お弁当箱とイチゴミルクを二つ持ち、昼休みの終わりがけの時間になってわたしは清水会館へ行った。イチゴミルクの紙パックは二つとも角の部分がつぶれていた。

「やあ」

 いつもどおり清水会館の東向きの壁の石段に座っていたまりがわたしに気づき、微笑んで気軽に言った。わたしは笑わなかった。無言で鞠子にイチゴミルクを一つ差しだし、無言で隣に座った。

「おお、気が利くね」

 と鞠子は無邪気に受け取ってストローを紙パックに突き刺し、あかい唇でちゅうっと吸って「なんかぬるいね」身勝手な文句を言った。それでも結局ちゅうちゅうすする。お弁当箱をひざの上に置いてわたしも自分のぶんのイチゴミルクにストローを突き刺した。

 イチゴミルクはひどく甘ったるかった。これでもかというばかりの人工的な甘さに舌の先がするくらい。こんなにどろどろに甘ったるいものを昨日までよく好んで飲んでいたものだ。ひと口すすっただけでわたしはストローから口を離した。おかしなことにわたしは突然イチゴミルクを飲めなくなっていた。

 夏休みを間近に控え、まばらに落ちるれ陽が地面を焦がしている。制服のスカートから伸びるわたしの膝こぞうにも鞠子のそれにも焼けただれたようなあとを落としている。しやくねつの陽で焼け死ぬ直前の断末魔の悲鳴みたいな蟬の大合唱が頭の上で聞こえていた。

火傷やけど、もういいの?」

 前触れなくわたしがくと、鞠子はきょとんとしてから、イチゴミルクを持った自分の右手に視線を落とした。社会科準備室でぼや騒ぎがあった日に怪我をしたという右手の包帯はもう取れていた。

「うん。治った」

 と答えつつ鞠子はイチゴミルクを右手から左手に持ち替え、さりげなく右手をわたしの視界から隠した。火傷の痕ではない、擦り傷の痕が右手に残っているのをわたしはそのときにはもう確認していた。

 ここに来る前わたしはいったん東校舎に戻り、鞠子のクラス、三年七組に寄って顔見知りの七組の女子から訊いてきていたのだ。ぼや騒ぎがあった日、鞠子のクラスの三限と四限の授業は七組と八組の合同体育で、女子は屋外でバレーボールだった。鞠子は単にレシーブの際に転んであの傷をこしらえた。保健室で手当てを受け、午後は怪我を口実にさぼって帰った。

 鞠子はその擦り傷を、わたしにあわせて火傷だなんて偽ったのだ。もちろん社会科準備室のぼや騒ぎに鞠子は関係していない。

「鞠子のお母さんって、古池鈴子さんっていうでしょ?」

 またしても前触れのないわたしの問いに、鞠子の表情が一瞬だけこわったのをわたしは見逃さなかった。しかし鞠子は次の瞬間にはいつもの人を食ったような底の見えない表情に戻ってうなずき、

「うん。そうよ」

「鈴子さんと宮下先生が、高校時代に恋人どうしだった」

「うん」

「鈴子さんは宮下先生の赤ん坊を身ごもった。でも周囲に反対されて、宮下先生にまで堕ろすように求められて、鈴子さんは悩んだ末、この清水会館で自らの身に火をつけた」

「うん」

「鈴子さんもお腹の赤ん坊も焼け死んだ。でも、鞠子、あんたはよみがえった。周囲の人たちとお母さんを裏切った宮下先生にふくしゆうするために、この学校に帰ってきた」

「そうよ」

 イチゴミルクでかすかにれた唇に笑みを乗せて鞠子は頷く。まさしくイチゴミルクみたいに甘くて、そして危険な香りのする魅力的な笑みだった。

 甘くて危険で、噓だらけの。

「さっき、鈴子さん、宮下先生のところに来てたよ」

 冷たい声でわたしは言って鞠子の笑顔を突き放した。ひと口しかすすっていないイチゴミルクの紙パックをゆがむほどに強く握りしめていて、薄くピンクを帯びた乳白色の液体が圧力でストローからあふれてわたしの手を濡らした。それはなんだか鞠子の体液みたいに思えた。きっと鞠子の白い皮膚の下を流れているのは甘い甘い乳白色の血だ。

