「痛くないの?」

 ピアスを開けたことがない私には、ピアスの穴はどうやったら開けることができるのかも分からない。いくら耳たぶとはいえ、身体に穴を開けるんだから、痛くないわけがない。想像するだけで、耳たぶの辺りがそわそわした。

「痛いけど、それがいいの」

 蛍は消え入りそうな声で呟くと、目を閉じた。憂いを帯びたまつ毛が、灰色の影を作る。

 痛みなんてないほうがいいはずなのに。

 自分から痛みを求める蛍に、仄暗い闇を垣間見た気がした。

「痛いのがいいんだ。へんなの」

「うん。確かに、そうかも」

 その時、私は初めて蛍の笑顔を見た。蛍はいくつものピアスをさした自分の耳に触れると、柔らかく微笑んだ。その時私は、この子のこの笑顔を忘れたくないなと思った。

「ピアス可愛いね。他にもたくさん持ってるの?」

「うん。たくさん持ってるよ」

 その日の気分で付け替えるの、と蛍は言った。

「へぇ」

 私が蛍の耳に触れると、蛍は「ひゃっ」と声を出して、耳まで真っ赤にした。驚いた私は、蛍の耳から手を離す。指先にはまだ、蛍のさらさらとした耳たぶの触り心地や、ピアスの硬い感触が残っていた。

「ごめん」

 ぎゅっと目を瞑った蛍に謝る。私もこんなに驚かれるとは思っていなかった。蛍は何度も頷くと震えた吐息を出した。

「ごめんね。ちょっと、びっくりしちゃった」

 蛍は胸に手を当てると、恥ずかしさに困ったような顔をする。蛍は二人掛けのソファーに座ると、ソファーの上に置かれた鞄からポーチを出した。ポーチの中にはころころとした細かいピアスがいくつも入っていた。蛍はそれを取り出すと、「こんなにあるの」と私に見せる。

「これ可愛い」

 私はいちごの形のぷっくりしたピアスを指差す。小ぶりのピアスで、つぶつぶとした白い粒が描かれていた。

「これはハンドメイドのピアスなんだよ」

 私はそのピアスを手に取って観察する。よく見ると、表面の部分に小さな水疱が出来ていたり、台座の部分が少し歪んでいたりした。

「自分で作ったの?」

「違うよ。ハンドメイドのアクセサリーを売ってるサイトがあってね、そこで買ったの」

「なるほど。これは多分透明樹脂だ。これに台座を接着すればいいから、作るのはそこまで難しくない」

 蛍の手の上にピアスを戻すと、蛍は目を輝かせて私を見上げた。

「すごいね。作り方も分かちゃうんだ」

「うん。アクセサリー作るの好きだから」

 お昼寝と、簡単な手芸。人に自慢できるほどすごいわけじゃない私の趣味。アクセサリーを作るのにも、パーツのお金がかかったりするから、作りたいだけ作れるわけじゃない。作りたいものを決めて、デザインを考えてから、材料を集める。

 ネックレスや、チョーカー。ブレスレットにアンクレット。最近はシンプルな指輪を作ったりもした。自分の耳には穴をあけてないから、ピアスは作ったことがなかったけど、見たところ材料さえ集めれば、簡単に作れそうだ。

「アクセサリー作れるの、羨ましいな」

 蛍はいちごのピアスを指先でつつきながら言った。

「そんなに難しくない。金具を付けたりするだけだから」

「そうなの?」

 蛍はビー玉みたいな目で私を見つめる。その瞳に視線を引き寄せられて、私は少しの間、黙ったまま動けなくなった。

「うん。今度、ピアス作ってきてあげる」

 この子が私の作ったピアスをつけてくれたら、嬉しいなと思った。とびきり可愛いものを作ってあげたい。そのピアスをつけた蛍に、とびきりの笑顔を見せて欲しい。

 私が笑うと、蛍も笑った。少し照れたような笑顔だった。

「ありがとう」

「うん」

 校内にチャイムが響いた。時計を見ると、二時間目の開始時刻になっている。私はそのチャイムに急かされ、「またね」と短く言ってから保健室を出た。扉を閉める時、「またね」と蛍の小さな声が聞こえた気がした。私は嬉しくて、授業前の静寂に包まれた廊下を、ご機嫌に頬を緩めながら、ゆらゆらと歩いた。

 

 

 授業が終わって、教室の掃除もほどほどにやって、帰りに四辻と手芸店に寄った。アクセサリーのパーツが所狭しと並べられた店内は、歩いているだけでも楽しい。

「次は何作るの?」

 店内に置かれていた小冊子をペラペラと捲りながら、四辻が言う。

「ピアス作ろうと思ってる」

 私はいくつものパーツの中から、自分のイメージするデザインに沿う金具を選ぶ。蛍は小ぶりなデザインのものをたくさん持っていたから、風にゆらゆらと揺れるようなピアスをつけているところも見てみたい。

「ピアスかぁ。伊吹、ピアスあけてなかったよね?」

「うん。これは、プレゼント」

 四辻が私の手元に視線を落とす。

「誰に?」

 蛍に、と答えそうになった私は、校則でピアスが禁止されていることを思い出して、一度口を閉じた。

「内緒」

 私が唇に人差し指を当てると、四辻は私の肩を掴んで「やらしい! あやしい!」と笑いながら揺さぶった。

「やらしくない。あやしくない」

 四辻のおでこにぺちんと手を置くと、四辻はおとなしくなった。四辻のおでこはつるつるだ。撫でると、四辻は子犬みたいに目を細める。

「可愛いのが出来るといいね」

 四辻がふにゃっと笑う。ハイソックスを履いた四辻の足首に一周、細いふくらみがあった。四辻は、私が昔あげたアンクレットを今でも大事につけてくれていた。銀色の細いチェーンに、四つ葉のクローバーのチャームをつけたもので、そのアンクレットは、四辻の細くて綺麗な足首によく似合う。四辻の足首の僅かな膨らみを見るたびに、私の心はふわりと弾んだ。

「喜んでもらえるといいな」

「絶対喜んでもらえるって」

 四辻がぐっと親指を立てる。私も親指を立てて、四辻とぐいぐい押し合いをした。四辻とふざけあっている時間が好きだ。嫌なことを忘れて、楽しい気持ちだけでいっぱいになれる。

