翌日──快晴の秋空が清すが々すがしい日曜日なのに、俺がいるのは近所の公民館。

 手足が小刻みに震えるほど肌寒い……それもそのはず。時刻は早朝の七時。夜型のニートにとっては、寝入りの時間と言っても過言ではない。

「眠いし……寒い。なんでチャリなんだよ……」

 公民館の職員もまだ出勤していないから、施錠された入口前の低い階段に腰掛けて待つ。

 なぜか「チャリで来い」と指定されたから、中学のときに使っていたママチャリを引っ張り出してきたけどさ。アホだろ、あの人。本当に昔から変わってない。

 昨日の夜、スマホへの着信を無視し続けていたら、家電にまで掛けてくる執念に根負けしたんだよ。

 ぶつぶつと文句を言っていると、

「おっ! 本当に来るとは思わなかったど!」

 うわっ! だっせぇ!

 ぐにゃりと曲げたカマキリハンドルや、フレームに十個以上は取り付けられた赤い反射板、後輪にはニケツ用のハブステップ……小学生だった時代は格好良く映ったものだが、今見ると激ダサすぎてヤバい。

 田舎ヤンキー仕様のチャリに蟹がに股またで跨またがったトミさんが、目の前に到着していた。

「いや……トミさんがしつこく誘ってくるから」

「まあ、断られても実家さ押しかけるけどな! それと、旅たび中ちゆうジャージってお前!」

「トミさんが『汚れても大丈夫な動きやすい服装』って言ったからでしょ! 運動部とは無縁だったから、中学のジャージしか見つからなかったんだよ!」

 相変わらずタチ悪りぃ……。トミさんなら実家に押しかけてくると悟ったから、嫌々ここに来たわけだが。

 寒い、眠いという感情以外に、俺が「怠だるい」と思う理由は他にもある。

 トミさんが肩に担いでいるのは……釣つり竿ざおを入れるロッドケース。収納が多い本格的なベストを着用し、防水ズボンに分厚い長靴、オッサン臭い帽子にサングラスというガチ装備とかヤバい。俺の旅中ジャージが物もの凄すごくチープで滑稽に思えてくる。

「釣り、行くど」

 あぁ……正真正銘の大馬鹿だよ、この人は。

 俺は無言で自分のチャリに跨り、滑らかに漕こぎ出だす。

「おいおいおいおいおい、逃げんなよ」

 しかし、あえなく捕獲。日頃から肉体労働しているトミさんにチャリの速度で勝てるわけがなく、速攻で追いつかれた!

「冗談じゃない! なんで大人の男二人がチャリで地元を爆走しなきゃいけないんだよ! 最悪釣りに行くとしても、トミさんの車で良いじゃん!」

「あははっ、車なんて邪道に決まってるべ。昔はチャリ移動が当たり前だっただろ?」

 笑いごとじゃないから。もう子供の無尽蔵な体力じゃないんだよ、少なくとも俺は。

「俺と修しゆうと鞘さや音ねで、チャリンコ暴走族を名乗ったこと忘れたか?」

 そんな過去は今すぐ抹消したい。

「手ぶらキャンプと地元で釣り、どっちがいい?」

「……釣りで」

「よっしゃ! お前ならそう言うと思ってたぜ!」

 ダム沿いの山道(約二十キロ)をひたすらチャリで登り、何も道具を持たずに野宿するという手ぶらキャンプ。今やったら死ねるし、当時も鞘音がブチ切れていたのを思い出す。

 スキー場近くの個人商店で食料を恵んでもらい、難を逃れたんだよなぁ……。

「……俺、釣り道具ないんだけど」

「糸と針とエサは貸すから、お前らの竿さおは木の棒とかで現地調達だど」

 だど、じゃねぇよ。一人だけ釣りガチ装備で来てんじゃねぇよ。そうやって、いつも俺と鞘音は呆あきれながら振り回されていた……ん?

 なんか今、複数形だったような。変な汗が……皮膚から滲にじんでくる。

「連絡シカトされたから、鞘音を強制連行しに行くべ」

 帰りてぇえええええええええええええええええええええええええええええええええ!!


