2 峠の釜めしは焦燥感と共に
気分にむらがある人間と交流するのは、なにかとめんどくさい。
ニコニコと上機嫌でいてくれるときはよいが、こちらはなにも悪いことをしてないのにムスッと不機嫌な態度を貫かれ、時には八つ当たりされるというのでは、積極的に親しく交わろうという気にはなれない。
だからこそ、あたし自身、イライラを顔に出さないようにつとめてきた。特に、愛する花野の前では。
しかし、最近は、それも限界になりつつあった。
なぜなら、あたしのイライラの原因が、花野にベッタリ貼りついているからだ。
今日も午前中の講義が終わり、大学に昼休みが訪れた。
そして、あたしの不機嫌の元凶は、またしても、花野とあたしの愛の園に土足で踏み込んできたのである。
「ここ、いい?」
確かに、エイジは花野の隣に座る前に、礼儀正しく、そう訊いてきた。
しかし、ここで「いやだ」とはっきり言える人間がそうそういるわけでもなく、あたしが本心を明かそうか否か一瞬迷った隙 に、純真な花野は「どうぞ」とこたえてしまったのである。
「失礼しまーす」
エイジは陽気な声で言い、昼食のプレートをテーブルに置いて、花野の隣に座った。
そんな彼を、あたしは心の中でどやしつける。
(失礼してるってわかってるなら、最初から来るな! 股間に変なものぶらさげてる生物がっ!)
花野は大盛りカツカレーを豪快に食べつつ、エイジの昼食を見て、にっこりと微笑んで言う。
「そのラーメン、おいしそう。豚骨?」
「うん。博多ラーメン」
「そっちは、肉野菜炒め?」
「うん。炭水化物だけだと、また、紗絵さんに心配されると思って」
あたしは思わず、身を乗り出して言い放つ。
「し、心配っ? 心配なんて、してませんけどっ!」
あれは、単なるいやみだ! それもわからんのかっ?
「やだぁ。紗絵ってば、ツンデレ?」
「ツンデレじゃないっ! あたしは、本当に心配なんかしてないっ」
花野は「んふぅ」と笑い、つけ加える。
「紗絵って、かーわいい」
「え……?」
あたしの頰 はカーッと熱くなる。
花野にかわいいって言われてしまった……。ジーン……。
しばし感動にひたり、その後、エイジがまじまじとあたしの顔を見ていることにハッと気づいた。
あたしと目が合うと、焦ったように、彼は目をそらす。
(まさか……)
こいつ、気づいたのか? あたしが花野に「かわいい」って言われて恍 惚 としていたことに!
花野は、あたしとエイジを見くらべて、小首をかしげる。
「あれぇー? 紗絵もエイジ君も、なんで、顔を赤くしてるの? もしかして、お互い、意識してる?」
「意識してなどいないっ!」
いけない!
思わず吐き捨てるように言ってしまったではないか! 愛しい花野に対して!
あたしの剣幕にびびってか、エイジはあわてて話題を微妙にそらす。
「ぼ、ぼくっ、炭水化物、大好きなんだ。ご飯もパンも麵類も、大好物で、おかずなんて、いらないぐらい」
話題を変えたいのは、こっちも同じ。あたしも奴に調子を合わせる。
「エイジ君って、一人暮らし?」
「うん」
「ちゃんと自炊してる?」
「うん。ご飯もちゃんと、炊いてるよ。峠 の釜 めしの容器で」
「ええっ?」
あたしは本気で身を乗り出す。
峠の釜めしとは、信越本線横川駅(群馬県)の傑作駅弁である。小さな釜の形をした陶製の容器に、ご飯とおかずを詰めた、愛らしく素敵なデザインだ。
横川以外の駅やサービスエリア、ドライブイン等でも販売されている。
益 子 焼 のその容器は素朴かつかわいらしく、捨てるには思い切りが必要だ。ゆえに、関東地方の台所の床下収納やシンク下収納には、しばしば、釜めしの空容器が眠っているのである。
つまり、関東は、釜めし容器の都市鉱山だと言っても過言ではないわけだが──。
「あの釜めし容器で、ご飯が炊けるのっ?」
「うん。一合しか炊けないけど、お焦げもできて、おいしいよ」
そして、エイジは炊き方を説明した。
一合の米に、水はだいたい二百㏄。それを釜めし容器に入れ、やや中火寄りの弱火にかけ、湯気が出てきてから十分で火を止める。それを十五分蒸らせば、おいしいご飯のできあがり。
「すごーい。やってみたーい。でも、あたし、釜めしの容器、持ってないや」
「あたしも。実家にはあると思うけど」
すると、エイジは言った。
「じゃあ、ぼく、明日のお昼は、花野さんと紗絵さんに、釜めしの容器で炊いたご飯を、持ってくるよ」
「いいのっ?」
「うん」
「エイジ君、そんなに、釜めしの容れ物、持ってるの?」
「うん。上京するとき、実家から持ってきたんだ。うち、埼玉なんで、群馬方面に旅行すると、よく、釜めし買ってて。しかも、母が、なかなかものを捨てられない性格で」
「じゃあ、エイジ君のお母さんにも感謝しなくちゃだね!」
「二人とも、明日は食券は買わずに、ここで待っててね」
と、エイジはきれいな顔でにっこり。
「わーい!」
子供のように歓声をあげる花野を前に、あたしは作り笑顔でエイジに言った。
「ありがとう。すごく楽しみ」
まずい、まずい、まずい。
エイジは魅力的だ。顔だけがとりえの男かと思いきや、顔以外にも美点はあった。
なんだ、この、妙にひねりの効いた家庭的な一面は。
腹立たしい! 実に腹立たしい!
