マヤの疑問に、ぽつりと衝撃的な情報を告げる。

 メノウにとっても驚きの情報だ。召喚時、魂に純粋概念を定着させる異世界人の精神が、多重人格だったら、どうなるか。考えたことすらない事例だった。

「多重人格だった上で、あなたが【器】の純粋概念を使えないということは……つまり、あなたは我堂の副人格の一つなの?」

「……そう。この世界に召喚された我堂蘭の本人格は、自分の純粋概念を知ったら真っ先に、際限なく自分の能力が振るえる方法を望んだ。彼女は、自分の能力が好きだったから」

 マヤから聞いたことと、同じ台詞を吐き出す。

 人格の増殖と分裂。

 強力な能力の代償に記憶を消費し、精神が磨耗した果てに人災ヒューマン・エラーという怪物になってしまうのならば、消耗するよりも早いペースで自分を増やせばいいという逆転の発想による実験だ。

「……その中で、真っ先に切り捨てられたが、私。我堂蘭の、肉体そのもの」

肉体?」

「……そう。我堂は、人格の分裂実験を受ける際に、私という副人格を残して自分の肉体を最初に捨てた」

 肉体、精神、魂が生命の三要素だ。

 その三つの中でも、肉体は乗り換えることができる。魂を収納して精神を作る容器でしかないのだ。

「……増殖する人格に精神も魂も耐えきれなくなるのを、予想していたから。本人格である自分の精神と魂以外のすべてを、純粋概念を使う時に消費する記憶の貯蔵庫として、切り離した」

 我堂の肉体が、卑屈な笑みを浮かべる。

「……そんな我堂蘭の肉体に残った人格が私。その私に、精神の増殖実験が施された。我堂が純粋概念を使う時、私の中で分裂する記憶だけが消費される。我堂蘭は、私の人格と肉体を経由して、外部に魔導干渉する。純粋概念を宿す魂である本人は、無傷のままだ。私は肉体という名の中継器でしかない。私にほどこされた精神の増殖で記憶は増えて、分裂して、尽きることはない、へへ、えへへ……これが、完璧かんぺきな純粋概念の、使用方法……へへへへ」

「ちょ、ちょっと待って」

 愕然がくぜんと固まっていたマヤが声を上げる。

 彼女が知っている我堂蘭とは、目の前の彼女だからだ。

「それって、いつから!?

「……いつからって?」

「あたしが我堂に会った時は? あたしを助けてくれたのは!?

「……マヤは、本物の我堂蘭に会ったことは、ない」

 ショックにマヤが固まる。

「うそ……」

「……というか、廼乃以外に我堂蘭に会った人間なんて、この世界にはいない。我堂はもともと多重人格者だから。日本にいた時から、私を含めて三つの人格があった。本人格と、私と、もう一人。肉体に残ったのが、私」

「予想以上の引きこもりね。逆に、どうして廼乃は本人に会えたのよ……」

「……我堂の望みに、【星】の純粋概念は、どうしても必要だったから」

 メノウとマヤが視線を合わせる。『星骸』の起動キーの情報を握っているのが、目の前の『我堂』でないことは理解した。

「我堂の本人……本人格は、どこにいるの?」

「……ここより、さらに奥」

 我堂の指が、床を指差す。

「……原色で構築したこの異空間より先にある世界。通常の場所から亜空間を経由しないとたどり着けない、導力の根源のある空間に、いる」

 通常の空間から二つの段階を経て、さらに奥に我堂蘭はいるのだという。

 つまりメノウたちは、『星骸』の起動キーを得るためには、我堂の魂のいる場所まで行かなければならない。

「そこへ行くには、どうすればいいの?」

「……行きたいの?」

 我堂の肉体を名乗った女性の問いに、メノウは首を横に振る。

「行かなきゃいけないの」

「……かわいそうに」

 メノウに同情の瞳を向ける。真っ直ぐに見つめ返すと、びくっと震えてマヤの背中に隠れた。

「……い、行かないのをおすすめする。あそこは、物質を拒絶する魂の世界。我堂蘭は、自分の世界に他人を望んでいない」

「無理やりでも入り込んでいくわ。それに、あなたが我堂の肉体なら、魂と導力的な経路はあるでしょう? 魔導での意思疎通はできないの?」

「……で、できたら、とっくにしている」

 メノウの言葉に、我堂が怒った表情を浮かべる。

「……あそこは、まだ定義のない、世界の雛型。物質世界の住人は、概念の壁に阻まれて、通過することができない。莫大な──それこそ【龍】だった龍之介に比肩するくらいの導力があれば、あっちの我堂に無理やりつなげるけど、肉体だけの私には【器】の純粋概念すら、ない」