「……馬鹿でしょ。行くわけないから。てか、実家に来ないで。チャリとかアホ丸出し」

 桐きり山やま家の玄関に突撃するも、明らかに寝起きの鞘音に半ギレされるトミさん。ノーメイクの不機嫌ヅラを叩たたきつけられ、邪険に扱われるが、面の皮が厚いトミさんは怯ひるまない。

 不本意ながら、俺も鞘音に同情する。この人はアホだと思う。

「しかも、修と一緒とか……」

 トミさんの背後にいた俺に対する困惑の視線。無意識に、俺も視線を逸そらしてしまう。

 昨日の一件もあるし、普通に気まずいよな……。しかも、俺と鞘音は恐らく同じ恥ずかしさを味わっているに違いない。

 服装が──もろに被かぶっているのだ。

 くっそ、こいつ、旅中ジャージを寝間着にするなよ! 余計な服は東京に置いてきたから、実家で着る部屋着が少ないのは察せるけどさ! 年頃の女はパジャマとか着てろ!

 芋臭い中学生が二人いるみたいじゃないか……。

「お前さぁ、中学あたりから素直じゃなくなったなぁ。昔は『トミお兄ちゃん』って呼んでいたくせにぃ~」

「む、昔の話でしょ……! くだらないことを蒸し返すな、バカ清!」

 ポコポコと叩かれるトミさん。

「とにかく帰って。もう子供じゃないんだから、あなたたちと遊ぶ理由なんてないの」

 追い返そうとする鞘音だったが、トミさんは切り札と言わんばかりに、スマホ画面を突き付ける。何やら、動画を再生し始めたようだが──

『──わたしのゆめは、しゅうくんのおよめさんになることです! しゅうくんとしあわせなかていをつくって、こどもはさんにんくらいほしいです!』

「なっ……はぁ……!?」

 女児らしき幼い声が流れた瞬間、眉間に悍おぞましいシワを刻んだ鞘音が、トミさんのスマホを搔かっ攫さらう。狩人かりゆうどのような仕事の速さだった。

 今の動画は……ひょっとして鞘音の幼少期?

「おいおい、修君よ。鞘音は子供が三人ぐれぇ欲しいってさぁ──」

「あっ! あっ! あっ! だまれだまれっ!」

 トミさんの軽口を必死に上書きしようとする鞘音。こんなに取り乱した形相をファンの前で晒さらしたことは絶対に無いだろうな……。

 世間のイメージは『寡黙な天才ソロアーティスト』だったはずだから。

「こんな動画をどこで……? わたしの親が撮影したやつなのに!」

「予あらかじめ、お前の親からデータをもらってたぜ。子供の頃のかわいい~鞘音の動画とか写真はまだまだあるべさぁ、お前が釣りに行かないなら俺んちで修と鑑賞会を開くどぉ」

 廊下を通りかかった鞘音の母さんが、両手を合わせて苦笑いの平謝り。

「十年以上も前のことだし~良いじゃない♪」

「良くないの!!」

 お茶ちや目めな母親にプンスカと怒る鞘音だったが、

「釣り! 行く! わたし、昔から釣りが大好きだったんだから!」

 狡こう猾かつなトミさんの前に屈服。恥辱に悶もだえながら頰ほおを紅潮させていた。過去の黒歴史は誰にでもあるし、大人になってから思い返すと恥ずかしいよね。

 動画の内容は俺にめちゃくちゃ関係あるけど、微妙な距離感がある鞘音との間には、もどかしくも殺伐とした奇妙な空気が滞留する。

 えぐい爆弾を放り込んでくれたな、トミさん……。

 後輩を手玉に取る術すべを会得しているから、俺も鞘音もあまり逆らえない。

 五分で身支度を整えた鞘音は、物置からピンク色の三輪自転車を発掘。俺の記憶が正しければ、お祖母ばあちゃんのお下がりだったはず。

 というより、旅中ジャージはそのままですか。服装が俺と同じなんですけど。

「うっわ、そのババくせぇチャリ懐かしいんだげど!」

「うるさい。黙れ。お祖母ちゃんのチャリは旅たび名な川がわ最速なのよ」

「なんか、お前のツンツンしたきつい口調も懐かしいな……」

「きもい。地元の恥晒しめ」

 トミさんのイジりを煩わしそうに流しつつ、後輪の上に備え付けられたカゴへ、タオルや飲み物などを置いた鞘音。

 どうしてお前は帰ってきた? どうして順調だった歌手活動を休止した?

