「深優ー、準備できてるー?」
「うんっ」
差し伸べた燐香ちゃんの手を、嬉しそうに深優ちゃんが握る。
そう、ふたりは結婚して共に暮らし始めたのだ。尊い。ふたりの愛よ永遠に――というのはただの私の願望なので、また言ってんなコイツほんま……って思っていてほしい。すみません。
ふたりは真新しいセーラー服を着てた。高校の制服だ。
「入学初日から遅刻なんて、清く正しい高校生、失格だかんね」
「清く、正しい?」
深優ちゃんが燐香ちゃんの髪を指差す。燐香ちゃんは胸を張った。
「似合う?」
綺麗に染めた金髪に、ピンクのウィッグを絡めたそのヘアスタイルは、高校デビューと言うには攻め過ぎなファッションだけれど。
でも、深優ちゃんはとっても嬉しそうに笑ってた。
「うん、すっごく似合う。かっこいいよ、燐香ちゃん」
「へへ、でしょ? よっし、それじゃ見せびらかしにいこ」
「うんっ」
ママさんが出てきて、「あら、ずいぶんきれいになったわね」と微笑むと、燐香ちゃんも照れたように笑う。
「この子、見た目はしっかりしているけれどまだまだ子供だから、頼むわね、燐香ちゃん」
「はい、深優はウチがちゃんと学校まで連れていきますからっ」
「もー、お母さん、ヘンなこと言わなくていいからー」
顔を赤らめる深優ちゃんと、手を振りながら笑顔で出ていく燐香ちゃん。ふたりを玄関で見送って、私とママさんはさてと、と部屋に戻ってゆく。
そう、本日は快晴。しかも、しかもだ!
ふたりが入学した高校は、割と近所! 徒歩で十五分! やったー!
私は喜び勇んで、窓から飛び出していった。私のウォッチングライフはまだ始まったばかりだー!
完全勝利! ハッピーエンド!(続きます)
「あたしだけ違う高校」
珍しくひな乃ちゃんが拗ねてた。
深優燐香の順調な高校生活の始まりを見届ける日々の中で、学校帰りにひな乃ちゃんが遊びに来たのだ。
定位置であるベッドの下に座ってた私の頭をワシャワシャ撫でるひな乃ちゃん。気持ちいい、
そのまま深優ちゃんの部屋で三人はくつろぐ。
ひな乃ちゃんだけ市内の違う高校に通うことになっちゃったらしい。勉強してなかったからね……。てか、しなかったのは勉強だけではなく。
「わたしたち、バド部の推薦特待生だもんね」
ねー、と深優ちゃんが笑いかけると、燐香ちゃんも「だねー」と同意する。ひな乃ちゃんが机に突っ伏した。
そう、ふたりにはスポーツ特待生の話が来たのだ。第二種特待生といって、授業料が半額免除のやつだ。すごい、さすが県内ベスト四!
中三の夏休みに授業見学にいったふたりは。悩んだ結果、同じ高校に進むことにしたという。
ふたりを繋いだスポーツが、その結びつきを強くしてる。なんて素敵なことなんだろう。(※ひな乃ちゃんを除く)
「すごいんだよ、高校生の先輩はみんなうまくて。中学校と全然違うの。わたし、すっごくワクワクしちゃって、ね、燐香ちゃん、ね」
「まあまあ、バドの話はいーじゃん。ひな乃的には黒歴史だろーし」
燐香ちゃんはぺらぺらと手を振る。
そのとき、私はあれれ? となんとなく違和感を覚えたけれど、それがなにかはわからなかった。
「ひな乃はしっかり高校生やってる? できてる? そもそも学校いってるの?」
「失礼な」
ひな乃ちゃんは眉根を寄せた。
「バイト始めたよあたし」
『バイト⁉』
声を合わせて驚くふたりに挟まれ、ひな乃ちゃんはさらに顔をしかめる。
「高校は部活もやんないことにしたし。バイトでもしよっかなって。原宿のポップピンクキャットってお店」
「えっ、ポップピンクキャットってあの⁉ ギャルの聖地のブランドショップ⁉ うっそ、バイトだってすっごい倍率っていうじゃない⁉」
食いついてくる燐香ちゃんに、ひな乃ちゃんはちょっとだけ機嫌を直す。
「そ。ショップ店員やるよ」
「うっそだ……。ちゃんと面接やったの? コネ? ワイロ? それとももっとあくどい手段使った?」
燐香ちゃんの驚きもすごくわかる。
ひな乃ちゃんが、あのひな乃ちゃんがアルバイトとは……。大丈夫かな、二メートル走っただけで疲れたとか言い出すひな乃ちゃんが……。敬語とか使えるのかな……?
ちっちっちと指を振って、ひな乃ちゃんはドヤ顔で言った。
「リンは知らないかもしれないけど……。あたし、顔がいいから」
「夜の中まちがってる……。そー思うでしょ、深優も!」
「ええー、ひな乃ちゃんすごいなあ。ねえねえ、バイトってどんなことするの? ねえねえ、ねえねえ!」
「あーうー」
好奇心の塊になった深優ちゃんがひな乃ちゃんをぐわんぐわんと揺らす。バイトを始めたばかりのひな乃ちゃんは、接客やら商品管理やら棚出しやらの業務を説明してた。ちゃんと働いてるんだな……。
願わくは彼女が働いている場所がブラックバイトじゃないことを祈ろう。ブラックはよくない、ブラックはよくないから……。
「てか、きょうはなんか話があるって言ってなかった? バイトの報告?」
「ううん。そっちは割とどうでも」
「めっちゃ衝撃的だったんだけど」
ひな乃ちゃんは深優ちゃんと燐香ちゃんの顔を交互に見やる。
なんだろうか。
あのひな乃ちゃんが言いづらそうにしてるとか、悪い予感しかない……。もしかして、誰か殺したのか……?
「あのさ」
さっきのバイトも驚いたけど。
――次にひな乃ちゃんが落としたのは爆弾だった。
「友ちゅー、もうやめるから」
えっ?
燐香ちゃんと深優ちゃんがきょとんとする。
いったいなにを言い出すかと思えば。
「……だって、あたしたちもう高校生だし。五年も続けてきたんだから、練習とかいらないでしょ。もう名人だよ」
その言葉に、ふたりは押し黙っていた。
先に口を開いたのは、燐香ちゃん。
「やめるってそんな急に……。てか、もとはと言えば、すべてひな乃から言い出したコトじゃん。なのに、いつも勝手だよね、あんたは。……はっ、まさかひな乃、カレシできたの?」
「それはないけど」
けど?