 材料を揃えた後、四辻と別れた。四辻とは家の方向が違うから、途中までしか一緒に帰れない。薄いピンク色の空に、紫色の雲が漂う夕暮れの町を私は歩いた。しっとりとした風が私の前髪を撫でるように揺らしていた。

 

 

 夕食後、家のダイニングテーブルでピアスを作った。温かいルイボスティーを淹れにきたお母さんに「何作ってるの?」と聞かれて、作業をする手を止めて私は顔を上げる。

「ピアス。友達に作る」

「へぇ。いいね。私にも作ってよ」

 お母さんが少女のように甘えた声で言う。二重の大きな瞳。すぅっと鼻筋が通っていて、薄い上唇は桜色をしている。マスカラはダマがなく、丁寧に塗られていて、家の中でも何時間かおきにファンデーションを塗り直している肌は、透明感がなくて塗装された作り物みたいだ。

「どんなのが欲しいのか考えといてね」

「ありがとう!」

 お母さんはぱちんと両手を合わせて、はしゃいだ笑顔を見せると、リビングに戻っていった。お母さんはマグカップにお茶を注ぐと、ソファーの上に座る。ラベンダー色のカバーがかかったスマホを手に取って、無表情で画面に指を滑らせている。私はその一連の流れを、真新しいダイニングチェアに座りながら見ていた。

 お母さんの視線は、画面の上を流れていく。点けっぱなしのテレビに見向きもしないし、お風呂が沸いたことを知らせる電子のメロディーにも耳を貸さない。

 また、あの人と連絡を取り合っているのだろうか。私はここにいるのに。ここで、お母さんの丸い指先や、黒目がちの大きな瞳をじっと見つめているのに。そのことにも気がつかないで、一人にしないで欲しいとあの人に縋るのだろうか。

 喉の奥がきゅっと締まって、息が苦しかった。

「私もお茶飲みたい」

 自分の声は、硬質で少し震えていた。なのに、お母さんはすぐには返事をしてくれなくて、少しの間を開けた後、「うん。飲みなよ」と言うだけだった。その色のない声に、はっきりと寂しさを自覚する。お母さんは顔を上げることさえしてくれなかった。

 食器棚から自分のマグカップを手に取って、急須からルイボスティーを注ぐ。砂みたいな黒い茶葉が、カップの底に沈んでいく。お母さんのスマホの画面を、そっと盗み見た。白いマキシ丈のワンピースが映っている。心の底から安心したような、それでいて期待外れだったような、矛盾した感情が胸の内に宿った。

 ルイボスティーを一口飲む。自分が何を望んでいるのか、自分でも分からなかった。暗い海のなかで、ゆっくりと首を絞められているような感覚が、何も言えない私を埋め尽くした。

 早くお父さんが帰ってくればいいな、と思った。つんとしたタバコの香りがする、私の三人目のお父さん。

 

 

 昨日の夜出来上がったピアスを蛍に渡しに行った。一時間目と二時間目の間の休み時間だった。ノックも忘れて部屋に入ってきた私を見て、滅多に使われることのないベットのシーツを整えていた先生が「あぁ、またあんた」と半ば呆れたような声で言う。

「おはよう。ほたる」

 ソファーに座って本を読んでいた蛍に声をかけると、蛍はちょっと驚いた顔をした。けれど、その後にはほんのりと笑って、小さく顎をひく。

「おはよう」

 蛍はさらさらした声で挨拶を返してくれた。ピアスの穴をたくさん開けた耳は、長くて色素の薄い髪で隠れている。私は蛍の制服の裾をちょんちょんと引っ張って「ちょっと来て」と耳元で囁く。蛍は不思議そうな顔をしながらも立ち上がって、私についてきてくれた。

 先生はちらっと私達のことを見たけど、何も言わなかった。私は保健室の外に出ると、ポケットから、透明な袋にレモン色のリボンをかけた手作りのピアスを出した。

「これ、昨日作ってみた」

 蛍は袋を受け取ると、「わぁ」と声を漏らした。

「綺麗。伊吹ちゃん、すごいね」

「ほたるに似合うかなって、思って」

 蛍にプレゼントしたのは、引っ掛けるタイプの金具に、細いチェーンをつなげて、雫のような形をしたパールをつけたものだった。お店でそのパーツを見た時、人魚の涙みたいでいいな、と一目で気にいった。私には誰もこない保健室で流れる時間を過ごす蛍のことが、暗い海の砂浜でずっと誰かのことを待つ人魚みたいに思えた。

「嬉しい。ありがとう」

 蛍は両手で大事そうにピアスを包んで、心から嬉しそうな笑顔を見せてくれた。色の薄い唇や、砂糖みたいな声が私の名前を呼ぶたびに、昨日の夜から続く息苦しさが、少しずつ溶けていく気がした。

「うん。今度、つけてるところ見てみたい」

「つけるよ。たくさんつけて、大切にする」

 蛍が深く頷く。私は蛍のビー玉みたいな目をしばらくの間見ていた。すぅっと透き通っていて、綺麗だ。なぜだかこの子の目だけはずっと見ていられる気がした。

 学校指定の青いジャージを着て、体育館に向かう別クラスの子達のざわめきが聞こえてくると、蛍は途端に緊張した面持ちになって、下を向いた。

「じゃあ、私は教室に戻る」

「うん。分かった」

「ばいばい」

「うん。またね」

 私が軽く手を振ると、蛍が細い指を控えめに揺らして、手を振り返してくれた。私は深く息を吸った。ここへ来る前よりもずっと、息がしやすくなっている。

 

 蛍ともっと話がしたいと思った。そのためには、授業の合間の休み時間だけじゃ時間が足りなくて、私は度々授業をサボって、保健室に向かうようになった。保健室の先生には出席日数が足りなくならないように、休んだ回数だけはちゃんと数えておくように言われた。

