遺跡街の天井てんじょう区画が、真っ黒な影におおわれていた。

 メノウとアビィは、なすすべもなく浸食を見送るしかなかった。空がないはずの天井が黒く塗りつぶされ、夜空へと変換していく。

 このまま黒い影が広がっても、空間が崩壊することはない。同じ異空間でも、原色概念と原罪概念では安定度が比較にならないのだ。魔物がい出る原罪異界は、人間が魔導で作るまでもなく太古の太古から存在する。広大無辺の思念の渦であり、いまメノウたちが生きている世界と同等以上に存在し続けているのだ。

 日本がある世界とメノウたちの世界が一体化しないのと同じように、メノウたちの世界と魔物がはびこる異界は融合しない。

 だから異界の入り口となる影に天井区画が呑まれただけならば、大きな害はない。

 問題となるのは、その次だ。メノウが焦燥にかられながら上を見つめていた時だ。

「ぁあああああああああああ!」

 悲鳴とともに、環境制御塔からノノの上半身が落下してきた。

「は?」

「およっと」

 困惑するメノウが動く前に、アビィがうまく落下の衝撃を殺してノノをキャッチする。

「あ、ありがとう、アビィちゃん。さすがボクとカー君の娘だね! 親孝行の子で嬉し──」

「なに、この人形録音機?」

「──あ、バレた?」

 二人のやり取りで、メノウはノノに対して感じていた違和感の正体をつかんだ。アビィは特に嫌悪感もなく、ノノのことを『録音機』と呼んだ。ノノの体が魔導兵であっても魂が宿っていない証拠だ。いまここにいるノノは、千年前から予知した情報をもとに星崎ほしざき廼乃ののが行動パターンを【星読み】に設定したものなのだろう。

 彼女は、過去でした未来の予言に対応した行動パターンを、目の前にある端末に入力していたのだ。ノノの言動に危機感がなかった理由にちょっとイラついたので、彼女のほおをつねる。

「命の危険もない高みの見物からの口出しは楽しかったかしらぁ、ノノぉ?」

「たのふぃいぞ!」

「……減らない口ね」

 引っ張っていた頰から指を離す。上半身だけになっているいまのノノは稼働限界が近そうだ。

「アビィ。このガラクタ、あと何分動く?」

「これ? 一分も持たないかな。受けめた時の衝撃で、ダメになったから」

「よし、ノノ。あと一分、これから起こることを話しなさい」

「はーい。って、まあ見ればわかってもらえると思うんだけど、上にいる万魔殿パンデモニウムをなんとかしてもらうのが、最後だよ。ゲノムのほうは安心してくれ。ボクの指示によって、サハラ君がケリをつけてくれたからね!」

 メノウの辛口にもめげる様子もなく、ノノが上を指さす。ゲノムをサハラが打倒したという話に、へえっと内心で感心する。

「気が付いていると思うけど、あれは万魔殿パンデモニウムの影だ。自分の影で天井区画を構成していた微細導器群体マイクロマシンを食い尽くして、自分の肉体に変換していっている。彼女にとってみれば、これ以上ないエサだからね」

 万魔殿パンデモニウムは、間違いなく世界に被害を起こすための行動を選択する。その思考を前提に次の行動が予測できた。

「あと数分で、あの小さな怪物は食い尽くした天井区画の空間を、現世に召喚する。空間のズレが正され、上半分の街並みが消失して北大陸中央部の上空に魔物と化して出現する」

 空間の位相のズレが正されれば『星骸せいがい』の中心核と環境制御塔が空間交錯を起こして合体する。北大陸に白濁液の雨が降りそそぎ、ノノが危惧していた『星骸』と万魔殿パンデモニウムの融合が引き起こされるだろう。

「というわけで、頑張ってくれたまえ。このルートのシミュレーションだとボクはここで壊れてしまうから、いまより先のことはなにもわからない。【星読み】の体はアビィちゃんにあげるよ。あとでじっくり解析してくれたまえ! 『星骸』の管理権限は、それで手に入るぞ!」

「ふーん? 誰の伝言だか知らないけど、ありがとうね」

「お礼なんてよせやい! ボクはもとの世界に戻るための未来をかなえるために全力で策を講じるけど、君たちは君たちの未来のために全力を尽くしたまえ」

 ちょうど、一分。ノノが、ぱちりとウィンクを飛ばす。

「じゃあね、メノウ君。この千年後で、ハクアよりも君に会えて、うれしかったよ」

 言い終わると同時に、ひとみから星型の導力光が消えた。擬似的にノノという意識を再現していた機構は完全に破壊され、もう二度と動くことはない。

 千年の昔から世界が危機的な状況におちいる度に目覚め、星崎廼乃が打ち込んだ行動パターンに従い動き続けた【使徒エルダー:星読み】は、ここについえたのだ。

「……反応に困る別れね」

 もう二度と会うことはないだろうに、あそこまで明るいとしんみりした感情など湧くはずはない。なによりノノはいま死んだわけではない。そもそもメノウはノノと出会っていないのだ。

