文化祭が終わると、学校は何事もなかったかのように、いつもの日常に戻っていった。非日常はいつだってあっという間だ。クラスの人達はまだ遊び足りないのか、お祭り気分が抜けきらなくて、最近はさらに騒がしい。
私は授業が終わると、今日も保健室へ行った。保健室では、蛍が一人で本を読んでいた。今日は一日中雨が降っていて、頭がずきずきと痛んだため、私はお昼ご飯の後に薬を一粒飲んでいた。雨の日の保健室は、冷たい雨から守られている感じが、秘密基地に隠れているときのわくわくした気持ちによく似ている。
「今日は先生いないの?」
今日は窓を背にどんと構えられたデスクに先生の姿はなく、ラジオも流れていなかった。
「そうだよ。今日は午後から出張」
蛍がブックカバーをかけた文庫本から顔を上げる。窓の外を眺めて、「たくさん降ってるね」と言う。
「どしゃ降りだ。記録的な大雨になるってニュースで言ってた」
私はベットに腰掛ける。そしてそのまま横になった。あまり使われることのないベットは真っ白で、清潔な匂いがした。私はぺたんとした枕に頭を乗せる。
「伊吹ちゃん、お昼寝するの?」
「今日はちょっと、疲れたから寝ようと思う」
丁度先生もいないし、ちょっとくらいベットを借りても怒られないだろう。
「そっか。五時くらいになったら起こすね。あまり遅くなっちゃうと、帰るのも大変そうだから」
「分かった。よろしく」
本を膝の上に置いた蛍が優しく目を細める。一人掛けソファーの横に置かれたテーブルの上のマグカップから、ふわりと白い湯気が立ち上っていた。リンゴの香りがする。
蛍が傍にいてくれると安心する。私は心地よさに包まれながら、布団の中に潜り込む。灰色の世界が私を包んだ。
目を閉じると、とろりとした温かさが瞼の裏を覆った。重たかった頭が、ふわふわと軽くなる。私は激しい雨音と共に、深い眠りに落ちていった。
随分と楽しい夢を見た。目を覚ました私は、とても愉快な気持ちで、先ほどまで見ていた夢の内容を鮮明に思い出そうとした。窓の外は夜中みたいに暗い。どれくらい寝ていたのか分からず、時間の感覚が曖昧になっていた。蛍がまだ本を読んでいるということは、五時にはなっていないのだろう。
私は身体を起こして、保健室の時計を見上げた。午後七時三十五分。私は思わず、「あれ」と首を傾げる。私はこんなに長い間寝ていたのだろうか。でも、時計が壊れているわけではなさそうだ。私が起きたことに気が付いた蛍は、読んでいた本が余程面白かったのか、充実した表情で本を閉じた。
「おはよう。伊吹ちゃん」
蛍の手元に置かれたマグカップの中身は、もう冷めていた。
「ほたる。今、七時だよ。私、いつの間にか爆睡してた」
「えっ。七時?」
蛍が壁にかけられた銀色の縁の時計を見上げる。驚いて声も出ない蛍が、両手で口元を覆った。蛍が深刻な顔になって必死に謝ろうとするのを、私は自分の唇に人差し指を当てて「しーっ」と制した。蛍はしゅんと肩をすぼめて、うなだれるように小さく頷く。
「帰ろう。ほたる」
「うん。そうだね」
私は窓の方へ目を向けた。雨はさっきよりも酷くなっている。一応、傘は持ってきたものの、家に帰る頃にはびしょびしょになっているかもしれない。蛍が帰り支度をするのを待って、保健室の扉を開けようとすると、扉が動かなかった。
「鍵、かかってる。多分外から」
「どうしよう」
完全下校時刻が過ぎたので、係の人が戸締りをしていったのかもしれない。多分、私達がいることに気がつかなかったのだろう。
蛍が涙目になって、扉に手を掛ける。金属のぶつかり合うカチャカチャという音がした。雨は止みそうにない。鋭い雨粒が建物や地面を激しく打ち付けていた。お風呂のシャワーの水を最大出力で出したような勢いのある音が、締め切った窓越しに聞こえてくる。蛍は半ばパニックになっていた。
「開かない。仕方ないからあっちのドアから出よう」
私は保健室から駐車場や校庭へと抜けることが出来るドアを指さす。
「あっちのドアは壊れてるの」
蛍が絶望的な声と表情で言った。私は一応、そのドアを開けようとするも、やっぱり開かなかった。
「まいった」
