誰にも恋をしないで生きていこう。固くに握りしめたスマホに、自分の体温が乗り移っていた。お母さんの好きなラベンダー色のケース。私は目の奥が痛むほど画面を見つめていた。
文字の羅列は、耳の中で音になる。あの人の声の輪郭を、私はとても簡単になぞることが出来る。私の中だけで反響するその声は、私を胸の内側から引き裂くようだった。夏の夜が、食べかけのアイスを溶かしていく。木の棒を伝って、薄い緑色の液体がカーペットの上に滴り落ちる。
汚いんだ。誰かに恋することも、誰かを愛することも。
こんなにも、汚いんだ。
お風呂の扉が開く音がする。私の瞳から雫がぽとりと落ちた。また一つ、カーペットに小さなシミができる。
****
強い光は瞼を通しても伝わってくる。肘をついたまま眠っていたせいで、頭がぐらりと揺れて、目を覚ました。黒板がいつの間にかチョークで書かれた文字で真っ白になっていた。窓際の後ろから二番目の席に座る私は、授業中のクラスメイト達を見渡す。
机に突っ伏して居眠りをしている子、こっそりと漫画を読んでいる子、友達とノートの端切れで作った小さな手紙を回している子。周りの迷惑も顧みないで、大きな声で私語をする子。
四月ももう後半だ。入学式の時はみんな猫をかぶっていた。担任の先生だって、じっと席に座って黙りこくる私達に、「高校生なんだから、もっと元気が良くても良いんだぞ」と言ったくらいだ。
だけど、日にちが経つと、個人差はあってもみんな本性を現し始めた。堂々と遅刻を繰り返す子もいたし、スカートを何回も折って、見ているこっちがそわそわするくらい短くする子もいた。
今じゃ授業らしい授業なんて成立しない。いつも誰かが喋っている。ここはそんな教室だ。
「私語はやめなさい」
先生が、ぺちゃくちゃとおしゃべりしている男の子二人組を注意する。男の子達は、一番前の席に座っていた。一番前の席はキツイよ、と四辻が言っていた。そろそろ還暦を迎えるであろう私達の担任、寿賀先生は、興奮して喋るとき唾が飛ぶらしい。
首を少し傾ければ、一番前の席に座る四辻の頭が見える。光の加減によって、優しい灰色に見えたり、深い青色に見えたりする黒髪。首筋の見える綺麗な形のショートヘア。
四辻は普段はふざけてばっかりで頭が悪そうに見えるけど、外面はいい。きっと根が真面目なんだろう。中学生の頃から提出物はきちんと出していたし、授業中もそんなに寝ない。
私はチョークの文字で真っ白な黒板と、一文字も書かれていないことで真っ白なノートを見比べる。寂しそうなノートの端に、間抜けな顔の黒猫を描いて満足した。テスト前にノートを提出しなきゃいけなくなったら、四辻にノートを写させてもらえばいい。
窓の外に目をやると、目が眩むほどの青空が広がっていた。傷のついた硝子越しに青空を眺めていると、瞳の奥が誰かに爪を立てて握られているみたいに、キリキリと痛んだ。目を覚ますと、思い出したようにやってくるのが、この頭痛だった。毎日続く慢性的なもので、いくつものお医者さんを回ったのちに、この頭痛が緊張型頭痛と呼ばれることを知った。
頭痛というのは、はっきりとした要因を突き止めるのが難しいらしく、私の頭痛は治療でどうにかするものではないようだった。今は病院で定期的に痛み止めを貰っている。毎日飲むようにはしているけど、痛みが和らいでいる感じもしない。銀色の包装紙に入った甘いオレンジ味の粒は、私にとって頼りない小さなお守りだ。
緊張型頭痛は、身体的ストレスと精神的ストレスが重なって発症する頭痛だと言われている。これは、自分で調べて知った。頭痛が始まったのは、中学二年生くらいから。それまでの私は、頭痛になんてなったことがなかった。最初は後頭部を締め付けるこの痛みを、痛みだと自覚することすらできなくて、そのあまりの苦しさにベット中で泣いていた。
今はその痛みに慣れたのか、痛みが軽くなったのか、どちらかは分からないけど、普通に日常生活を送ることができるようになった。
私は流れる時間と共にこの痛みを受け入れた。もう拒むこともない。頭痛は一日も欠かさず私に寄り添い続けた。天気が悪い日、体調が優れない日。痛みは私の内側の部分に強く共鳴した。