 それでもあえて心にくさびを打つような別れを告げるのだから、根っこから性根がひねくれていたのだろう。

 ほんの数秒、千年前に生きていた星崎廼乃に思いを巡らせる。

 だがおちおち感傷に浸ってもいられない。黙とうを終えて顔を上げると、もはや天井区画のほとんどは万魔殿パンデモニウムに侵食されてしまっていた。メノウたちができることは──まだ、あった。

「……」

 メノウは無言で壁となってそびえる環境制御塔に手を触れた。

 最大の問題は、なにか。

『星骸』と環境制御塔の融合こそが一番の被害をもたらす。『星骸』の中心核が破壊されれば、北大陸の上空を巡っている他の星も落下を始める。大質量と白濁液の墜落は、北大陸そのものの滅びをもたらしかねない。

 それもこれも、『星骸』中心核の直下に環境制御塔があるのが悪いのだ。

『星骸』と同じ空間座標に物体がなければ、物体同士が融合する空間交錯は発生しない。天井都市が北大陸中央部に降りそそぐ事態にはなるだろうが、無人の地域にだれも住んでいない天井区画が瓦礫がれきとなって降りそそごうとも、誰が困るわけでもない。

「アビィ。折るわよ、これ」

 メノウとアビィで上部の根元を折ってしまえば、上からぶら下がって伸びる環境制御塔の上部は落下する。空間が統合した際に『星骸』と環境制御塔の空間座標は位置関係を異なるものとして、交錯することはないのだ。

 そして、環境制御塔の中央部には、『絡繰からく』につながる空間の穴が空いている。上部分を落下させれば、うまく飲み込まれて『絡繰り世』に入るだろう。しかもそこは、アビィの管理している区域だ。

 ノノの予言を伝えた【星読み】の肉体も含めて『星骸』の管理権限を掌握している部分が、そっくりそのまま手に入る。

「いいよ、メノウちゃん。任せて!」

 即座にメノウの意図を理解し、小気味よく答えたアビィが腕を伸ばす。目標は環境制御塔の上半分を支えている天井の基底部分だ。

『導力:素材併呑──三原色ノ理・原色擬似概念──』

 褐色肌の全身が導力光に輝き、アビィの精神が褐色の体が内蔵している格納空間に向かう。空間を構成している原色概念の最小単位、微細導器群体マイクロマシンを引き出し、組み替え、構成し直して展開する。

 多くは自分の残機換装のための素材だが、一部は決戦兵器として格納してある。

『起動【模擬『器』兵装:アビリティ・コントロール】』

 アビィを中心にして、世界が塗り替えられる。

 かつて破壊不能となった地上攻撃用人工衛星兵器に対抗して、地上から軌道衛星上の兵器を狙い撃つべく開発された防空兵器。古代文明の英知を再編した導力エネルギー兵器が展開され放たれた。

 空間が激震して、遥か上部で環境制御塔の根元が吹き飛んだ。基部を失って落下した環境制御塔の上半分が、導力光の球体に飲み込まれていく。

「よし!」

 成功だ。下で快哉を上げたアビィの声も聞こえる。

 同時に、空間が軋みをあげた。このままでは、サハラたちと分断されて地下にとりのこされてしまう。

『導力:接続──短剣銃・紋章──発動【導枝】』

 刃から伸びた【導枝】を地面に置き、メノウがつま先で短剣銃のつかに乗る。足から導力を流して紋章魔導を継続したまま、アビィに手を伸ばした。

「はい、アビィ。お手をどうぞ」

「うん!」

 アビィを乗せてさらに短剣銃へ導力をそそぎ込む。メノウたちを乗せた【導枝】を伸ばし、上へと向かう。強度を維持するために相応の導力がいるが、異世界人であるアカリの導力とつながっているいまのメノウならば、十分にまかなえる。

 導力の枝を伸ばしている途中で、『絡繰り世』に半ば以上入っている環境制御塔からサハラとマヤが出てきた。

 内部でなにがあったのか、サハラは意識を失っているようだ。小さな体で必死になってサハラを抱えながら空中に放りだされたマヤを、メノウがキャッチする。

「な、んで、いきなり壊れるの!?

「ごめん。私が壊した」

「はぁ!?

