二学期が始まって少し経ち、昼はまだまだ汗ばむけれど朝夕の風はどうかすると冷たいぐらいで、ときどきは秋らしいうろこ雲も見かけるようになった九月半ばのある日の放課後、ぼくは頭の中に疑問符をいっぱいに浮かべながら、名古屋に向かう電車に揺られていた。

 ぼくが住む市から名古屋までは、快速電車に乗れば二十分とかからない。充分に行動範囲内ではあるけれど、実のところこれまで新幹線に乗るため以外の理由で名古屋に行ったことはなかった。それがこうして午後の街並みを眺めながらかの街に向かっているのは、ほかでもない、ないさんに連れてこられたからだ。

 高校一年の夏休みも終わりに近い頃、とある理由で、帰宅が大幅に遅れたことが何日かあった。その理由を問い詰められたぼくは、危ういときにはお互いを言い訳に使うという小佐内さんとの約束に頼り、遅くなったのは文化祭の準備のためだと説明してもらった。ぼくはそれできゆうを脱したので、けい関係に従って次はぼくが小佐内さんの役に立つ番というわけだ。窓ふきでも草むしりでもやるつもりでいたけれど、小佐内さんが望んだのは、

「こんどの金曜日、いっしょに名古屋に行って」

 ということだった。

 木良市から名古屋に向かう快速の車内には、二人がけの座席が向かい合わせに設置されている。帰宅ラッシュの時刻にはまだ少し早いのに、すれ違ったときに見た下り線の車内は既にぎゅうぎゅう詰めだった一方、上り線はがらがらにいているので、ぼくたちは二人で四人分の座席を使っていた。小佐内さんはももの上に雑誌を広げ、顔にはさしたる表情も表われていないけれど、足をぶらぶらと振り続けているのがやけに楽しそうだ。いていいのかわからないままここまで来てしまったけれど、時刻表によればあと十分で名古屋に着くいま、やはり尋ねておいた方がいいだろう。果たしてぼくはなんのために名古屋に連れていかれるのか?

「ねえ、小佐内さん」

 足の動きをぴたりと止めて、小佐内さんは顔を上げる。

「なあに」

「助けてもらったお礼だから、お望み通りにするけどさ。ええと、もしよかったらでいいんだけど、聞かせてもらえないかな」

 きょとんとした顔で小首をかしげ、

「なにを?」

 と訊かれた。小佐内さんがこれだけぬけぬけした態度を取るからには、もしかしてぼくは、すでに今日の目的を推測するに足るだけの情報を与えられているのだろうか。だとしたら答えを聞くのはまだ早い、まずは手がかりを整理しないと。

 などと考え始めたぼくをよそに、小佐内さんは「あっ」とつぶやくと、ようやく納得がいったようにうなずいた。

「そっか。なにするのか言ってなかった」

「あ、教えてくれるんだ」

「わたしたちはこれから、新しくオープンしたお店、パティスリー・コギ・アネックス・ルリコに行って新作マカロンを食べます」

 うん、まあ、そんなことだろうとは思っていたけど、それでもやっぱり問題は残る。

「なんでぼくを連れていくの?」

「秋の限定フレーバーは四種類あるけど、この雑誌によれば」

 腿の上の雑誌をぴたぴたと叩き、小佐内さんはおそろしく真剣な目で言った。

「ティー&マカロンセットで選べるマカロンは三種類だけだから」

 つまり残りの一種類をぼくに注文しろ、と。それもまあ、そんなことだろうと思っていた。となれば残る疑問は一つ、

「持ち帰りはできないの?」

 そう問うと小佐内さんは哀しみに満ちた笑みを浮かべ、しやそうから彼方かなたの地平を見つめる。

「それができれば……苦労はしないの……」

 その横顔は、さながら運命に耐える殉教者のようだ。


「さて、わたしはいまから講義をします」

 興が乗ってきたのか、小佐内さんは出し抜けにそんなことを言い出した。

 電車は途中の停車駅を出発し、次が名古屋というところ。小佐内さんは座席に座り直して背すじを伸ばし、おまけに咳払いをした。

はるおみというパティシエがいます。彼は中学を卒業するとすぐフランスに渡り、有名パティスリーで十年にわたり修業を積みました。その有名パティスリーの店名ですが、フランス語なのでわたしには読めません。カタカナで書いてくれてもよかったのにと思います。帰国後は主に名古屋市内のホテルで働いていましたが、三十歳の時、家族を名古屋に置いたまま、自分の店パティスリー・コギを東京の自由が丘に開きました」

「単身赴任ってこと?」

 小佐内さんは、話の腰を折られてちょっとくちびるをとがらせた。

「自営業は赴任って言わないと思う」

 誰かに任じられて行く訳じゃないんだから、そうか。

「じゃあ、なんて呼べばいいんだろう」

「出稼ぎ……かな?」

「ちょっと違うような」

「そんなことはどうでもいいの」

 ぴしゃりと言われてしまった。

「月刊マカロナージュのインタビューによれば、古城春臣はこの東京出店について……」

 言いながら、小佐内さんは学生かばんからクリアファイルを出した。雑誌の切り抜きをたばにして挟んでいるようで、そのうちの一枚を選んで抜き取り、目の前にかかげて読み上げる。

