敵からの祝福に微笑んで、アビィは彼女の刃を受け入れた。


 メノウは老いた大司教と戦闘していた。

 恐ろしく精緻に教典魔導を使ってくる。純粋概念を行使してなんとか勝利したメノウは、肩で息をしていた。

あきらめればいいのに。つらいでしょう。そのまま進んでも、仲間も死んで、一人になるだけよ」

 心臓に刃を突き立てた老婆は、同情の瞳を向けていた。

「憐れな子」

 最後までメノウを憐れんだ老婆の姿が霧散する。

 勝てたことが、信じられないほどの強敵だった。完全にメノウを優越した魔導技術。膨大な積み重ねを感じる戦闘感覚。純粋概念を持っていなかった自分が、どうやって勝利をしたのか。

 この空間に来てから出現した強敵は多いが、一番強かったのは彼女だ。

 記憶にない相手を倒しても、メノウが純粋概念を使うために費やした記憶がよみがえることはなかった。

 メノウが覚えている人間は、出現しない。

 ミシェル、ハクア、アカリ、マヤ、サハラ、アビィ。この半年での交流がある人間の記憶は残っている。もしかしたら、数人、忘れてしまっているかもしれない。名前が出てくるのが、たったの六人しかいないというのは、おかしい気がする。

「……ふう」

 先に、進む。

 床も壁も存在せず、おそらくは大気すらない。メノウは自分がいまどうして歩けているのか、なぜ呼吸ができているのか、全く理解できていない。現実感が喪失しているあまり、夢の中にうっかり迷い込んでしまったのではないかという気すらし始めていた。

 導力の源泉、星の深部、あるいは魂の世界。

 呼び方はさまざまだ。

 純粋概念すら、この場所ではほんのひとかけらの構成要素でしかない。あまりに広く、とりとめのない空間にい続けることで、徐々にメノウの自意識も希薄になっていく。

 無秩序だった導力の海は、少し様子を変えていた。

 メノウに興味を示しているとでもいうべきか、周囲の導力が意思を持ち始めているかのように感じる。メノウのすぐそばに流れて来たり、からかうように小さく渦まいたりする。なにかがあるというわけではない。邪魔をするわけでも協力をするわけでもなく、メノウに干渉しようとする。あるいは、メノウが導力そのものに近づいて、周囲にある導力の影響が強まっているのかもしれない。

 何度目になるのか、突進してきた導力の渦をかき分ける。このままでは、自分がなくなってしまいそうだ。対策を取らなければならないのに、危機感すら希薄で漠然としていて、思考がぼんやりとする。

 自分は、もう、ダメなのだろうか。

 なにをされたわけでもなく、なにができたわけでもなく、ただ導力の海に揺蕩たゆたうだけでメノウが世界に屈しそうになった時だ。

 かつん、と硬質な靴音がした。メノウが顔を上げると、一人の神官が立っていた。

「……っ」

 彼女の名前を呼ぼうと口を開いたのに、声が出ない。

 誰だっただろうか。

 わからないが、知っている気がした。

 不吉なほどに赤黒い髪をした女性だ。背が高く、まっすぐとした立ち姿には不思議な圧がある。

 メノウは、彼女のことを知らない。

 皮肉気な口元も。世界を見下す瞳も。容赦を知らない指先も。

 彼女を思い出せないことが、のどをかきむしりたくなるほどもどかしかった。彼女の姿がたまらなく懐かしいのに、その感情の意味がわからなかった。彼女のことを思い出せない自分が「メノウ」という名前の自分であっていいのか、急にみじめな気持ちになった。

 知らず、メノウは自分の首元に巻いた、黄色のケープを握りしめていた。

 自分の記憶がないことが、泣き出したくなるくらいに悔しかった。

 赤黒い髪をした神官は、なぜかメノウに襲いかかることはなかった。いままでの記憶たちと違って、なにか恨み言をぶつけることも、教え諭そうとする気配もない。

 ただ、面倒そうに腕を上げて指を差す。

「そっちに……」

 なにかが、あるのか。

 問いかけようとした時には、赤黒い髪の女性は消えていた。

 しばらく、メノウは呆然と立ち尽くしていた。心が、折れかけていた。大切な人を忘れてしまった。大切なものを、大切なものだとわからなくなっていた。いままでになく、記憶の喪失を自覚させられた衝撃に打ちのめされていた。

 だが、止まってばかりではいられない。

 メノウは確信を持って進む。

 あの人が指差した方向ならば間違っていないんだと、信じて歩く。

 メノウの足が、床に触れて音を立てた。

 なにもないはずの空間に、物質が現れたのだ。

 ガラスのように透明な床が広がり、四角い箱が不規則に並んでいる。まったく色の付いていない透明な物質には、制御された導力光が幾何学模様に走っている。

 ここには、秩序があった。

 触れることができる物質が現れた代わりに、周囲に満ちていた【力】が途絶えた。急に周りの導力が消えたのが心細くなる。導力に囲まれない空間がメノウにとっては普通のはずだったのに、いつの間にか導力に包まれる空間に慣れていた。

 無防備になった自分に怯えながら、メノウは透明な物質の上に降り立つ。慎重に進んでいく。ここにある物質の導力の流れは、一点に向かって流れている。その経路に沿ってメノウは歩いて行く。

 やがてたどり着いた中心地点には、一人の少女がたたずんでいた。

 この空間は、生命が発生するような場所ではない。素肌にワイシャツを着て立っているのが誰なのか。問うまでもない。

 彼女こそが、我堂蘭。【器】の純粋概念の行使者だ。

 ぼさぼさの黒髪に、目元の隈が異様なほど濃い女性だ。メノウがこの空間に来る前に出会った我堂蘭の肉体と、見た目はまったく一緒である。

 彼女が、うろんげにメノウに目を向ける。

「誰だ、君」