 メノウたちにとっては緊急事態だったが、マヤの怒りは真っ当だ。環境制御塔の中にいたとなれば、いきなり上の基部を破壊されればあせるだろう。

「それで……ノノなんだけど──」

やつは死んだわ」

「あ、はい」

 メノウがなにか言うより早く、マヤが真顔で断言した。気圧されたのと気持ちがよくわかるのとで、反射的に敬語になってしまう。

「あの性悪、ホントあれよ。この世界から綺麗きれいさっぱりいなくなってせいせいした」

「え? 誰、ノノって?」

 さっき一瞬遭遇したきりで、しかも一瞥してノノのボディである【星読み】のことを録音装置並の抜け殻と見抜いたアビィも含めているため、会話が混沌としてくる。

 四人を乗せて伸び上がる【導枝】が上部にたどり着く頃には、天井区画はすでにほぼ飲み込まれていた。背の高いビルだけが元の素材を残している状態だ。

 そして遺跡街の空間半分を、重く粘りつく魔導構成が包み込む。

 これはリベールの時にも感じた。大規模な召喚魔導の前兆だ。

『導力:生贄供儀──混沌癒着・純粋概念【魔】──召喚【ひっくりかえってどんがらしゃ】』

 原罪概念に飲み込まれた天井区画が、もとの空間軸に召喚する魔導が行使された次の瞬間。

 フォール・ダウンが始まった。


『遺跡街』にいたはずのメノウたちの視界が、突如として開かれた。

 遺跡街の上半分だけを浸食、召喚することによって、空間交錯の衝突を起こすことなく地上に出たのだ。

 周囲の光景すべてが重力に囚われて地上へと向かう。下方に見えるのは北大陸中央部の窪地くぼちだ。かつてくり抜かれた大地を埋めるためだと言わんばかりに、『遺跡街』の天井区画だったの質量が豪雨のごとく降りそそごうとする。

 メノウは落下の風圧を全身に受けながら、視線だけを上空に向ける。

 そこには白濁液に包まれた巨大な球体──『星骸』がただよっていた。メノウのねらい通り、環境制御塔の上半分をたたき折ることで、空間が統合する際に起こる物体融合を発生させないで済んだのだ。

 最悪の事態は回避した。このまま放っておいても、人的な被害は出ない。

 とはいえ地面に落ちればメノウたちが助からない。平気なのはアビィくらいなものだ。

 メノウは導力を汲み上げる。

 魂の奥から、こんこんとあふれ出る【力】を素材学により厳選された短剣に流し込む。

 メノウが引き出した導力は、紋章学にのっとり刻まれた印に従い魔導現象を引き起こす。

『導力:接続──短剣銃・紋章──発動【導枝:ヤドリギの剣】』

 短剣から、導力で構成された枝が伸びる。メノウはマヤからサハラを受け取って、アビィに差し出した。

「アビィ。サハラを任せたわ」

「喜んで!」

 おそらくはこのまま落下しても壊れないアビィは、気絶しているサハラを受け取っても余裕しゃくしゃくな態度だ。そんなアビィに、メノウはにこやかな笑顔を向ける。

「それと、これ、あなたに刺すから。ちょっと耐えて。さすがに万魔殿パンデモニウムと戦いながらこっちを維持するのは、無理」

「う?」

 返事は聞かなかった。

 メノウは【ヤドリギの剣】をアビィに突き刺す。差し込まれた部分からアビィの導力を吸い取って、導力のヤドリギが枝分かれをして空中に伸び広がる。

 紋章魔導を、並みの儀式魔導よりも広範囲に展開する。

 これほどの範囲に【導枝】を展開するのは、メノウ個人の導力量ではとても足りない。アカリと導力接続をしてつながっている経路から【力】を引き出してはじめて可能な芸当だ。

「サハラと一緒に、地上でこの魔導の維持をお願い」

「待って待って待って、それはちょっとおかしいんじゃないかなっておねーさん思うんだけ──どぅ!?

 緊急事態なため、それ以上は聞かなかった。

 周囲に降りそそいでくる瓦礫は、万魔殿パンデモニウムの一部と化している。アビィでは触れることすら躊躇ためらう状況だ。ここからの戦闘は厳しい。気絶しているサハラを保護してもらったほうがいい。

 メノウは完成させた魔導陣の意味を、この世界へと展開させる。

『導力:接続──導力枝・儀式魔導陣──発動【ヤドリギの剣:世界樹】』

 寄生していたアビィの導力を吸って、広げたドーム全体から導力の枝が伸びあがった。

 メノウ自身は知らないが、かつて導師マスターがマノンと万魔殿パンデモニウムを退けた時に用いていた手法の発展形である。地面まで落下していくアビィの導力を搾り取り、巨大な一本の大樹へと成長していく。

