6
シェリーこと、宮野志保が拘束されたのは、薄暗くて狭いガス室だった。
閉じ込められて、どのくらい経っただろう。壁に左手首を手錠で繋がれた志保は、手錠を外そうと腕を激しく揺さぶったが、手首が傷つくだけで手錠は外れない。
志保は肩で息をしながら、右手を床についてうなだれた。
どうせ手錠が外れたところで、鍵がかかったこの部屋からは出られない。出られるのは、私の処分が決まったときだ。出られたとしても、きっとすぐに殺されるだろうが……。
志保は隠し持っていた赤と白のカプセルを、目の前に掲げた。
どうせ殺されるなら、自分が作った薬で死ぬ方がマシだ──。
意を決した志保は、カプセルを口に入れて飲み込んだ。
これで死ねる──そう思った瞬間。
ドクン──!!
心臓が大きく脈を打って、志保の目がカッと見開いた。
「んああああああ──ッ!!」
強烈な衝撃が体中を駆け回った。体が燃えるように熱い──!!
身をよじらせその場に崩れ落ちる志保の体から、白い煙が立ち上った。さらに手錠からぶら下がった左手がピクピクと痙攣したかと思うと、徐々に縮んでいき、手錠の輪をするりと抜け落ちる。
白衣の下で体が小さくなっていた志保は、意識をもうろうとさせながら床を這いずり、小さなダストシュートの取っ手に手をかけた。力を込めて引っ張ると、扉が開いた。投入口は子供一人がギリギリ入れる大きさだ。志保はそのトンネルのような穴に身を投じた。
ゴミ捨て場に落ちた志保は建物から出て、大きくなった白衣を引きずりながら雨の中を必死に走った。
生まれてすぐに両親を事故で亡くし、たった一人の姉を組織に殺されてしまった志保に、どこにも行くあてはなかった。必死に走る中で浮かんだのは、自分と同じく幼児化した可能性が高い、工藤新一だった。おそらく同じ状況に陥ったであろう彼なら、きっと志保のことを理解してくれるだろう。
志保は、以前調査で訪れたことのある工藤邸の前に来ていた。ずぶ濡れになりながら、門を見上げる。すると、雨音に混じって近づいてくる足音が聞こえた。驚いて横を振り向くと、傘を差した白衣姿の小太りの男──阿笠博士が立っていた。
「あ、あの……」
志保が声をかけると、無表情で立っている阿笠博士の体がゆらりと揺れて、その場にドサリと崩れ落ちた。
「えっ……!?」
志保は思わず口に手を当てて、後ずさりした。そのとたん、後頭部にコツンと何かが当たる。
「!!」
その硬く冷たい感触に、全身の毛がぶわりと逆立った。振り返らなくてもわかる。銃口を突き付けられているのだ。
「会いたかったぜ、シェリー」
志保は後ろを振り返った。煙草をくわえたジンが、小さくなった志保に銃を向けている。
パァンと乾いた銃声が頭の中で響いて、灰原は目を覚ました。
天井が目に飛び込んできて、灰原は乱れた呼吸を整えながら左腕を持ち上げた。体が自由に動くのを確認して、撃たれたのは夢だったとようやく気づく。すると、
「よかった……」
若い女性の顔がいきなり視界に飛び込んできた。メガネをかけた灰原はすばやく起き上がり、壁際に後ずさる。
「だ、誰!?」
「……怖かったよね」
女性は灰原の反応に驚きながらも、優しく微笑みかけた。その顔に、灰原は見覚えがあった。ビートルの中で見ていたニュース番組に出ていた女性──直美だ。
