秋も深まって、夏の暑さなんて思い出せなくなった長閑な金曜日のことだった。私が保健室でラーメンの食べ比べの動画を見ていると、蛍が勉強をしていた手を止めて、思い出したように言った。
「今日、すごく綺麗な流星群が見られるらしいよ」
「流星群」
私は動画を一時停止して顔を上げた。そういえば今日、朝のニュースで流星群の話を聞いたような気がする。
「毎年この時期に見れるんだけど、今年はいつもよりもよく見れるんだよ」
「そっか。今日はお父さんとお母さんと外にご飯食べに行くから、夜になったらベランダで見かもしれない。どこでも見られるのか分からないけど」
「そうなんだ。今日、ご飯食べに行くんだね」
蛍が一瞬寂しそうな顔をしたので、私は不思議に思った。もしかしたら、蛍は私を誘って流星群を見に行こうと思っていたのかもしれない。
蛍にはとても遠慮深いところがあって、蛍が私に電話やメールを送ってこない理由がそれだった。もし電話をかけた時私が忙しかったらと思うと、申し訳なくて電話を掛けるのを躊躇してしまうそうだ。私が忙しいなんてこと、滅多にないのに。いつでも電話をかけてきていいよと私が言っても、緊張してしまって難しいらしい。だからいつも私から電話をかけるし、メールのやり取りも私から始める。私は電話越しに聞く蛍の声が好きだったし、蛍の文章を読むのが楽しかった。
「ほたるは今日何も用事ないの?」
「うん。私は何も。でも、夜は外に出ちゃダメって言われてるから、私もベランダから見ることになりそう」
蛍はカチカチとシャープペンシルをノックすると、窓の外を眺めた。透き通るような青色の空に、細長い曇が流れていく。昇降口の脇に植えられた大きな木は、赤く色づいていた。
夕方になると、私はお父さんとお母さんとラーメン屋さんに行った。私は担々麵を食べた。すぐにお腹いっぱいになって、今日見た動画の人みたいにたくさんは食べられないなと思った。
家に帰った私はお風呂に入った後、髪の毛を乾かして、蛍の家に向かった。玄関へと続くレンガの道に沿うようにして置かれた透明な石が、私の足元をぼんやりと照らした。私は足音を立ててないようにこっそり歩く。
蛍の部屋の電気がついていた。私は蛍の部屋の窓をコンコンとノックする。蛍はパジャマ姿で、ベットに腰掛けて本を読んでいた。辞書みたいな分厚い本だった。
私に気が付いた蛍が、心からびっくりしたように目を見開いて、急いで窓を開ける。部屋の中から、完熟した桃みたいな匂いがふわりと香った。蛍の驚いた顔を見ていると愉快な気持ちになって、私は小声で笑う。
「伊吹ちゃん、どうしたの?」
蛍は窓枠に手を置き、身を乗り出した。夜風が蛍の髪を揺らす。
「ほたると星を見たいと思って、迎えに来た」
私は蛍に手を伸ばした。蛍は私の手を取った。
「私も伊吹ちゃんと一緒に星が見たかったの」
蛍が嬉しそうに笑った。
靴を持ってきた蛍と一緒に蛍の家を抜け出して、公園のベンチに座った。自販機で買ったミルクティーで、手のひらを温める。太陽の光が当たらない遊具は、錆ついた大きなオブジェみたいだった。ブランコも、滑り台も、ジャングルジムも、冷たく寝静まっている。
空を見上げると、砂の粒くらい小さな星達が瞬いているのが見えた。藍色と灰色が混ざったような、明るい空だ。星を見ていると、この世界を覆う膜みたいなものに、ぷつぷつと小さく穴を開けて、真っ白な世界からこちらに光が差し込んでいるみたいに思えた。はっきりとした輝きを持つ星も、ぼんやりと輝く星もある。
蛍が空を見上げている。蛍の横顔は優しい線を描いていた。蛍の瞳に、秋の夜空が映し出されている。風はひんやりとしていた。この世界に私達しかいなくなったみたいに、公園は静けさに包まれていた。
ダイヤモンドみたいに強く光を放つ星の下を、光の線が走った。