 私と蛍は保健室で、他愛もない話をした。蛍にはたくさんの好きなものがあった。自分の世界をちゃんと持っている子なんだと知った。蛍の世界を知ることが出来るのはすごく嬉しくて、幸せだった。蛍は私の隣で、たくさん笑ってくれた。蛍は唇に指を当てて、くすくすと忍ばせるように笑った。花や草を揺らす風みたいな密かな笑い声を聞いていると、私の胸はくすぐったくなって、指の先がそわそわした。

 その日も蛍に会うために保健室へ向かった。蛍の隣に座って、蛍に借りた本を返した。

「面白かった。最後のほうでちょっと泣いた」

 蛍は普段本を読まない私でも楽しめるようにと、短編集を選んですすめてくれる。蛍は受け取った本を鞄にしまいながら、「私も最後のお話で泣いちゃった」と言って微笑む。

「ほたるはいろんなことを知ってるね。本とか、音楽とか、あと、勉強も出来るし」

 私の知らないことを、蛍はたくさん知っていた。もっともっと、教えてほしいと思った。蛍のことが知りたい。蛍の見ている世界を私も見てみたい。

「一人きりの時間が長かったからかもしれない」

「え?」と私が首を傾げると、蛍は「何でもないよ」と首を振った。星のない夜空のような暗い色をした目で、赤色のサンダルを引っかけた足元を見ている。私は蛍の言葉について考えた。考えると、悲しくなって、私も下を向いた。私の知っている限り、蛍はいつも一人だ。

 窓の外が騒がしくなったので、私は顔を上げた。私と同じクラスの子達が、ジャージ姿でグラウンドに向かっている。蛍は一瞬だけ窓の方に目をやると、怯えた顔をして下を向いた。顔を隠すように、両手で鼻まで覆って、蛍は苦しそうだった。資料にハンコを押す作業をしている先生と目が合う。

「隠れよう」

 私は蛍の制服の袖を引っ張って、立ち上がった。ベットの仕切りのカーテンを引いて、出来上がった陰の中で息をひそめる。蛍の小さな顔はすぐ近くにあった。蛍の微かな吐息が耳に届いてくる。

 もしも直接触れたら、この子は壊れてしまうんじゃないだろうか。私は蛍の制服の袖を握りしめながら思った。透明な、ガラス細工みたいだ。私はあの時、蛍の耳たぶに少しだけ触れてしまった。

 蛍の甘い香りが強くなる。胸がとくとくと高鳴って、頭に靄がかかりそうだ。小さな鼻も、柔らかそうな唇も、ミルクのような色をした輪郭も、全てが繊細な線の重なり合いで出来ているように、私には見えた。

「そういえば今日、体育だった。忘れてた。最近行ってないかも」

「伊吹ちゃん」

 蛍の声は力んでいた。私は蛍から手を離した。

「どうしたの?」

「体育、出られてないのきっと私のせいだよね。伊吹ちゃんは優しいから、いつもここに遊びに来てくれる」

 蛍は目元を強張らせて、制服のスカートをしわになりそうなくらいに、ぎゅっと掴んでいた。優しいなんて言葉、私には似合わない。そんな言葉を口にできる蛍の方が、優しい女の子だ。

「ほたるのせいじゃない。私がほたるに会いたいから来てるだけ。それに授業が面倒くさいからっていうのもある」

 クラスの人達は、うるさくて苦手だ。ここは静かだし、なにより、蛍がいる。だから私はここにくる。蛍が悪いとかじゃない。

 クラスの子達の声が聞こえなくなっても、蛍はその場から動かなかった。

「あのね、伊吹ちゃん」

「ん、なに?」

「放課後、ここで会わない? 私、伊吹ちゃんが授業終わるまで、ここで待ってる」

 蛍は言い切った後、体に溜まった毒を抜くみたいに、長く息を吐き出した。

「ほたるは大丈夫なの?」

 確か、蛍は他の生徒の子と下校時間を被らせたくなくて、午後になったら帰ってしまうはずだった。

「私は大丈夫だよ」

 ブレのないしっかりとした声だった。蛍が意思の強い表情を見せた。嬉しかった。蛍の隣に居ていいことが。蛍が私のことを待っていてくれることが。

「そっか。じゃあ、そうしよう。ありがと。ほたる」

「うん。こちらこそ、ありがとう」

 蛍はほっとしたように表情を和らげた。そんな蛍を見ていると、私の気持ちまで和んできて、温かい笑いが込み上げてきた。蛍は一人で笑っている私を見て、不思議そうな顔をした。

「どうしたの?」

「なんか、ほたるが面白くて、笑っちゃった」

「えっ、どうして?」

 私はカーテンを元に戻した。見慣れた明るい景色が、私達を包む。宙に浮いた細かい埃が、星屑のように光っていた。先生はそんな私達を見て、ため息をつく。

 蛍は戸惑いと照れが混じった顔をした。頬がみるみるうちに赤くなっていく。蛍はパレットみたいだと思った。真っ白な肌に色んな色が乗って、綺麗だ。嬉しい時の色も、悲しい時の色も、たくさんの色があって、カラフルだった。

「ほたるの顔真っ赤だー」

 私が指摘すると、蛍は両手で顔を隠した。長い髪が、さらりと肩を滑り落ちていく。

「もう、やめてよ」

「ほたるは恥ずかしがり屋さんだ」

「そんなことないもん」

 蛍は頬を膨らませて私を見てくる。私はぷくっと膨らんだ蛍の赤い頬を指先で押してみたかったけど、我慢しておいた。私達は再びソファーに座って、二人で話をした。授業が終わるよりも少し前に、またねと言い合って別れた。

 

    ****

 

 

 放課後の保健室に通う日々が続いた。私達は、保健室に自分のマグカップを置いておいて、フルーツフレーバの紅茶を淹れて飲んだ。蛍はマスカット味の紅茶が好きだった。蛍の鞄にはたくさんお菓子が入っていて、私と蛍はそれをちょこちょことつまむ。