「……あたしはもっとドキドキすることをしたい。このまま友ちゅーで満足してたら、一生カレシできない気がするから」
むっ、という顔をしたのは燐香ちゃんだった。
「それは別に……そんなコトないと思うし……。深優もほら、なんかないの?」
話を振られた深優ちゃんは、頬をかきながら。
「でも、ひな乃ちゃんがもうしないって言ってるのに、それを無理矢理ってことはできないよ。だから、今までありがとうねひな乃ちゃん、かな?」
「ワケとかさ!」
燐香ちゃんは頑なだった。友ちゅーをどうしてもやめたくないみたいに。
「理由はさっき言ったじゃん。高校生になったんだし、って。あたしだけ違う学校にいったし、ちょうどいい機会だよ。もうおしまい。ちゅー友解散」
両手を開くひな乃ちゃんは、「じゃあそういうことで」と席を立った。
「ひな乃」
呼び止めるけれど、彼女は振り向かず。
「じゃあね、みゆゆ、リン」
そう言って、去っていった。
ふたり残されて、燐香ちゃんは後ろに倒れながら「はー!」とうめく。
「なんなのあいつ、勝手に……。勝手に決めてさ! そんなに自分ひとりだけ同じ学校にこれなかったのが悔しいのは、アンタが勉強してなかったからじゃん! マジムカつく! あーもう、同じ学校じゃなくてよかった! 振り回されるのうんざりだし!」
「……うん」
「ってか深優も、なんか言ってやんなよ! どーしてそんな、こんなときばっかり物分りよくさあ」
「わたしは、ちょっと寂しかったかな」
深優ちゃんはうつむく。
「ひな乃ちゃん、ずっとドキドキしてなかったんだもん。わたしはキスするとき、ずっとドキドキしてたのに、わたしだけだったんだな、って」
燐香ちゃんは口をとがらせ、窓の外を見やる。
「……ほんとに、ムカつく」
マジかー……。
女子高生同士のキスが、もう見れないのかー……。
それでも私は、なんだかんだ楽観的だった。友ちゅーがなくなっても、三人の関係はこれまで通り変わらないものだと思ってた。特に深優ちゃんと燐香ちゃんは、隠れてチュッチュするんだろうな、って。
けれどそれは違った。キスで結ばれた強固なはずだった絆は、ほつれる糸のように三人の手から離れていってしまったのだったから――。
縁を招いたはずの私のパワーも、期限切れになっちゃったんだろうか。
二ヶ月後。初めての公式大会が近づいて、最初の出来事が起きた。
「どーゆーことですか、これ」
高校の体育館を覗いてる猫である。実はここを確保するために野良カラスとの熾烈なる縄張り争いや、やたらしつこい守衛さんとの血で血を洗うバトルがあったのだけれど、それはあんま関係ないので割愛しよう。
ともあれ部活中のこと。燐香ちゃんが怖い顔をして先輩に詰め寄ってた。
背も高いし髪も染めてるから威圧感がある燐香ちゃんに、先輩は身を引きながら。
「どうもこうも、書いてるとおりでしょ」
「ウチは深優の相方ですよ。なんで深優が二年の先輩とペアなんですか」
「……そっちのほうがいいって、コーチが思ったからでしょ」
「まどろっこしいのは苦手なんで、聞いてきます」
「あっ、ちょっと、羽黒!」
ひええ、修羅場ぁ……。
体育大から来てる女性のコーチはクールなショートカートで、なんだか中学校の前川先輩みがあった。彼女に燐香ちゃんは真っ向から問いただす。コーチは腕組をしながら平然と言い放った。
「羽黒さん、中学校ではどうだったか知らないけど、ここはみんな上手な人ばかりでしょう?」
「……そーですね」
「中学生気分のままじゃ、困るわ。ハードウェアも、ソフトウェアもね。なんでも自分の思い通りになるなんて、思わないで。せめてみんなを納得させるだけの実力を身につけてちょうだいな」
「なんですか、それ」
不穏な空気に、周りのみんなは練習を中断してる。その中にはもちろん、心配そうな深優ちゃんの姿もあった。
「……どうやら伝わらなかったみたいね、羽黒さん。あなたの今の実力では、花崎さんとは組めないって言っているのよ」
「――」
さすがにその言葉には面食らった。
「深優には、ウチがバドを教えて……。ウチのほうがずっとうまくて、それなのに!」
「フィジカルはいわば与えられた才能だわ。身長だけはどうやっても伸ばしてあげることはできないから。けれどきっと、白幡さんはずっと努力してきたのでしょうね。あなたはそのことを、ちゃんとわかって?」
中学生気分のままじゃ困るわ――。その言葉が反芻し。
深優ちゃんが割り込んできた。
「あっ、あの、違います。わたしは背が低いし、体力ないからずっと燐香ちゃんの足を引っ張ってて、だから燐香ちゃんは思うように動けなくて」
「白幡さん、あなたも特待生なんでしょう? なら、どうするのが一番いいのか、わかっているはずよ。妙な遠慮は相手を傷つけるだけだわ。三年間は短いの。友達ごっこはもう辞めて、あなたはあなたの武器を磨きなさい」
燐香ちゃんは黙り込んで、拳を握ってた。
「ウチが、こんな格好だからですか?」
「え?」
キッと睨みつける。
「ギャルのカッコしてるから、だからどうせマジメにやってないって、そーゆーコト言うんですか。ヘンケンとか、マジでうんざりなんですけど。高校に入ってまで」
コーチは冷ややかな目をしてた。
「あなたがどんなファッションをしていようと、私は関与しません。体育館に妙な価値観を持ち込んでいるのは、あなたじゃないですか?」
「そんなんじゃ」
燐香ちゃんはたじろいだ。
この学校の部活動はみんなストイックで、誰も燐香ちゃんの髪のことなんて言わなかったのに、燐香ちゃんはひとりでずっと気にしてたんだ。
「さ、練習を再開するわ。夏の大会まで、もうほとんど時間が残ってないのだから。白幡さん、ノックをするからコートに入って」
深優ちゃんは立ちすくんだまま、燐香ちゃんを見つめてた。
「燐香ちゃん――」
うなだれたように、ひとりぽつんとラケットを握ったまま立つ燐香ちゃん。
ひな乃ちゃんの言った通り、いつまでもみんな、今のままじゃいられなくて。
けれど、変わってゆくこと、前に踏み出してゆくことは、決して悪いはずじゃないのに、燐香ちゃんの背中はとても寂しそうだった。
夏の試合が終わり、一年で唯一レギュラーになった深優ちゃんは、しかし思うような結果を出すことができなかった。
そしてその日を境に、燐香ちゃんは部活に来なくなった。
深優ちゃんと燐香ちゃんは違うクラスなので、たまに学内で顔を合わせるぐらいになってしまった。
朝練に放課後の練習もある深優ちゃんは、燐香ちゃんを捕まえることができない。LINEはこまめに送ってるみたいだけど、返事もまばらなようだ。
「……よっし」
けれど、うちの深優ちゃんご主人様はただ黙って待ってるだけのタマじゃないからね。タマは私だ。
久々の休日、決意するとお出かけの準備を始めました。
「じゃあ、いってくるね」
手を振って家を出てゆく深優ちゃん。当然のように家を抜け出してついてく私。
向かう先はどうやら、燐香ちゃんちのようだ。
学校がダメなら家に直接張り込む作戦! さすがの行動力! バリタチ力が高い!