「お母さん、亡くなったなんて噓でしょう。お母さんが高校生のときに妊娠したっていうのも、鞠子がそのとき宮下先生とのあいだにできた子どもっていうのも、もちろんお母さんが自殺したっていうのも……だって鈴子さんと宮下先生がこの学校に入学したのは二十四年前だもの。鞠子、あんたがそのときにできた子だっていうなら年齢があわない。あんたは鈴子さんがとっくに成人してから生まれた子よ。火事から蘇ったなんていうのも噓。あんたは東京の病院で普通に生まれてたいへんすくすくと普通に育ちました。あんたの父親は鈴子さんが就職先で知りあった善良な会社員。名前は加藤誠二さん」

 三十年前の牛山トミコさんの妊娠、四年前の清水会館の火事、十七年前の鈴子さんと宮下先生の悲恋──パズルがうまくまらないのも当たり前だ。これらのピースにはそもそもなんの関係もないのだから。学校内の噂を鞠子がごちゃまぜにしてそれっぽい衝撃的な事件として再構成しただけのものなのだから。結局のところ少し本気で調べれば簡単にわかったことだ。ただ、わたしがそれを怠った。鞠子の話を信じたかったがゆえに。

 やりきれない気持ちで鞠子を見る。鞠子は「あっちゃあ、おかーさん、ガッコに来ちゃったんだ」などと毒づいてぺしっと自分のおでこをはたいたりしていたが、それから何やらもっともらしいしかめ面を作ってわたしに顔を寄せ、

「実はね、ぐさにだけ話すけど、鈴子さんはわたしのお母さんじゃないの。鈴子さんは死にきれなくて、長いあいだ病床で生死の境をさまよっていたわ。わたしは鈴子さんの無念を晴らすために代理でここに来たの。でも、そうか、とうとう鈴子さんが目を覚ましたのね。宮下先生に復讐するためにさんの河原から蘇ったのよ。身体中に火傷の痕があったでしょう。顔は無惨に焼け爛れて……」

「火傷の痕なんてなかったよ」

 すげなくわたしが口を挟むと鞠子は鼻白んだように口をつぐみ、

「ちぇ」

 舌打ちした。不満げに膨らませた頰をかすかにイチゴミルク色に染めて。

 とうとう逆ギレか、おい。

「そうよ。全部千種の言うとおり。よく調べたわね。さすが名探偵、千種先生。おみそれしましたあ」

 投げやりに天を仰いで露骨な嫌味を言いだす鞠子。態度のひようへんっぷりにわたしはあきれるやらぜんとするやら。

「で、それがどうしたっていうの?」

「どうしたって……なんでわざわざそんな噓ついたの?」

「だってそのほうが素敵でしょう? 千種だって面白かったでしょ?」

「面白かったら何言ってもいいってわけじゃないでしょ。わたしをからかってそんなに楽しかった? わたしがあんたの噓を本気にするのを見て、心の中でずっと笑ってたんでしょ。最低だよ」

「笑ってたわよ?」

「なっ……」

「笑ってたわよ。だって千種がよろこんでくれるから、わたしもうれしかったんだもん」

「わけわからないくつですり替えないでよ」

 反省する気も謝る気もない。それどころか噓が素敵だなんて開きなおってみせる鞠子の思考回路はわたしにはまったく理解不能だ。面白くするためだったらどんな噓をついてもいいのか? とんでもない。そんなのはテレビのヤラセ番組だけで十分だ。

 悔しい。わたしは鞠子が好きだった。鞠子といると楽しくて刺激的で退屈しなくて、わたしはどんどん鞠子にかれていった。鞠子はそんなわたしをからかっていたのだ。すぐわかるような噓に引っかかって夢中になるわたしを内心で馬鹿にしていたのだろう。鞠子とのあいだに築いたとわたしが信じていた友情を踏みにじり、噓がばれたらばれたで悪びれずに開きなおる。そんな女だったのだ。悔しくて悔しくて涙がでそうになる。意地でも泣くものかとわたしは唇をみしめた。

