5
礼智中学校には田坂さんと小佐内さんが乗り込むので、ぼくは外で待機することになる。田坂さんにずらずら付いていって、「母です」「姉です」「不肖の兄でございます」と名乗るわけにもいかないので、これは仕方のないことだ。
そのあいだ、ぼくは名古屋駅に戻って、駅ビルで時間を潰すことにした。どこかお店に入ろうかとも思ったけれど、名古屋までの電車代や富嶽でのコーヒー代などを考えると、少し財布の紐を引き締めておきたい。エレベーターに乗って上階の書店に行くと、さすがに土曜日だけあってずいぶんな混みようで、レジには会計待ちの列ができている。文庫の新刊コーナーを冷やかしながら、いろいろと考える。
悪意をもって古城さんを陥れたのは誰かという問いについては、いまのところ、検討することもできない。情報が足りないからだけれど、その情報はいま、着々と集まりつつある。知ってはいたけれど小佐内さんの行動力にはまったく目を
目についた文庫本に手を伸ばしかけて、ふと、別のことを思いついた。店内を見まわし、天井から垂れ下がる「学習参考書」の幕を見つけてそちらに向かう。三学期は短く、すぐに期末試験があり、学生の本分は勉学だとはいえ、いまは別のことが気にかかっている。赤本や問題集が並ぶ棚を見ながら、目指すものを探す。
「あったあった」
英和辞典が並べてある棚を見つけ、箱から出すのは申し訳ない気がするので箱なしの辞書をそっと引き出す。「M」の項を見ていくが、すぐに、これではどうも間に合わないことに気がつく。それにたぶん、調べたい単語は英語ではない。ちょっと考えて今度は国語辞典を手に取り、「ま」の項を見ていく。
「……やっぱり、そうか」
辞書を閉じ、棚に戻す。ちょっと興味深い事実を知ることができた。古城さんの停学と関係があるかどうかは、まだわからないけれど……。
ところで、言葉の意味を調べるだけなら携帯電話で事足りたのに、思いついたら矢も盾もたまらず辞書を引いてしまった。立ち読みで情報を得てそのまま帰るというのは申し訳ないから、せめてもの償いにと文庫の棚に戻って、前々から買おうと思っていた短編集を買った。文庫にブックカバーをつけてもらっているところで、携帯電話が着信を知らせる。ちらりとモニタを見ると、小佐内さんからのメッセージが届いていた。
書店を出て、改めてメッセージを確認する。
〈おしまい。覚王山駅で会いましょうねー〉
なんだか変な語尾だ。たぶん、予測変換のせいだろう。
地下鉄も二度目ならそれほど迷いはしない。覚王山駅に着いて、どこで合流するのだろうと左右を見まわすと、LEDの灯りに照らされたホームの端で着ぶくれた小佐内さんがベンチに座って俯いていた。近づいても小佐内さんには立つ気配がなく、ぼくだけ立っているのも変なので、隣に座る。
「あのひとは」
と訊くと、小佐内さんは自分の足元を見つめたままマフラーの下から答えた。
「お店に戻った」
田坂さんが店を空けたのは、正味二時間ほどだろう。店長だから好きなときに時間を空けられるなどというわけはなく、たぶん午後は休みを取ったのではないか。それでもやはり、店には戻るらしい。
「自分が関わったことは、古城さんには言わないでって言ってた」
「わかった。それで、首尾は」
「上々」
上り線のホームに電車が入ってきて、数十秒ほどでベルと共に離れていく。騒音が止むのを待って、訊く。
「経過を聞かせてくれるかな」
頷いて、小佐内さんはくぐもった声で話し始める。
「三本木先生とはすぐに会えた。土曜日で案内してくれる事務員さんがいないから、直接応接室に行くように言われていたの。警備員さんとかもいなくて、ずいぶん簡単に入れるんだなって驚いたぐらい。三本木先生は応接室にいて、何かお仕事をしてたみたいで、田坂さんがドアをノックして部屋に入ったら、広げていた書類を鞄に片づけてた。さすが私学ね、立派な内装だった。テーブルは重厚でソファーはふかふか、絨毯の毛足も長かった」
ホームには、ほかに誰もいなくなった。LEDの冷たい光だけがぼくたちを照らしている。