「あ、流れ星」
私は流れ星を指さす。星は一瞬で消えてしまった。流れ星を見るのは、これが初めてだった。こんなに儚いものなんだ、と驚く。
「私も見れたよ」
蛍は驚きと喜びの混じった声で言った。私達はもう一度空を見上げる。真っ直ぐな金色の線がすっと引かれて、すぐに消えていく。
私はその短い時間に心の中で一つ願い事をした。三回唱えている時間なんてなかった。
「また、見えた」
「うん。また見えたね」
蛍は流れ星に心から感動したようだった。蛍の表情は、蛍の思いを深く物語っていた。私は蛍の表情を記憶しようと蛍をじっと見つめる。忘れたくない。何度だって思い出したい。ずっと大切にしていたい。蛍が私の視線に気がつく。
私達は吸い込まれそうになるほど広い夜空の下で、お互いの顔を見つめていた。
「ほたる。流れ星、すごかった」
私の言葉に、蛍は大きな目を潤ませて、何度も頷いてから言った。
「伊吹ちゃんは何をお願いしたの?」
「私の好きな人が、ずっと幸せでいられますようにって、お願いした」
蛍が好き、なんて怖くて言えなかった。蛍は一瞬、びっくりしたように目を瞬いた。
「伊吹ちゃん、好きな人いるんだね」
「うん」
蛍はスニーカーのつま先にほんの少しの間だけ視線を落とすと、すぐに笑顔になって顔を上げた。
「伊吹ちゃんのお願いが叶うといいな」
蛍の笑顔を見ていると、ふっと切ない気持ちになった。私が蛍のことが好きなんて、蛍は考えていないのかもしれない。
「ほたるは何をお願いした?」
「私ね今、すごく幸せなんだ。伊吹ちゃんとこうやって流れ星を見に来られて、嬉しかったから。そしたらね、お願い事が思いつかなくなっちゃったの。だから、なにもお願いしなかったよ」
蛍は片方の頬に手を当てて、恥ずかしそうに笑った。
「ほたる、可愛い」
私は飲みかけのミルクティーを片手に持ち、もう片方の手で蛍の指先に触れた。蛍はちらりと私の顔を見ると、華奢な指を私の指に絡ませた。
私達は、時間も忘れて星を眺めた。とても幸せな夜だった。
幸せすぎると、私は少し怖くなる。見えない何かが、この幸せな時間の清算をしようと、とても不吉な出来事を引き連れてやってくるんじゃないかと思ってしまう。
そして、その嫌な予感は当たってしまった。
ある日の朝、家の空気がおかしくなっていることに気が付いた。お母さんがいつもの時間になっても起きてこない。お父さんはいつもより早く会社に行っていた。朝ごはんのおかずがなかったから、一人でトーストを齧る。
テレビをつけると、テレビの音量がオフにされていることに気が付いた。疑問に思いながら。音量を上げる。テレビでは都会のお洒落なカフェ特集をやっていた。私は学校の準備をしながらテレビを見ていたけど、お母さんがいつまでたっても起きてこないから、仕事に遅れてしまわないか心配になって、お母さんを起こしにいくことにした。
お母さんはぐったりとしていた。枕元には、丸められたティッシュがいくつも転がっていた。お母さんの瞼は腫れ、いつもはくっきりとしているはずの二重の線が歪んでいる。スマホを握りしめるようにして眠っていた。
「大丈夫?」
私がお母さんの肩をさすると、お母さんは微かに目を開けた。
「今日は具合が悪いから、仕事休むね」
がさがさの声でお母さんは言った。疲れ切った表情をしていた。
「分かった」
私は胸の奥が火傷を負ったようにひりひりするのを感じた。ベットの上に、枯葉のようになって横たわるお母さんを見たのは、これが初めてじゃなかったからだ。
きっと何かあったんだろう。そしてその何かを、私はよく知っていた。
それは私が一番恐れていたことだった。
お母さんの浮気が、お父さんにばれたんだ。
