プロローグ


 別に──いつ死んでもいい。

 青春から逃げたゴミクズの末路など、所詮そんなものだ。


 漠然と自虐的に思い耽ふけったのは、病院で余命宣告に等しい説明を受けた瞬間だった。


 白衣の医者が醸し出す重苦しい空気。それ以降の長なが台詞ぜりふは右から左に抜け落ち、薬臭い正方形の診察室から去った後でも、虚無感すら抱かない。抱けない。

 自分で料金を支払っていないスマホ。

 流行はやりのソシャゲやアニメ情報を画面越しにチェックしながら、駐車していた軽トラックの助手席で空っぽな思考回路を働かせる。

 やべっ、デイリーの任務を忘れるところだった。

 早めに長時間遠征も出しとくか。レベルを上げておかないとイベントがきついし。

 もう秋アニメかよ……。夏アニメもあまり消化できてないのに。

 毎日毎日、毎日毎日、延々と。

 寝ているとき以外は、こんなことにしか思考を使わない。

 余命なんて宣告されたとしても──底辺の思考回路は、微々たりとも変動しないのだ。

「ヒマならエンジンかけて暖房入れろや。さみぃっつーの、ボケ息子」

 運転席側のドアが雑に開いたと思いきや、不機嫌そうに眉をひそめた女性が乗ってきた。

 ローズブラウンのロングヘアーは寝癖で波打ち、耳元には煌きらめくピアス。

 色落ちしたデニムを穿はき、メンズ向けのダウンベストを着込み、薄汚れたスニーカーの靴底を足元のペダルに置いている。

 俺はスマホ弄いじりを止やめず、液晶画面を凝視しながら、

「どこ行ってきたの?」

 そのアラフォー女……じゃなくて、自分の母親に問いかけた。

「……あぁ? コンビニでコーヒーと肉まん買ってきたんだよ」

「それだけにしては、少し遅かった気がするけど」

「うっせ。二分くらいしか経たってねーだろ」

 いや、十五分以上は待った気が。子供っぽい母さんは二分と言い張るだろうけど。

 威圧的な台詞の節々や、無駄にしかめた表情が元ヤンの名残を感じさせた。母さんは軽トラのエンジンをかけ、車内の暖房を強めに変更。

 コンビニ袋を漁あさり、もう一つの肉まんを差し出してきた。

「一個食べていーぞ。聖母のように優しーい母に感謝しながら食え」

「俺、金持ってきてないんですが」

「んなもん最初はなから期待してねぇ。お前がアタシに金払ったことなんて一回もねーだろ。いつもポチポチと弄くってるケータイ代も、今日の診察代も誰が払ってると思ってんだ?」

 当然の如く鼻で笑われた。ぐうの音も出ない、マジで。

 香ばしい肉ダネの湯気を鼻び腔こうに浴びながら、二つに割った肉まんの片割れに齧かじりつく。

 自分以外の金で食べるご飯は美味うまい。情けない、惨め、なんて負の感情は、だいぶ前に消え去った。親に奢おごられる肉まんは禁忌の美味。親の金でするソシャゲは罪深い。

 自らの分を食べ終えた母さんは、軽トラのギアを手て馴なれた動作でチェンジ。総合病院の駐車場から車を発進させ──

「うわっああぁ!? ぐあっ!? な、ななな、なにっ!?」

 発進した瞬間に豪快なエンスト!!

 前後左右の大きな振動に見舞われ、俺は情けない悲鳴を漏らしてしまう。ほんの数秒で揺れは止まったものの、俺も母さんもダッシュボードに突っ伏していた。

 エンストなど自動車学校で経験して以来だし、日頃からMT車に乗り慣れている母さんがやらかしたのは、俺の知る限りたぶん初めて……だと思う。

「……勘弁してよ」

「……チッ、うっせ。昔からドジっ子なんだよ」

 それ以上ツッコむな、イジるな、殺すぞ、みたいな舌打ちと猛獣の眼光は、ドジっ子のそれじゃない。拳が飛んできそうなので、とりあえず口を噤つぐんでおいた。

 気を引き締めた母さんが、今度は軽快に車を発進。家の方角へハンドルを切る。

「……ねえ、母さん」

「んだよ? まさか具合でも悪くなったか?」

 珍しく心配そうな母さんに罪悪感を抱きながらも、

「せっかく市内に来たんだから、TATSUYAに寄ってください!」

「は? 窓から放り出すぞ」

 両手を合わせて頭を下げると、母さんは煩わしそうにレンタルショップへ進路をとってくれた。なんだかんだ、優しくて甘い。顔に似合わず、と言うと怒られるけど。

 漫画本やゲームソフトを母さんの支払いで買い込み、早く帰りたい運転主に急せかされながら市内の中心地を去る。

 四十分くらい車を走らせると、風景の大部分を水田や森林が支配するようになった。

 稲刈りも終わりかけの季節。

 既に水は抜き取られた大半の水田が、乾いた土色に変貌している。チェーン店などは存在せず、個人商店や食堂、小さい旅館が疎まばらにあるだけの田舎道。

 アウターを羽織らないと肌寒い。二の腕に浮き立つ鳥肌、雲から顔を覗のぞかせる太陽の暖かさ、飛び交い合唱する秋の虫たち、道路脇に群がる枯れ草、ローカル線路沿いに生い茂る秋色の木々や鮮やかな葉っぱ……この情景が、感覚が、色彩が、すべて懐かしい。

「おい! 相沢のジジイ! 稲刈り手伝ってやろーか?」

 運転席の窓を開け、道路を走っていたコンバインへ追い抜きざまに雑談を浴びせかけた母さん。近所に住む爺じいさん相手だから、和やかな軽口を言い合っているのだ。

 俺は可能な限り、身を屈かがめて姿を隠していたけれど。

 だって、嫌でしょ。働いてもいないやつが、地元の人たちに姿を晒さらすのは。


 松まつ本もとさんちの息子さん、久しぶりに見た!

