礼智中学は名古屋の学校だった。くさ区にある私立で、地図で見ると礼智高校というのもそばにあったから、一貫校なのかもしれない。

 日曜日、ぼくたちは別々のルートで目的地に向かった。駅で待ち合わせて一緒の電車に乗ったのならぼくを引っぱり出した理由もゆっくり聞けたのだけど、小佐内さんはおみやげを買うので別ルートになるそうだ。制服で行った方がいいのかなとも思ったけれど、小佐内さんはなにも言ってなかったから、服は無地のシャツとチノパンを選んだ。名古屋駅で下りて、いまひとつ立体構造が頭に入ってこない地下をうろうろし、ようやくのことで地下鉄に乗る。

 目当ての駅で地上に出ると、外は気持ちのいい秋風が吹いていた。地下鉄出口の真正面に掲示板が立っていて、市民フォーラムやフリーマーケットのお知らせに交じり、礼智中学文化祭のポスターが貼られている。真ん中に大きく漫画のキャラクターが描かれており、「礼智中学校文化祭」の文字は一字ごとに色が変えられていて、ポスターは総じてなかなか派手だ。「飛翔、そしてその先へ」とそれらしいスローガンも書かれている。

 地下鉄の駅からの道順はおぼろげにしかおぼえていなかったけれど、文化祭にはそれなりに人が集まるらしく、人の流れに乗っていけば迷わずに済みそうだ。やがて道は住宅街に入り、くすんだれん色の塀に沿いはじめる。塀の内側には緑の植え込みがあり、隙間なく目隠しされていた。どうやらここが礼智中学校だろう。でなければ大豪邸だ。

 ほどなく校門が見えてくる。いかめしい鉄門が大きく開かれていて、その内側にはいかにもポップな手作りのウェルカムゲートが据えられていた。第十七回とあるが、創立十七年だとすると意外と歴史の浅い学校なのかもしれない。そう思って見ると、はくの校舎の無機質なデザインは、現代風だという感じがしなくもない。

 校門を入って右手には、ぼくたちが通う船戸高校のものよりも一回り狭いグラウンドが広がっている。その真ん中で丸太がげたに組まれ、火が燃えさかっているのが見えた。一辺一メートル半ほどだろうか、と呼ぶには少し大きいが、が舞い散るというほど大きくはない。キャンプファイヤーみたいだけど、文化祭はキャンプではないので、なにか他の呼び方があるのだろう。団結の火とか、きずなの炎とか。

 白い校舎には、「ようこそ礼智中学校文化祭へ」と書かれた垂れ幕のほか、「ハンドボール部 東海大会出場」「水泳部 全国大会出場」「柔道部 秋季大会出場」と書かれたものも下がっている。ぼくの出身中学で部活が全国大会に出たという話は聞いたことがない。どうやら、なかなかスポーツが盛んな学校らしい。

 さて、小佐内さんとは校門付近で、午後二時に待ち合わせることにしている。あと二分ほどで二時だから、もう先に来ていてもおかしくないけれど……。休日開催だけに、校内には生徒ではないらしい人の姿も多く見られる。中学生とは思えない小さな子供もたくさんいて、ときおり歓声が聞こえてきた。

 小佐内さんが姿を隠す技術はなかなかのものだけれど、ぼくの観察力もそう捨てたものではない。ウェルカムゲートの陰から、スニーカーの爪先が少しだけ見えている。見たところ靴のサイズは小さそうだし、まるで誰かを待ち伏せしているかのように、さっきからまったく動かない。じようの手から水がれた、少々お粗末なかくれんぼだと思いつつ、ゆっくりとゲートに近づいていき、

「待たせたね、小佐内さん!」

 一気にゲートの後ろをのぞき見る。

 知らない女の子の、おびえた顔がそこにあった。

「え、誰、ですか」

 あやしい者ではありません、と言おうとして、声がのどで凍りつく。女の子の表情がこわばり、いまにも大声を上げそうに見えたその時、

「……なにしてるの、小鳩くん」

 季節を先取りして冬の冷たさをまとった声が、背後から聞こえてくる。振り返れば、えりの丸い白ブラウスにくすんだオレンジ色のカーディガンをり、ボストンバッグをぎゅっと小さくしたようなかばんを持った小佐内さんが、半眼で仁王立ちしていた。

「いや、これは」

 言いかけるぼくを無視して、小佐内さんは女の子の前にしゃがみ込む。

「大丈夫よ。このお兄ちゃん、ちょっと人の心がわからないけど、すごく悪い人っていうわけじゃないから」

 ずいぶんなごあいさつだし、それはお互いさまだ。女の子だって、そう言われて安心すべきかどうかまどっているみたいじゃないか。ああ、無言で走り去っていく。その背中を見送って、小佐内さんはゆっくりと立ち上がった。

