四辻との旅行の数日後、私は蛍と四辻と近所のショッピングモールへ行った。蛍は待ち合わせ場所に一番早く来ていた。白い七分袖のシャツに、灰色のロングスカートを穿いて、黒いリボンのストラップサンダルを履いていた。
挙動不審に視線を泳がせていた蛍は、私の姿を見つけると、緊張の解けた顔をして、私の方に早足でやってくる。
「伊吹ちゃん。良かった。会えた」
蛍が胸に手を当ててはーっと息を吐く。
「久しぶり、ほたる。どうしたの? そんな心配そうな顔して」
「あのね、私、あんまりここに来たことがなくて、思ったより人が多かったから、みんなに会えるか不安になっちゃった」
「ほたるはほんとに心配性だ」
もう少し、早く来れば良かったな、と思った。蛍は指を組むと、恥ずかしそうに下を向いた。私は携帯を出して、今の時刻を確認する。約束の時間より、少し早い。
「あ、伊吹ちゃん、ネイルしてるんだね」
「うん。四辻に塗ってもらった」
指の角度を変えるたびに、きらきらと光るたっぷりのラメ。淡いコバルトブルー。四辻にしてもらったネイルは、ちょっとした時にも私の目に留まる。
「そうなんだ。夏休みだもんね。可愛いよ」
そこへ、時間ぴったりに四辻が姿を現した。四辻はピンク色のティーシャツに、ジーンズを穿いて、丈の長い黒色の薄手のカーディガンを着ていた。四辻は私服が大人っぽいから、大学生くらいに見える。
蛍の肩を後ろから掴んだ四辻は、蛍の顔をまじまじと覗き込んだ。蛍は目を丸くしたまま、びっくりしたように固まっている。四辻はスキンシップが多いし、何かと顔が近い。私はもう慣れたけど、蛍は息でも止まっているんじゃないかと心配になるほどぴくりとも動かない。
「蛍確保!」
四辻がふざけて笑う。蛍は余程驚いたのか、頬からは色がなくなって、今にも倒れてしまいそうだった。
「よつじ、ほたるが大変だ」
「あははっ。っていうか蛍、めちゃくちゃ細いなー。ちゃんと食べてる?」
四辻はそう言って、蛍の細い脇腹をつんつんつつく。蛍は体をびくつかせると、小さく声を漏らして、ぎゅっと目を瞑った。頬がりんごのように赤くなる。
「ごめんごめん」
四辻が蛍を開放すると、蛍は真っ赤な顔のまま、ひよこのような小走りで私の元にやってきて、私の背中に隠れてしまった。
「よつじはいつもあんな感じだから。ごめん」
「あれが四辻ちゃん……」
蛍は私の肩越しにそろそろと四辻の様子を伺う。四辻はにやりと口元を緩めながら、蛍の挙動を眺めている。四辻と目が合った蛍は、身体を竦ませると、また顔を隠してしまった。
「確かにうさぎっぽいね。からかいがいがありそう」
四辻はガラの悪いお姉さんのように腕を組むと、意味ありげな含み笑いを見せた。蛍は四辻の言葉を聞いて、ぷるぷると震えている。
「ほたるが怯えてる。あまりからかいがいすぎないように」
私がそう言っても、四辻はへらへらと笑うだけだ。私の話なんて、真面目に聞いていないだろう。
「はいはい。分かってるって。とりあえずどこか見ようか。蛍は見たいお店とかある?」
「雑貨屋さん」
蛍が小声で言った。
「いいね。ここ、雑貨屋さんもいくつかあるし、さ、行こ行こ」
四辻が軽い足取りで歩き出す。蛍は私の後ろに隠れたまま、私達についてくる。今日一日、ずっとこんな感じになるのだろうか。蛍も四辻と打ち解けられればいいけど、急には難しいかもしれない。
蛍の方にちらりと目をやった四辻が、愉快気に口の端を歪めた。
雑貨屋さんにつくと、蛍は棚に並べられた雑貨を見て目を輝かせた。アロマコーナーに並ぶ小瓶を手に取ると、鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅ぐ。
