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十二月が終わるまで冬の気配もなかったのに、年が改まると待ってましたとばかりに冷え込んできた。冬休みをどこでどう過ごしたのか知らないけれど、三学期に入って学校で顔を合わせるや否や、
「帰りに行きたいお店があるから、エスコートしてください」
「いいけど……いつ?」
「今日の放課後」
「それは急だね」
思いも寄らないことだったというように目を見開いて、小佐内さんはおずおずと
「言われてみれば急かも……だめ?」
年末年始、ちょっとしたアルバイトをしていたのでふところには余裕があるし、予定も特になかった。単独行動を恐れない小佐内さんが
「だめじゃないよ。わかった、行こう」
そう言うと小佐内さんは
待ち合わせは昇降口の前と取り決めて、放課後すぐに約束通りの場所で待っていたのだけれど、これは場所が悪かった。冷たく乾いた風がひっきりなしに吹き込んで、実に、実に寒い。このあたりは冬でも防寒具なしで過ごせる日が多く、ぼくも油断と強がりで防寒具のたぐいはマフラーだけで通学しているのだけれど、今日ばかりは寒すぎて危険さえ感じる。自分を腕で抱え込みながらはやく待ち人が来ないかと廊下をきょろきょろと見まわし、まず右を見て、次に左を見て、もう一度右を見たら目の前にいた。
「お待たせ」
小佐内さんは、寒さへの対策にいささかの
「あったかそうだね」
見たままの感想を言うと、小佐内さんはマフラーに埋もれた首を
「え? 冬だもの、寒いよ」
と言った。
どうやら、目指す場所は駅の方向にあるらしい。道の両側には次第に店が多くなり、いつしか頭上にアーケードが張り出してくる。道行く人たちはみな、小佐内さんほどではないけれどきっちり防寒着を着込んでいて、マフラーだけの自分がひどく寒々しく思えてきた。
やがて、ある店の前で小佐内さんが立ち止まった。
「ここ?」
小佐内さんはこくんと頷いた。
「お正月ですから」
なるほど、どちらかといえば洋菓子派の小佐内さんが甘味処とは珍しいと思ったら、年明けらしくお餅を食べようという算段らしい。
がらがらと音を立てて小佐内さんが引き戸を開けると、温かい空気が流れ出してきた。六席ほどの小さな店で、
「いらっしゃいませ。そちらのテーブルへどうぞ」
と案内してくれた店員さんは大学生ぐらいで、声も明るく動作も機敏だった。通されたテーブルはエアコンの吹き出し口に近く、温風を首すじに浴びてほっと一息つく。小佐内さんはイヤーマフもマフラーも外さず、それでもさすがにダッフルコートだけは脱いで、手近なメニューを手にとって真剣に見始めた。ぼくにも見せてほしい。
「
「じゃあ、ぼくもそれで」
「それとも、
「じゃあ、ぼくもそれで」
きろりと
「
ぼくにもメニューを見せてほしい。
まわりを見まわすと、注文できるものを書いた
「そう、小鳩くんはこしあんなのね。わたしたちがもう少し親しかったら、シェアをお願いするところよ」
と言った。両方頼んでもいいんだよと言いたかったけれど、そう言ったら小佐内さんはたぶん本当に二杯頼んでしまうだろうし、そんなことをしたらさすがに夕食が食べられなくなるだろう。小佐内さんの栄養バランスを考えて、ここは黙っておく。
それにしても、今日の小佐内さんは少し様子がおかしい。なんというか、せっかく甘いもののお店に来ているのにあんまり
「どうしたの、真剣に」
小佐内さんはううんと
「今年初めての甘味に、
いわば甘味開きか。そんな風習聞いたこともないけれど。
「去年は、心穏やかに甘いものを食べられることが少なかったから。特に後半なんて、さんざんだったもの」
それだけ言うと小佐内さんはマフラーを外して木の
後半がさんざんだというのは、
「パティスリー・コギは、よかったと思うけど」
そう訊くと、小佐内さんの匙が空中でぴたりと止まった。
「そうね……」
「ご不満が?」
「あんなに素敵な季節限定のマカロンを前にして、わたし、集中を欠いていた。
武道のようなことを言っている。
ぼくの分のおしるこも来たのでさっそく一匙いただくと、熱さと甘さが体に残った寒気を一気に追い出して、背すじがぞくぞくした。ふたり向かい合わせで、しばし無言で匙を動かす。ほうと一息ついて今度は
「それで」
と、ぼくは言った。
「去年は不幸だったって改めて思ったきっかけが、何かあるんだよね」
深い根拠はない。去年はよくなかったとずっと思っていて、今年はいいことがありますようにと願って厄を落とすにしては、三学期が始まってからという時期は少し遅いような気がしたのだ。小佐内さんは匙を動かす手を止めて、上目遣いにぼくを見た。
「……やっぱり、勘がいいのね」
「どうも」
「勘のいい人は好きよ。わたしのことを見抜かない限りはね」
小佐内さんは匙から手を離し、
「最初の記事を見て」
言われるままページをめくると、名古屋で日伊パスティチェーレ交流会が開かれたという記事が目に飛び込んできた。パスティチェーレはパティシエのイタリア語だそうで、日本とイタリアのパティシエたちが立食パーティーで楽しい時間を過ごしたそうだ。これがどうしたのと訊きかけて、いや、すぐ答えを聞いては面白くない、この記事の何が小佐内さんを刺激したのか当ててみようと考え直す。
記事を読んでみると、交流会の式典や
なかなか
「写真」
ああ、写真か。そういえばちゃんと見てはいなかった。どこかのホテルなのだろうか、床はカーペット敷きで広々としていて、天井からは
