「伊野さんは次のテストで相当頑張らないと、困りますね」
難しい顔をした寿賀先生に言われたのは、七月に入ってすぐのことだった。呆けた顔で「はぁ」と頷く私に先生は続ける。
「前回のテストではあまり成績もよくなかったので、期末で巻き返さないと。夏休み中も補修で学校に来ないと行けなくなります」
「それは嫌です」
やっと危機感が頭をもたげはじめて、私が言い返すと、「そうならないように頑張って下さい」と言われた。前回のテスト結果なんて、もう覚えていなかった。私は頭が悪いから、テストの点数が低くても、まぁいいやで終わりだった。
相当頑張らないと、と言われたけど、先生の言う相当って、どれくらいのものなんだろう。気が遠くなって、私は長いため息をついた。
「起きて、伊吹ちゃん」
蛍の声が耳元で聞こえて、私は目を覚ました。保健室の中にある来客用の部屋で、私と蛍は隣に座っていた。保健室には冷房が効いていて、心地よい涼しさに保たれている。
「いけない。寝ちゃってた……」
私は目元をごしごしとこすって、再びシャーペンを握った。ホッチキスでまとめられた手元のプリントの束を捲る。テスト前だからと授業中に配られたものだ。重要な用語の部分には、蛍によって線が引かれ、プリントのほとんどは蛍光色のピンク色に染まっている。見ていると、目がチカチカする。
「もうちょっとでテストなんだよ。時間は大切にしなきゃ」
勉強のことになると、蛍は熱血っぽくなった。蛍は教室には通っていないけど、学校側から配布されるプリントを保健室で解いて提出していて、私達と同じペースで勉強が進んでいるらしかった。蛍も定期テストは受けないといけないみたいで、テストの二週間前から、私達はこの場所を借りて勉強していた。
蛍にビシバシ勉強を教えられる日々が続いて、気がつくともうテスト三日間になっていた。今日が金曜日で、土日を挟み、月曜日からテストが始まる。テストが近づくにつれ、蛍の指導にも一層熱が入り、放課後のテスト勉強に加えて、毎日蛍から出される大量の宿題で私はすでにへとへとになっていた。
「ほたるは気合い入りすぎだってば、もうちょっとほどほどにやろう」
「それはダメ! 伊吹ちゃん、先生から注意されてるんでしょ。頑張らないと」
「ほたる熱い。熱すぎて溶けそう……」
私はぱたぱたと手で顔を扇ぐ。手のひらから生み出された冷たい風が頬に当たる。
「大丈夫。お部屋こんなに涼しいから溶けないよ。ほら、頑張ろう」
蛍は大真面目に返答をすると、華やぐような笑顔を浮かべて、私が途中まで手を付けていた単元の続きを指でとんとんと叩いた。隣に座った蛍のつるりとした膝小僧が、私の膝小僧に当たってしまいそうで、どきどきしてしまう。私は何でもないふりをして勉強を再開する。蛍はつらつらとノートに文字を書き写す私を見て、満足そうに頷いているけれど、実際、プリントの内容は全く頭に入ってこなかった。
「土日も勉強しなきゃいけないのか。大変だ」
蛍と勉強をするようになって、初めて勉強の難しさに気づいた。一日前に覚えたはずの単語も、次の日にはもう忘れてしまう。詰め込んだ記憶をこぼしてしまわないようにするために、毎日一生懸命だった。
「当たり前だよ。ここが頑張りどころだよ」
蛍がぐっと拳を作って、やる気に満ちたきらきらした瞳で私を見る。
「大丈夫かな、私。自信ない。あ、そうだ。ほたる、私の家に来て、一緒に勉強しよう」
たった今思いついたみたいな口ぶりで言った私は、本当は少し前から蛍を家に誘おうと考えていた。いざ言いだそうとするといつも緊張して、結局こんなに急な話になってしまった。
「え、いいの?」
蛍が急に体を近づけてきて、恥ずかしくなった私は後ろに体を引いた。蛍といると私の感情は目まぐるしく変化する。戸惑って、喜んで、恥ずかしくなって。蛍のことだけでいっぱいなってしまいそうだ。
「ほたるがいいなら。来て欲しい。お母さんも、ほたるが来たら、すごく喜ぶだろうし」
なんだか照れくさくて、蛍の目が見られない。声もぶっきらぼうになってしまう。
「それなら、行ってみたいな。私、誰かのお家にお泊まりするのって初めて」
蛍は弾んだ声で喋って両手を合わせると、温かく微笑む。
「ほたるの家みたいに綺麗じゃないし、あんまり期待しないで」
「でも、楽しみ。私ね、時々想像してたんだ。伊吹ちゃんが、どんなお部屋に住んでるのかな、とか、伊吹ちゃんのお父さんとお母さんはどんな人かな、とか」
蛍は一体どんな家を思い浮かべていたんだろう。私の家はきっと、蛍の想像よりもしょぼいはずだ。それでも、特別綺麗というわけでも、新しいわけでもないあの家は居心地が良くて、私は気に入っている。
「普通だよ。普通」
私が苦笑交じりに答えても、蛍の想像にきらめく瞳の色は変わらなかった。
「とりあえず、お母さんに電話しないと。あと、着換えとパジャマの用意をして、お菓子も持って行きたいな。伊吹ちゃんはどんなお菓子が食べたい?」
蛍が指を折りながら、お泊まりの準備の計画を立てる。私はシャープペンシルを机の上に置き、楽しそうな蛍の横顔を眺めた。