 あぁ~、働かないで実家にいるんだっけ? これからどうするんだろうね?


 世間話の種になることが容易に想像できてしまう。

 思考が淀よどんでいるうちに、こぢんまりした平屋の自宅に到着。庭の端っこへ雑に駐車した母さんは、そっとキーを回してエンジンを切り、サイドブレーキをギギっと引いた。

「手術……するんだろ?」

 さっきまではヘラヘラと陽気だった人が、やや声色を落としながら尋ねてくる。喉の奥に痞つかえた異物を吐き出すかのように。

「まだ決めてない。ちょっとだけ……考えさせてほしいと思ってる」

「……そっか」

 怒られるかと覚悟したが、意外にも軽薄な反応で戸惑う。運転席のドアを開けて下車した母さんは、足早に実家へと戻っていった。

 まあ、じっくり考えな──そう言い残して。

 鼻を撫なでる不快な残り香は煙草たばこ。恐らく、さっきまで運転していた人のもの。容姿や言動はヤンキー崩れだが、酒や煙草は避けていると思っていた。

 嗜たしなんでいる姿を見たことがないからだ。

 いや、一度だけ、微かすかな記憶の奥底に眠る面影。あれは、いつのことだったかな。俺がまだ幼くて、父さんが病気で亡くなった頃だったような気がする。

 そのときの母さんは、瞼まぶたを腫らしながら土砂降りのように泣いていた。

 ……まあ、無理に思い出すことじゃないか。


 ゲームや漫画本が散乱した自室に戻った俺は、昼下がりにも拘かかわらずカーテンを閉め切る。ベッドに転がり、買ったばかりの漫画本を熟読。

 漫画を読み終えたら、今日は朝までゲーム三昧だな……と、いつもの行動パターンを思い浮かべるも、時間潰しの娯楽に隠れた虚むなしさ。

 なぜ、今の俺は妙な冷静さを保っているのか。

 レアキャラが出ないソシャゲのガチャに苛いら立だったり、煙草の匂いに気付いたり、遠い過去を思い返したりできるのだろう。地元の町を懐かしいと感じられるのだろう。

 他人ひと事ごとだとでも思っているのか。客観視している自分に酔っているのか。

 手術をしても、五年生存率は三十パーセント前後。根治は実質不可能らしく、何も手を施さなければ、半年から一年ほどで命を落とす可能性もある。

 働かずに飯を食べて、時間をゲームやネットで喰くい潰し、排せつ物を製造し、特に疲れてもいないのに眠るだけ。入院や延命手術なんてする必要はない。

 仕事も恋愛もしない無価値な人間に、親の貴重な金を使わせることが無駄なのだ、と。

 二十歳はたちの無職引きこもり男。

 名前は松本修しゆう。

 夢もなく、目標もなく、打ち込めるほどの趣味もなく、最低限の税金すら納めないという、すぐに消えても差し支えない存在。

 延命したところで、再発しなかったところで、この無意味な人生が期間延長するだけ。


 だから別に──いつ死んでもいい。

 青春から逃げたゴミクズの末路など、所詮そんなものだ。


 ******


「今日は大丈夫……か」

 翌日──昼下がりでも薄暗い自室で目を覚ます。

 体調に大きな変化はなく、いつもの日常と変わらない遅めの起床。一週間ほど前、起床したと同時に鈍い頭痛と吐き気に襲われたことが、精密検査を受けたきっかけ。

 てっきり、近隣住民のコネで内定をもらった工場の入社日が間近だから、精神的なストレスが原因だと安易に考えていた。

 入社前の健康診断で医師に相談してみると、市内にある総合病院への受診を勧められ、昨日の結果に至る。どさくさに紛れて、工場も内定辞退してしまったけど。

「夜勤とか三交替制とか、残業四十時間……寿命縮むだろ……」

 余命宣告されたお前が何言ってんの、という感じのくだらない言い訳。半年も実家にこもっていると、逃げ癖にも磨きがかかる。

 どうして一日、九時間も拘束されなきゃいけないんだよ。週に五日以上も労働しなきゃいけないんだよ。休日でも同僚と社員旅行とか飲み会とか、きつすぎるだろ……。

 かといって、すんなりホワイト企業に就職できるとも思えない。

 大学中退の理由も深堀りされるだろうし、給料や休日が魅力的だからなんて正直に話せば不採用。普通の生活をするための労働なのに……意味が分からねぇ。

 生きていても仕方ないな、俺。

 台所に足を運ぶと、テーブルにはラップをかけられた炒ちやー飯はんが置かれていた。母さんが作る料理は、男が好きそうなものが大半。というか、本人が好きなのだ。

 黄金の卵に包まれたパラパラの米粒や、焦がし醬しよう油ゆで炒いためた香ばしい風味が食欲をそそる。ヤンキーが作る炒飯は、特に美味い法則……間違いない。

「依い夜よ莉りさーん、牛乳置いとくどー」

 玄関から響くのは、聞き覚えのある中年男性の声。知人の親だ。台所にいた俺の気配を母さんだと勘違いしたんだろうが、昼間は仕事に行っているから基本は不在だよ。

 まあ、俺の場合は居留守を使うよね。地元の住民とは極力絡みたくないのが、ニートの性さがだもん。俺は台所の景色に擬態し、息を押し殺す。

 見つかったら絶対に面倒だ。早く帰れ、帰れ。届けに来たビン牛乳を置いて帰れ。

「あっ、修くんかぁ! 大きくなったっちゃあ!」

