学校の中庭に女子生徒が一人おりました。

 かみ灰色はいいろひとみ瑠璃色るりいろ。歩く彼女の手には美味おいしそうなパンのつつみが一つ。ちょうど今しがた購買で買ってきたばかりのもの。

「ふふふ……今日のお昼は至福しふくのひとときになりそうですね……」

 ほおをほころばせながら彼女は包みを見つめました。

 数量限定のクロワッサン。

 購買でもまれにしか取りあつかうことのないめずらしいパン。毎日のように彼女が購買に顔を出しているのもひとえにこのクロワッサンのためと言っても過言かごんではありません。

 ゆえに彼女はこの上ないほど上機嫌。

 ふふふと笑いながら包みをながめるお顔は幸福に満ちていました。

 あるいは油断に満ちていたとも言えます。

「──わっ!」

 中庭にある小さな池のそばに差し掛かったときのことです。

 つるん、と彼女は足をすべらせ、転んでしまったのです。

 石畳いしだたみの上で尻餅しりもちをつく彼女。手に持っていたはずのパンの包みは彼女の手元を離れてくるくるちゅうを舞い、吸い込まれるように池の中へぽちゃん、と落ちてしまいました。

「わ、私のパンが……!」

 わかりやすいほどに幸福から不幸の底まで落ちた彼女は一体誰でしょう。

 ……そう、私です。

「そ、そんなぁ……」

 池をのぞいてみればパンが水面にふわふわ浮かんでいます。

 とても食べられそうにありません……。

 無念むねん……。

「せっかく楽しみにしていたのに……」

 一体どうしてこんなことに……。私はがっくりとかたを落としてから池に手を伸ばし、幸福をもたらしてくれるはずのパンからただの不法投棄物ふほうとうきぶつへと変わったものを回収しました。

 食べられないパンって燃えるゴミでいいんでしょうか。

 びちゃびちゃのビニール袋を見つめながら私はため息を一つ。

 そんなときです。

「イレイナさん……イレイナさん……」

 池のそばから私を呼ぶ声。

 誰ですか。私は視線をそちらに向けます。

 立っていたのはすみのようにくろい髪の同級生。

「サヤさん」

 でした。

 しかし彼女は慈愛じあいに満ちた表情を浮かべながらゆるりと首を振ります。

「いえ、ぼくはサヤではありません──」

「いやサヤさんじゃないですか」

「ぼくはいずみ精霊せいれいです──」

「ここ泉じゃなくてただの池ですよ」

「イレイナさん、今、泉に落とし物をしましたね……?」

「無視ですか」

「落としましたね?」

「……まあ、落としましたけど」

 私は嘆息たんそくらしながらうなずきました。

 すると彼女は両手をすっ、とこちらにかかげて語りかけます。

「あなたが落としたのは、この『サヤさんとデートできる券』ですか? それとも『サヤさんとお出かけできる券』ですか」

「いえ、美味しいパンですけど」

 ていうかそれ両方とも大体同じ意味じゃないですか。

 べちゃべちゃになったパンの包みを見つつあきれる私。

 そして目を見開くサヤさん。

「おお! 何と正直しょうじきな方でしょう!」彼女はすすす、と私の方まで寄ってくると、両手に持った券をぺたんと私に押し付けました。「正直なあなたにはこの券を両方ともあげましょう!」

