9 百合の誘惑



 シャワーを浴びてバスルームから出てきたエイジは、テーブルについても、最初の三分ぐらいは元気がなかったが、あたしと花野がケーキの出来栄えをほめると、とたんに笑顔になって、語り出した。

「パウンドケーキって、小麦粉とバターと砂糖と卵を一ポンドずつ使うから、パウンドケーキって言うんだよね」

「へーっ。そうなんだー」

 あたしが「知ってる」と冷静に釘を刺す前に、花野が感心を示して、エイジを増長させてしまう。

「エイジ君って、一人暮らしだよね? オーブン、持ってるの?」

「うん。上京してから、お年玉貯金でオーブンレンジを買ったんだ」

 なんて所帯じみた奴だ……。

「今度、また、ケーキ焼いてくるね」

「本当? うれしい!」

「バナナケーキなんて、どうかな?」

「おいしそうだね、それ! あたし、食べたことない!」

「ベーキングパウダーは、一応、アルミニウム・フリーを選んでるんだ」

 うれしそうに語るエイジに、あたしはつい、訊いてしまう。

「アルミニウム・フリーって?」

「アルミニウムが入ってないっていうこと。特に小さい子の場合、ベーキングパウダーで、アルミニウムの摂取基準値を越えちゃうケースがあるから。あと、アルミニウムがアルツハイマー病の原因になるっていう説もあったからね」

 エイジは得意げに語る。

 こやつ、もう、完全に立ち直ってる……。

(それって、さっきまでケツ責められて、ヒィヒィ泣いてた奴の態度かっ? なんか、おかしくないかっ?)

 いや、さんざん泣いていたが、あれがエイジにとっては、理想的な性欲の処理方法だったのか? 身も心もスッキリして、晴れやかな気分になっているのか?

 縛って無理やりアナル開発され、ドライオーガズムまで導かれ、マジ泣きして、そんな姿を好きな女の子の自慰のオカズにされるというシチュエーションが、実はウェルカムなのかっ?

 そして、さらには、その翌日──。

 昼休みの学食で、紙包みを広げて、彼はにこやかに言ったのだ。

「今日は、おいなりさん、作ってきたよ。花野さんと紗絵さんの分も」

 すると、花野が身を乗り出して、喜びの声をあげる。

「うれしいっ! 今度、コーヒーだけじゃなくて、ケーキもおごるっ!」

 いなり寿司は、包み方が異なる三種類があった。オーソドックスなもの、揚げをひっくり返したもの、三角に包んだもの。

 ひとつずつ指さして、エイジは説明する。

「これは五目いなり。こっちはゴマをたっぷり入れたのと、大葉を入れたの。これだけじゃ、栄養がかたよるから、サラダも作ってきたよ」

 と、保冷バッグを取り出す。

 まさか、ここまでケロッとしているとは……。

 一体、エイジは自分が放り込まれた状況に対しては、どう感じているのか?

 楽しいのか? あるいは、反対に、少しでも悩んではいるのか?

 仮に苦悩することはあっても、花野に完全にふられるよりは、オナニーの生オカズにされているほうがよいという考えなのか?

 ──だとしたら、私も同類である。

 こんなのは、異常な関係だと、わかってはいるのだ。

 単なる同性愛ではない。オナニストの女の子に恋してしまったバイセクシュアルのあたしが、彼女の目の前で、きれいな男の子をいたぶりながら犯したり、美しいレズビアンに抱かれて感じまくったりしながら、彼女のオナニーのオカズにされるなんて、ぶっちゃけ、異常な状況だ。

 しかも、あたしは、花野に指一本触れることも許されてないのだ!

 最初は、まだ、よかった。二人で互いに目の前でオナニーを見せあい、相手をオカズにするという時点においては。

 まあ、それも充分、普通ではないが、アブノーマル度は今ほど高くはなかった。

 あいかわらず、花野は、今のあたしたちの関係をおかしいとは思っていない様子。

 むしろ、オカズをさらに充実させたいと願っているようだ。すなわち、よりハードなプレイをあたしやエイジに望んでいるふしさえある。

 あたしたちを生オカズにしながらオナニーする花野がよく口にするひとことは──。

「すごい!」

 ──そうなのだ。

 花野がより評価するのは、思わず「すごい!」という言葉が出てしまうようなエロいプレイ、ハードなプレイなのだ。

 このまま、エイジをさらにハードにいたぶったり、美登里さんにより激しく抱かれたりという展開を、あたしは花野に望まれている。

 しかし、あたしが進みたい方向は、そっちではない。断じて、だ。

 あたしは、愛する人から愛を与えてほしいのだ。心と体に。

 加えて、安らぎも。



 学校帰り、ふと立ち寄ったデパートの書店で。

「あっ」

 あたしが美登里さんに気づいて声をあげるのと、美登里さんの視線があたしをとらえたのは、ほぼ同時だった。

「あらっ。紗絵ちゃん」

「お仕事帰りですか?」

「ええ」

 このまえ、花野に美登里さんを引きあわされたときには、ラフなファッションだったけど、今日の彼女はスーツに身を包んでいて、美しくかっこよかった。見るからに「できる女」だ。