 そんなわたしの反応を見て、信じられないことに鞠子はあかい唇に笑みを乗せやがったのだ。

「な、なにがおかしいのよっ」

「だって千種、不細工ぅ。わたしのことでそんな顔して泣いてくれるなんて、うれしい」

 うれしい? わたしをだまして泣かせてうれしい? 今度こそ返す言葉を失って、おそらく泣き怒りのたいそう不細工な顔をしたままわたしは発作的に立ちあがった。お弁当箱とイチゴミルクの紙パックがひざから滑り落ち、ストローの先からとろとろと液体がこぼれて土の地面に吸い込まれた。

「お弁当、ひっくり返っちゃったよ」

 見ればわかることを鞠子が指摘する。イチゴミルクは放置したままわたしはお弁当箱だけを引っつかむように拾いあげ、

「大っキライ!」

 それが最後にわたしが鞠子にたたきつけた、あまりにもお粗末な捨て台詞ぜりふだった。

 ひっくり返ったお弁当箱をさらに完膚なきまでにめちゃくちゃに振りまわしながら、二度と鞠子を振り返ることなくその場を駆け去った。それすらもきっといっそう鞠子をよろこばせ、鞠子はまだにやにや笑ってわたしの背中を見送っていたはずだ。

 この日のこの段階で、鞠子はまだ事態の深刻さを理解していなかったのだろう。その後、わたしが清水会館に行かなくなると、鞠子のほうから何度かわたしのクラスを訪れた。七組の有名な美少女、古池鞠子がそのれいな顔をひょこりと四組の教室にのぞかせるとクラスがどよめいて、続いて水を打ったように静まり返る。周囲の目線を気にしたふうもなく鞠子は窓際の席にわたしの姿を見つけ、

「千種あ」

 と手を振ったりひょいひょいと手招きしたりする。

「千種、古池鞠子が呼んでる」

 ささやいてくるさっつんにわたしは「いいの」と答えて鞠子の呼びだしを無視し続けた。

 一学期が終わり、夏休みを挟んで二学期になっても鞠子は四組に通い続けた。やがてクラスで〝千種いづみの通い妻〟なんて呼ばれるようにまでなった。ところが十月に入るころにはぱたりと来なくなった。

 鞠子は気まぐれな女だ。飽きたのだろうとわたしは思った。

 秋から冬、そして卒業までの時間が妙に早かった。いや受験勉強に追われる日々はそれはもう辛く長かったはずなのだが、あとになって思い返すとたいした記憶が残っていない。一日一日の密度が薄くて変化のない日々だった。

 わたしは無難に受験をこなし、目標どおり東京の無難な私立大学に合格した。都丸とは三年生のあいだにさらに三回ばかり別れたりヨリを戻したりを繰り返した。清水会館に行かなくなったわたしは一人で思う存分泣ける場所を失って、あまり使われない旧校舎のトイレの個室にこもって声を殺してすすり泣くというみすぼらしい泣き方をするようになった。下手をしたら鞠子と別れたかわりにトイレの花子さんと仲良くなってしまうところだった。幸いにしてトイレの花子さんは現れなかったけど。

 卒業が近づくにつれ、わたしは鞠子と一方的なけん別れをした日の会話を思いだすようになっていた。

 鞠子自身が言ったとおり、鞠子の噓は確かに素敵だったのだ。鞠子の口から紡がれる噓はわたしを地方都市のへいそくした日々から連れだしてくれる、退屈な日常を非日常に変えてくれる魔力を持っていた。学校に潜むいろんな秘密を彼女のとっておきの魔法で脚色してわたしを楽しませてくれた。つまらない高校生活の最後にとっておきの楽しい魔法をかけてくれた。

 心の底ではわたしは鞠子の噓にいつまでも浸っていたかったのだと思う。本当のことを知りたくなくて、鞠子の魔力のフィールドから放たれたくなくて、無意識に噓を噓だと気づかないふりをしていた。

 鞠子の言葉はわたしにとって甘ったるくて癖になるイチゴミルクみたいなものだった。

 彼女はわたしだけの、美しくて無邪気な魔法使いだった。


    


 卒業式は三月十日だった。この季節、この地方ではさして珍しくないドカ雪になった。

 三月のドカ雪はすぐにける。気温がそう低くなく、水分を多く含んだ大粒のぼた雪がしんしんと降り積もるものの、アスファルトの雪は往来する車のタイヤの熱で積もる先から融け、泥混じりのみぞれになってびちゃびちゃ跳ねる。せっかくの卒業式、綺麗な靴で巣立ちたい気分だったのに、わたしは母の強い勧めにより野暮ったい長靴を履いて最後の登校をしなければならなかった。