 お母さんがたくさんお菓子を買ってくるけど、一人じゃ食べきれないんだ、と蛍は言う。蛍の持ってくるお菓子はどれも美味しかった。

「もうすぐ強歩大会だ」

 六月中旬の曇りの日、私はいつものように放課後の保健室にいた。

「強歩大会、大変そうだね」

 猫舌の蛍は、紅茶が冷めるのを待っていた。今日はストロベリーの紅茶を選んだ。

「そうだね。距離長いし。でも、私は走るつもりないから、ほどほどにやる」

 この学校では、六月の終わりに強歩大会が行われる。決められたコースを、自分のペースで走ったり、歩いたりしながら、ゴールへ向かう。男女別で三位までの人は表彰されるらしいけど、クラスの人たちはそこまで張り切っていない。授業が一日潰れるから、ラッキーくらいにしか思っていないと思う。

 最近は体育の授業で、強歩大会の練習として、学校の周りを何周も走らされたりするけど、私はとろとろ歩いているから、いつも最後になる。

「頑張りすぎると疲れちゃうかもしれないね」

 蛍はにこりと微笑んで、鼻歌まじりに身体を揺らした。出会ったばかりの頃と比べると、蛍は大分くつろいだ表情を見せてくれるようになった。私はもぐもぐとクッキーを齧りながら、蛍の鼻歌を聞いていた。飴玉みたいにころころとした歌声だった。

「あのさ、ほたる」

「うん。どうしたの?」

 蛍が鼻歌をやめて、私の方に顔を向ける。もう少し蛍の鼻歌を聞いていたかったな、と話しかけたことを少し後悔した。

「もしよかったら、一緒に強歩大会でない? 無理はしなくていいから」

 蛍は唇を僅かに開きかけたまま、短い瞬きを繰り返している。私と蛍の間に沈黙が落ちた。窓の外で、小鳥が笛のようなさえずりを響かせながら、滑るように低く飛んでいた。かちかちと時計の秒針が進む音がする。私は「あのね」と話を続けた。

「あのね、先生からは許可取ってあるんだ。みんながスタートしてから、少し時間を置いて出発しようと思って。そうすれば、他の生徒の子も少ないし、いいかなって」

 気だるい強歩大会も、蛍がいればきっと楽しくなる、私にはそんな予感があった。

 蛍が春の日向のようにぽかぽかとした明るい笑みを浮かべた。

「私、出るよ。強歩大会。伊吹ちゃんと一緒に出たい」

「ん、じゃあ、一緒に出よう」

 私は身体の底から湧き上がる喜びを隠すように、なんでもない顔をして頷いた。思わず、足のつま先がふわーっと上がってしまう。

 私達のやり取りを聞いていた先生が、パソコンのキーボードを打ちながら、少しだけ笑ったような気がした。右側の口角だけ上げた、いつもの意地悪な笑み。

「ドキドキするけど、楽しみ」

 蛍が星の描かれたマグカップを胸元まで引き寄せて言った。中身の紅茶も、もうそろそろ猫舌の蛍でも飲めるくらいになっているだろう。蛍が遊園地に行く前日の女の子みたいな顔をするので、それが面白かった。

 

 

 強歩大会当日、外はよく晴れて、澄んだ青色がどこまでも広がっていた。生徒は現地集合と決まっていたけれど、先生が特別に私達を車に乗せて、スタート地点まで送ってくれた。つやつやしたプチトマトみたいな、可愛い車だった。

 蛍は窓の外を流れる景色を眺めながら、そわそわしていた。私が「落ち着きなよ」と言うと、蛍は「分かった」と頷いてはにかむ。

 先生は目的地に私達を降ろすと「私も一応仕事があるから」と言って、コースの途中にある給水ポイントに向かった。私達がスタート地点に到着する頃には、もう他の子達は出発していた。遠く先を見渡しても、高校生の背中はひとつも見当たらない。

 スタートラインみたいなものはなくて、私と蛍はふわふわと歩き出す。平日午前中の穏やかな光が町に降り注いでいる。緩やかな風が吹いていて、自分達が強歩大会に参加している自覚が湧かなかった。野良猫になって、町を散歩しているような気分だ。

「男子と女子はコースが違うんだよね。女の子はちょっと距離が短いみたい」

 蛍が全校生徒用に配られた地図を広げる。決められたコースに、黒い太線が引いてある。

「あんまり遅くなり過ぎないようにって、先生が言ってた。まぁ、焦らないでいこう」

「うん。そうだね。私あんまり体力ないんだ」

 蛍は小ぶりのリュックサックを背負い直しながら言う。確かに、蛍はあまり体力がなさそうだ。細い体が、ジャージの中で浮いていた。長い髪の毛は、縛らないみたいだ。髪を縛ってしまえば、耳が見えてしまうから。風になびく蛍の髪の隙間から、パールの雫が覗く。ちいさなちいさな人魚の涙。

「つけてるんだ」

「何を?」

 蛍がちょこんと首を傾げる。今日の蛍は目が爛々としているし、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。今日のことをとても楽しみにしていたみたいだ。そんな蛍を見ていると、ほっこりした気持ちになった。癒されるなぁと思った。

