4

 

 

 夏休みが終わるまで、蛍に連絡出来なかった。蛍に嫌われたかもしれない。そう思うと、怖くて、また泣いてしまった。

 夏休みが終わる前の日に、四辻が私の家に来て、宿題を手伝ってくれた。旅行の時に塗ってもらったネイルも、除光液で落としてくれた。

 四辻に、「夏休み中蛍と遊んだ?」と聞かれたから、お祭に一度行ったきりで、それ以降は遊んでいないと答えた。四辻はそれ以上何かを聞くこともせず、「ふぅん」と言うだけだった。

 蛍からも、連絡はこなかった。私は心のどこかで、蛍が電話やメールを送ってきてくれることを期待していた。今まで、蛍の方から連絡をしてきてくれたことが一度もないことに、今更ながら気が付いた。蛍は私に応えてくれていただけだったのかもしれない。

 頭痛は酷くなる一方だった。あの夏祭りの夜に戻って、自分の言葉を帳消しに出来るのなら、私はなんだってしたと思う。部屋にこもって、布団の中に潜り込むだけの私は、蛍の香りさえ思い出せなくなった。

 四辻が家に帰る前、玄関で黒いハイカットのスニーカーを履く四辻に、私はぽつりと言葉を漏らした。

「ほたるに嫌われたかもしれない」

 玄関のタイルにつま先を、とんとんと軽くぶつけていた四辻は「それだけはない」と言って笑うと、扉を開けて帰っていった。私は四辻がいなくなった後も、しばらくの間玄関で立ちっぱなしでいた。四辻のどこか寂しそうな笑顔が、瞳の奥に張り付いて離れなかった。

 

 

 夏休みは、いつか必ず終わる。私なんかじゃ、それを止められない。夜が終われば朝がきて、二学期の始業式がやってきた。

 体育館の中は蒸すように熱い。校長先生の退屈な話はなかなか終わらなくて、私は膝を抱えて座ったまま、天井の網にかかった、汚れたオレンジのようなバスケットボールをぼんやりと眺めていた。

 きっとこの体育館に蛍はいない。蛍は涼しい保健室の中で一人、本を読んでいるかもしれない。流石に夏は暑いのか、横並びになった教師の列の端に立つ保健室の先生は、首にストールを巻いていなかった。

 終業式の後の教室には、気だるい空気が流れている。もっと遊んでいたかったのにという不満の色が、どの子の表情からも読み取れた。

「今日は保健室へ行くの?」

 帰り支度を終えた四辻が聞いてきて、私はどきりとした。

「いや、多分行かない」

 私は机の上の消しゴムのカスを手で払った。

「私は行くけど」

「え、なんでよつじが?」

 四辻はにやりと笑みを浮かべると、大げさなくらいに胸を張った。

「今日、始業式の帰りに保健室の先生に話しかけられてさ、新しい手品を見せてくれって言われたんだよ。実は夏休みに入る前にそういう約束してて、夏休み中に練習してたんだ。世界初披露だよ? 伊吹も私のマジックショーに招待してあげようか」

「結構です」

 いつの間にそんな約束をしていたんだろう。四辻が引き受けたのが少し意外だったけど、あの先生に頼まれたら誰でも断れないだろう。

 リュックを背負って家に帰ろうとする私の腕を、四辻がガシっと掴む。

「ちょっと待って! お願いです。一緒に来てください。あの先生の元に一人で向かうのが不安なんです」

 四辻が縋るような目で見てくると、私の意思が僅かに揺らぐ。

「でも、行きたくない」

「お願い! 糸こんにゃくおごってあげるから」

「いらない」

「伊吹だけが頼りなの」

「……分かった。行く」

 四辻にしつこく懇願され、ついに私は折れた。蛍がもし私のことを嫌いになったのなら、それは私のせいだ。私が悪い。保健室に行くのはこれで最後にしようと思った。

「ありがと。伊吹。この御恩は一生忘れません」

 四辻がへらへらと笑って、リュックを背負い直す。

「明日には絶対忘れてる」

 私は小さくため息をついた。

 私達が保健室の中に入ると、先生と話をしていたらしい蛍が、すっくと立ち上がった。

「伊吹ちゃん」

 蛍はまっすぐに私を見ていて、私は目を逸らしたくなった。この瞳に見つめられるのは、夏休み以来だ。とても長い時間だった。私は、夏休みが永遠に終わらなければいいのにと願いながら、早く夏休みが終わってくれればいいと思っていた。ひたすらに落ち込んで、ひたすらに苦しかった。

 蛍は何も言えずに顔を俯かせる私に近づいてくると、ほわーっとした笑みを浮かべた。

「久しぶり。伊吹ちゃん。この前は大丈夫だった?」

「うん、まぁ」

 蛍は割れやすい花瓶に触れるように、私の頬にそっと手を当てた。私は突然のことに、目を見開いたまま固まってしまう。甘いシャボンの香りがする。忘れてしまったはずの、蛍の香り。

「あの時、伊吹ちゃんすごく顔色悪かったんだよ。でも今日は顔色良いね。あんまり連絡しちゃうと、心配しすぎって思われちゃうかなって思って、我慢してたの。私もね、伊吹ちゃん大好き! こんなに仲良くなれた人、初めてだったから」

