パティスリー・コギ・アネックス・ルリコには、客足が途絶えない。和やかな笑い声、陶器がふれ合う低い音、フォークが皿に当たる高い音が耳に届く。忘れていた甘い香りも、しばしよみがえったように感じる。

 マカロンの中には指輪が入っていた。……想像の埒外のことだ。

 ちょっとなにが起きているのか把握するのに時間がかかってしまい、我に返ったのは小佐内さんの方が早かった。

「……何度も念を押してごめんね。これ、小鳩くんからの小粋な誕生日プレゼントってことは、ないよね?」

「ないってば。電車の中で聞くまでマカロンを食べに行くってことも知らなかったんだし、だいたい、今日が小佐内さんの誕生日だってことも知らなかったよ」

 小佐内さんはふるふるとかぶりを振った。

「違う。今日は誕生日じゃない」

 いや、誕生日って言い出したのはぼくじゃないよ。小佐内さんはなおも疑わしげな眼差しを向けてくる。

「でも、小鳩くんは油断ならないひとだから、どこかに推理の手がかりがあったのかもしれない」

「高く買ってくれるのは嬉しいけど、それほどじゃないよ」

めてはいないの……」

 そっかあ。

 それはさておき、ぼくはマカロンの中に入っている指輪を改めてよく見た。金色の指輪で、チョコレートの中にしっかり埋まっている。上から見る限りは宝石のたぐいは確認できなかった。安物のおもちゃなのか、それとも本当に金の指輪なのか、ぼくには鑑定ができない。ただ、高価なものかもしれない以上、話は少しけんのんになってきた。

「迂闊に動かなくてよかったね」

 頷きが返ってくる。極言すれば、マカロンだけなら増えても減ってもそれほど重大な問題ではなかった……小佐内さんの個人的な感情を別にすれば。しかし金の指輪となると、場合によっては刑事事件にも発展しかねない。誰かの思惑に乗せられたくないという小佐内さんの意地は、いい方向に転がった。

「これ、どうする?」

 小佐内さんは人差し指を立てた。

「店員さんに届ける」

 続いて、中指を伸ばす。

「警察に届ける」

 薬指も立てて、

「なにもせずに放っておく」

 最後に小指を伸ばした。

「ぽっけないない」

「それはだめだよ! 小市民的にだめ!」

「選択肢の話よ、あくまでも」

 しらっと言って、そっぽを向く。その小佐内さんの横顔に、どこからか反射した光が当たっている。目には入っていないので、小佐内さんは気づいていないようだけど。

「……どうするかを決めるには、どうしてわたしのお皿に指輪マカロンが置かれたのか、ある程度解き明かす必要があると思う」

「そうだね。まずは、マカロンのどころかな」

「うん」

 さっきまで、第四のマカロンがどこで作られたものなのかは、問題にしていなかった。マカロンを売るパティスリーでマカロンが増えたのだから、理由はともあれ、お店の商品が置かれたのだろうと考えていたからだ。ところが事情が変わった。

「これ、このお店で作られたマカロンかな。それとも、誰かが自分の家でつくって持ち込んだものかな」

 そう訊くと、小佐内さんはさっき剝がした焼き菓子を目の高さに掲げ、たかのような眼差しをそれに向ける。

「……ピエが綺麗に出てるし、その出方も特徴を押さえてる。大きさも揃ってるから、素人しろうとはもちろん論外だし、外部のパティシエが作ったものでもないと思う」

「ピエ?」

「マカロンの下側にある、泡だったメレンゲが焼き固められた部分のこと。素人が作るとなかなかできないし、お店によってピエの出し方には特徴があるの。この上向きのピエは、パティスリー・コギのほかのマカロンの特徴と一致してる」

