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ドイツ・フランクフルト──。
ヨーロッパ有数の大都市であるフランクフルトの中心にある、ドイツ伝統の木組みの建物に囲まれた広場は、観光客でにぎわう昼間とは打って変わって、夜は人気がなかった。
その静まり返った広場を、一台のバイクが横切った。黒のフルフェイスヘルメットを被り、ライダースーツに身を包んだライダーの先には、必死で逃げるスーツ姿の女性が見える。
左肩に銃創を負った女性は、広場を抜けてマイン川の方へと走っていく。
(ダメ……そっちに逃げないで……)
バイクを走らせるキールは、心の中でつぶやいた。
(せめて私につかまって……!)
左肩を撃たれた女性は、スマホを耳に当てながら懸命に走った。
『ニーナ! 何があったの? 状況を報告して!』
「センターに侵入した犯人の仲間に追われてるの!」
『侵入!?』
ニーナは走りながら、後ろを振り返った。
『誰が侵入したの!?』
答えている余裕はなかった。追いかけてくるバイクのヘッドライトが迫っていたからだ。
ニーナは走った。やがて車が行き交う通りに出て、ニーナは躊躇なく飛び出した。左から来た車がクラクションを鳴らす。車すれすれのところで横切ったニーナは、そのまま走り続ける。
ニーナを追いかけるキールのバイクは、通りを行き交う車に阻まれ、急ブレーキをかけて停まった。
『ニーナ、大丈夫!?』
右手に持つスマホから、FBIのジョディの声が聞こえてくる。マイン川沿いの通りに出たニーナは、川に架かる鉄の橋アイゼルナーシュテグに向かった。
階段を一気に駆け上がって橋の上に出たニーナは、足を緩めて後ろを振り返った。歩行者専用の橋に続く急階段なら、バイクも上ってこないだろう──安堵したのもつかの間、ブオォォンとバイクのエンジン音が響いたと同時に、階段を上ってきたバイクが橋の上に飛び出した。
「ッ!?」
慌てて後ずさりするニーナに、キールがすかさず銃弾を放った。後ろ歩きする足元に着弾して、バランスを崩したニーナは尻餅をついた。そのはずみで持っていたスマホが離れて、橋面を滑っていく。
『ニーナ!』
スマホから声が響く。
発砲したキールは、バイクから飛び降りて、倒れているニーナのそばに着地した。
『ニーナ? 今のは何!? ニーナ!』
銃を構えたキールは、片手でヘルメットのシールドを上げた。そしてヘッドセットのマイクを手で覆う。
「川に飛び込んで! 早く!」
キールは銃をニーナに向けながら、小声のドイツ語で話しかけた。
頭を上げたニーナは、銃を持つキールの人差し指が引き金にかかっていないのに気づいた。
「お願い、早く川に!」
ニーナは耳を疑った。しかし、再び小声で話しかけるキールの表情は、緊迫感に満ちている。
ニーナはよろよろと立ち上がった。キールも銃を向けたまま、立ち上がる。ニーナはキールに背を向けて走った。そして欄干に飛び乗り、大きくジャンプして川に飛び込む。
その瞬間、銃声が響いた。
キールの肩口から銃弾が飛び出し、川に落下するニーナのこめかみに着弾する。
橋の下からドボンと音がして、小さな水柱が立った。
その場に倒れ込んだキールは、呆然と欄干の先を見つめる。
「くっ……」
撃たれた肩を押さえながら後ろを見ると──銃を横に傾けて構えるジンが立っていた。
「ジン……!」
銃口から煙が出ていた。さらに銃を撃つ。銃弾は落ちているニーナのスマホを撃ち砕いた。
「もたもたしてんじゃねぇ、キール」
黒の中折れ帽から覗かせた鋭い目で、キールをにらみつける。その有無を言わせぬ語気と視線に圧されて、キールは「え、ええ……」とうなずいた。
ジンはそれ以上何も言わずに立ち去った。起き上がったキールはヘルメットを取り、ジンの背中を見送る。そして横目でニーナが落ちた川の方を見た。