「三本木先生は、四十歳ぐらいかな。顔つきに険があるひとだって思ったけど、生徒を怒鳴る先生だって事前に聞いてたから、予断があっただけかも。迷惑そうなのを隠しもしないで、お茶も出ませんが、まあどうぞって言って田坂さんを座らせた。わたしのことはちらりと見たきり、誰だとも訊かなかった」
保護者という看板は本当によく効いたようだ。
「結論から言うと、わたしたちの予想通り、古城さんが停学になったのはパーティー会場に古城さんがいる写真が送られてきたからだった。差出人の名前はここでは言えないって言ってたけど、たぶん忘れちゃったか、匿名だったんだと思う。秋桜はその場にいなかったと言っていますがって田坂さんが言ったら、三本木先生はむっとして、写真があるんだから言い訳はできんでしょうって返してた」
「……大晦日に田坂さんと古城さんが一緒にいたかどうか、訊かれなかったの?」
「うん。訊いて、いっしょに紅白見てましたって言われたらどうしようもないからだと思う」
そんなところだろう。
「三本木先生はあんまりひとの話は聞かないで、あの年頃の子は噓が上手い、学校も力を尽くすけれど自宅での指導も重要ですの一点張りで、あとで田坂さんは怒ってた。きちんと調べもしないで、決定を押し通すことしか考えてなくていい加減だって」
田坂さんは怒っていた、か。口ぶりに何か含みがある。
「小佐内さんはそう思わなかったんだね」
マフラーと前髪のあいだで、小佐内さんの目だけが少し笑う。
「証拠の写真を見せてもらえませんかって言ったら、見せてくれたんだもの。貸してほしいって言ったら、プリントアウトを渡してくれた。あんなに良心的な先生、わたし、初めて見た。怒ったりなんてできない」
それはすごい。
「いくら保護者だっていっても外部のひとに情報を渡してくれるなんて、本当にいいひとだね。よほど上手く交渉したのかな」
「秋桜が絶対に行ってないって言い張ってるから証拠をつきつけたいとは言ったけど」
「たぶん、その言い分を信じたんだろうね」
「……悪いことしちゃった」
噓をついておきながら、相手がその噓を頭から信じ込むと、罪悪感を覚えるらしい。
ベルが鳴り、下り電車が風を伴ってホームに入ってくる。ホームドアが開き、数人が乗り、数人が下りる。発車まで少し長く感じたのは、ぼくたちが乗るのを電車が待っていたからか、それとも単にぼくの気のせいか。静けさの戻ったホームで小佐内さんが言う。
「とにかく、証拠写真は、これ」
コピー用紙にプリントアウトされた写真を見せてくれる。画質は粗いが、写っているものは充分に見て取れる。グラスを持った女子、ワインやシャンパンのボトル、そして満面に笑みを浮かべた古城さん。一見しただけだと、特に不審な点はない――ということは、それなりに精巧な捏造品だということだ。
地下鉄のベンチは暗く、寒い。写真を検討するには適さない。
「さすがだね。こんなに早く手に入れるなんて。……じゃあ、行こうか」
無言で頷き、小佐内さんはゆっくりと立ち上がる。
ベンチに使い捨てカイロが乗っていた。どうやら小佐内さんはこれの上に座っていたらしい。素知らぬ顔でカイロを回収すると、小佐内さんは低い声で、
「ここからね」
と言った。
そうしてぼくたちは、再び古城さんの部屋に戻って来た。
古城さんはひどく物言いたげにぼくたちを迎えた。田坂さんに勝手に接触したことについて、何か言いたかったのだろう。だけど、小佐内さんが有無を言わせず突きつけた証拠写真を一目見ると、何よりもまず古城さんは
「こんなの噓です! 偽物です!」
その目に、みるみる涙が溜まっていく。
「だってあたし、こんなことしてない! こんなの……ゆきちゃん先輩、これ、噓です!」
小佐内さんは古城さんを真っ向から見つめて、言う。
「そう思う」
「えっ……」
「わたしも、この写真は噓だと思う」
慌てて目尻を
「どうして」
「あなたは無実なんでしょう。だったら、偽物に決まってる」
ほんの少しも疑っていない、気負いも
そのあいだに、ぼくと小佐内さんは明るい照明の下で再度写真を観察する。小佐内さんが携帯電話を操作し、茅津さんから転送された写真を表示させた。見比べるまでもなく、両者は違う写真だ。