身体が一気に重くなる。喉の奥がきりきりと痛んで千切れそうになる。私は目を見開いたまま固まっていた。お母さんは依然としてスマホから手を離さない。自分にとって大切なものはこれしかないという風に、ぎゅっと画面を隠すようにして握っている。
お母さんは詰めが甘い。でもそんなこと、私が注意できるわけない。私にもばれないくらい徹底的に浮気を隠してくれればどれだけ良かっただろう。
浮気がばれて、お父さんはどうしたんだろう。お母さんは、浮気がばれたことを相手に伝えただろうか。
お母さんの浮気相手のことを私はよく知っている。なにせ浮気相手というのは、私の中学の担任なのだから。
お母さんは少女みたいに恋をする。結婚した相手がいるのに、別の男の人と関係を持つ背徳感に快感を覚えているわけじゃなくて、ただ純粋に先生に恋をしている。だから私なんかには止められない。私からは何も言えない。
私の怒りの矛先は、先生ばかりに向かう。しつこくメールを送るお母さんに、応える先生が悪いと思ってしまう。
お母さんと先生は共犯者だ。なのに私は、お母さんを責めようという気持ちにはなれない。私はいつもそうだった。どこまでもお母さんの肩を持つ。
私はくしゃくしゃに丸められたティッシュを集めてゴミ箱の中に捨てた。
「学校行ってくる。ゆっくり休んでね」
お母さんは一言も返事をせず、目を閉じた。私は階段に座り込んで、声を殺して泣いた。
お父さんとお母さんは毎晩、リビングのテレビを消して、ダイニングテーブルを挟んで向かい合い、夜中まで話し合うようになった。何の話をしているのか、大体見当はついた。
お父さんは私に対して、二人で話をしている間はあまり部屋に入らないで欲しいと言った。私はその通りにした。毎日、夜になると部屋に籠った。部屋中を照らす電灯の光すら眩しくて、勉強机のライトの灯りだけで過ごした。私の部屋の丁度真下にリビングがある。私は身体を横に倒し、床に耳を当てて、お父さんとお母さんの会話の内容を聞こうとした。
途切れ途切れに聞こえてくるお父さんの声は低く、怒りに満ちていた。私は今までお父さんのこんな声を聞いたことがなかった。その声の恐ろしさに、一枚天井を挟んだところにいる私でさえも震えそうになった。お母さんは、ヒステリックな声で何かを言う。その声は痛々しくて、堪らなくなった私は、二人の会話を聞くことを辞めた。
ベットの中に潜っても、眠気は訪れなかった、寂しくて、悲しくて、毎晩泣いた。これからどうなるんだろう、と考えると、目の前が真っ暗になった。私はご飯が食べられなくなって、短い期間で一気に痩せた。頭痛は日に日に酷くなっていった。歩いていると立ちくらみがして、急にしゃがみ込む私を蛍と四辻が心配した。
今回のことは、四辻にも相談出来なかった。だけど、四辻は私の家で起こっている出来事に感づいているようだった。四辻は放課後の部室で、「なにかあったんでしょ?」と真面目な声で言った。「なんでもない」と私が笑うと、四辻はひどく悲しそうな顔をした。
その日、私が家に帰ると、私と同じように、短い期間で別人のようになってしまったお母さんが、私の手を握った。
「伊吹ちゃんに大切な話があるの」
お母さんの目には光がなかった。マスカラはダマになり、アイラインははみ出して、唇には色がなかった。ファンデーションを塗りたくった肌には、ひびがはいってしまいそうだった。
離婚するんだ。私はとっさに理解した。お母さんは離婚するとき、私の目を見て言う。大切な話があるの、と。小さい頃からそうだった。お母さんが男の人と離婚する以上に大切な話なんて、私達の間には無い。
私は家を飛び出した。外はもう暗くなっている。全速力で走っているのに、寒くて寒くて仕方なかった。私はろくに前も見ずに走って、道を歩く人にぶつかりそうになる。信号を無視して横断歩道を渡って、大きなトラックにクラクションを鳴らされた。よろけて、地面に倒れ込む。息が切れて、目の前が霞んだ。