 ふと、こんな女性が恋人だったら素敵だな、などと考えてしまい、あわてて打ち消した。

「紗絵ちゃんは、これからお買い物?」

「いいえ。終わったところです」

 あたしは、書店のロゴ入りの袋を見せた。

「じゃあ、よかったら、私の買い物につきあってくれない?」

「はい。喜んで」

 美登里さんについて行ったところ、目的地は食器売場。

「ぐい呑みを一個、買いたいの」

「陶器ですか? それとも、ガラスのですか?」

「なんでもいいの。今年は毎月、一個ずつ、ぐい呑みをじっくり選んで買うことにしてるのよ」

「毎月、一個ずつ、ですか?」

「ええ」

 うなずいてから、美登里さんは説明する。

「ほら、通販であるでしょ? 毎月、デザインが違う商品が、一個ずつ届くの。マグカップとか、ポーチとか、布バッグとか……」

「はい。わかります」

「あんな感じで、自分で毎月一個ずつ、一年間、ぐい呑みを買うことにしたの。一年 ったら、私のお気に入りぐい呑みコレクションが完成、というわけ」

「それは楽しそうですね」

「楽しいわよ。私、自分を楽しませるのが、大好きなの」

「日本酒はお好きなんですか?」

「ええ。私、日本酒派なの」

「じゃあ、おいしい銘柄、教えてくれませんか」

「なんなら、今度、うちに呑みにいらっしゃいよ。……そうだわ。今日は、紗絵ちゃんがうちで使うぐい呑みを選びましょうよ。どんな感じのが好き?」

(もしかして、あたし、さりげなく誘われてる?)

 頰が熱くなってゆくのを感じつつ、あたしはこたえる。

「ガラスのが、好きです」

「江戸きり とか、さつ 切子とか?」

「色が淡いほうが、好みですね」

「じゃあ、選んでみて」

 言われて、あたしは売り場をひとまわりし、無色透明で気泡がたくさん入っているガラスのぐい呑みを選んだ。

 あたしからそのぐい呑みを受け取り、美登里さんは言う。

「手吹きグラスね。いい趣味だわ」

「これなら、お酒の色合いもわかりますよね」

「そうね。紗絵ちゃんのおかげで、いい買い物ができたわ」

 言いながら、美登里さんはレジに向かう。

 美登里さんが本当にあたしが選んだものをサクッと買うとは思っていなかったので、ちょっと驚いたし、なんとなくうれしかった。

 支払いを終えると、ぐい呑みが入った小さな紙袋を手に、美登里さんは言う。

「これ、紗絵ちゃん専用のぐい呑みだからね。ちゃんと、うちにお酒を呑みにいらっしゃいね」

「はい」

(やっぱり、あたし、誘われてるんだよね……?)

 あたしの好みを「いい趣味」と言って、こんなふうに受け入れつつ、誘ってくれるなんて。さりげないけど、大胆で、しかも、あたしをいい気分にさせてくれて。

 同年代の子は、こんな誘い方はしない。できない。男の子も、女の子も。

(大人の余裕なんだな……)

 あたしは、さっきから美登里さんの魅力にクラクラきている自分に気づいた。

 花野とくらべたら、美登里さんはずっとノーマルだ。社会人として、きちんと生きてるし。

 単に、タチのレズビアンで、少し面白がりだというだけで。

(もし、あたしが花野に出会う前に、美登里さんと出会ってたら、どうなってた?)

 ──きっと、美しくて陽気な彼女に惹かれてた。本気で好きになって、あたしから告白してたかもしれない。

(それで、もし、両思いになれたら?)

 ──たぶん、あたし、毎日ワクワクしながら過ごしていたと思う。訳わからない事態に思いわずらうこともなく。

 ということは、もしかして……。

(もしかして、あたし、花野よりも美登里さんとつきあってたほうが、幸せになってた?)

 そんなあたしの思いを見透かしたかのように、美登里さんは唐突に言った。

「私たち、セックスはしたけど、キスはまだだったわよね?」

「そ、そうですね」

「これから、しない? キス」

 内緒話のようにコソッと言われ、胸を高鳴らせながら、あたしはうなずいた。

「はい。いいですね」

 美登里さんとあたしは、高級ブランドショップにはさまれた通路を抜けて、階段へ。

 ひとつ下の踊り場に降りると、美登里さんはキョロキョロとあたりを見まわし、あたしに「今よ」とささやいた。

 次の瞬間、肩をとらえられ、唇に唇を重ねられた。

 ふわりと柔らかい感触。とろけてしまいそうな。

 濡れた舌先が、あたしの唇をかすめた。

 それに応じて、ちょっとだけ口を開くと、彼女の舌が侵入してきた。

「んっ……んんっ……」

 やだ。興奮して、変な声、出ちゃうよ。

 なんか、あそこにも熱が集まってきたし。

 キスなんて、本当に久々だし……。

 歯列をかすめた美登里さんの舌は、あたしの舌にからみつく。

 いつしか、お互いにむさぼりあうようなキスをしていた。

 ああ、このまま、美登里さんの肌に触れることができたら……!

