蛍に美術館に行こうと誘われた。四辻も誘って、三人で。蛍の好きな芸術家の企画展があるらしかった。私達は日曜日になると、待ち合わせをして、美術館に向かった。美術館の中は、暖房が入っていて、ちょうどいい暖かさだった。美術館には、たくさんのお客さんが訪れているらしいけど、私達の行った時間帯は運よく空いていた。蛍はひとつひとつの絵を、時間をかけて、じっくりと見つめる。絵を見つめる蛍はほんのりと微笑んでいて、胸の中が喜びでいっぱいなのが分かった。
蛍の好きな芸術家は、一本一本の線がしっかりとしていて、それなのにとても繊細な絵を描いた。それぞれの作品によく作り込まれた世界観を感じられて、ずっと見ていても飽きなかった。特に印象的なのは、生き生きとした少女達の表情と、丁寧に描かれた美しい髪の毛だった。
その芸術家は、絵本も作るらしく、壁には額縁の中に入った絵本の原画が飾られている。文章や絵からストーリーを追っていくと、その絵本は幸せな結末を迎えた。
私達はたっぷり一時間くらいかけて、館内に展示された作品を鑑賞した。
美術館を出ると、冷たい風が鋭く頬を刺して、四辻は「うわっ、寒い」と自分の肩をさすった。
「ほんとに寒いね」
蛍が両手を擦り合わせて、透明な空を見上げた。私よりも背の高い木は、地面に葉を落として、ひょろりとした姿を晒している。土は冷たく湿って、もう花びらの一枚も見つけられなかった。
「もうすぐ冬だねぇ。ほんっと、一年ってあっという間」
歩行者用信号機のボタンを四辻が押した。おまちください、と赤い文字が表示された。
「よつじ、おばさんくさい」
そんなことを言う私も、四辻と同じことを感じていた。高校生になって、蛍に出会って、季節があっという間に過ぎていった。
「失礼な。まだぴちぴちの十代ですー」
「四辻ちゃんはちょっと大人っぽいよね」
蛍が言うと、四辻はありもしない胸の谷間を強調するように腕を組み、妖艶な笑みを浮かべた。
「まぁ、大人の色気は隠し切れないよね」
私は呆れて、ため息をつく。確かに、静かに伏せられた不揃いなまつ毛や、すっとした首筋に、中学生の頃にはなかった色気を感じるようになったけど、喋り方や笑顔は中学生の頃から変わらなくて、私は少し安心する。
「よつじはそういうところが子供っぽい」
「そうだね」
蛍が笑顔で両手を合わせると、四辻が「私に失礼な口を利く子にはお仕置きが必要かな」と蛍の脇の下に手を入れる。くすぐったがりの蛍は四辻の手から逃れようと一生懸命になって、いやいやと首を震った。
「よつじ」
「ごめんごめん。蛍の反応が面白くてつい」
四辻が蛍から手を離すと、蛍はふらふらと私の隣に横にやってきた。私に隠れるようにしながら、不満そうに口を閉ざし、四辻に抗議の目を向ける。
「あれ、お仕置きが足りなかったかな?」
四辻がにやりと笑って指をわきわきさせる。
「伊吹ちゃん助けて!」
蛍が私の腕にしがみついて、上目遣いに見つめてくる。私はそんな蛍の頭に手を乗せて、優しく撫でる。
「じゃあ、後で私からよつじにお仕置きしておこう」
蛍は知らないだろうけど、四辻もかなりのくすぐったがりなのだ。
「すみません。もうしません」
四辻がぺこり頭を下げた。蛍は私の腕を掴んだまま、楽しそうに笑った。
お昼は近所のショッピングモールで食べることにした。四辻がお昼はパンケーキが良いと言ったからだ。休日のショッピングモールは、凄まじいほどの人の量だった。私と四辻はあまりの人の多さに挙動不審になる蛍を守るため、ガードマンのように歩き、パンケーキを出している喫茶店まで行った。
お昼時ということもあって、レストランや食事処はみんな混んでいる。喫茶店もすべて席が埋まっていて、店内の順番待ちのソファーにも、お店の外に並べられた丸椅子にも、人が座っていた。レジ横の名簿に名前を書いたけど、呼ばれるのはまだまだ先になりそうだ。
私達は店外に並べられたパステルカラーの丸椅子で出来た列の隣に立って、椅子が空くのを待った。四辻がスマホを取り出したので、私は四辻に短いメールを送る。
「私、トイレ行きたい」
私が言うと、四辻が「あ、私も行きたい」と手を挙げた。