 ばっちり目が合う。うわぁ、見つかってしまった。玄関から微妙に台所が覗ける間取りなので、さすがに無視するわけにもいかず、俺はのろのろと玄関へ。

 記憶に残る姿より老けたオッサンへ軽く会釈しながら、当たり障りのない挨拶をした。

「依夜莉さんには『東京の大学に行った』って聞いてたんだけども、今は帰省してるの?」

「いえ……中退しました。半年前くらいに実家へ戻ったって感じです」

 察したような苦笑いを返される。

「あっ……そうがぁ。田舎者でも聞き覚えがある有名な大学だったのになぁ。だげども、まだまだ若げぇし、実家でゆっくりと休むのも悪ぐねぇど!」

「そ、そうですね。ゆっくり職でも探そうかな、と」

「こごら辺だど、旅館か工場くらいしかねぇけどもね。あとは自分の車がないと、郊外で働くのも厳しいんでねぇがな」

 さすがに引きこもりニートとは言いい辛づらい……かと言って、噓うそをついても母さん経由でバレそうだから、最低限の現状は話すしかない。

 生気のない濁った瞳、薄うつすらと伸びた無精髭ひげ、肩に触れてしまいそうな髪、小汚い寝間着姿……自分からはニートの濃厚な出汁だしが抽出できる自信がある。

 ちなみにオッサンはもう定年退職し、現在は農業と牛乳配達を掛け持ちしているという。

 俺が子供の頃に中年だった人たちは、もうセカンドライフを意識する年齢か……。

「ウチの倅せがれとは連絡とってっか? 修くんが実家にいるのは知ってる?」

「いえ、知らないと思います。あの人はうるさく茶ちや化かしてきそうなので、できれば言わないでくださいね」

「分がった! 暇そうにしてっから、落ち着いたら遊んでやってけれ! とはいっても、子供がわんぱく盛りで苦労してるみたいだけどよぉ! オラにとっては可愛かわいい可愛い~孫だから、お爺じいちゃんとして甘やかしまぐってるげっども! それとな、孫が~」

 溺愛している孫トークに入ってしまったので、俺は愛想笑いの機械と化す。

 数分ほどの雑談を終え、牛乳屋のオッサンは次の宅配先へとバイクを飛ばした。

 どっと疲れたよ……。引きニートに一分以上の世間話は地獄だろ……。東京では近隣との交流など皆無だったのに、地元は平気でヘラヘラと話しかけてくるからな。つらい。


 受け取ったビン牛乳を冷蔵庫に並べてから、昼食のBGM代わりにテレビをつけた。

 しかし、この時間帯はドラマの再放送かワイドショーしかやっていない。

 適当にチャンネルを切り替えていると、ワイドショーの芸能ニュースに目が留まる。

 完全なる油断。俺の人生から切り離したはずの見知りすぎた顔と名前が──液晶画面に表示されているなんて。

『──いやぁ~、突然の活動休止には驚きましたねぇ。精神的な問題があるという発表でしたが……売れっ子の彼女に何があったんですかねぇ』

 そこで組まれていた特集と、司会者が発した言葉。俺は息を吞のみ、視線が釘くぎ付づけになり、昼食を食べる手が完全に停止していた。

 絶えず流れてくる曲が、歌声が、鼓膜を強制的に奮い立たせる。

 眠っていた意識を殴り起こしてしまう。

『──レーベルとの音楽性の違いに悩んでいた、という可能性もありますよ。彼女はまだ大学生なので、プロの音楽業界に適応できていないのでは? とも思ってしまいます』

『──インディーズ時代と比べると、最近は少し疲れているように感じたファンも多いそうですね。我々としても、あの素晴らしい歌声が聴けないのは非常に残念です』

 憶測と妄想の持論を述べるだけの解説者どもに苛立ってしまう。何も知らない連中が、ギャラ欲しさに好き勝手言うだけの低俗な空間。

 しかし、俺にも関係ない。あるわけがない。部外者が苛立つのも可笑おかしな話だ。知らない。俺は〝あいつ〟から──逃げた。なのに、こんなところにまで現れるなんて。

 俺の瞳に、耳に、記憶に……焼きついた面影と思い出が蘇よみがえってくる。

 SAYANEという芸名のシンガーソングライターが、でかい箱でライブをしている映像は、俺の手を離れてからの功績。そして、部外者になった俺にとっての未知。

 主要都市の単独ライブツアー、観光地での一万人フリーライブ……熱狂的な観客がプロとしての彼女に酔いしれていた。

「………………っ」

 俺は頭を抱えながら、容赦なくテレビを消した。

「おい、大丈夫か? 顔面真っ青だけどよ」

 ふと気が付くと、台所の入口に母さんが立っていた。地味な作業着とメッシュキャップ着用ということは、まだ仕事中ということだ。

 テレビに見入っていたため、母さんの来訪に気付かなかったらしい。

「いや、体調は大丈夫だよ。ちょっと考え事をしていただけだから」

「はぁ……驚かせんなよ、バカ息子。わざわざ心配して損したわ」

「あはは……ごめん。心配して様子を見に来てくれたの?」

「そりゃあ、まあ……アタシがいないときにぶっ倒れるかもしれねーだろ? 昼休みとか休憩時間にチラッと様子見に来るくらい楽勝だっつーの」

 安あん堵どした様子で深い息を吐つく母さん。自宅前の路肩には、近所のガス屋が使うトラックが駐車してある。この地域のプロパンガスを交換したり、灯油を売るのが母さんの仕事。

