パティスリー・コギ・アネックス・ルリコは、名古屋駅から南に歩いて十分ほどの場所に建っていた。駅前ほどではないけれど商業ビルが建ち並ぶ地域で、十字路に面したビルの一階に入っている。壁はれん、あるいは煉瓦っぽい質感のタイルでできていて、青々としたつたが伸びている。白い両開きのドアの脇にしんちゆうっぽい質感の看板が埋め込まれ、アルファベットが並んでいるが、見慣れない単語なので目がすべる。まあ、店名が書かれているのだろう。

 ひさしの下にイーゼルが置かれていて、黒板が立てかけられている。「ご来店ありがとうございます。テイクアウトはただいま準備中です。九月二十日から販売開始いたします」と書かれているので、小佐内さんが四つめのマカロンを買って帰れないのは何か深刻な理由のせいではなく、単にお店の用意ができていないかららしい。

 駅前からは少し離れるけれどさかえにぎわいにはまだ少し遠いという、あまり良くない立地に思えたけれど、五時前のこの時間帯でも店内は大いに賑わっていた。甘い香りが漂う店内は天井が高く広々としていて、床面積もかなりありそうだけれど、大きなショーケースがL字型に鎮座して場所を取っているためか、テーブルの数は多くなかった。二人掛けのテーブルを、必要に応じてくっつけて使うようだ。黒く、ポケットのないエプロンをつけた店員さんが近づいてくる。

「いらっしゃいませ。何名様ですか」

 小佐内さんの目がショーケースに釘付けなので、返事はぼくがする。

「二人です」

「お二人様ですね」

 店員さんの胸にはネームプレートがついていて、えきという名前があるほかに、赤い字で研修中と書かれている。オープンしたばかりだそうなので、店員さんも経験が浅いのは当然のことだろう。

 その店員さんは、ただ一つだけ空いているテーブルを手で示した。

「あちらの窓際の席をお使いください。先にご注文をどうぞ」

 どうやら、まず注文する方式らしい。ぼくたちはショーケースに向かい、ぼくたちが使うことになるテーブルには、店員さんが「6」と書かれた札を置いていった。使用中のしるしなのだろう。

 小佐内さんがマカロンと言ったからマカロン専門店なのかと思っていたけれど、ショーケースにはさまざまなケーキが並んでいる。ぼくでも知っているフレジエやオペラ、モンブランのほか、ちょっと見ただけでは名前をおぼえられないようなケーキも多い。マカロンはショーケースの三分の一ほどを占めていた。パステルカラーのものがあり、原色に近いものがあり、マーブル模様のものがあった。ちらりと見ると、小佐内さんは力が抜けたふにゃふにゃの笑顔でマカロンの列を見つめている。

 咳払いすると、小佐内さんはきっと眉根に力を込めた。

「注文するのはさっきも言った通り、ティー&マカロンセット。小鳩くんには、パーシモンのマカロンをお願いしてほしいの。残り二つは好きなものを頼んでね」

「はい」

 ショーケースに並ぶマカロンを眺め、こちらもネームプレートに研修中の文字が入った店員さんに注文する。

「ティー&マカロンセットで、マカロンはパーシモンと、バナーヌと、カカオでお願いします」

 お席でお待ちください、と言われたのでテーブルに向かう。

 ぼくたちが通されたのは窓際の席だった。壁面全体が窓になっていて、四車線道路に面している。道路の向こうには大時計を備えたビルが建っていて、時計の針は五時ちょっと前を指していた。座り心地のいい椅子に身を沈め、ぼくは小さく息をつく。まさか学校帰りに名古屋でマカロンを食べることになるとは思わなかった。小佐内さんといっしょにいると、いろんなことがある。

 ぼくたちが入店したことで店は満席になった。目で数えると、席数は十二席だ。小佐内さんの話を聞く限りわりと若者向けの店なのかと思っていたけれど、実際の客層は幅広い。二人連れが多いが、いちばん賑やかなテーブルは六人連れで、一人客もちらほらといる。マカロンを口に入れるや否や幸せそうにそうごうを崩した女性や、左手で携帯電話をいじりながら右手でスプーンを操り猛然とモンブランを崩していくスーツ姿の女性がいる一方、甘いものはそっちのけというていでコンパクトを開いて髪をいじる制服姿の女子なんていうのもいた。

