礼のことを、一部の男子は氷の女と呼んだ。感情があまり顔に出ないからだ。
礼と私は幼馴染だ。気遣い屋で優等生の兄と、それからとろいとかマイペースだと言われる私。
同じマンションに住む私たちは、小さい頃からずっと三人で遊んできた。
私と礼は同い年で、兄は一つ年上だ。でも、年齢も性別もほとんど気にしたことがない。鬼ごっこからテレビゲーム、秘密基地作りや川遊びまで、三人でいれば何でもできた。
私たちは三人でいて、それが当たり前だった。
ずっとずっと、そうなのだと思っていた。
「はぁ……」
今日は私の誕生日だ。だけど目が覚めたときからずっと、ゆううつだった。
昨日、礼と兄から聞かされた衝撃的な事実が頭に取り憑いて離れない。
「ありえないでしょ……」
「何言ってんの、さっさとご飯食べちゃいなさい」
朝食のテーブルには母一人しかいなかった。
「兄貴は?」
「もうとっくに朝練。知ってるでしょ」
「はぁあ」
「ため息つかないで」
母は厳しい顔つきで言う。でも、ため息くらい仕方がないと思う。
昨日、幼馴染みの礼が兄と付き合い始めた。
年子の兄は高校三年生だ。まぁ、妹のひいき目を抜きにしても悪い男ではない。ちょっと頭でっかちで気弱なところはあるけれど、いいやつだ。
でもよりにもよって、礼と付き合うのがなんで私の兄なのか。もっと違う相手だったら、たぶん祝福できていた。……いや、そうだろうか。もうよくわからなかった。
「水紀、誕生日でしょう、今日」
「うん……」
「だったらさっさと学校行ってさっさと帰ってきなさい。お兄ちゃん、またお祝い用意してるでしょ」
誕生日は毎年、礼と兄に祝ってもらっている。ケーキとサプライズのプレゼントがいつも楽しみだった。
でも、カップルの二人になんて祝われたくない。
「……誕生日、延期してくれないかな」
「何言ってんの」
歯車が狂う。私はトーストを喉に流しこみ、ぼんやりとしながら制服に腕を通す。
昨日と同じ今日が、いつまでも続くのだと思っていた。鏡の中に制服姿の私がうつっている。
いまだに自分がもう高校生であることが信じられない。でも、確かにそうなのだ。彼女と彼氏とか、そういう話も出てくるのはわかる。でも、よりによって二人が付き合い始めるとは思わなかった。
外はよく晴れていた。真っ青な空に、だけどかえって気持ちのやり場がなくなる。
「おはよう」
とんでもないことを打ち明けてきたばかりだというのに、いつも待ち合わせる交差点で礼は涼しい顔をしていた。姿勢がよくて、髪の長い礼の姿は遠目からでもすぐにわかる。
「……おはよ」
いつもだったら駆け寄りたくなる。でも、今日の私の足取りは重かった。
「とりあえず、誕生日おめでとう」
大してめでたくもなさそうに礼は言う。でもこれはいつものことだ。彼女にはあまり表情のバリエーションがない。だから、一部の男子は貞子だとか人形みたいだとか勝手なことを言う。
確かに礼の肌は白く、同じ人間とはたまに思えなくなる。
「それなんだけどさ。やめにしない?」
私たちは並んで歩き始める。礼は、歩くペースが速くない私にいつも合わせてくれる。
「誕生日を?」
「そうじゃなくて、お祝い」
祝ってもらう側が言うことではないとはわかっていた。でもやっぱり、納得がいかなかった。
「どうして?」
「……いや、やっぱ兄貴も勉強と部活で忙しいし」
「そんなこと言ってなかったけど」
礼の何気ない言葉にどきりとする。何しろ二人は付き合っているのだ。私抜きで話をすることだってたくさんあるだろう。
いきなり壁にぶつかり、私はもごもごと言う。
「私も期末試験の勉強したいし」
「何を言ってるの、急に。水紀が勉強したいだなんて、熱でも出た?」
私は困り果ててしまう。誕生日を祝ってもらえるのは嬉しいはずだった。でも、付き合い始めた二人から祝福されるなんてしんどい。どうしてこんなにしんどく感じるのか、うまく言葉にできない。
「私は水紀の誕生日、お祝いしたい」
まっすぐに言いながら礼はにこりともしない。それが彼女にとってはいつものことだった。さらりとまっすぐな黒髪が揺れる。彼女の目もまた、吸い込まれそうに黒い。
「え、あ……うん」
私はなぜかどぎまぎしてしまう。人形みたい、と言われるのは礼の顔立ちがすごく整っているからでもある。そんなことはずっと前から知っている。飽きるほど見てきた顔のはずだった。
どうして兄なのだろう。なぜよりによって、二人が付き合い始めるのか。私ひとりだけ取り残されてしまったから、こんなに複雑な気持ちになるのだろうか。
「大丈夫?」
「あ、うん。体調が悪いとかじゃないから……」
それから私たちの間には沈黙が落ちた。礼はもともと口数が少ない。だから、二人でいるときはいつも私がよく喋っていた。礼はいつも黙って聞いてくれて、私が意見を聞きたいときには適切に言葉を挟んでくれる。
だけど今日、私は何を話していいのかわからなかった。
ローファーの足音だけが響く。ほとんど無言のまま歩き続け、学校の前にまで来たときにはほっとしていた。
「水紀、どうかしたの」
「何でもない」
「じゃあ、お祝いは大丈夫ね」
「うん……」
クラスメイトが私たちを見つけて声をかけてくる。いつも通りの一日が始まろうとしていた。
・
授業中もずっと、私は上の空だった。どうしても兄と礼のことばかり考えてしまう。
「俺たち、付き合うことになったから」
昨日、兄がそれを口にしたのは、よりによって母親の前だった。
「まぁ、おめでとう……!」
母は昔からよく、礼のことを美人だとか、うちの息子の嫁になってくれればいいのにと言っていた。だから彼女が喜ぶのは目に見えていた。
「え……なんで?」
私はとっさに聞いてしまった。「なんで」も何もないのだろう。でも、わからなかったのだ。
「お似合いだと思ってたのよ、もうまったく」
困っているのは私一人だった。ああそうだ、だから今日は彼らの交際祝いでもあるのかもしれない。
兄は照れたように笑っていたが、礼はいつも通りだった。何を考えているのかわからないと言われる無表情。
でも私はだいたい、彼女の表情を読み取れると思っていた。同じ無表情でも微妙な違いはある。むっとしていたり、喜んでいたり……そういう彼女の機微を、私はわかるつもりでいた。