 地域唯一の小さなガス屋だから、ある程度は時間の融通も効くらしい(オラオラ系な母さんに対して従順な経営者と同僚オツサンしかいない、というのもあるけど)。

「あっ、そういえばよ、ガス交換しに行った菅かん野のさんちで聞いたんだが──」

 何かを思い出したかのように手を叩たたく母さん。

「あの子が実家に帰ってきてるらしーぞ」

「あ、あの子……とは?」

 嫌な予感しかない。俺の本能がそう告げている。

「お前、芸能ニュースとか見てねぇの? 活動を休止したらしいじゃん」

 さっき見た。ワイドショーはそいつの特集で忙しそうだった。

 さっき見たんだよ、それとまったく同じ話題を──


「桐きり山やまんちの鞘さや音ねちゃんに決まってんだろ」


 ああ、この世から早く消えてなくなりたい。

 露骨な時間稼ぎの末に与えられたのは、永遠にも等しい罰ゲームだ。


 ******


 ブンブン♪ ドッドッド♪


 うーん、うっせ……。


 ドン、ボボン、ブッブ、ズンズン♪


 ……………………うっせぇ!!


 数日前に頭痛と吐き気で目覚めた時とは、また別な意味での不快な目覚め。リズミカルな重低音がウーファーを経由し、冷たく乾いた空気を激しく振動させていた。

 時計は、まだ朝の八時。普段は寝ている時間だから、猛烈に眠いんだが…………。

 カーテンからチラリと屋外を覗いてみる。自宅前の路肩に駐車しているファミリー向けのワンボックスカー。いかにもやんちゃな若者が好きそうな車だ。近所の年寄りが驚くであろう軽快なヒップホップも、この車が発信源に決まっている。

 そして、こういう車や音楽が好きそうな知人に心当たりがあるんだけども!

「おーい! しゅうーっ!」

 車から降りてきた運転手の大柄な男。やめろ、大声で俺の名を呼ぶな。近所迷惑だし俺が恥ずかしいんだよ。さっさと帰れ。

「しゅう~く~ん。あっそぼ~」

 腹立つわぁ……。調子こいて手とか振ってんじゃねぇ。

 ヒップホップ男に気付かれないよう、カーテンを閉め切ったのだが、

「正まさ清きよっす! おじゃましまーす!」

 おいおいおい、今……玄関のほうから「お邪魔します」という冗談じゃない単語が──

「おおー、正清じゃねーか! てか、てめぇの車うっせぇっつーの! クソ田舎だからってイキってんじゃねぇ! 今の時代はエコカーか軽トラだっつってんだろ!」

「す、すんません! これでも娘ができてからは、だいぶ落ち着いたほうっす! ランクル売ってアルファードにしたっす!」

「マジで!? 今度はガキも連れてこいや!」

 母さんとヒップホップ男の雑談が平屋に響き渡る。なんか懐かしいやり取り……じゃなくて、面倒な予感しかしない。追い返せ、追い返してくれ母さん!