「小鳩くん。小さな子を驚かすのは、よくないと思うの」

「そんなつもりはなかった……っていうか、一部始終見てたんだよね?」

「なんのこと?」

 小首をかしげ、心底不思議そうな顔をしている。

 どうやら、小佐内さんは本当に何も見てはいなかったらしい……と、ぼく以外だったらだまされてしまいそうな、実に鮮やかなとぼけっぷりだった。


 ここからは小佐内さんの案内に従う。

 来客の靴を置く場所も、来客に行き渡らせるだけのスリッパもないらしく、校舎には土足で上がるようだ。昇降口に大きなマットが敷かれていて、「ここではきものの汚れをおとしてください」という張り紙が出ている。きものの汚れを落とすために服のほこりを手で払ったけれど、小佐内さんがまったく反応を示さないので、おとなしく靴をマットでこすっておく。

 キャラクターや飾り文字がたっぷり配されたポスターが廊下を飾り、案内標識はすべての方向になにか見るべきものがあるとアピールしている。上履きを履いた礼智中学の生徒たちも、靴を履いた来客たちも、たいていは笑顔だ。廊下に置かれた机の上にパンフレットが積まれているので、ぼくたちは一枚ずつそれを手にした。

 パンフレットに書かれた校内図をじっと見て、小佐内さんは何も言わずにすいすい歩き出す。どこに行くのか聞いていないので、ぼくはただその後ろをついていくだけだ。角を二度曲がり、渡り廊下を抜けると、やがて黄色い呼び込みの声が聞こえてくる。

 少し緑がかった紺色のセーラー服を着た女子生徒が白いエプロンと三角巾をつけて、頭上で手を振りながら客引きをしていた。

「お菓子作り同好会です! カフェやってます、どうぞー!」

 ストレートな名前の同好会だ。

 ぼくも小佐内さんも、課外活動とは距離を置いている。お互いそれぞれ習い事はしているけれど、学校の部活には入っていないので、こういう盛り上がりには慣れていない。思った通りここが小佐内さんの目当てだったらしく、すたすたと教室の中に入っていくので、ぼくも客引きの女子にちょっとしやくして、後に続く。

「……へえ」

 中は、ちょっと深呼吸したくなるような、甘い香りが立ちこめていた。家庭科の実習室のようで、ずらりと並ぶ調理台にランチョンマットを敷いて、テーブルがわりにしてある。ちょうどおやつの時間だからか客は多く、にぎわう教室内をエプロンと三角巾をつけた生徒たちが元気よく動きまわっている。

 その中の一人が、ぼくたちを見て破顔した。

「あーっ! ゆきちゃん先輩、ほんとに来てくれたんですね!」

 白い三角巾の端から栗色に染めた癖毛が覗き、くりくりとした両眼の下には、そばかすが散っている。前に見たときはこの世の終わりのような顔をしていたけれど、今日は一転、飛び跳ねそうなほど元気だ。名パティシエと名高いはるおみの娘、古城秋桜こすもす。このあいだ、ちょっとしたことで知り合ったけれど、あれ以後も小佐内さんとの交流が続いているとは知らなかった。

「ゆきちゃん先輩……」

 思わずそうつぶやくと、小佐内さんがちらりとぼくを見上げた。

「悪い?」

 そんなことは……。

 古城さんの目は小佐内さんにまっすぐ向けられ、揺らぎもしない。それは、小佐内さんの隣に立ち、小佐内さんと会話しているぼくの方にはちらりとも目を向けないということでもある。

「話したとおり、小鳩くんも連れてきたわ」

「どうも。久しぶりだね」

 そう声をかけても、やっぱり古城さんはぼくを見ない。笑顔を崩さず、

「ぜんぜん大丈夫です!」

 と言うだけだ。さすがに、そこにかたくなさを感じないわけにはいかなかった。

「忙しい?」

「おかげさまで、そこそこはんじようしてます。でも席はいてますから、こっちへどうぞ」

 通されたのは、グラウンドがよく見える窓際の席だった。エプロンをつけた古城さんが水の入った紙コップを持ってきてくれたけれど、それを机に置いていくときも目はやっぱり小佐内さんを見たままで、ぼくの方はちらりとも見ないものだから、こぼれるんじゃないかとひやひやした。