「え……いらない……」

「よかったですねイレイナさん。これでいつでもどこでもぼくとデートし放題ですよ」

「別にいらない……」

 私が欲しいのはパンなんですけど……。

 ていうかそもそもよく一緒いっしょに出かけているじゃないですか。

「こんな物使ってたら私たちがいかがわしい関係だと思われかねないので結構です」

 私は首を振りつつ二枚まとめてお返ししました。

 要は拒否きょひです。

「ふむふむ。そうですか」

 てっきり強引にでも押し付けてくるものかと思いましたが、彼女は意外にもすんなりと受け取ってくれました。

「ところでイレイナさん」

「? はい」

「あなたが落としたのはこの『サヤさんを一日独占どくせんできる券』ですか? それとも『サヤさんが何でも一つだけ言うことを聞く券』ですか?」

 すすす、と新しい券を取り出すサヤさん。

「ひょっとしてこれ無限ループですか」

「おお! 何と正直な方でしょう! 正直者のイレイナさんにはこの券を両方とも差し上げます!」

「一回手に入れたらてられないのろいのアイテムですか……?」

「よかったですねイレイナさん! これでいつでもどこでもぼくを服従ふくじゅうさせられますよ!」

 いや……。

「いらない……」

「さあどうぞイレイナさん!」

「受け取り拒否したいんですけど」

「おっと所有権を放棄ほうきしますか? 捨てたらもっといいアイテムと交換しちゃいますけど、いいですか?」

「これ新手の脅迫きょうはくか何かですか?」

 ため息をつく私と目をきらきらとさせながら迫るサヤさんとのやりとりは、それからしばらく続きました。


 後日。

「そういえばイレイナさん、この前あげた券、まだ使わないんですか?」

 サヤさんを一日独占できる券。

 サヤさんが何でも一つだけ言うことを聞く券。

 結局私はその二枚の券を受け取ったのですが、恐らく使う気配が見受けられないことを不思議ふしぎに思ったのでしょう。

 放課後、サヤさんは私に首をかしげていました。

「ぼくはいつでも準備万全ですよ! さあいつでも命令してください!」

 いつでも命令してくださいと言われましても。

「あれもう私の手元にありませんよ」

「へっ? 捨てちゃったんですか?」

 すすす、と自らの懐に手を入れるサヤさん。「捨てちゃったのなら新しい券を用意しなきゃいけませんね……」

「いえいえ捨ててはないので結構です」

「? 捨ててないのに手元にない? どういうことですか?」

 彼女は怪訝けげんな表情を浮かべていました。

 ちょうどその時のことです。

「──おい、サヤ。いるか」

 がらがら、と教室のとびらが開かれます。

 現れたのはシーラ先生。

 彼女は教室の一角で雑談していた私たちを捉えると、「おお、そこにいたか」と軽く手を上げます。

「シーラ先生? どうかしたんですか?」とサヤさん。

「ちょっとお前に手伝ってもらいたいことがあるんだが。今いいか」

「先生……」

 はぁー、と目を細めながらため息をつくサヤさん。

 わかってないですねー、と表情が物語っていました。

「この状況を見てわからないんですかー? ぼく、いま、手が離せないんですよ。イレイナさんといちゃつくのにいそがしいので」

「そうなのかイレイナ」

「全然そんなことないです」

「そんなことないって言ってるけど」

 ていうかどーせひまだろ、とシーラ先生。

「暇じゃないですー!」駄々をこねる子供のように頰をふくらませるサヤさん。「ぼくはこれからイレイナさんと一日一緒にいなければならなくなる予定なんです!」

「ふうん。じゃあこれ使おうかな」

 すっ──とシーラ先生は懐から二枚の券を取り出しました。

 サヤさんを一日独占できる券。

 サヤさんが何でも一つだけ言うことを聞く券。

 その二つが彼女の手にありました。

「で、これのどっちを使ったらお前は私の手伝いをしてくれるんだ? 別に両方使ってやってもいいけど」

「な、なぜそれをシーラ先生が……!」

 はわわわ、とおどろきながらサヤさんは私を見つめます。

 私は彼女の肩に手を置いて言いました。

「捨てられそうになかったので需要ありそうなところに売りました」

 古来、捨てられないアイテムは人に押し付けるのが一番と相場が決まっているものです。幸い、サヤさんと仲の良いシーラ先生が券を欲しがっていたので無料でお渡ししたのです。

「じゃ、明日の授業の準備手伝ってくれるか? サヤ」

 教室まで足を踏み入れサヤさんの腕をつかむシーラ先生。

「あの、ちょっと待ってくださいシーラ先生! その券はイレイナさんのために用意したもので──」

「さてどこまで働いてもらおうかなぁ」

 そしてサヤさんはシーラ先生により連行されるのでした。

「いやああああああああああああああああああああああっ!」

 自称泉の精霊ことサヤさんの叫び声が、放課後の学校にこだましました。