 そう言って、実際にその場所をなぞってみせる。

 さいなことだけど、いちおう確認する。

「小佐内さんがいま持ってるのって、マカロンの皮というか、焼き菓子の部分だよね?」

 すると小佐内さんは、さっき快速電車の中で見せたようなひどくな顔になって焼き菓子をぼくに見せ、

「これこそがマカロンです」

 と言った。

「マカロン二枚でガナッシュなどのフィリングを挟んだ、こんにちわたしたちが目にしている所謂いわゆるマカロンは、正確には『マカロンを使ったお菓子』ということになります。通称はマカロン・パリジャン、この形を発明したのはかの有名な……」

「ガナシのフィーリング?」

「ガナッシュなどのフィリング。小鳩くん用に言い直すと、チョコレートなどの餡、です」

 説明ありがとうございます。

 いまの話をまとめると、

「この指輪入りマカロンを作ったのは、このお店の関係者と見て間違いないっていうことだね」

「うん。そもそも、コギはこのお店の名物だし」

 となると、ひとつ見落とせない可能性が出てくる。

「事故だったとは考えられないかな。指輪を着けたままマカロンを作って、うっかりチョコレート……ガナッシュ……フィリング? に落としちゃったってことは」

「ややこしいから、ガナッシュに統一しようね」

 そう前置きし、小佐内さんは少し考えた。

「指輪をつけたまま作業するパティシエも、いないことはない。わたしが知る限り、日本人パティシエでお菓子作ってる最中に指輪してるひとは見たことないけど、フランス人とかだと、そういうひともいた気がする。……ただ、ガナッシュは絞り袋から絞り出すものだと思う。万が一指輪が外れてガナッシュの中に落ちたとしても、袋の口金に引っかかっちゃうはず」

「事故の可能性は低いってこと?」

 頷きが返ってきた。

 だったら、やはりこの指輪は故意にマカロンに埋め込まれたことになる。いったい、そんなことをする理由がなにかあるだろうか。

 少なくともぼくには、ひとつしか思いつかなかった。

「じゃあ、なにか指輪を隠す理由があって、近くには作りかけのマカロンしかなかった……とか」

 泥棒が警察に追われて、捕まる直前に指輪をマカロンに隠しておいて、指輪なんか持っていませんよと堂々と身体検査を受ける、ぼくはそんな話を想像していた。ところが小佐内さんはまるで別のことを考えているらしく、返事もせずに、ピスタチオのマカロンに再度手を伸ばす。

「ごめんね、わたしのマカロン……」

 そんなことを呟きながら、マカロンを剝がそうとする。

 だけど意外にも、それは剝がれなかった。やがて焼き菓子の表面にヒビが入り、上部の薄皮一枚だけが剝がれたけれど、スポンジ状の部分はガナッシュに貼りついたままだ。

 無惨な姿になったマカロンにかなしげな視線を注ぎつつ、小佐内さんが呟く。

「やっぱり。ふつう、マカロンは剝がれないの」

「接着してるの?」

「ううん。二枚のマカロンでガナッシュを挟み込んだ後、冷蔵庫で丸一日寝かせるんだけど、そのあいだにガナッシュとマカロンがんでくっつくんだと思う。食べる前に常温に戻しても両者が離れることはなくって、傾けても転がしても、マカロンが剝がれちゃったことは一度もないの」

 転がしたことがあるんだ。いかにも転がりそうな形をしてるから、そうしたくなる気持ちはわかるけど。

「下のマカロンにガナッシュを絞って、そのまま寝かせてから上のマカロンを乗せれば、剝がれやすくなるはず。つまりこのマカロンは、わざわざこういうふうに作ってる」

 なぜ?

 決まっている!