ジンにこめかみを撃たれたニーナの体は、暗くて冷たいマイン川の底へとゆっくりと沈んでいった。やがて、揺らめく上着のポケットから手帳が出てきた。沈むニーナから離れて、ゆっくりと浮上する。開いた手帳には、ニーナの顔写真がついたユーロポール(ヨーロッパ刑事警察機構)の身分証明書が挟まれていた──。
日本・米花町。
陽射しを浴びて輝く堤無津川に架かる橋のそばに、バーボンこと安室透の愛車RX─7が停まっていた。その助手席には、ベルモットが座っている。
「状況はどうです?」
ハンドルを握るバーボンがたずねると、ベルモットはスマホの画面に指を滑らせながら答えた。
「今のところ、上手くいってるみたいよ。あとは例のシステムで、この男を捜さないとね」
スマホの画面には、EU議会のホームページが表示されていた。議員の顔写真がずらりと並び、ベルモットは一人の男性議員の写真を拡大して見つめる。
「時間の問題でしょう」
バーボンはそう言うと、エンジンをかけた。
男性議員の写真を確認したベルモットは、退屈そうにスマホの画面をスワイプして、どんどんブラウザバックした。やがてニュースサイトのトップページに戻って、ベルモットはふと指を止めた。見出しの横に掲載された広告に目をやる。
動き出した車は、堤無津川に架かる橋を颯爽と駆け抜けた。
コナンは同級生の小嶋元太、円谷光彦、吉田歩美、そして灰原哀と米花百貨店に来ていた。吹き抜けの天井に届くようにそびえるクリスタルのオブジェがある一階中央ホールには、福引所が設置され、多くの客が並んでいる。
「おースゲーッ! 一等はホエールウォッチングだってよ。絶対当てようぜ!!」
列の最後尾に並んだ元太は、福引所に飾られた大きなクジラのパネルを見て、鼻息を荒くした。
「福引は一人一回しか引けませんからね!」
「クジラさん、会いたーい!」
「イルカも、イルカもな!」
気合いが入る子供達の後ろに並んだコナンは、(くだらねーギャグ)と元太のギャグを鼻で笑った。
すると突然、コナンの後ろに並んでいた灰原が列から外れて、店舗の方へ歩いていく。
「おい、どこ行くんだ?」
「すぐ戻るわ」
灰原は振り返らずに手を振ると、『フサエキャンベル』というジュエリー店に向かった。店頭に置かれた看板には、新作限定アクセサリーの写真と販売整理券配布の案内が書かれていて、大勢の人が並んでいる。その最後尾に灰原も並んだ。
「ありがとうございます」
灰原の前に並んでいた女性が、店員から整理券を受け取った。灰原に気づいた店員が「どうぞ」と整理券を差し出す。
「ありがとう」
灰原が受け取った整理券を嬉しそうに見つめていると、店員は灰原の後ろに並ぶ客たちに言った。
「はい、以上で『限定ブローチ』販売整理券配布は終了となります」
「えーッ!」
灰原の後ろに並んでいた三人は、いっせいに声を上げた。
「ヤダ~ 残念!」「ねー」
二人はすぐに立ち去っていったが、着物姿の老婦人は一歩前に出て店員に近づいた。
「本当にどうにもなりませんの? 電車で一時間かけて参りましたのに……」
「誠に申し訳ございません。数量限定のお品となっております」
店員に頭を下げられた老婦人は、ため息をつく。
そばで一部始終を見ていた灰原は、持っていた整理券に目を落とした。
「わかりました……」
老婦人はしょんぼりと肩を落として、踵を返した。
コナン達と一緒に米花百貨店に来ていた蘭と鈴木園子は、二階の通路を歩いていた。
「待って!」
吹き抜けになった一階から聞き覚えのある声がして、園子は下を覗いた。すると、灰原が着物姿の老婦人に近づいて、持っていた紙を差し出す。
「これ、どうぞ」
整理券を差し出された老婦人は、えっと驚いて、すぐにニッコリと微笑んだ。
「まぁ、いいのよそんな」