でも昨日は、よくわからなかった。照れているのか、不本意なのか、それとも何とも思っていないのか。近くで見ても、全然わからなかった。
「水紀も早くいいひと見つかるといいわね」
母からはそんな言葉までもらってしまった。私ひとりだけが呆然としたまま、おめでとうの一言も言えなかった。薄情なやつだと礼は思っているだろうか。
「はぁ……」
確かに兄の悠一は目立ってイケメンではないが、見た目も悪くはない。
吹奏楽部に入っていて、ずっとクラリネットを吹いている。いろいろ気が回る方だし、成績もよく、友人も多い。
特に部活をすることもなく、日がなだらだらしがちな私と比べたら、明らかにおすすめの案件だ。考えているうちに落ち込んでくる。
「水紀、やっぱりどこか悪いの?」
「何でもない……」
礼とは同じクラスだが、席はだいぶ遠い。休み時間に彼女と顔を合わせていても、私はまた兄のことを考えてしまう。
私のくせっ毛と違い、礼の髪はさらさらとまっすぐだ。礼は、同じクラスの男の子からは怖がられがちだけれど、別の高校の人からは告白されたりもしている。美人なので、モテるのだ。
「聞いていい? いつくらいから、兄貴のことありかなって思うようになったの?」
クラスの子たちはまだこの交際について知らないようだったので、私は声をひそめた。礼に彼氏ができたとなったら、みんな大騒ぎだろう。
「最近まであまり考えたことはなかった」
「え、そうなの」
実はずっと前から好きで、と言われなくてよかった。どれほど前から二人のことをわかっていなかったのか、邪魔をしてきたのかと落ち込むところだった。
「でもじゃあ、なんで?」
昨日の報告を聞いても、よくわからなかったのは付き合うことにしたきっかけだ。普通に考えてどちらかが告白したはずなのだが、二人とも言葉を濁してしまい、はっきりとは言わなかった。
よほど私には言えないような恥ずかしい告白だったのだろうか。
百歩譲って、兄が告白したならまだわかる。でもまさか礼からだったら。
「……他の人に取られたくないって思ったからかな」
礼はぼそりと言った。
「え?」
「だってそうでしょ。もう子供じゃないんだから」
礼は私ではなく、どこか遠いところを見ているみたいだった。
今まで私が恋バナを振ってみても、礼はまるで興味がなさそうだった。
「じゃあ、礼がずっと告白を断ってたのは兄貴のこと好きだったから、というわけじゃないの?」
告白された回数なら、兄より私より礼が断トツ一位だろう。礼と付き合えるなら何だってする男子は少なくないだろう。
「違う」
よくわからなかった。礼にとって前に告白してきた人たちと、兄はどう違っているのだろう。
「水紀は、『取られたくない』って気持ち、わかる?」
「私?」
礼は鋭い目で私を見ていた。休み時間の教室内はうるさく、礼の声はたまに聞き取りずらかった。
今まで、礼は絶対にどんな相手から告白されても断った。
「わからなくはない、と思うよ」
だから、誰かと付き合ったりしないのだろうと勝手に思っていた。
「ふぅん」
「それより、兄貴のどこがいいの?」
「……妹思いだし」
「そう?」
というか、仮にそうだとしてもそれは惚れる理由にはならない気がする。
「あと、優しい」
まるで私の疑問を察したかのように、明らかについでだろうというように付け加える。
「まぁ、優柔不断なとこはあるよね」
「そうじゃなくて」
私たちは小さい頃から、三人でよく遊んでいた。私の親も共働きだし、礼の親も不在がちだったから自然なことだった。何度も三人で一緒に雑魚寝もした。
「優しいよ」
礼はもう一度言った。だけどそうやって強調されればされるほど、私にはよくわからなくなった。
「水紀こそ、どうなの」
「どうって」
「じゃあ私も彼氏作ろ、って思ったりしない?」
「ないない」
私は苦笑いするしかない。そんな風に簡単に彼氏ができれば苦労はしない。私は礼と違って美人でもない。兄と違って部活を熱心にやっているわけではないし、成績もそれほどよくない。ぱっとしない、どこにでもいる女の子でしかない。
「好きな人は?」
「え?」
「取られたくない人、いないの」
礼は奥底まで見透かそうとするような強い目で、私を見ていた。
「何言ってんの、いつも言ってるじゃん、いないって」
私は嘘なんてついていない。なのに、責められている気がしてしまう。
「あっ、おいやめろって」
後ろで騒いでいた男子が、バランスを崩して倒れかかってきて、私は突き飛ばされそうになる。だけど地面に衝突することはなく、気がつくと礼の腕に支えられていた。
「大丈夫? ちょっと、気をつけなよ!」
やべ、と言って倒れかかってきた男子がぺこぺこ頭を下げている。私は礼に支えられたまま、しばらく動けなかった。礼の手に掴まれた肩が熱い。急に心臓がばくばくいう。
「水紀、大丈夫?」
もし好きな人ができたら一番に報告してくれと、前から礼には言われている、でも、私はたぶんもう報告なんてできない。唐突にそう思った。
「水紀?」
「うん、全然」
私は礼の手を振り払って、無理やり笑った。
「水紀」
「じゃあまた放課後にね」
今はもうこれ以上彼女の顔を見ていたくなかった。どうしてだろう。今まで彼女といることに、こんな混乱する気持ちを抱いたことはなかった。
わけがわからない。どうして二人は付き合い始めたのか。
どうして、私はこんなに辛いのか。全然、わけがわからない。
・
家に帰れば、パーティが始まる。私の誕生日祝いと……たぶん礼と兄の交際記念のパーティが。
私はすぐに家に帰る気になれなくて、一人で河原にある橋の下に来ていた。日はかなり傾いてきており、西日が川面を照らしている。
三人では、このあたりでもよく遊んだ。缶蹴り、ボール遊び、本当は禁止されているけれど川遊び。三人ともびしょ濡れになって、母に叱られたのが、ついこの間のような気がする。
「もう子供じゃない、か……」
橋の下は少し肌寒かった。私は手近にあった石を川面に投げ入れる。橋の上には線路が通っているので、だいたい十分おきにごおおという轟音が聞こえる。小さい頃はこの音が怖かった。
「あーあ……」
いっそこのまま今日は家に帰らず、電車にでも乗ってどこか遠いところに行ってしまいたい。でも、私はまだ大人ではなく、そんな自由はない。