こうして、花野の清らかな心の隙間に、ヘビのようにスルリと入り込もうという魂胆だな!
あたしは、メルルーサのバター焼き定食を黙々と片づけつつ、心を引きしめた。
そして、念じた。
明日、エイジが作る釜めし容器のご飯が、焦げ焦げになりますように、と。
その後、食事を終えたあたしたちは、学食を出た。エイジと別れ、あたしは花野と共に次の講義に向かう。
途中、花野は探るような目であたしに言ったのである。
「紗絵、すごく、エイジ君のこと、意識してない?」
「い、意識なんて、してないよっ」
否定する一方で、心の中では肯定する。
(ええ、ええ、そりゃ、もう、意識してますとも! この世で最も邪魔な男として!)
「もしかして、エイジ君、結構、紗絵の好みなんじゃない?」
「まさか! あんな軟弱そうな男には、あたし、全然、惹かれませんからっ!」
「軟弱? そうかなぁ? あたし、結構、エイジ君って、根は質実剛健だと思うんだけど」
「たとえ根が質実剛健でも、あたしの好みじゃないよっ」
だいたい、もう、股間になにかをブラブラさせてる生物には、懲 りてるんだよっ!
そして、今のあたしは花野ひとすじなんだっ!
しかし、花野は残酷に続ける。
「なんか、あたし、紗絵とエイジ君が惹かれあってるような気がしちゃって……」
「そんなこと、ないっ! あんなヘラヘラした男、そばにいたら、あたし、いびり殺しますからっ!」
フフッと笑ってから、花野は言う。
「やだ。なんか、紗絵、過剰反応」
「こ、これが過剰反応に見えるなんて、花野のほうが、あたしとエイジ君の関係を意識しすぎてるんじゃないっ?」
少しばかり憎まれ口を叩いてみたところ、花野は伏し目がちになって言った。
「そうだね。意識しすぎかも。紗絵もエイジ君も、魅力的だから……」
え?
どういうこと?
「紗絵とエイジ君が惹かれあうようになったら、あたし、なんか、仲間外れみたいになっちゃうじゃない。それが、面白くないんだ」
それって、エイジに惹かれて、あたしに嫉 妬 してるってこと?
それとも……もしかして……。
あたしに惹かれてて、エイジに嫉妬してくれてるっていうことなの?
あたしが確認しようかすまいか迷っているうちに、教室に着いてしまった。
いや、時間切れにならなくても、あたしにそれを確認する勇気があったかどうかは、疑問である。
その二つの可能性は、あたしにとって、まさに天国と地獄なのだから。
*
翌日の昼休み。
あたしと花野は共に、学食の窓際の席で、エイジを待った。
「釜めしのご飯、楽しみだねっ!」
「うん。楽しみだね」
あたしは笑みを顔面に貼りつけてこたえる。
「お待たせーっ!」
陽気に言いながら、エイジがやって来た。
(全然、待ってなんかいない! おまえのことなど!)
