「そこの柱に隠れている者。出てくるがいい」
しばらくの間、シンニは青年の様子を窺っていたが、青年が突如言葉を発したので、シンニはびくりと身を震わせた。足音は全く立てていないし、かなりの距離があるというのに、彼は既に気付いていたのだ。
(仕方ないわね……)
こうなっては隠れていても意味がない。そう判断し、シンニは素直に柱から身を現した。棺は既に闇蛍の射程内に入っている。説教されて追い出される前に事を済ませてしまえばいい。
だが、立ちあがった青年を真正面から見た時、シンニは固まった。そう、彼はこの大陸に住む者なら知らない者はいない──。
「聖王子……ミラノ=ヘリファルテ!?」
「君は誰だ? ここは夜間は一般人の立ち入りを禁止しているはずだが」
しどろもどろになるシンニとは裏腹に、ミラノは警戒心を露わにシンニに向きあう。何故、こんな所に大陸一の王子がいるのか分からないが、仕方なく、シンニは被っていたフードを外す。
「女の子? 君みたいな子がこんな時間に、どうして?」
「すみません。昼は他の人が多くて、落ち着いて祈れないと思ったので。夜に入って駄目だとは知らなかったんです」
シンニはすらすらと嘘を吐く。とにかく、なんとかして時間を稼ぎ、闇蛍さえ棺に忍び込ませてしまえばいい。そのために、シンニは嘘八百を並べていく。
「私はシンニといいます。ヘリファルテ国立大学で、『聖セレネ基金』を最近受ける事が出来まして、セレネ様の慈悲に大変感銘したのです。なので、間近でセレネ様に感謝の意を伝えたくて」
「シンニ? ああ、妹から話は聞いているよ。ヴァルベールの件に関しては、災難だったね」
「いえ、別に……」
どうやらマリーからある程度情報を聞いていたらしく、ミラノの警戒心が緩んだのが見てとれた。
「と、ところで、ミラノ王子はどうして、こんな所に一人でいたんですか?」
「ん? ああ、君と同じだよ。昼間だと周りがうるさくてね。それに、僕が来ると、皆が委縮してしまうだろう?」
実際には真逆の目的なのだが、ミラノはシンニを自分と同じ、セレネに深い感謝の念を持つ仲間だと認識したらしい。
「な、なるほど。よ、よく分かります。それで、セレネ様の棺に祈りを捧げていたという訳ですか」
「棺というより、聖骸布に、かな」
「せいがいふ?」
「ほら、棺の上の方を見てごらん。布が飾られているだろう?」
そう言って、ミラノは棺の少し上の方を向く。シンニもそちらに目線を送ると、そこには、汚いひらがなで「あいるびーばっく」と書かれたボロ布が飾られていた。世界一まぬけな聖骸布であり、晒し物である。
「あれが聖骸布ですか? 私には何が書かれているか分からないんですけど……」
「あれは『セレネ文字』というらしい。姉のアルエ姫に確認したが、セレネが書いた物で間違いないそうだ。最も、あの文字にどんな意味があるかは、僕も分からないけれど」
(何かの暗号みたいなものかしら……)
ミラノもシンニも日本語のひらがなが読めないので、丁度、現代日本人が象形文字を見たような感覚に近いようだった。まるで意味が分からんが、古代人が書いた不思議な文字だから意味があるのだろうという深読みのようなものだ。
「この布が見つかったのは、セレネの納棺が終わってからさ」
「え? じゃあ、死んだ後にセレネ様が書いたって事ですか?」
「単純に捉えたらそうなる。でも、常識で考えたらあり得ない。セレネはヘリファルテ国立大学に何度も行き来していたし、エルフとの交流もあった。その時期に書いた物が、何らかの手段で竜に渡ったと考える方が自然だろうね」
そう言いつつも、ミラノは「でも」と付け加える。