「ほたるが選んでくれたやつだったら何でも嬉しい」
「そういうのが一番困るよ。めちゃくちゃ変なお菓子持っていっちゃうよ」
蛍はそう言うと、悪戯っぽく笑みを作った。強歩大会の時の私の真似をしているらしいけど、蛍が喋るとどこかほんわかしてしまってあまり似ていない。私達は二人きりの部屋の中で、お互いの瞳を見つめ合うと、誰にも知られないようにひっそりと笑った。
「ほたるのおすすめが食べたい」
「うん。分かった。楽しみにしててね」
蛍は携帯を手に取ると、「お母さんに連絡してみるね」と部屋を出ていった。一人きりになった私は、お母さんに蛍が泊まりにくることをメールで伝える。すぐに返信が帰ってきた。
「今日のお夕飯は特別メニューにするね」の文字の後に、ハートの絵文字がついていた。
私はお気に入りの赤いエプロンを身につけて、鼻歌まじりに腕まくりをするお母さんの姿を想像し「ありがとう」と返信した。お母さんの特別メニューは、特別に量が多い。
しばらくして、電話を終えた蛍が部屋に戻ってきた。蛍は喜びを隠し切れない顔で言う。
「お泊まりしても良いよって言われた」
「そっか。良かった」
元気いっぱいの蛍の声につられて、私も笑顔になる。私が頷くと、蛍は手早く帰り支度を始めた。「もう帰るの?」と聞いた私に蛍は答えた。
「お泊まりの準備をしなくちゃ。お母さんが近くでお買い物してたから、迎えに来てくれることになったの」
「ほたる、私の家に来るの初めてだよね。西中学校の近くのコンビニ分かる? そこのすぐ近く。コンビニで待ち合わせした方が分かりやすいかも」
「うん。分かった。また連絡するね」
蛍はスクールバックを肩にかけると、ひらひらと手を振って、来客用の部屋から出ていった。一瞬でいなくなってしまった蛍は、風に吹かれた花びらみたいだった。
蛍が家に来る。なんだか不思議な感じがした。学校の時間以外で蛍に会うのなんて、初めてだ。勢いに任せて家に誘ってしまったけど、どうすればいいんだろう。
まず、帰ったら部屋を掃除しないといけない。お父さんの部屋から、蛍用の椅子を一個借りてこよう。だけど、あの勉強机じゃ、蛍と一緒に使うには狭すぎるかもしれない。ローテーブルを出してきた方が良いだろうか。寝るときの服も、あんなよくわからないクマの書かれたティーシャツなんかじゃなくて、可愛いパジャマを持っていれば良かった。
私は蛍のように、指を折ってお泊りの準備の計画を立てながら、くだらないことでぐるぐると悩んだ。それでも本当は嬉しくて、顔がにやけてしまいそうになった。
夕方、蛍と待ち合わせした近所のコンビニまで向かった。蛍はカフェオレ色のボストンバッグを肩にかけて、手にはトートバッグを下げていた。まるで、二泊三日の旅行にでも向かうような格好だった。
藍色のさらりとしたワンピース姿の蛍は、駐車場で私を見つけると、ほわっとした笑顔を浮かべた。早足に近づいてくる蛍の太ももが、熟れたオレンジのような色をした沈みかけの太陽に照らされて輝く。
「今日はよろしくお願いします」
蛍が深く頭を下げる。柔らかい髪が冷気を含んだ風に揺らされて、甘い香りを運んでくる。私の好きな、蛍の香りだ。
「よろしく。もう夕ご飯出来てるんだ。行こ」
「うん」
蛍はいつも通りの狭い歩幅で、ちょこちょこと私の隣を歩いた。
「あれが私の家」
私はごつごつした白い壁に赤い屋根の家を指さす。元々はお父さんと、お父さんのお母さんが二人で暮らしていた家だったけれど、お父さんのお母さんは、私達がこの家にくる四年前に亡くなった。以来お父さんは長い間あの家で一人暮らしをしていた。
「あそこが伊吹ちゃんのお家なんだ。ちょっと想像通りだったかも」
蛍は淡いピンク色の唇に手を当てて、ふふふ、と嬉しそうに笑う。
蛍には私のお母さんが、二回も結婚相手と別れていることも、もう何度も引っ越しをした経験があることも、話していなかった。蛍はきっと、私が生まれた頃からあの家に住んでいると思っているだろうし、書斎で音楽を聴くお父さんのことを、血のつながったお父さんだと思うだろう。そう考えると、蛍に嘘をついているような気持ちになって、胸がちくりと痛んだ。
私の苗字が変わると、みんなが不思議そうな目で私を見た。不思議そうな目で私を見るのに、「どうしたの?」と聞いてくる子は一人もいない。みんな遠慮することが優しい事だと思っているみたいで、そのくせトイレや帰り道で友達と一緒になると、ひそひそと私の話をした。
私のせいで、私よりも後の人達の名簿番号が一つずつズレる。テストで解答用紙に新しい名簿番号を記入するたび、自分でもまだ慣れない苗字を書くたび、クラスのみんなが、じっと私を見ているような気がした。
あんまり気にしないことにしよう、と思うようにしてきた。お父さんが変わっても、それによって苗字が変わっても、私が不幸になったわけじゃない。誰かが悪いわけじゃない。
それでも、可哀想な子だと思われるのが怖くて、本当の話は四辻にしかしてこなかった。蛍はこの話を聞いたら驚くだろうか。せめて、蛍の前では普通の女の子でいたい。