「いい香り。柑橘系のアロマは心も体も元気にしてくれるんだよ」
私は蛍から小瓶を受け取り、オレンジスイートの香りを嗅いだ。甘くていい香りがする。
「いい匂いだ」
「蛍もいい匂いだよね」
四辻が蛍の長い髪の毛に鼻を近づけると、蛍は電流でも流されたかのように、肩を跳ね上げた。四辻はくつくつと笑うと、文房具の並ぶコーナーの方へ歩いて行く。四辻が離れていくとほっとしたのか、蛍は大きく息を吸って呼吸を整えていた。
私はやけに生き生きしている四辻の後ろ姿を見て、ため息をついた。確かに、四辻からしたら、蛍はからかいがいのある面白い子かもしれないけど、こんなんじゃ蛍の心臓が持たない。
蛍は雑貨屋さんで、コルク栓の瓶に、色とりどりの金平糖の詰められた小さな置物を買った。その後は、別の雑貨屋さんも見に行った。お腹が空いた私達は、フードコートに行って三段重ねのアイスを食べた。蛍は小さな口で、ストロベリーのアイスを食べると、はにかむように笑う。
「美味しいね、伊吹ちゃん」
「うん。美味しい」
薄紅色の舌でちろちろとアイスを舐める蛍は、なぜか一生懸命に見えて、可笑しかった。アイスを食べ終わった私達は、ぶらぶらとお店の中を歩いた。おしゃれな服を着た店員さんが、大きな声でタイムセールの客寄せをしている。
「あのお店行ってみない?」
四辻が指さしたお店は、まるで絵本から出てきたかのような内装のお店だった。おとぎ話のお姫様が着るような洋服が並んでいる。私や四辻は普段着ない系統の服だけど、蛍はこういうのが好きかもしれないと思った。
「ちょっと見てみる?」
後ろを歩く蛍に聞くと、そのお店に興味を持ったらしい蛍がこくこくと頷いた。
お店の中は、少し薄暗かった。レジに立ったり、お店の中を回る店員さんも、メルヘンな服を着ていた。お店の中に入ってきた私達に向かって、にこりと微笑む。なんだか、知らない世界に迷い込んだ気分だ。
「これ可愛いなー」
四辻がハンガーにかけられた洋服を手に取る。ふわっとした白いフリルが何段もあしらわれた、赤いロング丈のワンピースだ。胸元にはリボンがついている。赤ずきんをイメージしたような服だった。
「可愛い」
蛍が囁くような小さな声で呟いた。
「蛍、一回着てみてよ」
四辻が蛍に服を手渡す。思わず受け取ってしまったらしい蛍は、顔を赤らめて左右に首を振った。
「ほたるなら似合うと思う」
蛍がそのワンピースを着ているところが見たかった私は、四辻の意見に賛成した。
「そうかな……?」
蛍はもじもじとしていたけど、「着ているとこ見てみたい」と私が言うと、根負けしたように、試着室に入っていった。
しばらくして、服を着替えた蛍がカーテンを開けた。蛍は恥じらいの表情を浮べている。赤いワンピースを着た蛍は、絵本の主人公みたいだった。袖から出た手首の細さがさらに際立って、儚げな雰囲気が一層増していた。何段も重なったフリルは、蛍の小さな動きに合わせて甘く揺れる。
「どうかな?」
「いい。可愛い」
私はぐっと親指を立てる。蛍は、ふにゃっと笑うと、頬に手を当てた。その姿がすごく可愛くて、蛍のことをいつまでも見ていたくなった。
「うん、めちゃめちゃ似合う。こんなに可愛いと狼に襲われちゃうね」
四辻が楽しげに頷くと、蛍は困ったような照れ笑いを浮かべた。私達はそんな蛍を見て微笑んだ。試着室の鏡に、蛍の薄い背中が映っている。蛍は少しの間だけ振り返って鏡を見ると、「でもちょっと恥ずかしいな」ととろけるような笑顔を見せた。
夕方になると、私達はそれぞれの家に帰宅した。蛍と私は、途中まで一緒の道を歩いた。
「四辻ちゃん、楽しい子だったね」
蛍は私から受け取ったお土産の袋を揺らす。中身は蛍の好きなクッキーだ。