あたしは心の中で無意味な反撃を試みる。
エイジは、手にしていた紙袋から、新聞紙に包んだものを取り出した。
「はい、花野さんの分と、紗絵さんの分」
「わーい、ありがとう!」
花野ははずんだ声で言い、あたしもなんとか笑顔を作って礼を言った。
この様子では、ご飯は焦げ焦げではなさそうだ。
新聞紙の中には、まごうかたなき、峠の釜めしの容器。
素焼きの蓋を取ってみたところ──。
「うわぁ! おいしそう!」
花野は素直に歓声をあげ、あたしも思わず「おお」と低くうめいた。
「きじ焼き弁当にしてみたんだ」
エイジは自分の分の釜めし容器を開けながら言う。
飴色に焼いてある鶏肉と、やや半熟のゆで卵、それに、茹 でたホウレンソウと、キュウリの漬け物が添えてある。
「ホウレンソウは、きじ焼きを作った肉汁で味つけしてあるけど、卵は味をつけてないから塩をかけてね」
と、学食のテーブルの備品である食卓塩の容器をとる。
「すっごーい! このご飯、この容れ物で炊いたんだ!」
「キュウリも、ぼくが漬けたんだ。一人暮らしを始めてから、すぐ、ぬか床を作って、今じゃフル稼働中」
ぬか床、だと……?
またしても、新たな家庭的アイテムを持ち出しおって、この男は!
きじ焼きの下には、海 苔 が敷きつめてある。その下のご飯には、きじ焼きの肉汁がほどよくしみていて、はっきり言って、うまい。
さめてるのに、うまい。
そして、当然のことながら、うまいほどに、腹立たしさはつのるのだ!
しかし、その腹立たしさを顔に出しては、花野の心象が悪くなるのは必至。
あたしは忍耐に忍耐を重ね、にこやかに「おいしいね」だの「エイジ君って、家庭的だね」だのと、エイジを持ちあげておいた。
そして、そんなあたしの言葉に、花野がいちいち同意してくれるのが、あたしの苦悩をあおるのだった。
「花野さん、よかったら、おかわりもあるよ。中身は同じなんだけど」
エイジが取り出した、もうひとつの釜めしを、花野は「ありがとう!」とうれしそうに受け取る。
あいかわらずの健 啖 家 である。
「ごちそうさまでした。すごく、おいしかった!」
二個目を食べ終え、花野はうれしそうに言い、エイジに確認する。
「この容れ物は、どうする?」
「よかったら、花野さん、そのまま持って帰って」
「いいの?」
「うん」
「二個とも?」
「うん。いいよ」
「うれしい! あたし、昨日、エイジ君の話を聞いてから、これでご飯を炊いてみたくて!」
花野の返事に気をよくしたらしいエイジは、あたしに確認する。
「紗絵さんは、どうする?」
「あたしはいいや。どうせ、シンク下に放り込んだまま、忘れると思うから」
そっけないあたしの対応にもめげず、彼は言う。
「じゃあ、ぼく、回収するよ」
「はい。ごちそうさまでした。おいしかったよ。ありがとう」
あたしから空容器を受け取ると、エイジは愛想よく言う。
「じゃあ、また、紗絵さんに、これでご飯炊いてくるね」
とっさにあたしは拒絶できなかった。なぜなら、エイジのお弁当が、正直、おいしかったからであり……。
「紗絵だけ、ずるーい! だったら、あたしも、エイジ君に、この釜、返す!」
「いや、いいよ。花野さんにもまた、炊いてあげるから」
「本当?」
「うちに、まだ、釜めしの容器、残ってるから、大丈夫」
「わー、うれしいっ!」
こうして、また、花野の中でエイジの評価はうなぎ昇りというわけか。
そして、あたしの焦燥感もうなぎ昇り。
くそっ。どうする、あたし?
あたしも、これから料理を練習し、花野の胃袋をつかみ、彼女の心をこちらに引き寄せるか?
*
昼休みの学食での、花野と二人きりの幸福な時間は、エイジという魅力的でずうずうしく善良な美少年の出現により、ぶち壊しになった。
かくなるうえは、夕方、できるだけ花野と二人きりになる時間を確保する。そうして、少しでも自分自身を幸せにするのだ!