「千ぃ種」

 式とホームルームが終わって渡り廊下を歩いていると、本人はとっておきのお洒落しやれのつもりなのだろうか、ハードワックスでソフトモヒカンみたいな微妙な髪型にキメた都丸がスキップするような足取りで寄ってきた。この頃、わたしたちは再びヨリを戻してわりあいうまくいっていた。お互いに東京ながら別々の大学に進学し、綺麗な女子大生に囲まれた生活に舞いあがって遊びまくりはじめた都丸とは結局すぐに別れることにはなるのだが。

 ピンクのリボンを左胸につけた都丸の学生服(都丸の学生服を三年間ではじめて見たかもしれない。持ってたのか)のボタンは式が終わって短時間のうちに見事になくなっており、都丸の八方美人ぶりを証明していた。よく見るとそでのボタンまで全部、追いぎにでも遭ったかのごとくシャツのボタンまでいくつか。

 わたしのぶん、取っておけよなあ……。

 毒づいたわたしの胸中を見透かしたように都丸はにこにこして、

「手えだして」

「何?」

 うろんげに差しだしたわたしの手のひらに金色のボタンを一つ載せた。

「第二ボタンだけは死守したぞ。やる」

 手の上のボタンと都丸の誇らしげな顔とをわたしは気のない顔で見比べて、

「……こういうのって、自分からあげるものじゃないと思うけど」

「ええ? お前、うれしくない?」

 大げさにのけぞる仕草なんてして不服そうに都丸。うれしいの押し売りをするところがそっくりだと自然と鞠子のことが頭に浮かんだ。自分で演出したことにわたしがよろこぶと一緒にうれしそうにするところ、二人ともそっくりだ。

「じゃあ返せよう」

「せっかくだからもらっといたげる」

「そういうかわいくない女にはやらん。返せ」

「やだ。一度もらったんだもん、わたしのものだ。あんたのファンの女の子に高値で売る。そのお金で新しい服を買う」

「お前なあ」

 取り返そうとする都丸の手をかわしてわたしはボタンを握り込みコートのポケットに突っ込んだ。このボタンは大学一年になってひどくなった都丸の遊び人っぷりに今度こそついていけないと何十回めかの覚悟を決めたときにアパートのゴミと一緒にゴミ捨て場にだしてしまうまでの数ヶ月間、わたしの宝物として存在していた。

「かーえーせー」

 都丸に捕まってこめかみにかなり手加減をしたこぶしのぐりぐりを食らわされながら、わたしの注意は別の方向に引き寄せられていた。

 渡り廊下から見渡せる生徒用の昇降口、ホームルームを終えた生徒たちが続々と下校しはじめている。明日からの春休みにはしゃいだ様子で在校生たちが下校の途につく中、わたしや都丸と同じピンクのリボンを胸につけた卒業生たちが昇降口の前で名残り惜しげにおしやべりの輪を作ったり写真を撮りあったりしている。

 細い素脚に不釣りあいに大きめの長靴を履いた一人の女子生徒がいた。ピンクのリボンがボタンをとめずに着たコートの下に覗いている。

 降り続くぼた雪と同化して融けていってしまいそうな白い肌の美少女、古池鞠子が、参列した両親と一緒に下校していくところだった。

 鞠子の父親は中背で丸顔、たいそう平凡な感じの、けれど善良そうな人だった。鞠子と喧嘩別れしたあとで知ったことだが、鞠子の母方の祖父、つまり古池家側の祖父が亡くなったことを受け、東京で暮らしていた鞠子たち一家は祖母だけが残るこの地元に引きあげてきたのだそうだ。祖母の強い請いにより加藤誠二さんが古池家に入る形になり、一家は加藤姓から古池姓になった。鞠子の制服から常に漂っていたお線香の香りは祖父のはいを納めた仏壇から立ちのぼる香りだったのだろう。

 そうそうそれから、わたしが鞠子の魔法を信じるきっかけになった、小鳥を生き返らせたできごと。鳥に少し詳しい人の話では、窓ガラスに激突して落下した小鳥は必ず死んでしまうわけではなく、一時的にのうしんとうを起こしているだけの場合も多いらしい。そういう鳥は意識を取り戻したらすぐに元気に飛び立っていく。鳥の名前を知っていた鞠子はきっとそのことも知っていたのだろう。