足に力が入らなくてふらふらと立ち上がる。それでも私は走ることを辞めない。
たどり着いたのは、蛍の家だった。私は迷わずチャイムを鳴らした。
「伊吹ちゃん?」
インターフォン越しに蛍の声がした。蛍はすぐに玄関の扉を開ける。私はしがみつくような力強さで、蛍を抱きしめた。溺れている時みたいに、必死に酸素を吸おうとするけど、息苦しさは増すばかりだった。
蛍はとても細かった。もっと力を込めれば、簡単に折れてしまいそうだった。蛍の甘い香りは、私の鼻の奥を焦がしてしまいそうだった。
「どうしたの? 伊吹ちゃん」
蛍は戸惑っているようにも、動揺しているようにも見えなかった。何かを察したのかもしれない。しっかりと落ち着いた声をしていた。私は蛍の薄い肩を自分の方に引き寄せる。蛍は抵抗することなく、私に身体を預けていた。
怖い。苦しい。寂しい。
「助けて、ほたる」
私は擦れた声で言った。私の腕の中で、蛍が深く頷いた。
私は蛍の部屋に入ると、カーペットの上に手をついて座り込む。頭がどくどくと脈打つように痛んだ。蛍は私の正面に座る。浅い呼吸のまま、私は喋りだした。
「お父さんとお母さんが、離婚することになった」
「離婚?」
蛍が真剣な眼差しを私に向けた。
「お母さん、結婚を三回しているの。お母さんはすぐに男の人を好きになる。お母さんはまた、浮気した。今度の相手は私の中学の時の担任だった」
私は額を押さえて、長く息を吐いた。蛍は唇を固く結んで私の話を聞いていた。呼吸が整ってくると、私はまた話を続けた。
「お母さんの浮気がお父さんにばれた。最近ずっと、お父さんとお母さんが夜遅くまで話してた。もうあの二人は離婚するつもりだ」
瞳から、涙がこぼれた。涙は頬を伝って、真っ白なカーペットの上に落ちていく。涙を拭う気力すらなかった。伊吹ちゃんに大切な話があるの。お母さんの言葉が、私の胸をきつく縛り上げていく。
「良いお父さんだった。お父さんとお母さんと三人で、ずっと暮らしていければ幸せだと思った。でも、お父さんはお母さんを許さなかった。お母さんも、先生に夢中だ。私のことなんて、本当はどうでもいいのかもしれない」
「そんなことないよ」
蛍の言葉は、私の中で無責任に響いた。頭の中がかっと熱くなる。私のことを心配しているみたいな顔も、私を苛立たせた。
「ほたるは私の家のこと、何も知らないのに」
思わず、鋭い声が出た。私は蛍を睨み付ける。蛍は一瞬だけ瞳を揺るがせた。でも、すぐに私のことをしっかりと見つめてきた。
「そうかもしれない。だけど、きっと大丈夫。大丈夫だよ」
蛍が私の涙を拭こうと手を伸ばす。私はその手を振り払った。バチンと鞭を打つような音がした。蛍が後ろに倒れそうになる。
「そんな気休めの言葉いらないっ。蛍は、お父さんとお母さんに愛されて幸せに育ってきた。蛍には私の気持ちが分からない。お父さんが変わって、住む家も変わって、苗字も変わって、それでも私はお母さんにずっとついてきた。お母さんは私のことなんて、考えてくれない。すごく自分勝手だ。私だって、優しいお父さんとお母さんのところに生まれたかった。嫌になるくらい愛して欲しかった」
私は叫んだ。口の中から、ぐちゃぐちゃになった私の心が、言葉になって溢れ出す。喉がきりきりと痛む。蛍の顔をちゃんと見られなかった。
先生が憎い。あの人たちの愛は、こんなにも汚い。
「確かに、私には伊吹ちゃんの気持ちは完全には分からないかもしれない。でも、私は伊吹ちゃんのこと、分かりたいって思うの」
蛍は私の手を握った。混乱する私がその手を振りほどこうとすると、蛍は私の手を力強く握って離さなかった。
「私はね、ずっと伊吹ちゃんの傍にいるよ。伊吹ちゃんの傍で、伊吹ちゃんのこと大切にするから」