「じゃあ、私、ここで待ってるね」
蛍は少しだけ寂しそうな表情浮かべると、すぐにそれを隠すような明るい笑顔を浮かべる。その健気な表情を見ると、胸が痛くなったけど、私はお礼を言ってから、四辻とその場から離れた。
「なんかテンション上がるね」
早足で歩きながら、四辻はわくわくした声で言う。
「でも、早く戻らないとほたるが可哀想だ」
私達は今日のために、計画を立てていた。明日は蛍の誕生日だ。私達はトイレに行くふりをして、蛍の誕生日プレゼントを買いに行くことにしていた。私は蛍の誕生日プレゼントに、ピアスを作ろうと考えていた。人がずらっと並ぶエスカレーターに乗って、二階に上がり、手芸店に向かう。
手芸店には、金色と銀色のパーツや金具が、ずらりと並んでいた。もう作りたいもののデザインは決まっている。店先に置かれた小ぶりの籠を一つ手にとって、必要なパーツを選んでいく。材料はこのお店で全部揃った。私はお会計を済ませると、四辻と共に急いで喫茶店へ戻った。人と人の間を縫うように進んで、蛍のもとにたどり着くと、私はその光景に思わず息を止めた。
蛍の隣には、男の子がいた。男の子は蛍の首に親しげに回しているけど、蛍の方は怯えていたのがハッキリと分かった。私はその男の子をどこかで見た覚えがあった。必死に記憶を引っ張り出そうとすると、その子のことはすぐに思い出せた。濁ったような茶色の髪。長い襟足。背は高く、蛍とは頭一個分以上の身長差がある。首元には、いかつい金色のネックレス。どくろが描かれた黒色の長袖シャツを着ていて、だぼだぼとしたズボンを穿いていた。
授業に出てみたいと蛍がクラスに来て、そして突然帰ってしまったあの日、立ち止まった私はあの子にぶつかった。
あの男の子が、中学時代に蛍に告白した子だ。
「一緒に飯食べに行こうぜ。こいつらほんと、ブスばっかで暇だったんだ」
そう言って、男の子はけらけらと笑った。蛍と男の子を取り囲むのは、こんな寒い日なのに、短いスカートを穿いて、派手なメイクをした女の子達だった。ムスク系の、頭がくらくらするような強い香水の香りが、こちらまで届いてくる。
「はぁ? こいつの方がブスでしょ。不登校の陰キャだし。お前マジで趣味悪っ」
女の子が、ドスの効いた声ととげとげしい口調で言う。その口ぶりからして、蛍と同じ中学校の子のようだった。蛍の人形にジュースをかけたのは、多分この子だなと、分かってしまった。長い金髪をひっつめた後ろ姿は、その子が強気なことを表しているように思えた。
「は? お前、鏡見てみろよ。蛍だってきっと俺のこと好きだぜ。な? 蛍?」
男の子の瞳には、ぎらぎらとした欲望が浮かんでいた。男の子は蛍の顎を掴み、蛍に顔を近づけようとした。
ぷつん、と頭の中で何かが切れる音がした。
蛍のピンチに体が勝手に反応して駆け出していた。
「やめて!」
私はその男の子を突き飛ばす。
「ほたる、行こうっ!」
蛍の手を掴んで、その場を離れた。後ろから、女の子達が何かを言っている声が聞こえていたけど、構わず走った。
いきなり突き飛ばして悪かったかなと思うけど、蛍を守る為にはこうするしかなかったのだ。あの男の子が蛍にキスをしようとしているのが分かったその時、私は我を忘れていた。
目の前には、人の壁がいくつも出来上がっている。私は蛍をあの子達から遠ざけることだけを考えて、迷わず前に進んだ。
私達は、洋服売り場までやってくると、後ろを振り返って、あの子たちが追ってきていないか確認した。
「大丈夫そう」
急に走りだしたのに、呼吸一つ乱れていない四辻は冷静な声で言った。
「そっか。良かった」
私は蛍から手を離し、呼吸を整える。あの男の子が蛍に触れていた時に感じたぞっとするような気持ちの悪さは、まだなくならなかった。全身からじっとりと汗が噴き出ていた。
「あの人、誰?」
四辻の瞳には、あの男の子に対する煮えたぎるような憤怒の色が浮かんでいた。
「中学校の時、同じクラスだった男の子」
私と同じように呼吸を整えながら、蛍が答えた。
「人の気持ちも考えないで無理やりキスしようとするなんて、信じられない」