「『より大きな世界で力を試したかった。一番高いハードルを跳べれば、ほかのことは怖くなくなる』と語っています」

「積極的な人なんだね」

「ちなみになかなかの美男です」

 切り抜きをくるりとこちらに向ける。コックコートを着て腕を組み、快活に笑うカラー写真の男は、ぱっと見ただけの印象では無骨そうながら、言われてみれば整った顔立ちをしている。三十歳というところだろうか。顔つきといい立ち姿といい自信に溢れているけれど、胸に下げている銀色のネックレスは、ちょっと似合っていない気がする。組んだ腕から伸びる指は細く、飾り気はなく、爪もさすがに短く整えられていた。

 もちろんぼくは、古城春臣の写真やインタビューよりも、そんなものを小佐内さんが持ち歩いていたことの方に深い感銘を受けていた。ぼくに見せるためとは思えないので、自分が勉強するためなのだろう。放課後に甘いもののお店に行くからといって、雑誌の記事を切り抜いて持っていこうという発想そのものが、ぼくの想像の外にある。

 感心とぜんの合間にあるぼくの微妙な感情は気にもかけず、小佐内さんは次の記事をクリアファイルから抜き出す。

「パティスリー・コギはイートインを重視する作戦で成功し、評判になりました。古城は新宿と日本橋のデパートの催事に招かれて出店し、そのどちらも好評を博した後、三年後には代官山に二号店を構えるに至ります。これがパティスリー・コギ・代官山です。このお店もはんじようし、激戦区でのお店を連続で成功させたことで、古城春臣の名は不動のものとなります。この頃から古城はくちひげを生やし始めます。ちょっとむさいです」

 と言いながら、今度も切り抜きをぼくに見せる。今度はキッチンでに向かうところを撮った写真だ。黒々とした口髭はインパクトが強く、むさいという小佐内さんの意見もよくわかる一方、成功者の威厳みたいなものが出ていてぼくはそんなに嫌いではなかった。身につけているものはさっきの記事とまるで変わっていないようだけれど、貫禄が出てきたせいなのか、今度はネックレスも浮いては見えない。ちらりと見た記事では、休日は何をしているのかと訊かれ、「ほとんどは名古屋に帰って、妻と娘に会っています。家族から力をもらうからこそ、次の日からまた仕事に集中できるんです」と語っている。ずいぶんたいへんそうな生活だけど、新幹線一本で行き来できるだけましなのかもしれない。

「そして今年の一月、とうとう名古屋出店が発表されました。それが今日これから行く、パティスリー・コギ・アネックス・ルリコで、古城春臣にとっては故郷に錦を飾るということになります。なにより大事なのは、もちろん……」

 新しい記事を出しながら、小佐内さんは力強く言った。

「名古屋だったら、わたしも放課後に行ける、という点なのです」

 小佐内さんが手渡してきた三枚目の記事では、少し頰がこけた古城春臣が、ちょっと不敵な感じで笑っている。今度もコックコートだけど、年齢が上がって趣味が変わったのか、ネックレスはしていなかった。その記事をざっと見て、「名古屋の新しい店は東京の店とは違う方向性を目指したい。パティスリー・コギらしさというのを作り上げることは大事だが、同じことを繰り返しても進歩がない。女性的な感性を活かした店にしたいと思っていて、店名もパティスリー・コギ・アネックス・ルリコに決めている」という記述を見つける。

「女性的な感性を活かした店にするって書いてあるね」

「うん」

「どんな店なんだろう」

 小佐内さんは、ちょっとつまらなそうな顔をした。

「わかんない」

「曲線を生かしているとか?」

「曲線でできてない生き物がいたら、びっくりすると思う。……でもたしかに、アールヌーボー的な感じっていう意味なのかも。ごめんね、ちゃんとした返事ができなくって。いまのわたしにとってお店の雰囲気って、大切ではあるけど二番目以下なの」

 マカロンが一番なんだね。

 ぼくは記事を見ながら、古城春臣氏の言わんとすることを推察する。

「……とにかく、だから店名にアネックス・ルリコってつけたのか。つまりこのルリコさんは具体的な人間の名前じゃなくて、女性的な雰囲気を出すための、一種のイメージってことなんだね」

 なかなか洒落しやれていると感心していたら、小佐内さんがちょっと哀れむような顔で、

「店長さんがさかっていうの」

 と言った。

「あ、そうなんだ」

「いろいろ忙しくなった古城春臣に代わって実質的に自由が丘店の店長を務めていて、国内のコンクールでの優勝実績もある実力派、パティスリー・コギの切り札が、田坂瑠璃子さんです。……ごめんねばとくん、今日は彼女の資料は持ってきてないの。小鳩くんがそんなに興味を持ってくれるとは思わなかったから」

「いや、それはいいんだ」

「月曜日には持っていくから、それでいい?」

「いや、いいんだ」

「明日でもいいよ」

「いいんだ小佐内さん、ありがとう。気持ちがうれしいよ」

 快速電車が速度をゆるめていく。アナウンスがのんびりした声で、名古屋駅への到着を告げた。