家に到着して、玄関の扉を開けると、赤いエプロン姿のお母さんが、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら、部屋から飛び出してきた。
「いらっしゃい。あなたが蛍ちゃん? 本当に可愛い! さ、あがってあがって。今お夕飯の支度が終わったところなの」
お母さんの落ち着きのない大学生みたいなハシャギっぷりに、蛍がほんの少し気圧されていて、無理もないなと思った。
童顔で声が高く、快活なお母さんは、近所のおじいちゃんに姉妹だと間違われるほどだ。普通、お母さんくらいの年くらいになるともっと落ち着きが出ると思うけど、お母さんは昔からずっとこんな風だからしょうがない。姿も中身もちっとも年を取らない。
「お邪魔します。今日はよろしくお願いします」
蛍がぺこりと頭を下げる。お母さんが頬に手を当てて「お行儀も良いなんて!」とべた褒めするので、蛍は困ったような笑みを浮かべた。
リビングに上がった蛍は、部屋の中を興味深そうに見回した。点けっぱなしのテレビが、動物園のパンダの映像を映す。今日の夕飯はハヤシライスとピクルスで、部屋にはルーの香りが立ち込めていた。
「素敵なお部屋」
蛍はそう言って、にこりと笑った。
「そうかな?」
私は部屋の中をなんとなく見回す。お母さんは雑貨を集めるのも好きだから、造花の置物や、羊毛フェルトで作ったアルパカのマスコットが飾ってある。私の小さな頃の写真もあって、少し照れくさい。
「お母さんも素敵な人だね」と蛍は私の耳元で囁いた。
蛍の声が鼓膜を淡く揺らすと、その声の優しい甘さに私の胸はきゅっと締め付けられる。
私はどぎまぎしながら、首を傾げる。蛍はくすくすと小さく笑った。
お母さんがお皿に大盛りのご飯をよそってくれて、その上にたっぷりとルーをかける。重たいお皿を両手で持ち、「食べきれるかな?」と言う蛍は楽しそうだった。
夕食は三人で食べた。お父さんは今日、飲み会があるので帰りは夜遅くになるそうだ。お母さんは、蛍の話をたくさん聞きたがって、蛍は大変そうだった。
お母さんが「彼氏はいるの?」と聞くと、途端に蛍の表情がこわばった。私が「やめてあげてよ」と言うと、お母さんはすぐに引き下がる。蛍はほっとした顔をすると、スプーンを口に運んだ。その動作が何故かぎこちなく見えた。
お母さんは私が友達を連れてくると、すぐに恋愛話を聞きたがる。母親ってそういう生き物なんだろうか。比べようがないから良く分からない。四辻は冗談も交えてのらりくらりと質問をかわしていたけど、蛍の表情にははっきりとした拒絶の色が現れていた。
お酢の利いたピクルスを齧りながら、私は蛍から彼氏の話を聞いたことがないことを思いだした。蛍は怖がりだけど、素直で可愛くて、彼氏がいてもおかしくはなかった。もし蛍が教室に通っていたら、蛍を好きになる男の子は多いだろうなと思った。人の話をちゃんと聞くことが出来る蛍は、きっと女の子からも人気が出るだろうし、そうしたら私は蛍と会話することもなかったかもしれない。
蛍が保健室登校で良かった。一瞬、そう思ってしまった自分がいて、それは流石に意地悪な考えだなと自分を戒めた。蛍だって、普通に教室に通えて普通に学生生活が送れたら、それが一番良いと思っているかもしれない。
どうして蛍は、保健室に通っているんだろう。
蛍の過去を私は知らない。私が本当の話を蛍に話したくないように、蛍にも私に話したくないことがあるのだろうか。それは少し悲しいな、と自分勝手にそう思った。深くまで手を伸ばしたら、蛍は傷ついてしまうかもしれない。だったら私は何も知らなくていい。蛍を傷つけることだけはしたくない。
「美味しい?」とお母さんに聞かれた蛍が「はい」と頷く。
「遠慮なくおかわりしてね」
お母さんが微笑むと、蛍は苦笑していた。この家には滅多にお客さんなんて来ないから、久しぶりの来客にお母さんも楽しそうだ。
「ありがとうございます。あの、私チェリーパイを作ってきたんです。食後にみんなで食べませんか?」
「そうなの? ありがとう。蛍ちゃん!」
お母さんは、すっかり蛍を気に入ったみたいだ。蛍のグラスに冷たいお茶を注ぎ足している。私の方へ顔を向けた蛍が言う。
「あのね、この時期になると、お母さんがいつも作ってくれるの。私のおすすめだよ。今日はお母さんと作ってみたんだ。だから今日はちょっと急いで帰ったんだよ」
「へぇ。食べるの楽しみだ」
私は小皿の上に乗せたにんじんのピクルスに箸を刺した。ぴきっと小さな音が鳴った。
「美味しくできたと思う。喜んでもらえるといいな」
蛍が目を細める。蛍はお皿を綺麗に空にすると、「ちょっとだけおかわりをもらえますか?」とお母さんに聞いた。
「蛍ちゃん。良い食べっぷり」
嬉しそうなお母さんが、元気良く立ち上がった。
夕飯後に蛍の作ってきたチェリーパイを食べた。蛍が作ったチェリーパイはさくさくのパイにさくらんぼがぎっしり詰まっていてとても美味しかった。私はお腹がいっぱいで、お母さんの淹れてくれた紅茶を飲みながら、眠くなってしまった。