「つまり肉体を置けば、行けるのね」

 遠回りの制止を乗り越えるメノウの言葉に、残された我堂が自嘲した。

「……その覚悟があるなら、必要以上に止めはしない。そこに、座って」

 我堂を中心として、魔導構成が展開される。マヤは心配そうにその様子を眺めていたが、口を挟むことはしなかった。

「協力してくれるのね。あなたが言っていたように、本人格の意に沿わないことじゃないの?」

「……どうせ私は、行動ができない。とっくの昔にここから逃げた、もう一つの人格とも違う。我堂蘭の代わりに彼女の艱難辛苦を受け止めるのが、代用人格の私の役目」

 部屋が崩れて、メノウの周囲を取り巻く。どうやらこの狭い部屋を構成する一部を素材に、原色魔導を起動させようとしているらしい。

「……それでも、私は──本人格の我堂蘭が、嫌いだから。あなたが了承するなら、我堂蘭の意思に反しようが、止めはしない」

 この千年、本人格の代用として精神分裂にさらされ続けた彼女の本心だった。

『導力:素材併呑──三原色ノ理・原色擬似概念──起動【幽体離脱】』

 メノウがその場に崩れ落ちる。マヤが慌てて駆け寄るが、意識がない。

「メノウになにをしたの!?

「……彼女が望んだようにした」

 我堂は静かに返答する。

「……肉体を残して、彼女の精神と魂をこの星の根源──導力の始まりに、叩き込んだ。我堂蘭は、そこにいるから」

 その説明に、マヤはほっと息を吐く。

「な、なんだ……じゃあ、メノウは無事なのね」

「……そんなわけ、ない」

 返ってきた否定に、マヤは体をこわばらせる。

「どういうこと?」

「……あそこは、定義がない世界。一人の人間が入っても、あっという間に無限に広がる導力と同化して、世界に溶かされる。それに、残された肉体は空っぽ。分裂する私の記憶が入りこんで定着するかもしれない」

 我堂が語る内容に、マヤは息をむ。

「そんなこと……メノウが行く前に、言ってくれればいいじゃないっ」

「……マヤが、助けるといい」

「あたしが?」

「……導力を根源とするこの世界の魔導で、原色魔導と原罪魔導だけが、自分の世界を作ることができる」

 世界にすでにあるものとして、現象を起こす他の魔導とは違う。

 その二つの魔導だけが、いま世界のどこにもないものを生み出すことができる。

「……定義のない世界でも、自分の世界を保てる魔導。【魔】の使い手であるマヤが、ここにある彼女の肉体を通して、彼女の精神を守ればいい」

 マヤが、ぎゅっと小さな手を握ってこぶしを作る。

「昔にあたしのこと南に置き去りにしたくせに、よくあたしにそんな要求できるわね、我堂ったら」

「……ぅ。だって、この中で【魔】の人災ヒューマン・エラーなんて起こったら、私、どうしようもなくなるし……本人格まで巻き込まれるし……ていうか本人格の命令だったし……」

「……ってやるわ」

「なに?」

「やってやるわよ! そう言ったのっ」

「……うん」

 マヤの影が広がる。世界に穴が開く。メノウの肉体に入り込み、踏み台にして亜空間へと入り込む。

「メノウが我堂を見つけるまで、あたしがメノウの道をつくってあげるわっ」


 フーズヤードは、ゆっくりと周囲を見渡した。

 儀式場建築のために作業員として引き入れた魔導適性のない第三身分コモンズの一般人は、残らず昏倒している。無理もないだろう。いま展開されている魔導にあてられて、第一身分ファウストの神官ですら恐慌状態に陥っているのだ。

 フーズヤードの視界には、世界が二重になって見えていた。

 導力によって精神に映し出されている燃え盛る戦場と、なにも変わっていない現実世界の光景だ。本質を見抜くほどに鋭く、なにより独特な解釈を可能とするフーズヤードの魔導感覚が彼女に二つの世界を同時に認識させていた。

「……うぷ。気持ちわる」

 魔導酔いともいうべき感覚に、口元を押さえる。

 この場にあって、彼女だけが精神汚染の影響から逃れている。戦場に精神をさいなまれて気絶している他の人間がうらやましいと、フーズヤードはのろのろと歩を進める。

「魔導兵の攻撃なのは、確実。この攻撃は、物質的なものじゃない。でも本来、精神攻撃が成功したなら、物質的な攻撃も同時にしない理由がないのに、襲撃がない。儀式場を壊すんなら、いまが絶好の機会なのに……」