四辻は悔しそうな顔をしていて、私も悔しくなった。
「よつじの言う通りだ。好きな人に気持ちを伝えられない人だっているのに」
私の言葉に、蛍の表情が固まった。蛍は自分が呼吸をしているのかどうか確かめるように、自分の喉に触れると、家族連れの笑い声やショップ店員の呼び込みの声にかき消されそうなほど小さな声で言った。
「伊吹ちゃんの好きな人って誰?」
蛍は深く傷ついた声をしていた。その表情は、あの男の子に無理やりキスされそうになっていたときよりも、蛍の悲しみを深刻に物語っている。
私は押し黙ったまま、蛍から顔を背けた。四辻が唾液を飲み込む音が聞こえた。
「どうして、教えてくれないの。四辻ちゃんは知ってるんだよね。なんで私には秘密にするの?」
私は答えられなかった。答えられるはずがなかった。蛍のことが好きだ。だけど、本当のことを言って、蛍に嫌われたくない。蛍を驚かせたくない。蛍は私が口を開くまで待っているつもりだったようだけど、やがて諦めたように呟いた。
「私はこんなにも伊吹ちゃんのことが好きなのに、伊吹ちゃんにとっての私は、とっても小さな存在だったのかもしれないんだね」
蛍は一筋の涙を流した。私は目を見開いたまま、一歩も動くことが出来なかった。私の唇は錠でもかけられたように、固く閉ざされていた。それでも私は必死に言葉を探そうとした。けれど、焦れば焦るほど、今の蛍に必要な言葉を見つけることが出来なくなっていった。
「ごめんね。もう帰る。今日は一人で帰りたい」
蛍は私達に背を向けると、人混みの中に消えていった。今まで私を包んでいた音や言葉の数々が、急に輪郭を失ったように感じた。頭はぼんやりとして、なのに私の気持ちはとても急いでいた。蛍を追いかけないと。蛍を助けないと。蛍の手を握って、大丈夫だと言ってあげないと。
自分の呼吸音だけがやけに大きく聞える。私は画面の中にたった一人だけで残されてしまったみたいな、とてつもない孤独と恐怖を覚えた。早くしないと蛍が行ってしまう。蛍はたった一人で泣いている。
頭が割れるように痛んで、私は頭を押さえてうずくまった。四辻が素早く私の元にしゃがみ込み、私の背中をさする。四辻が何かを言った気がした。だけど私はその言葉の端さえ掴むことは出来ない。痛みは毒のように全身を回った。私は胎児のように身体を丸める。四辻が私をおぶって家まで送ってくれたことを、自分の家のベットの上で、お母さんに聞かされて知った。
明日、保健室に来てほしい。蛍にメールを送った私は、学習机のライトだけつけて、蛍に贈るためのピアスを作った。私は完成したピアスを両手で包み、目を閉じる。時間を忘れるくらい長い間、ずっとそうしていた。
ピアスをラッピングした後、私は眠る気になれず、蛍から借りたままだった本を読んだ。最後まで読み込み終わると、また最初から読み直し、それをずっと繰り返した。本を読んでいる間、私はずっと蛍のことを想い続けた。
朝が来ると、私は携帯も確認せずに学校に向かった。私よりも遅く学校にやってきた四辻は、私の鼻の頭に人差し指を当てると、気の抜けたような笑みを浮かべた。私はそれが嬉しくて、脱力した笑みを返した。
放課後までの時間は、あっという間だった気もするし、千年のことのように長かったような気もした。六時間目が終わると、私は鞄を掴んで、保健室まで走った。保健室の扉を開けると、そこに蛍の姿はなかった。蛍は今日来ていないと先生が言った。
「それでも待ちます」と答えたら、先生は呆れたようにため息をついた。先生はその日の仕事を片付けると、戸締りはしっかりするようにと、出来の悪い子供に言い聞かせるみたいに言って、保健室を出ていった。
私はソファーにじっと座って、蛍が来るのを待つ。日は暮れて、辺りは暗闇に染まり、運動部の人達の掛け声も聞こえなくなった。あと十五分で完全下校時刻になってしまう。時計の秒針は、リズムをひと時も崩すことなく、一秒一秒を刻んだ。
私は携帯を開く。私の送ったメッセージには、既読の文字がついていた。蛍からの返信はまだ来ていない。それでも待とうと思った。蛍が来るまで、ずっとずっと待っていようと思った。