 蛍はそう言って、太陽みたいに明るい笑顔を浮かべた。

 それまでテレビのノイズのように掻き乱れていた私の頭の中は、すぅっと鮮明になった。

 蛍は私が勢いで告白しかけたことに気が付いていない。

 鈍い蛍。鈍くて、可愛い蛍。大好きだ。

「ありがと。ほたる」

 安心したら、身体から力が抜けそうになった。私は蛍の丸い頭を撫でる。蛍は嬉しそうに目を細めた。蛍の甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ私は、二人掛けのソファーに座り込んだ。私の隣に蛍も座る。

 熱くなった頬とおでこがゆっくりと冷えていく。心配や不安を急に失った身体は、風船のような頼りない軽さで、油断するとどこかに飛んでいきそうだった。

「四辻、そろそろ手品を見せてくれない? 私、朝からずっと楽しみにしてたんだけど」

 先生が言うと、四辻は優美な笑みを浮かべて「了解です」と返事をする。二人のそのやり取りには親密さがあって、いつのまに仲良くなったんだろうと不思議に思った。

 私達は四辻に新しい手品を見せてもらった。一枚ずつカードを重ねていって、全部で四つの山を作る。先生のストップの言葉で、次の山を作っていく。最後に四つの山の一番上のカードをひっくり返すと、全部エースというものだった。夏休みに練習していたと言うだけあって、四辻の手捌きは手品師のように華麗だった。演技も上手くて、どういう仕掛けなのか、見ている側に分からせない。

蛍はぱちぱちと鳴り止まない雨のような拍手をした。いつも大抵の物事を退屈そうに眺めている先生は、四辻の手品を見て、目を爛々とさせた。先生はもう一度見たいと、四辻にアンコールする。

 結局私達は、同じ手品を四回も見た。先生はとても満足そうだった。

 

 

 二学期が始まって少し経ったころ、放課後の保健室で蛍が言った。

「私、授業に出てみたいな」

 氷を入れた冷たいアイスティーを飲んでいた私は、驚いて蛍の方を見る。蛍はイチゴ柄のグラスを両手で持ちながら、落ち着いた笑みを浮かべていた。

「ほんとに?」

「ほんと」

 蛍が頷く。私は「うーん」と唸った。教室に行きたいと思えた蛍はとても偉いし、そう決断する勇気を出せたのはすごいことだ。だけど、教室にはたくさん人がいる。蛍の苦手な、同年代の男の子や女の子達。私のクラスはいつも騒がしくて、蛍は参ってしまうんじゃないかと心配になった。

「どうして急に?」

「あのね、伊吹ちゃんと四辻ちゃんがいる教室に、ちょっとだけでもいいからいってみたいなって思ったの」

 蛍はシトリンのように透き通ったアイスティーを見つめている。その瞳は期待と希望に満ちていた。

「いいじゃない。一度行ってみれば。案外楽しいかもしれないわよ」

 先生は何一つ心配してないみたいな顔で言った。私は先生に、自分の子供を突き飛ばすライオンに似た何かを感じたけど、蛍は先生に同意してもらったのが嬉しかったみたいだった。

「明日、授業に出てみます」

 蛍が先生に対して、朗らかな声で言った。

「頑張りなさいよ」

 先生が口の端を吊り上げる。ラジオから、知らないバンドの曲が流れていた。

 

 翌日、蛍は宣言通りに教室に現れた。朝のホームルームの十分前のことだった。

 蛍は教室に入ってくると、迷子になった子供みたいに困った顔で、きょろきょろと教室の中を見回した。自分の席がどこにあるのか分からないんだ、と気が付いた私は、蛍を私の後ろの席に案内する。

 蛍は机の上にスクールバックを下ろすと、教室の空気をたっぷりと吸い込んだ。今日は曇りで、窓の外は灰色のフィルターがかかったように薄暗く、教室の空気もどこか湿っていた。

「私の席、伊吹ちゃんの後ろなんだね」

 蛍は顔をほころばせると、席についた。蛍の姿は何故だか教室に馴染まなくて、学校に入学したばかりの小学生のような初々しさと危うさがあった。私は気持ちがそわそわしてしまう。

 クラスの人達も、二学期になって急に登校してきた蛍が気になるみたいだった。ちらりとこちらに目を向ける人がたくさんいたし、ひそひそと話し合う子達もいた。上機嫌な蛍はそれに気づかす、全開になった窓から、都会に近づききれない田舎町を見下ろしている。「とってもいい景色」

 蛍が呟く。このまま無事に一日が終わってくれたらいいなと思った。担任の寿賀先生が部屋に入ってきて、朝のホームルームが始まった。

 一時間目、二時間目、三時間目と相変わらずクラスはうるさくて、先生は私達を叱り飛ばしながら、なんとか授業を終わらせていった。

 私は二時間目の数学の先生の怒鳴り声が苦手だった。雷みたいで、頭に響く。今日も先生は、私語をやめない男の子二人に対して怒号をあげ、その声に蛍も驚いたみたいだった。休み時間になると、蛍は胸のあたりを抑えながら、「先生、声が大きくてびっくりしちゃった。心臓が飛び出ちゃうところだった」と長く息を吐いたから、確かに、と私も頷いた。