さっきから携帯電話が震えている。礼からだろうか、と思って取り出すと、ちょうど兄からかかってきているところだった。
「何?」
「おい、お前どこほっつき歩いてんだよ」
いつも通りの兄の声だった。背後にテレビの音がするから、たぶん家にいるのだろう。隣にはきっと礼もいるはずだ。
私が何も言わないでいると、兄は大げさにため息をついた。
「そんなに悔しいのか」
「何言ってんの」
「礼を取られたのが悔しいのかって言ってんだよ」
「何それ」
まるで私が、だだをこねる子供みたいだ。そんなつもりなんてない。たった一歳しか違わないくせに、偉そうなことを言わないでほしい。
「なぁ」
「だって今までずっと一緒にいたのに」
私は思わず口にしていた。
「一緒にいるのは礼より俺の方が長いだろ」
「兄貴は関係ないじゃん」
「どう関係ないんだよ。いいからさっさと戻ってこい」
「やだ、絶対戻んない」
「おいお前今どこにいんだ」
私は無理やり通話を終え、携帯の電源を切った。もう兄の声なんて聞きたくなかった。
礼は私たちのマンションの、一番上の階に住んでいる。引っ越してきたのは私たちより、彼女の方があとだった。
年の近い子がいる、と聞かされてマンションのロビーで会った。
初めて会ったとき、礼は黒いワンピースを着ていた。本当にお人形さんみたいだった。ずっとあとになって、彼女の祖母の葬式があったばかりだったのだと知った。白いレースの襟がついていた。
となりにいる兄の緊張が手に取るように伝わってきた。私も同じだった。礼は人形みたいにきれいで、真っ白な肌をしていた。黒い服が、余計にそれを引き立てていた。
「遊ぼう」
先に声をかけたのは私だった。兄より早く、この子を連れ出したかった。
私はどちらかといえば引っ込み思案なたちだけれど、どうしてだろう。このときは迷いがなかった。
「うん」
礼はそう言って私の手を取った。その手のひらの温度に、人形じゃないんだとはっとした。
当たり前だ。礼はちょっと人より感情が顔に出にくいけれど、それでも怒ったり笑ったりする、ごく普通の女の子だった。
「あーあ、なんでだろ」
私たちは三人で、それでよかったはずだ。
確かに高校生になって、少し関係は変わった。兄は部活動に割く時間が増えて、あまり一緒には遊ばなくなった。私と礼と、二人だけの時間が増えた。
だから逆に、礼と兄は付き合い始めることを考えたのだろうか。
でも、もし私が熱心に部活をやっていて、礼と兄とが一緒に登下校をすることになっていたとしても、同じことだったんじゃないだろうか。
私たちは三人でいたはずだった。なのにいつのまにか、二人と一人になっている。
「礼……」
私がもし男だったら、彼女と付き合い始めたのは私だっただろうか。
今日教室で、礼に肩を掴まれたときのことを思い出して、私は自分の肩を抱きしめる。
もし私にいたのが兄じゃなくて姉だったら? 礼が男だったら? それだったら、私ははじかれずにいられた?
橋の上を列車が通ってがたがたと音を立てる。
兄は来年には高校を卒業する。彼の志望校は地元の国立だが、どうなるかわからない。そして私と礼も一年遅れて卒業する。まだ進路はちゃんと聞いていないけれど、高校を卒業したら礼とはもう会わないかもしれない。
――そんなの嫌だ。
友達を取られて悔しい気持ちになるのだったら、普通だろうか、私の気持ちは、これは普通の範疇に入るのだろうか。考え始めると砂に足を取られたようにズブズブと飲み込まれていきそうになる。
もし普通でないのだとしたら、私はこれからどんな顔をして礼に会えばいいのだろう。礼が支えてくれて嬉しかった。あの腕の中に飛び込んでしまいたかった。教室の中で、そんなことできるはずはなかったのに。
「水紀」
そう考えているときに、まさに彼女の声がした。
一度家に帰ったのだろう。上品な紺色のワンピースを着ていた。初めて会ったときみたいで、私ははっとする。でも、あのときと違って体のラインがよくわかる服を、私は何となく気まずくて直視できない。
「ここにいたんだ」
「兄貴は?」
「家で待ってる」
私は礼が、一人だけで来てくれたことにほっとしていた。
「ほら、早く家に帰ろう」
「私、今日は行けない」
「何を言っているの、あなたの誕生日パーティーじゃない」
「そうだとしても行けない」
薄暗くなりかけた橋げたの下に、今は私と礼だけがいる。胸が苦しくて、礼の顔が見れない。
「私、おかしいのかな」
私はただ、礼とずっと一緒にいたい。
「礼のこと、取られたみたいに感じる」
何もしなくても、それは叶えられる望みだと思っていた。でも違うのだ。私たちは否応なく変わっていってしまう。
「おかしくない」
「だって私、二人のこと邪魔するかもよ。そんなの嫌でしょ」
「水紀」
「私だって、本当はちゃんとお祝いしたいのに、幸せになってって言いたいのに」
おめでとうと言って笑って、花でもケーキでも買いに行きたかった。私は礼のことも兄のことも好きで、二人が幸せになれるならそれ以上の望みはない。
だけど、どうしても祝えない。
「ごめん」
「……いいよ」
ふっと、礼の手が私の肩に触れた。周囲は暗くなってきていて、でも礼の姿だけ浮かび上がるかのようだった。
「私、礼のこと、誰にも取られたくない」
礼はやっぱりじっと、私のことを見ていた。ああ本当にきれいな子だなと思う。当たり前のようにそばにいられたのは、特別なことだったのに、私は気づいていなかった。
「兄貴と付き合うなんてやだ……」
礼は何も言わない。
「兄貴だからじゃなくて、誰だとしても、どんな男でも女でも、やだ……」
「じゃあ、あなただったら?」
礼はさらりと、感情を伺わせない声で言った。
「水紀と付き合うのだったら、どう?」
「どうって……」
「私はそれがいいんじゃないかと思うのだけれど」
「何言ってるの?」
礼の顔が近づく。何が起きているのか私にはよくわからなかった。電車がまたがたがたと橋を揺らしている。轟音を鳴らして通り過ぎていく。
柔らかい唇は一瞬触れて、そして離れていった。
「……え、あ、え?」
礼は狼狽している私を見て、わずかに目を細めた。わかりにくいけれど、笑っている。