 ぶつぶつと呟きながら、目的を定めて真っ直ぐに歩く。

 この魔導の発動源には、ミシェルが向かった。中心に近づけば近づくほどに精神攻撃は苛烈になるだろうが、フーズヤードはミシェルの勝利を疑っていなかった。

 あれほど美しく完成された導力の持ち主が負けることなど、あり得ない。

 問題は、自分のほうである。この状況だ。大規模な精神汚染を仕掛けてきた敵の目的としているものは、考えないでもわかる。

「やだなぁ、やだなやだな」

 ひたすらに愚痴を繰り返すフーズヤードは、完成している儀式場の中心部──教会に入った。

 ここ一週間ほどで広げた儀式場の中心地。小さな教会の入り口は、すぐ礼拝堂につながっている。

 そこには一匹の青い狼がいた。

 フーズヤードは一目で狼の正体を看破する。三原色の魔導兵。空間生命体が物質世界に干渉するためにつくる端末だ。フーズヤードなどが戦ったら、きっとひとたまりもなくやられてしまうだろう。

 そして、もう一人。

「ここは、わたしの儀式場だよ?」

 自分たちをわなめた人物を、眼鏡のレンズの奥からにらみつける。

「モモちゃんさん。この儀式場を使って、なにをするつもり?」

 自分たちとともにやってきて、ともにつくりあげた『絡繰り世』に干渉できる儀式場を乗っ取ろうとしている後輩の名前を呼んだ。


 フーズヤードが来たのは、完全に予定外だった。

 歯車フレームの眼鏡めがねの向こうから、茫洋ぼうようとした眼差しがモモに向けられている。

「どういう精神してるんですか。こいつ」

 吐き捨てた暴言も強がりだ。モモの顔はこわばっていた。

 最小最多の純粋概念から生まれた四大人災ヒューマン・エラー『絡繰り世』の一部を素材にしたアビィ渾身の精神支配である。事実として儀式場の建設を進めていた作業員や護衛の神官は意識を失い、あのミシェルでさえ現実から切り離されている。本来なら、フーズヤードも精神攻撃に苛まれているところを連れ出す予定だった。

 だというのに、フーズヤードは立って歩き、剣呑けんのんな目をモモに向けている。

「おい」

 ギィノームが、尻尾を膨れさせる。横に割れて口を開けた中から出てきたのは、意識を失ったサハラだ。

おれはこの儀式場に必要な導力を供給するから、動けねぇ。姉貴は精神汚染の魔導にかかりっきりだ」

 モモがサハラを受け取る。

「お前が相手をしろよ」

 モモの脳裏に、聖地での敗北がぎる。彼女は一度、儀式魔導を使うフーズヤードに惨敗を喫している。

 儀式魔導の主導権争いでフーズヤードに勝てる可能性は、ゼロだ。祭司としてのフーズヤードの才能はずば抜けている。

「くっそ。適当なタイミングで、無理やり言うことを聞かせる予定だったのに……!」

 こうなれば直接対決しかない。モモは覚悟を決めて糸鋸を引き抜く。

「戦うの?」

 臨戦体勢のモモを見ても、フーズヤードの感情が大きく動いた様子はない。

「それに、やめてほしいなぁ……ミシェルちゃん用に作ったんだから、どんな不具合が出るか、わかんないのに、他の人が供給源になるとかさ」

 フーズヤードの瞳が、焦点を失う。

「まあ……この教会一個分なら、わたしでも発動できるんだけどね」

『導力:接続──儀式場・儀式構築魔導陣──発動【導力循環】』

 儀式魔導。

 フーズヤードの全身から流れた導力が、瞬く間に教会全体に巡って、複雑に織り込まれた魔導陣の効果を発揮する。教会全体が淡い導力光を帯びて輝き、『絡繰り世』という空間を取り込み、術者の元へと供給する。

 フーズヤードの手のひらに、三色の導力光がつどっていく。

 最悪だ。モモは龍脈がないことを安心材料にしてしまった自分の甘さを呪った。

 フーズヤードは、自分の精神を周囲の原色概念に投じた。ただの導力を使われるよりも厄介やっかいだ。原色概念は、優れた魔導行使者の手にかかれば、どのような性質を持たせることもできる。