私は窓を開けて、窓から出られるかどうか確認する。窓から顔を出すと、冷たい雨が私の頬にぶつかった。土や建物が湿った時の独特な匂いが辺りに充満していた。
窓の下には、角を丸く刈り取った植木が生えていた。頑張れば出られないこともなさそうだけど、私にも蛍にもこれを飛び越えられるだけの脚力はなさそうだった。
「出るのは難しそうだ。ほたる、先生とかに連絡してくれる? 私、今日携帯忘れた」
私は携帯を持ち歩くのを時々忘れるから、いつも四辻に注意される。今日も家に忘れてきてしまった。
「うん。分かった。待っててね」
蛍が鞄から携帯を取り出す。画面を見つめた蛍は動かなくなった。私はすぐにその理由に気が付く。
「もしかして、充電切れてる?」
蛍がこくこくと頷く。
「ごめんね。伊吹ちゃん」
蛍が今にも泣きだしそうな顔をした。なんだか、強歩大会の時のことを思い出す。ぼーっとしてる私と、ドジっ子の蛍。私達はクラスの人達からちょっとだけずれている。少しの間、考えを巡らしていた私は、面白いことを思いついた。背負っていたリュックサックを足元に下ろすと、どさっとソファーに座り込む。ぴんとした革張りの背もたれに背中を預けると、妙に気持ちに余裕が生まれる。
「よし、今日はここに泊まろう」
苦しそうな顔でスマートフォンを握りしめていた蛍が、呆気にとられたように目を見開く。
「ここに泊まるの?」
「うん。一応シャワー室もトイレもあるし、ベットもある。一晩だけ過ごすには、困りはしないと思う」
蛍は斜め下に視線をやり、しばらく考え込んでいた。やがて、ひっそりと微笑んだ。
「学校にお泊まり。ちょっとわくわくするね」
蛍はラジオの電源を入れて、音量を上げた。穏やかで豊かな声をした男の人が、番組宛てに送られてきたメールの紹介をしている。
私は新しく紅茶を淹れると、蛍と二人でそれを飲んだ。蛍の好きなマスカット味の紅茶。マスカットを煮詰めたようなとろりとした甘い香りが部屋を漂う。温かい紅茶は喉を通って、体中に染み込んでいくみたいに感じた。
蛍の鞄に入っていたたくさんのお菓子がお夕飯だった。チョコレートに、クッキー、バームクーヘン。蛍とおしゃべりしながら食べるお菓子は特別に美味しかった。
お夕飯を済ませた後は、交代でシャワーを浴びた。シャワーからでるお湯が急に冷たい水になったので、びっくりした。シャワールームに置いてあったバスタオルは、白くてふわふわだった。
保健室にドライヤーはなかった。まだ髪が濡れたままの私達は、一緒に勉強をした。私は今日の分の宿題をやった。難しい問題の解き方を、蛍が丁寧に教えてくれたから、宿題はすぐに終わった。私のノートに書かれた黒猫の落書きが面白いと蛍が褒めてくれて、二人で絵しりとりをやった。蛍の描く動物は可愛かったし、食べ物は美味しそうだった。二人で描いたイラストがノートのページを埋めていくのが嬉しくて、私達は顔を見合わせて笑い合った。
午後九時になると、「そろそろ寝ようかな」と蛍が言った。
「そっか。ほたるはいつも九時に寝てるのか」
「うん。お母さんとお父さんがね、夜更かししちゃダメって言うの」
「私はいつも十一時くらいに寝てる」
本当は、夜の一時くらいまで起きていることもあったけど、規則正しい生活を送る蛍には秘密にしておくことにした。
蛍は両手の指を組むと、尊敬の眼差しで私を見る。
「すごい! 伊吹ちゃん大人だね」
「すごいことじゃない。ちゃんと早く寝られるほたるはいい子だ」
私が言うと、蛍は首を横に振った。
「でもね、夜ってとっても長いでしょ? 私は眠りすぎなの。なんだか、もったいない気がする。もう少し起きてれば、本だってもっとたくさん読めたし、音楽だって色々聞けると思うんだ。でも私は九時になると眠くなっちゃう」
蛍は自分が何時間寝ているのか指を折って数えて、その睡眠時間の多さにため息をついた。そんな蛍の隣で、私も睡眠時間を数えてみる。睡眠時間って、どれくらいが理想なんだろう。平日は授業中に寝てしまうし、休日はずっと昼寝をしてしまう。
「確かに、遅くまで起きてれば、本とか音楽とか楽しむ時間は増えるけど、寝るはいい事だと思う。私は寝てる時間も好きだ。夢を見るのが楽しい」