なぜ、礼が私にキスをするのか。兄と付き合い始めたはずなのに。
「私こそ謝らなきゃ」
「礼が何も謝ることなんてない」
「あるの」
そうして礼は、ゆっくりと言った。
「嘘なの。私と悠ちゃんが付き合い始めたっていうの」
私はぽかんと口を開けてしまった。どう反応していいのかわからなかった。
「……嘘でしょ」
「今日の誕生日パーティで、嘘でした、ってばらすつもりだった」
「いやいやいや、待って」
「毎年、何かサプライズをしてたでしょう? 今年はネタ切れになってたからどうしようかって考えて、絶対驚くことにしようって相談して」
「マジで言ってんの?」
確かに、毎年パーティには何らかのサプライズがあった。プレゼントが布団の中に隠してあったり、今年はパーティがないと言われたと思ったら、突然始まったり。でもさすがにこれはない。
「戻りましょう。そうしたらわかるから」
「ちょ、ちょっと待ってって」
私は昨日、二人に聞かされてから眠れなかったし、ずっと取り憑かれたように悩んでいたのだ。こんなのってない。
「さすがにひどくない……!?」
「だから、謝らないとって言ったじゃない」
礼は本当に悪いと思っているのか、しれっとした顔で言う。その顔を見ていると、私はどうしても怒りきれないからずるい。
「ごめんね」
礼はそう言って、ふわりと私を抱擁した。昼間、私がそうしてほしいと思った通りに。私は棒立ちになったまま、固まっていることしかできなかった。
ふわりと礼のいつも使っているシャンプーのいいにおいがする。私はおずおずと、礼の肩に手を伸ばした。
教室の中では振り払ってしまった。でも、本当は触れたかった。ぎゅうと礼と抱きしめ合っていると、涙がにじんできそうになる。私はずっとこうしたかったのだと、初めてはっきりとわかった。
「ほら、そろそろ戻りましょう」
礼はゆっくりと抱擁を解き、手を差し出す。背後で夕日が川面を真っ赤に染めていた。
家まではずっと手を繋いだまま二人で歩いた。
何も話さなかった。でも、朝みたいに気詰まりではまったくなかった。彼女の手は温かかった。
最初に彼女と出会った日もそうだった。繋いだ手が温かくて……それで、人形みたいな彼女をとても身近に感じたのだ。これからたくさん一緒に遊べると、わくわくしたことを思い出しながら、私は彼女の横顔を見ていた。
「やっと主役が帰ってきたぞ、おめでとう!」
家に着くと、兄と母がクラッカーを手に持って待っていた。勉強用のホワイトボードに「嘘でした」と大きく書いてある。その脇になぜか下手くそなクマと花の絵があるのも、兄がはしゃいで笑っているのも、何もかも腹立たしかった。
さすがにこんな嘘はない。でも、私は怒ってその場を立ち去ることもできなかった。礼は家の中に入っても、なぜか私の手を握ったままだったので。
「誕生日おめでとう、水紀」
礼が間近でささやくように言う。私と彼女は一体、どうなってしまうのだろう。わからないまま、母が用意してくれたケーキのろうそくを吹き消す。
私は三人の拍手に囲まれていた。嘘をつかれたことは腹立たしいけれど、結局は自分が許してしまうだろうこともわかっていた。だって、私は兄と礼が大好きだったし……二人が付き合っていないとわかって、本当はひどくほっとしていたから。
ファーストキスだった。そう気づいたのはその日の夜になってからだった。
昨日の夜も色々考えてしまって眠れなかったのに、今日もまたどきどきしてしまって、全然眠りにつけなかった。でもまた、明日になったら礼に会える。
繋いでいた右手がまだふんわりと暖かい気がする。私は自分の手の甲に、そっとキスをしてみる。
ちゃんと進路のことも聞こう、と思う。これから先も一緒にいられるように。私たちの関係がどう変わるのか、変わらないのかはわからないけれど……一緒にいることだけは、絶対に変えたくないから。
・
「はい、約束のもの」
彼女はチケットを差し出した。プレミアがついていて、オークションで買ったら数万円はするだろうという品だ。
奪い取るように悠一はそれを手にした。
「うまくいったんだよな?」
家に帰ってきた水紀の様子はちょっと変だったけれど、まぁそれはいつものことなのでよくわからなかった。
礼は何も答えない。こちらもやっぱりいつものように、ミステリアスな無表情だ。でもさすがに付き合いが長いので悠一もわかる。これは浮かれている顔だ。
「わが妹ながら、単純すぎて心配になるな……」
「大丈夫よ」
昔から、苦労性で思い悩みがちな悠一と違い、妹の水紀は楽天家でマイペースだった。テストの日を忘れているなんてしょっちゅうで、遠足で景色に見とれていてバスに乗れずに取り残されたこともある。
だから水紀は気づいていなかったようだけれど、悠一はとっくにわかっていた。三人でいても、いつも礼の目が彼女にだけ向いていることは。
「水紀には私がいるから」
「それが一番心配の種なんだけど……」
やむを得ず礼に協力することになってしまったが、本当は関わり合うつもりなどなかったのだ。どれだけ礼が思いを募らせていようと、悠一が知ったことではない。正直なところ嫉妬もある。
だがファンクラブの抽選も、一般販売も全滅だった。礼の父親はマスコミ勤務で、色々とツテがあるのだという。頼るものかと思っていたのに、目の前にニンジンをぶら下げられて抗えなかった。
「さすがに騙すのはひどかったんじゃないか」
「でも、許してくれた」
「まぁなぁ……」
最初から礼が好きな相手は一人だけだ。でも、水紀はそのことにまるで気づいていなかった。悠一はとっくに気づいて、そして苦い初恋を終わらせたというのに。
「いいじゃない、うまくいったんだから」
だから礼は強硬手段を取ることにしたらしい。
礼の感情表現はわかりにくい。でも、気弱な自分よりもずっと激情家であることは知っている。
「うちの妹のこと、泣かしたら怒るからな」
「安心して、私も水紀を泣かすやつなんて死んでも許さないから」
悠一はため息をつくしかない。礼の場合は冗談で言っていないのがよくわかる。
「でも大丈夫なのか、あの様子だとまだよくわかってない可能性あるぞ」
「それはおいおい進めていくから大丈夫」
