背に感じるぬくもりと、私の中に湧き起こった不埒な感情。この二つには、いったいどういう関係があるのだろう。
考えずともきっと、答えはわかっている。
でも私は、知らないふりをする――。
高倉 魅藍は制服に着替えたあと、自室の学習机の棚に立てかけた鏡の前で髪の毛に櫛を通していた。
髪の毛は一本一本が硬く太いからか、寝ぐせがつくことはほとんどない。
肩にぎりぎりつかないセミロングの髪を梳き終えた魅藍はまず赤い飾りピンを手に取り、瞳の横に斜めに挿した。
そのあとは黄色いピンだ。バツ印になるように、赤いピンに重ねてつける。反対側も同じようにバツ印になるようピンを挿せば、完成だ。
このピンの挿し方は以前、とある人に「それ、可愛いね」と言われてからずっと、こういうふうにしている。
ダイニングへ行くと、一つ年下の妹――祐藍がトーストにかぶりついているところだった。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう。今日は早起きだね」
魅藍が言うと、祐藍は「まぁね」と得意げに笑った。
食卓につく。するとすぐに母親がトーストとサラダを出してくれた。魅藍はこんがりと焼けたトーストにバターを塗り、シナモンシュガーを振りかけて口に入れた。
「行ってきます」
妹の祐藍と二人でマンションを出る。
「ちょっとずつだけど、暖かくなってきた気がしない?」
駅へ続く道を歩きながら祐藍が言った。
「……そうだね」
吹く風の冷たさが薄れてきた。しかし魅藍はそれを喜べない。
だって、春がきたら――……。
魅藍はキュッと唇を噛みしめて駅への道を急ぐ。
妹とは、通っている学校が違うので駅で別れることになる。
電車に乗り込むなり、魅藍は窓際の席に座って鞄からキンドレ――電子書籍を読むための専用端末――を取り出し、画面をタップして読みかけの本を開いた。
去年のクリスマスプレゼントで両親からこのキンドレを貰う前はスマートフォンで電子書籍を読んでいたものの、一度このキンドレを手にしてしまえばもう他の端末なんて考えられない。
紙の本を読んでいるのと変わらない感覚でどんどん読み進めることができる。
いま読んでいるのは、『Sな彼女とMな私の調教事情』という電子書籍だ。
魅藍はそういった、女の子同士のラブストーリーばかりを好んで読む。しかしこれは、だれにも言っていない。
だれにも言えない、秘密の趣味だから、次の駅に着くまでにこの本は端末上で閉じてしまわなければならない。
「魅藍、おはよう」
魅藍が乗った駅から三つあとに、同じ学校の友人である六本松 優希が電車に乗り込んでくる。キンドレ端末の画面はすでに切り替え済みだ。
画面を切り替えて、一般的な――男女が恋愛している――ライトノベルを読んでいたふりをする。
「魅藍様。折り入ってお話があります」
「……課題のノート?」
「ご名答! さすが、魅藍様は話が早い」
魅藍は小さくため息をついて、鞄からノートを取り出して優希に手渡した。
優希は「ありがとう」と言って受け取り、膝の上でノートを写し始める。そのあいだ、魅藍はキンドレで本を読むというのがもはや朝の慣例になりつつある。
いちごミルク味の飴つきでノートを返してもらった魅藍は駅を出て、優希とたわいのない話をしながら学校へ向かって歩いた。
「そういえば、先輩たちもうすぐ卒業だね」
ドクンッと胸が鳴る。
妹といい優希といい、どうしてそう春の話ばかりするのだろう。
「そう、だね……」
魅藍は俯き加減になって目を伏せた。
先輩の卒業はまだ、考えたくない。だって、一度考え始めてしまったら毎日が憂鬱になる。
魅藍の足取りが重くなったときだった。
「みーあーちゃんっ」
声が聞こえたかと思えば背に衝撃が走った。痛いだとか、そういうことではない。
音もなく後ろから伸びてきた腕に体を包まれ、身動きが取れなくなる。
「かっ、楓先輩……!」
魅藍の体に後ろから抱きついたのは末續 楓だ。魅藍の一つ年上である。
「おはよう、魅藍ちゃん」
耳のすぐそばで心地よい声が響いた。女性にしては低くて、少しかすれている。ハスキーボイスと形容するのが、きっと正しい。
「おは、よう、ございます」
魅藍は前を向いたままなんとかしてそう言った。
背中に、楓の胸が当たっている。
心臓がバクバクと鳴り、全身の熱が瞬く間に上がって――どうしてか、下半身のあらぬ箇所がムズムズしてくる。
どうしてこうなってしまうのか、本当はわかっているけれど明確な答えを出せないでいる。
先輩を意識してはいけないのだと、必死に自分に言い聞かせた。
「じゃあまたあとでね!」
楓が手を振ると、その傍らにいた一条 芽衣子が魅藍と優希に向かって「また放課後」と言った。
二人は早足で学校の中へ入っていった。三年生は始業時刻よりも早くホームルームがあるのかもしれない。
楓の後ろ姿をいつまでも見送る。ちょっと寝ぐせがついているのはいつものことだが、それもまた先輩のよさだ。
「楓先輩はさ、魅藍のこと好きだよね~」
落ち着きを取り戻し始めていた心臓がふたたびドキッと跳ねる。
「い、妹みたいに……思われてるのかな」
平静を装ってそう言ったものの、声が上ずってしまった。優希は細かいことを気にしない性格なので、問題はないだろう。
「でも、楓先輩は女の子が恋愛対象だって噂あるよね。先輩も、否定しないらしいし」
「……!」
今度は、なにも答えられなかった。曖昧に「へえ」と言い、そのあとは口を噤む。
(私だって……楓先輩のこと……)
それはきっと、同性に抱いてはいけない感情。
(春なんて、こなくていいのに)
そうすれば、先輩とずっと一緒の学校生活を送ることができる。
せめて同じ学年だったらよかったのに、といままでに何度も思った。
しかしなにを思ったところで、春はくるし先輩は卒業してしまう。
時の流れを変えることはできないのだから、せめて自分自身が行動を起こして先輩になにかしらのアピールをしなければ――。
(でも、どうやって?)
考えても考えても、なにも思い浮かばない。
キンドレでこっそり読んでいる小説のように、そう上手くはいかないだろう。それが現実というものだ。
魅藍は優希に気づかれないように「はぁ」とため息をついて、校舎の中へ入った。