三千万円をトランクに詰めてわたしのマンションに押しかけてきた強盗殺人犯は、それから一週間を過ぎてもわたしの部屋を占拠して居座り続けていた。強盗殺人犯が逃亡中というニュースはわたしが知る限り流れていない。犯人が言うには、死体は見つからない場所に埋めたのでまだ死亡が確認されていないのだろうとのことだ。

 わたしが仕事に行っているあいだ鞠子は部屋でごろごろテレビを見ているかわたしの携帯ゲーム機をいじっているか(ペット飼育ゲーム以外のソフトなら自由に使わせてやった)、ぶらりと一人ででかけて買い物をしたり美味おいしいものを食べたりしているようだ。勤め人からしたらなんともうらやましい生活である。

 お金はあるんだからホテルにでも泊まればいいのに、おかげでわたしは相変わらずシングルベッドの半分を提供するはめになり狭苦しい睡眠形態を強いられている。

 ある晩、わたしがそれについて文句を言うと、ビーズクッションに埋まって雑誌を眺めていた鞠子が顔をあげ、

「あら、奇遇ね。わたしもちょうどそう思ってたところ」

 誰のせいだ誰の。

「というわけで土曜日はここに行くわ。千種、土曜日なら休みでしょ?」

「休みは休みだけど……」今度の土曜日は京本さんにも誘われていない。

「じゃあ決まり」

 一方的に決定事項にし、まりは開いていた雑誌のページを何やら誇らしげに突きつけてみせた。

 女性向けのタウン情報誌だった。

 なになに……〝がんばった週末は自分にご褒美 高級リラクゼーション&エステ特集〟という記事の中の、都心の高級ホテルのスペシャルリラックスプランというやつだ。女性のペア限定で、リムジンでのお出迎え、お部屋は庭園が見おろせる高層階のスイートルーム、ディナーは有機素材を使ったスペシャルレディースコース、エステにスパにアロマテラピーにリフレクソロジー、各種アメニティグッズは当プランのために揃えた高級ブランドの限定商品……うんぬん。よくもまあこれだけ取り揃えたものだと感心するほどの〝女性向けサービス〟ぎゅうぎゅう詰めの宿泊プラン。

 お一人さまの宿泊料金は……しがない事務職三年目のOLの給料からしたら目玉が飛びでる金額だ。二人で泊まればこのマンションの一ヶ月ぶんの家賃がたったの一泊二日で余裕で飛んでいく。

 冗談かと思っていたのだが、翌日、鞠子は本気でこのプランの予約の電話を入れ、わたしたちはその週の土日を高級ホテルのスイートルームでリラクゼーションサービスとリラクゼーショングッズにずらりと取り囲まれて過ごすことになった。

 鞠子につきあわされて渋々一緒にでかけたものの、ここで思いがけずハッスルしてしまったのがわたしである。そもそもわたしはともかく、リラクゼーションなんて受けなくとも常にリラックスしていてエステなんてもともと無用のぼうを誇る鞠子にこんなぜいたくなプランは〝月夜に提灯ちようちん〟であろう。

 いつの間にやらわたしのほうが鞠子にかわって主導権を握り、サウナにジャグジー、次はフェイシャルエステ、次はリフレクソロジー、ハンドマッサージ、アロマ、ネイルケアと鞠子を引っ張って歩いていた。だって効率よくまわらないとせっかくセットになっているサービスをすべて使い切れないではないか。コミコミの料金なんだからやり残すのはもったいない。などという庶民根性が働いてしまうのが我ながら悲しいが、とにかくマッサージとパックで疲れたお肌はつるつるによみがえり、リフレクソロジーで足のむくみも解消し、薔薇ばら湯と牛乳湯とゆず湯としよう湯とその他もろもろの効能不明のおかり、東洋の濃厚なエッセンスたっぷりの美容液を全身に塗りたくり、おろしたてのさらさらのバスローブを着てふかふかのスリッパを履いてハーブティーをたしなみ、ひと晩で全サービスをたんのうしたのであった。

 頑張ってリラクゼーションにいそしむという、手段と目的との見事な倒錯状態。しかしそのバカっぽさ加減が楽しくてわたしは妙にテンションがあがっていた。

「よっぽどうつくつしてたのね、ぐさって」

 と、完全にわたしにテンションを追い抜かされて拍子抜けした感じの鞠子にしみじみ言われる始末。

 ええ、鬱屈していましたとも。

 ビバ、OL!

