水を飲みに行った二人が戻って来て、検討が再開されるかと思ったとき、門地くんが投げやりに言い出した。

「もういいだろう。別に誰でもいいじゃねえか、パンの一つや二つでこんな騒がなくっても、なんかあったんだよ変なことがさ。不思議だなで済まして、もう帰ろうぜ」

 一理ある提案だけれど、それでは記事を企画した真木島さんが黙っていないだろう。案の定真木島さんはきっと眉を吊り上げて、いましも反論しようと口を開けるけれど、それよりも早く杉さんが甲高い声を上げた。

「いまさらやめてよ! それを言うんなら、タバスコ舐める前に言ってよ! いまやめたら、なんのためにあんな……馬鹿みたいじゃない!」

 目を真っ赤にして、声も震えている。たしかに、撤退の判断を下すにはもう遅すぎる。毒を食らわば皿まで、タバスコを舐めたなら真相まで、だ。ぼくは改めて健吾に訊いた。

「この揚げパンを記事にしようと言い出したのは、誰だったの?」

 その答えはもう知っているけれど、二人だけのときに聞かされたというのはほかの新聞部員にとってあんまり気持ちがよくないだろうから、わざと訊いておく。健吾もそれを察したのか、さっき教えただろうとは言ってこなかった。

「真木島だ。学校の近くにドイツパンの店がオープンし、そこでプファンクーヘンを売っているのを見つけて、編集会議で提案してきた」

 本当に訊きたいのはここからだ。

「それで、どうして洗馬先輩がもらいに行くことになったのかな」

 こう言ってはなんだけれど、一年生の企画のために二年生の洗馬先輩が使い走りをするのは少し変だという気がしていたのだ。

「知っての通り、先輩は辛いものが駄目だと言って企画を下りた。それに、ライブが近くて部活に顔を出せない日が増えているのも申し訳なく思っていたらしい。せめて埋め合わせにと言って、プファンクーヘンは自分がもらってくると申し出てくれた」

 真木島さんが横から入ってくる。

「大雑把に見えるけど、面倒見がいいひとなの。わたしたちのことはいつもサポートしてくれる」

 健吾が頷いた。

「そうだな。記事の文章で詰まっていたりすると、自分の手を止めてでも必ずアドバイスしてくれるんだ。あのひとにはきたえられたよ」

 さっと視線を走らせるけれど、門地くんも杉さんも表情は特に変えていない。もちろん断言は出来ないけれど、洗馬先輩への隠れた反感というのはなさそうだった。

 こうなれば、細かな状況を一つずつ確認していくしかない。まず、揚げパンがどういうふうに動いたのかを確かめよう。

「先輩は、今日の放課後にパン屋まで行って、揚げパンをもらってきたんだよね」

「そうだ」

「その傍証は、なにかある?」

 門地くんが横から毒づいてくる。

「傍証って、先輩がもらってきたんじゃなけりゃ、どうしてここにパンがあるんだよ」

「まあいちおう、念のためだね。もらったのは昨日だったかもしれない。明らかに出来ることはぜんぶ明らかにしたいんだ」

 健吾が首を横に振った。

「今日、洗馬先輩が取りに行く約束をしていた。あの揚げパンは試作品だ。店だって、毎日作ってるわけじゃないだろう」

「お店のひとは、洗馬先輩の人相を知ってるのかな」

「知っている。俺と洗馬先輩と真木島の三人で先に取材に行ったとき、洗馬先輩が自分が受け取りに来ると話していたからな」

 ということは、洗馬先輩がドイツパンの店に揚げパンを取りに行ったことは間違いなさそうだ。そして揚げパンは紙袋に詰められ、おそらく持ち運びしやすいよう、紙袋はビニール袋に入れられた。先輩は午後四時に家庭科部の部室に行き、かねて依頼の通り揚げパンにマスタードを詰めてもらおうとしたけれど、実際には激辛のタバスコが仕込まれた。

 洗馬先輩は、家庭科部で揚げパンを皿に移した。持ち運びに使われたビニール袋と紙袋は、家庭科部のゴミ箱に捨てられた。先輩は揚げパンを乗せた皿を持って、この新聞部部室にやって来た。その皿はまだ大テーブルの上にある。