 すべての真相がわかってしまうと、古池鞠子は不思議な力なんか持っていない、わたしと同じごく普通の女の子だった。魔力はもちろん衝撃的な出生のエピソードも複雑な生いたちなんかも何もない、よい両親に恵まれて平和な家庭に生まれ育った子どもだった。

 一緒に歩いていた母親、鈴子さんが昇降口を振り返って小さく頭をさげるのが見えた。

 昇降口に立って生徒たちを見送っている教師がいた。宮下先生だった。鞠子がひらひらと宮下先生に手を振る。宮下先生は鈴子さんと会釈を交わし、鞠子に軽く手を振り返していた。

 宮下先生にも今は自分の家庭がある。古池鈴子さんと恋人どうしだったのはもうずっと過去のこと、色せてしまった思い出でしかない。たとえばわたしが最終的に都丸と別れて違う男の人と結婚し、その人の子どもを産んで家庭を築いて、そのときに都丸とどんな顔でどんな気持ちで会釈を交わすのか、わたしにはまだ想像できない。

 古池一家がぼた雪の中を傘を差して歩きだす。

 渡り廊下から見送るわたしの姿に鞠子が気づいた。わたしはどんな顔をしていいのかわからなかった。戸惑いの表情を浮かべるだけのわたしに対して鞠子のほうは夏の頃と変わらない無邪気な、少し悪戯いたずらっぽい笑みを唇に乗せ、それからやにわに母親に傘を預けてきびすを返し、昇降口に取って返して姿を消してしまった。

 なんだったのだろう、いったい。

「千種、行こうぜ。さみーよ」

「ん……」

 都丸に呼ばれ、わたしは頭半分にうなずいて渡り廊下を歩きだした。

「千種あ」

 校舎に入ろうとしたとき、昇降口に姿を消したと思った鞠子が呼び声とともに再び駆けだしてきた。

 きょとんとするわたしに向かって鞠子はおよそ美少女がするとは思えない、スカートの中身が見えるくらいの大胆なポーズで振りかぶり、持っていた何かを投げてよこした。しかし昇降口から渡り廊下までの距離はけっこうある。鞠子が投げたものはわたしの手もとに届く数メートル手前の雪の中にぼすっと突っ込んだ。

 頭で考える前にわたしは渡り廊下から雪の戸外に上履きのまま駆けだして、新雪にできた穴の中からそれを拾いあげた。

 昇降口の自動販売機で売っているイチゴミルクだった。よりにもよって雪の日に、冷たいイチゴミルク。

「あげるう。いつかのお返しぃ」

 母親から受け取った傘をぶんぶん振って鞠子が言う。鞠子の黒髪に、長いまつ毛に、ぼた雪が積もって彼女の姿をかすませていく。

 霞んで見えるのは雪のせいではなく、わたしの目ににじむ涙のせいだった。雪の中で冷たいイチゴミルクを手にしてわたしは立ち尽くす。みぞれ雪があっという間に上履きの中にみてくる。

 馬鹿だなあ、鞠子。わたしはあの日以来イチゴミルクを飲めなくなってしまったのに。

 漠然とした悲しさとむなしさとで滲む涙を手の甲でぬぐった。

 イチゴミルクの人工的な甘さは麻薬みたいに癖になる。けれどその甘さに一度冷めてしまうともう甘すぎて飲めなくなってしまう。わたしはもうイチゴミルクの甘さに冷めて、鞠子の唇が紡ぐ甘い魔法にもかからなくなってしまった。

 鞠子に対してではなくて、そんな自分が悲しくて、そしてなんだか虚しかった。

 わたしは少しだけ大人になってしまったのだろう。ここを巣立つことの寂しさを、わたしは式が終わってしばらくたったそのときにはじめて感じ、その日はじめて泣いた。顔にあたる冷たいぼた雪が熱い涙と混じりあって頰をらした。

 わたしは結局鞠子にひと言も返さなかった。頭に、肩にぼた雪が積もる中ただイチゴミルクを握りしめて、学校を去る古池一家を見送った。

 三月十日、卒業式。

 鞠子とは仲なおりすることがないまま、わたしたちは母校を去った。