 指輪を見つけやすく、また取り出しやすくするためだ。ふつうの製法で作ったマカロンに指輪を入れたら、ばらばらに分解しない限り取り出せなくなってしまう。……ということは。

 ぼくが想像した言葉を、小佐内さんが先取りした。

「つまりこのマカロンは、リングケースとして特別に作られたんだと思う」

 事故ではなく、いんとくに用いられたのでもなく、指輪を入れるためにマカロンを作った。理屈ではそうなる。

 でも、そんなことがあるのだろうか? 金属を食べ物に入れるなんて、異常な感じがするけど。釈然としないぼくの表情を読み取ったのか、小佐内さんは説明を加えてくれた。

「珍しいことじゃない。フランスではガレット・デ・ロアに陶器の人形とかを入れるし、イギリスではクリスマスプディングに指輪やゆびぬきを入れるし、アメリカではフォーチュンクッキーにおみくじが入ってる」

「ここはフランスじゃないよ」

「でも、フランス菓子店」

 まあたしかに、洋菓子の店に西洋の習慣が持ち込まれているからといって異を唱えるのも、おかしな話か。

 小佐内さんの説が正しいなら、誰かが誰かに指輪を贈ろうと考え、そのための入れ物としてマカロンを選んだということになるだろう。風変わりだけど、一面たしかにロマンティックでもある。指輪は高価なものだろうし、厄介事にならないうちに返してあげたいけど、その送り手って誰なんだろう。

「きっと、特注だったのね。誰かお客さんが指輪入りマカロンを注文して、その特注品が間違ってわたしのお皿にまぎれこんで……」

 途中まで言って、小佐内さんは言葉を吞み込んだ。店員さんの単純ミスとは考えにくい、という点を思い出したのだろう。そう、この指輪マカロンはまぎれこんだのではなく、何者かが意志をもって置いたのだ。

 それにもう一つ、小佐内さんが考えていない可能性がある。

「お客さんの注文とは限らないよ。……お店のひとの、プライベートなものかもしれない」

 マカロンはこの店の商品だけれど、全てのマカロンが商品である必要はない。この店のパティシエの誰かが私的に作り、私物の指輪を入れたのかもしれない。

 ひとつ頷いて、小佐内さんが訊く。

「それは考えなかった。小鳩くんは、どっちだと思う? 特注品か、私物か」

 ぼくは腕を組んだ。直感的にはこっち、というのはあるけれど、それを証明できるかどうか。紅茶に手を伸ばし、ひとくち飲む。少し冷めかけていた。

「……特注品だとすると、三つほど問題があると思うな」

「三つも?」

「うん」

 ティーカップを置く。なにかがきらりと光り、ぼくの目に当たった。なんだろうと思う間もなく光は消えたので、気にせずに言う。

「一つめ、指輪を預かる必要がある。高いものを預かるのはお店が嫌がるんじゃないかな、金庫があるわけでもないんだし」

 小佐内さんははっとした顔になった。

「うん、言われてみれば。お店はぜったい、そんなの預かりたがらないはず」

「二つめ、えんの可能性があるものを、いくら頼まれたとはいえ、作って売るかな? 小佐内さんがさっき言ってたガレット・デ……なんだっけ、あれのチラシはぼくも見たことがある。でも、陶器の人形は別添えだって書いてあった気がするよ」

「そうね。日本だと、そういうお店が多い」

「もともと日本にはない風習なんだから、人形が入っています! 飲み込まないで! といくら強調して書いたとしても、実際間違って飲み込んでしたり病気になったりしたひとがいたら、お店が責任問われるだろうからね。別添えにするのも無理ないなと思う。この指輪マカロンについても、同じことが言えるんじゃないか」

「わたしはそういうとき、お店の責任とは思わないけど……」

 そう呟いてから、小佐内さんは小さく頷く。

「言いたいことは、わかるの」

「で、三つめ。これは単純だね。このお店は、マカロンのテイクアウトは準備中だ。ほかのお客さんの手前、特注品だけは受けるっていうのはちょっと不公平かもね」

 これには積極的には賛成しないらしく、小佐内さんはなにも言わなかった。

 三つの問題点を挙げたけれど、実は話しているうちに、これらの問題は解決できるのではないかという気もしてきた。

「でも、どうかな。お店は剝がれやすいマカロンを作っただけで、指輪はお客さんが自分で仕込んだとしたら、一つめと二つめの問題点はクリアになるかもしれない」

 検討は振り出しに戻るかなと思っていたけれど、小佐内さんはあっさりと、

「あ、それはないと思う」

 と言った。

「指輪はガナッシュに深く沈み込んでいたし、ガナッシュにもマカロンにもひび割れはなかった。指輪は、まだガナッシュが柔らかい、作りたてのときに入れられたはず」

 それは気づかなかった。やっぱり二人だと観察が行き届く。

「それならやっぱり、指輪マカロンはお客さんの特注品じゃなくて、パティシエの私物だと言えそうだね。実は、特注品だったらどうやってキッチンから持ってきたんだろうと悩んでいたんだよ」