 しかし──

「おい、バカ息子。正清が来てっぞ」

 落雷と勘違いする轟ごう音おんで自室の扉が開放された。

「お前と遊びたいらしいが、どうすんだ? 体調悪いなら断っておいてやるけどよ」

「……体調は問題ないけど、気分的にちょっと──」

「お前が部屋から出てくるまで、家の前に居座るらしいぜ? 有給も二十日余ってるとかなんとか」

 うはぁ……マジか。

「ついでに、その伸びまくったウザったい髪も切ってこい。釣り銭はくれてやるからよ」

「……しょーがない。たまには遊んでくるかな!」

 ヒップホップ男の強引さに俺の強情さが負けてしまう。決して母さんに五千円をもらったからではない。金で釣られる安いニートじゃないんだよ。

 近所の床屋だとカットは千五百円……三千五百円の釣り銭は、貧乏な俺にとって大歓迎なのは否定できないが。

 汚らしい寝起き顔を洗って髭を剃そり、なんとか人前に出られる数少ない私服に着替えた。なんだかんだ、まだ二十歳。これで年相応の容姿に見えるだろうか。

「たまには日光浴びて、カビ臭い身体からだを綺き麗れいにしてこいや」

「……はぁ。行ってくるよ」

 俺は溜ため息いきを吐きながら家を出たものの、茶の間で新聞を読みながら見送る母さんは、やや嬉うれしそうに微笑を滲にじませていた。

 俺が誰かと遊びに行くなんて、本当に久しぶりだから……かな。

 路肩に停車している車に近寄り、運転席側の窓をノック。助手席に乗れ、的なジェスチャーを返されたので、反対側の助手席に乗車した。

 予想通り、車内はやかましい。ヤンキーがタオルを回していそうなノリが爆音で轟とどろくも、一ひと先まずは会話のために音量を下げるヒップホップ男。

 相変わらずの大柄なガタイに、ちょっと厳いかついツーブロックな短髪。これでも昔よりは地味になったけど、近所のヤンキー兄ちゃん感は健在だ。

「久しぶり、トミさん」

「久しぶりだなぁ、修! さっそぐで悪りぃけども──」

 母さんには敬語でへコヘコしているのに、年下の俺には訛なまり全開のタメ口なのが既に懐かしい。地元に帰ってきた、という感覚がより増幅した気がする。

 簡単な挨拶を済ませると、すぐさまシフトレバーをDドライブに切り替えて、

「ドライブさ行ぐべし!」

 春はる咲さき市・旅たび名な川がわ地区──旧旅名川町。

 温泉と大自然で構築された地元を巡るドライブに出発したのだった。


 豊とよ臣とみ正清……俺は「トミさん」と呼んでいる地元の先輩。俺が小学生くらいの頃に遊んでもらっていた近所の人で、年齢は八歳ほど離れている。

 こうしてちゃんと会ったのは、七年ぶりくらいだろうか。昔は毎日のように地元を遊び回っていたのだが、トミさんが就職等で多忙になったため、疎遠になっていた。

「トミさんはいちおう社会人なのに、朝から遊んでいいの? もしかして夜勤とか?」

「お前……曜日感覚すら無なくしたのか? 今日は土曜だからウチの工場は休み」

「正直、最近は曜日という概念が薄いかも。ずっと実家で過ごしている弊害だね……」

 そういえば、今日は母さんものんびりとしていたな。週末で休みだからか。

 トミさんが働いている自動車部品工場は、地元だと有名な下請け企業。繁忙期以外の土日は基本的に休日らしい。

「どうして俺が地元にいるのを知っていたの?」

 寂れた情景を窓越しに眺めながら、運転中のトミさんに問いかけた。

「はっはっは! ウチの親父おつとうが喋しやべったに決まってっぺや。田舎は狭いがら、近所の人に秘密事は迂う闊かつに話すもんじゃねーど?」

「はぁ……」

「たぶんウチの親父が配達した家は、お前がニートってもう知ってるかもしんねぇ」

 豪快に笑うトミさん。牛乳屋のジジィ……息子には言うなって釘くぎ刺したのに。あの人はトミさんの父親だから、あまり喋りたくなかったんだよなぁ。

 田舎のコミュニティ力を侮っていた。伝染病のように、すぐ噂うわさが広まってしまう。

 でも、無職ネタで話が膨らんだから、緊張は解ほぐれた気がする。以前みたいな距離感で喋れるか、少し不安だったから。

 さすがに病気のことは隠しつつ、お互いの近況報告をしながら車は旧町内を徘はい徊かいする。

「あれ? あそこって更地だったっけ?」

 最近はほとんど近づかなかった地区に差し掛かり、俺は更地のところを指さす。子供の頃の記憶が正しければ、民家があったはずなんだけど。

「あー、上谷の婆ばあちゃんちか? 一いず年ねん前まえくらいに亡くなって、もう誰も住まねぇから遺族が取り壊したってよ。今はもう売地になってるど」

「……そっか」

「子供は関東に住んでるから仕方ねぇげどな。こごら辺は仕事もそんなにねぇし、若げぇ奴やつらはほとんど都会に行っちまうのさ」

 まともな正社員求人もないし、最低賃金も七百円台の地域だから理解はできる。その後も車が走れば走るほど、数年前の記憶と異なる場所が現れた。

 パンクを直していた自転車屋、ジャンボ餃子ぎようざが売りだった食堂、住民の貴重な憩いの場だったらしいカラオケスナック……どれも建物に活気はなく、空き家と化していた。

「仕事を探してんだったら葬儀屋が良いんでね? 年寄りばかり増えでっから、儲もうかってしゃーない業界だべ?」

 トミさんは冗談交じりに笑うが、笑いごとじゃないぃー……。世知辛いというか、深刻な社会問題の最前線にいることを、ひしひしと感じてしまう。こうして町中を眺めてみても、歩いているのは子供より年寄りのほうが圧倒的に多い。