 ひとつ、わからないことがある。

「……洗馬先輩は、どうして揚げパンを皿に移したのかな。紙袋に入れたままでも、別に食べにくくはなかったと思うけれど」

 首を傾げていると、健吾がこともなげに答えた。

「元は紙袋に入っていたのか。なら、撮影のためだろう」

 撮影だって。

「写真を撮ったの?」

「ああ。記事にするんだ、当然撮る。紙袋に入ったままだと写しにくいからな、先輩は気を遣ってくれたんだろう」

「撮ったって、カメラで?」

 そう訊くと、健吾はちょっとうろたえた。

「本当はその方がいいんだが、小さい欄で、モノクロだからな。携帯で撮った」

「なんでそれを早く言わないのさ!」

 おお、はからずも、人生で一度は言ってみたかった台詞せりふ「どうしてそれを早く言わないんだ!」を言うことができた。

「いや、すまん。うっかりしていた。見るか?」

「もちろん」

 健吾はポケットから携帯電話を出して、画像を表示させる。

 一枚目の画像は揚げパンの乗った皿が置かれた大テーブル、二枚目の画像は揚げパンが四つ乗った皿、三枚目の画像はもう少しアップで撮った揚げパンだ。

 つまり、揚げパンしか写っていない。

「もっと……こう……手がかりになりそうな……食べる瞬間とかさ!」

「俺も皆と同時に食べたんだぞ。どうやって撮るんだよ」

「ごもっともだけど……」

 皿の上の揚げパンは四つだと確認できたこと、見た目だけでタバスコ入りを当てるのは難しそうだとわかったことが収穫と言えるかもしれないが、どちらも既にわかっていた事実だ。

「これはいつ撮ったの?」

「試食の直前だ」

 そのときにはもう、洗馬先輩はいなかった。

 健吾が言う「試食の直前」までに、なにがあったのか。次は新聞部員四人の行動を確認しなければならない。


「最初にこの部室に来たのは、誰かな」

 そう訊くと、門地くんが馬鹿にするような声で言った。

「知ってるだろう。おれだよ。最初に来て、部室の鍵を開け、ずっと記事を書いていた」

「そうだったね。何時からここにいたの?」

「三時半過ぎだったと思う」

 ホームルームが終わるのもそれぐらいだから、門地くんは放課後になった直後にここに来たことになる。

「洗馬先輩にも会っているんだよね」

「ああ」

 パイプ椅子の背もたれに体を預け、門地くんはちょっと薄笑いを浮かべた。

「いきなり肩を叩かれて、びっくりしたよ」

「時刻は?」

「さあ、憶えてない。時計も見ずに原稿を書いてたからな」

「洗馬先輩は揚げパンを乗せた皿を持っていたんだよね」

「……いや。皿はもうこのテーブルに置いてあった。先輩は皿を指さして、もらってきたって言ったんだ」

 健吾が訊く。

「書いてたのは、先週からやってた例の三段記事だろ? 手こずってるのか」

「ああ、ちょっと文章がな。でも、もう書けた」

 あなたがこの部屋にずっといたことを証明できるひとはいますかと訊きたくなるところだけれど、問題なのは門地くんの不在証明じゃないし、訊けば一騒動になるのは目に見えている。これは、よしとしておこう。

「次に部室に来たのは?」

 杉さんが小さく手を上げた。

「わたしです」

「何時に来たか憶えてるかな」

「四時十五分ちょうど」

 自分で訊いておいてなんだけど、どうしてわかるんだろう……。

「よく憶えてるね」

「そういうのは得意だから」

 杉さんは初めて、にこりと笑った。

「洗馬先輩にも会ったよ。部室のドアの前ですれ違ったから、来てたんですかって訊いたら、いま来たとこって言ってた」

「ほかになにか言ってなかった?」

「ライブに行くから、立ち会えなくてごめんって。それだけ」

 健吾が横から言う。

「タイミング的には、門地と話した直後ってことか」

「たぶん。それで、テーブルの上にアンケートの回収箱があったから、上から何枚か取って、椅子に座って読んでた」

 いちおう訊く。

「座ったのは、いま健吾が座っている椅子だよね」

 入口にいちばん近い椅子だ。

「うん。そこ」

「ありがとう。それから?」

 杉さんは頷いた。

「二、三分アンケートに目を通したあと、プファンクーヘンに気づいて、撮影できるようにテーブルの上を片づけた」

「そのときに写真は撮らなかったの?」

「うん。全員が揃ってからでいいって思ったから」

 部室にはまず門地くんが来て、それから洗馬先輩が来た。次に杉さんが来て、洗馬先輩は出て行った。それから?

