4 どん引きされるがよい!
昼休み、エイジは、また釜めし弁当を作ってきた。あたしと、花野と、そして自分に。
釜の蓋を取ると、中身は、鶏そぼろ、炒 り卵、でんぶの三色弁当だった。ちゃんと、いろどりも考えて、茹でたサヤエンドウまで添えてある。
おまけに、「これだけじゃ栄養が偏るから」と言って、タッパーに入れた筑前煮まで出してくれた。
これは、正直、うれしい。
「おお、愛 い奴よのぅ」
あたしの賞賛の言葉に、エイジは照れ笑いを浮かべる。
「愛い奴よのぅ」
花野が復唱すると、エイジはパッと頰を赤らめる。やはり、こいつ、花野に気があるのか?
しかし、花野と両思いになれた今となっては、すでにエイジはあたしをおびやかす存在ではなかった。
言ってしまえば、ちょっとした下僕である。花野とあたし共通の。
箸を手にしつつ、エイジは明るく切り出す。
「ぼく、今、緑のカーテンを作ってるんだ。ゴーヤーの苗を買って、プランターで育てて」
「あれ、いいらしいね。夏は本当に涼しいんだって?」
あたしが訊くと、エイジは大きくうなずいた。
「去年、実家で作ったんだけど、あるとないとじゃ、全然違うよ。ゴーヤーは病気になりにくいし、虫もつきにくいしで、すごく育てやすいしね」
すると、花野が目を輝かせて確認する。
「実もなるんだよね?」
「うん。夏になったら、どんどん採れるよ。一人じゃ食べきれないと思うから、できたらチャンプルーにして持ってくるよ」
「わあ、うれしい!」
よしよし。我々に貢げ貢げ。いくら貢いでも、花野は貴様のものにはならんのだからな!
「夏休み、実家には帰らないの?」
「帰るよ」
「ゴーヤーの水やりは?」
「もう、大家さんにお願いしておいた。ぼくのうち、アパートの一階なんで。その代わり、水やりしている間の収穫は、みんな大家さんのものっていうことで」
こやつ、どうやら、美しい容姿と人なつっこい性格で、家主にも気に入られているようだな。
いっそ、大家宅の美しい一人娘(高二)とくっついてしまえばよいのだ。そんな娘がいるのかどうかは知らないが。
「ゴーヤーって、チャンプルー以外に、どうやって食べるの?」
あたしが話を振ってやると、エイジは楽しげに語り出す。
「豚肉と一緒に味噌炒めにするのが、簡単でおいしいよ。みじん切りにして、卵焼きの中に入れてもいいし。薄切りにして水にさらしてサラダっていう手もあるし。ぬか漬けもいいよ」
「ぬか漬け? それは知らなかった」
「じゃあ、夏になったら、うちのぬか床で漬けたの、持ってくるから味見してみて」
「うん。楽しみにしてるよ」
こたえてから、ふと、疑問に思って訊いてみた。
「夏休みに帰省してる間は、ぬか床、どうするの? あれ、毎日かきまぜなくちゃだよね?」
「実家に持って帰るから、大丈夫」
「持って帰る?」
「うん。埼玉だから、そんなに大変じゃないし」
「どうやって持って帰るの?」
「保冷剤と一緒にクーラーに入れて、肩から下げて、電車に乗って、一緒に帰る」
「で、実家から戻るときには──」
「もちろん、同じようにして、東京に連れて帰るよ」
「連れて帰る?」
その表現に大いに疑問をいだいて復唱したところ、エイジはにっこりと笑って言った。
「あれ、ぼくにとってはペットだから」
「ペット?」
「だって、あれ、生き物でしょ?」
「確かに生きてるけど……。あれって、菌じゃない。菌の集合体じゃない。奴ら、なにも考えてないよ」
「でも、その乳酸菌の集合体が、大いなる意志を持ってるような気がするんだ」
気のせいだ。
そして、「大いなる意志」など持っていても、乳酸菌にはできることなど限られている。ぬか床の野菜を発酵させるのが関の山だ。
だが、あたしは説得を断念した。
もう、あたしは理解していた。こいつは単なる美少年ではない。
美少年である以前に、変わり者であったのだ。
まず、真っ先に認識できるのが、秀麗な外見であるがゆえに、中身に気づくのが遅くなった。
だが、相手がそんな変わり者であっても、花野はうまく話を合わせてあげるのが巧みで──。
「ぬか床ちゃんの名前は、なんていうの?」
すると、エイジはなぜかポッと頰を染めてこたえた。
「ハナちゃん」
「ハナちゃん! かわいい名前だねっ!」
花野は無邪気に言ったが、あたしにはピピッときた。
その名前は、花野の名からとったにちがいない!