「あなた、エンジニアの……」
「え? なんて?」
両手を後ろ手に縛られた直美は、身を乗り出した。
「……いえ。ここはどこ?」
灰原は周りを見回した。そこは二段ベッドが二つ並んだ狭い部屋で、灰原は下段のベッドに寝かされていたらしい。
「多分、潜水艦だと思うんだけど、私もわからなくて……」
直美も部屋を見回す。そのとき、灰原は足の下に何か硬いものがあるのに気づいた。そっと足をどけると──探偵バッジが置いてある。
「誰が……」
手に取った探偵バッジを怪訝そうに見ていると、身を乗り出した直美が灰原の顔をじっと見つめた。
「……何?」
「あなた、本当に似てる。志保に」
「えっ?」
突然、直美の口から自分の名前が出てきて、灰原は驚いた。
「や、志保はもう大人だから、志保の小さいときにってことね」
「……へぇ、そうなんだ」
灰原は混乱しつつも相槌を打ち、ベッドから下りた。するといきなりドアが開いて、ウォッカとキールが入ってきた。ベッドのそばで立っている灰原を見て、
「おいっ、なんだ! 縛ってねーじゃねぇか!」
ウォッカが背後のキールに顔を向ける。
「こんな子供に必要ないわ」
「念には念をだ」
ウォッカは二段ベッドの上段にあったロープを手に取った。ベッドの端へ後ずさった灰原は震えていた。冷や汗が頬を伝う。
「貸して。私がやるわ。あなたはこれを確認したいんでしょ」
キールは持っていたタブレットをウォッカに渡すと、受け取ったロープを広げながら灰原に近づいた。
「足からね」
灰原の前でしゃがみ込み、ベッドから下ろした灰原の足をロープで縛っていく。灰原はさりげなく髪に手をやると、メガネのつるの先端についた盗聴器を外し、キールのパーカーのフードに入れた。
一瞬、ロープを縛るキールの手が止まる。が、すぐに体を起こして、灰原の体を後ろに向けた。
「腕を…」
両足を縛られた灰原はベッドに膝をつき、両腕を後ろに回した。背中で両手首を立てて十字に組む。キールは灰原の手首を一瞥して、手際よくロープを巻いていった。
「しっかし、信じられねぇな」
ウォッカの声に、灰原はピクリと肩を上げた。ウォッカは持っていたタブレットを顔の横に掲げて、ニヤリと笑った。
「お前、シェリーなんだろ?」
タブレットには、シェリーと灰原哀の画像が並んだ老若認証システムの結果画面が表示されていた。
灰原が無言を貫くと、ウォッカはフンと鼻を鳴らし、直美に近づいた。
「おい。このガキがこの女ってことだな?」
「これって……」
タブレットの画面を見せられた直美は、自分の首元を見た。ネックレスがなくなっている。
答えてはいけないと直感した直美は、画面から目をそらした。ウォッカがチッと舌打ちする。
「まぁいい。黙っていられるのも今のうちだ」
捨て台詞を吐いて、部屋を出て行く。キールもロープをベッドの上段に置いて、後に続いた。
「生かしたままラムに会わせるしかないわね」
「ジンの兄貴に会わすのが先だ」
ドアが閉められ二人の足音が遠ざかると、灰原は張りつめていた気が緩んで、ずるりと壁にもたれかかった。ウォッカに見せられたタブレットの画面が頭に浮かぶ。
正体がバレてしまった──!!