「ピアス、つけてくれてるんだ。ありがと」

 私が自分の耳たぶをつまむと、蛍も自分の耳たぶをつまんだ。

「宝物なの。毎日つけてるよ」

 そう言って蛍は、こっそりと微笑んだ。蛍のピアスは私達だけの秘密だった。

「新しいピアスを作ってみたい。ほたるはどんなピアスがいい?」

 自分が作ったアクセサリーを身につけて貰えるのは、とても幸せなことだった。パールの白色は、蛍の肌の色に馴染んで綺麗だった。

「伊吹ちゃんが作ってくれるものだったら、私は何でも嬉しいよ」

「そういうのが一番困る。めちゃくちゃ変なの作りたくなる」

「変なのってどんなの?」

 蛍は肩を揺らして楽しそうに笑う。私達の笑い声はからりと乾いたアスファルトの上で重なり合った。

「ほたるはきっと、いろんなものが似合う。綺麗なのも、可愛いのも」

「そうかな?」

 私は褒めたつもりだったけど、蛍は褒められたことに無自覚で、きょとんとした顔をしていた。

「今は六月だから、紫陽花とか。あ、てるてる坊主もいいかも」

 私は頭の中で新しいピアスのデザインを思い描く。季節感のあるものを作ってみるのも楽しそうだ。

「てるてる坊主! 可愛いかもしれないね」

「冗談だったんだけど……。でも作ってみたい。頑張ろうかな」

 私はパーカーのポケットに両手を入れた。視界に入った靴のつま先が汚れていることに気がついて、いつか洗わなきゃなぁ、と思う。

「毎日つけたら、ずっと晴れになるかな?」

「そしたら、いろんな人が困る。農家の人とか。お花も草も木も困る」

「確かに。私は雨の日も好きだよ。誰にも見られてない時に、こっそり持ち手のところをくるくるするの」

 私は蛍が傘の持ち手をこっそりくるくるしているところを想像してくすりと笑った。蛍はきっと可愛い笑顔を浮かべていて、回る傘は大輪の花みたいに見えるだろう。

「私は雨の日が苦手だ。頭が痛くなる」

「もしも私が魔法使いだったら、伊吹ちゃんの頭痛を治してあげられたのにな」

 蛍が真剣な顔をして言うのがおかしかった。私は足元の小石を蹴る。小石はころころと転がって、グレーチングの網目を通ると、鱗のような波をした水の中に落ちていった。

「ほたるといると頭痛が軽くなる。ほたるは魔法使いみたいだ」

「ほんと? そうかな。だったら、嬉しいな」

 蛍はわずかに顔を傾けて、目を細める。蛍の笑顔は、あのオレンジ味の粒よりも、私に安らぎを与えてくれる。

 蛍の歩幅は小さかった。蛍は藍色のハイカットスニーカーでてくてくと歩くけど、あんまり前には進まなくて、私はそんな蛍の隣を、体育の練習の時よりもゆっくりとしたペースで歩いた。真っ白な陽の光が眩しい。

 しばらく歩くと、蛍が「疲れたな」と呟いた。飲み物でも飲んで休憩しようということになり、リュックサックに手を入れた蛍が青ざめた。

「どうしよう」

「どうしたの?」

 蛍が両手で口元を覆う。

「水筒用意したのに忘れてきちゃった」

 私は、ごそごそと何度も鞄を漁った後、しゅんとする蛍を「飲み物は自動販売機で買えばいいから」となだめる。

 私たちは自販機を探し始めたけど、こういうものって、探している時に限って、なかなか見つからない。やっと見つかった自販機は何故かほとんどが炭酸飲料だった。でも、サイダーが好きな蛍は喜んでいたから、それでいいかなと思った。

 古い木製のベンチに腰かけて、微かな風で涼む。

 ペットボトルのキャップに苦戦する蛍の代わりに、私が蓋を開ける。

「どうぞ」

「ありがとう」

 蛍は目を輝かせて、ペットボトルを受け取る。飲み口に口をつけた蛍はこくこくと喉を鳴らしながらサイダーを飲んだ。私も蛍が選んだものと同じサイダーを飲む。淡い炭酸が、舌の上をぴりぴりさせた。

「美味しいね」

 ペットボトルから口を離した蛍が、くすぐったそうな笑顔を浮かべる。

「うん。そうだね」

 ペットボトルを持つ右手がひんやりと冷たい。私は汚れた靴のつま先を、下げたり上げたりしていた。ざらざらとしたベンチに背中を預けていると、もうこのまま動きたくないなぁと考えてしまう。

「嬉しいな」

 蛍は車の走る音にかき消されてしまいそうな程小さな声で言った。

「何が?」

「大切な子とね、一緒にサイダー飲むって、とっても幸せ」

 大切な子、唇の内側で蛍の言葉をなぞると、嬉しくて、頬が熱くなった。サイダーの泡がしゅわしゅわと音を立てて弾けていた。熱い。熱い。こんなに熱いと、どうにかなってしまいそうだ。

 頬が赤くなっているのを知られたくなくて、下を向く。蛍は鼻歌を歌っていた。蛍がこの前教えてくれた、蛍のお気に入りの曲だ。風に運ばれていく蛍の歌声を、ひとつひとつ集めて、自分だけの宝物にしたいと思った。

 きっと私は恋に落ちたんだ。私はこの子のことが、すごく好きだ。下を向いたまま、涙が出そうになった。どうしよう。怖いくらいに人を好きになってしまった。

 ずっと蛍の隣にいたい。蛍の隣にいるのが私じゃないとイヤだ。

 手の甲に、一粒だけ涙が落ちた。びっくりするほど冷たい涙だった。音もなく、私の肌に溶けていく。

 誰にも恋をしないって決めたのに。自分が誰かを愛すことなんてこれからずっとないだろうと思ったのに。

 思いっきり、サイダーを飲む。喉が焼けてしまいそうになる。一気に半分くらい飲んだ私は、パーカーの袖で口元を拭う。

「美味しい」

 本当は味なんて全然分からなかったのに、そう言った。蛍は「そうだね」と微笑む。

 そろそろ行こう、と蛍がペットボトルのキャップを閉めた。私は頷いて立ち上がる。

 元来た道を戻ろうとした私達は、あの炭酸飲料だらけの自販機にたどり着くまでに、かなり複雑な道を歩いてきたことに気が付いた。元来た道に戻れなくなっていた。

 私達の目の前には、豊かな緑色の葉が揺れる畑が広がっていた。日よけ帽子を被ったおじいさんとおばあさんが、腰を曲げて作業をしている。

「さっきはこんなところ、通らなかったよね」

 蛍がきょろきょろと周りを見回しながら言う。不安そうな顔をして、消えかかるキャンドルの火のように、声も小さくなっていた。

「うん、通らなかった」

「私達、道に迷ったのかな」

 蛍の顔から、血の気がどんどん失せていく。白い蝶々が羽をひらめかせながら、私達の周りを踊るように飛んでいた。不安そうな蛍とは対照的に、私はそこまで危機感を感じていなかった。