いや、この子は……。
「古城さんじゃないか」
古城
「そうなの」
と言うと、小佐内さんはちょっと眉根を寄せておしるこを口に運ぶ。なるほどつまり、
「ねたんでいるんだね」
「うらやんでいるのよ」
晴れの場で堂々とイタリア菓子を
「わたし、この記事見たとき、熱が出ていたの。ベッドの中でつらいなあって思ってて、治ったらきっといいことがある、いいことがないと釣り合いが取れないって思って、そんなときに素敵なパーティーの記事を読んだら古城さんがほっぺにクリームつけて笑っていたの」
言われてよく見れば、たしかに古城さんの頰、というかくちびるの端にはクリームがついていて、それがまたなんとも幸せそうに見える。
「それは、ねたむね」
「うらやんだのよ」
そんなに意味が違うかな……。
「いちおう訊くけど、熱はもう引いたの?」
小佐内さんはちょっと目を丸くした。
「うん。もう大丈夫。ありがとう」
どういたしまして。お餅をつるりと食べて、付け合わせの柴漬けも少しつまんで、小佐内さんはほうと息をつく。
ミニコミ誌を閉じて、改めてオルカという誌名が書かれた表紙を見ると、名前を知らない女優さんがパフェを前にして微笑んでいた。
「これ、すごい雑誌だね。オルカってケーキ用語か何かなの?」
小佐内さんはおしるこをすくいながら、
「
とだけ言った。言われてみれば……単に、名古屋のミニコミ誌だから名古屋っぽい名前を付けただけのようだ。栗の甘露煮をもぐもぐと食べ、お茶を飲んで、小佐内さんは左手の人差し指を左右に振った。
「オルカはもともとただのミニコミ誌でしたが、六年ぐらい前に編集長が替わってからスイーツに力を入れるようになりました。この差別化路線があたって、いまでは市外でも売られています」
「あ、無料配布じゃないんだ」
「小鳩くん、黙って持ってきたりしてないよね?」
そんなことするわけがない。小佐内さんは左手の人差し指を振りながら、続ける。
「……特に、年末恒例オルカ注目ことしのスイーツ店ランキングは意外と強い影響力があり、ここでランクインすると東京や大阪のデパートからもお声がかかるという噂があります。去年までは三年連続で
話の先が読めた。
「もしかして、古城さん?」
小佐内さんが満足げに頷く。
「わかってるわね、小鳩くん。そうです。パティスリー・コギ・アネックス・ルリコが今年の一位でした」
開店は秋だったはずなのに年末のランキングでいきなり一位をかっさらうとは、驚きの快進撃というべきか。そんな店にオープン直後から
「すごいね。行けてよかったね」
心からの言葉だったのに、小佐内さんの表情が不意に
「そうね。……ただおいしかったって言って帰ってこられたら、もっとよかったんだけど」
ああ、また暗くなってしまった。小佐内さんはお茶を飲み、そのまま湯吞みを大きく呷ると、とんと音を立ててそれをテーブルに置いた。
「……とにかく、わたし、今年はいいことがあるといいなって思ってるの。お菓子の中に変なものが入っていなくて、せっかくのいちごタルトが盗まれたりしなくって、ケーキを食べたかっただけなのにいきなりさらわれたりしなくて、満ち足りた気持ちで素敵なお菓子を好きなだけ味わって、ええもう充分いただきました、ありがとうございますって言いたいのよ」
「その点、今日は大丈夫そうだね」
励ますつもりでそう言うと、小佐内さんは少し考えるような間を置いてから頷いた。
「うん。おしるこ、とてもおいしい。あたたまる」
とはいえ、心から満ち足りているわけではなさそうだ。縁起担ぎの甘味開きに正月らしくお餅を食べて、おいしかったのも事実だろうけれど、
「もう一杯頼んだら?」
「え……でも、そんな……だめよ、小鳩くん。でも……そう?」
誰に対して悩むポーズを見せているのだろう。結論が決まっているなら行動あるのみじゃないか! そして実際、小佐内さんが店員さんに片手を挙げかけたその瞬間、低い唸りが耳に届いた。マナーモードに設定された携帯電話の、着信を知らせる音だ。思わずポケットを探るけれど、ぼくのは動いていない。小佐内さんがスカートのポケットから携帯電話を出して画面表示を見て、
「噂をすれば影」
と言った。つまり、古城さんからの電話だ。小佐内さんは席を立った。
「ちょっと出てくるね」
おしるこを平らげてからでよかった。引き戸を開けて外に行く小佐内さんを見送って、ぼくは自分の御膳しるこに改めて向かい合う。お椀はまだ熱く、さらさらのおしるこはとても甘いはずなのに飽きがこない。おしるこを食べるためにお店に入ろうだなんて考えたこともなかったけれど、これはいいことを教えてもらった。柴漬けのしょっぱさもいい箸休めで、ときどき口をつけるお茶もいつになくおいしく感じる。ああ、体が温まってきた。
と思ったら、冷たい風が吹き込んできた。小佐内さんが引き戸を開けて戻って来たのだ。よほど寒かったらしく、両腕で自分を抱きしめている。防寒具もなしに外に出れば、そうもなるだろう。ゆっくり椅子に座るその表情が少し曇っているのは、ぼくのお椀がもう空になっていることと少しは関係がありそうだけれど、それが理由のすべてでもなさそうだ。
「どうしたの?」
そう訊くと小佐内さんはまず温かいお茶を一口飲み、それから小首を傾げた。
「わたしも事情はよくわからないんだけど」
答えがそこに出ているというように携帯電話を見つめ、モニタ表示の消えたそれをポケットに戻しつつ、言葉を続ける。
「古城さんが停学になったって。ひどく泣いていたわ――無実なのに、って」