今日は一段と、頭痛が酷かった。頭痛が酷いと、私は眠った。眠っている間は、頭が痛くなくなるからだ。私は浅い眠りの心地よさが好きだった。浅い眠りの中で、私はよく夢を見る。始まりさえ明確に掴むことのできない、永遠のことのようにも思える短い出来事。
夢の中の私は、満員電車の中でつり革を握って揺れていたり、誰もいない古いデパートの階段を下っていたりする。
さっきまで、夢を見ていたはずだった。けれど、もう思い出せない。
眠気はこれ以上やってきそうになかった。しばらく指の先でころころとシャープペンシルを転がしていた私は立ち上がる。一瞬、あまりの痛みに頭がくらっとした。教壇に向かうまでの短い距離の間で、クラスメイトの子達からの視線を感じたけれど、何も気づいていないふりをした。
「保健室に行ってきます」
ひそめるような小声で言うと、先生が頷いた。誰かの喋り声が聞こえる。四辻が不安そうな瞳でこちらを見ていたので、私は小さく微笑んだ。扉に手を掛けて、教室の外に出る。
廊下は春の生ぬるい柔らかさに満ちていた。別のクラスのざわめきがこちらまで届いてきて、どこのクラスもあまり違いはないのかもしれないなと思いながら、階段を降りた。
保健室の扉には、コルクボードの看板がかけられている。先生は今保健室にいます、の文字の隣に、ピンクの花の画鋲が差してある。ノックして部屋に入ると、デスクで作業をしている先生と目が合った。
赤い縁の眼鏡の奥で、先生の瞳が細く、鋭くなる。来るものを徹底的に拒むような、厳しい目。先生は若いのに堂々としていて、いつも強気だ。
「頭が痛いです」
「知ってます」
先生は間髪入れずに返事をした。節の目立つ指で、クリーム色のストールを軽く巻きなおす。先生は手元のコーヒーカップに口をつけると「適当に座って」と気だるい表情で言った。
「ありがとうございます」
先生の素っ気ない態度に、私はもう慣れ始めていた。
保健室には、ソファーがいくつもある。二人掛けのソファーが一つと、一人掛けのちょっと高級そうなソファーが二つ。先生がこんなだから保健室はいつもガラガラで、私はその時の気分によって座るソファーを選んでいたけれど、今日は珍しく先客がいた。
二人掛けのソファーに女の子が腰かけている。折れそうな程に華奢で、髪の長い女の子だ。女の子は、私と目が合うと、怯えたように肩を縮めた。頬は冷たそうな白色で、大きな瞳は涙の粒がこぼれそうな程に濡れている。
どうしてこの子は泣きそうな顔をしているんだろう。それが分からなくて、私はじっと女の子のことを見つめた。女の子を見ていると、ゆっくりと舌の上でチョコレートが溶けていく時のように、可愛いな、という思いが胸に染み込んでいった。
女の子はソファーの上に置いていた紺色のスクールバックを抱えると、か細い声で「帰ります」と呟いて、そそくさと保健室を出ていった。丁寧に扉を閉めた女の子の足音が聞こえなくなった後、私は痛む後頭部を押さえた。
「あの子が帰ったの、もしかして私のせいですか」
「そうなんじゃない」
先生はパソコンの画面を見つめている。急に帰ってしまった女の子のことを、全く気にしていないみたいだ。いいのかな、と不思議に思うけど、考えてみれば、先生は誰に対してもこんな感じだ。この部屋では、先生にとっての当たり前が私達のすべてになる。先生が黒と言えば、たとえそれが白でも黒なのだ。
女の子が座っていた二人掛けのソファーに腰を下ろす。ソファーはまだほんのりと温かかい。女の子の残り香が、その場に漂っていた。甘いシャボンの香りだった。可愛い女の子って、自然と身体からいい香りが出るようになっているのだろうか。身体の中を流れる血も、バニラの味がするかもしれない。そんな想像をして、いやそれはないなと一人で愉快な気持ちに浸る。
「あの子いい匂いしたな」
「変態」
先生が表情も変えずに私を罵った。へんたい、先生の口から出た言葉を、舌の上で転がす。普通なら、べたべたと不快な響きを持つその言葉は、先生が使うとまったくそんな感じがしない。
保健室の中では、音を絞ったラジオが流れている。ソファーに両手をついた私は、足元にピアスが落ちているのを見つけた。拾って、手のひらの上に置いた。小粒のクリスタルのピアスは、私の手の上できらきらと光った。