「でも、それでも……僕はセレネがいつか帰ってくる。そう信じたいんだ。棺を開けないように命令したのも、そんな気持ちがあったのかもしれない。もしもあの棺を開けて、今も眠り続けるセレネを見たら、今度こそ、彼女の死を認めないといけないからね」
「開けなければ希望は残っている、という訳ですか」
シンニは淡々とそう答えた。今からやろうとしているのは、その希望の芽を摘む事なのだ。シンニの言葉にミラノは答えず、寂しげに棺の方を見る。
「セレネが眠って二年、大陸中を遊学したよ。二年前に比べ、知識は明らかに増えた。剣の腕も磨いたし、自分で自分が成長したと思えるくらいには努力した」
そこまで言って、ミラノは目を閉じる。
「けれど先日、久しぶりに異国の友人とあった時に、『王子は腑抜けたでござるな』と言われてしまったよ。僕は知識も力も成長した。でも、それだけさ」
そう言って、ミラノはシンニに向かい合った。シンニからすれば、これ以上ないほど聖王子という表現が相応しく見えたが、本人は納得していないようだった。
「やはり、僕はまだ未熟なんだ。未だに彼女が、何事もなかったかのように『おはよう』って言ってくれるような、そんな子供じみた願いを持ってるんだ。ここで祈るのも、そうした気持ちを静めるためさ」
「私もそう思います。セレネ様は、奇跡を成し遂げる方ですから」
「君もそう思うかい? 無理に合わせず、情けない王子と笑ってくれても構わないよ」
「いえいえ、私は心からそう思っておりますので」
シンニは笑い出したい衝動をこらえながら、適当に話を合わせる。聖王子ミラノ=ヘリファルテは、未だにセレネ=アークイラにご執心らしい。
ならば、自分が考えた死人を殺す方法は、効果てきめんであろう。これで少しは呪詛吐きの仇を打てる。そう考えると、シンニの心に余裕が出てくる。
「しかし、一体どうやってここに忍び込んだんだ? 夜中でも衛兵は見張っているはずだが」
「私が来た時は、たまたま交代の時だったみたいでして。まあ、そういう偶然もあるんでしょう」
「偶然か……そう言えば、セレネと最初にあった時も、偶然だったな」
そう言うミラノの横顔は、ひどく寂しげに見えた。セレネと初めて出会った夜の事を思い出していたのあろう。
「君は、セレネに祈りを捧げに来たと言っていたね? 本来なら一般人は禁止されている時間だが、特別に許可しよう。衛兵の方には僕が伝えておくから、好きなだけ祈るといい」
「あ、ありがとうございます!」
シンニはぱっと表情を輝かせた。闇蛍をいつ発動させるかタイミングを見計らっていたのだが、王子が直々に祈りを捧げるチャンスをくれたのだ。これで、自分の影から攻撃を仕掛けやすくなる。
セレネに祈りを捧げられると聞いて喜ぶシンニを見て、ミラノは頬を緩めた。
「そんなに慕ってくれるなら、きっと彼女も喜ぶだろう。あの子は、同年代の友達が少なかったからね」
「それはそれはもう、熱心に祈らせていただきますよ。今の私がこうしているのは、セレネ様のお陰なので」
シンニは思いっきり皮肉を籠めてそう言ったのだが、ミラノは言葉通りに受け取ったらしく、頷いて外へと出ていった。恐らく、衛兵に報告と、警備を厳重にするように注意しに行ったのだろう。
「ふふ……やっぱり天は正しい者の味方ね。王子に見つかった時はどうなる事かと思ったわ」
『何が天は正しい者の味方だ。思いっきり犯罪じゃねーか』
「さ、ぱぱっと偉大なるセレネ様の威光を地に落としてやろうかしらね」
コクマルの憎まれ口も気にならないようで、シンニは意気揚々と闇蛍を発動させる。黒い蛇のような影が地面に染み込み、そのまま純白の棺へと滑りこんでいく。
「あ、あれっ!?」
『なんだよ? 今更罪悪感に襲われたとか言うんじゃねぇだろうな?』
「ち、違うわ! 死体がないのよっ!?」
シンニは、かつてないほど狼狽した。