 フーズヤードが、モモを瞳で捉える。手のひらにある三色の光が彼女の意思に従った。精緻な光線となって張り巡らされ、モモを捕らえようと宙を走る。

 速い。しかも強力だ。赤い光線があっさりとモモが振るった糸鋸を焼き切る。

「ああ、もうっ。お前、これを見なさい!」

 こうなっては仕方ないと、モモはフーズヤードの研究者根性に賭けた。

 気絶しているサハラを、フーズヤードにぶん投げる。三色の光線を操って受け止めた彼女は、モモの行為に眉をひそめる。

「なにしてるの? いくらわたしでも、導力義肢くらいで手を緩めるなんて──え」

 最後まで否定の言葉を言い切ることができなかった。

「なにこの子。導力の流れが、ない……? 原理的に、そんなことあるとしたら」

 フーズヤードが、愕然とした。

「第三種永久機関……や、そんなバカなこと……あるわけ、ない──よね?」

「見ただけでわかりましたか」

 攻撃の手が止まったのを脈ありと見て、モモはたたみかける。

「導力的な永久機関。注ぎ込んだ導力が、ロスすることなく循環する内在空間。お前なら、この言葉の意味がわかりますよね」

 モモの説明に、ごくりと唾を飲み込む。

 研究者として、文字通り垂涎の品だ。

「完成された魔導空間──新しい世界の種が、この内部に存在しています」

「ほ、ほほう? どうやって、つくったの……?」

「【器】の原色概念と【魔】の原罪概念、それを結びつける適性がある人間の魂です。永久機関の実現には二つの亜空間を安定して重ねて一つにする必要がありますからね」

 原色概念も原罪概念も、独自の空間を発生させる概念だ。

 その二つを結びつけることで、新たになにもない世界を観測できるようになった。

 本当の意味でまっさら。

 導力すら存在しない、虚無だ。ゼロをつくることで無限を内包する。それが永久機関である。

「ちなみに、私が作ったわけじゃありませんよ。千年近く、コツコツと探していた魔導兵たちの執念の結晶です。それだけ彼らは、自分たちの居場所が欲しかったんでしょうね」

 地道に素材を探していただけではないだろう。多くの人体実験や改良交配も行ったはずだ。『絡繰り世』を踏破したと言われるゲノム・クトゥルワなどは、成功例にもっとも近かった人間のはずである。

 サハラは、そのゲノムから株分された導力義肢に適合したのだ。

 いつの間にか、フーズヤードの視点がしっかりと定まっていた。というか、おそらくは彼女の中で、永久機関以外のものはどうでもよくなっているに違いない。サハラに熱い視線を注いでいる。放っておいたら解体作業をし始めかねないほどだ。

「へー、へーっ。なるほどなるほど? うんうん、それでモモちゃんさんは、私になにをしてほしいの?」

「この中に、『絡繰り世』のすべてを注ぎ込んでください。原色概念を、この世界から消し去るんです」

 フーズヤードが押し黙った。

「なんで、やると思うの」

「やらないわけないでしょう」

 フーズヤードの答えを聞くまでもなく、モモは彼女が「やる」ことを確信していた。

「お前が、がたいほどの研究者だからです」

 ひどいなぁ、とフーズヤードは不服そうに唇をとがらせる。

 まるで自分が、常識のない人間であるかのようだ。

 隠しようもなく嬉々とした笑みが口元からこぼれ落ちる。

 こんな機会があれば、協力するのが好奇心を持つ人間として当然だろうに。

「ちなみに、原罪と原色を結びつけたのってこの子だよね。『絡繰り世』なんて注ぎ込んだら、肉体にはもちろん、魂やら精神にどんな弊害でるかわからないけど、いいの?」

「いいですよ。新世界のいしずえになるなら、こいつもすごく特別になれて本望だと思います」

 気絶したままのサハラの安否に特に興味がなかったので、モモは投げやりに言い捨てた。


 気がつくとメノウは一人、導力光の中でたたずんでいた。

 左手には教典を持って、二本の短剣を携えている。

 これはイメージの問題だ。肉体ではないいまのメノウが、肉体のあった頃の自分を自分として定義しているから人の形をしているにすぎない。実際問題、いやに五感が薄い。というか、五感で感じるべきものがない。

 いまいる世界を認識するには、導力に接続して解析していく以外に手段はなかった。

 ふわふわとした感覚に戸惑いながらも、左右を視る。

『絡繰り世』は外縁部から中心部まで原色概念に満ちていたが、ここは逆になにもない空間だった。影ができる場所などあるわけがないのに、メノウの足元に影があるのが不思議なくらいだ。

 導力の海、と表現するのが一番しっくりきた。

 物質もなく、法則もなく、定義もない。ゆっくりと、しかし絶え間なく揺らめいて流れる【力】のみが遍在している。【力】の流れに終わりも始まりもなく、導力光の粒子が果てしなく続いている。