うつらうつらと舟を漕ぐ私に気が付いた蛍が言う。
「そろそろ勉強しよう。伊吹ちゃん」
ごちそうさまでした、と手を合わせて蛍が立ち上がる。私は眠い目をこすりながらだらだらとそれに続く。
「ごちそうさま」
「はーい。お風呂入れとくね」
お母さんが食器を片付けながら答えた。カチャカチャと食器の重なる音が鳴る。
「伊吹ちゃんのお部屋ってどこにあるの?」
リビングを出て、荷物を手にした蛍は階段を見上げた。
「階段あがって、すぐ正面の部屋。隣の部屋はお父さんの部屋だから」
私は階段をあがって、自分の部屋のドアを開けた。蛍は私の部屋の中に入ると、わぁと声を上げた。
「伊吹ちゃんのお部屋」
「あんまり女の子っぽくないけど」
小学生の時に買ってもらった学習机と、木製のチェスト。カーテンは淡いクリーム色で、ベッドカバーは薄いグレーのチェック柄。蛍と勉強出来るように物置から引っ張り出してきたローテーブルは和風のもので、なんだか部屋に合わなくて浮いている。
「そっか。伊吹ちゃんはここで生活してるんだね」
蛍は穏やかに息を吸って吐き出す。部屋の電気が蛍のビー玉みたいな目を照らして、瞳に光の粒が浮かんだ。私は思わずそんな蛍に見惚れてしまいそうになる。蛍はいつも曇りのない目で物事を見つめる。それがちょっと羨ましい。私にはできないことだから。
「うん。まぁ、自分の部屋にいることの方が多い」
私が床に膝をつくと、蛍は私の隣にぺたんと座り込んだ。
「私も自分のお部屋にいるのが好き。一人だけで遊ぶの。本を読んだり、お人形を着せ替えたり」
「お人形?」
私は膝を抱えて、後ろのベットにもたれかかる。
「うん。これはね、他の人には秘密なんだけど、私、お人形で遊ぶのが好きなの。ちょっと子供っぽいよね」
唇に人差し指を当てた蛍が恥ずかしそうに笑った。
「子供っぽいかな? でもほたるらしい」
人形で遊ぶなんて、すごく可愛いな、と思った。胸のあたりがきゅんと疼く。
蛍は私の言葉に、儚げな微笑を浮かべる。
「毎年お誕生日になるとね、お父さんとお母さんに買ってもらうんだ。目の色がすごく綺麗なんだよ。お洋服も可愛いの」
蛍はスマホを取出すと、人形の写真を何枚か見せてくれた。それは、小さな女の子が遊ぶようなおもちゃの人形じゃなくて、まつ毛の陰影まで丁寧に書き込まれた、繊細で彫りの深い芸術品のような人形だった。灰色のショートカットをした中性的な人形もあれば、艶のある長い黒髪が目を惹く人形もあった。レースがたっぷりとあしらわれた純白のドレスは美しかったし、シンプルな黒いドレスは純潔な感じがした。
「こんなに綺麗な人形もあるんだ」
「うん。みんな一人ひとり表情も違って、ずっと見てても楽しいよ」
蛍は愛情いっぱいの目で人形達の写真を見ていた。
「この子達はほたるに可愛がってもらえて毎日幸せだ」
蛍はころころと鈴を鳴らすように笑うと、膝の上に手を置いた。華奢な指や、薄いピンク色の形良い爪を見ていると、蛍の手を握った時のことを思い出した。蛍の手は温かくて、蛍はちゃんとここにいるんだなと気が付いた私は、安心した気持ちになった。
蛍は時々、ふっと悲しそうに目を細めて、どこか遠くを見ていることがある。その時は決まって、保健室の外から生徒たちの声が聞こえていて、蛍はとても寂しそうな顔をする。私は何も声をかけることができずに、黙ってその短い時間を過ごす。
蛍はある日突然消えてしまいそうだと思う。音もなく、そっと。私はそれが怖かった。蛍の儚げな笑顔や、ひそめるような小さな笑い声は、私をゆっくりと溶かしていく。そして私の心を何の前触れもなく、冷たく揺さぶる。その度に私は、蛍の指を思い出す。温かさや柔らかさを、より鮮明に描こうと躍起になる。蛍の手を握ったあの短い出来事を、ひと時の浅い夢のように忘れてしまうのは嫌だった。
「今度は私のお家に来て欲しいな。ほんとにお人形がたくさんあるんだよ。伊吹ちゃんがお家に来たらね、二人で一緒にお人形で遊ぶの。きっと、すごく楽しいね」
「そうだね」
蛍の声はピカピカと光りそうな程だった。私は束の間、人形で遊ぶ蛍を想像する。顔立ちの綺麗な蛍が美しい人形を優しく抱きしめていたら、それはきっと美術館に大切に飾られた一枚の絵画みたいに見えるだろう。見てみたいな、と思う。蛍が人形で遊ぶところを見てみたい。蛍の部屋で二人きりになって、蛍の笑顔や声を感じたい。
蛍はほんのわずかに肩をすくめると、荷物の中から、勉強道具を取り出した。
「それじゃあ、勉強しよう」
「いや……。もう寝たい」
私が首の据わらない子供のように、だらりとベットに頭を乗せる。布団が空気の抜けていく音を立てながら私の頭を包み、その心地よさに、ぼぉっとしてしまいそうになる。
「伊吹ちゃん、起きて」
蛍が急いで私を起こそうとした。蛍の必死な表情が面白くて、私は上を向いたまま笑った。窓の外から、カエルの鳴き声が聞こえる。冷たい風に揺れるカーテンが、まるで呼吸をしているようだった。
「大丈夫だよ。今日は頑張る。頭の出来は悪いけど、見放さないでね」