 トミさんはそのような核心には一切触れない。あくまで昔のように、等身大のまま接しているように見えた。物事を深く考えないのか、単なるバカなのか。

 面倒で強引なところもあるけれど──俺も含めて、救われている部分は絶対にある。

「ほら、ぼさぼさするな。さっさと行くわよ」

 いつの間にか、鞘音は先頭に陣取ってリーダー気取り。ひたすら楽しかった昔の面影と重なり、俺は無意識に微笑ほほえんでいた。特に会話を交わしたわけでもないのに。

 戻ることはない過去の時間。この瞬間は紛まがい物ものであったとしても、数日で終わる夢だとしても、身を任せてしまおう。

 流されるまま生きて、辛つらいことからは逃げたい。そのほうが、楽だから。

 午前七時二十分、俺たちは鞘音の家をチャリで出発した。


 ******


 子供のときは行動力が有り余り、チャリがあれば日本列島のどこまででも行ける気がした。だがしかし、現在は旧町内を軽く走行するだけでも激しい動どう悸きと息切れ……翌日以降の筋肉痛が憂鬱で堪たまらない。

 地元の中学生みたいな格好の奴やつらが、口を真一文字に結んだまま水面みなもを見つめる。

 トミさんが釣りスポットに選んだのは、チャリで十分の場所にある池……とは呼べない水深一メートル程度の堀。畦あぜ道みちや小川から流水が集結し、水田の隅っこに溜たまっているのだ。濁った水面には枯れ草や木の枝が滞り、透明度は無いに等しい。

 昔はトミさんがアブラハヤを釣っていた穴場だが、今日はそんな余裕もなかった。

 拾った枝で作った釣り竿を片手に、無表情を維持しながら魚を待つ俺。

 隣には同じように、自作の竿で魚を待つ仏頂面の鞘音。

 俺の心境は困惑と疑問に支配されていた。魚など眼中になく、果てしない静寂に包まれた空気と戦わざるを得ない。ありえないだろ、この状況は。

 どうして! トミさんがいないのか!

 さっきまではトミさんを中継地に会話が成立し、二人だけの会話は一度もなかった。

 三人でチャリを漕いでいるときも、俺は空気抵抗を避けるランナーの如ごとく、トミさんの背後にぴたりと隠れていたし。

 エサの虫をとって来るからそれまで頑張ってくれ~とか、突然言い出したと思いきや、さっさといなくなってしまった。虫なんてエサ用の容器にたくさん蠢うごめいているのに……。

 やりやがった、やりやがったぞ、あの野郎。八年も先輩だけど、あの野郎。

 ……………………………………。

 ……………………。

 壊滅的に気まずいよう。

 たったの一分が一時間に感じる。時間の流れが遅い。虫の合唱と小川のせせらぎが異様に大きいと錯覚するほど。

 俺たちが立つ位置は絶妙に離れている。お互いが両手を広げても、指先が当たらないくらいに。これが二人に生じた亀裂の深しん淵えんであり、心の距離なんだと勝手に思う。

 手を伸ばし合っても届かないなら、片方が歩み寄るしかない。でも、離れるという選択をしたほうが傷つかない。

 逃げるのは簡単、苦悩から一時的に解放される麻薬のようなもの。快楽はやがて癖になり、逃げ続けていたらすべてを失う。今の俺みたいに。

 誰か、この空気を、変えてくれ。俺には、そんな勇気がないんだ。


「民衆は渇望シ、神を求めた者に舞い降リル。リーゼ、愚かナ人類の救世主メシアナリ」


 こう着状態を粉々に砕いたのは──派手なゴスロリ服を纏まとった外国人の少女だった。

 同時に振り返る俺と鞘音。広大な水田の風景に不似合いな西洋の少女は、釣り竿を剣か何かに見立てながら己の眼前に翳かざす。

 か、かっけぇ……じゃなくて、こんな田舎にこんな少女がいた記憶はないんですが。

「その竿……さっきまでバカ清が使っていたやつよね?」

 鞘音は少女に問いかける。言われてみると、トミさんが持参していた竿と同じなのは間違いない。なぜか、本格的なスピニングリールまで装着されているけど。

「この剣は争いを終結させル正義の力なノダ」

「ただの釣り竿にしか見えないんですが」

「釣つり竿ざおとしテモ、神秘の禍まが々まがしい力を放出できるゾ」

 俺のツッコミを、奇妙なカタコトで受け流す少女。トテトテと後方に下がり、挨拶代わりと言わんばかりに竿を垂直に振った。キャスティングだろう。

 こんな水溜まりみたいな堀でキャスティングする理由は──正直分からない。たぶん、ビジュアル重視だ。美しい弧を描いたエサが水面にダイブし、静かに沈んでいく。

 その僅か五秒後──

「ワッショイ!」

 少女が掛け声と共に竿を振り上げた瞬間、針に食いついた魚が宙を舞う!

