シンニはカラスの言葉を無視し、ぽつりと呪詛の言葉を吐く。もはや立つ気力も体力もない。彼女の持っていた大きなかしの杖と、僅かばかりの荷物の詰まった袋が、白い草の上に散乱している。

無謀な旅である事は自覚していた。馬鹿げた行為である事も把握していた。誰にも理解されない理由である事も分かっていた。けれど、彼女の中に燃え立った衝動は、その無謀で、馬鹿で、理解されない旅をさせるには十分な動機だった。

シンニが倒れている場所は、白森にはるか昔から住んでいるエルフですらも近寄らない「竜峰りゅうほう」と呼ばれる土地に極めて近い場所。熟練の人間の冒険者、エルフですらあまり近寄らないこの場に、少女がただ一人……いや、一人と一羽でここまで来られたのは、前人未到の奇跡といってよい。

「ちくしょう……あと、少しなのに……」

けれど、少女は再び呪いの言葉を吐いた。彼女は冒険者でも、未知の世界を知りたがる探究者でもない。竜峰に辿り着くだけでは駄目なのだ。たった一つの目的を果たす。そのためだけにここまでやって来た。

最後の気力を振り絞り、立ち上がろうとするが、ほんの少し身じろぎするのが関の山。その動きでフードがずり落ち、彼女の顔が露わになる。年齢はせいぜい十二、三歳程度。無造作に伸ばした燃えるような赤い髪と、黒曜石のような瞳を持つ、端正な顔立ちの少女だった。

『だからやめろっつったんだよ! おい! 死ぬな! 俺を一人にするんじゃねぇ!』

カラスがシンニの耳元で怒鳴る。それが自分の意識を途絶えさせないためか、一羽で密林に置き去りにされる恐怖から来たものか判別が付かない。恐らく後者だろうと思ったが、そんな事はどうでもよかった。

「はは……」

地面に突っ伏したまま、シンニは口元を少しだけ歪め自嘲した。なんと無様なのだろう、と。

「あいつを殺すまで……死なないって決めたのに」

自分の不甲斐なさを笑った後に来たのは──怒り。ありとあらゆる物に対する憎しみだった。自分から大切な物を奪った不倶戴天ふぐたいてんの敵は、竜峰にいるというのに。

そいつを殺すためだけに、白森という魔境へ飛び込んだ。けれど今、自分はその森の養分となろうとしている。誰にも見られず、気付かれず、何も成し遂げられないままで。

無駄死にもいい所だ。だが、そういうものなのかもしれないと、シンニはどこか納得もしていた。

自分は呪われた一族だ。呪われた者には、暗い末路が相応しい。彼女の敬愛する師匠もまた、呪いの代償で竜の怒りに触れて死んだのだから。

この清らかな白い森の中、真っ黒な自分は、美しい芸術品にこびりついた汚れのようなものなのだろう。汚れは拭きとられるべきだ。そんな考えが、少女の脳裏に浮かんでは消えていく。

「ごめんなさい……呪詛吐き様……」

結局、自分は出来そこないだったのだ。自分に目を掛け、育ててくれた師匠の名を、シンニはぽつりと呟いた。けれど、それで何がどうなる訳でもなく、余計空しくなっただけだった。

こんな人外魔境じんがいまきょうの森で助けを求めて、誰が来てくれるというのだろう。ここにいるのは野獣だけだ。馴れない長旅で弱った人間の女など、格好の獲物だろう。自分の死を看取るのは、ひねくれた喋るカラスのみ。

ある意味、自分には相応しい幕引きなのだろう。シンニはそう考え、生への執着を放棄しようと目を閉じた。

「だいじょうぶ?」

だから、突如目の前に現れた、長い白髪の少女が自分を覗き込んでいるのに気付いた時、お迎えの天使が来たのだろうと、赤毛の少女は本気で思い、すぐに否定した。

自分を迎えに来るのなら、もっと醜悪しゅうあくな死神だろうと思ったからだ。

シンニの意識は朦朧もうろうとし、視界はかすんでいる。だから、これはきっと死ぬ前の幻覚なのだろう、そう考えた。けれど、白い少女が細い指で自分の頬に触れた時、長らく感じていなかった人の温もりを感じ取れた。

自分と真逆の可憐な白い少女は、白森の木漏れ日を浴び、全身がうっすら輝いているように見えた。そして、傷ついた自分の体を労わるように、全身を撫でまわす。恐らく容態を確かめているのだろう。となると、この少女は自分を助けようとしているらしい。

シンニは今にも意識を失いそうで、自分に対し行われている事が現実なのか、はたまた死ぬ前の妄想なのか自信が持てなかった。心配そうに自分を覗き込む深紅の双眸そうぼうは、まるでルビーのように美しかったが、それよりも、彼女の肩にいる一匹の動物が、強烈に映った。

(……鼠?)

そう、それは間違いなく鼠だった。黒い毛皮でお腹の部分だけが白く、胸元に赤いリボンを結んでいる。それを見た途端、シンニは目の前にいる少女が、天使や女神の類ではなく、間違いなく現実の存在であると理解出来た。そして、この少女こそ、シンニが探し求めていた──。

(……セレネ=アークイラ!)

シンニは自分に手を差し伸べた存在が、仇敵であると理解した。

やっと会えた。やっと見つけた。やっとこいつを殺せる機会がやってきた。だというのに、シンニは、攻撃をするどころか、意識を保っている事すら難しかった。なんともどかしい事だろう。

「ちくしょう……必ず……お前を殺してやる……!」

掠れる声で少女はそう呟いた。恐らく、月光姫セレネには届いていないだろう。だが、どうやらお優しい月光姫様は、自分を助けてくれるらしい。ならば、思いきり恩を仇で返してやろう。そこまで考え、シンニの意識は奈落の底に沈んでいく。

神などいないと思っていたが、少なくとも死神はいるらしい。自分こそが、この少女の死神となる。運命という言葉を、シンニは少しだけ信じ、完全に意識を失った。



──これが、月光姫セレネ=アークイラと、彼女の魂を現世へと呼び戻した、祝福されし呪いの魔女シンニの最初の出会いだった。