シェリーが幼児化して生きていることが、組織にバレてしまったのだ。
灰原は、悪夢に出てきたジンの顔を思い出した。銃を突きつけるジンの冷酷な瞳がよみがえって、ぞわりと背筋がわなないた。
翌朝。ホテルのロビーに集まった子供達は、園子から灰原が風邪を引いて病院に行ったと聞かされた。
「え! 哀ちゃんが!?」
「昨日は元気だったのになあ」
元太が不思議そうな顔をすると、光彦が手を上げた。
「それならボク達、お見舞いに行きます!」
「うん!」
「だな! うな重差し入れようぜ!」
灰原を心配する子供達を見て、園子の表情が一瞬曇る。
「ダーメ! 風邪がうつっちゃうでしょ」
園子が止めると、歩美は不安そうな顔をした。
「……哀ちゃん、そんなに悪いの?」
子供達の後ろにいたコナンが、園子の代わりに答える。
「病院で診てもらってる。大丈夫だ」
「でも……」
「クルーザーを手配したから、みんな支度して。いいわね?」
園子の有無を言わせない口調に、子供達は「はーい」と仕方なしに返事をした。すると、
「毛利君」
目暮がロビーにいる小五郎の元へやってきた。
「警部殿」
「すまないが、コナン君と一緒に来てくれないか」
コナンと小五郎は、目暮の後についてホテルの正面玄関を出た。玄関の前には車が停まっていて、佐藤が運転席側に立っている。
コナンが車に向かって歩き出したとき、ポケットのスマホが震えた。
「ごめん、ちょっと待って。すぐ終わらせる」
着信表示を見たコナンは、ぱたぱたと駆けていく。振り返った小五郎は、あきれた顔でコナンの後ろ姿を眺めた。
「なーにやってんだ、アイツ。──あれ?」
ふいにみぞおちの辺りが痛くなって、痛たたた……と押さえる。そこは昨晩、蘭がパンチをお見舞いしたところだった。
小五郎達から離れたところまで来て、コナンは電話に出た。
「もしもし、安室さん?」
『ホテルでさらわれた少女は、君の知り合いだよね』
出し抜けに言われて、コナンは驚いた。
「まさか、昨日の電話って……」
『夕方にはジンが合流する』
「潜水艦に乗り込むってこと?」
コナンがたずねると、電話の向こうの安室は少し驚いたようだった。
『知ってたのか。さすがだね。奴は空から合流する。つまりそのとき──』
「潜水艦は浮上せざるを得ない」
コナンの先回りした答えに、安室は『ああ』とうなずく。
『彼女を助けるなら、そこしかない』
通話を切ったと同時に、「おい! 行くぞ!」と小五郎が呼ぶ声がして、コナンは車の方に向かった。
灰原を連れ戻すチャンスは、一度きり。
空から合流するジンを迎えるため、潜水艦が海上に姿を現すそのときだけ。
それは絶好のチャンスでもあると同時に、最大の危機でもあった。
目暮と佐藤に連れられて、コナンは小五郎と共に再びパシフィック・ブイに上陸した。コントロールルームに入ると、黒田と白鳥が待ち構えていた。
「確認してもらいたいことがある」
黒田はそう言うと、目の前の巨大モニターを見るように促した。
「灯台の防犯カメラを調べてみたんだが、潜水艦は映っていなかった」
モニターには昨夜の海の映像が再生されていたが、潜水艦もコナンの姿も映っていなかった。
「え……夜だからってわけじゃないよね?」
コナンが眉をひそめながらたずねると、
「警察の高解像度カメラよ」
佐藤が代わりに答える。コナンの後ろに立った小五郎は、申し訳なさそうに頭をかいた。
「すいません。コイツのせいで余計な手間かけさせてしまって……」
コナンはコンソールの前に座っている牧野に話しかけた。
「このシステムに繋げているカメラって、警察が管理してるものだけだったよね?」
「そうだけど……」
「ちょっといい?」
コナンはコンソールの上に、八丈島の地図が表示されたスマホを置いた。地図にはベルツリーホテルから南原千畳岩海岸までの経路が、青色の線で表示されている。
「犯人が逃げたルートだよ。この道にある警察のカメラを調べて!」
「おい、いいかげんに……」
小五郎がコナンの首根っこをつかもうと前に出ると、黒田が手を出して制した。
「昨夜の十一時頃です」
黒田の言葉に牧野は少し考えてうなずくと、レオンハルトの方を向いた。
「レオンハルト。A─6の道だ」
「今度はガキの言いなりかよ」
