地下街を出ると、外は冬のビル風が吹きつけている。マスクとイヤーマフ、マフラー、手袋を完備して、小佐内さんは意を決したように歩き出す。

「古城さん、電話でびっくりしてただろう」

 歩きながらそう訊くと、小佐内さんは頷いた。

「なんでそんなこと訊くんですかって言われた」

「どう答えたの?」

「必要だからって言った」

 年下の子にはもう少しやさしくしてあげてもいいのに。そう思っていたら、小佐内さんがふと携帯電話を取りだした。ちらとモニタを見て、すぐコートのポケットに戻す。

「古城さんから?」

「うん。あの人に話すぐらいなら、何もしないでくださいって」

 まあ、そう言うだろうね。

「それでも行くんだ」

 小佐内さんはぼくを見上げた。どう答えるかわかっているくせに、とでも言いたげな、責めるような目で。

「あの子は、何が何でもと言ったから」

 そうだね、たしかにそう言っていた。言葉には責任が伴うし、なんと親切にも痛みは予告されてさえいた。小佐内さんは歩く速さをほんの少しもゆるめない。あまりに緩めなさすぎて赤信号に突っ込みそうになったので、えりくびをつかんで引き戻す。

 道すがら、小佐内さんが訊いてくる。

「茅津さんの話で、何かおかしなところはあった?」

 あるといえば、ある。

「茅津さんたちは三本木先生から指導を受け、古城さんは担任の深谷先生から指導を言い渡された。だけどこれは、単にそのとき誰の手が空いていたかとか、茅津さんたちが特に問題児と見なされていたからとか、そのぐらいの違いだろうね。たいしたこととは思えない」

 小佐内さんが頷く。

「でも、茅津さんたちと古城さんとの時間差は、おかしいかな」

 小佐内さんはマフラーにうずめた首をぎこちなく傾げた。

「時間差……?」

「茅津さんたちはパーティーの写真がネットにアップされたことで停学になった。たぶん、栃野さんと佐多さんも同じだろうね。だけど古城さんは違った。一人だけ、一日遅かった。それがなんでだろうとは思ってる」

 満足げな目で、小佐内さんは頷いた。

「わたし、そこには注目してなかった。小鳩くん、さすが」

 よせやい。

 この時間差が何を意味するのか、いまははっきりとした答えが出せない。いくつかの仮説はあるけれど、それについて討議するにはまだ調べるべきことが多いし、何よりビル風に吹かれる路上というのはいかにも場所が悪いだろう。見覚えのある交差点が見えてくる。

 十字路に面したビルの一階の、れん調のタイルで装われたパティスリー・コギ・アネックス・ルリコは、冬の寒さをものともせずにほぼ満員だった。イートインは全席埋まり、ショーケースの前に並ぶ客たちは笑顔でケーキやマカロンを品定めしている。店員さんたちはさほど慌てる風もなく、それぞれの注文をさばいていた。そのうちの一人の手が空くのを待って、小佐内さんがマフラーを下げて話しかける。

「すみません。店長さんはいらっしゃいますか」

「店長ですか?」

 そう問い返すも、店員さんはさほどいぶかる様子もなく答えてくれた。

「すみません。いまは外に出ています」

 壁の時計を見ると、二時を少し過ぎたところだった。外出しているというのは方便で、店の奥で昼の休憩をとっているのかもしれない。小佐内さんも同じことを思ったのか、ポケットから折りたたまれた紙片を出して店員さんに渡す。

「もしお戻りになったら、この紙を渡してくれませんか。わたし、古城秋桜さんの友達で、急いで店長さんにお話ししないといけないことがあるんです」

 店員さんはさすがに不審そうな表情を浮かべたけれど、オーナーである古城の名前が少しはものを言ったのか、笑顔を作って「少しお待ちください」と言ってくれた。店の奥に消えていく店員さんの後ろ姿を見ながら、ぼくは訊く。

「あんなメモ、いつ書いてたの?」

 小佐内さんはちょっと笑った。

「いつでしょう」

 そんな馬鹿な、ずっと一緒にいたのに気づかなかった……。ほどなく店員さんが戻って来て、「こちらへどうぞ」と案内してくれた。

 モダンで清潔感のある店内に比べて、店の奥はふつうのビルだった。ノブのない、どちら側からも押して開けられるドアの先は、小さな事務室になっていた。パイプ椅子と、弁当ぐらいなら広げられそうな小さな机がまず目に入る。その机の奥にはもう一台、書類を乱雑に積み上げた味気ない事務机が置かれていて、それに向かい合って女の人が座っていた。この人が店長さんだろう。胸にネームプレートをつけていて、フルネームで田坂瑠璃子と書かれているので、戸籍上はどうあれ職場では田坂を名乗っていることがわかった。

 田坂さんはぼくたちを案内してくれた店員さんに、「ありがとう」と言って微笑んだ。店員さんは一礼して戻っていく。三人だけになった狭い部屋で、田坂さんはまず、

「どうぞ、座って」

 と言った。ぼくと小佐内さんはマフラーを解き、小佐内さんはマスクとイヤーマフと手袋も外して、それぞれパイプ椅子を引いて座る。

 田坂瑠璃子さんはほそおもてで、髪は後ろに撫でつけていた。眉は細く、目はどこかかなしそうで、くちびるは小さい。両手を机の上に置き、左手を右手でつつみこむようにしていた。化粧はしていないようで、その声は穏やかだった。