(ということは、やはり、この男、清らかな花野に懸 想 してるのかっ? 劣情をいだいてるのかっ?)
あたしの心の片隅に、不穏な黒雲が生まれかける。が、あたしはそれを思い切り蹴 散 らした。
(あたしと花野は恋人同士なんだ! 互いに指一本触れてはいなくても、男が割り込める余地などないっ! 断じて、だ!)
*
かつて、昼休みの学食は、あたしにとって和みの時であり憩いの地であったが、エイジが土足で入り込んできて以来、そこは心理的丁々発止の場へと変容した。
代わりに、あたしは喫茶店〈来夢来人〉を愛をはぐくむ新田として開 墾 し、そこに愛の稲をサクサクと植えた。
すなわち、夕方は、たびたび花野とここでなごやかな時を過ごしているのである。
ここには、生物学的には男性のマダム(フリルのついたブラウスにロングスカートを穿いているのだから、マダム扱いしてよかろう)が淹れてくれるおいしいコーヒーがある。
加えて、花野がそばにいてくれれば、ほかになにを望む? 〈来夢来人〉の安っぽい内装など、瑣 末 な問題でしかない。
ブレンドにコーヒーシュガーと生クリームを入れ、スプーンでかきまぜながら、花野は切り出す。
「セックスの体験談を話したがる人って、よくいるじゃない?」
あたしは、ブラックのブラジルを片手に応じる。
「うん。いるねぇ」
「本人は猥 談 をしてるつもりかもしれないけど、その一方で、オナニーの話は全然しないっていうのは、半端だよね」
「でも、本人はオナニーの話をするのが恥ずかしいんじゃないのかな?」
「そうなのかもしれないけど、セックスの話は平気なのに、オナニーの話は恥ずかしいなんて、おかしくない?」
「言われてみれば、確かに……」
「そういう人、女の子に多いけど、それって、エロティックなことが好きなわけじゃなくて、異性に必要とされてる自分が好きなだけなんじゃないかな」
「ああ、それ、わかる。セックス体験談が、単なるモテ自慢になってる人、いるよね」
「紗絵は、オナニーの話を振っても、ちゃんとつきあってくれるから、好き」
花野の「好き」というひとことに、あたしはしばし恍惚としてから、フッと微笑み、アフォリズム風に言ってみる。
「オナニーについて語れない者は、好色とは言えない」
「えっ。なに、それ? かっこいい」
「今、考えた」
「そのまま、アダルトグッズのコピーに使えそう」
コロコロ笑ってから、花野はフッと優しい表情になって言う。
「なんだか、夢みたい。あたしに、オナニーのオカズになってくれる恋人ができるなんて。それが、紗絵のような素敵な人だなんて。あたしみたいな変態、一生、独りなんだろうって思ってたから……」
「そんなこと、ないっ! 花野はかわいいし、すっごく魅力的だよ!」
「でも、世間から見たら、変態性欲者だよ」
「それを言ったら、あたしだって変態だよ。好きになる人を異性だけに絞れないし。むしろ、同性のほうに惹かれるし……。でも、あたし、自分を変態だなんて卑 下 したくないっ」
いつになく真剣なあたしに、花野は目を丸くする。
「紗絵……」
「おかしいから、異常だから、アブノーマルだから、普通じゃないから……そんな言葉で性の多様性を否定するの、あたしは大嫌い。性っていうのは、本来、いろいろな形があって、豊かなものであるはずだよ。なのに、そんなつまらない決めつけで、様々な形の悦びを否定する……そんな考えこそ、多くの人を不幸にしてきたわけでしょ?」
「そう……だよね……」
(えっ?)