蛍はそう言って、力強く微笑んだ。その温かい笑みに安心して、身体からどっと力が抜けた。私は赤ちゃんのように声を上げて泣いた。蛍はその間もずっと、私の手を握り続けていた。
私はずっと誰かに助けてもらいたかった。私は、お母さんに手を引かれて、どこまでも行こうと思っていた。私はお母さんを一人にしたくなかった。少女みたいなお母さんとずっと一緒にいなければと思っていた。
だって私は一人になりたくなかった。
誰かに傍にいて欲しかった。たくさん愛して欲しかった。温かくて優しい何かで、私の孤独を埋めて欲しい。空っぽの私を満たして欲しい。安心したい。手を握って欲しい。本当は、ちゃんと目を見て、大丈夫だよと言って欲しかった。
蛍は私の欲しいもの、全部くれた。ずっと私の傍にいてくれると言ってくれた。
この手を離さないで欲しい。愛を恐れて、殻に閉じこもる私を、蛍が助け出してくれた。
蛍と離れたくない。私はもう、蛍を愛することが怖くない。
「ほたる、酷いこと言って、ごめん」
「うん」
蛍はきゅっと指先に力を込めた。
「もう少し、こうしてたい」
「うん」
私達の手は、とても熱くなっていた。
お父さんとお母さんは、本当に離婚することになった。私とお母さんは、お母さんの実家で暮らすことになった。お母さんの実家は、四辻の家の近くだった。引っ越しの準備をする日々が続いた。放課後になると、私は途中まで蛍と一緒に帰って、その後に家で荷物を段ボールに詰めた。四辻に部活に誘われたけど、それも断った。
引っ越しを重ねるたび、私の持ち物はどんどんと減っていった。私の荷物は少なかった。問題は、お母さんの荷物だった。お母さんはお買い物が好きで、持ち物の量も多かった。衣料品やバック、化粧品にアクセサリー。お父さんは私達の引っ越し作業を手伝わないと決めていて、朝早く仕事に行ってから、夜遅くに家に帰ってきた。
引っ越し当日、業者の人がトラックに荷物を詰め込むのを見ていると、お父さんが私の隣にやってきて言った。
「伊吹には幸せになってほしいな」
私は少し困った顔をしてお父さんの顔を見つめた後、心を込めて微笑む。
「うん。お父さんも幸せになってね」
お父さんは穏やかな目をして笑っていた。水色のマグカップは家に置いていくことになった。
おばあちゃんとおじいちゃんの家では、お母さんが子供の時に使っていた子供部屋を使わせてもらえることになった。お母さんの部屋は、壁紙が白い花柄で、カーテンが若葉色をした心地良い狭さの部屋だった。
勉強机、チェスト、ベットを置くと、部屋はさらに窮屈になった。おばあちゃんとおじいちゃんの家には、小さい頃から何度も来ていたから、新しい生活にはすぐ慣れた。おばあちゃんの作るご飯は、栄養たっぷりで美味しくて、いつも食べ過ぎてしまう。
金曜日の夜、私が居間でおじいちゃんとテレビを見ていると、四辻からメールが来た。明日家に来ないかと書いてあったので、行くと返事をする。四辻の家はすぐ近くだから、遊びたいときにいつでも遊べる。
次の日、私はお菓子を持って、四辻の家に向かった。四辻の部屋には、大きなテレビと、最新のゲーム機がある。私達は対戦機能のあるゲームを選んで一緒にプレイした。四辻は普段やり込んでいるからか、ゲームの腕前はなかなかのもので、私は負けてばかりだった。
「伊吹、本当に弱いなぁ」
手慣れた様子でコントローラーを握る四辻がけらけらと笑う。負けず嫌いなわけではないけど、こんなに負けるのは面白くない。私は少しむっとした。
「いや、私が弱いわけじゃない。よつじが強いのが悪い」
「何で私のせいなんだよー」
四辻が右手で軽く私をどつく。私は笑いながらキャラメル味のポップコーンを口に含んだ。
「昔は私の方が強かったのに」
