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東京・竹芝客船ターミナルと伊豆諸島を結ぶ大型フェリーは、白い水尾を引きながら大海原を進んでいた。揺れる海面に陽光が跳ねて、イエローオーカーとオリーブのツートンカラーにペイントされた船体を鮮やかに輝かせる。
甲板に出ていた歩美達が手すりから顔を出すと、進行方向に高い山がそびえる島が見えてきた。
「あ、見えた! 八丈島!」
「スゲェ! でっけぇ山がある!」
光彦は手すりから顔を引っ込め、ポケットから地図を取り出して広げた。
「確か……八丈富士っていう山ですよ」
「おー!」「ホントだー!」
地図を取り囲んで盛り上がる三人をよそに、引率組の毛利小五郎と阿笠博士は近くのデッキ席でくつろいでいた。
「なんでも島酒というスゲェうまそうな酒があるそうですなぁ」
「ほお……」
蘭と園子はデッキ席のそばにいた。二人並んで手すりに手をかけ、海を眺めている。
「そーいや蘭、旦那は?」
「え? ああ……新一、事件で来られないんだって」
蘭が答えると、園子は蘭の方に向き直り、ニシシ……と笑った。
「あら、『旦那』は否定しないんだ」
頬を真っ赤にした蘭は、「チョップ!」と園子の頭に軽く空手チョップをお見舞いした。
「もぉ、やめてよー」
「うひひひ、ヒューヒュー」
園子の冷やかす声が、デッキ席に座るコナンのところまで聞こえてくる。
(しっかり来てるっつーの)
頬杖をついていたコナンは、横目で二人をチラリと見ながら心の中でつぶやいた。
約十時間の船旅を経て八丈島に到着したコナン達は、別の貨物船で運んだ阿笠博士のビートルとレンタカーに分かれて、鈴木財閥が所有するベルツリーホテルへ向かった。
ビートルの助手席には元太、後部座席には灰原、コナン、歩美、光彦が座り、子供達は窓から雄大な景色を眺めた。
「八丈富士、でっけぇー」
「スゴーイ!」
子供達と反対側の窓際に座っていた灰原は、景色に目を向けることなく、イヤホンを耳につけて手元のスマホを見つめている。
「何見てんだ?」
コナンがたずねると、灰原は顔を上げた。
「ここの近くに、インターポールの新しい施設ができたんだって」
そう言って片方のイヤホンを外し、コナンの耳に突っ込む。
『はい。世界中の警察が持つ防犯カメラを繋いだ世界初の施設、それが〈パシフィック・ブイ〉です』
灰原が見ていたのは、ニュース番組だった。『パシフィック・ブイ特集』と表示された大型モニターの前には、ハの字に並べられたカウンターにスーツを着た男性キャスターやゲストが並んでいる。
『防犯カメラの画像を元に、世界中で〈顔認証〉が可能とか?』
キャスターが質問すると、反対側のカウンターに座った男性が答える。
『ええ。その開発者である彼女も、パシフィック・ブイの一員として参加します』
男性は隣に座る女性に顔を向けた。カメラがズームアップして、髪を後ろで束ねた若い女性の姿を大きく捉える。
その聡明な顔立ちをした女性に、灰原は目を留めた。
「この人……どこかで……」
スマホの画面をじっと見つめる灰原を、コナンは不思議そうな顔で見た。
海岸沿いの道路を走り続けると、やがてベルツリーホテルの看板が現れた。
「お! ここじゃ」
ビートルとレンタカーは脇道に入り、坂を上っていく。すると、生い茂る木々の隙間から建物が見えた。
「お! でっけぇホテル!」
「わ~素敵!」
「キレイですね~」
目を輝かせる子供達の隣で、コナンは何げなくホテルのエントランスに目を向けた。するとエントランスの柱の横で、スーツ姿の男性が電話をしていた。白鳥任三郎警部だ。
(なんで白鳥警部が……?)