 この少女、いとも簡単に釣りやがったのだ。この地で育った俺たちのバケツは空だというのに、余所よそ者ものっぽい少女が……アブラハヤを。

 啞あ然ぜんとする俺と鞘音へ見せつけるように、少女はアブラハヤを池にリリース。優しいね。

「リーゼと、遊ぶベシ!」

 小さな胸の前で十字を切り、そう告げた少女。

 あどけない純白の顔つきと低い身長から察するに、きっと中学年の小学生くらいかな。

「リーゼって名前なのか? リーゼ……? どこかで聞いたような……」

 記憶の海原を漁あさってみると、とある結論に辿たどり着つく。

 トミさんの釣り竿を持っていることも、こんな片田舎にいることも、絶妙なタイミングで現れたことも、説明できる結論。

「もしかして、トミさんの子供か!」

「えっ……!?」

 驚いたような鞘音と視線が交錯した。

「嫁のエミ姉はイギリス人だから、子供はハーフなんだよ。幼少期に抱っこさせてもらって以来だから、かなり成長してるけど」

「そのときは、わたしも抱っこした気がする。確か七年前くらい……リーゼって名前だったのは覚えているわ」

「そうそう。エミ姉の家に行って、リーゼと遊んだりしたんだよな」

 鞘音も覚えているみたいだし、トミさんの娘なのは確定した。

「トミさんに何か指示されただろ?」

「平民には何も言われてナイ。リーゼ、仲間を探しに荒野を流離さすらってイル孤高の存在。革命をもたラス救世主メシアとシテ、修行の旅をしているノダ」

 さらっと平民扱いのトミさん。いや、平民は正しいけどさ、普通はパパとかじゃない?

「ひょっとして、学校に友達いないのか?」

「友は作らナイ。弱くなってしまうかラナ」

 のどかな水田地帯を眺めながら黄昏たそがれるリーゼ。要するに『友達がいないからヒマなので流離っている』という認識でいいかな?

 あの夫婦、どんな育て方をしてるんだよ……。こんな不思議ちゃんに育ってさ……。

 しかし、リーゼの登場はかなり助かった。

 張り詰めていた緊張感が幾分か解ほぐれ、空気がほんの僅かだけ温まった気がする。マイナス二十度がマイナス十度になった、程度の実感だけど。

 とりあえず、リーゼを加えて釣りを再開させたのだが──

「……何してんだよ」

「……何か問題があるの?」

「……いや、別にいいけどさ」

 鞘音、小学生を放さない問題。自らの膝上にリーゼをちょこんと置き、覆おおい被かぶさるように座りながら釣りをしている。

「リーゼちゃんは、わたしと一緒にいるのが好きだよね~?」

「うむ、魅惑の香りがして心地よいゾ。平民はオヤジ臭いケド、サヤネは凄すごくイイ匂いと認めてヤル。操られた道化師のヨウニ、抱き締めて突き破りたい女ダナ」

「うわ~、何言ってるか分からないけど可愛かわいい~♪ 持って帰りた~い♪」

 瞳を蕩とろけさせて悶える鞘音。似合わない猫ねこ撫なで声ごえをやめろ。こいつは可愛い少女を見ると異様なテンションになるから『ロリ山』というあだ名を付けたこともある。