中学生の頃は、お菓子とか、ジュースとかを賭けたりして、私は何度も四辻を負かしていた。私に何度も対戦を挑む四辻は、負けると一瞬だけど、本当に悔しそうにする。いつも笑顔の四辻が見せるその顔は、何度も見ても新鮮に思えた。四辻も悔しいって思うんだ、と当たり前のことに気がついた。
いつの間にか、四辻はこんなに強くなっていた。
「今度対戦したら伊吹を負かしてやろうと思ってたくさん練習しましたから」
「よつじは負けず嫌いだ」
四辻は画面を操作しながら、ちらりと横目に私を見た。
「まあね」
四辻が笑うと、白い八重歯が見えた。四辻が足を伸ばす。長くてすっきりした足だった。足首にはアンクレットがつけられている。銀色のチェーンに、四葉のチャーム。
四辻は、昔からクローバーのモチーフのものが好きだった。机の上に置かれた四辻の携帯には、夏休みに旅行した時に買った四葉のストラップが付いている。好きなものが変わらない四辻。そういうところがいいなといつも思う。
「よつじは物持ちがいい」
「え、そう?」
四辻が首を傾げて、ポテトチップスをぱりぱりと齧った。四辻は赤い舌で手についた油をぺろりと舐める。
「私がずっと昔にあげたアンクレットとか、このまえ一緒に買ったストラップとか、よつじは大切につけてくれてる」
自分の作ったアクセサリーをいつもつけてもらえるこの喜びは、きっと四辻の想像以上だ。アクセサリーは直接肌に触れる物。だから、大切にしてもらえるのは、とても嬉しい。
「伊吹のことうっかり忘れないようにと思ってね」
四辻が肩をすくめてへらへらと笑う。私が四辻のおでこにでこピンすると、四辻は「痛っ」と大げさにおでこを押さえた。
「私はよつじにうっかり忘れ去られるような存在なのか」
冗談なんだろうけど、なんだか嫌だ。私が不満げな声を出すと、四辻は涼しげな目を細めた。
「絶対、忘れないだろうね。伊吹が私のこと忘れちゃっても、私はずっと、伊吹のこと覚えてる」
変なことを言うな、と思った。私が四辻のことを忘れるわけないのに。中学時代、もしも四辻がいなかったらきっと、今の私はいない。お母さんの嘘も、身体の中で暴れるぐちゃぐちゃとしたこの思いも、四辻に出会ってやっと吐き出せた。吐き出せて、私は少しだけ身体が軽くなった。
「私だってよつじのこと絶対に忘れない」
「そうだったらいいなって、いつも思うよ」
四辻が不揃いなまつ毛を伏せる。四辻の声は暗かった。一人で海の底に沈んでいるみたいな、とても悲しい声だった。
「よつじ?」
どうして、そんな顔をするんだろう。私には分からなくて、分からないこと自体が四辻を苦しめているのかもしれないと思った。初めて、四辻が遠くにいるような気持ちになった。
四辻は膝を抱え、ため息を落す。四辻は灰色の瞳で、短い間だけ私を見つめると、私の肩を強く押した。私は突然のことに驚き、そのまま床に倒れてしまった。どんと身体を打ち付ける音が響いて、遅れて痛みがやってくる。私が痛みに顔をしかめていると、四辻が私のお腹の上に馬乗りになって、身動きがとれなくなった。四辻はそのまま、私の両手首を掴んで、押さえつけた。
「伊吹は私のこと、どんどん忘れていってる。自分じゃそれに気づかないでしょ。でも私にはよく分かる。あぁ、私、忘れられてるんだなって、いつも感じてる」
四辻の瞳も四辻の声も、ぞっとするほど冷たかった。私はその視線や声から逃れようと身をよじろうとするけど、四辻はびくともしなかった。息が浅くなってきて、私は焦る。
「私はよつじのこと、忘れてなんかいない。よつじ、早く離して」
「嫌。無理。ねぇ、伊吹、私は伊吹に忘れてもらわない為に、どうすればいい? 何をしたら伊吹の一番になれるの?」