「ん、ぎぎぎぎぎぃ!」

 さすがのアビィといえども、大量の導力を吸われ過ぎたらしく苦し気な声を上げる。

 驚異的な速度で巨大な樹木が空中に伸びていく。互いにからうことで強度を増しながらも、基底部を無数に枝分かれさせたことで自重を分散させている。落下するよりはるかに素早く地面に到達して地中に根を伸ばし、頑強な基部を構築した。

 未開拓領域の空を覆うほどの広範囲で、【導枝】が花開いて広がっていく。

 メノウが展開させていく【導枝】に、落下中だったビルが降りそそぐ。

 すさまじい轟音ごうおんが響くもメノウが張り巡らせた【導枝】は、びくともしない。落下途中とはいえ、数十メートルは重力のままに加速した巨大建造物を見事に受け止めていく。

「うん。足場は完成ね」

 だが、メノウがここまで大規模に【導枝】を展開したのは、建造物を受け止めるためではない。むしろ、それはおまけだ。

 最大の目的は、ここで戦うのに有利なフィールドをつくるためである。

 ここに残ったのは、メノウとマヤだ。二人の前に、一人の幼女が降り立った。

「まあ」

 一つの都市が崩落する激動のさなかにあって、その声は奇妙なほどはっきりと響いた。

「まったく、つまらないことしてくれるのね」

 ビル群が落下の衝撃で瓦礫と化した中、魔物の一匹に腰掛けた幼女が頰杖ほおづえをつく。

「どうして邪魔をするのかしら。もうちょっとで本当に『星』が落ちる、素敵な天体観測が始まったのに」

「素敵じゃない!」

 真っ先にマヤが叫び返す。

「あたしは、そんなことを望んだことがない! あたしの肉体を使って、この世界であなたの好き勝手をしないでッ」

「まるでお話にならないわね。あなたこそ、あたしみたいな顔で変なことを言わないでほしいわ」

 マヤの言葉に、万魔殿パンデモニウムはにんまりと口端を持ち上げる。強がりを見抜き、弱点をあばす。

「まあ、まあ。それにうそを吐いてるわね。思ったことが、あったはずよ」

 小さなささやきだというのに、耳に届く声だった。

「世界なんて壊れてしまえと、みんな死んでしまえと、人類なんて滅んでしまえと。だから、そうすればいいじゃない。あなたじゃなくても、誰もが思ったことのある願望を、あたしはかなえてあげたいの!」

 万魔殿パンデモニウムの言う通り、人は誰しも自分の生がおっくうになるよりも早く、こんな世界はなくなってしまえと祈ったことがあるだろう。我こそは代弁者と言わんばかりに、万魔殿パンデモニウムは演説をする。

「あたし、聞いたのよ? 東で引きこもっているあの人の世界との境界線が崩れると、こっちの世界が滅んじゃうのよね?」

「あなたもよ」

「そうね。だから考えたの」

 演技過剰に両腕を広げていた万魔殿パンデモニウムは、地上を指さす。

 足場を支えるアビィとサハラがいるが、そちらではない。

 ちょうど、地上部分に導力光が渦巻く球体があった。直径数十メートルはある『絡繰り世』への入り口だ。

「ずうっと閉じこもっているあの人のお家をあたしの異界で染め上げて、この世界に召喚してあげればいいんじゃないかしら!」

 さも名案だとばかりに披露されたのは、思い付くこと自体が最低最悪な提案だった。

 万魔殿パンデモニウムの思い付きは、この世界が原罪概念の異界そのものに塗り替わる方法である。

「ね? だからあたしが、そこの穴を通るのを見過ごしてくれないかしら?」

「話にならないわね」

 異界から生命を召喚する。召喚した生命でこの世界を浸食し、変質させる。

 千年前は役に立てようとも思わなかった。有無を言わせず捕らえられて純粋概念の検体としてとらえられた過去がトラウマだった。人災ヒューマン・エラーになった後の自分の能力のおぞましさが恐ろしかった。記憶を削る純粋概念なんて試したくもなかったし、向き合いたくもなかった。

 そんな自分の成れの果てと、マヤは向き合った。

「あたしは、自分を変えることができる」

 自分は目の前の自分ではない。捕らえられた憐れな大志万おおしま摩耶まやでもない。すべての経験を経て、マヤはいま、この世界に生きているのだ。

「まあ……別に、いいわ」

 人災ヒューマン・エラーになる前の自分の言葉がさして響いた様子もなく、万魔殿パンデモニウムが空を見上げる。手を伸ばせば届くのではないかというほど近い距離に、『星骸』の中心核は浮かんでいた。