「ロリ山さんのロリコンぶりは健在か」

「は? 母性だって何回も言っていたでしょ。今度言ったら殴る」

 鬼の形相でちょっとキレられる……。

 それ以上の刺激を加えないように、黙って釣りに集中していると、

「うっ、うぐぐ……きゃっ……ぁあああ……」

 隣から小さな悲鳴が聞こえた。

 鞘音が無数に蠢くエサの虫を前に、青ざめた顔を晒さらす。

 虫を触れないこいつは、エサを付けることができない。エサを付ける担当のトミさんもいないし、どうしていいか分からない様子で狼狽うろたえているのだ。

「うい~」

「きゃああああ! 来ないで! ばか! ふざけないで! 殺す!」

 エサの虫をふざけて近づけると、

「うっ……!?」

 涙目の鞘音に痛烈な張り手を腹部へお見舞いされた。

 朝食が胃から戻ってくるかと思ったよ……。

 鞘音は人間相手だと強気だが、獰どう猛もうな犬や小さい虫は苦手としている。大抵は「子供の頃に怖かったから」という単純明快な理由だ。

 余計なお世話とは思いつつも、俺は自分のリュックを漁り、魚肉ソーセージを差し出す。

「……使うか?」

 鞘音の実家に向かう途中、立ち寄った商店で買った魚肉ソーセージ。鞘音はエサを触れないと思ったから、念のため買っておいたもの。

「……仕方ないから借りるわ」

 口だけはやたら偉そうなんですが。

 近付いてきた鞘音が遠慮しながら受け取ると、釣り針にソーセージの欠片かけらを付けて釣りを再開させた。何匹か釣ったリーゼはお腹なかが空すいたらしく「むむっ、もぐもぐ。腹が減ってハ聖戦もデキズ」と、余った魚肉ソーセージに齧かじりついている。

「……あなたってさ、魚釣ったことないでしょ」

「……お前もだろ。ミミズすら触れないくせに」

 なんか挑発されたので買い言葉。

 確かに、いつも釣っていたのはトミさんだけだが。

「ソーセージじゃ釣れないだけよ」

 言い訳いただきました。

「それじゃあ、虫をエサにすればいいじゃん」

「黙れ。話しかけないで」

 冷たく怒られる。

 ぽつぽつと、ぎこちない会話をしていると──

「おっ、やった」

 俺の竿さおを突つつく微かすかな感触。竿先を上げてみると、小さいアブラハヤが釣れた。ドヤ顔で鞘音のほうに視線を移したら、悔しそうに唇を嚙み締めているではありませんか。

 そういえば、昔から勝気の負けず嫌い。無言の対抗心をひしひしと浴びせられる。

「リーゼちゃん、ちょっと本気出すからごめんね」

 膝上にいたリーゼを隣に移動させて、ぐぐっと身を乗り出し、魚が潜んでいそうな奥のほうへ針を投げ込む鞘音。踏み出した足のつま先は、もはや浮いている状態だ。

 この小さい堀は幅が二メートルもない。水面近くの縁は雑草が湿っており、そんなところへ中途半端に足を置くと……

「鞘音、もうちょっと後ろに下がら──」

 親切心から忠告しようとした矢先!

 ぬかるんだ地面に足を取られ、心配した通り鞘音がバランスを崩す。条件反射。咄とつ嗟さに俺が身を支えようとするも、

 ────!!

 やっちまった……。二人仲良く、黒ずんだ堀に落ちてしまう。

 花火よりも豪快に舞い上がった水みず飛沫しぶき。俺たちは腰まで水に浸つかりながら、呆ぼう然ぜんと立ち尽くすしかなかった。

「…………最低ね」

「…………こっちの台詞せりふだ」

 水深が浅いのは周知の事実だが、二人とも薄汚れた水浸し状態は避けられず。旅中ジャージでよかった。高価な私服や靴だったら、立ち直れなかったかもしれない。

 スマホは防水だから、かろうじて大丈夫だったけどさ……。お互いの髪や顔には枯れ草が貼はり付いているし、全身が泥臭い……。

「リーゼ……手を貸してくれるとありがたい」

「却下。キタナイ」

 ひどい。小学生にすら見放された。

「ふふっ……」

 ふと、鞘音が口元を押さえて吹き出すように笑うが、

「ど、どうした?」

「いえ……なんでもないの。懐かしいなって……思っただけ」

 すぐに視線を逸そらし、居心地が悪そうに陸へと上がる。

 俺も──同じことを思っていた。毎日を楽しんでいた頃の既視感だとしたら、なおさら現状の虚むなしさと喪失感が辛つらい。お互い、五年前とは何もかもが違う。

 ぐちゃぐちゃに水を吸った旅中ジャージの二人は、水滴を垂らしながら陸に這はい上あがったのだが、

「うわっ、二人揃そろってきったねえなぁ! 水泳大会でもしてたんだべぇ?」

 待っていたのは、くっそ腹が立つ笑い声。小馬鹿にしながら戻ってきたトミさんに、妙な殺意を覚えたのは鞘音も同じだろうな!