夏休みも終わったが、まだ日差しは強い。ノースリーブのワンピースを着た深優ちゃんは、かわいいツバ広の帽子をかぶってた。
途中、あの公園があって、深優ちゃんは立ち止まる。三人で初めてキスをした思い出の公園だ。
「……」
それを見つめる深優ちゃんは、どんなことを思ってるんだろう。
五年前の思い出。寝てばっかりの私は昨日のように思い出せるけど、深優ちゃんにとってはどうなんだろう。
「あっ」
思わず私もニャッと声が出そうになる。
公園の反対側の道路に、燐香ちゃんが歩いてた。彼女も、こちらに気づいたみたいで、立ち止まる。公園を挟んで、ふたりの目が合った。
「深優」
「燐香ちゃん、話があるの」
ふたりは公園の中央でまるで久しぶりみたいな再会をした。
「日に焼けたね、燐香ちゃん」
「……深優はそーでもないね。バドは屋内だし」
深優ちゃんは言葉を探してた。
たぶん、燐香ちゃんを攻めたりはしたくないんだと思う。
「燐香ちゃんは、もう、バドミントン、飽きちゃった?」
深優ちゃんは寂しそうに微笑んでた。
「ごめんね、わたし、気づかなくて。ずっと燐香ちゃんが遊んでくれるものだとばっかり、思ってて。ホント、子供っぽいよね。……おかしいな、こんなこと言いにきたわけじゃないのに」
大人っぽい格好をして薄くメイクを整えた燐香ちゃんは、黒髪に色白の深優ちゃんとは、まるで別の世界を生きてる人みたいだった。
「でも、もしかしたら、ホントは来たくなかったのに、ダブルスで特待生になったからわたしのために高校も一緒に入ってくれたのかな、なんて思って……。もしそうだったら、わたし、わたし……」
「懐かしーね、ここ。初めて一緒にバドやったのも、ここだったよね」
深優ちゃんはぽろぽろと涙をこぼしていた。
「うん……」
「ウチ、ホントはバドなんてほとんどやったことなくてさ」
「……え?」
「あの頃、なんか共通の話題がほしくて、深優と仲良くなりたくてさ、おねーちゃんから教わったんだよ。でも、深優と遊ぶのは楽しかった。ホントだよ。ウチ、熱血ってガラじゃないから、深優が思ったよりドハマりして、びみょーに引いちゃった的なのはあったカモだけど……ってああ、ウソウソ、ジョーダンだから」
また泣き出す深優ちゃんの頭を、燐香ちゃんがよしよしと撫でる。
「ごめんね、深優。ウチ、こんなんでさ。いい加減で、ごめん」
その言葉はまるで、もうバド部には戻らないって言ってるみたいだった。
でも、たぶんそうなんだろう。
燐香ちゃんはだいぶ前から、もしかしたら中学の頃から、バドミントン自体にずっと、興味がなかったんだ。
でも、深優ちゃんがいたから、続けてたんだ――。
「……燐香ちゃん」
「ヘンケンを気にしてないとか、解消したいなんて言ってたけど、あんなの嘘だよ。いつも堅苦しくて、窮屈だった。ウチの居場所はここじゃないって、思ってた。一番気にしてたのは、ウチ自身」
「そんな」
「ひな乃もバイト始めたし、ウチもたぶん、自分の道を探さなきゃいけないときが来たんだと思う。……自分を白鳥だと思ってたみにくいアヒルの子は、アヒルの群れに帰んなきゃね」
もしも。
もし、ふたりがまだ友ちゅーの契約を続けてたままだったら、その言葉の続きをキスで止めることだってできたかもしれないのに。
ふたりはちゅー友じゃなくて、もうただのお友達だから。
「深優にはバド、似合ってるよ。ウチのそばにいるより」
泣きじゃくる深優ちゃんを抱きしめて、しばらくふたりはひとつの影になっていた。
燐香ちゃんは申し訳なさそうに微笑みながら、駅のほうへと歩いてゆく。
その笑顔は、まるで知らない誰かみたいだった。
深優ちゃんがスマホの画像を見て、思い出したように泣くことも少なくなってきた頃。彼女には新しい友達も増え、二年生に進級した。
燐香ちゃんとひな乃ちゃんがおうちに遊びに来ることはなくて。
私は、もう百合ちゅーとか見れなくてもいいから、なんとか三人が前みたいな友達に戻ることは出来ないのかなあ……とずっと思ってた。
せわしなく流れてゆく日常の中で、素敵な思い出はどんどんと色あせてゆく。
そんなある日、事件はまるで嵐のようにやってきた。
「え?」
クラスメイトとの会話の中、ふいに深優ちゃんが顔をあげた。(私が当然のように高校を覗いてるのはスルーしてもらいたい。猫のしてることなので)
「いやだからさ、四組に羽黒っているじゃん。あのギャルの」
二年生のクラス替えで新しく友達になった子は、スマホを指差しながら笑う。
「大学行った先輩がLINEで教えてくれたんだけど、なんかきょう、ヘンなやつとホテル街のほう歩いてたらしいよ。やばいよねあいつ。ウリとかやってんのかな? ……って、え? マジ? 花崎さんの幼馴染なの? えっと、ごめ」
深優ちゃんがその子に詰め寄る。
「見たのって、どこ? 詳しく教えて」
「えっと……」
場所を聞いて、深優ちゃんはセーラー服を翻して駆け出した。
「ちょ、ちょっと、花崎さん、三限目始まっちゃうよ!」
教室にいないことを確認すると、深優ちゃんは学校を飛び出す。初めてのサボり!
そのまま駅に向かうかと思ったんだけど、けれど、深優ちゃんは家に直行してた。バドで鍛えた深優ちゃんの健脚なら五分でつく。ご両親は共働きだからおうちにいないし……。
ってやばい。家に帰られたら私がいないのバレるのでは! ひい、ひい。私も急いで帰らないと!
ギリセーフだった。深優ちゃんが部屋に飛び込んでくるのと、私が窓から帰って施錠を戻すのはほぼ同時。深優ちゃん足早すぎる……。死ぬかと思った……。
深優ちゃんはその場でセーラー服を普段着に着替え、スクールバッグではなくお出かけ用の鞄をもって。
そして、ちょっと迷って。
「……ごめん、タマちゃん。ひとりじゃ心細くて、一緒についてきて!」
えっ、ちょっ、えっ⁉
お呼びがかかって、バッグの中に放り込まれました!
ま、マジか! 視界がぐるぐると揺れる。自分なりのポジションを確保しないと。きも、気持ち悪、ふう、ふふうう、耐えた。
バッグから頭だけ出して、私は状況を窺う。うわあ、駅だ。人がたくさんいる。通りすがりの女性が私を指差しながら「なにあれ、かわいー」と笑う。
私のご主人様は……さっきからずっと、怖い顔をしてた。そりゃそうだよね、燐香ちゃんが援助交際とか、信じられないよね……。
カレシのためにって練習してた友ちゅーが、そんなことになるなんて……。
電車に飛び乗った深優ちゃんがハッとして。
「うっ、しまったかも……」
どうしたの⁉ 深優ちゃん⁉
「わたし、猫料金払ってないよ……。タマちゃんごめん、隠れてて……」
猫料金とか普通ないと思うよ!
ガタンガタンと電車は揺れ、私たちを目的地へと運んでゆく。
でも、そんな先輩が見たなんていう目撃情報だけで、人ひとり探すことなんてできるのかな……。お店なんて山ほどあるだろうし……。
「……いざとなったらタマちゃん、匂いで燐香ちゃんを追跡してね」
期待が重いです、ご主人様!
私なんのスキルもないただの飼い猫なんで!