「秋桜さんのお友達だそうね」

「はい」

「そう……」

 お互いに探り合うような沈黙が下りる。

「それで」

 口火を切ったのは田坂さんの方だった。

「どんなご用?」

 小佐内さんは、田坂瑠璃子の内心を見透かそうとでもいうように目を凝らしていたが、用を訊かれると堂々と答えた。

「古城秋桜さんが、飲酒の疑いで停学になりました。でも本人は無実だと言っていますし、実際にお酒を飲んだグループも、古城さんはその場にいなかったと言っています。学校は古城さんもその場にいたという証拠を持っているようですが、わたしは古城さんの無実を信じているので、その証拠は偽物だと思っています。学校に事情を聞きたいのですが、そのためには古城さんの保護者から学校に問い合わせてもらう必要があります」

 田坂さんの眉に、少し動揺が走った。

「……それで、どうしてここに来たの?」

 小佐内さんは即座に答える。

「田坂さんが秋桜の保護者だからです」

 小さな溜め息が、田坂さんのくちびるかられた。

「それは、秋桜さんが言っていたのかしら」

「言っていたのは、田坂さんと古城さんが結婚したということだけです。あの子はわたしがここに来ていることも知らないし、知ったら、たぶんわたしを許さないと思います」

 田坂さんが指を組み替え、それで左手が見えるようになった。指輪は見当たらない。やはり、仕事中には指輪をしないのだろう。

「……停学だなんて。知らなかった」

 そう呟いた瞬間、穏やかで理知的な田坂さんの表情にちようの色が走ったのをぼくは見逃さなかった。けれどぼくは、それを口にしないだけの最低限の自制心は、ようやくのことで身につけることができている。

 古城さんは理不尽な停学を嘆き、小佐内さんに泣きながら電話をかけたけれど、一方で田坂さんには何も話していなかった。それは、もっともなことだろう。ところで、東京に店を構えている古城春臣も娘の停学を知らないとは考えにくい。古城さんが隠そうとしても、学校が連絡するからだ。けれど彼は、再婚相手の田坂さんには娘の現状を伝えていなかった。……他人の家の事情にくちばしを突っ込む気はないけれど、ぼくは、会ったこともない古城春臣がなんだか嫌いになってきた。

「わかりました」

 田坂さんの言葉から、迷いや戸惑いが綺麗に消えていた。

「それで私は、何をすればいいの?」

 小佐内さんは体が小さいし、顔立ちもどこか子供っぽいことは否定できない。振る舞いも、常に沈着というわけではない――たくさんのマカロンを見るとふにゃふにゃになったりするし。そんな小佐内さんを初対面で信頼し、指示を請うおとなは初めて見た。小佐内さんもちょっと戸惑い、そして言った。

「学校に電話をして、生徒指導部の三本木先生と話してください。古城さんの停学の件で、どうしても直接会って話したいと言ってほしいんです」

「三本木先生、ね」

「了解が取れたら、わたしも同行します。姉という名目でいいんじゃないでしょうか」

 田坂さんは一瞬小佐内さんをぎようする。姉にするべきか妹の方がいいのか、検討したんじゃないかと思った。それから視線を、壁にかけてあるカレンダーに移す。

「お店は水曜休みで、今度の水曜日はテレビの取材があるから、その後で……」

 言いかけた田坂さんを、小佐内さんが止める。

「いえ。こういうことは一時間でも早い方がいいです。できれば、いまから」

「いまから?」

 さすがに田坂さんは眉をひそめた。それはそうだろう、週末のいま、営業中の店から店長が抜けられるはずがない。ちょっと目が泳いでいる。

「でも、土曜日だから学校も休みだし、その先生もいないでしょう」

「かもしれないですが、土曜日に出勤している先生も多いです。不在なら仕方がないですが、まず、いるかどうか確かめるべきです」

 三本木先生がいるかどうかではなく、土曜日に田坂さんが店を空けられるかが問題なのだということは、たぶん小佐内さんもわかっているはずだ。その上で、速さを求めている。小佐内さんの言うことはもっともだけれど、苛烈だ。ふつうはそこまで早く動けない。

 けれど田坂さんは、黙って頷いた。事務机に置いていた携帯電話を手にして、発信する。大事なことは伝えてもらえないのに、古城さんの中学校の電話番号は登録していたのか。ほどなく、相手が出たようだ。

「もしもし。お忙しいところすみません。わたくし、三年E組の古城秋桜の」

 少し、言葉が詰まった。

「母の、瑠璃子と申します。お休みの日ですが、生徒指導部の三本木先生はいらっしゃいますでしょうか」

 それからしばらくは電話のやり取りが続き、ぼくたちはただ待っていた。小佐内さんはちょっと息をついて、物珍しげにきょろきょろと室内を見まわし始める。ただのさつぷうけいな事務室ではあるけれど、パティスリーの裏側に入るのは初めてで、興味しんしんなのだろう。

 やがて電話を終えると、田坂さんは携帯電話を持ったまま言った。

「いらっしゃるそうよ。行きましょう」

 お店は大丈夫なのか、気になるところだ。……いや、大丈夫であるはずがない。それでも、田坂さんは行くと決めたのだ。なら、余計なことは訊くまでもないだろう。