「……寒い。このままだと風邪ひきそうよ」

 小刻みに震える鞘音。この季節に水浸しは、俺でも肌寒く感じるくらいだ。

「ジャージを絞れば大丈夫だど。タオルがあるなら身体からだも拭いて来ればいいべ?」

「この状態でいったん家に戻るとか、晒し者に近いわね……」

「ここら辺は稲刈りも終わって誰もいねぇから、土手の陰でも行って来ればいいべ? どうせ鳥とか犬猫しか見でねぇど!」

「そういう問題じゃないの。野外で服を脱ぐとか……もう、田舎者はこれだから嫌なのよ」

 いいべ? と平気で言い放つトミさんの図太さは見習いたいレベル。子供相手ならともかく、十九歳の女性相手に言えるのがまた凄すごいのだ。

 ずぶ濡ぬれの旅中ジャージ女が、三輪自転車で地元を爆走……近所の噂うわさになりそうな恥晒しを嫌い、泣く泣く観念した鞘音が、土手の陰へと身なりを整えに行った。

 堀の手前に残された俺とトミさん、そしてリーゼ。

「リーゼ! どっちが多く釣れるか親子対決するべな!」

「身の程を知レ、平民。略奪の限りを尽くシタ人類に救世主メシアの裁きを与エル」

「平民、じゃなくてパパ、だべ? はい、パパって呼んでみ?」

「お前ハ多重人格者」

「どこで育て方を間違ったんだべ……」

 親子仲良く(?)釣りをしている背後で、俺はジャージの上着を地道に絞る。土手の向こうには同様に、ジャージを脱いだ鞘音がいるはずだ。

 人通りがあまりないとはいえ、野外で下着姿になり、濡れた身体を念入りに拭く……そんな卑ひ猥わいな光景を妄想してしまうあたり、まだまだ健全な男子なんだなと。

 もしかしたら下着にも手を差し込み、纏まとわりついた汗や水分を撫なで回まわすように──

「へっへっへ、変なこと考えてんじゃねぇど~」

 へらへらと茶ちや化かしてきたトミさん。いや、あんたも絶対に考えていただろ。

「それにしても、鞘音とはちょっと話せるようになったんだな」

「あ……」

 トミさんに指摘され、ようやく自覚せざるを得ない。トミさんが不在の間、不器用ながらも会話はできていた。本当にぎこちなく、距離感も未いまだに遠いけれど。

「俺が間にいると、お前らはどうしても頼っちまうべ。だからといってタイマンは可哀かわい想そうだから、リーゼで引ひっ搔かき回まわしてやろうと思ってな」

「余計な……お世話だよ」

「そっか、そいつはすまねぇ」

 見透かしているのか、軽快な笑顔を見せるトミさん。俺は足元に視線を落とし、どう対処していいか分からない中途半端な感情を押し殺す。

 トミさんは奇跡でも信じているのだろうか。俺と鞘音が昔の関係に戻るなど、あり得るはずがないのに。無様に逃げたゴミクズを、あいつは許すはずがないから。

 数分ほど経たつと、むすっとした不機嫌丸出しの鞘音が戻ってきた。若干は湿り気が残っているが、時間の経過と比例して乾いていくだろう。

「鞘音ぇ、修がエロい妄想してたど」

「……最低ね」

 頰ほおを引きつらせた鞘音に、強く否定できない自分が情けない。

 というか、トミさん余計な茶々を入れるの勘弁して。ただでさえ底辺の如ごとく嫌われているのに、変態のイメージまで付加されたら手の施しようがないんだよ。

 その後──こぢんまりした釣りを昼下がりまで粘り、トミさんとリーゼだけが大漁だったのは言うまでもなかった。


 ******


「おっしゃ! ツーベースゥ!」

 午後の晴天に、バカっぽい元気な雄お叫たけびが木霊する。公園と括くくるには遊具がなく、空き地と括るにしてもおこがましい粗末な場所で。

 市が管理する赤レンガの倉庫をバックネットとして代用し、雑草や石ころだらけの荒れた大地を駆け抜けたトミさんがガッツポーズを決めた。

 おかしいだろ、これは。釣りを終えたら直帰するのが普通じゃないのか。

 ベース代わりの平たい岩を拾い、野球のダイヤモンドに倣って配置しただけ。ツーベースを打ったトミさんは、ベース代わりの岩石に右足を乗せている。

 そのすぐ後ろには、野菜を栽培する畑や民家……緩やかな流水の堀も横切っていた。


 悪条件の宝庫と呼ぶべき空き地で──キックベースをしている馬鹿どもがいるってよ。


 ルールは野球と大差ないが、守備チームがサッカーボールを転がし、攻撃チームがボールを蹴って塁を進めるのがキックベース。ノーバウンドでボールを捕られるか、塁を踏む前にボールを当てられたらアウト……そんなことはどうでもいい。