何をどんな風に進めていくのか想像したくない。いや、ちょっと想像してしまった。悠一は首を振る。
「ライブ、楽しんできてね」
「嬉しそうだな」
「嬉しいに決まってるじゃない」
礼は一部で氷の女と言われている。そのくらい、いつも無表情だし冷静で、冷たい言葉を吐くからだ。
「キスしたときの水紀の顔ったら」
ぼうっと宙を見て、とろりと蕩けそうな顔で礼は言った。
「世界一かわいかった……」
「おい、なんでもうキスまでしてんだよ」
「うるさい」
だけど今日は、明らかにその無表情が崩れまくっていた。ずっと彼女の身近にいる悠一じゃなくてもさすがにここまでにやけていたらわかると思う。
「うるさいって何だよ。今まで言ったことない水紀のとっときの秘密、教えてやろうか」
「えっ」
わかりやすく礼が動揺する。礼の取った方法は単純だった。悠一と付き合う振りをして、水紀の独占欲を刺激する。誰かのものになるとわかったら、どうしても気になるのが人のさがだろう。
しかし、水紀も単純だと思ったけれど、礼も大概だ。
「何……?」
「秘密」
「わかった、次の取引材料ってことね」
別に悠一はそんなつもりではなかったのだが、またライブチケットをもらえるならやぶさかではない。秘密は何か適当なことを探しておけばいいだろう。たいがいのことだと既に礼は知っているので秘密にならないのが困りものだが。
「礼の今日みたいな顔初めて見た」
さすがに自覚があるのか、礼は一瞬眉根を寄せて冷たい顔になる。
「今日くらい浮かれたっていいでしょ。ずっと好きだったんだから」
「……ああ、うん」
それは知っている。残念ながら失恋したのはもう十年も前のことだから。幼かった悠一の心はそれなりに傷ついたのだ。水紀にも礼にも教えたことはないし、今は吹っ切れているつもりだけれども。
「あ。水紀からだ」
そう言って礼は携帯を取り出す。
「大変なのはこれからだぞ」
礼はすっかり画面に見入っていてなにも耳に入っていないようだった。画面を見る彼女の表情といったら、他では絶対に見ることができないだろう。役得なのか損なのか、悠一にはわかりかねた。
あの日マンションのロビーで会ったとき、一目で彼女に惹かれた。
なのに、気が付くと彼女の手を取っていたのは妹だった。もしあのとき、と考えずにはいられないけれど、きっとそういう問題ではないのだろう。手を繋いで走り出した二人は楽しそうだった。大好きなおばあさんの葬式があったばかりで、落ち込んでいた礼も。
「あーあ、俺も彼女欲しいなぁ」
幸せそうな幼馴染のとなりで、悠一はひとりぼやくしかなかった。
「いやー、すごいじゃん、関東大会なんて」
初めて来た町で夕飯を食べることになって、結局は地元でよく行くファミリーレストランを選んでしまった。
「まぁ俺だけの成果じゃないから」
「ちゃんと吹いてるの?」
「吹いてるに決まってるだろ!」
礼の冗談に、兄は怒りながら笑っている。やっぱり二人は仲がいい。まぁそうじゃないと、あんなどっきりを仕掛けようとしたりはしないだろう。
ご飯を食べている間も、三人でいると話題は尽きなかった。何より、明日に迫った関東大会のことで三人とも興奮していた。
「じゃあ、明日、楽しみにしてるから」
「寝るなよ!」
私と礼は、吹奏楽部に所属する兄の応援をするために隣の県にまでやってきていた。私は今まで、兄の演奏をちゃんと聞いたことがない。いい機会だということで、母を説得して前日入りした。
「じゃあ、私たちはここで」
兄はこれから最後の打ち合わせがあるらしい。いつも朝練、放課後練と忙しそうだなとは思っていた。これほどうちの学校の吹奏楽部が強いとは知らなかった。兄によると、関東大会以上に行けたことはないのだから大したことはない、のだそうだけれど。
「おう、気をつけろよ」
だけど部活に打ち込む兄は楽しそうだった。
「がんばって!」
去年も兄は大会に出ていたが、私は見に行っていない。今回は、礼から行こうと誘われたのだ。
あまり吹奏楽に興味などなさそうな礼が誘ってきたので、意外だった。でも、兄の演奏も聴けて礼と一緒に出かけられるなんて一石二鳥だ。本当は当日の朝に来れば間に合うのだが、無理を言って泊まりにした。兄たち吹奏楽部の部員と同じホテルならということで何とか許可をもらった。
「関東大会かー。礼はそういうの何か、出たことある?」
「何も」
「そうだよね」
私も礼も、部活に関してはあまり熱心ではない。私は中学生の頃は手芸部に入っていたけれど、ほとんど活動には行かなかった。礼は最初からずっと帰宅部だ。運動ができないわけではないのだけれど、あまりやりたがらない。
「水紀、もう寝る?」
「え?」
外はもうすっかり暗い。ホテルに近づいたとき、礼が言った。
「外、ちょっと歩かない?」
あまりふらふらしたり、危ないところには行かないように言われている。でもせっかく隣の県まで来たのだ。少しくらいいいだろう。
「うん」
何しろ、高校生になってから、礼と一緒に外泊をするのは初めてなのだから。
・
歩き慣れない夜の町は、何もかもがおしゃれに見えて、新鮮だった。石畳の道を、あちこちきょろきょろしながら歩く。海が近いせいで、空気のにおいも違う気がする。
礼と兄が付き合い始めるて、変わってしまうと思った私の日常は、でもまだ変わらずに続いている。
足音を鳴らし歩きながら、だけど私の気持ちは少しだけ前とは違う。ちらと礼の横顔を伺うけれど、涼しげな顔は相変わらずだ。
礼と兄とが付き合っているとわかったとき、私はとてもショックだった。そして、礼から「付き合いたい」と言われた。そのときはまだ頭が混乱していて、冗談なのか何なのかよくわからなかった。
母は、礼と兄とが付き合うのは、嘘だと知っていたらしい。
〝でも、ほんとだったらいいのにって思っちゃったわよねー。水紀もそう思わない?〟
礼と私が付き合っていることは、母には言えないだろう。礼に今まで告白した男の子たちも思うんじゃないだろうか。なんでこいつが、と。
私は礼と違って、男の子から今まで告白されたこともない。改めて自分を見つめると、何の特徴もない、つまらない人間だと思ってしまう。
話したいことはたくさんあるはずなのに、この場にふさわしい話題をと考えると口ごもってしまう。