「まだまだ、この空を混沌とさせるのに手遅れじゃあないものね?」


 雲を超えて伸び上がった【導枝】が、上空にいた魔物の群れを貫いた。

 地上で待機しながらも、この大樹となった【導枝】を支えているのはアビィだ。彼女は自分が放った小型の魔導兵から視界を得て、不慣れながらも【導枝】を操作する。

 濁った絶叫が空に響く。大量にいた魔物も、半分以上貫かれた。足場にしている広大な範囲の【導枝】の操作に巻き込まれないように注意しつつ、メノウは短剣を投擲する。

『導力:接続──短剣・紋章──二重発動【疾風・導糸】』

 万魔殿パンデモニウムは、メノウの放った短剣を避ける仕草すら見せなかった。

 疾風により加速した短剣は、しごくあっさり万魔殿パンデモニウムの額を貫く。絶命して落下する遺体を、翼を生やした魔物が空中で捕食。万魔殿パンデモニウムを飲み込み、急旋回してメノウに襲いかかってくる。

 メノウは動きを止めることなく、首を伸ばして突き出したくちばしをかわしざまに近くの【導枝】を一本摑み、導力操作で変形。長剣の形にして振るい、魔物の首をね飛ばした。

「ま!」

 絶命した魔物の断面内部から、血まみれの幼女が姿を現す。

 普通ならば考えられない手段でメノウに接敵した万魔殿パンデモニウムの両目が、深紅の導力光に輝く。

『導力:生贄供犠──混沌癒着・純粋概念【魔】──召喚【これくらいのお弁当箱】』

 幼い腕が、上下に割れる。割れた断面にはギザギザの歯がずらりと並んでいた。

 幼女のほっそりとした腕が人を丸呑みできる怪物に変わり、メノウに食いついてくる。メノウはマヤを片手に抱き寄せ、跳び退きながら短剣に導力を流す。

『導力:接続──短剣・紋章──発動【疾風】』

 ただの跳躍では避けきれないと、短剣から噴き出した【疾風】で空中を滑る。寸前までメノウがいた空間を通り過ぎた攻撃に、【導枝】周辺がごっそりと食い散らかされる。決してやわい強度ではない。メノウがあそこにいれば、原型も残らずすりつぶされていた。

 純粋概念【魔】。

 メノウは、人の形をした化け物をにらみつける。大量の魔物に囲まれた幼女は、たとえようもない嫌悪感と威圧感をまとっていた。千年生き続け、あのハクアですら封印するしかなかったという世界でも最低最悪の怪物だ。

 だがいまのメノウたちには、勝機となる手札はあった。

「マヤ、いけるわね」

「あったりまえよ」

 勇ましく答えた彼女こそが、勝ち札となる。

「つまんないシナリオを考えているのね」

 記憶を消費し続けている人災ヒューマン・エラーは、退屈を示すためにわざとらしく大あくびをする。

「あたしは万魔の片腕。小指のあなたとどっちが強いかくらい、当たり前にわからないのかしら?」

 万魔殿パンデモニウムの両目が、深紅の導力光を帯びる。

『導力:生贄供犠──混沌癒着・純粋概念【魔】──召喚【ぽっぽっぽっと泣きあそべ】』

 万魔殿パンデモニウムの体から、大量の真っ黒な鳥類が飛び立つ。

 十匹、百匹、千匹、さらに倍。栓が壊れた蛇口かと思うほどに、あふれて雲海の津波となる。

 幼い彼女の体には、かつて南方諸島連合を食い殺した時に蓄えた幾千万の生贄いけにえが詰まっている。当時の生贄の過半数以上はいまだ霧に囚われている本体に詰め込んであるとはいえ、小指ではなく片腕である『万魔殿パンデモニウム』を構成する生贄の総量は以前と比べて跳ね上がっている。

『導力:接続──教典・九章三節──発動【邪悪なる在り処を知り、光にて照らせ】』

 教典から発せられた導力光に照らされて、魔物が消滅する。だが焼け石に水だ。次から次へと襲い掛かる鳥の魔物を、下にいるアビィが【導枝】を操作して迎撃する。

 リベールの街で相対した、一人分の生贄でしかなかった小指の体とは違う。いまの彼女はわざわざ新しい生贄をむさぼる必要がないほど、原罪に満ちている。

 リベールの時のように、生贄が切れることは期待できない。召喚される魔物が弱いことに変わりはないが、万魔殿パンデモニウムにとどめを刺す手段がない以上、遠からず物量に圧倒される。

