肉体に戻ったメノウが最初に感じたのは、とてつもない圧迫感だった。

 意識が覚醒すると同時に、精神をこねくり回されて体という入れ物にぎゅうぎゅうに詰め込まれた。地面に生き埋めにされたかのような息苦しさに、精神が震えて怯える。

 ゆっくりと、呼吸を再開した。

 心臓は脈打ち、内臓も機能している。処刑人という職業柄、自分の体を動かすことには慣れていたはずだが、改めて肉体というものの複雑さと濃密さに驚かされた。

 精神と魂が離脱した副作用だ。いま思うと、導力の世界にいた状態のメノウはとんでもなく単純な構造をしていた。単一の要素である魂に、精神の情報が引っ付いていただけだった。

 そこから肉体という怪奇な構造物に戻ってしまったため、混乱しているのだ。少しずつ、手足が意識できるようになってきた。全身の血の巡りを感じるにつれて、自分の体への愛しさが湧いてくる。

 ああ、生きている。

 自分の生を実感したメノウは、ゆっくりと目を開いて起き上がる。

 目がかすんでいるのか、周囲の風景がぼやけて見えた。徐々にピントが合わさっていく。

「……メノウ?」

 耳に、声が届いた。

 マヤだ。幼い顔に、ひどく疲れた様子を浮かべていた。

「……本当に戻ってきた」

 続いて呟いたのは我堂がどうだ。あちらの世界にいた超然とした我堂ではなく、人の視線に怯える肉体の我堂である。

 マヤが、へなぁっと崩れ落ちる。

「よかった……本当に、よかったぁ」

「……なにかあったの?」

「……メノウの心臓、止まってた」

「え」

「息もしてなかったし、肌、冷たくなるし……我堂から『幽体離脱の症状』って聞いてなかったら、絶対に死んだと思ったわよぉ」

「そ、そんなことになってたのね……」

 ぽろぽろと泣きだしたマヤを慰めながら、自分の精神と魂が離脱している内に、肉体が死んでいたと聞かされたメノウが少し青ざめる。

「……マヤには、感謝したほうがいい」

 我堂が、そっとメノウに耳打ちする。

「……マヤは、ここでずっと、あなたの精神と魂が形を保てるように【魔】の純粋概念を使っていた」

「わかってるわ。マヤ。改めて、ありがとうね」

 メノウが導力の海で自分を保てたのは、意思が強いからでも偶然生き延びたからでもない。

 マヤの助力があったからこそだ。あの世界にあったメノウの影は、マヤがメノウの形を保つためにつなげてくれたものだった。マヤがメノウの影を保たなければ、メノウは自分の形を意識することもできなかったはずだ。

「……それと。あなたのおかげで、私は、我堂の代用から解放された。ありがとう」

 ぺこりと頭を下げる。

 すでに本人格の我堂は、記憶の消費の問題を自分一人で解決していた。肉体を使い続けていたのは、惰性と名残でしかなかったのだ。メノウがそれを指摘することで、千年、記憶の分裂と増殖にさらされ続けた我堂の肉体は解放された。

「あんまりに自分勝手だったからね、あっちの我堂は」

「……うん。知ってる。それと──外の状況も、変わってる」

 ぼそぼそと我堂が告げる。

「……『絡繰からく』が消えた。アビリティ・コントロールが身をした」

「アビィが?」

「……うん。彼女は、彼女の目的に殉じて、願いを叶えた」

 メノウとマヤは黙り込む。アビィがいなくなった。それを聞かされても、実感は湧かない。

「……モノリスの支配権だけは私に残ってるから……外に、出る?」

 我堂の提案に、メノウは頷いた。


 モノリスから外に出ると、見覚えのない風景になっていた。

 念のため、マヤを置いて一人でモノリスから出たメノウは周辺を確認する。

 岩と土ばかりが広がる荒野に、ハクアが千年前に作った白夜の結界だけが残っている。白夜の結界の内部ということは『絡繰り世』があった場所のはずだが、あれほどに満ちていた原色は、すっかり消えていた。