 三時間目が終わると、私と蛍は机をくっつけて、四辻も呼んでご飯を食べた。

 蛍のお弁当箱は小さくて、たこさんウインナーや、冷凍食品の唐揚げが入っている。美味しそうなお弁当だ。

 私がもそもそとメロンパンを食べていると、蛍がウインナーをくれた。

「これしか食べないの?」と四辻が聞くと、「お菓子たくさん食べるから、我慢してるの」と蛍が答える。

「ちゃんと食べないとくすぐりの刑だぞー!」

 四辻が蛍の脇腹を掴むと、蛍は鈴の音のような笑い声をあげて、身をよじる。四辻とじゃれ合う蛍は楽しそうで、私はほっとした。

 四時間目は体育でバスケットボールだった。蛍は体育館の隅に座って見学をしていて、補欠の私はこっそりとチームを抜け出すと、蛍の隣に座る。

「先生の言った通りだったね。来てみると、案外楽しい」

 蛍は膝を抱えながら、夢中でバスケットボールを追いかけるクラスの子達を見ていた。ダムダムとボールの弾む重量感のある音が響いている。

「なら良かった」

 蛍に無理をしている様子はなさそうだった。いつも保健室にいるはずの蛍が教室や体育館に来て、一緒に授業を受けているなんて、不思議な感じだ。少しの不安もあるけど、やっぱり嬉しかった。私も蛍と一緒になって、クラスの子達の試合を見る。

 四辻がとんでもないところからシュートを決めようとして、ボールを投げた。ボールは綺麗な弧を描いて、すとんとネットに落ちる。やっぱり四辻は何か持ってる。四辻がこちらに向かって、大きく手を振ってきた。

「四辻ちゃん、すごい!」

 四辻のシュートに感動した蛍が手を叩く。四辻はそんな蛍に向かって、優雅なお辞儀をして見せた。

「あまり褒めすぎると調子にのるから」

 四辻は調子に乗ると面倒くさいのだ。いつも調子に乗っているようなものだけど。

「でも、ほんとにすごかったよ」

 蛍が興奮した声で言った。私はコートの中を自由に動き回る四辻を眺めた。しなやかな動作と、狙った獲物を確実に仕留めるような目。四辻は凛とした野良猫みたいだった。私とじゃれあってる時は、頭の悪い子犬みたいなのに、ああいう時は格好いい。

 四辻が鮮やかなドリブルで相手のゴールに突き進んでいく。それを止めようとする相手チームのメンバーを軽々と避けて、四辻はゴールにボールを投げた。ボールは滑るようにネットをくぐっていった。四辻は額に浮かんだ汗を拭う。試合終了のブザーが鳴った。

 体育が終わって、服を着替えた私達は、五時間目の科学の授業へ向かった。科学の教室は私達のいる生徒棟とは違って、特別教室棟にある。

「暑い」

 四辻が教科書をうちわ代わりにして、顔を扇ぐ。真ん中分けにした前髪がまだ濡れている。

「四辻ちゃん、すごくかっこよかった」

 蛍が四辻に尊敬の眼差しを向ける。四辻は気分が良さそうに片手を上げた。

「でしょ? サインしてあげてもいいよ」

「うーん、サインはちょっと……」

 蛍が控えめに首を傾ける。

「え! そこは普通欲しいって言わない?」

 四辻が蛍の肩を掴んで揺らした。そのやり取りが可笑しくて、私は笑ってしまう。

「そうだね。ほんとは欲しいかも」

 蛍が電球のように白くて明るい笑顔で言う。

「何年後かにすごい価値になってるから、ちゃんと大切に保管しといてね」

 四辻は蛍のノートの最後のページに、ぐちゃぐちゃのローマ字で自分の名前を書く。私は中学生の頃、四辻と一緒にサインの練習をしたのを思い出した。四辻が大物になる可能性はゼロではないけど、私なんかには絶対にサインを書く機会なんて訪れないだろう。四辻とはくだらないことばかりしている。

蛍は感動したように黒のマジックで書かれた文字を見つめた。

「夢琴ちゃん」

「男の子っぽい響きだからあんまり好きじゃないけど」

「綺麗な名前。サイン大切にするね」

 蛍が透き通った笑みを浮かべると、四辻は静かに目を細めた。確かに、綺麗な名前だ。四辻のことを夢琴と呼ぶと、四辻はすごくむずがゆそうな顔をするので、名前で呼ぶことはあまりないけど。

渡り廊下は、移動教室に向かう生徒たちで混み合っていた。

「前見ないと危ない」

 私は蛍に声をかける。頷いてノートを閉じた蛍は視線をあげると、射竦められたように急に歩みを止めた。

「ほたる?」

 蛍の表情からは笑みが消え、瞳が怯えるように揺れていた。蛍は唇を引き結ぶと、下を向いてそのまま、元来た道へ走り去ってしまった。

「えっ、何、急に」

 四辻が蛍の走っていった方を振り返る。蛍は曲り角を曲がって、すぐに背中が見えなくなった。何が起きたのか分からなかった。私達が歩みを止めると、四人組になって歩いていた別のクラスの男子生徒の肩が、私の肩にぶつかる。

「すみません」

 軽く頭を下げて謝ると、無視されてしまった。その男の子は長い髪を茶色に染めていた。ワイシャツをだらしなく出しっぱなしにしにして、分かりやすい不良と言った感じだった。

「私、蛍を探してくる」

 四辻が素早く駆けだしたので、私も後を追った。保健室や教室を見たけど、蛍は見つからなかった。下駄箱を見に行くと、蛍が靴を履き替えて、学校を出ていったのが分かったので、蛍に電話をかけた。何回かかけても電話は繋がらなくて、私と四辻は仕方なく科学の授業に向かった。