蛍は明るい笑みを浮かべて言った。
「伊吹ちゃんがいい点数を取れるように私も全力で頑張るね」
お風呂が沸くまで勉強をして、交代でお風呂に入った。髪をしっとりと濡らしたお風呂あがりの蛍は、ほかほかと温かく、部屋に入ってくる風を受けて気持ちよさそうにしていた。
蛍の髪の毛から、私の家のシャンプーの匂いがする。私自身の香りは、もう馴れてしまって感じなくなっていたけど、蛍の髪の毛からは豊かな花の香りがした。
「ほたる、私と同じ匂いだ」
「そうだね。私、今伊吹ちゃんの匂い」
蛍がまだ乾ききっていない髪の毛を指でつまみながら言う。色の薄い髪が細い束を作る。束になった毛先は、透明に透けてしまいそうな程だった。
「なんか、変な感じだ」
「私はとっても嬉しいよ。伊吹ちゃんがずっと傍にいてくれてるみたい。あ、でも今はほんとに隣にいるね」
蛍は小さく肩を揺らしながら言った。蛍は私をどきどきさせることばかり言うから困る。私の心臓が胸を叩いて、痛いくらいにうるさくなる。
「うん。隣にいる」
机の上に置いた目覚まし時計が、今の時刻を示している。この夜が長く続けばいいのにな、と思った。こんなに楽しい夜は初めてだった。
私達は、長い時間黙々とテスト勉強に取り組んでいた。時々分からない問題があると、蛍に教えてもらった。私はその日のノルマを終えるたび、蛍の作ってくれた計画表に印をつける。
「これで今日の分は終わりだ」
私が蛍光マーカーのキャップを閉めると、蛍が口元を隠してあくびをした。「眠い?」と聞くと蛍は頷く。
「いつもは九時に寝てるんだ。やっぱり眠くなっちゃった」
蛍は、えへへと気の抜けた笑顔を見せた。目はとろんとして、親に甘える子猫みたいな顔をしていた。毎日九時に寝ているなんて、小学生みたいだ。いつも以上に無防備な蛍に、私の頬は熱くなる。
「じゃあ、そろそろ寝る? 一緒に頑張ってくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。よく頑張りました」
蛍がゆらゆらと頭を下げて、柔らかに笑った。勉強道具を片付けながら、蛍はまたあくびをした。
「それじゃあ、私は下で寝る。敷布団おじいちゃんの家に貸してて家にないんだ。明日何時に起きる? お母さんが朝ごはん作ってくれるって言ってた」
本当は一緒の部屋で寝たかったけど仕方がなかった。そもそも、蛍と一緒の部屋で寝ることになったら、目が冴えて一晩中眠れなくなるかもしれない。
「えっ。伊吹ちゃん、下で寝るの?」
「ないものはしょうがないし、私は一晩くらいソファーで寝ても大丈夫。ほたるはベットで寝て」
今まで半分寝ているような顔をしていた蛍は急に目を覚まして、首を左右にぶんぶんと振った。
「いかないで」
蛍は消え入りそうな声で言うと、太ももの上でぎゅっと拳を握って下を向いた。
「どうしたの?」
蛍の切なげな声は私の心をひりひりさせた。私は蛍に身体を近づけ、長い髪の毛で隠れた蛍の顔を見つめる。
「私、誰かのお家に泊まるのって初めてで、一人で寝られるか不安なの。一緒に寝ちゃだめかな?」
蛍は瞳を潤ませながら、上目遣いに私を見た。パジャマ姿の蛍は、一層幼く見えた。さらさらのおでこや小さな唇が、一人じゃなにも出来ない赤ちゃんみたいだった。
「ほたるが良いなら、それでいい」
そう言う私は、内心の驚きを表に出さないようにしようとしたけど、ぐるぐると目が回りそうになった。ぬるま湯に浸かっているような眠気はどこかに吹き飛んでしまって、私は足の指をぎゅっと丸めた。
「良かった。伊吹ちゃんと一緒なら眠られそう」
蛍はほっと胸をなで下ろす。脱力したように背中を丸めて、緩い笑みを見せた。
蛍はボストンバッグから、いちごみるく色の大きなうさぎのぬいぐるみを出すと、「いつもこの子と寝てるの」と言って抱きしめた。蛍の荷物が多く見えた原因は、このうさぎだった。
私は冴えきった目を眠そうにこすった後、電気を消すために立ち上がる。蛍はうさぎと一緒にもぞもそと布団の中に入ると、体を壁の方に向けて横たわった。
「電気消すよ」
「うん」
電気を消すと、部屋は一瞬で暗闇に染まった。蛍が布団の中で身じろぎをすると、布団がざわざわと微かな音を立てる。蛍の吐息が聞こえてきて、私は一度両の頬を押えて立ち止まると、ぎゅっと目を瞑った。緊張でおかしくなってしまいそうだった。
一歩一歩ベットに近づくたび、てっぺんに登っていくジェットコースターに乗っているみたいに、私の鼓動は早くなった。
やっとのことでベットの上で横になって、布団で口元まで覆う。私の背中は、沸騰したお湯みたいに熱くなった。恥ずかしくて、瞳の表面にじわっと涙の膜が出来る。
「あのね、伊吹ちゃん」
蛍の小さな声が、部屋の中に溶けていく。
「なに? ほたる」
布団の中で、私の声がくぐもる。
蛍は短く息を吸った。私の過敏になった神経は、そんな僅かな音でさえもしっかりと拾いあげる。
「中学生の時、私のこと好きになってくれた人がいたんだ」
「うん」
蛍の中学時代の話を聞くのは、これが初めてだった。蛍の声は静かだった。