原宿についたところで、深優ちゃんはあまりの人の多さに呆然としてた。私もだ。人間が、人間がたくさんいる……。
「……タマちゃん、燐香ちゃんの匂いする?」
えっ、ちょっとわからないですね……。
後ろ向きになってくるっと丸まった私のヒゲ(※恐怖を感じているサインです)を見て、深優ちゃんは「だよね……」とうなだれた。
いや、でもちょっと待って。原宿ならほら、もしかして。
同じことを思ったのか、そうか、と深優ちゃんはスマホで調べ物を始めた。
そう、ポップピンクキャット。ひな乃ちゃんのバイト先だ。そこの店員さんなら、もしかしたらなにか知ってるかも。
まるでプールに飛び込むような勢いで、深優ちゃんは人混みに向かって歩き出す。
「ひな乃ちゃん、こんなところで毎日アルバイトしてるなんて、すごいね……」
すごいね……。
深優ちゃんなんて、高校に入ってから部活しかしてないからね。
人に流され、似たような区画を迷い、なんとか深優ちゃんはお店に辿り着いた。さて、なにか手がかりがあればいいんだけど……と思ったらである。
「いらっしゃいませー……ってあれ、みゆゆ?」
「ひな乃ちゃん⁉ 学校はどうしたの?」
「それはあたしのセリフだけど。でも大丈夫、出席日数は計算してる」
お店のブランドに身を包んだひな乃ちゃんは、いつもより二倍増しで美少女に見える。名札には『ひなの♡』ってあった。カリスマ店員みたいだ。
「あの、実は燐香ちゃんのことなんだけど」
深優ちゃんはすぐ本題に入った。
事情を聞いて、ひな乃ちゃんはぼうっと天井を見上げた後で。
「知ってるかもしんない」
「ホントに⁉」
私も頭を出してにゃーと鳴いた。ひな乃ちゃんはますます怪訝そうな顔になる。
「なんで毛玉まで……。ま、教えてもいいけど」
ひな乃ちゃんは奥にいたカッコイイ女性に「お昼の休憩、ちょっと早めにいただいてもよろしいですか?」と尋ね、OKをもらっていた。
あのひな乃ちゃんが敬語を使ってる……。すごい、人って成長するんだ。
「……なんか毛玉が失礼なことを考えてそうなんだけど」
第六感は相変わらずのようだった。
ということで、ひな乃ちゃんは深優ちゃんの手を引いて、バックヤードに引っ込んでゆく。狭い休憩室だ。
「でも燐香ちゃんがそんな、そんなことしてるなんて、嘘だよね」
ひな乃ちゃんに会えてホッとしたからか、深優ちゃんはさっきよりもずっと不安そうだった。瞳の奥が潤んでる。
「でもさ」
冷たい声だった。
「もしその人が、仮にカレシとかだったら?」
「え……?」
予想もしてなかったという深優ちゃんの表情。
「だって、平日の昼間から燐香ちゃんを連れ回してるなんて、絶対ヘンだよ」
「それでリンが幸せだったら?」
「そんな」
ひな乃ちゃんはあくまでも淡々と。
「どうしてみゆゆはリンを探してるの?」
「だって、大切な友達だから」
「それだけなの?」
深優ちゃんは、ひな乃ちゃんがなにを言わせようとしてるのか、わからない。
「大切な、友達だよ。転校してきて、誰も知り合いがいないわたしを遊びに誘ってくれて、ホントに嬉しかったんだから。今度は、わたしが燐香ちゃんに寂しい思いをさせないようにって」
「……いいよ、教えてあげる」
「ホントっ?」
「ただし、条件があるの。あたしを、ドキドキさせてくれたら、いいよ」
「それは……」
事務所にはふたりきり。私はいるけど、他の人の姿はない。
ひな乃ちゃんは深優ちゃんの頬を撫でる。
「できないの?」
「……ひな乃ちゃん」
挑発的に笑うひな乃ちゃんに、深優ちゃんは顔を近づけてゆく。
「待って」
唇と唇の間に、ひな乃ちゃんが手のひらを差し入れた。
「あたしとみゆゆは、もうちゅー友じゃないんだよ。それなのに、キスするの?」
「でも、それはひな乃ちゃんが」
「みゆゆは『ただのトモダチ』と、ちゅーするの?」
じっとひな乃ちゃんが見つめてくるその瞳の色は、艶やかで。
なにを言わせようと、やらせようとしてるのか、正解がわからない。
「わたしは」
だけど深優ちゃんは、あくまでも自分の心に正直で、ひな乃ちゃんの手を握る。
「ひな乃ちゃんが、好きだよ」
「……それは、友達として?」
「わかんないよ。でも、大切だから。最初はちゅー友だからってキスしてたけど、けど、そのうちそれだけじゃなくなってきて……。それなのに急にやめるっていうから、わたしは……」
「……ねえ、みゆゆ」
ひな乃ちゃんは握られた手を口元に運ぶ。
「キスって、本当は特別な人としか、できないんだよ。知ってる?」
「……うん。……こいびと、と」
深優ちゃんの指をつまんで、自分の唇を撫でさせるひな乃ちゃん。
「ふたりは選べないんだよ、みゆゆ」
「……でも、わたしは」
深優ちゃんは首を振る。
いつかは選ばなきゃいけないことだったのかもしれない。
でもそうしたくなくて、ずっと、ただあの楽しいだけの時間が続けば良いなと思って、だけど――。ひな乃ちゃんは、そうじゃなかったんだ。
「ねえ、ドキドキさせてよ、ねえ、みゆゆ」
抱きつきながら髪を撫でる彼女に、深優ちゃんは――。
「わたしは」
自分の気持ちと、向き合う。
小学校、中学校、高校、その六年間の思い出。
ずっと、ずっと、大切だったあの子のことを。
その本当の心に、名前をつけるんだ。
「――燐香ちゃんを、愛してるの」
「っ」
ぶるぶるっと、ひな乃ちゃんは震えた。
それは小学生のときに見た、ドキドキに目を輝かせた彼女の姿そのもので。
深優ちゃんの頬を撫で、心から幸せそうに、微笑んだ。
「そっか……。よかった」
「でもね」
「んっ⁉」
深優ちゃんが、不意打ちのようにキスをする。ひな乃ちゃんが目を白黒させ、私もびっくりした。
逃れようと軽く暴れるひな乃ちゃんの手首を掴み、強引にキスを続けてゆく。ひな乃ちゃんはやがてくったりと力を抜いて、その体を深優ちゃんに預けた。
ゆっくりと顔を離してゆく深優ちゃん。唾液の橋がかかり、ふたりの表情はお風呂上がりのように赤く染まっていた。
ひな乃ちゃんがハッと気づいて深優ちゃんに「どうして」と問う。
「リンを、愛してるって」
「でも、ひな乃ちゃんのことだって、愛してる」
「な」
ひな乃ちゃんが言葉を失った。
深優ちゃんは誰よりも本気だった。
「どちらかしか選べないなんて、知らない。わたしはこれからもずっと、三人でいたいから。わたしのことが嫌いになったなら仕方ないと思ったよ。でも、もしそうじゃないんだったら、わたしたちは無理に決めたり、捨てたりする必要なんてない。ずっとこのままだって、いいんだよ。大人になって変わってゆくものの中で、変わらないものだってあるんだから」
「でも、そんなの……ふつうじゃない」
「そんなの、どうだっていい」
深優ちゃんは力強く言い切った。
「わたしは、燐香ちゃんと、ひな乃ちゃんを、愛してる。わたしを外に連れ出してくれた燐香ちゃんを。それに、わたしに普通じゃないことをたくさん教えてくれたのは、ひな乃ちゃんだよ。わたしをこんな風にしたのは、ひな乃ちゃんなんだから」
そう言って頭を撫でると、ひな乃ちゃんはうつむいた。
「あたしは、ずっとドキドキしたくて。でも、見つからなくて」
うん。
「だから、あたしが三人の輪からいなくなれば、リンとみゆゆが付き合って、ふたりで幸せになって、その姿を眺めるだけでもっとドキドキできるって思って。名案だって思って別の学校にいったけど、ひとりであたしなにやってんだろって……。でもね、リンが『愛してる』って言ったあの日の微笑みが、ずっと胸の中でキラキラしてて、だから……なのに」