「とりあえず、地図を見よう。ほたる、地図出して。私、持ってない」

「分かった」

 鞄の中を探った蛍が「あれ?」という顔をする。細い腕で、一生懸命に鞄の中身をかき回す。

「もしかして、無くしちゃった?」

 蛍が無言でこくこくと頷く。

「どうしよう」

 蛍は今にも倒れてしまいそうなほど、生気のない顔で言った。

「ドジっ子ほたる……」

「ごめんね、伊吹ちゃん」

 蛍が今にも泣き出しそうな顔をした。ビー玉みたいな目は潤んで、ふるふると揺れていた。蝶々が私の鼻先を掠めるように舞い、そのまま畑の方へ飛んでいく。畑の方には黄色い蝶々もいて、二匹はじゃれ合うように飛んでいた。のどかな場所だ。こんなのどかな場所で、蛍は知らない森の中に置いて行かれたみたいな顔をする。

 壊れてしまわないようにと、そっと蛍の手を包んだ。音もなく消えてしまいそうな細い指は、触れるとしっとりと温かかった。胸の鼓動が体中に響き渡る。この音が蛍にも聞こえていたらどうしようと思う。

「心配しないで」

 私は笑った。蛍が安心出来ますように、と願いながら。

 初めて人を好きになった。恋心は甘くてひりひりしている。

 きっとこの気持ちをなかったことには出来ない。気が付いてしまえば、もうどうしようもないのかもしれない。

「ありがとう」

 蛍は泣きそうな顔のまま微笑んだ。私達は手を繋いだまま歩き出す。のんびりと、ゆっくりと。

 

 いくつかの曲がり角を折れて、色が変わるのが遅い信号機のもとで足を止めて、それでも結局私達は学校指定のルートに戻れなくなっていた。先生に電話をすると、先生は呆れていた。私だけ「馬鹿者」と言われた。先生はいつも私だけに厳しいし、蛍には甘い。私はそれでも構わないけど、もうちょっと優しくして欲しい気持ちがないわけじゃない。

「近くになにがある?」と聞かれて、私は周りを見渡した。

「駄菓子屋さんがあります」

 古びた赤い看板を掲げたその駄菓子屋は店内が薄暗く、白黒写真に収められた風景を見ているような気分になった。

「あんた達がどこにいるのか分かった。ちょっと待ってて。今仕事がひと段落したところだから、そっちに行く」

「ありがとうございます」

「まったく、この年で迷子なんて恥ずかしい」

 そう言われると、何も言い返せない。私達だって、迷子になりたくてなったわけじゃないのに。

「すみません」

 先生が一方的に電話を切った。蛍は私と先生のやり取りに、じっと耳をすましていた。

「お迎えに来てくれるらしい」

 私は通話終了の文字が表示されたスマホを、ポケットに突っ込む。

「良かった」 

 蛍は安心したように、ほっと胸をなで下ろした。その後私達は、駄菓子屋さんに入って、アイスを買った。ベンチに座って、先生を待ちながら、アイスを食べる。先生にばれたら怒られちゃうねと少し急ぎながら。

 迎えにきてくれた先生は、車の中で私に対して小言を並べた。

「蛍に何かあったらどうしてくれるのよ」

 怒られるのは私なんだから、と先生はうんざりしたように言うけど、先生はきっと蛍のことを、自分が先生だからとか、そういうこととは関係なしに大切に思っている気がした。蛍に接する先生は、なんだかんだ言って、面倒見のいいお姉さんみたいだからだ。

 先生は蛍を家まで送ると、その次に私を家まで送ってくれた。蛍の家は、絵本に出てきそうな可愛い家だった。黄色い壁に、オレンジ色の屋根。広い庭にはたくさんのお花が咲いていて、青々とした芝生は綺麗に整えられていた。レンガの敷かれた玄関へと続く道に沿うように、透明な石が敷き詰められている。その石の下にはライトが埋められていて、夜になると光るらしい。

 蛍はカラフルなレンガの上を歩いて、家に帰っていった。先生と二人きりになると、先生は、小さな音でラジオを流した。

「蛍は今日どんな感じだった?」

「楽しそうでした。いっぱいお話して、たくさん笑ってくれました」

 ずっと、保健室にいる蛍。蛍が保健室の外に出てきてくれたことが嬉しかった。蛍の声や笑顔は、太陽の真っ白な光に包まれて、とても素敵だった。

「なら良かった」

「はい。私も楽しかった」

 私は膝の上で手を重ねた。蛍に触れたときのことを思い出すと、喉の奥で弾ける炭酸と、その痛みが蘇りそうになる。まだ胸がドキドキしている。

 全開に開けた窓から入ってくる風が気持ちよかった。午後の太陽は、町を黄金色に染める。

「蛍はあんたが来るといつも嬉しそう。放課後になると急にそわそわしだすの。いつもあんたの話ばっかりして、そろそろ耳に穴が開きそう」

「もしかして今の冗談ですか?」

「そうですけど」

 先生がむすっとした顔になる。先生は「センスなくてごめんなさいね」と言うと、車のスピードを上げた。恥ずかしがっているのかもしれない。私は笑いをこらえて、シートベルトを掴んだ。

 

 家に帰ると、どっと疲れがやってきた。夕飯の時間まで、リビングのソファーに座って眠った。夕食が出来上がると、お母さんは私の髪の毛を撫でながら、優しく起こしてくれた。

 それからお母さんとお父さんと、三人で夕食を食べた。夕食を食べ終わって、私が食器を洗っていると、お父さんが話しかけてきた。

「土曜日、映画を見に行かないか?」

 私は水道のレバーを捻って、手をゆすいだ。小さな泡が、私の指から滑り落ちては消えていく。

「何の映画?」

 お父さんの趣味は映画鑑賞だ。家ではリビングでDVDを見たり、自室兼書斎に籠って、音楽を聞いている。頭の悪い私じゃ聞き分けられないような、モーツァルトとかドビュッシーとかが作った古い曲だ。お父さんの部屋と私の部屋は隣にあって、薄い壁からは微かにピアノの音が聞こえてくる。私はそれを子守唄代わりにして眠っていた。

 今のお父さんは、お母さんの三人目の婚約相手で、私の三人目のお父さんだ。別に今までのお父さんに大きな問題があったわけではない。人間誰しも欠点を持っているものだし、私は今までのお父さん達が好きだった。

 一人目の血が繋がったお父さんは、熊みたいな体で、大きな声で笑う人だった。二人目のお父さんは、私達に何も言わないで突然旅に出てしまう、放浪癖のあるちょっと困った人だった。