この学校は確か、ピアスが禁止されていた。さっきの女の子の落し物かもしれない。私はピアスを羽織っていたパーカーのポケットに黙って入れた。先生に見つかって、色々と面倒なことになったら、あの子が可哀想だ。また会った時、こっそり渡してあげよう。
「さっきの子、あんたと同じクラスよ」
私は先生の話に「へぇ」と相槌を打ちながら、ポケットの中で、ピアスの先を指の腹に押し付けていた。ちくりとした微かな痛みが面白い。
「そうなんですか。見たことないけど」
「保健室登校なのよ。クラスには一度も顔を出したことがない」
「保健室登校……」
その言葉は、不思議な響きを持っていた。所属するクラスがあって、決められた教室があるのに、保健室に通う子。私が中学生の時にも、保健室登校をしている子がいた。
「体調を崩しやすくて人が多いところが苦手。学校側からの許可もあって、保健室に来たら、学校に登校したことにしてもらえるようになってる。もっとも、午後になったら帰っちゃうことが多いんだけど」
他の生徒と下校時間を被らせたくないみたい、と先生が付け足す。
「だからあんなに怯えてたんですね。嫌われてるわけじゃないんだ。良かった」
「嫌うも何も、あの子あんたのこと初めて見たんじゃない?」
私はポケットから手を出した。先生のデスクに置かれたピンク色のCDプレイヤーから、ノイズ交じりの知らない曲が流れてくる。
「そうですね。私も今日初めて見ました」
今までも何回か保健室に来たことがあったけど、その時にあの子はここにいなかった。
「あんたが同じクラスだった知ったら、あの子もっとビビっちゃうかもしれないわね」
先生は口角を片方だけ上げて、意地悪な笑みを浮かべた。
生徒のことをあんたと呼ぶのはどうかと思う。そう思ったけど、口にはしなかった。
初めて先生にあった時も、先生はこの意地悪な笑みを私に見せた。入学したばかりの頃、身体測定があった。保健室で身長や体重を測った。
高校の保健室は、中学の時の保健室よりも明るく感じた。大きな窓からは、太陽の光が差し込み、黄色に近い木製の床は、陽の光に当たると蜂蜜色に輝いた。中学の時の保健室は薄暗くて、リノリウムの床が病院みたいだった。
保健室特有の消毒液っぽい匂いはどこも変わらないのかもしれない。身体測定は私たちのクラスで最後だった。測定を終えた後、ぶかぶかの体操服を着た四辻が、私たちの身長や体重の記入されたカードを面倒くさそうに整理している先生に向かって、「この子、頭痛持ちだからここにお世話になるかもしれません」といつものふざけた感じの声で言った。
先生は「へぇ」と気のない返事をすると、右側の唇の端を吊り上げた。そしてまた、カードの整理に戻った。保健室の先生らしくない先生だなと思った。
意思の強そうな瞳に、ぽってりとした厚い唇を持った先生は、生徒からの評判がべらぼうに悪い。
先生は保健室に訪れた生徒を優しく迎え入れたはりしない。体温計を渡すことさえしない。生徒たちは、まずそこで戸惑う。その場に突っ立ったままの生徒を、先生は狼のような目で睨み付けて、「体温くらい測ったら?」と言う。先生は、ソファーに座って熱を測る生徒に向かって、熱があるならとっとと帰れ、熱がないなら教室に戻れ、と容赦なく言い放つ。だから、保健室に生徒の姿はない。等間隔に並べられた三つのベットは、いつも空いている。
あの先生が嫌だから、保健室には行きたくないよね、と女の子達が話しているのを、私は耳にしたことがある。そんなことを言われていたと知っても、先生は全く気にしないだろうけど。
「あの子きっと、私の後ろの席の子です。いつも席が空いてて、登校してきたところを一度も見たことない。名前は忘れちゃったけど」
誰も座らない椅子。空っぽの引き出し。カッターの傷が残る机。教室の端っこのその席に、本来ならどんな子が座っているはずだったんだろう、とたまに考えていた。
あの子だったんだ。あの席は、あの子の席だったんだ。
「翠川蛍」
私はパソコンの画面に集中する先生の、狼みたいな目を見つめた。澱みのない黒目。鋭利な線を描く瞼。先生の指がキーボードの上で踊っている。ぱらぱらと軽やかな音が鳴っていた。
「ほたる……」