「いつもふざけてばっかり」
「あんまり上手く話せなかったな。少し緊張しちゃった」
蛍はしゅんとした顔になった。私は、蛍が四辻とうまく目を合わせられていなかったことを思い出した。四辻はいつもの調子で気さくに話しかけていたけど、蛍の方は初対面の相手だからか、人見知りをしてあまり話せていなかった。
「焦らなくても良い。よつじはほたると仲良くしたがってる。きっと、すぐに仲良くなれる」
「うん。仲良くなれたらいいな。あのね、今日は私も誘ってくれてありがとう。すごく嬉しかったよ。夢みたいだった」
「ほたる、大げさ」
「そうかなぁ?」
私が笑うと、蛍はえへへ、と首を傾けた。私は蛍の大げさなところも好だ。蛍は小さなことでも大喜びしてくれるから、一緒にいて楽しい。
「あのさ、ほたる。来週の土曜日、一緒にお祭り行かない?」
「お祭り?」
蛍が好奇心に満ちた大きな瞳で私を見る。その瞳を見て、ちょっと安心した。私は蛍を夏祭りに誘おうと、少し前から考えていたからだ。この夏休み中、どこかで蛍と遊びたいと思っていたけど、夏と言ったら、お祭りな気がした。
「うん。毎年駅前でやってるやつ。ほたるが良かったら、一緒に行きたい」
「行きたい! 行ってみたい!」
蛍は子猫のようにはしゃいで言った。
「じゃあ、行こう。五時くらいに迎えにいく」
「やった。楽しみ」
蛍が両方の手でぐっと拳を作る。蛍の無邪気な笑顔が、夕方の藍色に染まっていた。
「私も楽しみにしてる」
私達は、曲り角で手を振って別れた。蛍のかつかつと軽やかな靴音が遠のいていく。
蛍と夏祭り。想像するだけでわくわくして、気持ちが舞い上がりそうになる。
蛍の鼻歌が聞こえてきた気がして、私も鼻歌を歌った。蛍の好きな歌。どこかの家から、カレーの匂いが運ばれてくる。
こんなに楽しい夏なら、私はこの暑さを嫌いになれないなと思った。
ちりん、と風鈴のなる音がした。夏の夕方の風が静かに町を包み込む。
お祭り当日は、からりとよく晴れていた。日中はうだるような暑さだったけど、夕方になると過ごしやすい涼しさになった。
蛍の家のチャイムを鳴らすと、インターフォンから「はーい」と蛍の声が聞こえて、蛍がすぐに家から出てくる。蛍は白いワンピースに、黒のストラップサンダルを履いていた。底が高くなっているサンダルを履いた蛍はいつもより少しだけ大きく見えるけど、それでもまだ小さいままだった。蛍が湖みたいに潤った瞳で私を見上げる。
「伊吹ちゃん、髪の毛縛ってる」
蛍はそう言って、自分の頭を指さした。
「うん。今日暑かったから。あと、寝癖が直らなかった」
私はポニーテールに結った髪の毛の毛先をつまんだ。首筋がすーすーして、なんだか落ち着かない。
「ポニーテールも可愛いね。あ、そうだ!」
蛍が何かを思い出したように、焦げ茶色のポシェットに手を突っ込む。蛍は折りたたみ式のクシと、黒のヘアゴムを取り出すと、「縛って、縛って」と私の手のひらに乗せた。
「いいよ。ちょっとあっち向いてて」
「うん。ありがとう」
上機嫌な蛍が、私に背中を向ける。ワンピースを纏った肩は華奢で、白い足は棒のようだった。私は蛍の長い髪の毛にクシを通し、一つに纏める。高い位置で纏めると、細いうなじが露わになった。蛍の女の子らしい部分に、私はいちいちどきどきした。
「できた」
私が蛍にクシを返すと、蛍は縛ってもらった髪を触って、嬉しそうにしていた。蛍の耳に差し込まれたたくさんのピアスが、鈍く光っている。
「これでお揃いだね」
蛍がにこにこと笑う。蛍とお揃い。すごく幸せだ。私はうずうずする指先でポケットの中を探った。
「ピアス、ほたるに作ってきた。お祭でつけたら可愛いと思って」