ひな乃ちゃんは深優ちゃんの胸に顔を埋めるようにして、抱きついた。
「知らなかった。誰かに愛してるって言われることが、こんなにドキドキするなんて。でも、誰でもいいってわけじゃないんだ、きっと。みゆゆに言われたから、嬉しい。もしかしたら、あたしはずっとドキドキしたかったんじゃなくて、誰かに愛してるって言われたかっただけなのかも」
「うん、愛してるよ、ひな乃ちゃん」
「あたしも。まだ愛がなんなのかわかんないけど、でも、このドキドキはきっとそうだと思う」
ふたりは額をくっつけ、微笑み合う。
「ひな乃ちゃんがこんなに素直なんて、珍しいね。えへへ」
「みゆゆが、ムード作ってくれたから」
背伸びして、今度はひな乃ちゃんが深優ちゃんの唇にキスをした。
「あいしてる」
ひな乃ちゃんのその言葉は、すごくキレイな響きだった。
「リンはlyslysって名前のクラブにいると思う。みゆゆがいったら、絶対喜ぶよ。迷惑なんて思わない。あたしの話なんてきかないから、みゆゆがいってあげて。今度はみゆゆが、リンを守ってあげて」
「うん」
うなずいた深優ちゃんだったけど。
「……ひな乃ちゃん?」
「なに?」
「えーっと……。そんな風に抱きつかれてたら、離れられないよ?」
「うん、もちょっとだけ」
しばらく愛してると言わされた深優ちゃんが解放され、歩いていった先にはクラブがあった。深優ちゃん、私服に着替えてきてよかったなあ。
相変わらず私の突っ込まれた鞄を背負い、深優ちゃんは心細そうに、だけど勇気を出して中に入ってゆく。
「ちょっと、まだ営業時間前だよ」
ドアマンに呼び止められ、深優ちゃんはビクッとした。ドアマンは派手な格好をした女性で、燐香ちゃんレベル百! みたいな感じである。
「あ、あの、えと、ここに友達がいるって聞いて、その」
いざとなったら私が囮にならなくては……。猫が飛び出したその隙に中に入ってくれ、深優ちゃん……。
「友達?」
女性は深優ちゃんを上から下まで眺めて、うーん、と首をひねった。
「友達……友達ねえ。なにかの間違いじゃない? あんたみたいな子の友達なんて、ここには」
「あの、羽黒燐香って言います」
「え? リンカ? うっそ、マジで? えーなんだ、リンカのダチかあ。それならそうと入りなよ。入場料とか取んないから。ほらほら」
彼女はけらけらと笑う。笑った顔はあどけなくて、かわいらしかった。
あれ、あっけなく通してもらえた……。いや、いいことだけど。
営業前なのにディスコ照明がキラキラと輝くホールはまるで宇宙空間みたいで、めちゃくちゃ綺麗だったんだけど猫の私的には目がチカチカしてすごいつらい。
深優ちゃんは物珍しさに目を輝かせていた。さすが好奇心から生まれた子。
そのホールの奥に、燐香ちゃんがいた。
雑誌とスケッチブックを広げて、ウンウンとうなってる。
「燐香ちゃん!」
「え? み、深優?」
無事な燐香ちゃんを見て、深優ちゃんが心からホッと息をつく。
「よかった、なにもなくて」
結局は、それが確認できたことで、深優ちゃんがここにきた目的のほとんどは達成できたんだろう。深優ちゃんからこぼれる、心から友達の身を案じていた微笑みは、それはそれは尊いものだった。
「なんでここにいるの? え、どーして? てか、がっこーは?」
戸惑う燐香ちゃんを見て、深優ちゃんがくすっと笑う。
「サボっちゃった」
「えー、大胆なことやってんね。深優も悪い子になっちゃったの?」
「そうかも」
深優ちゃんはそれが当たり前のように、燐香ちゃんの隣りに座った。
まるで、ふたりの寂しかった別れなんて、なかったときみたいに。
たぶん、それもこれも、ひな乃ちゃんが勇気をくれたおかげだ。
今の深優ちゃんはきっと無敵だ。
「ね、なにしてるの? 燐香ちゃん」
「んー、ナイショ」
「えー」
「だってハズいし。ウチが地道に努力してるとことか、深優には見られたくないなーって……」
「えー、えー。どうして?」
子どものように駄々をこねると、燐香ちゃんは観念したように笑い、頬をかいた。
「だって、いつも言うじゃん。深優はあたしのことカッコイイって。そのイメージ、崩したくなかったから。カンッペキに、もう手遅れだけどさ」
「そんなことないよ。燐香ちゃんはいつもカッコイイよ。わたしの、憧れだよ」
「……あたし、そんな大したやつじゃないよ」
燐香ちゃんの笑みが、自嘲へと変わってゆく。
「わかってたんだ。どんどん深優がバド上手になってって、置いてかれそうになってるの。必死にあがけばよかったのに、それもできなくって。がんばれないのが、一番かっこ悪いよ。挙げ句の果て、コーチとケンカまでして」
「燐香ちゃん……」
顔をくしゃっとした深優ちゃんは、泣きそうだった。
その顔を見た途端に、燐香ちゃんはガジガジと髪をかく。
「あーもう、だからそーゆー顔されるとさ……。もー、大丈夫だから、心配しなくっていいんだから。わかったわかった、ウチの負け。だから――」
燐香ちゃんは机の上にある紙を見せてきた。
それは、様々な洋服のデザイン画だった。
「これ、燐香ちゃんが……? すごい、絵上手! こんなの描けたんだ!」
「まだまだだよ。線は荒いし、全部なんかのパクりだし。でも、少しずつ頭の中のイメージが描けるようにはなってきた、かな。なんせ、部活もがっこーもサボってずっと描いてたかんね」
えっ、まったくのゼロから始めて、こんなに上手になったんだ……。燐香ちゃん、すごい。
「ウチもさ、バドがんばってる深優みたいに……なんか本気になれるもの、探したかったんだ。なにがいいかなーって思って、色々とやってみたけど、やっぱウチは服が好きだし、ファッションでなにかできたらいいなって思って。おねーちゃんとか、その友達に相談して。ここでクラブの手伝いをしてる間、デザイナーの人に色々と教えてもらってるんだ」
すると、ちょうどひとりの若い女性がホールに出てきた。ずいぶんと奇抜な格好をした人だ。髪は三色。上下の色使いもカラフルで、もしかして燐香ちゃんが目撃されたのはあの人とのことだろうか。確かにヘンな人だ……。
彼女は深優ちゃんの姿を見ると、ごゆっくりというジェスチャーを残し、手を振って去っていった。浮かべた笑みは温和で、どことなくいい人そうだった。人は見かけによらないっていうのは、もう燐香ひな乃ちゃんで経験してるもんね。
「だからさ、深優。あたしが誘ったのに、ごめん。でも、バドより本気になれるものが、見つかりそうなんだ。もしかしたらこれもやめて、また違うなにかを始めることになるかもしんないけど……。でも、ウチもきっとなにかを探すからさ」
「うん……燐香ちゃん、うんっ」
その言葉を聞いて、深優ちゃんはとっても嬉しそうだった。
もうバド部で一緒に部活動ができなくても、ただ燐香ちゃんが幸せそうなことが、幸せそうだった。
「教えてくれて、ホントにありがとね、燐香ちゃん」
「まだなんにもしてないのに、こーゆーこと言うの、めっちゃハズかったよ。結局、バド辞めた理由を正当化してるみたいなもんだし……」
「ううん、そうじゃないよ」
深優ちゃんは自信をもって、断言する。
「だって、それは燐香ちゃんがそうしようって思って決めたことなんだから、絶対、いいことだよ。絶対そうだよ」
大人になっても変わらないものの中で、変わってゆくものもある。
それはきっと、そういうことなんだと思う。
自分をみにくいアヒルの子だって言ってた燐香ちゃんは、たぶん、自分の居場所を見つけられたんだ。