 四人のうち二人が成人、一人は今月の誕生日を以もつて成人。しかも、野球じゃなくキックベースというのがシュールさに拍車をかける。

「ココはかつて……オルレアンと呼ばれてイタ聖地ナノダ」

「昔から田舎の荒地だど。てか、お前を海外に連れて行ったことねぇべや?」

 リーゼにはオルレアンに見えるらしい。海外に行ったこともないのに。

 攻撃チームのキッカーは俺。相対する転がしマンは鞘音。男子対女子のチーム分けは、一見するとパワーがある男子有利に思えるのだが……。

「おい、修! 思いっきり蹴るんじゃねぇど! 上手うまい感じで頼む!」

「いや……かなり難しい注文なんだけど」

 岩に立つトミさんから注文を受けるも、冷静に考えると難易度が高い。

 外野に相当する場所には、他人の畑や民家がある。守備の穴を巧みに突くポテンヒットか、ゴロでの内野安打を狙うのがセオリーなのだ。

 だから、男子のメリットは皆無に等しい。

「畑や民家にボールが入ったら、土下座で謝罪してくるのよ?」

 鞘音が精神攻撃を仕掛けてきた。こいつ、負けず嫌いすぎだろ。

 実際、民家にボールが入ったときは、家主に謝りながら回収させてもらったことを思い出す。内緒で畑に踏み入り、頑固な年寄りに雷を落とされたりもした。

 子供だから大目に見てもらっていたけど、さすがに今はきついよな……。

 暗殺者も真っ青な眼光の鞘音が、ボウリングの要領でボールを転がす。

「なにっ!?」

 岩石や雑草で歪いびつな地面は、ボールに対して不規則な道筋を演出。俺が振り上げたキックはボールの芯を外し、鞘音の手元へ転々と力無く転がった。

 難なくキャッチした鞘音は──一塁の岩石に走っていた俺の方向に大ジャンプ。

 一瞬も躊ちゆう躇ちよすることもなく、

「……消し飛んで」

「うあぁ……! いたっ……!」

 全力のジャンピングスローを、俺の背中にブチ込んできた!!

 子供用の柔らかいボールだが、背中全体が痺しびれるくらいの絶妙な痛さが襲う。

「釣りで見せた勝ち誇った顔、忘れてないから」

 鞘音は女王の如く俺を見み下おろし、そう言い放つ。まさか、釣りでのドヤ顔が悔しくて復ふく讐しゆうしてくるなんて……相変わらず執念深い女だ。

 やり返してやりたいが、日頃の運動不足が祟たたり始めてきた。チャリ移動や釣りで蓄積された疲労が、下半身に重りとなって積み重なっていく。

「おいおい修! ふざけてんじゃねぇど!」

 ふざけてねぇよ……。真面目にやっても、この有様なんだ。

「リーゼ! 待て! パパには優しくしてけろ! あっ!」

「平民の貴様に選択肢はナイ。聖戦は間もなく終末を迎えるダロウ」

 ボールを容赦なく顔面にぶつけられるトミさん。笑いたいのは山々なんだけど、キックベースの前半で既に疲ひ労ろう困こん憊ぱい……格好悪すぎて泣けてくる。

 試合は速いペースで進行。お日様も傾いてきたし、適当に終わらせて帰りたいのに。

 キッカーの鞘音から「本気でやれよ」みたいな圧力を浴びる。こいつは遊びだと思っていない。俺を捻ひねり潰したい、絶対に負けたくないという強固な信念が、彼女を突き動かす。