その子に間違いなかった。名簿にもきちんと、名前があった。翠川蛍。まだ一度も教室に来たことがない女の子。消えかけていた甘いシャボンの香りが、ふっと鼻の先に蘇る。
「あんたはしょっちゅうここに来るから、遭遇率は高いかもね。またここであの子に会ったら、話しかけて驚かせてやって」
先生はいたずらっぽく笑う。立ち上がった先生が、水道の水でマグカップをゆすいでいると、チャイムが鳴った。
「さっさと帰りな」と先生が言う。
****
次の日のお昼休み、私は保健室に向かった。パーカーのポケットに、クリスタルのピアスを隠して。
部屋では、先生がお昼ご飯を食べていた。蛍は一人用のソファーに座って、本を読んでいた。蛍は私を見ると、はっとしたように、花柄のブックカバーがかけられた文庫本で顔を隠す。俯きながら、音が聞こえてきそうな程大きな瞬きを何度も繰り返している。私が話しかけようとした時だった。
「帰ります」
蛍はそう言って、慌ただしく鞄を肩にかけると、保健室から出ていく。私は軽く唇を開いたまま、女の子の後ろ姿を見ていた。背中まで届く髪には艶があり、白い光の線が浮かんでいた。
「はいはい。じゃーね」と先生がぞんざいに手を振る。
「あんなに驚かなくてもいいのに」
なんだか、これだと私が悪者みたいじゃないか。別に驚かせたいわけじゃないのに、あの子は私を見てとても驚く。
「蛍は怖がりだから」
先生が形のよい玉子焼きを口の中に放り込む。
「私、そんなに怖く見えますか?」
「いや、全然。あんたはいつもやる気なさそうな、ぼーっとした顔してる」
「そうですかね?」
自覚がなくて、首を傾げる。お昼を食べている時の先生は上機嫌で、「その顔よ、その顔」と私の顔に箸を向けて、愉快気に笑った。大人の癖に、お行儀が悪い。
「で、今日は何の用事でここに来たわけ?」
先生がキャンディーチーズの袋をつまみながら言う。
「あの子に用事があって来たんです。でも、帰っちゃったし。また来ます」
どのみち、先生の前ではピアスを渡すことも出来ないし、今日渡せなかったのも仕方がない。
「蛍に用事? まぁ、何でもいいけど。チーズ食べる? なんとなく弁当箱に詰めてきたけど食べる気無くしちゃった」
「食べます」
先生から、キャンディーチーズを貰って、教室に戻る。お昼休みの教室は、がやがやと賑やかだ。一番前の席でスマホをいじっていた四辻が、「お帰りー」とこちらに片手を上げる。四辻はお昼ご飯にまだ手を付けていなかった。
「ただいま」
昼食用のパンを持ってきて、四辻の隣の席の椅子を借りた。四辻と向かい合うように座る。
「保健室に何しに行ってたの?」
お弁当箱を開きながら、四辻が聞いてくる。お母さんが作ってくれているという四辻のお弁当の中身は、いつも手間が掛けられていて、小学生の遠足のお弁当みたいだ。手作りのおかずは、赤や黄色のチェック柄をしたカップで仕切られていて、一口サイズに切られた笹かまぼこには、旗のピックが刺さっている。
お母さんが毎朝お弁当を作ってくれるなんて、羨ましいなぁと思う。うちは、毎朝五百円をもらって、そのお金で適当にご飯を買っている。お釣りは返さなくてもいいと言われているから、残ったお金が自分のお小遣いになるのは嬉しいけど、毎日菓子パンを食べていると、違う種類を選んでもさすがに飽きてくる。
私はコーヒー牛乳の紙パックにストローを挿しながら、「女の子に会いにいった」と答える。
「女の子?」
四辻が興味深そうに、私の顔を覗き込んでくる。四辻は長い前髪を真ん中でふわりと分けている。私はまる出しになった四辻のおでこにベチっと手を置く。四辻は反射的に目を瞑ると、嬉しそうに笑った。
「翠川蛍って子知ってる?」
「あぁ、あの学校に来てない子だよね」
「あの子、保健室に通っていて、学校に来てないわけじゃないらしい」
四辻はおにぎりを食べながら、どこかのお偉いさんみたいに顎をさすり、「ふむ」と言った。四辻は一つ一つの動作がいちいち演技めいていて、大袈裟なのだ。
「保健室登校か」
「そう」
「あの先生の元に毎日通うのはキツイなー」
四辻が苦い果物でも食べたかのような顔をする。四辻も、先生とは何回か話したことがあって、先生のことを灰汁が強い人だと言う。だけど、先生は四辻のことを結構気に入っていると思う。