 そして、客はほとんどが女性だ。男性はぼくを含めて二人しかいない。そのもう一人の男性はスーツを着込んで眼鏡をかけ、薄いノートパソコンを広げていた。この甘い香り漂う店内で、仕事でもしているのだとしたらなかなか度胸がある。もしかしたら、食べたものの情報をその場でパソコンにまとめている、筋金入りの甘いもの好きかもしれないけれど。

 落ち着いて店内を見渡すと、しつらえはモノトーンを基調にしていて飾り気がなく、どことなくメルヘンチックな外装に対して、内装はシックな感じがした。ショーケースの向こうはガラス壁になっていて、キッチンの一部を見ることができる。コックコートにコック帽という恰好の男性が、なにやら生地を伸ばしているところが見えた。もしかしたらあの男性は、客に見せるため一日中特に意味なく生地を伸ばし続けているのかもしれない。

 入口の反対側の壁に、白いドアが二つある。一方はトイレで、もう一方は「STAFF ONLY」とあるので従業員スペースに通じているのだろう。

 小佐内さんは、ずっとショーケースの前にたたずんでいる。ちょっとおかしな気がする、小佐内さんは事前に注文するものを決めていたはずだ。それなのに、いったいなにを悩んでいるのだろう。なにかあったのかと腰を浮かしかけたけれど、ちょうどそのタイミングで小佐内さんが店員さんに話しかけた。ようやく決まったらしい。

 やって来た小佐内さんは妙に深刻な顔をしていた。どこかぼんやりとしてうつむき加減で、人生の岐路に思い悩むあまり、もうどうしていいのかわからなくなったとでもいうようだ。

「どうかしたの」

 思わずそう声を掛けると、力ない微笑ほほえみが返ってきた。

「ちょっと」

 椅子に腰かけると、小佐内さんはゆっくりと首をめぐらせ、さっきぼくがしたように店内を見まわし、ふと眉をくもらせた。なにかを見つけたらしいけれど、小佐内さんを不安がらせるようなものをぼくは見つけていない。見落としがあったかと思うと不安になって、もう一度視線を走らせる。

 目の高さや向きなどから考えると、小佐内さんの表情を変えさせたなにかは内装などではなく、ほかのお客さんだっただろう。たとえばいちばん近くのテーブルでは、初老の女性が三人でテーブルを囲んで談笑している。あのグループもマカロンと紅茶のセットを頼んだようで、各人の前にはティーポットとティーカップとティースプーン、砂糖が入っているのだろう小さな壺、ミルクピッチャー、そして色とりどりのマカロンを乗せた小皿が置かれていた。なにもおかしなところはないようだけど……いや、本当にそうかな?

「やっぱり、ない」

 小佐内さんの呟きが、ヒントになった。そうだ、あの三人組のテーブルには、あるべきものがないのだ。ヒントをもらうまでわからなかったことに一抹の悔しさを覚えつつ、ぼくは言った。

「うん。手を拭くものがないね」

 小佐内さんは無言で小さく頷いた。

 おしぼりも、ウェットティッシュも、ナプキンも見当たらない。

「お店の人が忘れたのかな」

 ぼくの言葉に、小佐内さんは首を小さく横に振った。

「そういうお店も、多いの。高級だったり、高級そうに見せたいお店ほど、おしぼりは出さない。おしぼりが出るのは日本的すぎるから、本場っぽい雰囲気を作るためなんだって」

 ううん。

「本場っぽい雰囲気かあ……」

 そういう理由があるならやむを得ないのかなあと思うぼくをよそに、小佐内さんはきっぱりと言い放つ。

「わたしは、そこは和風が好き」

 飲み物やケーキだけならともかく、マカロンは手でつまむものだから気になるのもわかる。小佐内さんはすっくと席を立った。

「手を洗ってくるね」

「うん。ぼくも洗うから、順番に行こう。荷物見てるね」

「お願い」

 ところが手洗いには先客がいるらしく、小佐内さんはドアに正対して直立不動になった。背すじが伸びていて美しい立ち姿というべきかもしれないが、なにしろ小佐内さんなので小さな子が慣れない店でしゃちほこ張っているように見えてしまうのがちょっと気の毒だ。

 研修中の名札をつけた店員さんがやって来て、トレイを片手に頭を下げる。

「お待たせいたしました。ティー&マカロンセットです」

 小佐内さんの席には荷物が残っているので二人客だということはわかったはずだけど、店員さんは迷わずぼくの前にティーセットを並べ、マカロンを乗せた小皿を少し回転させてからテーブルに置く。