その時、保健室の扉が開く音がした。私は弾かれたように顔を上げ、扉の方に目を向けた。制服姿の蛍は、私と目が合うと何かを怖がるみたいに、唇を引き結ぶ。その後、蛍はゆっくりと息を吸った。意思の強い表情になって、まっすぐに私のもとにやってくる。
「昨日はごめんね。私、すごく自分勝手なことを言っちゃったし、二人に迷惑かけちゃった。謝らなきゃって思うほど、学校に行くのが怖くなってこんな時間になっちゃった。本当に、ごめんなさい」
蛍は私に対して、深く頭を下げた。
「こっちこそ、ごめん。私、ほたるのこと守るって約束したのに、ほたるのこと傷つけた」
蛍の瞳からこぼれた涙を思い出して、胸がちりちりと焼けるように痛む。あの時蛍を傷つけたのは、間違いなく私だった。
蛍はゆっくりと首を横に振る。
「伊吹ちゃんは悪くないの。悪いのは私」
「誰もほたるのこと悪いなんて思ってない。よつじも私も、ほたるの味方だから」
蛍が私の味方であってくれたように、私も蛍の味方でありたい。私が笑うと、蛍は安心したように目を細めた。
「ありがとう。伊吹ちゃん」
私は頷いて、ポケットの中からラッピングされたピアスを取り出した。
「ほたる、お誕生日おめでとう」
蛍はプレゼントを受け取ると、輝いた瞳でピアスを見つめ、抱きしめるように、胸に寄せた。
「嬉しい。誕生日、覚えてくれてたんだ」
「うん」
私が蛍の誕生日を忘れるわけがなかった。蛍にお誕生日おめでとうと言うのをずっと楽しみにしていた。蛍は嬉しそうな顔をして、ころころと飴玉を転がすような声で笑った。蛍は私の隣に座ると、窓の外に目をやり、「もう学校閉まっちゃうね」と寂しそうに言う。
「ほたる」
「どうしたの? 伊吹ちゃん」
蛍が首を傾げて、ビー玉のような目で私のことを見てくる。蛍の瞳に映るのは、相変わらず冴えない私の顔だった。私は膝が触れ合うほど蛍に近づいて、蛍を見つめた。
「私、ほたるが好きだ」
蛍は一瞬何が起きたのか分からないという顔をした。でもすぐに驚いた顔になって、頬は真っ赤に染まった。蛍は本当に、照れるとすぐに顔が赤くなる。蛍はわずかに口を開いたまま、何も言えなくなっていた。
「中学生の時の夏に、お母さんが浮気してるのに気が付いた。私はそれから、もう誰にも恋をしないって決めた。私は一生、誰も愛さないで生きていくんだと思ってた。恋も愛も、全部が怖くて、怯えてた。ほたるは私を変えてくれたんだって、思う。私は初めて人を好きになった。ほたると話せるだけで、私は嬉しかった。誰かといて、こんなに幸せな気持ちになるのは初めてだった。ほたると一緒に見る世界はいつもきらきらしてた。ほたるが隣にいてくれるだけで、毎日楽しかった」
私は蛍の髪を耳にかけ、蛍の耳にはめられたピアスを一つ一つ外していった。
「ほたるは、私の気持ちを聞いたら、驚くだろうなと思った。私はすごく臆病者で、今まで自分の気持ちをずっと隠してきた。お父さんとお母さんが離婚することになって、混乱してた私の手をほたるが握ってくれた。ずっと傍にいるって言ってくれた。私、ずっと誰かに助けて欲しかった。私を助けてくれたのは、ほたるだ。助けてくれて、ありがとう」
蛍を好きになれた私はきっと、世界で一番幸福な女の子だ。
私の手元には、十個のピアスがあった。私は最後に、私の開けた穴に差し込まれた、黄色いピアスを外した。黄色いピアスは光を失い、他のピアスの中に埋もれていった。
「もう、ほたるのピアスの穴を増やさないって誓う」
ラッピングのリボンをほどいて、取り出したピアスを、私の開けた穴につけた。金色の、星のピアス。蛍はピアスに触れると、その形や触り心地を確かめるように瞼を閉じ、やがて目を開けた。
「私も、伊吹ちゃんのことが好き。大好き」
びっくりした私が目を瞬くと、蛍は私にキスをした。蛍は短いキスを終えると、微笑みを浮かべた。私は蛍の耳たぶに触れる。私の手の中で、蛍のピアスがちかりと光った。それはあの時みた流れ星のようだった。
私達が幸せになれますように。私は心の中で祈った。
今度は三回、唱えることが出来た。
――保健室の君にピアスを――了