茅津さんから転送された写真では、茅津さんと佐多さん、栃野さんの三人がグラスを片手に揃ってポーズを決めていて、手前のテーブルにはワインか何かのボトルが置かれている。栃野さんだけ、ポーズとしてグラスに口をつけていた。三人は壁際に立っているようなので部屋の広さはわからず、壁紙がストライプ模様になっているのが見て取れる。
三本木先生から受け取った写真に写っている古城さんは、若干右斜め上を見ながら満足そうに笑っていて、右手にグラスを持ち、左手はピースサインを作っている。着ているものはセーターとスカートで、セーターには大きな黒いリボンがあしらわれている。近くでは茅津さんがシャンパンをグラスに注いでいて、古城さんの後ろでは別の女子がカメラ目線でグラスを呷っている。壁紙はストライプ模様だった。
撮影場所は同じ部屋のようだけれど、アングルも被写体も違っている。両方に写っている人物は茅津さんだけで、そのほかには、どちらにもお酒と思しきものを飲んでいるひとが写っている点が共通している。
「こうして見ると、小佐内さんがもらってきた写真はやっぱりちょっとおかしいね」
小佐内さんが訊いてくる。
「どこのこと?」
ぼくは古城さんの左手を指さした。
「ピースしてるってことは、撮られてるのがわかってるはず。なのに目線が斜め上に向かってるから、なんか変な感じがする」
「……うん。それは、確かに」
ようやく古城さんの様子が落ち着いてきたようなので、訊いてみる。
「古城さん。この服、古城さんのかな」
赤らんだ顔で写真を
「違う。こんな服、持ってない」
「とすると、首だけすげ替えたんだ」
もう一度、顔だけに注目してよくよく見る。コピー用紙にプリントされた写真は画質が悪いけれど、意識して見れば確かに頭の輪郭線が少しぼやけているし、首の継ぎ目も見えないことはない。そしてぼくは、古城さんの頰に何か黄色っぽいものがついていることに気がついた。なんだろう、これ。
「問題は」
と、小佐内さんが呟いた。
「誰がこのパーティー写真を撮ることができたか。その写真データを持っているひとだけが、捏造写真を作れるんだから」
それはそうだろうけど……。
「撮ることができたのは、大晦日に茅津さんたちとカウントダウンパーティーをしたひとたち全員だよ。十二、三人って言ってたかな」
古城さんが勢い込む。
「じゃあ、そのひとたち全員に、誰がこの写真を撮ったか訊いてみればいいんですね」
「そうはいかないよ」
ぼくが言うと、古城さんは眉をひそめて黙り込んだ。小佐内さんが横から説明してくれる。
「それはとても難しいことよ。茅津さんも出席メンバー全員は把握してないみたいだし、そもそも相手に迷惑がかかるから、訊いてもたぶん教えてくれない。しかも、もしデータがネットに上げられていたら、誰がその写真を保存したのかつきとめるのはほとんど不可能になる」
「そっか……」
古城さんは、プリントアウトされた写真をじっと見つめる。
「なんで、あたしがこんな目に遭うんだろ。パーティーに出てた誰かが、あたしを恨んでたってことなんだよね……」
「心あたりはあるの?」
小佐内さんが尋ねると、古城さんは力なく首を横に振った。
「ないです。でも、でも誰かがあたしを……!」
声が再びせり上がっていく。
ぼくはこれまで何度か、隠された敵意を見抜いたことがある。笑顔の裏に、ひとを貶めようとする意図が働いていたのを察知したことがある。けれど、敵意を向けられたひとがそれをどう受け止めるのか、
ぼくはただの小市民であり、仮にそうでなかったとしても、ただの
でも、そうだ、古城さんは何が何でも誰が敵なのかを知りたいと言った。だったらぼくも、いまさら迷いはしない。
「小佐内さんらしくもないね」
と、ぼくは言った。二人の目が揃ってぼくに向けられる。
「問題なのは『誰がこのパーティー写真を撮ることができたか』だけじゃないよ。注目すべきは『誰がこの笑っている古城さんを撮ることができたか』、そして『誰がパーティー写真と古城さんの写真の両方を手に入れることができたか』だ。古城さん、この笑ってる顔、どこで撮られたかわからないかな」