「わたし、燐香ちゃんが危ないことに巻き込まれてなくて、本当によかった」
「え? ウチが? どーしてそんな」
笑い飛ばそうとした燐香ちゃんだけど、深優ちゃんの真剣な顔を見て。
「……そっか、ありがとね、深優」
「うん」
深優ちゃんは燐香ちゃんに抱きついて、そして。
「燐香ちゃん、愛してるよ」
「えっ……えっ⁉」
ホールの中でもあからさまにわかるほど、燐香ちゃんの顔が赤くなっていった。
「ちょっと、深優、それどーゆー……」
「わたし、わかったの。ずっと、ずっと、燐香ちゃんのこと愛してたんだって」
「そ、そりゃ……ウチも、深優のことは、好きだけど……そんな」
「愛してる、燐香ちゃん」
ううう、と押し黙ったあとに、燐香ちゃんは目を逸らして。
口を尖らせながら、こう言った。
「……愛してるよ、深優」
離れていた時間は、たった数ヶ月だったけれど、まるで数十年の時を取り戻すかのように、ふたりはそのままずっと話し続けた。
クラブの手伝いは深優ちゃんにとってすごく新鮮で楽しかったみたいで、デザイナーさんやスタッフのギャル、それに燐香お姉ちゃんにも気に入られた深優ちゃんは「またおいでね!」と熱烈な握手、そしてハグを交わした。
ちなみに手伝い中もさんざん燐香ちゃんが「あんな可愛い彼女がいるんだから、泣かしちゃダメよ」だとか、「女の子同士、いいわねぇ」などと言って先輩たちにからかわれ、そのたびに真っ赤になっていた。
鞄の中から這い出した私がギャルのお姉さんたちに捕まって、さんざん可愛がられ尽くしたことは特に今回の件に関係がないので、置いておこう。久々に死ぬかと思った。ちび燐香ちゃんとちびひな乃ちゃんがいっぱいいたような気分だ……。
こうして。
深優ちゃんの初めてのサボりは終わり、夏も終わりに近づいたある日。
三人は、仲良くプールへと出かけていった。
学校が終わったあとの――夜のプールへ。
「こっちこっち」
深優ちゃんがおいでおいでする後を、燐香ちゃんとひな乃ちゃんは楽しそうについてゆく。
「にしても、まさか深優がこんなコトを思いつくなんてねー」
「悪い子になったねえ」
「ふふふ」
笑う深優ちゃんには鍵がある。水泳部の友達から借りてきたらしい。きょうは水泳部が間違って深夜まで予定取っちゃってたらしいから、警備員さんがいないんだとか。
にしても、夜の学校に忍び込むだなんて、大胆不敵だ。
あ、いつものように私は部屋を抜け出してついてってます。苦節六年! ついに、ついに三人の水着姿を見れるんだ! やったー!
裏門をくぐり、三人は抜き足差し足忍び足。声を殺して笑いながら、女子更衣室へと入っていった。私は挟まれないように間一髪扉をくぐる。
三人は非常灯に照らされ、暗がりの中で着替えを始める。猫目だからその様子もバッチリ見えてしまう。やばい。
「今年は海いけなかったからねー」
「でも燐香ちゃんずいぶん焼けてたよね?」
「イベントの手伝いに動員されてたの。なんでもべんきょーですからねー」
「あたしは海行ってきたよ。ミナと。泳がなかったけど」
「ミナ?」
「前川美奈。中学の時、バド部のセンパイだったあの」
ブッと燐香ちゃんが吹き出した。
「なんで海行く仲なの⁉ なにがあった⁉」
「なにがって……。中学の卒業式のときにコクられて、でもあたしはリンとみゆゆが好きだからって断って、だったら友達からって言われて。ミナはすぐに彼女見つけたみたいだけど……。あれ、この話ってしたことなかった?」
『初耳』
はてさて、とひな乃ちゃんは首を傾げていた。「そういうこともあって、あたしたちがちゅー友っていう関係でなんにも進展しなさそうなのがヤで、一抜けしたんだよ」
「知らなかった……。ひな乃あんた他にも謎がたくさんありそーよね……」
「謎とかないし。結局、みゆゆにまた引き込まれちゃったけど」
ふふ、と一番最初に着替え終わった深優ちゃんは、笑いながらひな乃ちゃんの肩を抱く。
「でも、進展はしたでしょ?」
「……う、うん……。した……。よかった」
「なに頬を染めてんの」
「うるさい」
ひな乃ちゃんの水着は、ピンクに白の三角ビキニ。ひな乃ちゃんは胸がないけれど頭が小さくてスタイルがいいので、まるで二次元美少女みたいなかわいさだ。
「よーし、泳ぐぞー」
ぐっぐっと柔軟する燐香ちゃんは、黒のフレアビキニだ。首の後ろで結ぶタイプのホルターネック。胸の大きさが強調されるので、見ててドキドキしちゃう。
「楽しみだね、いこっ」
そして深優ちゃんご主人様のビキニ。フリルのついたサンイエローカラーは、健康的でスポーティーな深優ちゃんによく似合う。特に足の長さが際立ってて、海辺の視線を独り占めコース間違い無し。
けれど今は、三人きり。(と紛れ込んだ猫一匹)。
夜のプールは、どこか冷たさを感じさせる。吸い込まれそうな暗い水。あっ、これやばいやつでは。私はなるべく覗き込まないように避難する。いつかのトラウマが蘇りそうな気がしたのだ。
このままでは、三人が水にたわむれる姿も、思う存分観賞することができないのかもしれない……。うう、千載一遇の好機に、なんたる口惜しさ……。
次の瞬間――。
ぱっと明かりがついた。
それは眩しいネオンライトではなく、プールを内側から蒼く照らす幻想的な照明だった。揺れる波間が光を乱反射し、辺りは青の世界へと瞬く間に書き換わる。
私は思わず見惚れた。そこは先ほどまでの一切を拒絶するような分厚い水の塊ではなく、夜の化粧を施された麗しくも華やかなナイトプールだった。
三人だけの楽園だ。
「照明綺麗でいいね! うっわ、水つめた!」
「入ったら慣れるよ。ほら、ひな乃ちゃんも、ほらほら」
「別の学校のプールに忍び込むとか、じわる」
三人は手を繋いでプールに飛び込んだ。
水をまとい、体を寄せながら、「あはは」と笑い合う。
それはまるで、世界で一番尊い景色だった、
あっ、気づいたら私、プールを覗いているのに全然平気だ。水があんなにこわかったはずなのに。すごい、これも百合効果か……。百合はトラウマに効く……。
ぱちゃぱちゃと水をかけあって、キスをして、広いプールを思いっきり泳いで、それからまたキスをして。
深優ちゃんは買い替えたばかりの防水スマホで、何度もみんなの写真を撮った。この思い出を永遠に残すように。
もう友ちゅーじゃなくて、恋人同士のキスをした三人は、プールサイドで手をつなぎ、足をプールに浸しながら、星を見上げていた。
「ありがとうね、燐香ちゃん、ひな乃ちゃん」
「どーしたのさ、急に」
「なんだか、お礼が言いたくなっちゃって」
深優ちゃんが燐香ちゃんの濡れた唇にキスをする。
「わたしと出会ってくれて、ありがとう。こんなわたしに楽しいことをたくさん教えてくれて、本当にありがとうね」
「それなら、お礼を言うならこちらこそだよ」
今度は燐香ちゃんがキスをした。
「深優がいなかったら、ウチはもっとつまんないやつだったよ。井の中の蛙で、いい気になってた。深優と出会えたから、ウチは変われたんだ。……深優の隣にいても、ハズくないよーにさ」
「えへへ、そんな燐香ちゃんのこと……愛してるよ」
「……ウチも、深優のこと、愛してる」
「大人になったら、結婚する?」
「えっ……そ、それは。今そーゆーの話すのって、急すぎない? 深優もウチも、将来のことなんて全然決めてないし……」
ひな乃ちゃんが深優ちゃんを抱き締める。
「リンはしたくないそうなので、あたしとしよ。幸せになろ」