「二人の男の子がね、同時に私に告白してきたの。お昼休みの教室で、すごく大きな声を出して」
「それは、ちょっと迷惑だ」
やっぱり、蛍を好きになる男の子はいるんだ。それは当たり前のことかもしれないけど、そのことが少し嫌だと思った。蛍には私の知らない時間がある。蛍だって、男の子と関わったことがないわけじゃないだろう。
蛍は何かを諦めたみたいに、短い笑い声を出した。
「クラスのみんなが私の事を見たの。私、怖くて恥ずかしくて、教室から逃げ出した」
「そうなっても仕方ない」
「でもね、みんなそう思ってくれなかった。逃げ出した私は、みんなにつまらない子って思われた。今まで仲良くしてくれてた子も、話してくれなくなっちゃった」
保健室で見た蛍の寂しそうな横顔が、頭をよぎった。そんな顔、しないでほしい。蛍には、ずっと笑顔でいて欲しい。私が中学生の時の蛍を守ってあげられたら良かったのに。
「ほたるは悪くない」
「違うの。きっと私が悪かったんだ。あの時逃げなければ良かったのにって何度も思った。だけど今でもあの男の子達の気持ちに応えられる勇気はないんだ」
「ほたるにそんな迷惑かけた時点で、その男の子達はほたるのこと、ちゃんと考えられてなかった。ほたるが自分のことを責める必要はない」
喉の奥がきりきりと痛んだ。怒りがお腹の中をかき混ぜて、どうしようもなく悲しくなる。
「どうなんだろう。私はあのあと、学校に行くのが怖くなっちゃった。家から出ようとすると、お腹が痛くなるの。お母さんとお父さんは私のことすごく心配して、何かあったんじゃないかって学校にたくさん電話をかけた。二人とも、ちょっと過保護なの。リビングからは毎日、お母さんが先生に文句を言ってる声が聞こえた。私は自分の部屋に閉じこもりながらずっと思ってた。もう誰からも愛されたくないなって」
私は黙って蛍の話を聞いていた。蛍も、返答を求めているわけでは無さそうだった。言葉を紡ぐことで自分の気持ちを答え合わせするみたいに、話を続けた。
「でもね、伊吹ちゃんに出会って、私の世界はちょっと変わったよ。手を繋いで歩いてる恋人同士の人達を見ると、私も幸せな気持ちになる。私もいつかは、誰かを好きになれたり、誰かに愛されることが怖くなくなると良いなって、思うんだ」
「そっか。ほたるならきっと出来る」
私はそう言って、口を閉じた。声の震えが隠せているか、心配だった。
私はちゃんと、蛍の世界にいたんだ。それがすごく嬉しかった。蛍はきっと、いつか誰かと幸せになる。その時、蛍の隣にいるのは、多分私じゃない。だって、私達は女の子同士だ。友達以上にはなれない。この気持ちを伝えれば、きっと蛍の迷惑になる。
目頭がかっと熱くなって、堪え切れなくなった私は、無言で泣いた。蛍に恋をしてから、私は本当に泣き虫だ。私は布団に顔を埋めて、しばらくじっとしていた。蛍は私が寝ていると思ったのか、独り言のような声で、「おやすみ」と呟く。
人を好きになることがこんなに苦しいなんて、今まで誰にも恋をしたことがなかった私は知らなかった。
蛍が誰かを好きになったら、蛍が好きな私はきっとひとりぼっちだ。それでもいい。私は幸せになれなくてもいい。どうか、蛍が誰かを愛せますように。蛍を愛してくれる誰かが現れますように。
ひとりぼっちになったとしても、私はずっと蛍のことが好きだ。
****
午前八時前に目を覚ますと、カーテンの隙間から、透き通ったグレープフルーツ色の光が差し込んで、部屋の中は電気を点けなくても明るかった。部屋を見回すと、蛍がすでにローテーブルに勉強道具を広げて勉強していた。布団を捲ると、私のお腹の上に、いちごみるく色のうさぎが抱きつくように乗っかっていて、ぽかぽかと温かった。多分、蛍がやったんだろう。
「ほたる、おはよう」
私は体を起こして、薄い黄色のカーペットに足の裏をつけた。
「おはよう、伊吹ちゃん」
振り向いた蛍が、爽やかな笑みを見せる。朝の光が蛍の頬の色を一層薄くした。朝起きたら蛍がいるのは不思議な感じだ。私は少し腫れぼったい目を擦りながら、幸せな気分に浸る。
「起きてからずっと勉強してたの?」
「うん。あ、でも私も起きたのはほんの少し前なんだ。あのね、さっき伊吹ちゃんのお母さんが部屋に来て、ご飯出来たって言ってたよ」
「そっか。じゃあ、食べに行こう」
「うん。伊吹ちゃんのお母さんの作る朝ごはん楽しみ」
立ち上がった蛍は、髪の毛を指で梳いた。シャンプーの香りは、少し薄くなっている。
朝食は、ハムエッグとサラダとトーストだった。私達は朝食を食べた後も勉強し、昼食を食べ、また夕方まで勉強した。最後の復習を丁寧に行った私達は、お互いに問題を出し合ったりして、分からない問題がないか確認した。こんなにテスト範囲の内容が理解できたのは、久しぶりのことだった。蛍のおかげだった。