突然、花野の妖精のような大きな目が潤んできたので、あたしはハッとした。
「ほんと、紗絵の言う通りだよ。ありがとう。あたし、今の紗絵の言葉で、すごく救われた」
「あ。いや、あたし、言いたいこと言ってるだけで。こんなの、単なる放言だし。時に暴言だし」
「放言でも暴言でもない。あたしにとっては、とても信頼できる言葉」
花野の頰は愛らしい薔薇色に染まっている。
あたしは覚 った。
世間の画一的な性愛観によって、彼女もまた、傷つけられ、悩んできたのだ。あたしがそうであったように。
「あたし、紗絵と知りあえて、仲よくなれて、本当によかった」
神秘的な瞳に、吸い込まれそうになる。
そんな、不思議な感覚に恍惚としながらも、あたしはうなずく。
「あたしもだよ、花野」
「あたし、これからも、紗絵と気持ちいいこと、いっぱいしたい」
夢のような言葉に、ボーッとしてしまう。
「うれしい」
あたしの唇から、素直な気持ちがこぼれ落ちる。
「なんか、それ聞いて、あたし、なんでもしてあげたくなっちゃった。花野に」
「なんでも?」
問い返されて、まるで操られるように、あたしはうなずいていた。
「うん。なんでも」
そう。
なんでもします──そのちょっとした言葉によって、後にとんでもない要求を突きつけられる事態に発展することは、古今東西の物語でもさんざん語られてきたことだ。おとぎ話でもエロ小説でも。
しかし、この時点のあたしは、多幸感に舞いあがってしまい、その後の展開を予測することができなかったのである。
*
いつものように〈来夢来人〉に行こうと、花野を誘ったところ、やけに真剣な顔で言われた。
「今日はうちに来ない? 二人きりで話したいんだ」
ん? オナニーのお誘いか──と思いきや。
「べつにエッチなことに誘ってるわけじゃないからね」
と、まるで期待を見透かされたかのように言われてしまった。
そんなわけで、あたしは花野と共に、彼女が暮らすワンルームマンションに向かった。
花野の部屋は、なんだかふんわりと甘く柔らかないい香りがする。
ひそかに深呼吸したあたしをソファーベッドに座らせると、花野は二人分の紅茶を淹れ(ティーカップではなく、例のデュラレックス社の耐熱グラスだ)、ローテーブルの上に置いた。
そして、床に座り、単刀直入に切り出したのである。
「今日、あたし、学校でエイジ君に好きって言われちゃった。おつきあいしたい、って」
「ええっ?」
驚愕のあまり、淹れたての紅茶で熱くなっているグラスを取り落としそうになりながらも、あたしは訊く。
「で、なんてこたえたのっ?」
「返事は保留にした」
「な、なんでっ?」
なんでその場で断らないのっ?
しかし、反対に花野に訊き返されてしまう。
「保留にしちゃ、いけなかった?」
「そ、それは……」
あまりにも堂々と訊かれて、一瞬、自分が間違っているのかと思ったものの──。
(べつに、あたしの反応、おかしくないよ!)
そう確信し、続ける。
「でも、花野の恋人はあたしでしょっ?」
「恋人って、一人に絞るべきもの?」
「は?」
またしても堂々と問われ、反応らしい反応ができなかった。
花野は再度、あたしに確認する。
「複数の恋人を持つのは不誠実だとでも言うの?」
「そ、そりゃ、まあ……」
あたしがモゴモゴと肯定すると、花野はフッと軽く笑った。おそらくそれは、ささやかな嘲 笑 だ。
「一人だけのパートナーを持つことは、モノガミーって言うよね。それに対して、複数の相手とつきあうことは、ポリガミー。でも、それって、どっちが正しくてどっちが間違ってるってわけでもないよね。一夫一婦制と、一夫多妻制と、一妻多夫制のどれが最も望ましいかなんて、文化によって違うんだから」
「そ、それは……」
通常であれば、あたしは花野に賛同しただろうが、その意見表明が自分の身に降りかかってくるとなると、慎重にならざるをえない。
「一夫一婦制が最も文明的で、一夫多妻制や一妻多夫制が野蛮だなんて、そんなことはないよね? そんなキリスト教文明優位主義的なこと、紗絵は考えてないよね?」
「そ、それは、そうだけど……。充分承知だけど……。でも、あたし、感情の部分で納得できない」
「感情の部分?」
「うん。あたしは花野が好き。本気で好き。花野以外の子とつきあいたいなんて思わない。相手が男の子でも女の子でも。だから、あたし、感情の部分では、花野にもあたし一人を好きでいてほしい」
「もちろん、あたしだって、紗絵が好きだよ。一番好き。エイジ君より好き」
やった! エイジに勝った!
しかし、あたしの喜びは、花野が「でも」と続けたときに、スッと冷えた。
「あたし、エイジ君もオカズにしてみたいの」
「ええーっ?」
今日、あたしは、何度驚愕すればいいのだ?