「うん、愛してるよ、ひな乃ちゃん」
「あたしもあたしも。愛してる」
「待って。誰もヤとか言ってないし。……てゆかそーゆーの、軽はずみに口にしていいものじゃないと思うし……」
「あたしは軽はずみじゃないよ。今すぐだっていいし」
「嘘つけ! 脊髄反射で生きてるくせに!」
燐香ちゃんがひな乃ちゃんの頬をぐにににと引っ張る。そこで微笑んでいる深優ちゃんと目が合った。
深優ちゃんはふたりの頭をまとめて抱きしめながら。
「じゃあ、三人で一緒に住もうよ。いつまでも一緒に、おばあちゃんになっても、毎日キスしよう。新しいこといっぱいいして、楽しい思い出を作って、愛し合おう。これから何十年先も。ね、燐香ちゃん」
「ん……」
燐香ちゃんは深優ちゃんの背中に手を回す。
「……うん」
ひな乃ちゃんがふたりの頬にキスをした。
「しょうがないなあ。リンとも仲良くしてあげる」
「プールに沈めるよ」
「溺れるなら愛の海がいい。特にみゆゆの」
そんなことを言い合いながら、三人だけの夜は過ぎてゆく。
風邪を引かないうちにって、髪を乾かして、みんなはプールを出ていった。
またね、また明日ね、と手を振り、別れを惜しむように何度も振り返り、笑い合い。
これから先も、ずっと、いつまでも幸せに祝福されている――そんな三人の、夏の夜の物語だった。
――けれど。
そのとき、燐香ちゃんがどんな決意を抱いていたのか、今の私たちに知ることはできなかった。
ハッピーエンドは、まだ遠かった。
一本の電話だった。
燐香ちゃんがバドミントン部を正式に退部し、高校も休みがちになったけれど、けれど彼女はがんばり続けていて、深優ちゃんもそれを応援して。
きっと、幸せな日々だった。
だけど、いつまでもそのままでは、いられなかった。
その日は朝から大雨だったので、私はつまんないなあと思いながら、いつものように昼ドラを眺めたりしていた。猫の醍醐味だにゃあ。
耳がぴくんと跳ねる。ただいまー、とドアを開いて深優ちゃんが帰ってきた。そうか、きょうは終業式だから、部活もないのか。
来年から深優ちゃんは二年生だ。私は深優ちゃんの足に擦り寄る。
「あはは、ただいま、タマちゃん。きょうは甘えん坊だね」
抱きかかえられた私は、微妙に恥ずかしくなりながらも、にゃーと鳴く。もはや深優ちゃんの体は燐香ちゃんとひな乃ちゃんのものだからね。私はこうしてたまに構ってもらえるだけで幸せです、ホントに。
深優ちゃんはお部屋でラフな格好に着替える。きょうはどこかに出かける用事もないみたいで、スマホを片手にベッドに寝転がった。
わたしもその横にべたんと座る。知らず知らずのうちに舌が出てしまうのは、リラックスして筋肉が緩んじゃうからだ。おうちにいるときはだいたい舌が出てます私。
しばらくして、深優ちゃんに電話がかかってきた。
耳がぴくりと動く。燐香ちゃんだ。
「はーい、燐香ちゃんー」
深優ちゃんの声が弾む。
愛し合ってるふたりのお電話だものね。
『あのさ』
「うん」
燐香ちゃんの声は硬かった。
なにかを察したのか、深優ちゃんが身を起こして、ベッドの上に座った。
『ホントは、言わないようにしようって、思ってたんだけど』
「なになに、ナイショの話?」
茶化すように微笑むけれど、深優ちゃんの顔は笑顔になりきれてはいなかった。
なんだろうか。
『考えてたんだ』
「うん」
『ウチも深優といつまでも一緒にいたいから、だから、できれば早いほうがいいって思って』
「……早い方って、なにが?」
『この業界、やっぱりみんな若いし、子どもの頃からやってる人ばかりだから、ちゃんと勉強しないとダメだって思ったんだ。今度こそ本気なんだ。だから』
「……うん」
『こないだ深優も会った人がさ。うん、あのすごいカッコした人。フリーでデザイン事務所を立ち上げて、それで、ウチにも声をかけてくれてさ。よかったら働かないか、って。業界に関われるし、働きながらでも勉強はできるから』
深優ちゃんは口元を抑えた。すぐに明るい声をあげる。
「そうなんだ。すごい、すごいね、燐香ちゃん! もう働き始めるなんて、すごいよ。燐香ちゃんの夢の、第一歩だね!」
『うん……ありがとう。でも』
でも。
その後の言葉を、深優ちゃんは待つ。
合格発表を見に行くような、ひたむきさで。
『働くなら、しばらくは住み込みになると思う。家に帰る時間もないし、事務所には居住スペースも作ってくれるみたいだから。事務所の場所もここじゃなくて、■■っていうとこだから』
ここからじゃ新幹線で行くような遠い街の名前だった。
深優ちゃんは息を呑んだ。
「そう、なんだ。でも、チャンスだよ。燐香ちゃんの夢を叶えるためだもん。ね、お盆とか、お正月には会えるよね?」
『わかんない。しばらくは、すごく忙しいみたいだから』
電話の向こうで、ガチャリとドアの音がした。
ざあざあ、と雨がコンクリートを叩く音が伝わってくる。
『ナイトプール、楽しかった。すごくいい思い出だよ。誘ってくれて、ありがとう』
深優ちゃんが、おそるおそる問いかける。
「燐香ちゃん、お出かけ?」
『……実は、ずっと前から誘われてて。でも、決心がつかなくてさ』
「……」
『せっかく、深優とこんな風になれたのに、離れ離れになりたくなかったから。だから、ごめん』
「……どうして、謝るの?」
『ウチ、今から、行くんだ。しばらく、帰ってはこないと思う』
まるでふたりの距離を隔てるように、雨音が響く。
「わかった。でも」
『頼みがあるんだよ、深優』
「……なあに?」
『見送りには、来ないでほしいんだ』
突き放すような言葉だった。
「……どうして?」
『だって、かっこ悪いよ。深優がきたら、たぶん泣いちゃうから。せっかく、夢を叶えにいくのに、そんなのしまらないじゃん。へへっ、だからさ、せめて笑っていこうと思って』
深優ちゃんはしばらく押し黙っていた。
「……燐香ちゃん」
『いってくるよ、ウチ。深優ががんばる姿、どこでも応援してるから。だから、もし帰ってきたそのときはさ』
「……うん」
すぅと息を吸って、燐香ちゃんが……。
……でも、言い出せなくて。
『…………帰ってきたら、ちゃんと、言うね』
深優ちゃんの頬を、涙が伝う。
それでも彼女は、微笑んだ。
「うん、待ってる」
これ以上話すと泣いちゃいそうだから、とすぐに電話は切れた。
深優ちゃんはそのままうつむいた。
ぽたり、ぽたりと溢れる涙が、シーツを濡らす。
「燐香ちゃん……。りんか、ちゃん……」
明日から、もうしばらく会えなくなる。
燐香ちゃんの口ぶりだと、一ヶ月や二ヶ月じゃないだろう。一年、二年。もしかしたらそれ以上かもしれない。
それでも燐香ちゃんは胸を張って、夢に向かって進んでいこうと思ったのだ。
きっとそれは、祝福されるべきことだ。
「りんかちゃん……」
だけど。
スマホを胸に抱きながら泣く深優ちゃんは、とても悲しそうだった。
ふたりとも、せめて会ってお別れを言いたかっただろうに。手を握り、抱きしめて、そうしてキスをしたかっただろう。けれど、せめてカッコイイ姿を見せたいんだって、燐香ちゃんは言い残したから、深優ちゃんは燐香ちゃんの気持ちを思いやってあげて。
まったく。
人間は、これだからややこしくて、面倒くさいんだ。
会いたいなら、お別れが言いたいなら、会えばいいのに。
気になった漫画の続きが二度と読めなくなるように――。
――もう二度と、会えなくなる人だって、いるんだから。
私は深優ちゃんの胸元に潜り込み、スマホを口に咥えた。お、重っ!
