正真正銘、弱り切った身一つだ。

「くそがよぉ……」

 ゲノムが毒づく。サハラは這いずって、体を進める。導力は、ほとんど空っぽだ。一イン硬貨の紋章魔導すら発動できる気はしない。

 ならばと、床に転がっていた導力銃を一丁、拾う。

「さ、サハラ……?」

「マヤ。目をつぶってて」

 一発なら、撃てる。

 幼い彼女に見せるものでもなかろうと思ったのだが、マヤがサハラの体を支えて持ち上げる。上半身だけ起き上がり、疲労でぼやけた焦点を合わせる。

「俺、を……殺す、のか?」

「ええ」

 ひゅう、ひゅうという音が聞こえた。ゲノムが喉を鳴らして呼吸する音が、なぜかいまさらになって耳に残った。

 呼吸するのすら必死にならなければならないゲノムの身を守るものはなにもない。だというのに銃口を突き付けられた男の視線に、死を恐れる色はない。

「お前は……なんで、俺を殺す?」

「私はね、ゲノム」

 思い返してみれば、今日という一日はあまりにも不幸だった。

今朝けさ、朝食を食べ損ねたの」

「そう、か」

「髪は湿気でまとまらないどころの騒ぎじゃないし、考えてみれば昼ごはんも食べてないからすごくお腹減ってきたわ。おまけに、さっきのなに? 私、どうなってるの?」

 疲れもあって適当に理由を挙げているうちに、本当にイライラとしてきた。

 自分には世界の責任を背負いこむ理由はいらない。メノウのように他人の死を重荷にして自分を追い詰めるなんて論外だ。処刑人なんてくだらないと、いまのサハラは心の底から言えた。

 だから、目の前の男を殺す理由は、最低最悪でいい。

「むしゃくしゃが積み重なった憂さ晴らしに、あなたを殺させてもらうわ」

 ゲノムは、破顔した。

 死を受け入れた顔で、サハラと目を合わせる。

「なら、仕方ねぇや」

 それが、ゲノムの最期の言葉となった。

 サハラは迷うことなく、引き金をひいた。

 導力弾が放たれた。大口径の拳銃の反動に、サハラの腕が跳ね上がった。

 あらゆる異名。成し遂げた悪行。人生がどれだけ波瀾万丈はらんばんじょういろどられようと、死は平等に訪れる。

 時として、あまりにもあっさりと。

 頭を丸ごと消し飛ばす威力の導力弾によって、ゲノム・クトゥルワは、その生涯に幕を下ろした。

「……じゃあね、私のトラウマ」

 今度こそ、終わった。サハラの手から、大口径拳銃が滑り落ちる。

 極度の疲労と導力を使い果たした反動に、サハラは意識を手放した。


 勝利はした。

 マヤにも、それはわかった。サハラが頑張ってくれた末に辛勝だ。だが、犠牲がなかったわけではない。

「ノノ……」

 サハラを支えながら、上半身だけになったノノを看取みとるためにマヤは彼女の手を取る。血は流れていない。体の断面も、人形じみた様相だ。しかし魔導兵の体とはいっても、こんな状態になってしまっては長く稼働できない。

 きつく当たっていたが、マヤにとっては千年ぶりに会って自分の味方をしてくれた人間だ。思い入れが、ないわけがない。

「ごめん……本当は、あたし、ノノと会えて嬉しかったの。もっと、ちゃんと──」

「あ、気にしないでくれたまえ。ボク、ただの録音機だから」

「──は?」

 しんみりとした空気が吹っ飛んだ。

 あ然とするマヤに、ここにいる時間が残り少ないノノは種明かしをする。

「ボクはいま、君たちからしてみれば千年前の環境制御塔にいて、【星読み】と接続しているんだ。カー君と協力してボクの予知演算をしてね。千年後のシミュレーションをして、【星読み】にボクの声を録音して、行動パターンも設定して動いてるんだよ。未来で起こる危機的状況を予知して、その対策行動を【星読み】に打ち込んでいるんだ」

 二人の困惑もよそに、なぜか自慢げにノノが自分の予言について披露する。

「これこそが、ボクの予言の本質だよ」

「ええっと……つまり、どういうこと?」

「いま千年前に生きているボクにとってみれば、君は数ある未来シミュレーションの一つでしかないのさ! ぶっちゃけ、この行動パターン記録も十中八九無駄になると思ってる! あっはっはっは!」

「てい」

「ぎゃぁああああああああ!?

