1
二学期が始まって少し経ち、昼はまだまだ汗ばむけれど朝夕の風はどうかすると冷たいぐらいで、ときどきは秋らしいうろこ雲も見かけるようになった九月半ばのある日の放課後、ぼくは頭の中に疑問符をいっぱいに浮かべながら、名古屋に向かう電車に揺られていた。
ぼくが住む
高校一年の夏休みも終わりに近い頃、とある理由で、帰宅が大幅に遅れたことが何日かあった。その理由を問い詰められたぼくは、危ういときにはお互いを言い訳に使うという小佐内さんとの約束に頼り、遅くなったのは文化祭の準備のためだと説明してもらった。ぼくはそれで
「こんどの金曜日、いっしょに名古屋に行って」
ということだった。
木良市から名古屋に向かう快速の車内には、二人がけの座席が向かい合わせに設置されている。帰宅ラッシュの時刻にはまだ少し早いのに、すれ違ったときに見た下り線の車内は既にぎゅうぎゅう詰めだった一方、上り線はがらがらに
「ねえ、小佐内さん」
足の動きをぴたりと止めて、小佐内さんは顔を上げる。
「なあに」
「助けてもらったお礼だから、お望み通りにするけどさ。ええと、もしよかったらでいいんだけど、聞かせてもらえないかな」
きょとんとした顔で小首を
「なにを?」
と訊かれた。小佐内さんがこれだけぬけぬけした態度を取るからには、もしかしてぼくは、すでに今日の目的を推測するに足るだけの情報を与えられているのだろうか。だとしたら答えを聞くのはまだ早い、まずは手がかりを整理しないと。
などと考え始めたぼくをよそに、小佐内さんは「あっ」と
「そっか。なにするのか言ってなかった」
「あ、教えてくれるんだ」
「わたしたちはこれから、新しくオープンしたお店、パティスリー・コギ・アネックス・ルリコに行って新作マカロンを食べます」
うん、まあ、そんなことだろうとは思っていたけど、それでもやっぱり問題は残る。
「なんでぼくを連れていくの?」
「秋の限定フレーバーは四種類あるけど、この雑誌によれば」
腿の上の雑誌をぴたぴたと叩き、小佐内さんはおそろしく真剣な目で言った。
「ティー&マカロンセットで選べるマカロンは三種類だけだから」
つまり残りの一種類をぼくに注文しろ、と。それもまあ、そんなことだろうと思っていた。となれば残る疑問は一つ、
「持ち帰りはできないの?」
そう問うと小佐内さんは哀しみに満ちた笑みを浮かべ、
「それができれば……苦労はしないの……」
その横顔は、さながら運命に耐える殉教者のようだ。
「さて、わたしはいまから講義をします」
興が乗ってきたのか、小佐内さんは出し抜けにそんなことを言い出した。
電車は途中の停車駅を出発し、次が名古屋というところ。小佐内さんは座席に座り直して背すじを伸ばし、おまけに咳払いをした。
「
「単身赴任ってこと?」
小佐内さんは、話の腰を折られてちょっとくちびるを
「自営業は赴任って言わないと思う」
誰かに任じられて行く訳じゃないんだから、そうか。
「じゃあ、なんて呼べばいいんだろう」
「出稼ぎ……かな?」
「ちょっと違うような」
「そんなことはどうでもいいの」
ぴしゃりと言われてしまった。
「月刊マカロナージュのインタビューによれば、古城春臣はこの東京出店について……」
言いながら、小佐内さんは学生
「『より大きな世界で力を試したかった。一番高いハードルを跳べれば、ほかのことは怖くなくなる』と語っています」
「積極的な人なんだね」
「ちなみになかなかの美男です」
切り抜きをくるりとこちらに向ける。コックコートを着て腕を組み、快活に笑うカラー写真の男は、ぱっと見ただけの印象では無骨そうながら、言われてみれば整った顔立ちをしている。三十歳というところだろうか。顔つきといい立ち姿といい自信に溢れているけれど、胸に下げている銀色のネックレスは、ちょっと似合っていない気がする。組んだ腕から伸びる指は細く、飾り気はなく、爪もさすがに短く整えられていた。
もちろんぼくは、古城春臣の写真やインタビューよりも、そんなものを小佐内さんが持ち歩いていたことの方に深い感銘を受けていた。ぼくに見せるためとは思えないので、自分が勉強するためなのだろう。放課後に甘いもののお店に行くからといって、雑誌の記事を切り抜いて持っていこうという発想そのものが、ぼくの想像の外にある。
感心と
「パティスリー・コギはイートインを重視する作戦で成功し、評判になりました。古城は新宿と日本橋のデパートの催事に招かれて出店し、そのどちらも好評を博した後、三年後には代官山に二号店を構えるに至ります。これがパティスリー・コギ・代官山です。このお店も
と言いながら、今度も切り抜きをぼくに見せる。今度はキッチンで
「そして今年の一月、とうとう名古屋出店が発表されました。それが今日これから行く、パティスリー・コギ・アネックス・ルリコで、古城春臣にとっては故郷に錦を飾るということになります。なにより大事なのは、もちろん……」
新しい記事を出しながら、小佐内さんは力強く言った。
「名古屋だったら、わたしも放課後に行ける、という点なのです」
小佐内さんが手渡してきた三枚目の記事では、少し頰がこけた古城春臣が、ちょっと不敵な感じで笑っている。今度もコックコートだけど、年齢が上がって趣味が変わったのか、ネックレスはしていなかった。その記事をざっと見て、「名古屋の新しい店は東京の店とは違う方向性を目指したい。パティスリー・コギらしさというのを作り上げることは大事だが、同じことを繰り返しても進歩がない。女性的な感性を活かした店にしたいと思っていて、店名もパティスリー・コギ・アネックス・ルリコに決めている」という記述を見つける。
「女性的な感性を活かした店にするって書いてあるね」
「うん」
「どんな店なんだろう」
小佐内さんは、ちょっとつまらなそうな顔をした。
「わかんない」
「曲線を生かしているとか?」
「曲線でできてない生き物がいたら、びっくりすると思う。……でもたしかに、アールヌーボー的な感じっていう意味なのかも。ごめんね、ちゃんとした返事ができなくって。いまのわたしにとってお店の雰囲気って、大切ではあるけど二番目以下なの」
マカロンが一番なんだね。
ぼくは記事を見ながら、古城春臣氏の言わんとすることを推察する。
「……とにかく、だから店名にアネックス・ルリコってつけたのか。つまりこのルリコさんは具体的な人間の名前じゃなくて、女性的な雰囲気を出すための、一種のイメージってことなんだね」
なかなか
「店長さんが
と言った。
「あ、そうなんだ」
「いろいろ忙しくなった古城春臣に代わって実質的に自由が丘店の店長を務めていて、国内のコンクールでの優勝実績もある実力派、パティスリー・コギの切り札が、田坂瑠璃子さんです。……ごめんね
「いや、それはいいんだ」
「月曜日には持っていくから、それでいい?」
「いや、いいんだ」
「明日でもいいよ」
「いいんだ小佐内さん、ありがとう。気持ちが
快速電車が速度を