「……実は値段ちゃんと見てなくて、私には高かったから」
灰原がドジなふりをすると、老婦人は「まぁ」と驚いて、フフフ……と笑った。
販売整理券を老婦人に渡した灰原は、その足で中央ホールに戻った。
すると、福引所のそばで元太達がどんよりと落ち込んでいた。
「その様子じゃ、どうやら外れたようね」
「全員もれなくな」
落ち込んでいる元太達のそばにいたコナンは、参加賞でもらった仮面ヤイバーのお菓子を見せた。
米花百貨店を出たコナン達は、阿笠博士の家に寄った。阿笠博士は地下の工作室にいて、コナンは福引が全員外れたことを報告した。
「ガビョ~ン! ダメじゃったのか~」
子供達と同じく一等のホエールウォッチングを狙っていた阿笠博士は、ガックリと肩を落とし、残念そうに頭をかいた。
「せっかく間に合わせたんじゃがな……」
「え?」
「あれじゃよ」
阿笠博士は背後にある大きな水槽を示した。水槽の中には、サメの頭の形をした水中スクーターが固定されている。
「水中スクーターじゃ。市販のものとは違って自動運転機能はあるし、三十メートル以上潜れるぞい!」
「すごーい!」
「うおおおお!」
「カッコイイですね!」
子供達は目を輝かせながら、水槽のガラスに顔をつけて覗く。
「おいおい、三十メートルは危ねーって」
コナンが突っ込むと、阿笠博士はチッチッチッと人差し指を振った。
「そう言われると思っての。ジャジャーン! 海中ヘッドセットじゃ!」
と、太いボールペンのような形をした小型エアタンクを口にくわえ、デスクにあったゴーグルのようなものを装着した。ゴーグルからはイヤホンが伸びて、耳の穴にぴったりと収まっている。
「減圧症になりにくいエアタンクと、無線を一つにした優れ物じゃ。しかも、水中スクーターのヘッドは着せ替え可能なんじゃぞい!」
小型エアタンクを口から外した阿笠博士は、デスクからカメとイルカの形をした着せ替えヘッドを持ってきた。
「おぉ、博士スゲー!」
「イルカさん、かわいい!」
「カメもいいですねー」
子供達が盛り上がる中、コナンはハハ……と乾いた笑いを漏らした。同じくあきれ顔の灰原と目が合うと、灰原はやれやれと両手を広げる。
すると突然ドアが開いて、園子と蘭が入ってきた。
「おー、盛り上がってんねー」
園子は水中スクーターで盛り上がる子供達を見渡すと、一同の前で立ち止まった。
「ねぇ、みんな。八丈島のホエールウォッチング、行きたいんでしょ?」
「え、なんでそれを?」
「エスパーか!?」
ビックリしている子供達を前に、園子はフフンと得意げに微笑む。
「園子のお父さんのホテルが、八丈島にあるんだって」
蘭の言葉に、コナンは顔を引きつらせた。
(来ると思ったぜ、この展開……)
「もしかして……」
「ボク達を……」
「連れてってくれんのか!?」
子供達が前のめりになってたずねると、園子は灰原に近づき、かがんで灰原の頭に手を置いた。
「あのねぇ、これはこの子へのご褒美だからね」
「え……?」
きょとんとする灰原の頭から手を離し、園子は体を起こしてウインクした。
「ちょっとすましたガキだと思ってたけど、優しいとこあるじゃん」
米花百貨店で老婦人に販売整理券を譲ったところを見られていたのだ。
灰原はなんだか気恥ずかしくなって、プイッと顔をそむけた。
その頃。阿笠邸の隣に建つ工藤邸では、二階の一室で沖矢昴がイヤホンをつけていた。
『あのー、それは子供達だけのご褒美でしょうか?』
『もちろん博士も引率役として来てもらいます』
『やったー!』
『よかったね、博士』
沖矢はイヤホンから流れてくる会話を聴きながら、持ち上げたスマホの画面に目を向けた。
ロック画面には、受信したメールの本文が表示されている。
【犯人はピンガ】
沖矢は、その短い文章を細めた目でじっと見つめた。