 マカロンという名前はもちろん知っているし写真で見たこともあるけれど、間近で見るのは初めてだった。小佐内さんに知られたらどんな言葉が返ってくるかと思うと恐ろしいけれど、ぼくが見た写真ではたいてい大写しになっていてサイズ感がわからなかったせいもあって、マカロンと言えばカラフルなハンバーガーみたいなものという印象を持っていた。平たい半球状の焼き菓子ふたつであんを挟んでいる形そのものはたしかにハンバーガーに似ていなくもないけれど、こうして実物を前にすると、大きさがぜんぜん違っている。三つは無理だけど、二つぐらいなら手のひらにも乗りそうだ。

 赤みの強いオレンジ色のものが、パーシモンだろう。鮮やかな黄色がバナーヌ、焦げ茶色のものがカカオのようだ。三つのマカロンは、ぼくからみて逆三角形に並べられている。手前がパーシモン、奥にバナーヌとカカオが並ぶ形だ。パーシモンのマカロンは、餡に柿を使っているのではなく、外側の焼き菓子に練り込んでいるのだろうか。あるいは餡と焼き菓子、両方に柿が入っているのかもしれない。

 さわってみたいけれど、やはり手を洗う前はためらわれる。まずは紅茶をカップに注ぐ。高いところから注いでみようかなと腕を持ち上げたところで、ふたたび店員さんが近づいてきた。

「お待たせいたしました」

 今度は小佐内さんのセットを並べていく。小皿を少しまわしてから、ゆっくりとテーブルに置いていく。甘いものが目の前にことりと置かれるその瞬間は、甘いものの愛好家にとって胸躍るものだろうに、残念なことに小佐内さんは席を外している。ちらりとお手洗いの方を見ると、いつのまにかドアの前は無人になっていた。店員さんが引き返していき、ショーケースの向こうにまわるのが見えた。

 カップを紅茶で満たした。砂糖を入れたいけれど、マカロンの甘さがどれぐらいなのか想像できないので、一口食べてから判断しよう。ぼくは甘いものがそれほど好きというわけではないけれど、やはり少し高揚を覚える。あの小佐内さんがあれほど楽しみにしているパティスリー・コギのマカロンとは、さて、いかなる味なのだろう?

 そのとき、突然音楽が鳴り響いた。

 金管楽器のかんだかい音だ。このメロディーは……「おお牧場はみどり」だ。何事かと思って後ろを振り返ると、窓ガラスの外、道路を挟んだ向かいのビルの壁面で、大時計を飾る人形たちが動き出している。時計の針は五時を指していた。ノームのように白髭を生やした人形たちが、機械仕掛けのかんまんな動きでまきおのを振り下ろしている。道路と窓をへだててなお、その音量はちょっと驚くほど大きい。けれど少し落ち着いてまわりを見れば、ほかにその音に驚いている客はいないので、どうやらこのあたりではおなじみの時報らしい。

 異状が起きたのではないとわかって、一抹の恥ずかしさが入り交じった安心感と共に正面へと向き直る。お手洗いのドアが開いて、小佐内さんが出てくるのが見えた。ぼくが時計の音に驚いたところは、たぶんタイミング的に見られていないはずだ。

 小佐内さんは、内側から湧き上がる期待と喜びを抑えきれないといったふうで、笑みを無理にこらえるせいかくちもとがひくついている。戻って来たら入れ替わりに手を洗いに行こうと思って、少し待つ。

 ところが、テーブルまであと一歩というところで、小佐内さんは足を止めた。じっとテーブルの上を見て、それからぼくを見て、またテーブルの上を見る。

「これ、小鳩くん?」

 なんのことかわからず、小佐内さんの視線の先を追う。テーブルには、ぼくと同じティー&マカロンセットの品々が並んでいる。ティーポット、ティーカップ、ティースプーン、砂糖壺、ミルクピッチャー、マカロンを乗せた小皿……。

「あれ?」

 マカロンが、ぼくのものとは違っている。緑のマカロン、茶色のマカロン、黄色に白のマーブル模様のマカロン、桃色と白のツートンカラーのマカロン、もちろんフレーバーは違うけれど、そうじゃなくて。

「四つあるね」

「四つあるの」

「頼んだのは?」

「三つ」

「ここには?」

「四つあるの」

 ……おやまあ。