 学校が終わって、「大丈夫?」とメールを送ると、「ごめんね」と返信が来た。蛍はそれ以上のメッセージは送ってこなかった。私もしつこく詮索するのはよそうと思って、何も聞かなかった。

 次の日、私が保健室に行くと、保健室に蛍の姿はなかった。体調不良で欠席したそうだ。蛍が学校を休むのは珍しいことだった。

「あんたが毎日ここに来るようになってから、蛍は休まなくなったんだけど、元々体調崩しやすい子だったから」

 先生は私にアイスティーを淹れてくれた。私はアイスティーを一杯飲むと、保健室を後にする。

 私は学校帰りにそのまま、蛍の家に訪れた。体調が悪い蛍のために、コンビニでスポーツドリンクとぶどうのゼリーを買った。私が体調を崩した時、お母さんはいつもこの二つを買ってきてくれる。

 チャイムを押すと、インターフォンから蛍のお母さんの声が聞こえた。

「あぁ、あなた、伊吹ちゃん」

 蛍のお母さんの声は低く、耳に心地良い重さがあった。

「ほたるのお見舞いにきました。ほたる、大丈夫ですか?」

「まだあまり元気はないみたい。ちょっと待っていて、あなたが来たこと、伝えに行ってくる」

「ありがとうございます」

 ぷつりと音の途切れる音がする。しばらく待つと、蛍のお母さんが玄関の扉を開けた。蛍のお母さんは背が高く、テレビに出てくる女優や、雑誌の表紙を飾るモデルのような、迫力のある美人だった。蛍のお母さんは強い光の宿った彫りの深い目をしていた。

「蛍があなたに会いたいって言ってたわ。どうぞ、上がって」

「お邪魔します」

 私が玄関で脱いだ靴を整え終わると、蛍のお母さんが蛍の部屋へ案内してくれた。蛍の部屋は一階にあった。ドアにかけられた木製のプレートに、蛍の名前が彫られていた。

 蛍のお母さんがコンコンと扉をノックする。

「伊吹ちゃんが来たわよ。開けるわね」

 お母さんが蛍の部屋のドアを開けた。どうぞ、と赤いネイルの施された指の先で中へ促される。私は蛍のお母さんに頭を下げると、蛍の部屋に入った。

 蛍の部屋は、桃のような甘い香りに満ちていた。締め切ったカーテンは赤とピンクの小花柄で、ベットには白い天蓋がふわりとかかっていた。アンティーク調のドレッサーにはオーデコロンの小瓶が並び、白とピンクのタンスの上に、豪奢な洋服で着飾った人形が何体も飾ってある。

 天蓋のかかったベットの中で丸くなる蛍は、王子様の助けを待つお姫様みたいだった。蛍のお母さんが部屋を後にすると、私は蛍が横になっているベットに腰を下ろした。

「大丈夫? ほたる」

 蛍はぐったりとしているみたいだった。身体を起こした蛍の目は虚ろで、表情には疲労の色が浮かんでいる。

「伊吹ちゃん。来てくれてありがとう」

 蛍は今ある力を振り絞るみたいに無理して笑った。

蛍は弱ってもなお、私に心配をかけないようにと振る舞う。昨日、急に帰ってしまった理由を何も喋らないのは、きっと私に迷惑をかけないようにするためだ。

 臆病な私は、蛍の心にまっすぐに触れる勇気が出ない。いつだって、蛍から目を逸らすのは私の方だ。

 自分は蛍を守っているのだと思った。優しくて繊細な蛍を、自分が守らなきゃいけないと思っていた。蛍に傷がつかないようにと、大切にしてきたはずだった。

 守られていたのはきっと、私の方だ。弱くて臆病な私を、蛍はずっと守り続けていてくれた。

 疲れて、傷ついて、曇ってしまった蛍の目。私はあのビー玉みたいな輝きを取り戻したかった。私は蛍に近づいて、蛍の頬を両手でそっと包み込んだ。冷たくて、しっとりと肌に吸い付くような白い頬。

 私は王子様にはなれないかもしれないけど、それでも蛍を助けたい。

 蛍は目を瞬く。私は蛍の瞳をしっかり見つめた。薄暗い部屋の中で、蛍の瞳のなかに小さなきらめきを見つけた。

「昨日、何があったの?」

 蛍は急に泣き出しそうな表情を浮かべた。苦しそうに桜色の唇を引き結んで、左右に首を振る。

「ほたる。大丈夫だよ」

 長い沈黙の後、蛍は「あのね」と揺れた吐息を吐き出した。私は蛍から手を離して、蛍の声の一つ一つを手に取って抱きしめるようなつもりで、蛍の声に耳を傾ける。

「同じ中学校だった男の子がいたの」

「ほたるに告白してきた子?」

 蛍は萎れるように頷いた。

「同じ学校だって、知らなかった。渡り廊下で歩いてるの見つけて、そしたら中学生の時のこと思い出しちゃったの。怖くて、私、また逃げちゃった」

 蛍の瞳から、透明な涙がこぼれる。私は蛍の瞳から流れる涙を指ですくった。涙の粒は、私の指と蛍の頬の間で熱く溶けていった。

「ほたるのことは、私が守る」

 蛍が息を吞んで私のことを見た。

「私はほたるのことを大切にしたい。私はほたるといると、呼吸が楽になる。頭が痛くなくなる。薬じゃどうにもならなかったことを、ほたるは解決してくれた。魔法みたいだと思った。私は弱くて、臆病で、不器用だ。だけど、ほたるのことは絶対に守る」