 メノウたちが拠点としていたはずの学校も消えている。アビィが補修した環境制御塔だけが、虚しく放置されていた。

 千年の時を重ねて膨張した『絡繰り世』は、この世界から消え去ったのだ。

「驚いたな」

 メノウの背後から、声が響いた。

「『絡繰り世』を破壊するのではなく、新しい世界をつくって移動させるとは」

 おそらく、『絡繰り世』の跡地で唯一残った環境制御塔の様子を見に来ていたのだろう。単身でいるミシェルがメノウと視線を合わせる。

「……これも、お前の計画か、『陽炎の後継フレアート』」

「……いいえ。廼乃ののの企みじゃないかしら」

「ああ、なるほど。廼乃さまか。あの方なら、千年越しの企みも達成させるか。私などとは、人としてのものが違うからな」

 そう言って、彼女はどこか寂しげに口元を歪めた。間違いなくミシェルなのだが、少し前までとは様子が違う。メノウへの敵意が薄く、振る舞いもどことなく達観している。

「どうしたの? いままでと、少し違うじゃない」

「ん? ああ……少しばかり、昔のことを思い出してな」

 過去を再現するアビィの魔導を受けたことで、ミシェルは空白だった自分の過去を埋めていた。一つ前の自分である、エルカミだった時代だけではない。

 千年に及ぶ彼女の人生だ。

 自分の時間を取り戻した彼女は、老成した笑みを浮かべる。

「魔導兵も、面倒な攻撃をしてくれたものだ。昔を思い出させてくれるとはな」

 アビィが構築した精神攻撃は、ミシェルにダメージを負わせるのが目的ではない。ミシェルの人生を彼女自身に思い出させるものだった。

 すべてを思い出した彼女ならば、ハクアに従う理由がなくなると踏んでいたからだ。

「長く生きるのは害悪、か。もっともだな。私の人生は、無駄だった」

 千年という月日を過ごした人物が、述懐する。

 アビィの目論見もくろみは成功している。いまのミシェルにはハクアに従う気持ちがこれっぽっちも残っていない。

 ただ誤算だったのは、ハクアに従わなくてもメノウと戦う理由がミシェルにはあるということだ。

「お前は、どうだった。シラカミ・ハクアの複製体」

「有意義な人生にするために、いま、生きてるの」

 異世界送還陣の起動方法は理解した。環境制御塔の中で、教典魔導の全文を発動させればいい。ただそれだけで、ハクアを異世界にたたき返すことができる。

「……そうか。悪くない生きざまだ」

 ミシェルが腕組みを解く。地面に刺していた大剣を摑み、引き抜いた。

「少し歩くか」

「……そうね」

 ここから移動することに異論はなかった。モノリスの中にはマヤと我堂がいる。ミシェルとの戦闘に、彼女たちを巻き込むわけにはいかない。それにここで戦えば、『星骸』に干渉するための環境制御塔が壊れてしまう。

 移動を提案したミシェルも、マヤたちや環境制御塔を巻き込む気はないのだ。

「ハクアにいいようにされていることは思い出したんでしょう? 私たちに協力するっていう選択肢はないの?」

「論外だ。お前自身が、ハクアの計画の一部だろう?」

 ミシェルの指摘に苦笑する。

 彼女の言う通りメノウは、ハクアがアカリと一緒に異世界に帰るために生み出した素体だ。魂レベルでの相互導力接続によって導力的にアカリと同一になったメノウの体をハクアが乗っ取り、異世界送還陣を起動させることで、二人同時に日本へ帰る。

 それが、すでに妄執もうしゅうとなってしまったハクアの願いだ。

「安心しろ。お前がここで負けても、私がハクアに引導を渡す」

「……どうせ負けるわよ、あなたは」

 いまの言葉に挑発の意志はない。ミシェルがハクアと戦った場合の、メノウなりの予測と根拠を告げる。

「人がいいもの。だから知り合いを殺そうとする時、手が止まるのよ」

「……ああ、だからか」

 幾度となくハクアに記憶を消されていたミシェルは、自分の敗因を知って口元をほころばせる。

 ミシェルは、戦闘力という一点ではハクアに劣っていないという自覚があった。それでもハクアに付いていけなくなった時、一方的に記憶を消され続けた理由として、非常に納得いくものだった。

「では、私に勝ってみろ、『陽炎の後継フレアート』」

 ミシェルが断罪剣を手に取る。

「ありがたいことに、お前は私の知り合いではない」

 だからこそ敗北の理由はないと、ミシェルは大剣を構えた。


 勝負の始まりに、合図はなかった。

 なんの前触れもなくメノウが突っ込んだ。切っ先を閃かせる短剣を迎え撃つミシェルが、大剣を振るった。

 剣戟の火花が散った。

 一秒に三回の切り合う金属音。ほとんどつながって響く甲高い音が秒数を重ねて続く。互いに導力強化の燐光を纏ったメノウとミシェルが、殺意の刃を音にして周囲に鳴らす。

 息の詰まる濃密な刃の嵐。二本の短剣の速度に、一本の大剣が追いついてさばき切る。

 五秒目で、メノウの右腕が切り飛ばされた。懐に入ってさえしまえば、大剣を武器とするミシェルに優位を取れるはずが、予想以上に繊細苛烈な剣技で迎撃された。接近戦での差は、メノウの想定を上回っていた。

 仕切り直すつもりでメノウが下がった半歩を、ミシェルの一歩が踏みつぶした。

 前動作を殺した回避のできない速度での打ち下ろし。それを短剣で受けとめようとしたのが、悪手だった。

 メノウの防御ごと、ミシェルの大剣が押し倒した。

 とても受けられない力だ。メノウの体ごと地面に叩きつけられる。右腕がないせいで受け身をとれない。圧倒的な力に打ち据えられた衝撃に、メノウの顔が苦悶に歪む。

 ダメ押しと言わんばかりに、ミシェルが大剣に導力を流した。

『導力:接続──断罪剣・紋章──発動【圧縮】』

 メノウの周囲の地面がミシェルの大剣を中心に圧縮されて、寄り集まった。

 体を押し潰そうとする岩石に、身動きが取れなくなる。そこに、ミシェルの拳が叩きつけられた。

 強烈なミシェルの拳は、身動きできないメノウの体を打ち抜き致命傷を与える。普通ならば、間違いなく勝敗を決する一撃だ。

 ミシェルとメノウ。

 真正面から戦った実力差が、これだ。