「タマちゃん?」
そのまま、走って深優ちゃんの部屋を飛び出していく。
「どこいくの⁉」
私は玄関に飛び付いてドアを開くと、そのままスマホを咥えて駆け出す。マンションの階段を飛び降り、足を打ちながらも踊り場を抜けて外へ。
燐香ちゃんがさっき家を出たばかりなら、乗ろうとしている新幹線の時刻はバッチリとわかる。だてに飼い猫は暇してないんだ。時刻表は暗記してしまった。今からなら、きっと間に合うはず。ううん、間に合わせるんだ。
後ろからスニーカーを履いた深優ちゃんが「タマちゃん!」と慌てて追いかけてきたのを振り返り確認しつつ、私はさらに速度をあげる。
掴まったら意味ないから、全速力だ。重いスマホを咥え、おまけに私はろくに運動だってしてない。相手はバドミントン部のホープ。これはもう種族差を信じるしかない。
あーあ、今までずっと、まっとうな猫のふりをしてきたのに。
こんなことをしたら、私が普通の猫じゃないってバレちゃうよ。
人の言葉がわかるなんて、もしかしたら気味が悪いからって、捨てられちゃうかもしんない。
素敵なおうちも、温かいごはんも、優しいご主人様も、みんなみんな、パーになっちゃう。
だけど――。
――そんなの、どうだっていい。
私は一度死んで、深優ちゃんに命を拾ってもらったんだから。
深優ちゃんの幸せのために、全力を尽くすって決めたんだから。
――だが。
マンションの玄関に来た私は、外を見て思わず絶句する。
そうだ。まるで行く手を阻むように、大粒の雨が降り続いていた。
全身の毛が逆立つ。雨に濡れたときの、あの身を切るような冷たさに吐き気がこみ上げる。いくらスマホが防水で助かるからって、この雨の中を走っていくなんて正気じゃない。晴れてる日ですら間に合うかどうかわからないのに。
雨が怖い。
私がどんなにがんばったって結局、燐香ちゃんは次の休みには帰ってきて、ふたりは無事にまた会えるだろう。人はそう簡単に死んだりしないし、万が一なんて、起きるはずがない。ちょっとの間、寂しいのを我慢するだけだ。
私ががんばる必要なんて――。
「――タマちゃん、おうちを出たらだめだよ、寒いんだから、帰ろうよ!」
深優ちゃんがもう追いついてきた。このまま私はその温かな腕に抱きしめられ、おうちに引き戻されるのだ。そうだ、言い訳なら無限に思いつく。
私になにかあったら、深優ちゃんも悲しむんだから、そんな無理することはないんだ。ほら、今ならば、まだ――。
咥えてるスマホに目を落とす。
待受は、燐香ちゃんと深優ちゃんとひな乃ちゃん。三人がプールで並んで微笑んでる姿だった。
ベッドの上で泣いてた深優ちゃんがフラッシュバックする。
ダメだ。
深優ちゃんのそばには、燐香ちゃんがいないと。
私じゃダメなんだ。
だから――。
私は雨の中に飛び出した。
走る。
大粒の雨は体の小さな猫にとっては尋常じゃない破壊力で、なにせこちらとら一歳児よりちっちゃいのだ。マシンガンのようだった。
走る。
雨に濡れた手足が尋常じゃなく重い。猫の毛はたっぷりと水を吸い込み、まるで囚人の重りみたいだ。
走る。
濡れたアスファルトは今にも滑りそうで、この速度で転がったらどう考えても怪我は免れない。だけど、最高速度を出さないと電車の時間に間に合わない。心臓が爆発しそうだ。
走る。
大雨の街を一匹の飼い猫が駆け抜けてゆく。けれど胸は少しも冷たくない。たっぷりと愛情を注いでもらったから。私はもう十分に愛してもらえたから。だから、大丈夫。私は、寒くない!
走る。走る。走る。
ほとんど前が見えないから、どこを走っているのかもわからない。だけど目的地に近づいているんだってことだけはちゃんとわかる。大丈夫。寒くない。寒くなんてない。
私がどうしてこんな猫になってしまったのかわからないけど、でも、もし深優ちゃんに拾われたことに意味があるのならば。
だってそれは、深優ちゃんを幸せにするためなんだから――。
視界が開けた。
そこは駅前交差点。
雨で車の音も聞こえなかった。
ライトに照らされる。やばい。
飛び退こうと思ったけど。濡れたアスファルトで前脚が滑った。
やばい。迫る車がスローモーションで近づいてくる。
二度目の死は怖くない。
だけど、スマホを壊してしまうかもしれないのと、深優ちゃんを燐香ちゃんの下に送り届けることができなかったのが、無念で仕方なかった。
衝撃の瞬間を想像し、私は固く目をつむる。
感触が。
抱きかかえられた。
その温かみを、私は知ってる。
一瞬も速度を落とさずに猫と、落ちたスマホを拾い上げた彼女は――私のご主人様は、全身を雨に濡れながらも、私を安心させようとしてか微笑んで、こう言った。
「一生懸命、走り込んできてよかった。タマちゃんを、助けられて」
駅は、すぐそこだった。
声だけが、聞こえる。
「深優。どうしてここに」
もう目を開ける力も残っていなかった。
「わかんない。でも、きっと、タマちゃんが連れてきてくれたんだよ」
深優ちゃんもずぶ濡れなのに。
「なんだよ、それ。来なくていいって、言ったのに。……いや、ごめん、勝手なこと言って」
温かい。
「ううん、わたしのほうこそ、ごめんなさい……でも、会いたかったんだ。わたし、ちゃんと会って、お別れを言いたかったよ」
すごく、温かい。
「……はあ、やっぱ、ダメだ。深優を見ると、泣いちゃうよ。ずっと深優の前で、泣かないようにしてたのに」
意識が。
「うん」
落ちてゆく。
「本当は、離れ離れなんてヤだ。ずっと深優のそばにいたいよ。バドだってがんばるし、いつまでも一緒がいい。だけど、それじゃダメなんだ。そんなんじゃ、ウチはウチが嫌いになっちゃうから。ウチ、がんばるから」
深優ちゃんは。
「うん」
最後の力を振り絞って。
「帰ってきたら、そのときは」
目を開く。
「うん」
彼女は。
「結婚しよう。愛してるよ、深優」
泣きながら、微笑んでいた。
「わたしも、愛してる」
私が見たのは、
世界で一番きれいな笑顔だった。