 なにもない空間に導力を注ぎ込んだら、こうなるのだろう。どれだけ広いかもわからず、ただ導力だけが存在する。いまのメノウも含めて、すべてが【力】で構成されている不可思議な空間だ。

「あっち、かしらね」

 自分がどこにいるかもわからないまま、わずかに動いている導力の流れに沿って進んだ。少しでも気を抜くと、自分がこの世界に溶けてしまいそうだ。肉体という境界線を失くしたいま、【力】しかないこの世界でメノウをメノウたらしめているのは、名前と自意識だけだ。

 地面がないように見える空間なのに、不思議と足裏にはしっかりとした感覚がある。

 空間を満たす導力には、流れがあった。地脈や天脈の流れに似ている。だがそれよりももっと広大で、無辺の流れだ。時折、渦を巻き、波を打ち、あるいはピクリとも動かず静止する。形あるものや意思あるものが存在しない。メノウが知っている定義が当てはまらない世界だ。

 流動的で広大な導力の海に、メノウの求める人物がいる。

 だからメノウは歩く。わずかに感じる導力の流れに沿って、歩き続ける。距離の概念があるかもわからない道を、ひたすらに歩く彼女の背後で、導力光が渦巻いた。

 背後から、濃密な魔導構築の気配を感じる。

「っ!」

 メノウは振り向きざま、相手の頭に短剣を突き刺す。

 確実な致命傷。即死を与える一撃だ。

 だが相手はまだ動いた。

『導力:接続──無量粒子・純粋概念【無】──発動【無手】』

 メノウは飛び退いた。

 メノウに向けて放たれた魔導が、周囲の導力をごっそりと消し去った。

 凶悪な魔導の発動元には、学生服を着た黒髪の少年がいた。メノウの短剣が、彼の頭に突き刺さっている。

「どうしていまさら、こんなところに来たんだ」

 致命傷を負った少年が、恨みがましい声を上げる。

「俺のことは殺したくせに、自分の友達は助けるんだな」

 メノウの見覚えのない少年の体が霧散して消え去る。

 誰だったのか、どういう現象だったのか。メノウが戸惑いに立ち止まっていると、別方向から声が響いた。

「あら、彼を忘れてしまったのですか?」

 からん、と下駄げたの音が鳴った。

 敵と判断して投擲した短剣を、今度現れた人物は鉄扇で受け止める。

 弾かれた短剣を、メノウは導力の糸をたぐって手元に取り戻す。

「それとも、もともと名前も知らない相手でしたか? いまのあなたに、わたくしの名前は記憶にありますか?」

 現れたのは、白い着物をまとった少女だった。

 あの人は、誰だっただろうか。記憶を探っても、メノウには思い出せない。わかることといえば、彼女が着ている和服が、マヤがいつも羽織っているものとそっくりなことぐらいだ。

 名前の知らない少女は、口元に扇を当てて嘆息する。

「残念です」

 ぱっと鉄扇を広げて振るう。

『導力:接続──鉄扇・紋章──発動【風刃】』

 周囲の導力が鋭い刃風となってメノウに襲いかかってくる。

 ふっと吐いた吐息と一緒に踏み込み、前進することで風の刃を潜り抜けて少女の首をさばいた。

「わたくしが言うのもなんですけど……メノウさんは自分のことをもう少し大切にされたほうがよろしいですよ」

 人の形を失った彼女は、瞬く間に霧散する。

 少し、わかってきた。

 先ほどの男子と同じように消え去った相手を見て、メノウは理解する。

 周囲にある導力が、メノウの過去を再現しているのだ。メノウの中にすらなくなっている、メノウの過去の形になって干渉している。

「訳のわからない空間ね」

 小さく呟いて、メノウは進む。あるいは、この空間を参考にすれば誰かの過去を再現する魔導も発動できるかもしれない。そんなとりとめのない思いつきはすぐに脇に置く。

 この空間のどこかに、我堂蘭はいる。かすかに感じる導力の流れに沿って、メノウは歩みを再開させた。


「わかったか?」

 何人の、自分自身を斬っただろうか。

 自分の過去再現を相手にしていたミシェルは、この魔導の本質に気がついていた。

 これは、対象の精神を分析する魔導だ。

 取り込んだ人物の中にある精神世界を分析して、再現する。本人が記憶していないものも含めて、その人物を構成するすべてを展開している。

 攻撃が本当の目的ではない。ミシェルに自分の経験した過去を思い出させるのがこの魔導の目的なのだ。

 ミシェルはおのれの千年を斬り進んだ。

 いまの彼女は、ここで戦いを始める前とは別人といってもいいほどの経験を積んでいた。ハクアに失望した自分、おのれの人生に絶望した自分、他人に希望を託した自分。幾人もの自分と邂逅して戦った。