 春咲市の中心部なら公共施設も充実し、駅には新幹線も乗り入れしている。

 地元の旅名川町は合併により春咲市に編入されたが、電車は一時間に一本レベルだし、降雪も多いし、商業施設や病院も少ないから若者に不人気なのは仕方ない。

 リドルスターやウズエスーパーが潰れてからは、食料品の買い物も不便になった。

 地区の人口は千人にも満たず、平均年齢は五十代後半……名物の温泉や紅葉も、どちらかといえばシニア世代の好みだろう。

「でも、俺は地元が好きだからな。ここで結婚して、ここに新居を建てたしさ、もっと賑にぎやかな町にしてぇなぁって思ってる」

 この人はまだ二十八歳なのに、もうマイホームを買ったらしい。

 俺の感覚だと──結婚して子供を作り、マイホームを買うなど未知の世界すぎて。

「観光客はそれなりに来てるんじゃないかな。紅葉とか温泉は割と有名だし」

「それはそうだけども、若者がもっと永住してほしいなって思ってよ。だがら町内会には積極的に参加してっし、町内イベントの企画とか運営もやってるぜ」

「どうして、そこまでできるの?」

「だって生まれ育った地元だろ? このまま活気がなくなって、楽しかったものや思い出の場所が消えていくのは寂しいがらに決まってっぺ」

 感慨に浸った。こんなことを考えられる若者が、今の時代にどれだけいるだろうか。

 時代の流れという避けられない概念に逆らおうとする男……地元から逃げるように東京へ行った馬鹿もいるというのに。

「お前もヒマなら手伝えっちゃ。マジで若けぇ奴が足りてねぇから」

「勘弁して」

 光の速さで拒否った。普通に無理だから。

「そういえば、娘さんはもう何歳になったの?」

「今年で九歳だから小学三年生。確か、お前も会ったことあるべ?」

「俺が中学生くらいのときにね。あの頃は幼児だったのに、そうかぁ……あの子、もう九歳なんだ……」

「まあ、嫁と結婚したのが十九歳だったしな! すぐ子供作ったし、そんくらいだべさ」

 時の流れが速すぎて気が滅め入いった。俺の同級生も、そろそろ結婚している奴とか出てきそう。しかし──こうして駄だ弁べっていると、トミさんは変わってないなぁと安心する。

 多少の強引さで俺を引っ張り、陽気に笑ってくれる兄ちゃん。

 子供の頃にソリで滑ったスキー場までドライブしたり、家庭のことを色々話しているうちに、いつの間にか二時間ほど経たっていた。

「トミさんは凄すごいよ。堅実に人生を歩んでいるというか、お手本みたいに順調な家庭を築いているのが、凄く尊敬できる」

 俺たちが暮らす地区へと戻る道中、俺はそんなことを呟つぶやく。トミさんの幸せな家庭は俺にとって別世界のように煌きらめき、眩まばゆいくらいに輝いていたからだ。

「そんなことはねぇさ。あいつみたいに──夢を追い続けて、夢を叶かなえる人生も凄いと思うぞ。俺にはとても真似まねできねぇし」

「……………………」

 あいつ、というのが誰を指しているのか、俺にはすぐに分かった。だから、言葉を発することができない。

「……というか、この道知ってるんだけど。冗談だよね……?」

 心臓の鼓動が不協和音に変わった。帰りたい、もう帰りたい。

 トミさんの罠わなにハメられた。咄とつ嗟さにそう悟ったのは、周囲の風景が見覚えの塊になっていることに、遅ればせながら気付いたときだ。

 知ってるんだよ。この砂利道も、やけに木々が多い立地も、俺の家からも近い農家の豪邸も。砂利が敷き詰められた広い庭には、手入れされた松の木や鯉こいが泳ぐ池……倉庫にはトラクターやコンバインが格納されている。

「今から行くのは鞘音の実家。アポはとってねぇけどな」

「ふざけんな! 帰る!」

 俺は語気を荒らげて車から降りようとするも、もう庭に到着してしまっている。車内で身を伏せるように隠れながら、先に降りて行ったトミさんを見守った。

 不規則な貧乏揺すり。外気は寒いのに額から脂混じりの汗が滲にじみ出でる。

 ………………静かだ。震える身体がアウター服と擦こすれる雑音も、まったく耳に入ってこない。ああ、やめてくれ。留守であってくれ。

 俺は震えが止まらない足を揺すり、このまま逃げてしまおうか悩み続けた。

 数分後、トミさんが車内に戻ってくる。玄関を開けていたので、誰かしらとは話しているように見えたのだが……。

「なぁ、修」

「……な、なに?」

「鞘音の母ちゃん、相変わらず美人なんだげっども」

 八歳も先輩だけどバカだな、この人。

「俺さ、小学生の頃マジで惚ほれてたんだど?」

「どうでもいいよ」

「俺が独身だったら一夜の過ちワンナイトラブはあったかもしんねぇど」

「ないない」

「旅名川の男子中学生が性に目覚めるのは……お前の母ちゃんか、鞘音の母ちゃんを見た瞬間なんだど」

「おい、やめろ」

 無駄に神妙な顔でくだらないことを言うな。

「あーっ! なんで俺の母ちゃんはゴリラみたいなババアなんだべなぁ!? 鞘音の母ちゃーん! 来世では付き合ってくれぇーっ!」

 地元の恥はじ晒さらしかよー。

 トミさんの雄お叫たけびは予想以上にでかく、俺たちを見送るために庭へ出てきた鞘音の母さんに聞こえたと思う。というか、絶対に聞こえてる。苦笑いしてるし。

 ちなみに、ウチの母さんとは中学までの同級生らしい。

「あいつ、いなかったわ。どっかに出掛けてるって」

「はぁあああああああああああああ……」

 鋼より重い溜ため息いきが漏れ出た。ライブハウスの如ごとく騒いでいた心臓は、異様なほどの落ち着きを取り戻す。

「徒歩でどっかに行ったみてぇだげど、探してみっか? そんなに遠ぐには行ってねぇべ」

「いやいやいや、やめよう。まだ昼じゃないけど、どっかで飯でも食べて帰ろうよ」

「うーん、そうすっか」

 必死な俺に観念したのか、諦めたような相あい槌づちを打つトミさん。俺は胸を撫なで下おろしたものの、シャレになってないんだよ、この状況は……。何がしたいんだ、この人は。