「伊吹ちゃん。ありがとう」

 蛍は泣きそうな顔で笑った。私は小指を立てて、蛍に近づける。

「ゆびきりげんまんだ」

 私が言うと、蛍は強く頷いて、私に小指を絡めた。私が微笑むと、蛍は顔を真っ赤にして、布団を被る。

「どうしたの?」と聞くと、蛍はくぐもった声で「なんでもないよ」と答えた。随分と慌てている様子だった。本当にどうしたんだろう。蛍はしばらく布団から出てこなかった。

 

 

 次の日、蛍は身体の調子が良くなったらしく、学校に来ることが出来た。といっても教室へ来るのでは無く、保健室登校なのだけど。

それでも蛍が学校へ来られるようになってほっとした。放課後になって保健室へ行くと、蛍はベッドの上で学校から出された課題プリントをやっていた。

「ほたるは真面目だ」

 解答用紙の空欄はすべて埋められていた。そこにはしっかりと、蛍の努力の跡があった。蛍の文字は几帳面で丸みを帯びている。プリントに集中していた蛍は、私が急に話しかけてしまったからか、こちらがびっくりするくらい大きく反応した。

「真面目じゃないよ」

 蛍がぎこちない笑みを浮かべる。蛍は昨日から、なんだか少し変だった。急に顔を赤くしたり、ぐるぐると目を回していたりする。私は蛍の邪魔にならないように、ソファーに座って、イヤホンをはめ、ゲームをやった。

 夕方の五時を過ぎたころ、そろそろ帰ろうと思った私が帰り支度を始めると、「一緒に帰る」と蛍も勉強道具を片付け始めた。

 保健室を出て、ドアにかかったコルクボードの傾きを私が直していると、蛍が「あのね」と小さな声で話しかけてきた。私は蛍の声を聞きとろうと、蛍の口元に耳を近づける。蛍が背伸びをする。

 蛍の唇が、私の頬に触れた。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。私は目を白黒させた。どくどくと大きな音を立てる心臓が破裂しそうだった。蛍は私以上に驚いたらしく、目を見開いて口元を覆っていた。震える目の縁まで紅色に染まっている。

「ごめんね、伊吹ちゃん」

 蛍は張り裂けそうな声で言うと、スクールバックの持ち手を握りしめた。そのまま、私に背を向けて駆け出してしまう。夕方の廊下は、透明な空気を埋め尽くすような灰色をしていた。蛍は長い髪をなびかせて、どんどん遠くへ行ってしまう。小さな背中がさらに小さくなっていく。

 蛍を追いかけようとした私は、渡り廊下を通って、生徒棟へ向かう見慣れた後ろ姿を見つけた。淡いレモン色の首筋。綺麗な形のショートヘア。

 四辻が見ていたかもしれない。今の事故のようなキスを。

 

 

 次の日も、その次の日になっても、私は蛍に頬へのキスことについて何も聞かなかったし、蛍も何も話さなかった。しばらくの間、私達の間を流れていた気まずい空気は、時間が経つと共にだんだんと薄れていった。

四辻にも、特に変わった様子はなかった。四辻の細かい言動や、ちょっとした視線の動きを注意深く観察している自分が馬鹿みたいに思えるくらい、四辻は相変わらずふざけたことを言ってへらへらと笑っていた。

 文化祭が近づいてくると、私は蛍のデザインした人形のドレスを、放課後や夜を使って制作するようになった。部員が二人しかいないこの部活にも、一応顧問の先生がいて、文化祭の作品展示に向けて、作品を制作するように言われたからだ。

 蛍は、黒と赤色を使ったゴシックなロングドレスをデザインした。普段アクセサリーばかりを作る私にとっては、針と糸を使う手芸が新鮮で、上手くいかないことがあっても、それもまた楽しく感じた。

 四辻は羊のパペットを一つ完成させていて、今はミサンガを編んだり、小さなマスコットを作ったりしていた。文化祭の作品展示で部室が寂しく見えないように、細々したもので数を稼ごうというのが、四辻の作戦だった。

 四辻は小さなマスコットの一つ一つに名前をつけ、作業に飽きたらそのマスコットを使って一人芝居をして遊んでいた。四辻の作るマスコットは、どの子も憎めないようなゆるい顔をしていた。

 文化祭が近づくにつれ、学校はお祭りムード一色になった。午後の授業は文化祭準備に充てられて、みんなそれぞれに自分の所属する部活やクラスの出し物の準備を進めた。私達のクラスの出し物は、輪投げとストラックアウトとボーリングだった。高得点を取ると、飴が貰える。随分手抜きな出し物だ。クラスの子の中には、お化け屋敷をやりたがっている人もいたけど、お化け屋敷は毎年三年生のどこかのクラスがやると決まっているらしかった。

 文化祭直前になると、学校中に文化祭のポスターや、宣伝のチラシが貼られて、学校の中が明るく賑やかになった。校内を歩く生徒の顔も、心なしかうきうきしているように見える。