 そして、いまの自分の一つ前、老いさらばえた自分が、ミシェルに告げる。

「シラカミ・ハクアは、もう、誰かを救うことはない」

「……そうだな」

 自分を一人切り裂くたびに、思い知らされた。

 千年の失敗を積み重ねても、まるでかえりみられることがなかった。輝かしい日々が残した希望の記憶を抱えて生きてきた。

 かつて、白亜はミシェルに言ったのだ。

 いつか、この世界から純粋概念なんてものをなくす、と。

 ミシェル自身は、そんな未来が来るなんて信じていない。異世界召喚は、星が起こす自然現象だ。そして人の欲が詰まった魔導として確立されてしまった。力を求めるのが、人間の本能だ。人の犠牲がなくなるだなんていう理想とは正反対のものばかり見せられて、信じろというほうが無理な話なのだ。

 けれども、ハクアがそういう世界はあるのだと信じていた。

 それだけで、十分だったのだ。

「お前の言う通りだ。決着を、つけようか」

 老婆の自分を切り裂いて最後の記憶を取り戻すと、原色概念で構築されていた精神世界が砕け散った。

 戦場が消え失せ、空に白い太陽が浮かぶ風景が取り戻される。そうしてミシェルの前に姿を現したのは、褐色肌のつややかな魔導兵だ。

「……あはっ、克服しちゃったか」

 アビィは、ミシェルの精神に干渉し、ミシェルの過去そのものになって襲いかかったのだ。素材さえあれば世界すら作れる原色概念の使い手に恥じない大魔導。ミシェルの過去世界をぶつけ、過去のミシェル自身と戦わせた。

 だが、その代償は小さくない。

「それで? お前自身は、どれだけ残っている」

「……」

 アビィは無言のまま不敵な笑みを浮かべる。

 もちろん強がりだ。ミシェルの過去世界を再生した魔導に費やした素材は、アビィが生まれてから溜め込んだ素材のほぼ全てだった。もはや人型の端末すらロクに作れない。ここにいるアビィが死んだら、次に人型の端末を出す余力はなかった。

 アビィの限界を見抜いたミシェルが目を鋭くする。

「どうしてそこまでした? 適度に戦って逃げることもできたはずだ」

「……年少の子たちのためだよ」

 ミシェルの問いに、アビィは真摯に返答する。

「あの子たちが、誰にも奪われず、誰からも奪わずに生きていける居場所が、どうしても必要なの」

「なるほど……」

 ミシェルは、背後を振り返る。

 精神攻撃への対応のため、儀式場から大きく離されてしまった。アビィの狙いは、ミシェルを儀式場から引き離すことにあったのだ。

 そしてそこで、いま言った望みを叶えるために、なにかしらを行おうとしている。

「お前の言う居場所は、『絡繰り世』ではいけないのか」

「ダメだね」

 アビィは強い口調ではっきりと否定する。

「『絡繰り世』はいまある世界の上に成り立っている亜空間だもん。白夜の結界がなくなったら、人類と争いになるでしょ? 君だって実際にいま、崩そうとしてるじゃん」

 魔導兵たちを閉じ込めている結界は、逆に人類に侵食に対する防波堤にもなっていた。もしかしたらいましばらくは平和な時代が続くかもしれないが、将来的に見れば必ず争いになるという確信があった。

「どの時代も、戦争か」

 重たげに息を吐いたミシェルは大剣の柄を握る。

 アビィも拳を固めた。戦いの前に、数少ない、自分より長く生きた生物へと問いかける。

「私たちはさ、長く生きすぎたと思わない?」

「……」

「死なない。寿命がない。未来がないのに、力はある。それが私たちだ」

 不死身に至る存在は例外なく強い。強いからこそ、自分が生きるために新しい芽を摘み続ける。もしかしたら自分以上になるかもしれない存在を摘み取って、搾取して、自分がさらに大きくなる。