四辻の特技は手品だ。そのほとんどが机の上で出来るこぢんまりとしたものだったけど、誰もが知っているような基礎的な技から、種が見破れないような難しいものまで、四辻は新しい手品を覚える度に私に見せてくれた。
四辻は一度、先生に手品を見せたことがあった。先生と話していた時に、四辻の話になって、「手品出来るの? 見たい」と興味津々な先生の為に、後日、四辻が手品を披露することになったのだ。
四辻が先生に見せたのは、トランプマジックで、相手の選んだカードを当てるというとても王道なものだった。私は種を知っているからそんなに驚かなかったけど、先生はだいぶ興奮して、「まさか全部同じ柄とか、そういうのじゃないでしょうね?」と疑り深い目で四辻の手元を観察していた。
「さてどうでしょう」と不敵な笑みを見せた四辻は、他にも手品を披露してみせた。先生はいつもの先生からは想像も出来ないくらいにはしゃいで手を叩き、疲れた四辻が「これ以上のパフォーマンスは別料金がかかります」と言い出すまで、四辻に技を披露させた。
先生は今でも度々「あの子の手品が見たい」と独り言のように呟く。そのことを四辻に伝えると、四辻は苦笑交じりに、「もう勘弁」と答える。四辻は廊下で先生の後ろ姿を見つけたりすると、こそっと私の後ろに隠れる。普段はへらへらとおどけてばかりの四辻が見せる困り顔は可愛くて、私は思わず笑ってしまう。
「私も、あの先生と毎日一緒っていうはちょっとなぁ……」
なんだかとっても疲れそうで、想像するだけでげんなりした。
ストローに口をつける。コーヒー牛乳は、温くて甘ったるい。
「すごいなぁ。蛍ちゃんは」
四辻が感心したように言う。
「確かに」
私は蛍の席に目をやった。誰にも使ってもらえない机と椅子は、教室から存在を忘れ去られたみたいに、ぽつんとそこにいた。太陽の光が、机の表面を透明に照らしている。
翌日の一時間目終了後、私はまた、保健室に行った。扉にかけられたコルクボードを見ると、先生は不在です、の文字の隣に花の形の画鋲が刺してあった。
扉に手を掛ける。鍵は閉まっていない。部屋に入ってすぐ、先生のデスクで教科書やノートを広げている蛍の姿を見つけた。
蛍は私と目が合うと、シャープペンシルを握りしめたまま、息が止まったみたいにその場に固まった。私が一歩足を踏み出すと、蛍は大げさなくらいに肩を跳ね上げて驚く。立ち上がって逃げ出そうとする蛍に、私は「待って」と声をかける。今回こそは、このピアスをちゃんと返してあげないといけない。
「この前、ピアス落としていったよね。それ、渡したくて」
ピアスを手のひらの上に置いて蛍の方に差し出すと、蛍は警戒心の強い小動物みたいにびくびくしながら、少しずつ私に近づいてきた。ピアスを指先でつまんだ蛍は、今にも泣きだしそうな顔でそれを見つめ、両手で包んだ。すると、こわばっていた表情に、ほんの少しだけ安堵の色が浮かぶ。
「ありがとう」
囁くような小さな声で蛍が言った。砂糖みたいに甘くて、さらさらした声だった。
「ピアス、開けてるの?」
私が聞くと、蛍は少しの間、何かに迷うような顔をして、こくりと頷いた。
「開けてるよ」
蛍は長い髪の毛を耳にかける。露わになった白い耳には、たくさんのピアスがつけられていた。その数の多さに、私は驚いた。私は一つずつ数を数えようとしたけど、それもすぐ出来ることじゃなさそうだったから、止めた。
耳たぶにはオーロラ色をした小粒のピアスや、つるんと光を跳ね返すパールのピアス。軟骨には、花の形をしたピアスが差し込まれていて、耳の上の方に、三角型に尖ったピアスが二つつけられていた。それが猫の耳みたいだった。
「凄いね」
ピアスをたくさん開けている人って、ちょっと怖いイメージがあったけど、蛍の耳はお洒落で素敵だった。私が蛍の耳を夢中になって眺めていると、蛍は頬を真っ赤に染めた。
蛍は林檎飴みたいだと思った。赤くて透明で、甘い香りがする。
「こっちも」
蛍はそう言って、左側の耳も見せてくれた。左側の耳にも、たくさんピアスがついていた。
「自分で開けたの?」
「うん」
蛍は目を潤ませながら答える。恥ずかしそうに下を向いて、私から受け取ったピアスを大切そうに握りしめていた。