休日だからか、周囲にはカップルが多い気がした。どことなく浮き足だって、楽しそうな雰囲気がある。
「すごいね、観覧車」
私は苦し紛れに、見たものをそのまま口にする。海沿いには小さな遊園地があり、その中心に大きな観覧車が鎮座していた。ライトアップされ、時折色を変えながら明滅している。
「乗る?」
「え?」
「観覧車」
礼はいつも通りの顔で言う。透き通った肌も、潤んだような目も相変わらずきれいだ。今日もちょっとおしゃれなワンピースを着ていて、新鮮だった。
私はどきどきしてきてしまって、観覧車の方に向き直る。ちょうど、乗り場はこちらと案内が出ている。
「え、でもこれ高くない……?」
いってみれば観覧車は上に登って降りてくるだけだ。アトラクションというわけではない。でも、値段は二千三百円だった。私の小遣いから考えると、法外なほどの高さだった。
「やめよやめよ」
「おごるから」
だけど礼も譲らなかった。
「いや、おごってもらうくらいなら出すよ」
とっさに私はそう言ってしまった。
「水紀?」
「……私、バイトもしてるんだよ」
「知ってる」
「礼はお小遣い、たくさんあっていいかもしれないけど」
「何か気に障ったなら、悪かったわ」
礼はさらりと言う。そんな謝り方ができる礼には、私はやっぱり十歩も二十歩も遅れを取っている気がする。
私も、変なことを言ってごめんと謝りたかった。でも、もごもごしているうちに礼は歩き出してしまう。
「礼」
「乗るんでしょう?」
頭上ではぴかぴかと観覧車が光り輝いている。
どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。
観覧車はゆっくりだけれど確実に、空へと登っていく。
今まで見たことがないような、きれいな夜景のはずだった。私たちはそれぞれ代金を払い、観覧車に乗った。客は多くはないようだった。やっぱり、大人にしたって高いと思うんじゃないかと思う。
もうそんなこと考えたくないのに、ぐるぐると頭の中をお金のことばかりがまわる。
私は確かに、アルバイトを始めた。近所のクリーニング屋の受付だ。でも私は要領が悪くて、なかなか仕事を覚えられなかった。少しずつでいいと店長も言ってくれているけれど、いつ愛想を尽かされないとも限らない。まだあまり長い時間シフトに入れているわけではないし、給料は安かった。
私たちは同じマンションに住んでいる。でも礼の住んでいる最上階は、私たちの住む部屋とは間取りが違う。私と兄の部屋とを合わせても足りないくらい、礼の部屋は広い。礼に招かれて家に行くまで、そんな風になっているのだとは思わなかった。角部屋の礼の家は窓が大きくて、光の入り方もうちとは全然違った。
「ほら、あっちの方、すごく光ってるの東京じゃない?」
礼が指さしてくれるけれど、私はあまり真剣に見れなかった。
もったいない。せっかく二千三百円も払ったのに、全然楽しくない。
「水紀?」
「ああ、うん。きれいだね」
私の言葉は上滑りする。今まで見たことがないような、美しい夜景のはずだった。そして私の前に座っているのは、大好きな礼だ。
観覧車に乗っている時間はあまりにも一瞬だった。私が上の空だとわかってか、礼もそれ以上話しかけてはこなかった。
「大丈夫? 水紀」
地上に降り立ったとき、礼は言った。
「……ごめん」
頭の中がぐちゃぐちゃなままで、礼の顔を見られなかった。私は何をしているのだろう。乗ると決めたなら、ちゃんと夜景や礼との二人きりの空間を楽しめばよかった。
「ごめん。ちょっと、頭冷やしてから戻る」
「水紀、一人じゃ危ないから」
「先に寝てて」
私はそのまま、後ろを振り返らずに歩き続けた。礼の顔を見られなかった。
このあたりに土地勘はまったくない。でも、携帯は持っているし、ホテルに帰るだけなら大丈夫だろう。
私はそのまま、海沿いの道を歩き続けた。人通りは多くないけれど、たまにベンチにカップルが座っていたり、ジョギングしている人が駆け抜けていったりする。騒々しい町中と違って静かだ。
「あーあ……」
私は一体、何をしているのか。ぼんやりと黒い水面を見つめる。
〝取られたくないって思うこと、ない?〟
確かに礼のことは取られたくない。私がこう思っているから、それを察して礼は言ったのだろうか。
〝私たちが付き合うなら?〟
礼のことはもとから好きだ。でも、そんな風に付き合うとか付き合わないとか、考えたことはなかった。でも、礼と兄とのどっきりは私の目を覚ました。考えないといけないのだ。いつまでも三人で遊び続けられた頃には戻れない。
「ね、やだ、ちょっと」
近くにいたカップルの声が怪しい。さっきからいちゃいちゃしているなとは思っていたけれど、そのまま一体化するんじゃないかというくらい体を密着させて、キスをしている。
「やめてってば、……あっ」
男の手が女の人の胸を揉んでいる。恥ずかしくて、私はとてもその場にはいられなかった。
付き合うというのは、「ああいうこと」だ。キスをしてもっと深くまでふれあって、誰にも見せないところを見せ合ってつながり合うこと。それは男女でも女性同士でも、きっと同じだ。
私は礼と、ああいうことをしたいのだろうか。
想像すると、かあっと顔が熱くなるのがわかる。私は今まで恋愛ごとには疎くて、男の子と付き合ったこともない。
好きな男の子がいたこともない。水紀はぼんやりしてるから、と友達にもよく言われた。男の子が嫌いなわけじゃない。ただ、ぴんとこなかったのだ。
いつの間にか、私はホテルからだいぶ離れたところにまで歩いてきてしまったようだった。
立ち止まると、あたりには一面コンテナが積まれていた。船が荷下ろしをしたりする場所らしい。もうカップルの姿もない。黄色っぽい明かりがぼんやりとあたりを照らしている。遠くから、バイクが走っているのか、ぶおんという轟音が聞こえた。
さすがに人のいない方に来すぎてしまったかもしれない。私は携帯を取り出す。圏外だった。
「うそ」
携帯さえあればなんとかなると思っていた。私は改めて来た方の道を振り返る。大丈夫だ。このまま戻ればいいだけだ。
だけど、来た道を戻ると、そこに一台のバイクが止まっていた。ヘルメットをかぶった男性が乗っていて、立ち止まっている。