「だから私たちは、自分自身で死に場所を決めなきゃいけない。それが寿命のない存在の義務。できない年長者は、害悪だ」

「……否定はしない」

『導力:接続──断罪剣・紋章──二重発動【水流・圧縮】』

 ミシェルの大剣が振るわれた。かろうじて飛び退いたアビィの足元に斬痕が刻まれる。

「それでお前が、ここを死に場所と決めたのには納得しよう。だがな、それは、私には関係のないことだ」

 ミシェルは千年の記憶とともに、自分のやるべきことを思い出していた。

「私の死に場所は、ここではない」

 自分の目的を果たすため、ミシェルはアビィを粉砕するべく戦闘の姿勢をとった。


 儀式魔導の発動に沿って、フーズヤードの意識が世界に埋没する。

 ここが亜空間である『絡繰り世』だからか、離脱した精神が、かつてない深度に至る。魂が概念の壁を超えて、世界の裏側を垣間見る。

 そこには、導力の海が広がっていた。

 陶酔の感情が胸いっぱいに広がる。

 物質の裏側には、導力の世界がある。このまま、どこまでも広がるままに身を任せれば、世界と一つになれる。

 そんな誘惑を断ち切ったのは、物質世界への未練だった。

 仲よしの人たちとたくさんおしゃべりをしたいし、おいしいものもいっぱい食べたいし、明日を過ごすためにたっぷり睡眠をとりたい。

 俗な欲求に、意識の深度を引き上げる。物質世界に焦点が合う。

 重要となるのは、サハラという少女に付いている導力義肢だ。物質として存在するこれは、方舟はこぶねと呼ぶべき機能を秘めている。

 永久導力機関。二つの亜空間を重ねることで、安定した無限空間を作り出した。この導力義肢は、あくまで入り口だ。一度完成したこの中にある世界と経路をつなげなければならない。

 自分が作り上げた儀式場が『絡繰り世』に干渉する。分解して消し去るはずだった導力を、そのまま、なにもない空間に注ぎ込む。

 それは世界を創るがごとき所業だった。

 無が、脈打った。

 なにもなかった世界に、有が流れ込む。フーズヤードの頰が陶酔で赤らむ。心臓が早鐘のように鳴っていた。食い入る瞳で神秘を見守った。

 周囲のすべてが消えていく。この世界で発生した三原色が違う世界に落ちていく。そうして、まったく別の法則を持った世界として産声を上げる。

「よくやりました」

 モモの声が、フーズヤードの耳に届いた。儀式は、成功した。この儀式の導力源となった青い狼──三原色の魔導兵の端末は崩れ落ちている。彼の本体も、遠からず新しい世界へと流れ込むだろう。

 サハラが持つ導力義肢に、『絡繰り世』が流れ込む経路が形成された。しばらく時間はかかるが、そのうち『絡繰り世』という空間は三原色の魔導兵も含めてすべてこの中に入っていく。

「ふう……モモちゃんさんは、どうするの?」

「私ですか」

 モモは教会の出口に向かう。『絡繰り世』にいる魔導兵たちの居場所をつくるというアビィとの約束は果たした。

「私は、私のやるべきことをやります」


 アビィの原動力は、復讐だった。

 アビリティ・コントロール。『絡繰り世』十三地区。三原色の魔導兵の中でも十三番目に生まれたのが、アビィという空間知性体だった。

 かつて生まれたばかりのアビィは、争いというものを知らなかった。

『絡繰り世』の中心部と接する空間で知性を萌芽させた彼女にとって、原色の素材は無限とも思えるほどに供給されるものだった。「学校」という形をしたモノリスから、ぼろぼろと絶え間なく吐き出される素材を食らって、アビィは順調に成長していった。

 奪うという概念もなかったから、迷い込んだ人間が来た時も水を与え、彼らが食べることができる食糧を与え、やがてそこは、多くの人間と魔導兵が共存する小さな楽園になった。

 アビィは自分の小さな世界を愛していた。自分の中にいる自分以外の存在に与えることを惜しまなかった。

 百年。

 それだけの期間、楽園は運営された。

 だから知らなかった。

 満ちれば、奪われるということを。

 アビィの楽園を襲撃したのは、年長の魔導兵だった。自分の手足になる端末を送ってアビィの楽園を切り取り、抵抗する人々を虐殺した。もちろん人間の死体も素材として持ち帰った。

 不慣れながらも端末を使って戦ったアビィの抵抗を、相手はあっさりねじ伏せて解体した。アビィは三原色の魔導兵が少ない本当の理由を、その時、初めて知った。

 壊しているのだ。他の区長が、全員。生まれた端から砕いて壊して自意識がなくなるまで侵食して喰らっている。

 抵抗を繰り返し、アビィが戦うことを覚えた頃には、自分の楽園だった場所にはなにも残っていなかった。

 だから、アビィの原動力は復讐だった。

 年少の三原色の魔導兵を保護し、力を蓄えた。年長の魔導兵たちがいま以上に力をつけないように、自分の端末を飛ばして保護をした。いつか、年長者を駆逐するためだ。それ以外の目的なんて、なかったはずだ。