 私はちゃんと覚えていた。一人目のお父さんに、高い高いをしてもらって、天井に頭を打って泣いたことも、二人目のお父さんに買ってきて貰ったおみやげを机に並べて遊んだことも。

 今はたんこぶも完全に治ってしまって、たくさん机に並べていたはずのおみやげはどこかにいってしまった。

 私にとって、お父さんは世界にたった一人だけの存在ではなかった。お母さんの愛した人が、私のお父さんになる。お母さんは恋多き人だった。

 一人目、二人目、三人目、とお父さんを数えている自分のことを、私は時々嫌いになった。だって、お父さん達は、私のことをたった一人のかけがえのない娘だと言って、私を愛してくれたから。

 今のお父さんは、とても穏やか人だ。面白い映画を私に薦めてくれる。タバコの煙が苦手な私のために、タバコを吸うときはちゃんとベランダに出て吸ってくれる。

 シンクに三つ、同じデザインのマグカップが並んでいる。お母さんがピンク、お父さんは水色、私は黄色。私達は夕食後、これで毎日お茶を飲む。このマグカップを洗っていると、私は時々不安になる。

 こんなもの買って大丈夫なの? お母さんの恋は私には止められないのに。

 お父さんが、手に持っていたスマホの画面を私に見せる。画面には、家の近くの映画館のタイムテーブルが映っている。

「この映画なんだけど。面白そうだと思って」

「どれ?」

 お父さんが指差したのは、私もテレビのコマーシャルで見かけたことのあるタイトルのポスターだった。

 それが分かった途端、私は一瞬、呼吸をするのを忘れてしまった。見えない手に耳が塞がれたみたいに、音が聞こえなくなって、頬が引きつる。

 コマーシャルを見た時、似ていると思った。主演俳優の男の人が、お母さんの愛するあの人に。私の先生だった人に。

 ほんの少しの好奇心で母親の携帯を覗いてしまったあの夏の日のことを、私は今でも後悔している。知りたくなかった。何も知らなければ良かった。

 映画の広告には心温まる純愛ラブストーリーだと書いてあって、気持ち悪いと思った。画面に映った俳優の顔と、中学校の教室で見ていた先生の顔が、どんどん重なっていく。

 嫌いだ。鋭い切っ先を持った言葉が胸の中に轟く。奥さんもいて、生まれたばかりの子供の写真を私達に見せて、自慢していた先生に。大っ嫌いだと言ってやりたかった。

 この水色のマグカップが、私達の手元から離れることになったら、私は絶対に先生を許さない。私はお父さんの部屋から流れてくる曲名も分からない美しい音楽を聞きながら眠るのが好きだったんだから。

「ごめん。その映画ちょっと興味ないかも」

 レバーを捻って水を出す。冷たい水の粒は勢いよくシンクを叩く。私はお皿を手に取った。

「そっか。じゃあ、また今度、別のものを見に行こうか」

 お父さんはがっかりした顔も見せず、笑顔で言った。

「そうだね」

 なんでお母さんはあんな人を好きになってしまったんだろう。お父さんはこんなにもいい人なのに。

 

 

 次の日の清掃終了後、学校では強歩大会の表彰式が行われた。男女別で一位から三位の人たちがステージの上に上がって、賞状を貰っていた。賞状を手に、ぴんと背筋を伸ばして全校生徒の前に立つ表彰者の人達は、確かにみんな足が速そうな顔をしていた。

 蛍はもちろん、表彰式には参加しなかった。体育館は今日の気温と、全校生徒の体温で熱されて、じんわりと汗ばむほどだった。

 表彰式が終わって、私達はクラスごとに教室に戻った。私は帰り支度をする四辻に後ろからぎゅーっと抱きつく。四辻は「どうしたの」と笑いながら、両腕で私の腕を挟み込んだ。

「よつじちょっと太った?」

「うるさーい。太ってない。むしろ痩せた。四辻式ダイエット」

「あんまり効果に期待できなさそう」

「残念。効果抜群ですー」

 私は四辻の背中に顔をうずめる。フローラル系の香りと、甘酸っぱい汗の香りがした。

「よつじ洗剤変えた?」

「よく分かったねぇ」

 四辻はカラカラと笑った。四辻の笑い声を聞いていると、身体から嫌な力が抜ける。四辻の香りの変化くらい、簡単に分かる。だって、私達はずっと一緒にいたから。

「昨日お父さんに映画に誘われた」

「うん」

「主演の北村って人が先生に似てると思った」

「うん」

「だから、映画見るの断った」

 四辻はしばらくの間黙っていた。やがて、四辻は私の手を握ると、「そっか」と言った。私は四辻の背中をおでこでぐりぐりした。

 先生とお母さんのことを知っているのは、私と四辻だけだ。四辻は私の話を真剣に、静かに聞いてくれる。初めてこの話をした時も、四辻は先生とお母さんのことを「本当に困った人達だ」と、低く落ち着いた声で言って、それ以上悪く言わなかった。四辻のそういうところが、私を安心させてくれた。

 私は四辻に抱きついたまま、長い間じっとしていた。四辻が身じろぎ一つしないことが嬉しかった。教室からは人がいなくなって、私達は二人きりだった。トランペットの音色や、運動部の子達の掛け声が、開け放たれた窓から届いてくる。

「熱いね。よつじ」

「うん。あっつい」

 私は四辻から体を離した。四辻は髪の毛を耳にかけて、窓の外を眺めている。大きな白い雲が、ゆっくりと流れていく。

「あの雲、象の形してるね」

 私は、もくもくと白く膨らむ雲を指差す。空に浮かんだ大きな象は、ゆっくりと山の方へ流れていく。四辻は「確かに」と目を細める。

「伊吹、今日も保健室行くの?」

「うん。行くよ。ほたるに会いにく」

「そっか。あ、一つだけお知らせがある」

 四辻がくるっと私の方に体を向ける。前髪がふわりと風を含んで揺れる。

「なに?」

「私、手芸部に入部することにしました」

 四辻が無邪気な笑顔を浮かべてピースサインを作る。四辻が手芸部に入部? 四辻は普段慎重なくせに、たまに唐突なところがある。私は数回瞬きした後、ピースサインを作った。