そばを通りたくないな、と思う。だけどそこを通らないで元の道に戻る方法がわからない。
私はとにかく足早に、彼のそばを過ぎ去ろうとした。頼むから、このまま無視してくれと思う。大丈夫、歩いているだけでわざわざ声をかけてくるはずがない。私は圏外のままの携帯を握りしめて、誰かとやり取りをしている振りをしながら歩く。
「何してんの?」
だけど男が声をかけてきて、息が止まりそうだった。
私はそのまま無視して歩き続けようとする。男はバイクに乗ったまま、私の隣りに追いついてくる。
「ここさー圏外だろ」
「あの、大丈夫なんで」
何だかわからないけれど私はそう声を返す。
「どっから来たの?」
声は若い男のようだった。だけどヘルメットをしているから、真っ黒な黒い固まりとしか見えない。
「高校生?」
どうして私服なのにばれてしまうのだろう。子供だと思ってばかにされたら嫌なので私は答えない。
「夜景がきれいに見えるとこつれてってあげようか」
男は猫なで声で言う。一番夜景がきれいに見えるところなら、さっき行ってきたばかりだ。私のせいで、台無しにしてしまったけれど。
礼はどんな気持ちだったのだろう。彼女だって、せっかくなのだからきれいな景色を見て楽しみたいと思ったはずだ。観覧車に二人きりだった。例えば、海辺にたくさんいたカップルだったら手を繋いだり、キスをしたりしただろうか。
「大丈夫です」
私は男を振り切って歩き続けようとする。走りたかったけれど、足がいうことをきかなかったのだ。
だけど、ついに腕を掴まれた。触られた場所から、何か嫌なものが侵入してくるみたいだった。
嫌だ。私が触れたいのは、触れてほしいのは礼だけだ。
「いいじゃん、暇なんでしょ?」
顔の見えない男の、猫なで声が怖かった。
「暇じゃないです」
「えー? 高校生なんだよね? 彼氏いる?」
「水紀!!」
声が聞こえたとき、ほっとして泣きそうになった。道の向こうから、派手な足音を立ててこちらに走ってきているのは礼だった。
「礼」
男が腕を放す。
「あ、友達もいたんだ」
表情は見えないけれど、からかうような嫌な感じの声で男は言う。
礼が近づいてくる。私は本当なら、そのまま抱きついてしまいたかった。走ってきた礼の髪は乱れて、表情は硬い。
「お姉さんと一緒だったんだ? お姉さんも行かない? 夜景見に」
「結構です」
礼は冷たい声で言い、私の手を取った。男に掴まれたときとは全然違った。ほっとして、触れたところから、ゆっくりとあたたかいものが満ちてくるような気がする。
「うわ、お姉さん美人だね、ねぇ、行こうよ」
「結構ですから」
礼は男を一瞥すると、そのまま私の手を引いて歩き出す。誕生日に、私がいじけていたときもそうだった。こうやって手を引いてくれて、だから私は家に帰れた。
「ちょっとー、冷たすぎない?」
男はそのままついてくる。ここは携帯が通じない。二対一でも、相手が男だと不利かもしれない。礼は私の耳に顔を寄せ、言った。
「走るよ。もうちょっとだから」
さっきちゃんと動かなかった私の足は、礼の言葉に操られるように走った。
「なんだよ、逃げんのかよー」
振り向かずに走り続ける。男はバイクにまたがり、併走するようについてくる。
「ねぇ、お姉さんは? 彼氏いる?」
男が手を伸ばして、礼の髪に触れようしたときだった。
「いますよ」
頭にかっと血が上って、私は投げつけるように口にした。
「付き合いたての、ちゃんとした恋人がいるんで、邪魔しないでください」
私の声は少し震えていたかもしれない。いつも、矢面に立って誰かに言い返すのは礼だった。でも、勝手なことを言う男を許せなかった。
礼はびっくりした顔で私を見ていた。怖さや怒りや恥ずかしさで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「なんだよー」
男は不満げだったけれど、ちょうどコンテナが途切れるあたりでバイクを止めた。私と礼は構わず走り続けたけれど、それ以上男が追ってくることはなかった。
私たちは、そのまま後ろを振り向かずに走り続けた。
今までにないくらい、早く軽く走れた。礼が手を繋いでいてくれたから。
走り続けて、コンビニの明かりを見たときにはほっとした。だいぶ人の姿が増えている。
「水紀、大丈夫?」
私も礼も息が切れていた。コンビニの壁によりかかって、私たちは荒い息を吐く。
「うん、なんとか……」
ほっとして、すぐには歩き出せなくて息を整えた。礼の手が、ふと私の髪に触れる。
「髪、ぼさぼさ」
「礼もだよ……」
せっかくのきれいな黒髪が乱れてしまっている。さっき、男の手が触れようとしたときに、自分でもびっくりするくらい腹が立った。私は礼の髪の先にそっと触れる。なめらかな糸のような髪は、するりと私の手から滑り落ちる。
「さっき、ありがとう……水紀があんなこと言ってくれるなんて、思わなかった」
私も自分があんなことを言えるとは思っていなかった。
礼の手は私の髪をなでつけ、そしてそのまま彼女は顔を寄せた。そうするのが自然だと思ってしまうようなキスだった。
「ほんとは、夜景のきれいなとこでするはずだったんだけど」
ぽつりと残念そうに礼は言った。
ここは海も夜景も見えない。そばにあるのはコンビニのゴミ箱だけだ。でも、きっとどんな場所でもここよりロマンチックじゃないと思う。
「ごめん、観覧車で……」
助けを求めようにも、電波は通じなかった。でも、礼はちゃんと私を迎えに来てくれた。探してくれていたのだ。
「なんか色々考えちゃって、私、礼と釣り合わないんじゃないかなとか……」
恥ずかしかったけれど、私はちゃんと口にする。改めて言うと、ばかみたいだ。礼がそんなこと気にしたりしないのはわかっている。
でも、不安だった。礼と兄とが付き合い始めたのは嘘だった。でも、この先にももしかしたら、やっぱり別の人がいいと礼が言い出す日が来るかもしれない。
「私が、今の水紀がいいの」
「うん……」
「どれだけ、今日楽しみにしてきたことか、わからないでしょう」
「私だって、楽しみだったよ」
こうしてここまで来たのは、兄の演奏を聴きたいのもひとつの理由だ。でも、私だって今回の旅行は楽しみだった。礼と二人きりで泊まるのだ。そんなの、どきどきしないわけがない。
