あとがき


 この本を執筆中に、私自身の人生に大きな転機が訪れました。私が2000年に起業したUIEvolutionに12年ぶりにCEOとして復帰することになったのです。

 UIEvolutionは、私が「私たちの身の回りにあるすべてのデバイスがインターネットに繋がる」というビジョンの元に、マイクロソフトを退社した2000年にシアトルで創業したソフトウェア会社です。

 一度は2004年にゲーム会社のスクウェア・エニックスに買収された会社ですが、2007年末にMBO(Management Buy out:経営陣買収)で買い戻し、その後は当時の私の部下たちに経営を任せて、私は株主/取締役としてだけ関わっていたのですが、今年(2016年)の2月の取締役会で私がCEOとして復帰することが決まったのです。

 この12年間、いろいろなことがありましたが、その中でも私の人生に大きな影響を与えたのが、2004年に書き始めたブログ「Life is beautiful」です。

 2004年といえば、まだまだ「ブログ」という言葉すら一般の人たちには知られていなかったころのことです。

 スクエニによる買収の結果、毎月のように日米を往復する生活が始まったのですが、それを見た妻が子どもたちを連れて日本に戻ってしまったのです。当初のブログは、そんな私がシアトルで一人暮らしをしているときにも、ちゃんとした食事をしていることを妻に知らせるために書き始めた、いわば「家族通信」だったのです。

 しかし、たまたま書いた「日本語とオブジェクト指向」という技術系の記事がエンジニアたちのあいだで大評判になり、いつの間にか私のブログは「技術系ブログ」の代名詞のようになってしまいました。定期的な読者もあっという間に1万人を超え、2005年の末には「アルファブロガー」に選ばれました。

 ブログを通して多くの人と出会ったし、ブログがあったからこそ採用できたエンジニアも大勢いました。ブログのおかげで獲得できたビジネスも少なくありません。

 この本を執筆するきっかけを作ってくれたのもこのブログです。ブログによって知名度が上がった結果、ウェブ上のメディアへの執筆依頼やインタビューの依頼が数多く来るようになっていました。この本のベースになった「『締め切りは絶対に守るもの』と考えると世界が変わる」というタイトルのコラム(WEB+DB PRESS 技術評論社)も、その一つです。

 文章を書くようになった一番のメリットは、頭の中の考えを整理整頓する習慣がついたことです。

 たとえば、UIEvolutionを起業してからの最初の4年間は、いろいろなことを手探りでやっていましたが、あまり「なぜその戦略を選ぶのか」などは考えずに行動していました。しかしのちに、その経験を通して学んだことを文章にするプロセスそのものが、私自身にとってその経験を総括して自分自身の教訓とする、とても良い機会になったのです。

 たとえば、今では「会社を経営するうえで何よりも重要だ」と考えている企業文化(コーポレート・カルチャー)ですが、最初は表面的にしか理解できていませんでした。そのため「自らが態度で示すだけで十分」と甘く見ており、どんな企業文化の会社にしたいのかが、社員全員に伝わってはいませんでした。

 しかし、文章を通して「企業文化の重要性」を他人に伝えようとすると、「なぜ重要なのか」「健全な企業文化を作り出すための具体的なプロセス」などをちゃんと説明する必要があり、これまでよりも一歩も二歩も踏み込んで考えなければならず、それがとても良い学びになるのです。

 企業戦略に関しても、同じです。夢中になって会社を経営しているあいだは、目の前の問題にばかり気を取られており、「自分たちはどこで差別化していくのか」などの長期的な企業戦略を考える余裕はありませんでした。しかし、企業戦略に関して客観的な文章を書くようになってからは、とてもクリアにものを見ることができるようになり、他人にもわかりやすく説明できるようになりました。

 とくに、日本のメーカーがAppleやSamsungに負けてしまった理由だとか、日本のソフトウェアが、ゲームを除いて世界で通用しない理由などは、誰よりも明瞭に、かつ、わかりやすく説明できるようになったと感じています。

 とくに後者の話は、グローバルな市場で戦うソフトウェア企業の経営者である私自身にとってはとても重要で、これ一つだけとっても、以前とは大きく違う企業経営ができると考えています。


 これからは、パソコンやスマートフォンだけでなく、自動車、サイネージ(電子掲示板)、クレジットカード、照明器具、壁、道など、私たちの周りにあるあらゆるものがネットに繋がり、それらが一体となった「ITインフラ」が、駅、空港、ショッピングモールなど様々な場所の「ユーザー体験」を作り出していくようになります。

 日本では、そんな「ITインフラ」の構築はいわゆるITゼネコンと呼ばれる、巨大なIT企業が受注し、設計だけして開発は下請けに丸投げする、という形で作られるのが一般的です。そして、下請け企業では、事前に満足なプログラムの教育を受けさせてもらえていない人たちが、過酷な労働環境でプログラミングをする、というとても非効率で非人道的な方法で行われているのです。

 しかし、そんな開発手法では決して良いものは作れないし、優秀なエンジニアが働きたいような環境は作れません。国際競争力のあるソフトウェア企業も、そんな業界からは決して生まれてきません。

 私は、UIEvolutionを通して、優秀なエンジニアたちが自らコードを書いて構築したはんよう的なソフトウェアをライセンスする、というビジネスモデルで、旧態依然としたITインフラの世界を大きく変えようと考えています。

 日本だ、世界だ、という分け隔てなく、優秀な日米のエンジニアたちが、ビジョンを共有して世界を変えていく、そんな場を作ることが私の次の目標です。

 この本を読んだ方の中にも、今の日本の状況に閉塞感を感じ、もっとオープンな環境で自分の力を発揮したいと考えている方も数多くいると思います。

 一度しかない人生です、ぜひとも夢を共有できる仲間を見つけ、日夜を忘れて仕事に没頭できるような環境に自分を置いてください。未来の社会は、そんな人たちが作り出していくのです。

シアトルのUIEvolutionのオフィスにて

中島聡