「よろしく」

 

 木曜日の放課後、私は四辻と久しぶりに手芸部の部室へ向かった。誰か掃除してくれる人がいるらしく、部屋は私が最後にここを見た時とほとんど同じ状態だった。教室に置いてあるような、木製の学習机を四つ、部屋の中心でくっつけてあって、それだけでこの狭い部屋はいっぱいだ。飾り気のない、殺風景な部屋。白い壁には点々と画鋲の穴がある。

 もともと手芸部にはあと二人部員がいた。二人は二年生で、私が入部してからすぐ部活を辞めてしまった。「なんで辞めちゃうんですか」と聞いた私に、先輩達は「家でも手芸が出来るから」と答えた。そのごもっともな意見に私は閉口してしまって、結局部員は私一人だけになった。

 私は自動的に部長になってしまったけれど、部室の中、一人で黙々とアクセサリーを作っているのは、なんだかつまらなかった。私はすぐに部室に通わなくなった。

「どうぞ、おかけください。副部長のよつじさん」

「ふっふっふっ。くるしゅうない。君もそこにかけたまえ」

 四辻が入部したことで、手芸部の部員は私を含め二名になった。四辻が副部長で、活動は毎週木曜日の週に一回だけ。

 私達は向かい合うように椅子に腰かける。四辻は部屋の中をぐるりと見渡すと「この部屋激狭だね」と言って笑った。

「もともと狭すぎて使い道がなかったから、手芸部に譲られたらしい」

 こんな狭い部室でも、使わせてもらえるだけありがたかった。他の部活の部室は、学校の外にあって、そこそこ広いけど、夏は熱く冬は寒い犬小屋みたいなところで、生徒からの不平不満が絶えない。この部屋は大きな窓があって、日当たりもいい。部員だってこんなに少ないから、狭いくらいが丁度いい。

 私は鞄を隣の椅子の上に置いて、クッキーの空き箱を取り出す。中には、ペンチやニッパーなどの道具が入っている。

 私が作業を始めると、四辻が私の手元を覗き込んできた。

「てるてる坊主? 可愛いなー」

「ありがと。ちょっと作ってみた」

 私は薄い水色の布で作った小さなてるてる坊主の頭をつまむ。中には綿が詰めてあって、もちもちした触り心地をしている。

「いま梅雨だもんね。てるてる坊主とか懐かしいな」

 四辻が頬杖をついて、てるてる坊主を見つめる。黒いビーズを縫って作ったつぶらな瞳が、きらきらと輝く。

「私達、学校のクラスマッチの前の日に作った。それで、逆さにして窓の外に吊るした」

「そうそう。伊吹の大っ嫌いな大繩クラスマッチ」

「結局その日雨が降ったけど、クラスマッチは体育館でやることになったんだよね」

 四辻と一緒に作ったてるてる坊主は、風が吹くたびにお互いの身体をぶつけ合うようにして揺れていた。あの時の私は、本気でクラスマッチを延期にさせようと必死だったのだ。

「あれは笑っちゃうよね。クラスで円陣組んだ時の伊吹の絶望的な顔ったら、もう思い出すだけでも笑いが止まらない」

 四辻がお腹を抱えて笑い出す。私はクラスマッチのことを思い出して、思わず苦い顔になった。大繩が苦手な私は、何度も縄に引っかかって、その度にクラスの人達がうんざりした顔をしていた。

「嫌なものな嫌なんだし。しょうがない」

「高校は大繩クラスマッチなくて本当に良かったね。あ、そういえば伊吹、この前のクラスマッチの時、ちゃんと参加してた? スタートの時からいなかったけど」

 四辻が耳に髪の毛をかけながら聞いてくる。ピアスの穴が空いていない四辻の耳たぶは、つるんとしていた。

「うん。一応。ほたると遅れてスタートしたから」

 私はてるてる坊主に、フック型の金具を取り付ける。この前、蛍にピアスを作った時に買ったものがまだ余っていた。金色のパーツの細いけれど確かな感触を感じながら、これを耳たぶに通すとき、どんな感覚なんだろうと想像する。自分の身体に人工的に作られた金具を通す。それは私にとって未知の行為で、考えただけでも背筋にふっと冷たい風が吹き抜けるような不思議な感覚を呼び起こした。

「蛍ちゃんと本当に仲良いね。私は見たことないな」

「未だに教室に行ったことが一度もないし、仕方ない。ほたるは恥ずかしがり屋で、怖がりで、可愛い子」

 蛍のことを話していると、蛍の色々な表情を思い出す。嬉しそうな笑顔。恥ずかしそうにはにかむ顔。寂しそうな横顔。

 四辻が私の話に深い興味を持ったらしく、好奇心旺盛な目で私を見てくる。

「へぇ。可愛いってどれくらい?」

難しい質問に、私は口ごもる。

「白くて、小っちゃくて、ふわふわしてる……。うさぎみたいに可愛い」

 蛍のことは、一言で表せなかった。ふんわりとした微笑みも小さな肩も、きゅっと締まった足首も、好き。それに見た目だけじゃなくて、蛍の内面にも、良いなと思うところがたくさんある。

「なるほどね」

 四辻は想像と楽しむみたいに、長い瞬きをした。

「よつじも可愛いよ」

「えっ」

 四辻は私の言葉に驚いた顔を見せた。四辻のことだから「そんなこと知ってる」と笑って返しそうだと思ったのに。四辻の反応に、私も少し驚いた。四辻は私から目を逸らし、不器用な表情でおでこを押さえたあと、「ありがと」とぽつりと言った。

「うん」

 しぼんだ風船みたいにと大人しくなった四辻を見て、なんだか勝ったような気分になっていた私は、いつもの調子に戻った四辻に「どや顔するな!」と怒られた。それでも私の表情は緩んでしまって、立ち上がった四辻に軽く頭をどつかれた。

 この部屋からそう遠くない場所から、音の外れたクラリネットの音が聞えた。続いて、女の子達の楽しげな笑い声が響く。放課後の学校は、退屈な授業から開放され、のびのびと羽を伸ばす生徒たちの生み出す声や音で賑やかだ。