 ふと、玄関前にいた鞘音の母さんが車に歩み寄ってきた。

「……俺?」

 助手席側に来たので、俺に用事があるのだろう。身を隠していたつもりだが、普通に見えていたようだ。ドアを静かに開き、ゆっくりと車外へ降りる。

「修くん、久しぶりね。元気にしてた?」

「ええ、まぁ……そちらも元気そうで安心しました」

 中学生以来の再会。この家にも頻繁に足を運んでいたから、何度も話したことはある。

 おっとりとした清せい楚そな美人で、垂れ下がった目尻が優しそうな印象。トミさんに同調するようで癪しやくだが、田舎の男子中学生には刺激が強そうだ。

 それに、風貌が似ている……鞘音と。この人の娘だから当然なんだろうけど。明確に違うのは、鞘音のほうが鋭利な眼光で勝気な性格だということ。

「昔みたいに鞘音と遊んであげてね。あの子、寂しがっていると思うから」

「もし会ったら、挨拶くらいはしておきます……」

 会いたくないとは言いい辛づらいので、歯切れの悪い返答しかできない。俺が会いたくないというよりは、向こうが願い下げだろうから。

 大学を辞めた等の世間話をした後、俺とトミさんは鞘音の実家を出発した。見送ってくれた鞘音の母さんに、小さく頭を下げて。

「まだ昼飯までは時間があるし『旅たび中ちゆう』でも寄ってくべ」

 そう提案するトミさん。

 あまり近づきたくない場所だけど、鞘音の実家に居座るよりはずっとマシか。

 一刻も早く、あいつと出会いやすい場所から離れるべきだと直感が叫ぶから。


 その後、地元の床屋に寄ってもらい、爽やかな髪型に整えてもらった。

 鏡に映った自分の姿を久々に見たが、肌は不健康そうに青白く、クセのある髪は伸び放題……嫌悪で直視できず、ひたすら雑誌を流し読みしていた。

 そんな寄り道を挟みつつ、目的地の道中にあった旅名川大橋に差し掛かる。

 今の時期、橋から眺める河川敷は殺風景。春ならば、色鮮やかな菜の花の絨じゆう毯たんが敷き詰められ、土手沿いには桃色の桜が咲き誇るのに。

「お前は知らねぇみたいだから言っておくが、旅中が今年度で廃校になるんだとさ」

「え……?」

 口頭でサラリと伝えられた割には、胸に重く伸のし掛かる事実だった。


 ******


 一見は古びた木造旅館みたいな建造物──しかし、ここは地元で唯一の中学校。

 俺たちがやってきたのは、母校の旅名川中学校だ。水田に囲まれた立地に佇たたずむ木造校舎と、壊れたバックネットや雑草が多い荒地……いや、グラウンド。

 プールなど存在しないから、夏場でもサッカーやバドミントンの体育だったな。

 車を止めた駐車場からは、校舎とグラウンドが見渡せる。数少ない部活の野球部と女子ソフト部のプレハブ部室も変わりない。オンボロ校舎の周りを少し歩くだけでも、当時の記憶が次々と映像になって思い浮かぶ。

「土曜だから、さすがに生徒はいねぇべなぁ。まあ、平日でも生徒数が少ねぇから、統廃合になったんだけども」

 自虐的に笑うトミさん。元々文化部は一つもないし、グラウンドには運動部の生徒すらいない。屋外の部活は野球部、特設の陸上部、あるいは冬限定のスキー部……俺たちの時代も生徒数は少なかったので、二つの部活を掛け持ちしている人もいた。

 懐かしいぃいいい……という感覚より、来年度には消えてしまう風景という虚無感のほうが勝る。俺の命が尽きるのと、どっちが早いのか……まあ、どうでもいいか。

 職員室に顔を出してみるが、誰もいなかった。施錠されていないということは、一人くらい出勤しているはずなんだけど。

「杉浦がいるって聞いてたんだげども、どこ行った~?」

「杉浦って教頭だった杉浦先生? トミさんも知ってるんだ」

「俺らんときは、担任で英語の教師だったからな。よく考えると、俺が知ってる教師はもう杉浦くらいしか残ってねぇべな」

 俺は五年前まで中学生だったけど、トミさんは十三年前だし当然か。

「こういうときは、あそこにいるんじゃねぇか?」

 トミさんには心当たりがあるらしい。そのまま校内の視聴覚室に案内され、

「おいーっす。おう、杉浦ここにいるんだべ?」

 トミさんは臆することもなく堂々と引き戸を開けた。元ヤンの面影が垣かい間ま見みえた言動はさておき、脱力しながら椅子に腰掛けていた教頭を発見。

「……なんだ? ビビるから……急にドアを開けるのはよろしくないんじゃないかー?」

 基本は眠そうな表情ながらも、若干驚いたように瞳を見開いた教頭。覚えている姿よりは豊齢線や白髪が濃くなっていたが、無気力そうな風貌や喋しやべり方は変わっていない。

 五十代後半という年齢を考えると、若く見える方だと思う。

「うわっ、変わってねぇな! 杉浦! 俺だよ、俺! 卒業生の豊臣正清!」

「……わ、分かった。分かったから……背中を叩たたかんでくれー」

 懐かしさのあまり、ぼんぼんと教頭の背中を叩くトミさん。ヤンキーに絡まれている中年サラリーマンと誤解されても仕方がない。

 カーテンを閉め切った部屋、プロジェクターから放たれている光、スクリーンに映し出されている洋画の一時停止……どうやら、映画鑑賞していたようだ。前後左右に設置してある音響設備も無駄に凝っているし、木造校舎内で唯一の防音仕様だったのも頷うなずける。