 くたばれ、OL!


    


 日本社会からOLがくたばることはなく、よう気分を味わった週末から一転、月曜日になるとわたしは平凡な会社員に戻る。紺のベストに中途半端な丈のスカート、肌色のストッキング、かかとのあまり高くないパンプス。同じ服装の同僚たちに混じってしまえばかなり難易度の高い〝ウォーリーをさがせ!〟だ。京本さんだってそう簡単にわたしを見つけられないのではないか。

 とはいえ今週のわたしは先週までのわたしとはちょっぴり違うのだった。

 朝、ロッカールームで制服に着替えてみたら、スカートとパンプスが少ぅしゆるかったのだ。わお、すばらしい。サウナとむくみ解消マッサージの効果だ。エステ効果で化粧乗りもよくつやつやしていた。

 いつもだったら一週間の中でもっともゆううつな月曜日を、今日はささやかな幸せに浸りつつ迎えることができた。

 しかし幸福気分に浸っていられたのは残念ながら、午前中の三時間あまりの勤務時間のあいだだけであった。

 月曜日から社外にでるのもおつくうなので、月曜日の昼食はいつも自社ビル三階の社員食堂でとることにしている。運がいいと京本さんにランチに誘ってもらえるが、営業人は外出が多く昼食がとれる時間もまちまちなのでタイミングがあうことはあまりない。

 社員食堂の主なメニューはポークカレー、カツカレー、カツ丼、天丼、天ぷらうどん、天ぷらそば、それに日替わりランチといったところ。カツはカツカレーとカツ丼に共通であり、天ぷらは天丼とそばとうどんに共通に利用されているという実に無駄のないシステムだ。日替わりランチは日によってあたりはずれがあり(わたしは偏食家である)、天ぷらは衣ががちがちに硬いというシロモノなので、常時安心して食べられるのはカレーくらい。

 社員価格で三百三十円のポークカレーに好物の福神漬けを大量に載せ、あいていた席を見つけて椅子を引いた。

 席についた途端内心で「うげ」とうめいた。

 隣の席で四百七十円の日替わり焼き魚定食を食べていたのが、天敵・大野さんだったのだ。

 昼休みの安寧のひとときまで彼女の香水のにおいを隣に感じていないといけないとは苦渋のきわみだが、一度座った席をすぐに変えるというのもあからさますぎる。大野さんが横目でわたしをいちべつした。しかし表情を変えることなく仲間の女子社員たちとの会話に戻っていったのでわたしはとりあえずほっとした。

 おつぼねさまである大野さんを頂点として、いずれもわたしよりも先輩にあたる皆さんだ。彼女たちの話題はもっぱら会社の人件費削減対策についての不満であった。簡単に言うと早いとこ寿退社しなくちゃってことだ。

 経営陣が打ちだした今年度の全社方針の一つに人件費の削減があり、これが今、事務職の女子社員たちの混乱と焦燥をきたてていた。具体的な人件費削減対策として、向こう二年以内を目安に事務職の社員を安価な派遣スタッフに切り替えるという計画がまとまりつつあるのだ。つまり二年以内に相手を見つけて寿退社しないと大規模なリストラにさらされるのだ。派遣スタッフを多く登用している企業は今の時代では当たり前であり、我が社も遅ればせながら時代の波に流されようとしている。

 わたしの担当業務も派遣スタッフへの切り替え対象なので、わたし自身かなり有力なリストラ候補だ。しかしわたしよりも年かさで高いお給料をもらっている大野さんはもっと戦々恐々としていることだろう。

 大野さんのいらいらの矛先が間違ってこっちを向かないうちにとっとと退散しようとわたしはカレーと福神漬けとライスをスプーンでぐっちゃに搔き混ぜてかっ込みにかかった(行儀が悪いと言うなかれ。これがもっとも効率的かつわたし流の一番美味おいしいカレーの食べ方なのだ)。