蛍は夕食前に家に帰った。蛍のお母さんが、私の家の近くのコンビニまで蛍を迎えに来た。蛍のお母さんは、墨のような真っ黒の髪に、短い髪がよく似合う、かっこいい人だった。メイクも丁寧で、ブルー系のアイシャドウが瞼の上できらめいているのが見えた。車に乗っていた蛍のお母さんは、私に気がつくと軽く頭を下げて会釈をした。蛍は両親のことを過保護だと言うけど、蛍のお母さんはさっぱりとした性格の持ち主のように思えた。車が動き出すと、蛍は窓を開けて、私に向かって手を振ってくれた。
家に戻ると、部屋はすっかりいつものだらけた色を取り戻した。私が家に帰ると、お母さんが夕食の準備をしながら「夕飯も食べていけばよかったのに」と少し寂しそうに、わがままな口調で言う。ソファーに座って午後のニュースを見ていたお父さんは「礼儀正しくて、優しそうな子だったね」と微笑んだ。
「ほたるのおかげて、テスト何とかなりそう」
私が言うと、お父さんは目を細めて頷き、お母さんは「良かったね」と笑った。私はソファーに腰掛けると、髪の毛をつまんで、匂いを嗅いだ。微かに、花の香りがする。私と蛍は一晩だけ同じ匂いだったんだ。そう思うとすごく嬉しくなる。
私は蛍と背中合わせで眠ったことをこっそりと思い出した。スヤスヤと眠る蛍の寝息が可愛かったのは、私だけの秘密だ。
****
テストは今までにないくらいよくできた。テストが配られて、問題文にさっと目を通しただけでも、感触の良さが分かった。解答欄はほとんど埋めることが出来て、念入りに見直しをした。帰ってきたテストを蛍に見せると、蛍は「頑張ったね」と自分のことのように喜んで拍手をしてくれた。私の手元から解答用紙を奪った保健室の先生は「あんたにしてはよくできた方なんじゃない?」と言ってにやりと笑った。
担任の寿賀先生も、「これで補習は受けなくて済みますね」と言ってくれて、今回のテストは無事に終わった。
家に帰って、テストの結果を聞いたお母さんの飛び上がらんばかりの喜びようを見て、こっちが恥ずかしくなっていると、携帯に電話がかかってきた。四辻からの電話だった。携帯を耳に当てて、部屋を出る。
「もしもーし。伊吹?」
電話の向こうから、子供番組のお姉さんみたいに陽気な四辻の声がする。
「どうしたの? よつじ」
「あのさ、夏休みのことなんだけど」
「夏休み。そっか。もう夏休みか」
私は壁に背中をつける。壁はひんやりと冷たかった。高校生になってから初めての夏休みだ。何かしたいな、と思った。
「夏休み中、どっか遊びに行かない? 手芸部の合宿ってことで!」
「手芸部はそんな大層なことする部活じゃないけど。まぁ、いいや。楽しそうだ」
「ふふふっ。奇跡的にお安くていいホテル見つけたから、期待してよくってよ?」
四辻はどこかのマダムみたいな声で言う。私は呆れたように息を吐きながら、内心では四辻からの提案を喜んでいた。
「本格的だ」
「また部活とかで打合せしようね。それじゃあ、私は町の平和を守るため、悪い奴を倒しに行ってくる。今まで伊吹には話してなかったけど、私、実は魔法少女だったんだ」
「この町はよつじによって守られていたのか……」
これはまた、随分と頼りがいのない魔法少女だ。
「それじゃ、またね」
四辻の方から電話が切れた。夏休みに部活の合宿なんて、いかにも楽しいこと好きの四辻が考えそうなことだ。四辻の言うホテルに期待しておこう。通話終了の文字を見ながら、私は密かに微笑んだ。
夏休みに入ると、私達は本当に合宿に出かけた。お父さんは、高校生二人だけで泊りの旅行をすることを心配していたけど、お母さんは「お土産楽しみに待ってるね」とお小遣いを奮発してくれた。
一泊分の荷物を持った私達は、人の少ない電車に乗って、駅の売店で買ったお菓子をつまんだ。今日の四辻は、黒色のオフショルダーのトップスに、足首の見える細身のジーンズを穿いていた。足首には四つ葉のクローバーのアンクレットがつけられていて、銀色の細身のチェーンがちかちかと光を反射して綺麗だった。
窓の外の景色が早送りのように流れていく。山の緑と空の青、二つの色がくっきりと分かれて、ちまちまと並ぶ家々は、おもちゃみたいに見えた。
四辻は付箋のついた雑誌を膝の上に広げて、パラパラとめくっていた。雑誌には、神社の写真が大きく印刷されている。神社巡りをしようと提案してきたのは四辻だった。四辻はご利益とかには特に興味がないないけど、神社の入り口に立つ鳥居を見るのが好きだった。鳥居は神様のいる場所と、私達の暮らす場所を分ける結界の役割を果たしているらしい。神社ごとに鳥居も違って、その違いを見つけるのも楽しいと四辻は言う。
なかなか渋い案だったけど、私は賛成した。神社はなんだか涼しそうだし、こんな熱い中、動物園に行こうとか、遊園地に行こうとか言われたら、私なんかは目的地に向かう途中で干からびてしまいそうだ。
四辻は、旅行に行くにあたって、その町にある美味しい食事処とか、神社巡りの途中に寄れるような観光スポットとかを探してくれた。私は四辻のこういう準備のいいところを、昔から密かに尊敬していた。
「いい天気だし、電車も空いてるし、ラッキーだね。私、ツイてる女」
四辻は冗談交じりに言うと、小さく尖った八重歯を見せて笑った。