「杉浦はサボり魔な。授業するのが面倒だからって、自分が見たい洋画の字幕版を生徒に見せてたんだど」

「……人聞きの悪いことを言うなよー。特別授業の一環に決まってるじゃないかー」

「いきなりビートルズを語り始めて、授業時間を丸々潰したときもあったべ?」

「……あれも特別授業だー。彼らの偉大な楽曲は最高だぞー」

 物静かで絡みにくい教頭という印象だったけど、そんなにユニークな人だったのか。指導の一線から退いた今も、他人の目を盗んではここで洋画や洋楽を嗜たしなんでいたのだろう。

 教頭にとって旅中は、静かな隠れ家みたいな雰囲気だったのかもしれない。

「……でも、そろそろ部屋の整理を始めないといかんねー。取り壊しが決まってるから」

「この学校、三月で廃校になるんだべ? 杉浦はどうすんだ?」

「……うむ、引退する予定だー。大きい学校だと生徒が多いうえに、保護者や先生方も煩うるさいし、こんな風に好き勝手できないからねー」

「マジかっ! まあ、やる気のない杉浦らしいけどよ!」

「……やる気だけで給料が上がる時代じゃないからねー。好きなことをやって『楽しかったーっ』と思いながら、笑って死ねる人生でありたいもんだねー」

 笑って死ねる人生……か。俺には到底不可能だろう。死に際の走馬灯は薄汚れた後悔と挫折に埋もれるに違いない。

 悪運で生き長らえたとしても、それは変えられない運命なんだ。

「……キミはー」

 トミさんとの会話がひと段落した途端、俺の方に視線を向けた教頭。特に話したこともない間柄だから、俺の名前を知らない可能性もある。

「あ、俺は五年前に卒業した──」

「……存じている。松本修……だろー?」

「俺のこと、知っていてくれたんですか? そんなに話したこともないのに」

 立ち上がった教頭はカーテンを全開にし、差し込む日光に眉をひそませながら、デスクに置かれていたマグカップのコーヒーを口に含む。

 そして、何かを思い出すように屋外を見つめ、静かに息を吐ついた。

「……五年前、キミたちは有名人だったからねー。校内はもとより、春咲市の若者は熱狂していた人も多かったんじゃないかー?」

 なるほど……そういうことか。

「……僕も遠目から見ていたよ。ビートルズ一筋だった僕が、時間を忘れて聴き入ってしまったー。体育館からグラウンドへ降りる階段で、キミたちは曲を奏でていたよねー」

 そう言いながら、教頭は視聴覚室の非常ドアを開けた。グラウンドへの避難以外には開放厳禁の扉が開かれた瞬間、風に乗って流れてくる音。

「現役大学生シンガーソングライター……か。随分と遠いところに行ってしまったと思ったけれど……キミたちは、巡り会う運命から逃れられないのかもねー」

 アコースティックギターの旋律に澄み渡った歌声。音量は遠慮気味ながら、それでも芯の通った力強い音色は、俺の意思を捻ねじ曲まげた。

 会いたくない。聴きたくない。突き放したはずなのに──身体からだが疼うずく。

 身体が勝手に、音色の方向へ動き出してしまう。

 屋外に飛び出した俺は、校舎のすぐ横に沿った細い通路を疾走。花壇やプランターに足元を掬すくわれながらも、体育館近くの階段へと駆け抜けた。

 そして──出会う。

 秋風に揺れるしなやかな髪は、華きや奢しやで細身な後ろ姿を魅力的にする。悲ひ愴そうや反抗を凝縮した勝気な瞳、ギターが似合う足の組み方、弦を弾はじく細身の指先……歌声を届けてくれる薄紅色の唇に、俺の瞳は完全に奪われた。

 中段に座る彼女が歌っていたのは、嫌でも聞き覚えのある歌。

 当たり前だ。俺がこの場所で作り、彼女に歌ってもらっていた曲だから。

「修…………?」

「鞘音…………」

 おもむろに振り返った彼女は、最上段にいた俺に戸惑いの視線を送る。

 五年ぶりに再会した彼女の名前は──桐山鞘音。俺の実家から徒歩五分の家に住んでいた幼おさな馴な染じみであり、中学までの同級生。

 再会は唐突だった。もちろん歓迎ムードなど微み塵じんもなく、極度の気まずさと不穏に包まれる。逃げればよかったのに。逃げるのは得意なはずなのに。

 なぜ、俺はここに来てしまったのだろう。

 今の彼女はシンガーソングライター。俺の隣にいた桐山鞘音はもういないと分かっているはずだった。自分の行動に理解が追いついて来ない。

「なんであなたがこんなところにいるの……?」

 煩わしそうに、そう問いかけてくる鞘音。

「大学を辞めたんだ……。今は実家にいる……」

「理由は?」

「なんとなく……目標がなくて、意味を見み出いだせなくなって……辞めた」

「……はぁ、変わってないのね。その場凌しのぎで楽なほうに逃げていたら、いつの間にか底辺に落ちていたってところでしょ。違うならしっかり反論して?」

 自分の奥歯を嚙かみ締しめるが、言い返せない。彼女の辛辣な言葉は正論でしかない。

「くだらない……本当に無意味で中身のない人生ね」

 突き刺さるのは重苦しい溜ため息いき。

 心底幻滅したような眼まな差ざしを隠さず、立ち上がった鞘音は俺の横を通りすぎていく。みすぼらしい現状を察した鞘音は、憎悪の瞳を鋭角に際立たせた。


「逃げ続けているゴミクズ男が大好きなの、わたしは」


 ──と、辛辣な嫌いや味みで轢ひき逃にげして。