 だがメノウも、あの時とは違う切り札を手に入れている。

 いま短剣銃はアビィに預けている。だからメノウは、指鉄砲の形をつくった。こうした形で使うのは初めてだが、いやにしっくりときた。

 紫色の導力光が、メノウの指先に宿る。

「素敵ね。その鉄砲を使うの?」

 メノウが純粋概念を行使しようとしているのをたりにして、万魔殿パンデモニウムがきゃっきゃと歓声を上げる。

「あなたもあたしみたいになって、一緒に踊るのもいいと思うわ! どうぞ、もっともっと使ってくださいな?」

「いいの? アカリと違って、私にこけおどしは通じないわよ」

 メノウは紫色の導力光が宿る指先を向ける。

「リベールの時、わざわざアカリにちょっかいをかけていたわよね。あれ、少し不思議だったんだけど、【時】を使えるようになって、わかったわ」

 かつて、アカリが純粋概念【時】を放つ際に狙いを定めていた動きを、メノウが真似る。

「あなたを封印できるアカリの能力が、怖かったからでしょう」

 リベールにいた時、万魔殿パンデモニウムはことさらアカリに付きまとっていた。見せつけるようにアカリの魔導が無意味だと主張していた。お前の魔導など通じないと、無意味だと言わんばかりにだ。

 だが、違う。

 戦闘経験の少ないアカリに対しては、十分なはったりになっただろう。だがメノウの目はごまかせない。あれは、まともにアカリの魔導を食らいたくなかったのだ。

 純粋概念【時】は、場所よりも物体に作用する。自分を再召喚することで不死身に近い生態をしている万魔殿パンデモニウムにとって、モノや人の時間を【停止】する魔導は、場所を封じる白霧よりも有効な封印となりえるのだ。

 万魔殿パンデモニウムほどの存在を永久に【停止】させようとすれば、メノウの記憶がどれほど削れるか知れたものではない。

 それでも、メノウが自分を賭して放てば万魔殿パンデモニウムを封印できるのだ。

「……怖い?」

 突き付けられた指先に輝く紫の導力光を前に、万魔殿パンデモニウムが不思議なものを見る目になる。

 こてん、と首をかしげる。無表情で、糸が切れた人形の動きだ。

「こわい、怖い、恐い、強い、コワい……この、あたしが?」

 両目に、赤よりも深い紅の導力光が宿る。

「コワイぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ?」

 魔物の鳴き声よりも奇妙な奇声が上がった。

 万魔殿パンデモニウムが、幼い口を開いた。

 大きく、大きく、ぱっくりと。

 真っ白なのどをのけぞらせて、整った下顎骨かがくこつのおとがいを正面に、深紅に輝く視線を上空に固定する。

 開いた口端から、ぴりりと破けて脱皮を始めるのではないかと思わせるほど、大きく。幼いながらも上品な顔の造りがゆがんでたわむほど、大きく。全身の皮膚がかぶりもので開けた口はファスナーを下ろした装着口であるかのように、大きく。これから人間という外皮を脱ぎ去る準備を始めているかのごとく、大きく。

 開いた口内は、黒々とした光を通さぬ無限の虚無が続く。

 全員の動きが、止まった。

 不気味さに、ではない。生理的嫌悪感を催す言動など、今更だ。

 彼女を見る者の身をすくませたのは、純粋な恐怖だ。

 形なんてないはずの虚無が、動いたのだ。

 見えないことを黒と呼ぶならば、それは黒だった。

 真っ黒なうつろが、形になる。この世にないはずの【力】が幼女の口を内側から押し上げて、異界からあふれ出る。

 召喚された異世界人の魂に癒着して、概念行使の代償に精神を食い潰し、果てに肉体を支配して跳梁ちょうりょうした挙げ句、命の意味をすり潰す千年を経た、異世界人の成れの果てのさらに最果て。

 混沌たる熟成の末、這い出た存在。

 古代文明よりさらに昔。

 この世界で生まれた人が『純粋概念』と名付けて畏怖し続けた高次元の結晶。

【魔】。

 概念の塊、一つの世界そのものが、人の皮からぐうっと身を乗り出す。

 見る者すべての魂が萎縮する中、声なき概念が魔導を唱えた。

『導力:生贄供犠──混沌癒着・純粋概念【魔】──召喚【天神様が連れ去った、子供でつくる赤い靴】』

 周囲が赤く染まった。

 周辺を飛び回っていた魔物、影に取り込まれることで原罪概念に浸食されていた大量の建造物。それらすべてが生贄に捧げられて赤い粒子となって空に舞い上がる。

 空が、ひび割れる音がした。

 この世界が異界とつながるために、亀裂ができてがれ落ちる。空にまがまがしいまでの裂け目ができる。巨大な、それこそ『遺跡街』にあった環境制御塔を上回る大きさの裂け目のふちから、な靴をいた一本の足が下りてきた。