「次に部室に来たのは……」

「わたし」

 どこか不満げに、真木島さんが答える。

「何時に来たか憶えてる?」

「わからない、憶えてない」

 投げやりな言い方だけれど、時刻を憶えていないのはむしろふつうだ。どちらかと言えば、杉さんがはっきり答えられたことの方が不思議だと思う。

「部室には門地と杉がいたけど、先輩には会えなかった」

 これまでの証言とも一致している。

「部室に来てから、なにかあった?」

「そうね」

 少し考えるような間が空いた。

「背の低い一年生の女子がアンケートを届けに来たから、わたしが受け取った。それぐらいかな」

 ……小佐内さんかな?

「お礼を言って、お菓子を配っていますって言ったら、いりませんって言われた」

「違うな」

「えっ、なに?」

「ごめん、こっちの話。受け取ったアンケート用紙はどうしたの?」

「杉が回収箱を片づけたっていうから、これも入れておいてって言って渡した」

 見ると、杉さんは小さく頷いた。この紙の砦のどこかにアンケートを入れる箱があるのだろう。ぼくのクラスのアンケートは、さっき健吾が適当なところに置いていたけど、あれはよかったのかな……。

「その箱って、いまはどこにあるの?」

 杉さんに訊くと、

「堂島くんの後ろ」

 という答えが返ってきた。健吾は慌てて振り返り、壁際に無造作に積まれた書類の上から箱を取り上げる。

「こんなところにあったのか」

 回収箱というから蓋がついたものを想像していたけれど、実際のそれは、和菓子かなにかのボール箱をそのまま流用したとおぼしきものだった。それなりに大きいけれど深さはなく、アンケート用紙が溢れそうになっている。

「ほかに何かあった?」

 そう訊くと、真木島さんは首を横に振った。

「最後に来たのは健吾なんだよね」

 そう念を押すと、健吾はきょろきょろするのをやめて頷いた。

「そうだ」

「時刻は?」

「四時半までまだ少し時間があるなと思った記憶があるな。正確にはわからん。部室に来たらほかの三人が揃っていて、テーブルの上には揚げパンがあった。俺が揚げパンの写真を撮って、それから、食べた」

 そこから先は聞かなくてもわかる。誰が当たりを引いたか息を詰めてお互いの様子を窺ったけれど、誰も当たったと言い出さなかった。そして、ぼくが来たというわけだ。

 これでいちおう、新聞部員の動きについて聞けることは聞いた。聞いたけれど、これはどういうことなのか……。ぼくが黙り込んでいると、健吾が小さく唸った。

「おかしなところはなかったようだな」

 そうかな?

 ぼくは少し考え、誰にともなく言った。

「洗馬先輩と連絡が取れるかな」

 全員の視線がなぜか真木島さんに向けられ、その真木島さんが答える。

「いまは無理だと思う。ライブの前は携帯の電源切っちゃうし」

「そうか……」

「なにか訊きたいことがあったの」

「訊けたらいいなっていうことは、あったよ。でも、それより、真木島さんは洗馬先輩について詳しいんだね」

 そう言うと、真木島さんははにかんだ。

「家が近くなの。先輩への連絡は、わたしが取るようにしてる」

「幼なじみって感じかな。じゃあ、ふだんは先輩とは呼んでないんだ」

「そうだけど……関係ある?」

 ぼくは手を振った。

「ないよ。ごめん、立ち入ったことを訊くつもりじゃなかったんだ」

 洗馬先輩の証言が得られない以上、推理はこの場で集められる材料から組み立てるしかない。直感だけれど、それは不可能ではないと思う。たぶん、鍵は一年生の飯田くんが握っている。