四辻は私の手首を掴んで纏めると、私の頭の上に持っていき、片方の手で押さえつけた。四辻はもう片方の手で、私の太ももの内側をゆっくりと撫でた。触れられた部分から、微粒な電流が走り、ぞくぞくと背筋が震えた。私の吐息は揺れて、瞳には熱い涙の膜ができた。
いつもへらへらとおどけているはずの四辻が、全くの別人になったみたいで怖かった。私が目を瞑ると、私の頬に冷たい涙が落ちてきた。私は驚いて目を開ける。四辻が泣いていた。四辻の涙は、筆の先から雫が滴り落ちるように、ぽたぽたと私の頬や首筋に落ちてくる。
「頑張れば頑張るほど、伊吹が遠くなってくのはどうしてなの。伊吹はいつも、蛍のことばっかり。私、中学校の頃はずっと安心してた。私は伊吹の一番だって思ってた。同じ高校に入って、これからも一緒にいられるなって。だけど、違った。伊吹は蛍を見つけた。伊吹は蛍と出会って変わった」
「よつじ」
上手く声が出なくなって、私は小さな声で四辻を呼んだ。四辻はきつく目を閉じると、子供のように首を振った。
「私、知ってるよ。伊吹がいつも作ってるピアスが全部蛍のためのものだってこと。蛍がたくさんピアス開けてるってことも、私ね、全部気づいてた。だけど、知らないふりしてた。この前、蛍が伊吹にキスしてたとこだって、私見ちゃったんだよ。伊吹だって、私に見られたかもしれないってドキドキしてたでしょ。でも、私の演技の方が上だったね。伊吹、キスされたのがばれてないって思って、ほっとしてたの分かるよ。私ね、伊吹にたくさん嘘ついてきたの。伊吹の隣にいたくて、伊吹の一番になりたくて、私は嘘をつき続けてきた」
はっとした。四辻の演技は完璧だった。私は四辻の言う通り、キスがバレていないと思ってほっとしていた。中学生の頃から、四辻は演技が上手だった。手品を見せれば、誰もが騙された。
私はずっと、気付かなかった。四辻の嘘の下に隠された、本当の四辻の姿に。
四辻は嗚咽をこらえるように口を閉じ、息を止め、また話し出した。
「でもね、どんなに上手く嘘をついても、どんなに完璧な演技をしても、私の願いは叶わなかった。伊吹、お母さんに離婚の話を切り出されそうになった時、蛍の家に行ったんだよね。中学生の時の私達だったら、伊吹が蛍と出会ってなかったら、伊吹は絶対、私のところに来てくれたはずなんだよ。だって、伊吹の家の事情を知ってるの、私だけなんだから」
四辻は鼻を啜り、唇を震わせた。
「伊吹がうちの隣に引っ越してきてくれて、私、すごく嬉しかった。これで、伊吹と一緒に遊んだり、伊吹と一緒に家に帰ったり出来るなって思った。だけど、伊吹は、毎日蛍のことを家まで送ってく。蛍の家まで行くのなんて、遠回りになるだけじゃん。伊吹、私と家に帰ってくれたことなんて一回もないよね。あのさ、私」
四辻は一瞬、言葉の意味も、喋りかたも、何もかも忘れたような表情をした。そしてその表情は、すぐに歪む。四辻は私に今の顔を見て欲しくないみたいに俯いた。
「私、今、寂しい」
四辻の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。四辻の私の手首を押さえつける力が緩んだ。私は両手に力を込め、四辻の拘束を振りほどく。身体を起こし、四辻を抱きしめた。四辻の身体は、生まれたての子猫のように柔らかく、頼りなく感じた。
「ごめん、よつじ」
「伊吹、私、伊吹のことが好き」
四辻が苦しそうに嗚咽を漏らす。それでもなお、言葉を続ける。
「私ね、中学生の頃から、伊吹のことが好きだったの。ずっと、ずーっと、好きだったの。でも、伊吹は恋を恨んでた。人を愛することを嫌ってた。だから、この気持ちは私だけのものにしようと思ってた。でも、もう駄目。ごめん、伊吹。私、伊吹のことが好き」
「ありがとう、よつじ。でも、私は、ほたるのことが好きだ」
「知ってるよ、そんなこと」
私の肩におでこを乗せた四辻は、泣きながら笑った。