帰宅前、あたしは別の講義に出ていたはずの花野にメールし、大学近くの喫茶店で落ちあった。
「このお店、初めて!」
一九七〇年代に開店したとおぼしき、徹底的に垢 抜けない内装の店内を物珍しそうに見まわして、花野はうれしそうに言う。
そうだ。いつだって、花野はご機嫌なのだ。
まるで、だれからもかわいがられて幸せいっぱいの子犬のように。
こんな〈来 夢 来 人 〉などというベタな喫茶店に呼び出されても。
これが仮に、〈風 恋 人 〉とか〈沙 麗 奴 〉などという場末感バリバリのネーミングのスナックであっても、花野は全身で喜びを表現してくれることだろう。
「ここのコーヒー、おいしいんだ。おごるよ」
「本当? いいの?」
「うん。呼び出したのは、あたしだから」
「うれしい!」
上品なマダム風の老店主(生物学的には男)にオーダーを告げてから、花野は切り出す。
「エイジ君って、本当に面白いよね」
「あ……うん……。そうだね」
また、エイジの話か。
あたしの心は一気に沈んでしまう。
もし、あたしが女ではなく男だったら、こんなに焦りを感じることもなかっただろう。
きっと、花野に「好きだ」って告げて、ちゃんと花野の思いも確認して──。
いや、あたしが男に生まれていたとしても、エイジ以上の美形になれたかどうかは、大いに疑問だ。むしろ、エイジに大きく引き離された顔面偏差値の男として、劣等感にまみれ、嫉妬にのたうちまわっていた可能性のほうが高くはないか?
「エイジ君って、かっこいいし、性格も明るいし、お料理もうまいし、本当にいい子だよね」
「うん。そうだね」
ああ、もう、あたしの前で、彼をほめないで!
そのたびに、あたし、自分の中の醜い感情を意識する羽目になるんだから!
「……やっぱり、そうだ」
「え?」
ため息交じりの花野の言葉に、あたしは顔を上げる。
「やっぱり、紗絵、不機嫌になるよね。あたしがエイジ君の話をすると」
あたしの心臓は跳びあがる。
(まさか、花野、あたしの思いに気づいてる?)
しかし、彼女は言ったのである。
「あたし、もう、わかってるよ。紗絵、エイジ君のことが好きなんだよね?」
えっ?
なんで、そうなるっ?
「紗絵とエイジ君、お似合いだと思うよ。紗絵は美人だし、エイジ君はイケメンだし。でも、今はあたし、紗絵にエイジ君を紹介したのは失敗だったかもって、思ってる。正直言って、あたし、紗絵に彼氏ができたら、悔しいんだ。男の子に紗絵を取られちゃった感じがして……」
(えっ? なに、これ? もしかして、告白っ? 告白なんですかっ?)
緊張をともなう喜びで、あたしの頭はクラクラする。
今まで見せたことのないような寂しげな微笑で、花野は言った。
「ごめんね。心が狭くて」
「違うっ」
静かな店内で目立つのを恐れ、あたしは声を落とし、しかし鋭く彼女の言葉をさえぎった。
「え?」
寂しげな微笑のまま固まる花野に、あたしは言う。
「あたしが好きなのは、エイジ君じゃないっ。花野なんだっ」
「えっ……?」
「友達としての『好き』じゃなくて、恋愛感情ってことで……。あたし、そのっ……。実は、女の子も好きになれる人間で……つまり……」
「バイセクシュアル?」
あまりにも単刀直入に訊かれて、あたしはどぎまぎしながら、うなずいた。
そして、恐る恐る、花野の表情をうかがう。
意外にも、花野はパーッと笑顔になり、言ったのだ。
「じゃあ、あたし、紗絵とおつきあいできるんだねっ! 恋人同士として!」
なんなんだ、この急展開!
自分にとってあまりにもご都合主義的すぎる花野の反応に、頭がクラクラした。
この世はたちまち、あたしにとって、天国となったわけだ。
しかし、いきなり天国に放り込まれるというのは、なかなかショックなもので、実感もいまいちで。
(まさか、これ、夢オチじゃないだろうな?)
テーブルの下、あたしは自分の右手で左手の甲をギュッとつねった。
──痛かった。
マゾではないあたしにとって、痛くてうれしいなんて、生まれて初めての経験だった。
ほどなくして、オーダーした飲み物が運ばれてきたのだが──。
「ここじゃ、落ち着いて話せないから、うちに来ない?」
花野に誘われて、あたしは急いでブレンドを胃に流し込んだ。
「紗絵ってば、飲むの、はやーい」
「あっ……。な、なんか、焦っちゃって」
うふふと笑ってから、花野は言う。
「紗絵、かわいい」
そして、焦 らすように、ゆっくりとカフェ・オ・レを飲む。
(もしかして、あたし、すでに花野に翻 弄 されてる?)
──その予感は、見事に的中していたことを、後にあたしは知ることになるのである。