「ゆきちゃん先輩は、あれですよね」

 小佐内さんはこくんとうなずいた。

「うん。ニューヨークチーズケーキ。二つ」

「紅茶もつけますか」

「うん。二つ」

 二つと繰り返すのは、そう念を押さないと古城さんがぼくの分を持ってこないかもしれないからだろう。古城さんは「わかりました!」と頷いて、同じエプロン姿が集まっているいちぐうへ向かう。その後ろ姿を見送り、ぼくはカフェのけんそうに紛らわせて訊いた。

「……古城さんに会いに来たんだね」

 小佐内さんは両手で紙コップを包み、ちょっと押してへこませ、戻してはまたへこませて、水面にできる波紋を見つめている。

「文化祭でケーキを作るから来てくださいって誘われたの。説明する機会がなくてごめんね」

「ぼくを誘ったのは、古城さんと二人で話したくなかったから?」

「だいたい当たってるけど、ちょっと違う」

 小佐内さんは、立ち働く古城さんに目を向ける。

「マカロンの一件以降、古城さんと仲良くなったの。あこがれのパティシエの娘だけど、それは別にしても、とてもいい子よ。お父さんとはいろいろあるみたいだけど、本人もパティシエになりたいって。クッキーを焼いてくれてね、それが、けっこうおいしかった。がんばってねって言ったわ」

「うん」

「古城さんも、どうしてかわたしを慕ってくれてね。スイーツの師匠だなんて、おおなことを言って。夜になると電話をかけてきたり、土日に遊びに来たりするの。いくつか、とっておきのお店も教えた。小鳩くんには、まださくらあんは教えてないよね?」

「うん」

「いつか連れていくね。それで古城さん、文化祭では、同好会の子たちとニューヨークチーズケーキを作るんだって言ったの。同好会の他の子たちはプロを目指してるわけじゃないってわかっていても、やっぱり時々は意識の差が歯がゆいって愚痴を言うこともあった。ゆきちゃん先輩なんて呼んでくれて、最近は、平日の放課後にも電車に乗って会いに来てくれるぐらい。だから……」

 ああ、それはずいぶんと愛されたものだ。

 さっき小佐内さんに、人の心がどうこうとひどいことを言われたけれど、考える材料があるなら推測することは苦手じゃない。つまり日曜にぼくを連れ出したのは、

「自分には自分の世界があるって伝えたいんだね」

 古城さんが嫌いというわけじゃないけれど、友達は古城さんだけじゃないし、「交際している」相手だっている。古城さんだけとどっぷり付き合うつもりはない……ということを暗に伝えるため、小佐内さんはぼくを連れ出したのだ。

 それでようやく納得がいった。小佐内さんがただ単にぼくと日曜のケーキを楽しみたいだけとはこれっぽっちも思っていなかったけれど、いったいどういうつもりなのかとずいぶん考えてしまったよ。そういうことなら、確かにこれは互恵関係の一環と言える。心置きなく貸しにして、いずれ返してもらうとしよう。

 プラスティックのトレイにケーキと紅茶を乗せて、笑顔の古城さんが近づいてくる。

「お待たせしました。ニューヨークチーズケーキと紅茶のセットです!」

 小佐内さんの紅茶には、すでにミルクが入れられていた。好みは知っているというアピールなのだろうけれど、たぶん逆効果だということも含めて、いじらしくすらある。ぼくをことさらに無視するのは、小佐内さんへの独占欲のあらわれなのだ。

 ケーキは扇形にカットされたもので、真っ白だった。ぼくはふだんあまり甘い物を好んでは食べないけれど、さすがにチーズケーキぐらいはみがある。目の前のケーキをまじまじと見つめ、誰に向けるともなく呟いた。

「これはレアチーズケーキじゃないの?」

「違います」

 フォークを手に、小佐内さんがたかのような目をする。

「違うんだ。どう違うの?」

「それはですね」

 言いかけて、ちらと古城さんを見る。

「……お店の人が説明してくれると思う」

 話を振られ、古城さんはあからさまに戸惑った。いま初めて存在に気づいたようにぼくを見て、それから救いを求めるまなしを小佐内さんに向け、その小佐内さんがじっと黙っているので、あきらめたようにぼそりと言う。