「あたし、男の子との性経験はないの。だから、そういうときに、男の子がどうなるか、知らないの。で、それを知りたいの」
生 真面目 な顔できっぱり言い切った花野に、あたしはおずおずと確認する。
「そ、それって『本当は男の子とセックスしたい』っていう意味じゃないよね……?」
「もちろん」
花野の返事は、たのもしいほど明確だった。
「あたしは、単にかっこいい男の子をオカズにしたいだけ」
「花野って、男の子でもオカズにできたんだっけ……」
「うん。このまえ、言ったよね。あたし、男の子も女の子も好きになったことがある、って。紗絵と同じで」
了解。バイセクシュアルのオナニストね。
花野は説明を続ける。
「でも、やっぱり、オカズになってくれた男の子に指一本触れたいとは思わないよ。だから、あたしが目の前にいるエイジ君をオナニーのオカズにしても、浮気じゃないよね? 相手に指一本触れないんだから」
「えっ? そ、それ、浮気だよっ!」
動揺の極致であたしは訴える。
「だって、あたし相手にしてきたことを、エイジ君相手にもしたいってことでしょ? それ、浮気じゃないの!」
「浮気じゃないよ! 紗絵のわからず屋っ!」
「わからず屋ぁ?」
そんな表現、現実で初めて聞いたよ。それって、すでに死語じゃないの?
しかし、花野はかまわず続ける。
「そうだよっ。紗絵なんて、わからず屋だよっ! だって、エイジ君をオカズにした単なる自慰行為を、浮気だなんて……!」
「あ、あのねっ。よく考えてよ。エイジ君をオカズにするにしてもだよ、あたしとしたように、二人きりでオナニーなんてことになったら、彼、襲いかかってくるかもしれないよっ」
「エイジ君はそんな人じゃないっ」
いや、それ以前に、好きな女の子のオナニーの生オカズになることを受け入れるような男なのかどうかも不明なのだが。
「そんな人じゃないかもしれないけど、万が一ってこともあるじゃない。相手はあれでも一応、男の子だよ。力だって、あたしたちよりずっと強いんだよ。花野は心配じゃないの? あたしはすごく心配だよ!」
すると、花野はすねたような口調で言った。
「じゃあ、紗絵もつきあってよ」
「え?」
「あたし、エイジ君をオカズにオナニーするから、紗絵もその場にいてよ。あたしと一緒にオナニーしてくれてもいいし、エイジ君と一緒にオカズになってくれてもいいから。なんなら、エイジ君とエッチなことして、あたしを興奮させてよ。セックスでもいいし、手でするのでも、口でするのでもいいから」
ちょっ……! 手でするのでも、口でするのでもいい、って……!
「は、花野は、それでいいの?」
「それでいいの、って?」
「その、つまり、あたしとエイジ君がエッチなことをして、そういうことになって……。嫉妬とか、感じないのっ? だって、あたしは花野の恋人なんでしょっ?」
「あたしにとって、エイジ君は単なるオカズだよ。オカズに嫉妬するなんて、おかしいでしょ?」
なるほど、そうか……。
いや、なんか、おかしくないか?
「で、エイジ君をオカズにしたあたしのオナニーに、紗絵はつきあってくれるの? くれないの?」
もう、花野はエイジをオカズにオナニーする気満々だ。
ここであたしが四の五の言っても、聞かないだろう。というか、あたしはすでに、独自の価値観を築きあげている花野を説得する自信がない。
そして、説得できないからと言って「もう、好きにしろ!」という態度で突き放せば、花野は本当に好きにするだろう。すなわち、エイジをオカズにオナニーに及ぶ、と。
もう、こうなったら、一 旦 は花野の要求に応じるのが得策ではないか?
そもそも、花野の申し出をエイジが受け入れるかどうかもわからないのだ。
いや、普通の男なら、拒絶するだろう。告白したというのに、恋人にはしてもらえず、単にオナニーの生オカズになってほしいだなんて。
この女、頭おかしい──そう思って遠ざかるのが妥当な線だろう。
あたしは心を決め、言った。
「わかった。花野がエイジ君をオカズにオナニーすることになったら、あたしは花野の恋人としてお手伝いする」
「あ、ありがとう、紗絵! あたし、紗絵なら絶対、わかってくれると思ってた!」
パーッとお日様のような笑顔を見せる花野に、あたしは心で念じる。
エイジにどん引きされるがよい、と。