「水紀、わかってる?」
「うん」
私は礼にそのまま抱きつく。はっと礼が息を飲むのがわかった。
薄暗いからきっと大丈夫だろう。シャンプーのいい匂いがする。礼のにおいだと思うと、ひどく安心する。
「私、礼が好き」
他の誰かじゃなく、礼がいい。お母さんは礼と兄が付き合わないと残念だと思うけれど、でも私だって譲れない。
誰にも触らせたくない。自分のものにしたい。それは醜い欲望なのかもしれない。誰かを泣かせてしまうことになるのかもしれない。だとしても、絶対に譲れなかった。
気持ちが高ぶってきて、涙がこぼれそうになる。
「礼とちゃんと、ずっと付き合いたい。友達じゃなくて」
必死に訴えると、コンビニの建物に体を押しつけられる。それから強いくらいの力でキスをされた。
「ん……っ」
この間やさっきのような、そっと触れるだけの優しいキスとは違っていた。全身の力が抜けるような、どろどろに自分が崩れてしまいそうな、激しいキスだった。私も必死に、礼の舌や唇を吸い返そうとする。でも足から力が抜けていきそうになる。
やっと体が少し離れたとき、壁に寄りかかっていなかったらきっと私はその場で崩れ落ちていただろう。
「部屋に、戻ろう」
「うん……」
私はやっと礼を掴んで立つ。今日は最高の日だ、と思う。だって普段なら、こうして家に帰ったら別々になってしまう。でも今日は、一緒の部屋に帰ることができる。今日が終わって、そして明日になるまでずっと、一緒にいられる。
ああ、だから人は同棲したりするんだなと初めて思った。今まで、高校卒業後の進路も漠然としか考えていなかった。でも、礼とこれからも一緒にいたいと思うと、どうしたいかが見えてくる。
「礼、探しにきてくれてありがとう」
とびきりきれいな夜景なんかじゃなくても、今のこの風景をきっと私はこれから先も忘れないだろうと思う。
「早く、戻ろ」
・
「……それで」
厳しい声で悠一は言う。妹と幼馴染みの恋愛がどれくらい進展しているのかどうかなど、聞きたくはない。正直なところ、ちょっと興味はある。
「それ以上のことは言えません」
「いや、俺には妹の心配をする権利がだな」
だが、本当は聞かなくてもわかる。関東大会から帰ってみたら、水紀はどこかぼんやりしていて、いつもドジなのにそれに磨きがかかっていた。
そして今、目の前の礼も美しさに磨きがかかったように見える。いつもより大人っぽくて、何というのだろう。艶っぽい感じさえする。悠一にとっては、今はもう恋愛対象ではないから冷静でいられるけれど、人によってはあてられて大変じゃないだろうか。
「大丈夫よ、ちょっと泣かせちゃったかもしれないけど……」
「どこが大丈夫なんだよ!」
「素敵な涙だったから、大丈夫」
そう思わせぶりに言われると、健全な男子高生として悠一もどきどきせざるをえない。
だいたい、自分の大会が口実だとはわかっていた。別にそれはいい。ついでにしたって聞きに来てくれたのは嬉しい。二人がホテルで同室だというのも気にはなったけれど反対できなかった。同性の高校生同士ならそれは自然なことだろう。自分が余計なことを言うわけにもいかなかった。
「泣かせないんじゃなかったのかよ」
「気持ちよくて泣くのはカウント外でしょ?」
聞かなければよかった。彼女いない歴十七年の男には刺激が強すぎる。ついこの間まで、えんえんともだもだしていそうな二人だった。礼の片思いは知っていたし、餌につられて協力してしまったのが運の尽きだ。まさか自分を遙かに追い越して、こんなに順調に関係を深めてしまうとは思わなかった。
「……お前らはまだ高校生なんだぞ」
つい悠一は親みたいなことを口にしてしまう。どこまで、なんて聞きたくないけれど気になってしまう。気になるけれど聞けない。自分は二人の間には入れない。
「大丈夫、まだ、全部じゃないから」
礼のでれでれっぷりといったらない。これは役得だと思うべきなのだろうか。絶対に友人以上にはなれない幼馴染みの。
「全部って……」
礼はひみつ、というように唇に一歩指をあてる。
悠一はいっそ叫び出したいような気分だった。
「演奏、よかったじゃない」
「ああ、まぁな……」
今まで関東大会以上に行ったことがなかった吹奏楽部は、なんと全国大会に行けることになってしまった。悠一だって練習で忙しくて、妹や礼のことばかりに関わってはいられない。明日からもまた朝練だ。
でも気になる。
「次の大会も、ぜひ応援に行かせてもらうから」
「俺を口実にすんな!」
せっかくの機会だ。二度とはない全国大会に集中したい。でも二人はまたホテルで同じ部屋を取るのだろう。
そうしたら今度こそ、「全部」にまで至ってしまうのではないだろうか。それが何なのかはよくわからないけれど。悠一はごくりと唾を飲む。
「感謝してるんだから、これでも」
そう言われると悠一もそれ以上は文句も言えなかった。
「来年の誕生日は、もう俺はお役御免なんだろうな」
「どうして?」
礼は皮肉で言っているわけではなく、本気で不思議そうだった。
「だってそうだろ、せっかくなんだから二人で……」
「誕生日は毎年、三人で祝ってたじゃない」
今年はたまたま母も家にいたけれど、普段はいない。だから、お祝いは三人でするのがいつものことだった。
「でも、二人きりの方がいいだろ」
「どうして」
むしろ詰問するかのように礼は問いかけてくる。
「どうしてってそりゃ……」
「何かサプライズ考えましょう? 来年も」
三人でいるのが当たり前だと思っていた。礼の目線がいくら水紀にばかり向いていても。二人と一人、ではなくてあくまで三人だ。そういう風に疑問もなくいられた時期は過ぎてしまったと思っていたけれど……でも、本当はそんなことないのかもしれない。
「……今年より、断然びっくりするようなやつな」
礼は我が意を得たりというようににこりと笑う。確かに、二人がこの先どうなるにしろ、自分がどんな進路を選ぶにしろ、またお祝いができたらいいなと思う。たった一日の特別な日だ。
やっぱり彼女は欲しいし、釈然としない気持ちはあるけれど……でも、二人が幸せそうなら、悠一にとってもそれに勝る喜びはない。
「とびきりの誕生日にしてやろう」