花柄の小袋の中に入ったピアスを受け取った蛍は、「すごい!」と声を弾ませた。
「金魚だ。ちっちゃい」
蛍は水色のガラスドームに入った金魚を見つめる。今日の蛍の耳たぶには、私が渡した白い雫型のパールのピアスがついていた。蛍はつけているピアスを外すと、器用に金魚のピアスをつける。その動作がやけに大人びて見えた。
「うん。夏っぽい。いいよ、ほたる」
私は微笑みながら頷く。
「ありがとう」
蛍は指先でピアスに触れた。ガラスドームの中で、金魚が揺れる。自分の作ったものが、蛍に触れていることが嬉しい。新しいピアスは蛍によく似合っていた。
「行こ。ほたる。私、お腹空いた」
「うん。行こう。お祭行ったら何食べよう?」
蛍がわくわくした顔で言う。
「ほたるの好きなものたくさん食べよう」
群青の空は夜に向かって、ゆっくりと色を傾けていた。
お祭り会場は、多くの来場客で賑わっていた。カラフルな屋台がズラリと並び、黄色く眩しい明かりを灯している。ソースの焦げる香りや、肉の焼ける香りが辺りを漂い、弾けるような笑い声が聞こえてくる。
綺麗な浴衣を着た女の子達が、クレープの食べあいっこをして、ちょっといかつい金髪の男の人達が牛串にかぶりついている。小さな男の子は、何かのアニメのキャラクターのお面をつけて、母親の隣を飛び跳ねるように歩き、空気を切り裂くような射的の音が鳴り響く。
蛍は一度立ち止まると、目の前の景色を丁寧に記憶するように、ビー玉のような目で辺りを見回した。どこかの会社の名前が書かれた赤ちょうちんが、風に揺れていた。
「人がたくさんいるから、はぐれないようにしないと」
私は綿毛のようにふわふわとどこかに行ってしまいそうな蛍に声を掛ける。
「うん。そうだね。迷子になったら大変」
蛍はそう言って、私の手をきゅっと握った。細くて、温かい指。驚く私を見て、蛍が顔を綻ばせる。
「伊吹ちゃんが迷子にならないように、私がしっかりしないと」
蛍はそう意気込んでいるけど、迷子になりそうなのは蛍の方だ。
「ありがと、ほたる」
私は蛍の手を柔く握り返した。頭の痛みがほどけるように和らいでいって、恥かしさと喜びが私をいっぱいにする。手を握るだけでこんな気持ちになるなんて、不思議だ。
蛍は屋台でわたあめを買った。雲をちぎったようなわたあめを、蛍は大切そうに食べた。
二人で射的をやったら、蛍が意外と狙撃の才能があるのを知った。蛍は射的銃を構えると、少し身を乗り出して、並べられたキャラメルの箱を倒していった。私は猫の貯金箱を狙うも、全く弾があたらず、結局倒せなかった。
その後は一等がゲーム機だというくじを二人で引いた。私は光るペンダントが当たった。蛍はお菓子の消しゴムセットだった。私達の隣でたくさんくじを引いてる人がいたけど、一等のくじが入っているのかどうかは謎だった。
私はぴかぴかと光るペンダントを、蛍の首にかけた。蛍が小さな魔法使いみたいに見えて面白い。ペンダントは、ボタンを押すと、シャラシャラと音が鳴った。蛍は何度もボタンを押して、くすくす笑う。
私達は屋台を眺めながらゆっくりと歩いた。途中で色鮮やかなシロップのかかったかき氷を買って食べた。私と蛍は溶けかけた氷をしゃくしゃくとかき混ぜる。
「伊吹ちゃん、べーってやって」
私は蛍に言われた通りに舌を出す。「わ、緑色!」と喜ぶ蛍が、赤くなった舌を見せてくれた。
「ほたるは赤だ」
蛍はふふふと笑った。私も一緒になって笑う。私はその後、フランクフルトを食べた。会場を歩く人の数も多くなってきて、一通り屋台を見終わった私達は、遅くなる前に、家に帰ることにした。