 手芸部のポスターは、蛍が書いてくれた。蛍は絵を描くのが上手だった。蛍が書いたのは、風船を抱きしめる小さな女の子の絵で、頭には天使の輪っかがついていた。蛍は水彩絵の具を使って、綺麗に色を塗った。炭酸水のように、シュワシュワと透明感の溢れるその絵をカラーコピーした私と四辻は、生徒棟の壁や、特別教室棟の掲示板に貼っていった。ポップで目立つポスターが並ぶ中で、蛍の描いたポスターは、不思議と人の目を惹く魅力を放っていた。

 私はなんとか文化祭までにドレスを作り終わり、文化祭前日に部室に作品を並べて、文化祭を迎えることが出来た。文化祭には小中学生や、他校の高校生、近所に住む大人の人達が訪れた。

 中庭ではフランクフルトの屋台や、ボップコーンの屋台が並び、体育館ではのど自慢大会の予選大会が始まっている。私と四辻は文化祭が始まってからの三十分間、クラスの出し物のストラックアウトの係をやることになっていた。ボールをお客さんに渡したり、床に落ちたボールを拾い集めたりする。私達のクラスには、そこそこ人が入っているみたいだった。やってくるお客さんはおもに小学生が多く、友達同士でどちらが高得点を取れるか競っていた。

 仕事を初めて三十分くらい経つと、次の当番の子がやってきて、私達は手芸部の部室に行った。部室では蛍が留守番をしてくれていた。狭い部屋に、少ない展示作品。当事者の自分でもなんだかしょぼいなと思ってしまう。

 並べた机の中心には、私の作ったドレスを着た、蛍の人形が置いてある。甘いクリーム色の髪をした、肌の白い人形で、エメラルドのような目をしている。

「人来た?」

 四辻の問いに、蛍は左右に首を振る。

「来てないよ」

「そっか。何か販売してるわけでもないし、っていうかそんな部費ももらえなかったし、場所も場所だし、仕方ないねぇ」

 四辻は壁に背を預け、退屈そうにあくびをする。

「仕方ない」

 そもそも、こんなに少ない部員じゃ、制作した作品を販売したりすることもできない。私だって、そんなにたくさんの作品は作れない。だけど、今回作ったこのドレスは結構気に入っている。初めてにしては上手く出来た方だと思う。蛍もたくさん褒めてくれたし、実際に人形に着せて見ると、とても綺麗だ。

 私は椅子に腰掛け、中庭の様子を眺める。ビンゴ大会が行われているようで、会場はビンゴカードを片手に持った人達で賑わっていた。

「ね、誰か私と一緒にお化け屋敷行かない?」

 四辻が空気をつつくみたいに人差し指を一本立てた。四辻はクラスで強制的に買わされた文化祭のティーシャツが、やけに似合っている。派手なピンク色の、ぶかぶかの半袖シャツ。お揃いのものを買おうと言われて、お揃いのものを買ったけど、この派手なピンク色は私には似合わない。私が着ると間抜けなお笑い芸人みたいになってしまう。

「私は絶対無理だよ。怖いもん」

 どうしても行きたくないのか、蛍はお化け屋敷に行くことを必死で拒む。蛍はホラー系が苦手そうだと思っていたけど、やっぱりそうみたいだ。

「蛍はビビりだから仕方ないね。伊吹はどうする? 今回のお化け屋敷はクオリティ高いらしいよ。一緒に行かない?」

 今年のお化け屋敷の噂は、私も耳にしていた。学校中に貼られたポスターからも、本気度が伝わってくる。多分、怖いというよりかは、びっくり系だと思うけど、そういうのも嫌いじゃない。

「んー。じゃあ、行こう。ちょっと面白そうだ」

「えぇっ。伊吹ちゃんも行くの?」

 蛍が目を丸くして驚く。

「伊吹は結構怖いの好きなんだよ。ホラー映画とかも見に行くしね」

 四辻がそう説明すると、蛍は「そうなんだ」と納得した顔になる。

「私、お留守番してるから、二人で行ってきて。帰ってきたらお話聞かせてね」

「了解了解。楽しみにしててね」

 四辻はにっと笑うと、軽やかに弾んだ声で言う。

「ありがと。ほたる」

 私は椅子を戻して立ち上がると、四辻と共に部室を後にした。

 三年生の教室がある四階に行くと、女の子達の悲鳴が聞えた。三年一組の教室の中からだ。今回、お化け屋敷を自分のクラスの出し物に選んだ三年一組は、教室の外の飾りつけもかなり凝っていた。

 壁にはぼろぼろの新聞紙が貼り付けられ、赤のスプレーで血文字みたいに、お化け屋敷と書いてあり、骸骨の大きなフィギュアが吊るされていた。なかなかいい雰囲気だな、と思う。少しわくわくした。

 入口には長蛇の列が出来ていた。私達はその最後尾に並ぶ。血糊を塗った白衣を着た三年生が、列に並ぶお客さん達を一組ずつ教室の中に誘導する。十分ほど待って、私達の順番が来た。懐中電灯を受け取った私達は、私を先頭に教室の中に入っていく。

 教室の中の空気は、べっとりと生暖かかった。恐怖心を煽るような不気味な音楽が、小さな音で流れている。段ボールを使って作られた壁に、心霊写真やホラー映画のポスターが貼ってあった。