「はあい、千種。ここあいてる?」

 と、頭の上から気軽な声をかけられたとき、危うく口の中のものを盛大に吹きだしそうになった。

 会社で耳にするはずなど絶対にない、この天真らんまんな声の持ち主は……。

 社食にいる女子社員の大半が紺色の地味な制服の沼に個性を埋没させている中、天ぷらそばを載せたトレイを持ってわたしの正面の席に座ったのは、レトロチックな大柄の水玉模様のワンピースに芸能人みたいなどでかいティアドロップ型のサングラス、つばの広いチューリップハットをかぶった、どこの高原のリゾート帰りのお嬢さんですかみたいなかつこうの、そしてそういう七十年代チックな恰好が見事に似あってしまうキュート・ガール。

 口いっぱいにカレーを含んだまま固まっているわたしに向かって、彼女は大きなサングラスを鼻までずらしてにやっと笑ってみせた。

「見ぃつけた」

「ふぁ、ふぁい……」

 口の中のものを飲みくだし、ついでにコップの水も飲み干して人心地ついてからわたしはテーブル越しに彼女に顔を突きつけて抑えた声で、

「鞠子! なんで会社に来たりするのよ」

「暇だったし、千種の働いてるところが見たくて」

「保護者参観じゃないんだから……」

 大野さんがうっとうしげに横目を送っているのをぴりぴり感じてわたしの片頰は焼けただれそうだ。もちろんわたしと大野さんの気まずい関係なんか知るよしもない鞠子は気にしたふうもなく、

「社員食堂ってはじめて入ったんだけど、自分でトレイを持ってベルトコンベアみたいにおかずを取ってく仕組みなのね。これは画期的だわ」

 などと訳知り顔でうなずく。画期的というかベルトコンベアみたいに流れていくのは部品ではなく人間のほうなのだからどっちかというと退化である。

「この天ぷらそばもすごいのね。千種、食べたことある? 輪ゴムみたいなおそばに石みたいなかき揚げがのっかってるの。これって新しい食感への挑戦なのかしらね? しかもこのかき揚げ、玉ねぎしか入ってないよ!」

 なかなかみ切れないかき揚げにがりがりと前歯を立てて大仰に言ってみせる。同じ天ぷらそばを食べていた周囲の人間がいっせいに嫌な顔をする。

 すっとんだ服装で登場早々ぶっとんだ発言をする鞠子は当然ながら目立ちまくっておりわたしはこの場から逃げだしたくてたまらない。わたしは社内で特別目立つようなことはしたくないのである。しかしわたしの内心を知ってか知らずか鞠子はさらにおかまいなしにぺちゃくちゃと、

「千種を見つけるの、たいへんだったのよ。〝ウォーリーをさがせ!〟みたいよねえ。それにその制服はよくないわ。老けて見えるもん。千種はもっとお洒落しやれな子だったじゃない。まあもともと老けてる人は歳をごまかせていいだろうけど」

 決して大野さんを個別に対象にした発言ではなかっただろう。鞠子は大野さんを知らないのだから。しかし鞠子のその発言は大野さんの厚化粧の壁にぴしりとひびを入れた。大野さんに年齢の話題は最大の禁句だ。

「千種さん」

 我慢ならないというようにとうとう大野さんが口を挟んできた。

「そっちの方はお友だち? 外部の人を勝手に入れちゃあ駄目じゃない」

「えっと、禁止ではないはずですけど……」

 わたしが入れたんじゃなくて勝手に入ってきたんだと思いつつわたしは及び腰ながら反論を試みた。オフィスの大半の場所はIDカードで解錠しないと出入りできないようになっているが、社員食堂や打ちあわせ用の談話コーナーなどは基本的にオープンスペースだ。たとえば社員価格三百三十円のこのポークカレーも六百六十円だせば外部の人も食べられる。六百六十円の値打ちを見いだす人がいるかどうかはともかく。

「社会人としての常識じゃないの。一つずつあれは駄目、これはいいって言われないとわからないの? 三年目なんだから、いい加減学生気分でいられたら困るのよ。ほら、前に言ったのに、爪もまだ切ってない……」