 そして、あたしも彼女に触れられて……ああ……!

 突然、美登里さんの唇が離れ、あたしは我に返った。

(いけない。夢中になってた)

 そして、階段の下でスーツ姿の男性がびっくりしたような顔でこちらを見ていることに、気づいた。いかにも、妻子に愛されているパパといった感じの、三十代なかばぐらいの人がよさそうな男性だ。

 キスしてるところ、見られちゃったんだ!

 あたしは恥ずかしくて、彼から目をそらし、美登里さんの表情をうかがった。

 美登里さんは彼に向かって、にっこりと笑った。

 あたしがふたたび、おずおずとそちらに目を移したときには、彼の姿は消えていた。階段を上がろうとして、あたしたちに気づいたようだったけど……。

 美登里さんはクスクス笑って言った。

「知らない人に気を遣わせちゃったわね」

 あたしはなんだか気まずくなっていたのに、美登里さんはケロッとしている。むしろ、この状況を面白がっている。

 なんだか救われた気分になって、あたしは言った。

「いかにも普通のお父さんっていう人に、見られちゃいましたね。彼としては、ショッキングなシーンだったかも……」

「あら。目の保養だと思ってほしいものね、そこは」

 美登里さんは、あっけらかんとしている。

 ああ、やっぱり、彼女は素敵な女性だ。

 明るくて社交的で、堂々としていて。おのれに自信がある人特有の、心の広さも気持ちいい。

 美登里さんに心惹かれる一方で、あたしは、花野との関係に疲れつつある自分に気づいてしまった。

 もちろん、花野のことは好きだ。心から愛している。

 だけど、彼女が望む関係と、あたしが望む関係は、あまりにも違いすぎる。

 花野のことを大切に思っているからこそ、今まで、あたしは彼女の希望をかなえてきた。自分の欲望を押し殺して。

 結果、花野のオナニーのオカズになるということで、美登里さんと深い仲にもなれたわけだけど、今度はあたし、美登里さんにかなり本気で惹かれてしまうなんて。

 もし、ここに至り、あたしと美登里さんが密会したら、それは、花野に対する裏切りだ。

 さっきのキスだって、正直、花野に対してはうしろめたいものを感じている。

 それでも、あたしは、美登里さんに惹かれてしまっている……。

 下りのエスカレーターの上で、美登里さんはあたしに言った。

「今度、うちにいらしてね。絶対よ」

「はい」

「このぐい呑みは、紗絵ちゃんのだからね。紗絵ちゃん以外の人には、使わせないわ」

「ありがとうございます」

 美登里さんの申し出にどこまで積極的に応じてよいのか迷いつつ、あたしはこたえた。

「紗絵ちゃん、あなた、警戒しないの?」

「警戒、ですか?」

「私に酔わされて変なことされるんじゃないか、とか」

「いいえ。あたし、美登里さんを信じてますから」

「信じてる? なにを、どう、信じてるのよ?」

 いきなり斬り込んでこられて、あたしは戸惑いながら、こたえる。

「えっと……美登里さんは、あたしのいやがることはしないんじゃないかな、と……」

「でも、私、紗絵ちゃんがなにをいやがって、なにを喜ぶのか、百パーセント把握してるわけじゃないわよ」

 確かに、言われてみれば……。

「でも、ね」

 と、意味ありげに微笑んで、美登里さんは続けた。

「性的な面で、紗絵ちゃんがなにを望んでいるかは、ちゃんとわかってるつもりよ」

 ──もしかして、あたし、誘惑されてる?

 いや、美登里さんは、そんな危うい感じのやりとりを楽しんでいるだけかもしれない。

 あるいは、あたしの反応を見て、面白がっているのかも。

(自意識過剰は、いかんっ! 早とちりも、はなはだ危険だっ!)

 あくまでも、美登里さんは、花野がオナニーのオカズのために、あたしにあてがった女性であって。あたしよりも、むしろ花野に共感した人であって。

 そして、美登里さんと花野とは、共犯的関係にある。

 だから、あたしが美登里さんといい仲になりたいのであれば、ちゃんと筋を通すべき。花野を裏切るような形で、新たな関係を結んではいけない。

 あたしは心を引きしめた。

 そんなあたしに、美登里さんは、別れ際、言った。

「今日のことは──私が紗絵ちゃん専用のぐい呑みを買ったことは、花野ちゃんには内緒ね」

 ──なんでですか?

 ──もしかして、深い意味があるとか、ですか?

 そう確認したいのをこらえ、あたしは笑顔で簡潔に「はい」とこたえた。

 すると、彼女はさらに言った。

「私があなたをうちにお招きするつもりだっていうことも、花野ちゃんには内緒よ」

「はい」

 こたえたものの、やはり我慢できず、あたしは訊いてしまう。

「でも……なんでです?」

 美登里さんはうれしそうに微笑み、言った。

「それも内緒」

 あたし、誘われていると言うよりは、むしろ、焦らされているのかもしれない……。