ビートルはエントランス前を横切り、駐車場に向かう。白鳥に気づいたのは、コナンだけだった。
ホテルのエントランスホールに入ると、巨大なクジラのオブジェが出迎えてくれた。波しぶきを上げて大きくジャンプするクジラのそばには、イルカやカメの姿もある。
「でっけークジラ!」
「カメもいますね」
「イルカさん、かわいい~」
子供達がオブジェに夢中になっていると、チェックインを済ませた園子がやってきた。
「じゃあみんな、部屋に荷物置いたら、一時間後にまたここに集合ね!」
「はぁーい!」
子供達は素直に返事をして、一同はそれぞれの客室に向かった。
コナンは蘭と同じ部屋だった。部屋に入ったコナンは、ホテルのエントランスで白鳥を見かけたことを蘭に伝えた。
「白鳥警部が? 見間違いじゃないの?」
「ううん、確かに白鳥警部だったよ」
「ふうん……何かしらね」
蘭は大して気に留めていないようだった。そのとき、ポケットに入れたコナンのスマホが震えた。取り出して画面を見ると、沖矢からの着信だった。
コナンは部屋のバルコニーに出て、通話ボタンをタップする。
『そろそろ八丈島に着いた頃だと思ってね』
電話の向こうから聞こえてきたのは、穏やかな声だった。
『ボウヤはドイツのフランクフルトに〈ユーロポール・防犯カメラ・ネットワークセンター〉があるのを知っているかな』
「うん。それがどうしたの?」
『そこに最近、何者かが侵入してね。その侵入者を目撃したユーロポールの職員が、ジンに殺された』
「ジンに!?」
コナンがその名前を口にしたとたん、バルコニーに風が吹き抜けた。
『奴等の組織に潜入捜査しているキールからの情報だ』
「じゃあその侵入者って、黒ずくめの……」
『ああ。髪をコーンロウに編み上げた奴で、コードネームは〈ピンガ〉。ラムに気に入られていると聞いたことがある』
ピンガ──それは初めて聞くコードネームだった。頭全体の髪を細かい編み込みにした後ろ姿を思い浮かべる。
「……どうしてそれをボクに?」
コナンがたずねると、電話の向こうの沖矢は一瞬の間を置いた。
『今日、そのセンターと回線を繋いで本格始動するのが、その近くにある〈パシフィック・ブイ〉だ。君なら気になると思ってね』
そこで突然、通話は切れた。
「あ、赤井さん!?」
不意に通話を切られたコナンは、思わず本当の名前を呼んでしまった。ツーツーという終話音が聞こえてきて、終話ボタンをタップする。
コナンはバルコニーの前に広がる青い海を見つめた。波はそれほど高くなく、吹きつける風も穏やかだ。
(……ジン。ウォッカ、コルン、アイリッシュ、ピスコ、テキーラ。そして、ピンガ)
コナンは黒ずくめの組織のメンバーを思い浮かべた。
(蒸留酒の名前がついたメンバーは、全て男。そして、ピンガはラムと同じ原料の酒……)
そう思ったとたん、胸の奥がざわついた。
(嫌な予感がする)
コナンが険しい表情で海を見つめていると、再び強い風が吹きつけて、髪を乱暴にあおった。
準備をととのえ、一時間後にホテルのエントランスホールに集合したコナン達は、ホエールウォッチングの船が出港する八重根漁港に向かった。
船に乗る前に、全員にライフジャケットが配られた。子供達は互いに手伝いながら、ライフジャケットを身に着ける。最後に、歩美がライフジャケットの襟ぐりからプハッと顔を出した。
「ありがとう!」
子供達のそばでは、蘭がコナンのライフジャケットのベルトを締めていた。
「はい、これで大丈夫」
全員がライフジャケットを着用したところで、停まっているクルーザーからツアーガイドの丑尾寛治が近づいてきた。長めの髪に帽子を被り無精ひげを伸ばした丑尾は、片手をズボンのポケットに突っ込み、反対の手にはタブレットを持っている。丑尾はライフジャケットを着たコナン達を数えて、
「あれ? 九人と聞いてますが……あと一人は?」
と、持っていたタブレットの画面を見せた。タブレットには、ツアー参加者の名簿が表示されていて、小五郎の名前もあった。
「……欠席でお願いします」
蘭が怒りでわなわなと肩を震わせながら言った。そばにいた園子がアハハと笑う。
「酔っぱらいは邪魔なんで」
「え? もう?」
光彦が驚くと、阿笠博士が「ベロンベロンじゃ」と苦笑いした。