 ピカピカになめした革の足裏には、びっしりと小さな歯が並んでいる。空の向こう側にいる存在が大きすぎて、足一本しか出すことがかなわないのだ。

 万魔殿パンデモニウムが、ばくんっと勢いよく口を閉じる。

 幼女からまろび出た存在が隠される。癒着した皮をかぶり直して、人間の顔を取り繕う。

 見てはいけないものを見てしまい凍り付いた面々に『万魔殿パンデモニウム』は、にこりと笑いかける。

「リベールや聖地の時の、弱い子と一緒にしないでね?」

 万魔殿パンデモニウムが人間の言葉を話したことで、メノウたちはようやく正体を取り戻す。

 気圧されている場合ではない。魂が凍える心地を奮い立たせる。いま目撃したものは後回しだ。直近の危機は、天の裂け目から飛び出た赤靴を履いた足である。

 魔物の強さは、生きた年数に比例する。喰らった分だけ際限なく巨大化し、あらゆる環境に適応して生存し、一個体で系統樹を無視した成長を繰り返して進化する。

 これはさっきまでと違って、新しく召喚して生み出したものではない。

 千年かけた蟲毒こどく揺蕩たゆたうことで完成した、のろいの一つ。

「あれは、とっても強い子よ?」

 真っ赤な靴を履いた足が、『星骸』をり抜いた。

 空が、揺れた。

 衝撃が空振となって世界を揺さぶる。人の可聴域を下回る瞬間的な低周波が、衝撃波となって全員の全身を打ち据え震わせた。

 たったの一撃で、白濁液ごと『星骸』が吹き飛ばされた。

 メノウは慄然りつぜんとする。万魔殿パンデモニウムは生贄さえあれば、小細工をするまでもなく単独自力で『星骸』を落とすことができたのだ。

「くッ!」

 衝撃で飛び散った白濁液が降る。一滴でも触れればひとたまりもなく死亡だ。メノウは、とっさに【導枝】を操作して頭上に傘を作って受け止めた。

 だが、それまでだった。

 足場となっていた【導枝】が、一瞬にして真っ白に染まる。『星骸』は乗るべき軌道から蹴落とされ、空から落下しつつある。救いといえば、召喚された赤い靴もノーダメージとはならず、半ば以上が白く染まっていることだろう。

 万魔殿パンデモニウムは自分がした星落としの結果を見届けるべく、わくわくとひとみ愉悦ゆえつを宿していた。

 真っ白になった足場に、ヒビが走った。

 白濁液に浸食された【導枝】が効果を失うまで、あと幾ばくもない。そのタイムリミットの中で、メノウは万魔殿パンデモニウムの期待を打ち砕くために教典を開く。

 教典に、導力を注ぎ込む。

『導力:接続──教典・一章四節全文──発動【「お前はなにをしている。」王は問うた。女は答える。「井戸を掘っております。」乾いた大地。ひび割れた地。砂のさなか。王は不思議に思う。水無き地。この世の終わりになぜ。王は言う。「水はかぬ。鉱脈は尽きた。油も干からび果てた。平穏はない。秩序もない。今の世界で何が湧くか。埋まるものがあるのか。見出せるものがあるか。掘り起こすべきものが、あるのか。」女は答える。「死んでおりませぬ。この地には力が満ちております。】」

 教典を通して、莫大な導力を自分に接続する。メノウはかつてのような素材としての純粋さを失っている。【力】を自分の体に素通りさせて一体化して操る導力接続はできなくなった。

 それでも、導師マスター陽炎フレア』から授けられた導力操作の基礎が揺らぐわけではない。

『下へ、下へと掘り進めば大いなる力の光に突き当たります。この世の真理。源。救いが訪れ大地の血脈より天高く吹き上げた力は、天を覆う大いなる巡りへとつながり、この星の光により平穏を知らしめる壁ができるでしょう。」王は、信じた。彼は見放されてなどいなかった。王は人を集め、地を掘り、光を見て、知った。希望を。つなげるものを。そう』

 本来は地脈に干渉するための教典魔導で、先ほどの衝撃で壊れかけていた天脈の流れに干渉する。空を流れる天脈は莫大ながら、地脈とは違い指向性が薄い。空中に拡散しそうな【力】を、糸でもつむぐようにしてたばねてまとめ上げて確かな線にする。