「よつじはわりと運がいい。昔から何かとくじ引きとか懸賞とか当たる」
中学生の頃、一緒に買い物に行った時も、四辻はくじ引きでペアの旅行券を当てた。四辻は私と行きたがっていたけど、あの時はまだ中学生だったし、親が許してくれなかった。
「そういう星に生まれる運命だったんだよ。私、きっと前世は聖人君主だったんじゃない?」
四辻が顎を上げて、わざとらしく胸を張った。どうだか、と私は呆れ顔をする。
「いや、よつじの前世は犬だ。いつまでたってもお座りが覚えられないやたら元気のいい小型犬」
もしも飼い主が家に帰ってきたら、尻尾をぶんぶんと千切れんばかりに振って、足に纏わりついてくるだろうな、と想像する。
「失礼な! もし私の前世がわんちゃんだったとして、お座りくらいは出来るから」
四辻が抗議の声を上げる。口元にチョコのスナック菓子を持っていくと、ぱくっと食いついて大人しくなったので、やっぱり四辻の前世は犬だと思った。
目的の駅に到着した私達は、とりあえず荷物を下ろすため、ホテルに向かった。ホテルは駅から歩いて二十分くらいのところにあった。その頃には空に分厚い雲がかかって、頬に当たる風はひんやりとしていた。
ホテルはおんぼろで、薄暗い雰囲気を纏っていた。夜中になれば、幽霊でも出てきそうだった。入り口で足を止めた四辻は、何度もスマホの画面を確認して、「サイトに乗ってる写真と全然違うんだけど」と爆笑していた。宿泊費が他のホテルより安かった理由が分かった気がする。
受付でチェックインを終えた私達は、鍵を貰って、部屋に向かう。廊下の壁には陰鬱な表情をした女の人の絵が掛けられていて、見たこともない怪しいジュースばかり並んだ自販機が三台設置してあった。
部屋の中は思っていたよりもちゃんとしていた。壁紙や絨毯は豪奢な柄をしていて、ツインのベットの布団は、綿菓子のように真っ白でふわふわしている。
四辻はベットに飛び込むと、仰向けになり、ビールを一気にたくさん飲んだ人みたいに、ぷはーと大きく息を吐き出した。私は大の字になる四辻の傍に腰を下ろして、テレビをつける。いつも家で見ているローカル番組がやっていた。旅行と言っても、そんなに遠くに来たわけじゃなかった。
「ははは。一気に日常に引き戻された感じ。このテレビ、お母さんがよく見てる」
寝転んだままの四辻が笑う。笑うたび、平べったいお腹が上下する。
「私も好き。このローカル感がいい」
「ていうかさ、もしかして、雨降ってる?」
四辻が体を起こして、窓の方に近づく。空はもうどんよりと暗くなっていて、夕方のように暗かった。私も窓に近づいて、二人で目を凝らすと、絶え間なく降り注ぐ蜘蛛の糸のように細い雨粒を見ることが出来た。
「参ったな。傘持ってきてないし」
四辻が顎に手を当てて、真剣な表情で考え込む。四辻が急に見せるこの表情は大人っぽい。不揃いなまつ毛や、少し冷たさすら感じさせるような澄み切った瞳。四辻に隠された賢さが見え隠れするこの瞬間が私は好きだ。
「明日行こう。今日はここにいればいい」
「それもそうだねぇ。じゃあ、今日はご飯食べて、温泉入って、ごろごろしよっか」
四辻はそう言って、再びベットに寝転んだ。窓際の椅子に座ってしばらくテレビを見ていた私は、お気に入りの番組が終わると、鞄から道具を取り出してアクセサリー作りを始める。
「伊吹、なに作ってるの?」
ベットの上でスマホをいじっていた四辻が聞いてきた。
「ピアス。一応合宿だから」
「流石部長。私も作ろう」
がばっと体を起こした四辻が、手芸道具を持ってくる。
四辻は最近、部活の時間に羊のパペットを作っている。「手品が出来るうえに腹話術も出来たらもう大道芸人としてやっていけるよね」と四辻は張り切っている。ちなみに、四辻の腹話術は相当下手くそだ。
私達は駄弁りながら、各々の作業を進めた。夕方になると、手芸道具を片付けて、一階のレストランへ向かう。食事はバイキング形式で、レストランにはそこそこ人が集まっていた。
四辻はエビチリばかり食べた。私は唐揚げばかり食べた。二人してお皿の上の彩りが綺麗じゃないことが面白くて、私達は終始笑い合っていた。デザートも全制覇して、お腹がはちきれそうだった。
部屋に戻る途中、お土産屋さんに寄って、お揃いのストラップを買った。クローバーのストラップだ。お互いの誕生月のストーンが埋め込まれていて、四辻が紫色。私が赤色だった。私はそのお土産屋さんで、蛍へのお土産と、お母さん達へのお土産を買った。
部屋に戻ってだらだらとテレビを見た後は、ホテルの中にある温泉に行った。温泉のお湯は熱くて、私は肩まで浸かるとすぐに顔まで真っ赤になった。四辻はゆらゆらと揺れる水面が照明の明かりと滑らかに混ざり合うのを、涼しい顔をして見ている。
外の露天風呂は、丁度良い温さになっていて、肩に当たる風が冷たくて気持ちがいい。私達は真っ暗な空を見上げながら、しとしとと降る雨の音を聞いていた。
「よつじは雨が似合う」
焦げ茶色の葉っぱがぷかぷかとお湯に浮かんでいる。四辻はお湯の中で膝を抱えていた。四辻の肌は淡いレモン色をしていた。