どうやらホテルに着いて早々、島酒をしこたま飲んで、酔っ払って寝てしまったらしい。
(さすがおっちゃん……)
コナンが心の中でつぶやくと、丑尾は眉間にしわを寄せて、
「……では、どうぞ」
と、クルーザーの方へ歩き出した。
クルーザーに乗り込んだ丑尾は、子供達から順番に乗せていった。歩美の体をヒョイと持ち上げ、デッキへ下ろす。
「次の方」
「はい」
クルーザーの前に並んでいた蘭が前に進む。その後ろに並んでいたコナンも足を進めようとしたとき、船のエンジン音が聞こえてきた。海の方を見ると、停泊する漁船の向こうから船が出てきた。その船体に書かれた『警視庁』の文字を見て、コナンは「えっ」と目を見開く。
すぐにメガネのつるのスイッチを押し、右レンズの望遠鏡機能を起動させて船を見た。
ゆっくりと進む警備艇のデッキに、白鳥と黒田兵衛管理官の姿があった。白鳥がドアを開け、二人は船内へ入っていく。
白鳥と黒田の姿を確認したコナンは、クルーザーに背を向けて走り出した。後ろに並んでいた阿笠博士の横をすり抜ける。
「ゴメン、博士。ごまかしといて」
「え?」
阿笠博士は驚いて、コナンが走っていった方を振り返った。
「博士、どうしたの?」
クルーザーのそばに立っていた園子に訊かれて、阿笠博士は慌てて向き直った。
「え、いや……ク、クジラってどう吠えるのかなって……」
と、ごまかしながら、横目で後ろを見る。走っていったコナンの姿は、漁港の隅に停まっていた軽トラックに隠れて見えなくなっていた。
軽トラックの陰から走ってきたコナンは、岸壁に置かれた木箱を足場にして大きくジャンプし、停泊中の漁船に飛び乗った。狭い甲板を一直線に駆け抜け、船首で強く踏み切って、目の前を進む警備艇に飛びうつる。船尾のステップに着地したコナンは、手すりに手をかけ、誰もいないのを確認すると甲板に上がった。
「え~!?」
「間違えて違う船に乗っちゃった──!?」
最後にクルーザーに乗り込んだ阿笠博士は、前方デッキにいる蘭達に、コナンが誤って違う船に乗ってしまったと嘘をついた。
「コナンって、抜けたとこあるよな」
「あるかな……」
「心配ですね」
嘘を信じた子供達の表情が沈む。阿笠博士は慌ててスマホを取り出し、コナンからのメールを見せた。
「あ、でも白鳥警部が一緒みたいじゃから……ほら、あとでホテルに送ってもらうって」
阿笠博士がメールを読むと、操舵室の前でタブレットを操作していた丑尾が顔を上げた。
「もう、コナン君は……」
子供達と一緒にメールを読んだ蘭は、あきれ顔でため息をつく。
阿笠博士の嘘を信じなかったのは、灰原だけだった。
(間違えて、ねぇ……)
灰原は心の中でつぶやきながら、チラリと海の方を見た。
漁港を出発した警備艇は、外海に出ると突然にスピードを上げて、勢いよく進んだ。
デッキにあったビニールシートの中に隠れていたコナンが、スマホの地図アプリで確認すると、現在地を示す赤いアイコンが八丈島から西の方角へとゆっくり進んでいた。コナンはスマホの画面で指を滑らせ、船が進む方向の地図を表示した。
(情報が出てない……)
船が進む先は島も何もなく、果てしない大海原が広がるばかりだ。
(やっぱりこの船は〈パシフィック・ブイ〉に向かってるんだ)
コナンがビニールシートに隠れながらスマホを操作しているとき、操舵室には白鳥と黒田がいた。操縦士の後ろにある座席に腕組みをして座っていた黒田は、コナンが隠れているデッキの方を一瞥した。
その頃。蘭達を乗せたクルーザーの目の前で、ザトウクジラの巨体が海面に躍り上がった。体をのけぞらせて飛び上がったザトウクジラは、背中から着水して巨大な水柱を上げる。
「きゃああ!」
「ははは」
「おお~!」
激しい水しぶきがデッキに降りかかり、蘭達は声を上げた。
さらに海面が盛り上がったかと思うと、ザトウクジラの巨大な尾びれが出現した。尾びれを高く上げて、海面を何度も叩きつける。
「きゃあ~!」
「マジ、すげー!!」
子供達は水しぶきを浴びながらも、夢中でザトウクジラの姿を追った。元太は双眼鏡を覗き、光彦はデジカメで写真を撮る。
「きゃあ~、冷たいね!」
歩美が隣の灰原を見ると、
「本当ね」
灰原は楽しそうにうなずいた。