 なにしろこのパティスリー・コギ・アネックス・ルリコでは、喫茶スペースからキッチン内部が見渡せるようになっている。死角もないわけじゃないけれど、衆人環視の中で特注品を盗み出して小佐内さんの皿に置くのは至難のわざだと思っていた。

「私物なら、話はずっと簡単になる」

「うん」

 小佐内さんもすぐに理解したようだけど、自分の整理のために続ける。

「私物の指輪マカロンを、キッチンの業務用冷蔵庫に入れておくとは思えない。従業員控室の冷蔵庫に入れておいたんでしょうね」

 このお店のパティシエが指輪入りマカロンを従業員控室の冷蔵庫に保管していたが、何者かがそれを盗み出して、ぼくが大時計の時報に気を取られた隙に小佐内さんの小皿に置いた。まだ訳がわからないことも多いけれど、最初のこんとんとした状況に比べたら、だいぶ整理が進んできた。

「なぜ仕事場に指輪を持ってきたんだと思う?」

 そう訊くと、打てば響くような答えが返ってくる。

「渡す相手もこの店にいるから。家までの距離にもよるけど、勤務時間が終わってからいったん家に帰り、指輪を持ってまた職場に戻ってきて意中の相手に渡すのは難しかったんだと思う」

「そうだね。ぼくもそう思う」

 もちろん、鍵の掛からない従業員用冷蔵庫に指輪を置いておけば、盗まれるおそれがある。というか現に盗まれている。不用心ではあるけれど、持ち主はマカロンの中に指輪があることをまさか、見抜かれるとは思わなかったのだろう。

 小佐内さんは、既に手を洗っているのにマカロンに手を出そうとしない。推論を進めながらではなく、純粋に集中できる状態で食べたいのだろうということは、これまでの経験から察しがついた。ティーカップを持ち上げ、ゆっくりとカップに注いでいく。紅茶を一口含み、こくりと飲みくだすと、顔をしかめた。ふだんは砂糖をたっぷり入れるのに、入れ忘れたのだ。溜め息をついて言う。

「これで、誰がこのマカロンを作ったのかも、わかったね」

「えっ」

 わかるもなにも、いわゆる「容疑者」に当たるだろうこの店のパティシエについて、人数も名前も、ぼくはぜんぜん把握していない。この状態で正答を求めるのはあまりにもせつそく、というか不可能だ。それとも、ああそうか、小佐内さんは詳しいから、パティシエのリストも持っているのかもしれない。いやでも、おかしいな、今日初めて来たはずだし、だいたいリストがあったっていまの段階で言い切れることはなにひとつないはず……。

 混乱するぼくを見て、小佐内さんはげんそうに首を傾げる。

「どうしたの?」

「いや、あの……。ぼくの知らないひとかな、指輪マカロンを作ったのは」

「……さっき、講義したじゃない」

 かちりと硬質な音を立て、ティーカップがソーサーに置かれる。

「指輪が入っていたマカロンはコギ、パティスリー・コギの創始者、古城春臣の代名詞。指輪なんていう意味ありげなものを贈るのに、他人の名前を冠したお菓子なんて選ばない。当然、この指輪の贈り主は古城春臣よ。……考えてもみてよ、小鳩くん。それ以外のひとだったら、自分が勤める会社の社長の名前がついたマカロンで指輪を贈ることになる。そんなの、絶対にありえないでしょう」