 なのに、どうしてだろうか。

 そんな弟妹に、自分のような経験をさせたくないと願ったのは。

「──っ!」

 アビィの体が跳ね飛ばされる。ミシェルの強烈な一撃をガードしたのだが、諸共に吹き飛ばされた。

 ミシェルに対して白兵戦で勝てる目はない。かといって、彼女に対抗するための魔導兵を作る素材は尽きている。千年の記憶を埋めたミシェルが相手では、精神干渉も不可能だ。

 そして、いまの端末がなくなれば、アビィはほとんど空っぽになる。素材の減少により、自意識が保てるかどうかすら怪しくなるだろう。

 必敗の戦いの最中にあって、アビィは不敵に笑う。

「あはっ、残念だったね……」

 いつしか復讐よりも、年少の子供たちの未来を願うようになっていた。ギィノームをはじめとした弟妹たち。そして、百年に満たない月日を過ごす人間たちも、自分たちとの奪い合いを始めてほしくなかった。

「私は、もう……【星】の予言を、達成してるんだよ」

『導力:接続──断罪剣・紋章──発動【水流】』

 ミシェルの大剣から流れる濁流に足をとられて、アビィは膝をついた。

 寸暇もおかずにミシェルの追撃が放たれた。自身が放った水を割る蹴撃に吹き飛ばされ、冗談みたいに地面をバウンドしたアビィの精神に、かつての楽園がよぎった。

 戦いなんて知りたくなかった。

 なにも奪われたくなかった。

 誰からも奪われたくないから、誰からも奪いたくもなかった。

 だからアビィは、新しい世界を求めた。

 文字通り、自分たちが住まう新しい世界を。

「貴様にしてもモモにしても手が込みすぎているとは思ったが、なるほど、廼乃さまか。貴様は、どんな予言を受け取ったのだ?」

 地に伏せたアビィに、ミシェルが問いかける。星崎廼乃本人と面識がある彼女からすれば、【星】の予言は気になるだろう。

 モモは、メノウがアカリに肉体を譲るという未来を聞かされた。

 そしてアビィは、永久機関が完成するという予言を知ったのだ。

「方舟だよ」

 よろよろと立ち上がりながら、笑う。

 自分たちが奪わなくてもいい、新しい世界へたどり着く方法。

 半年前に『絡繰り世』を出た時にモモと出会い、星崎廼乃の予言を聞いて、自分のすべてを費やす覚悟を決めた。

 この一戦がアビィの天命で、寿命だ。

 自分の本体に、意識を戻す。

 もはやアビィの本体である空間は、ひどくちっぽけなものとなっている。

 ミシェルへの精神魔導の行使で手放していないのは、かつて、自分の楽園があった場所だ。

 そこには、一人の少女が浮いている。

 少し童顔の、かわいらしい少女だ。胸元に刺さった塩の刃先のせいで、胸の中心が少し、塩となっている。

 この半年、彼女はアビィが大切に大切に残した、楽園の跡地に安置していた。

 モモの大切な人の、大切な人だと聞いていたから、アビィの大切な場所に置くことを決めた。

 メノウに会って、大切にしてよかったと心から思った。

 まだアビィが一度も話したことのない彼女の、ちょっとクセがある黒髪に一匹の青い蝶がとまっている。モモに渡す導器をつくるために、彼女の肉体の分析が必要だった。

 あとは、この子を返すだけだ。

 けれどもアビィには、自分の本体からモモのキャリーケースにこの子を送り込む余力も残っていなかった。このままではモモとの約束が守れないと焦燥に駆られた時だ。

「あ」

 世界が、変化を始める。

 白夜のとばりに閉じ込められていた世界が、とある一点に流れ込んでいく。そこは、ミシェルたちがつくった儀式場の中心部だ。『絡繰り世』の亜空間が消え去って、通常の空間に戻る。

 そこは、荒野だった。

 長年、『絡繰り世』と重なっていたために生命の芽吹きがない、荒れ果てた岩と砂の大地だ。

 アビィの願望が成就した。自分以外の魔導兵たちが、『絡繰り世』を構成するすべてが、新しい世界へと旅立ったのだ。

 瞳から、涙が流れた。ほんの少しだけ力が湧いて、アビィは自分の頰を伝ったしずくを指でぬぐった。自分の瞳からこぼれた青い雫に、意識を注ぐ。

『導力:素材併呑──原色理ノ青石・原色擬似概念【青】──起動【楽園:接続:箱】』

 モモとの約束を果たすための魔導が、行使できた。

「喜べ」

 ミシェルの刃が迫る。

「貴様の勝ちだ」