『主の御心は天地に通じ、千里のかなたまで征く】』

『星骸』は物理干渉力がほぼ皆無に等しい魔導現象以前の【力】の流れに着地した。

「まあ!」

 万魔殿の不満そうな声が上がる。『星骸』の落下を防いだのが、いたくご不満のようだ。

 そこで生まれた意識の間隙かんげきを縫って動いたのは、マヤだった。メノウのもとから離れて、万魔殿パンデモニウムに向かって駆け出した。

 その行動には、メノウも虚を突かれた。確かにいまはチャンスだ。万魔殿パンデモニウムは上空にある赤い靴を履いた足を召喚するために、ここにあった自由にできる生贄をほぼすべて消費した。だが、さっきの万魔殿パンデモニウムの中身がメノウの脳裏をよぎる。

 あんなものに、マヤを近づかせていいのか。

 そんなメノウの躊躇ちゅうちょなどふざけるなと言わんばかりの果敢さで、マヤが万魔殿パンデモニウムへとまっすぐに駆けていく。

「まあまあ……いくらあたしが弱くても、それはさすがに心外だわ」

 万魔殿パンデモニウムの影が広がった。無数の黒い槍となって射出され、全方位からマヤだけを狙って襲いかかる。

 まずい。メノウは焦燥に駆られた。自分が迷ったぶん、躊躇わなかったマヤとの距離が空いている。万魔殿パンデモニウムの攻撃を防ぐには、一発の【停止】では意味がない。もう、一瞬後にはマヤがあまたの影の槍で貫かれてしまう。

 メノウは、自分のこめかみに指を突きつけた。

『導力:接続──不正共有・純粋概念【時】──発動【加速】』

 メノウの世界が加速した。脳内で光が炸裂するような錯覚が起こる。ありえないほどのスピードで走り、マヤを狙う影の槍を短剣で残らず切り落とす。

「ま、ぁ、あ?」

 スローテンポになった万魔殿パンデモニウムの声を聞きながら、メノウはマヤを抱えて駆け抜ける。影の鎌首が、一斉に持ち上がった。メノウはマヤを抱えたまま、四方八方から迫る影の刃に対して体を回転させて切り払う。切り裂かれた影が宙に消える。

 一瞬だけ空いた空間を見逃さずに、前へ。

【加速】から、たったの一秒で影の大元までたどり着いた。

 だがその一秒で、万魔殿パンデモニウムの召喚魔導は完了していた。

『導力:生贄供犠──混沌癒着・純粋概念【魔】──召喚【みんな友達みみずの子】』

 肉の触手が津波となってメノウとマヤを飲み込もうとする。万魔殿パンデモニウムまで、あと五歩。その五歩の間を、細長い肉の触手が埋め尽くす。速さだけではどうしようもない、怒濤の物量攻撃だ。

 鉄砲水のように迫りくる触手の群れを前に、メノウは左手に持つ教典に、あらん限りの導力を注ぐ。

『導力:接続──教典・十二章一節──発動【打ち付けよ、打ち付けよ、ただ支えるために】』

 教典魔導によって形成された導力のくぎが、肉の触手を打ち抜いた。

 道が、開けた。

 だがすぐにふさがろうとする。

「マヤ」

 抱えていたマヤのえりを摑み、隙間にねじ込んだ。

「どうにか、しなさい!」

 残りのすべてを託し、メノウはマヤを万魔殿パンデモニウムのもとまで送り届けた。


 万魔殿パンデモニウムの五歩圏内は、静かな空間だった。

 メノウの助力によって不可侵となっていたそこへ踏み込んで、マヤは初めて気が付いた。

 万魔殿パンデモニウムの周囲には、不出来で等身大のジオラマのような映画空間ができていた。『遺跡街』の数ある瓦礫の中から映画館のシアタールームの破片を集めて配置したのだろう。

 三歩歩いて、マヤは自分とそっくりの少女と相対した。

 上空からは、ゆっくりと赤い靴が降りてきていた。あれが自分たちのもとまでたどり着けば、おしまいだ。本当にどうしようもない存在だというのが、ひしひしと伝わる。なにせ白濁液で白くなっていたはずの赤色が、徐々に戻っている。

 明確なタイムリミットがありながら、いざたどり着くと、どうすればいいのか迷ってしまった。

 マヤが戦って万魔殿パンデモニウムに勝つことはできないだろう。戦力差はバカバカしいほどだ。

 だからマヤは、正直に言った。

「どっか行ってくれない?」

「まあ?」

 万魔殿パンデモニウムが漏らした声は、心底バカにしきった色に染まっていた。

「とってもひどい寝言を聞いたわ。頭にプリンでも詰まっているのかしら」

「だって、他にどうすればいいのよ」

 マヤは唇をとがらせる。