 ちょうど壊れた壁の穴のふちにいたので、マヤはノノを環境制御塔から蹴り捨てた。きっとこれが彼女との今生の別れになるだろうと、晴れ晴れした笑顔で落下するノノに手を振った。

「よし! これで全部、心置きなく解決したわね! あとはメノウたちが到着して、この制御室を解析すれば終わり! ……って、あ」

 自分で言っていて、おかしいことに気が付いた。

 万魔殿パンデモニウムが、いない。

 マヤたちは、環境制御塔に万魔殿パンデモニウムがいるという前提のもとに行動していた。彼女の感覚が万魔殿パンデモニウム特有の気配を捉えていた。共鳴していたと言ってもいい。

 だが、環境制御塔にいないのだ。内壁の一部が原罪概念に浸食されている箇所こそあったが、万魔殿パンデモニウムの姿は影も形もなかった。

 人災ヒューマン・エラーである万魔殿パンデモニウムが、もしもゲノムとはまったく違うところで企みを進めていたら。

 サハラたちはもとより、メノウにも気付かれないところで事態が進行していたら、もはや、止めようがないのでは?

「──ッ!」

 その予感はマヤが穴の空いた壁から天井区画を見た時に、確信に変わった。


 ゲノム・クトゥルワが死んだ。

 サハラたちとはまったくの逆方向から天井区画を進んでいたモモは、天井区画で破壊工作を行っていたゲノムの端末たちが動かなくなったことで、その事実を悟った。

「ゲノム。お前はよくやってくれました」

 マヤがこの『遺跡街』に万魔殿パンデモニウムの一部があると気がついた時に、それを所持しているのがゲノムであるということを疑った人物はいなかった。遺跡街にひらめく赤旗。環境制御塔の位置にある万魔殿パンデモニウムの気配。その二つの要素から、そう考えるのが自然だったからだ。

 モモがそう予想するように誘導した。ゲノムに万魔殿パンデモニウムのほんの一部の爪を提供してモモが一時的に『遺跡街』に入ることを許可させ、マヤにはその時に滞留した万魔殿パンデモニウムの気配を感じさせた。事情を知るアビィはメノウたちと分断して合流し、彼女が余計なことを必要以上、話させないことにした。アビィには『絡繰り世』で彼女が本当にやりたいことが残っている。

 彼女は間違いなく人類の味方をしてくれるが、メノウの味方でい続けてくれるわけではないのだ。

 この騒乱の中、ゲノムにくみすることなく、かといってメノウたちに利することもなく静かに準備を進めていたモモは、白のキャリーケースを開ける。

 そこには白い包帯でぐるぐる巻きにされた腕が納まっていた。

【白】の魔導で編まれた包帯で封印処理を施し、導力を遮断しゃだんする箱に閉じ込めた気配までは、マヤでも感じることができなかった。

 ほそく、幼い、万魔の腕。

 巻かれた包帯の手のひらの隙間から、口が開く。

「ね、おねーさん! あたしを解放してくれれば、お礼に一つだけ願いを叶えてあげるわ!」

 都合のよすぎる言葉は、善意ではない。本意ですらない。気まぐれに、いまの状況に即応した一人芝居をしているだけに過ぎない。もしもモモがつまらない願いを口にすれば、次の瞬間、態度をひるがえして襲いかかってくるだろう。

 だからモモはなにも言わない。なにも望まないことが正解だとわかっていた。ただ包帯を解いて万魔殿パンデモニウムを解放し、背を向けて駆け出した。

「まあ……残念」

 にまぁっと笑った幼子の腕が膨れ上がる。二の腕が下半身となって一の腕が上半身に、そして手のひら五本指がこねくり回され、かわいらしい幼女の姿を取り戻した。

 彼女の足元にある影が、広がっていく。万魔殿パンデモニウムの片腕。彼女に分け与えられた異界が、天井区画を飲み込んでいく。

 万魔殿パンデモニウムの片腕が動き出す場所は、どこでもよかったのだ。

 これほどに原色概念に満ちた空間である。空気中に漂う微細導器群を浸食して、原罪概念は止められようもなく浸食する。