レオンハルトは嫌味を言うと、キーボードを操作し始めた。牧野が指定した防犯カメラの映像が新規ウインドウで開いて、映像を二十三時頃まで一気に早送りする。
モニターを横目で見ていたレオンハルトは、何かに気づいたように眉をひそめた。
「ここのカメラです」
牧野が言うと、一同は巨大モニターに映った防犯カメラの映像を見つめた。
「……変ですね。犯人の車が映ってない」
「阿笠さんの車もない。どういうことだ?」
犯人の車とビートルが通ったと思われる時間帯の防犯カメラ映像には、車が一台も映っていなかった。
巨大モニターに釘付けになった牧野は、コンソールに手をついて立ち上がった。
「まさか、書き換えられてる……?」
(間違いない)
車が映っていない防犯カメラ映像を見て、コナンは確信した。
ここに繋がれているカメラ映像は、改ざんされているのだ。
灰原達を乗せた潜水艦は、深い海の中をゆっくりと航行していた。
「もしかしてあなた、志保の娘?」
灰原と反対側の二段ベッドの下段に腰かけた直美がたずねると、ベッドの端にもたれた灰原はため息をついた。
「だから、宮野志保なんて知らないって言ったでしょ」
「あ、そうよね。志保にこんな大きな子供がいるはずないし……」
ばつが悪そうに微笑んだ直美は、改めて灰原の顔を見た。
「でも、あなたは私が出会った頃の彼女にそっくり」
「……出会った? どこで?」
灰原がたずねると、直美は目を伏せて寂しげな表情を浮かべた。
「私、小さい頃アメリカにいたの。東洋系が珍しかったからか、毎日いじめに遭ってて……」
* * *
幼い頃の直美は、毎朝スクールバスに乗るのが憂鬱だった。
その日もスクールバスには子供達がぎっしり乗っていて、空いているのは一番奥の席だけだった。リュックを前に抱えた直美は、おどおどしながらバスの通路を歩いていく。
すると突然、右側に座っていた男の子が足を通路へ投げ出した。左側に座っていた男の子も申し合わせたように足を投げ出す。通路を遮られた直美は、後ろを振り返った。座席に座った子供達は、みんな薄ら笑いを浮かべて直美を見ている。
どうしてだろう──直美はリュックを抱きしめて、ギュッと目をつぶった。
なんで毎日いじめられなきゃいけないんだろう──。
直美が泣き出しそうになったとき、後ろから服を引っ張られた。振り返ると、分厚い本を持った日本人の女の子が立っていた。
その女の子は直美の肩を押して歩かせると、
「ここ座って」
自分が座っていた席に、直美を座らせた。そして何事もなかったかのように持っていた本を開き、座席の背もたれにつかまりながら読み始める。
直美は座席の背もたれから、そっと後ろを覗いた。通路を足で塞いだ男の子達が、直美を助けてくれた女の子を忌々しげに見ている。
* * *
「その日から、いじめの標的が志保に変わってしまって……私、助けられなかった。またいじめられるのが怖くて……」
直美の話を聞いているうちに、灰原はアメリカで暮らしていたときのことを徐々に思い出した。
「だから人種によって憎しみ合わない世の中にしたい、って……あ、わからないよね?」
「だから『老若認証』を作ったの?」
灰原が訊くと、直美は少し驚いてから「ええ…」とうなずいた。
「アメリカの大学で人類学とAIを学んでいるうちに、人種や年齢を問わずに認証できるプログラムを思いついたの。そしたらインターポールから声がかかって、『老若認証』をテストするために日本の防犯カメラにアクセスする許可をもらったの。そのとき、最初に思いついたのが志保だった。志保にまた会いたかった。ずっとずっと謝りたかったから……」
直美はアメリカの小学校にいた頃の写真──幼い志保が写っている写真を何枚かパソコンに取り込み、『老若認証』にかけたという。すると、日本の街中を歩く成長した志保の画像が出てきて、『老若認証・一致』と表示された。さらに驚いたことに、幼い頃の志保にそっくりな女の子の画像も出てきて、こちらも『老若認証・一致』と表示されたのだ。
「なぜかあなたもヒットして、それがどういうことなのか今でもわからないんだけど……」
直美の説明を聞いて、灰原はようやく自分の正体が組織にバレた経緯がわかった。
直美が申し訳なさそうに肩をすくめる。
「でもきっと、私のせいで巻き込まれたんだと思う」
いいえ──灰原は心の中でつぶやいた。
(巻き込んだのは、私の方……)