗な面影で巣食わないでくれ。

 見ていられない。飴あめ細工より甘ったるくて脆もろい俺の心が──簡単に砕けてしまう。

 寒いだろう。

 惨めだろう。

 滑稽だろう。

 幼おさな馴な染じみをそんな姿にさせたのは、だれだ?

 一生、逃げられない。

 犯した大罪から、執しつ拗ように追いかけられる。

 それでも、逃げるしかない。俺は、幸せになる資格などない。

 好きな子を不幸にしておきながら、どうして真っ当な人生を歩めるのか。

 彼女に声をかける者は、いない。

 彼女が待っている人は、永遠に来ない。

 俺は、この場から逃げた。

 鞘音の頰を伝うのは雨粒なのか涙なのか。

 見ているのも辛つらくて、俺もあいつも、雨粒にすら押し潰されそうだった。

 この町には、至るところに鞘音との思い出がある。

 景色のすべてが、鋭利な刃物。

 離れたい。

 俺はもう、すべてから逃げたかった。


 三月──俺は東京の高校へ進学し、旅名川での人生を記憶から投棄。

 鞘音のメジャーデビューをネットで知ったのは、それから間もなくのことだった。