「適当に終わらせたい、とか思っているんでしょ?」

 図星を突かれ、無意識に息を吞のむ。

「……そういうところが嫌いなのよ」

 顔をしかめながら、苛いら立だつ鞘音はそう吐き捨てた。

 遥はるかなる頂への〝挑戦〟を受け入れた女。小さな〝挑戦〟から逃げ出した男。こんなお遊びですら、明確な差を意識させられてしまうなんて。

 俺が力無く転がしたボールは──遥か彼方かなたへと消えていった。

 鞘音の憤怒が凝縮された特大のホームランによって。

「うわ~、あの家は……ケルベロスがいたべなぁ」

 不安そうに、眉を八の字にしながら呟つぶやくトミさん。

「……ボール、取ってくるわ」

 鞘音は慄おののいたような表情をすぐに隠し、ボールが消えた民家へと歩き出す。淡々とした態度を取り繕っていたが、瞳の奥に沈殿した濁りは誤ご魔ま化かせない。

 しかし、それを悟らせたくないから、鞘音は飾った冷静さを崩さないのだ。

 次第にあいつの後ろ姿は遠くなり、民家へと消えていく。

 心配する義理はないが、心が落ち着かない。あの民家には、あいつが苦手な──

「きゃああああああああああああああああああああああああ……!!」

 猛犬の執しつ拗ような遠とお吠ぼえと、鞘音の悲鳴が響き渡った。

 やっぱり……予想通りとはこのことか。あの家は老夫婦が住んでおり、活発な雑種犬(勝手にケルベロスと命名)が庭で飼われているのは近所で有名。幼少期の鞘音がお気に入りのスカートを嚙かまれ、泣なき喚わめいていたのは鮮明に覚えている。

「こういうときは誰が助けに行くんだっけなぁ~? まぁ~た服を嚙み千切られるど?」

 あのアラサー男、ニヤニヤと口角を上げている。俺が何を考えているのか、すべてお見通しだと言わんばかりに。

 足取りは地に縛られたように重い。俺もあいつも、境遇が変わってしまった。

 でも……あいつは鞘音。俺の隣にいてくれた桐山鞘音なのだ。

 負けず嫌いなところも、子供に興奮するところも、虫や猛犬を怖がるところも──俺の感情を複雑に搔かき乱みだせるのは、今も昔も、あいつしかいない。

「いつまでも世話が焼けるな……」

 渋々ながら『様子を見に行ってやる感』で取り繕い、鞘音がいる民家のほうへ駆け出す。

 高齢の家主は耳が遠いから、手助けしてくれたりはしないのは分かっている。

「あらぁ~旅中のわらしこ? さっきも中学生の女おな子ごが来たっけなぁ~?」

 俺もそいつも現役中学生ではない。いちいち訂正が面倒だから、苦笑いで誤魔化した。

 身振り手振りで許可をとり、敷地に入らせてもらうと、

「うっ……うわぁ……」

 鞘音は後ずさりしながらも、犬と駆け引きしていた。ビビり顔をもっと堪能していたいが、ボールを足元に確保した猛犬は威嚇をやめる気配がない。

「きゃっ……!」

 吠ほえられるたびに、肩を震わせている鞘音。

「俺がとってくるよ」

 その横を通り過ぎた俺は、足元にじゃれついてくる猛犬を宥なだめながら、ボールの所有権を奪い返した。この犬、だいぶ年老いていたけど、俺の匂いを覚えていてくれたのかな。

 家主にボールを見せて会釈し、足早に敷地から立ち去る。異様に大人しくなった鞘音は口を噤つぐんだまま、俺の背後にピタリとくっ付いてきたが、

「……面倒な構ってちゃん女でしょ」

 絞り出した小声での自虐。

「……触れるエサを持参しなかったり、ケルベロスに一人で挑んで泣きべそかいたり……性懲りもなく学校でギターを弾いたり……」

 今更だろう。俺にとっては、幼おさな馴な染じみの鞘音そのものだ。

「……あなたは、そんなわたしの前に現れる。いつも、優しく手を差し伸べてくれる」

 ────背中に感じる僅かな感触。

 たぶん、俺が着ていた旅中ジャージの裾を、ぎゅっと握っている。


「だからわたしは、今でもあなたを待ってしまう」


 震える手で、懸命に。プライドを押し殺して、だ。

 希薄な希望的観測。

 噂うわさを聞いた俺が現れるかもしれないから、学校で歌っていた……とでも言うつもりなのか。冗談だろ。やめてくれ。

 紛らわしい曖昧な信頼と執着は──無能を惨めに勘違いさせてしまう。

「……ごめんね、助かった」

 細ささやかに、恥じらいを含み、鞘音が呟く。聞こえるか聞こえないかくらいの声量で。

「……気にするな。昔からそうだっただろ」

 胸元が──高熱を帯びて躍動した気がした。反応に困ったから、無愛想で格好つけた台詞せりふしか返せなかったけれど。

 鉄の檻おりから脆ぜい弱じやくさを溢こぼしてしまう少女に、俺はかつての気持ちを重ねてしまう。

「ジャージ……湿ってる。臭い」

「お前のせいだろ……」

 ムードぶち壊し。一言余計なんだよ。