「レアチーズケーキは直接加熱しません。ニューヨークチーズケーキはせんきします」

「湯煎焼き?」

 また小佐内さんをちらちら見ている。「この人にはどこから説明すればいいのか?」とでも言いたげだ。小佐内さんは溜め息をつき、フォークを置いた。

「ケーキの材料を型に入れます」

「うん」

「その型を、水を張ったバット……深さのあるステンレスのお盆に入れて、オーブンで焼くのが湯煎焼き。しっとり焼き上がるのが特徴なの」

 わかったような、どうもいまひとつぴんとこないような。そうやって焼く意味が、なにかあるのかな。

「どれぐらいしっとりしているかは、食べて確かめてください」

 その小佐内さんの言葉に、古城さんが慌てた。

「あ、あの、もちろんがんばって作ったんですが、ゆきちゃん先輩に満足してもらえるほどしっとりしているかどうか……」

 ふたたびフォークを手にして、小佐内さんが微笑みかける。

「大丈夫よ。楽しみ」

 トレイを胸に抱き、古城さんは顔を赤くした。

「あたし、仕事に戻ります!」

 行ってしまった。新しい言葉を教えてもらった学恩は学恩として、ぼくは小佐内さんに非難じみた目を向けてしまう。

「かわいそうに、プレッシャーかけなくてもいいのに」

「楽しみなんだもん」

 どこ吹く風である。

 とにかく、目の前にはお茶とケーキがあり、小佐内さんはお待ちかねだ。ぼくもフォークを手に取った。いただきます。

 真っ白なケーキにフォークを差し込む、その最初の瞬間から違いがあった。想像していたよりもずっと硬い……いや、硬いというよりも、弾力がある。押し返されるほどではないけれど、おや、と思うぐらいの手応えを楽しみながら、ゆっくりとケーキを切っていく。小さく切り取った三角柱を、口に運ぶ。

 ……へえ!

 小佐内さんも古城さんも「しっとり」と表現したけれど、ぼくの語感では、これは「みっしり」だ。甘さは割と控え目なのに、食感が驚くほどまったりしていて、うまさの密度が高いという感じがする。これはおもしろい、おいしい。

 顔を上げれば、ぼくの感想など気にもしないで、小佐内さんは自らのケーキをたんのうしている。フォークが下がり、上がるたび、小佐内さんは幸福に浸るように微笑むのだ。あれだけなにかを楽しめるというのはいっそうらやましいし、あの顔を見ればケーキを作った方もほんもうだろうから、古城さんが変な遠慮をして離れていったのが気の毒なぐらいだ。

 そう思う一方で、少しだけ不思議でもあった。ぼくはニューヨークチーズケーキというものを初めて食べたから新鮮に感じて驚きもしたけれど、そういう驚きは、小佐内さんにはないはずなのだ。

「ねえ、小佐内さん」

 早くも残り少なくなったニューヨークチーズケーキを見つめ、少しだけ哀しい目をしている小佐内さんに尋ねる。

「びっくりしたよ、おいしくて。これは、小佐内さんの基準に照らしても、やっぱり上出来なのかな」

 小佐内さんは小首を傾げた。

「これがおいしいかってこと? うん、おいしいけど」

「どこよりも?」

 中学校の文化祭で出たチーズケーキが、小佐内さんを十全に満足させるというのが納得いかない感じがする。和洋問わず甘いものを好み、自分の足でおいしい店を探し求め、情報収集もおこたらない小佐内さんだ。ご予算の都合もあるだろうから世界最高の味を知っているはずとまでは思わないけれど、かなり上等のものは賞味しているに違いない。そうした上々のものを知っていてなお、このニューヨークチーズケーキはおいしいのだろうか?

 質問に込めたそうした意図を、小佐内さんは的確に読み取った。フォークを置き、心なしか居住まいを正して言う。

「小鳩くん。そういうことじゃないの。素敵なパティスリーとお菓子作り同好会を同列に並べて比較するなんて、つまらないことよ。百円の板チョコを食べてゴディバの方がおいしいだなんて考えるのはこつけいだわ」

「そうなのかな……」

「そうよ」

 語気に力がこもる。

「パティスリーはパティスリーにふさわしく、ホームメイドはホームメイドなりに、駄菓子は駄菓子として素敵ならそれでいいのよ。いつだって最高のものを求めるのは求道者っぽくて恰好よく見えるかもしれないけど、実際は何を食べても『あれに比べればね』なんて言っちゃうスノッブに過ぎない」

「じゃあ、何を食べても幸せってこと?」

「まさか。おいしくないものはだめよ。手を抜いているものはもっとだめ。それはすてきじゃないもの。……スノッブっぽいことをえて言うなら、もちろん、これは最高じゃない。でもおいしいし、手抜きでもないし、なによりもわたしはいま楽しいの」

 小佐内さんはもう一口チーズケーキをほおばって、にっこりと微笑んだ。

「そういうことなのよ、小鳩くん」