「きゃー怖い」

 わざとらしい声でそう言った四辻が私にひっついてくる。歩いている間にも、ドンと何かを叩く音がする。途中から段ボールの中をくぐり抜けていく道があって、私達は膝をついて前に進む。私も四辻も、対して驚くこともなかった。雰囲気づくりはいいけど、これじゃ怖いとは思えないな、と冷静に評価している余裕さえあった。

「あ、伊吹のぱんつ見えそう」

「パンチラ防止のやつ履いてるから」

「夢がないなぁ。私達女子高生だよ?」

 段ボールの道が終わる。私達のクラスと教室の広さは一緒のはずなのに、こうやっていくつも壁を作ると、やけに広く感じた。前が見にくくて、迷路の中を歩いているみたいだ。

 私が懐中電灯で前を照らすと、ぼさぼさの髪の女の人の生首が落ちてきた。

「きゃっ」

 四辻が驚いていた。とっさに私に抱きついてくる。生首にはビニール紐が巻き付けられていて、するすると引っ張られて頭上に戻っていく。

「今のよつじの声、録音してほたるに聞かせてあげたい」

 私がからかうと、四辻は私の首筋におでこを押しつけて「うるさいなぁ」と決まりが悪そうに呟いた。

 出口を見つけて、もうそろそろ終わりというところで、出口の近くにあった掃除ロッカーがガタガタと音を立てた。四辻は可愛い声を出してまた驚いていた。教室の外に出ると、四辻は涙目になっていた。私は自分よりも背の高い四辻の頭を撫でる。

「よつじからお化け屋敷行きたいって言うなんて、珍しいと思った。よつじ、怖いの苦手なのに」

 ホラーが好きな私と違って、四辻は怖いのが苦手だった。映画に誘うと、いやいやついてきて、怖い場面になると目を閉じて耳を塞いでいた。そんな四辻を見るのがホラー映画を見る時の楽しみの一つだったけど、今日、四辻からお化け屋敷に行きたいと言っていたのを聞いて、私は少し驚いていた。

 四辻は強がるように頬を膨らます。

「だって、伊吹と一緒に来たかったから」

「私はもうちょっと怖くても良かったと思った」

 泣きそうな顔でそんな可愛いことを言う四辻のことをもうちょっとからかいたくて、私は少し意地悪なことを言う。

「充分怖かったし!」

 四辻は私に顔を見られたくないのか、一人ですたすたと歩いていってしまう。私はそんな四辻に置いて行かれないように、歩調を早めてついていく。

 

 

 部室に戻ると、そこに蛍の姿はなかった。机の上に飾っていた蛍の人形が、飲み物でもかけられたのか、びしょびしょに濡れていた。出来上がった水たまりは広がって、四辻の作品も水浸しになっていた。

「なにこれ、どういうこと」

 部室に流れる不穏な空気を感じ取ったのか、四辻が眉をひそめる。綺麗なクリーム色をしていたはずの人形の髪が、ぐっしょりと束になって、心なしか人形の表情も悲しみに暮れているように見えた。

「私、ほたる探してくる」

 私は部室を飛び出して、保健室に向かった。保健室は蛍の唯一の居場所だ。蛍が向かうとするなら、あの場所しかない。人混みをかき分けて、息を切らしながら、私は走る。蛍に何かあったらと思うと、私の世界は途端に色を変え、音が遠のき、不安でたまらなくなる。

 保健室の扉を開けると、カーテンが閉め切られていて、部屋は薄暗い影に包まれていた。先生はいない。ラジオの音も聞こえない。静かな保健室の中で、蛍が小さくすすり泣く声だけが聞こえていた。

 蛍はベットの陰に隠れるようにしてしゃがみ込んでいた。折りたたんだ膝に顔を埋めている。

「ほたる」

 私が声を掛けると、蛍が顔を上げた。蛍の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。青白い頬と真っ赤に充血した目。蛍はぐすっと鼻を啜って、凍えるように肩を震わせる。

「ごめんね。伊吹ちゃん。伊吹ちゃんがせっかく作ってくれたドレス、あんな風にしちゃって」

「何があったの?」

 蛍の苦しそうな顔を見ていると、私の胸も苦しくなる。吸った息は見えない塊のようになって、上手く身体に入り込んでいかない。蛍は細長い指で目頭を擦った。柔らかなカーブを描くまつ毛が、涙に濡れて重たそうだった。

「あのね、部室に私と同じ中学校だった女の子が来たの。置いてある人形が私のかどうか聞かれたから、そうだよって答えたら、ジュースかけられちゃって」

 私の表情は険しくなる。そんな酷いことをする人がいるなんて、と失望した気持ちになった。人形のぐっしょりとした髪や、黒く濃く滲んだドレスのシミが瞼の裏に蘇る。あの人形は蛍の宝物なのに。

「なんでそんなこと」

「あの子は私に告白してきた男の子のことが好きだったの。私達は、本当は仲良しだったのに、私が告白されたあの日から、あの子は私とお話してくれなくなった」

「だからって、それは酷すぎる。許せない」

 声が震える。目の縁が熱くなる。怒りは私を埋め尽くしていく。

「いいの。私がいけないの。全部、私のせい」

 蛍の瞳は暗く濁り、表情には生気がなかった。蛍は頭を押さえると、過呼吸になった人のように苦しそうな呼吸音を立てて、ごめんね、ごめんね、と何度も私に謝った。蛍の声は、細かく震えて千切れそうなのに、私には強く泣き叫んでいるように聞えた。