蛍は夜九時までには家に帰ってくるように、親に言われていた。蛍の親は、夏祭りに行くと言う蛍を、夏祭りにはガラの悪い人達が来るから危険だとか、夜道を女の子だけで歩くのは怖いとか言って、必死で止めようとしたらしい。「本当に過保護なんだよ」と蛍は何でもないように笑っていた。
会場から一本道をずれるだけで、私達は二人だけになった。蛍はペンダントを光らせながら、私の隣を歩く。お祭り会場のスピーカーから流れる擦れた祭囃子の音が、自信なさげにこちらまで届いてくる。
「もしも夏休みの宿題に絵日記があったら、私今日のこと絶対書いたよ」
蛍が生き生きとした目で私のことを見た。
「私もきっとそうした」
絵日記なんて、懐かしいなと思った。私は絵が描けないから、苦手だった。
「絵日記の宿題は出なかったけど、私、毎日寝る前に日記を書いてるの。私の日記帳、伊吹ちゃんのことでいっぱいだよ。伊吹ちゃんといると、毎日楽しい。夏休みになったら、伊吹ちゃんに会えなくなっちゃうなって思ったけど、伊吹ちゃんは一緒にお出かけしてくれて、お祭にも誘ってくれて、感謝してもしきれないよ。こんな私と一緒にいてくれてありがとう」
蛍は胸に手を当てて、安らかな笑みを浮かべた。蛍が自分を卑下するような言い方をしたのが気になって、私は足を止めた。
「それは、私が蛍のこと好きだからだ」
あっと、思った。気づいた時には言葉が止まらなくなっていた。止まれ、止まれ、と願う。もし全部口にしてしまったら、蛍といられなくなるかもしれない。焦って額に汗が浮かんだ。それでもなお、私は自分を止められなかった。
「私はほたるが好きだから、ほたるに会いにいく。ほたるの日記帳が私のことでいっぱいになるみたいに、私はほたるのことでいっぱいだ。ほたるのことばっかり考えて、胸がぐちゃぐちゃになりそうだ」
「伊吹ちゃん?」
蛍がびっくりしたように目を見張る。私は息が苦しくなって俯いた。目の前が白く点滅して、蛍のワンピースの裾がぐにゃりと歪む。
「ごめん、ほたる。なんでもない」
笑顔で取り繕おうと、私は口の端を持ち上げようとした。なのに、体全体がこわばっていて、下手くそな表情を浮かべることしか出来ない。私は早足で車通りのない薄暗い道を歩いた。蛍が急いで私についてくる。
家に帰ってくるまでの記憶が曖昧だった。気が付いたら私は、家の玄関でうずくまっていた。視界の端で、蛍の首にかけられたペンダントがぴかぴかと色を変えていたことだけを、はっきりと覚えていた。
「伊吹ちゃん、どうしたの?」
リビングから出てきたお母さんが、私を見て驚いている。右手にはラベンダー色のケースのスマホ。私は立ち上がってお母さんの方を睨み付けた。
「なんでもないよ」
「そうなんだ。お風呂湧いてるよ」
お母さんは手元のスマホにちらりと目をやり、画面を私に見えないようにした。
「あのさ、お母さん」
「何?」
「いつも誰とメールしてるの?」
お母さんは困ったように笑って、首を傾げる。
「誰って、職場の人とか、友達とか」
「先生は優しい?」
「え」
お母さんの目の奥が、一瞬揺らいだのが分かった。
私は知ってる。全部見たんだから。浮かれた甘い言葉も、たっぷりと張り付けられたハートマークも。私の元担任。私が昔、先生と呼んでいた人。教師って、潔癖で自立した人間の就く職業じゃなかったの? 夫も子供もいる女の人に求められたら、簡単に応えてしまうの? 先生にだって、いるんでしょ。素敵な奥さんと、可愛い子供。写真だって、見せてくれたよね。
汚い。圧倒的に、汚い。私はあなたのせいで心を閉じた。誰かを愛する心に鍵をかけた。
お母さんを押しのけるようにして、階段をあがる。悔しくて唇の裏側を噛んだ。生々しい痛みがじんわりと広がっていく。
痛みなんて、私にはいらない。蛍の言っていたあの言葉は、私には理解できない。