「伊吹ちゃんもそうなんだ! 私もね、夢見てる時間が楽しいよ」
蛍は瞳をきらきらと輝かせる。
「最近は夢にほたるが出てきた」
確か、私は夢の中で幼い女の子のように、蛍とシロツメクサの王冠を作ったり、四つ葉のクローバーを探したりしていた。蛍との時間は、甘くて優しかった。でも私は心の中で、これは夢かもしれないと気づいていた。世界に私と蛍が二人だけなんて、あまりにもできすぎた幸福だったから。そうしたら、すぐに目が覚めてしまった。
「ほんとに? あのね、伊吹ちゃんの夢に私が出てきたのは、私が伊吹ちゃんに会いたいと思ってたからなんだよ。昔本で読んだんだ」
「そっか。なら嬉しい」
興奮気味に身を乗り出して話す蛍が愛らしくて、笑みがこぼれる。私は蛍のこういう子供っぽいところも、大好きだった。
「私の夢にもね、伊吹ちゃんが出てくるんだよ。何して遊んだのかは覚えてないんだけどね、すごく楽しかったんだよ」
「私もきっとほたるに会いたかったんだと思う」
いつだって蛍に会いたがっている私の気持ちがばれてしまった気がして、ちょっと恥ずかしい。
「嬉しいな。毎日伊吹ちゃんが夢に出てきてくれたらいいのに」
蛍は無邪気にはしゃぐ。ラジオからゆったりとしたジャズの曲が流れる。私も毎日夢で蛍に会いたい。蛍の夢と私の夢が繋がっていたらいいのにな、と思う。
「いいよ。毎日会いに行く」
「約束だよ?」
蛍が私の瞳を覗き込んでくる。私を試すようないたずらっぽい表情なのに、瞳の奥には私のこと疑うことなんて知らないみたいな純粋な光が浮かんでいる。
「うん」
私の言葉を聞いた蛍は両手を合わせると、頬をピンク色にしてはにかんだ。蛍は髪の毛を耳に掛けると言った。
「私ね、伊吹ちゃんにお願いがあるの」
私の瞳は黄色いピアスに吸い寄せられる。私の開けた穴。蛍につけた印。蛍が私だけのものになればいいという、独占欲の証。
「どうしたの?」
「寝る前にね、ピアスを全部外そうと思って。伊吹ちゃんに外してほしいな」
「分かった」
蛍が私に耳を近づけてくれる。ピアスだらけの蛍の耳は、ごつごつしているように見える。誰かのピアスを外してあげるのなんて、初めてだ。私はキャッチとピアスをつまんで、蛍の耳が痛くならないように注意しながら引っ張った。ぷち、と小さな音と共に、ピアスが外れる。私は外したピアスを机の上に置いた。
「伊吹ちゃんに開けてもらったピアスは、まだ外さないで」
「うん」
私は一つ一つピアスを外していった。右側の穴は五つ。左側の穴は六つ。私が開けたピアスは残して、蛍が耳につけていたピアスを全部机の上に並べた。たくさんの、金色と銀色。
蛍の耳に空いたピアスの数はきっと、蛍の心の傷を表している。蛍は悲しいことがあるたびにピアスを開けている。
蛍のことを守りたい。繊細で、怖がりで、宝石みたいにきらきら輝く心を持った蛍を。
蛍は私が初めて好きになった人。もう誰も愛したくないと思った私が、初めて愛した人。
どうしようもないくらい、蛍が好き。愛おしくて仕方ない。
蛍と一緒にいられる時間が少しでも長く続いて欲しい。
私は今でも蛍の耳たぶで光る黄色を見ると、喜びに浸ってしまう。蛍が自分だけのものになったみたいな気がするから。きっと私の心は、蛍みたいに綺麗じゃない。
「全部取れた」
「ありがとう」
蛍は穴だらけの耳をそっと撫でて、髪の毛で隠した。
「なくさないように、どこかにしまっておいた方がいい」
「うん。分かった」
蛍がピアスを集めてポーチにしまう。私も机の上を片付けて、寝る準備をした。机の上を綺麗にすると、蛍は少しだけ目を伏せて、私の耳元で囁いた。
「あのね、同じベットで寝たいな」
砂糖みたいな、甘い声。心臓が跳ね上がりそうになって、私は自分の胸を押さえつける。蛍と一緒に寝るなんて、嬉しいけど緊張する。どうしよう。でも、蛍と同じベットで寝たい。
「いいよ」
そわそわした私の声に、蛍はふんわりと微笑んだ。
電気を消して、私達はベットに横になった。保健室のベットは二人で眠るには狭くて、少し窮屈だったけど、それが嬉しかった。