「洗馬先輩は、飯田くんが参加しないことは知ってたんだよね?」

 飯田くんは、新聞部所属の一年生で、週に一度来るか来ないかの幽霊部員だ。今回の取材に参加するかどうかを健吾に打診され、参加しないと答えたという。真木島さんは妙に意気込んで答えた。

「うん、知ってた。わたしがメールで送ったから」

「念のためだけど、真木島さんは洗馬先輩に、飯田くんは試食に参加しないから揚げパンは四個でいいっていう内容のメールを送ったんだよね」

「そうよ」

「送信エラーが起きたとか」

「ふつう、そんなの起きないでしょ」

 いやいや、けっこうあるんだ、これが。ところが、健吾が横から補足した。

「その場には俺もいて、文面を確認してくれって言われた。正確な言いまわしは忘れたが、真木島はたしかに、飯田はこの取材に参加しないと書いたメールを洗馬先輩に送っていたぞ。この部室は電波状態もいいし、携帯に送信エラーが来ることもなかった。先輩にメールが届いたことは間違いない」

 こと今日の事件に関して、健吾が断言することは事実と認めると決めている。ぼくが黙って頷くと、真木島さんが言葉を続けた。

「夜になってからだけど、ちゃんと返信も来たよ」

「どんな文面だった?」

「了解、って」

「それだけ? 前後になにかなかったかな」

 真木島さんは眉根を寄せた。

「知らない、忘れた。今日は携帯忘れたから見られないし。言いまわしが重要なの?」

 どうだろう、洗馬先輩の返信の文面は、重要か否か?

 ……いや、重要な点はほかにある。

 黙っているぼくに真木島さんは苛立ちをあらわにし、顔を赤くして口を開きかけ、それから不意に、目を逸らして言った。

「……ところで、いまさらなんだけど、いいかな?」

 その言葉はぼくにではなく、新聞部の部員たちに向けられたものだ。門地くんが戸惑い気味に「なんだ」と返すと、真木島さんは呟くように言った。

「実はわたし、あれを食べるとき考えごとしてて、ぼうっとしてた。いままで言いにくくて黙っていたんだけど、もしかしたら、当たりはわたしが引いたのかもしれない。……というか、みんなが当たりじゃなかったんだから、わたしが当たりだったんだと思う」

 突然の告白だった。杉さんと門地くんが驚きの声を上げるけれど、健吾はさすがに落ち着いている。

「真木島、それはないだろう。さっき味についてコメントを書いたら、お前がいちばん詳しかったじゃないか。あれでぼうっとしていたは通らんぞ」

「それは……」

 と口ごもる真木島さんを、門地くんがもの凄い目で睨んでいる。

「前に食ったことがあったんだろう。そうじゃないかと思ってたんだ!」

 真木島さんはうつむき、なにも言わない。しかし杉さんが間に入った。

「そんなのわかんないじゃない。マッキー、ちゃんと説明してよ!」

「無駄だよ、なんかあやしいと思ってたんだよおれは」

「なに言ってんの、あやしいのはあんたの方じゃない。マッキーのアイデアを潰したかったんじゃないの?」

「なんでおれがそんなことするんだよ、馬鹿じゃねえのか」

 健吾が恐れていた展開だ。揚げパンで楽しくドイツ伝統のゲームをするだけだったのに、新聞部の水面下にあった対立が表に出て来てしまった。いまからでも間に合うだろうか。誰が当たりを引いたのか指摘することができれば、新聞部の空中分解を防ぎたい健吾の期待に応えることができるだろうか?

 ……まあ実を言えば、新聞部がどうなろうと、ぼくはあんまり興味がないんだけどね!


 期待していた材料はすべて集まった。タバスコ入り揚げパンを食べたのは誰か?

 堂島健吾か?

 門地譲治か?

 真木島みどりか?

 杉幸子か?

 飯田か?

 洗馬先輩か?

 家庭科部の男子か?

 小鳩常悟朗か? いやぼくは食べてないよ、念のため。

 あるいは、どこからともなくやってきた謎の存在が食べたのだろうか?

 事件の真相を、ぼくは指摘できる。

 ぼくと同じ材料を手にしたひとならば、同じことが出来るはずだ。