 私が激しく上下する蛍の肩に触れようとすると、蛍は私の手を避けて立ち上がった。蛍はスクールバックのチャックを開けると、中から白くて四角い何かを取り出した。

 蛍は私の元にやってくると、四角い何かの包装を開封して私に手渡した。

「これ、何?」

 受け取ったものを私は見つめる。冷たくも、温かくもない、からりと硬い感触。持ち手の先には鋭く尖った鈍色の針が飛び出している。

「ピアッサーだよ」

 蛍がベットに腰掛けた。蛍の肩がいつもより、一回りも二回りも小さく見えた。

 蛍は自分の中にあるすべてを使って訴えかけるような、切実な目で私を見上げた。その瞳の奥に広がるのは、無限の暗闇だった。自分の大切にしてきたものを簡単に汚されてしまう経験が、蛍には何度もあったんだろう。

 私は蛍の中にあるその暗闇すら愛したいと思った。そう強く願う自分は、もしかしたら危険なのかもしれない。本当はいけないことなのかもしれない。

 でも欲しい。蛍の全部が欲しい。

「穴、また増やすの?」

「うん。伊吹ちゃんに、開けてほしい」

 私は手に持ったピアッサーに視線を落した。鋭く尖った銀色の針。これは凶器だ。これを使えば、蛍の身体に穴が開く。蛍の身体に傷が出来る。

「ほたる、本当にいいの?」

 私が聞くと、蛍は頷いた。

「私ね、嫌なことがあると、いつもピアスを開けるの。穴が完成するまでは時間がかかる。痛いし、血も出る。その痛みが、私には必要なんだ。私、こんなに苦しい思いをしたんだって、実感できるから。穴が完成するころには、嫌なことも忘れてて、私はその穴をピアスで埋める。そうやって、ここまできたから」

 私は唾を飲み込んだ。こくり、と喉が鳴った。蛍は痛みを必要としている。私に穴をあけてもらうことを望んでいる。

 蛍が耳に髪の毛をかけた。ピアスだらけの耳。ピアスの隙間から見える耳の、貝殻のような白さ。

「どこに開ければいい?」

「伊吹ちゃんの好きなところに開けて。たくさん、痛くして」

 蛍は泣きそうな声で言うと、疲れ果てた幼い少女みたいに、静かに目を瞑った。

 薄い瞼に覆われた、蛍の瞳。ビー玉のように透明で、宇宙のように暗い瞳。

 蛍を自分のものにしたい。蛍に印をつけたい。私以外のすべての人が、蛍に近づかないように。

 それはどろりとした独占欲だった。圧倒的な力を持って、私の中を支配しようとしてくる。でもそれはただの錯覚で、私はずっとこうしたいと思っていたのかもしれなかった。これが私の本当の姿だったと思えるほど、この黒い感情は私の身体によく馴染んだ。

 私は蛍の耳たぶをつまんだ。びりびりとした感覚が、全身に走った。

 私は左の耳たぶの小さな隙間に、針を当てた。蛍が瞼にぎゅっと力が込めたのが分かった。頭が沸騰したお湯を流し込まれたみたいにぐらぐらした。私は今、蛍のことしか考えられない。この突き抜けるような高揚はなんだろう。私が熱い吐息を落とすと、蛍も切なそうに息を吐いた。身体が燃えてしまいそうだった。

 快楽と喜びがぐちゃぐちゃになって、私は瞳を潤ませた。お腹の底が甘く痺れる。

「開けて」

 蛍が言う。私が指に力を込めると、ガシャンと音がなった。私はピアッサーを蛍の耳から離した。

 蛍の耳たぶで蜂蜜のような黄色をしたクリスタルのピアスが、艶めかしく光っていた。私が開けたばかりのピアスに触れると、蛍はびくっと震えて小さく声を漏らした。その声に、私の身体はさらに反応する。今まで感じたことのない感覚に、身体が壊れてしまいそうになる。

「黄色だ」

「そう。黄色。伊吹ちゃんの色」

 蛍が僅かに微笑んだ。黄色は私の好きな色だ。私はこの黄色いピアスをいつまでも指で弄んでいたいと思った。蛍が微かに唇を震わせながら顔を上げる。

 私達は見つめ合った。永遠にも思える一瞬だった。私と蛍の間に電流が走った。

 私のポケットに入れた携帯が震える。電話をかけてきたのは四辻だった。蛍は見つかったのかと聞かれたから、保健室にいたと答えた。四辻はほっとしたようで、「なら良かった」と言った。

「あのさ、蛍の人形も私の作品も水浸しだったから、先生に相談したら今日はもう展示を終わらしても良いって言われた。どうする、片付けちゃって良い?」

「分かった。部室行く」

 私は通話を終えると、ベットに腰掛けたままの蛍に向かって言った。

「私はこれから部室に行くけど、ほたるはどうする?」

「今日は帰るね」

 蛍が鞄を肩にかけて保健室を出ていく。私の傍を通っていく蛍は、甘い香りを強く放ち、頬を赤く染めていた。

 蛍が部屋を出ると、校内のざわめきと熱気が、一気に保健室になだれ込んできた。私は熟れた果実のようにぐじゅぐじゅと歪んだ気持ちのまま部室に向かい、四辻と展示作品を片付けた。

「頑張って作ったんだけどな」

 水で洗った作品を日向に並べた四辻は、寂しそうに呟いた。