突然訊かれて、古城さんは慌て気味に答える。
「えっ。写真なんてよく撮るし、文化祭とか、放課後とか……」
「よく見て。この頰のところ、何かついてる」
「頰?」
聞き返して、古城さんが目を写真に近づける。小佐内さんは目がいいけれど、やはり同じように写真を覗き込んだ。古城さんが呟く。
「ほんとだ。恥ずかしい」
――二人は同時に顔を上げた。
「あっ!」
「小鳩くん、これって!」
たぶん、そうだ。小佐内さんが強く言う。
「古城さん。オルカの最新号、あるよね。持って来て」
「はい!」
すぐに、ミニコミ誌オルカがテーブルに乗せられる。最新号のトップ記事は日伊パスティチェーレ交流会だ。市内のホテルで開かれた交流パーティーの様子、ずらりと並んだイタリア菓子、笑顔の参加者たちが写った写真が載っている。ワイングラスを手に談笑する男性二人の後ろで、この上もなく幸せそうに、頰にクリームをつけて、古城さんが笑っている。
捏造写真とオルカ掲載の写真を見比べる。目線の角度も、クリームの位置も、まったく同じだ。
「これね。気づけなくて恥ずかしいわ」
と、小佐内さんがしみじみ呟いた。
オルカそのものは名古屋市内のみならず周辺の都市でも販売されているので、この写真は誰でも手に入れることができた。該当する写真をスキャンするなり撮影するなりしてデータ化すれば、カウントダウンパーティーの写真と合成して偽の証拠を作ることができる。しかし、オルカに載っている写真では、古城さんの頭に、「交流パーティーははなやかに」という見出しの「に」がかぶっている。この「に」の文字をコンピュータ上で除去することは不可能ではないだろうけれど、犯人の画像加工技術は首の継ぎ目を違和感なく消すこともできないレベルだ。雑誌からスキャンしたデータで捏造写真を作ったとは考えにくい。となれば、
「犯人はオルカ編集部のひと……?」
古城さんが呟く。その可能性もなくはないけれど、オルカ編集部とカウントダウンパーティー、そして古城さんへの悪意の三つを結びつける糸があるとは考えにくい。
「あるいは、オルカ編集部から写真データをもらったひとだ」
「……そんなの、もらえるのかな」
「古城さんなら、お願いすれば簡単に譲ってもらえたと思うよ。被写体だからね。同じように、この写真に写っているほかのひとたちもデータをもらえたはずだ」
ぼくは、オルカの写真の中でグラスを手に談笑している二人を指さした。一人は中年の日本人と思しき男で、もう一人は髭を生やした白人の若者だ。
「この二人はパティシエだと思うんだけど、どっちか知ってる?」
古城さんは迷わず、中年男性の方を指した。
「このひと……」
ちょっと顔色が悪い。声も震えている。
「憶えてる。名前は知らないけど、あたしがシュークリーム食べてたら近寄ってきて、イタリア菓子の交流会なのにシュークリームを出すなんて無教養な店もあったもんだねって言ってきた」
「そのシュークリーム、どこの店が出したのか知ってる?」
「……うちの店」
あ、それはたぶん、古城さんがパティスリー・コギのオーナーパティシエの娘だって知っていて、わざと嫌みを言いに来たんだろう。
「あたし、あのときはなんだか楽しかったから深く考えずに、でもシュークリームはフィレンツェのお姫さまがフランスに伝えたって聞いたことあります、って答えたんです。そうしたらこのひと、何も言わずに離れていきました」
小佐内さんがちょっと眉を寄せた。
「恥を搔かされたって思ったのかな。……でも、それだけでこんな写真作って、学校に送ったの? それに、カウントダウンパーティーの写真はどうやって手に入れたの?」
それらの疑問には答えられると思う。オルカに手を置き、ぼくは言った。
「古城さん。オルカ編集部に電話して、訊いてみて。マロニエ・シャンの栃野パティシエに、日伊パスティチェーレ交流会の写真データを送ったかどうか」
古城さんは目を見開いて、言葉の意味が染みこむまで少し時間がかかるようだった。