 そして大野さんのくどくどしいお説教がはじまった。ああ、反論なんかするんじゃなかったとわたしは激しく後悔し、小さくなって大野さんのお説教を頭上に浴びる。こういうときはただ押し黙って殊勝な態度で、こんなちっぽけなわたしにくどくどと嫌味を言うなんて馬鹿らしいと大野さんが飽きてくれるまで受け流す。それが入社してからわたしが学んだ一番穏当なやり過ごし方だ。

 しかしそんな控えめな生き延び方も鞠子が無下にだいなしにしてくれた。

「千種、このおばさんは誰? 偉い人なの?」

 社会における上下関係というものを今まで学ぶ機会がなかったのだろうかこの子は。割り込んでこられたことに機嫌を損ねて子どもっぽくまゆを寄せ、声を潜めるどころか堂々とそんなことを。

 大野さんの厚化粧がまた引きつった。これ以上しやべるなという必死の、しかし絶望的な願いを込めてわたしは鞠子にささやく。

「部署の先輩よ」

「千種さんのトレーナーで、総務の大野といいます。あなたは?」

 大野さんの矛先がいよいよ直接鞠子に向けられた。ふうんという顔で鞠子はまったくおくさず大野さんを一瞥し(なまじ美人なだけに鞠子がこういう表情をすると本当に見下したように見える)、なんと答えるかと思えば、

「鞠子です。千種の恋人です」

「違う」

 即座にわたしは突っ込んで、持っていたスプーンで鞠子の頭をはたいた。

「ええ、駄目なの?」

 不満げに鞠子は頭をさすって小首をかしげ、「それじゃあ……」と、一秒だけ考えるような顔をして、にやっと例の悪魔の笑みを頰に浮かべた。

「千種の親友で、アカガワマリコです。総務のオオノさん、あなたのことはおぼえとくわ。千種をいじめる社員はパパに言ってみーんなクビです」

 大野さんの仲間の先輩女子たちがいっせいにどよめいた。

「アカガワマリコ?」

「って、まさか」

「社長令嬢……?」

「うそっ」

「千種いづみが」

「社長令嬢と……」

「レズ」

 違う。

 女子社員たちの錯乱した囁き声に内心で突っ込みつつ、社長令嬢のレズビアンの恋人にされようとしている当のわたしも十分錯乱していた。

 どうして鞠子がその名前を知っているのか……いや、思いつきででっちあげた名前が奇跡的に合致しただけだろうとは思う。どっちにしても信じがたいことではあるが、社長の名前は確かに〝あかがわ〟という。そして社長に〝〟という、年頃になる末娘がいるのは社員には有名な話だ。社長の親馬鹿っぷりは社内で知らぬ者はない。できあいする末娘が軽くチクれば事務職のOLのクビなんてシュレッダーにかけるがごとく簡単にひねりつぶされるだろう。

 しかしこれだけは間違いなく違うと言えることがある。端整なようぼうとリゾート気分な恰好と奔放な言動は言われてみると世間知らずのお嬢さまっぽくはあるけれど、断じて鞠子は社長令嬢なんかではない(そしてわたしはレズビアンではない)。

「鞠子、ちょっと、こっち!」

 あおい顔をして囁きあう先輩女子たちと食べかけのカレーを残してわたしは席を立ち、「やだあ、千種ったら乱暴なんだからあ」などと変につやっぽい声で誤解を生むようなことをのたまう鞠子の腕を引っ張って社食を逃げだした。

 オフィスビルの正面の広場にたいへん前衛的な形状をした銅製のオブジェがある。製薬メーカーである我が社がスローガンとして掲げる〝生命の尊重〟と〝未来への進歩〟を表現しているらしい、手足が奇妙に長い宇宙人みたいな生き物(これがたぶん〝未来〟)が頭と身体をおかしな角度にくねらせて、つるっとした卵形の物体(これがたぶん〝生命〟)を抱きかかえているというオブジェである。社長の注文で有名な芸術家に造らせたという。

 そのオブジェの土台に寄りかかって鞠子は不満げに口をとがらせた。

「千種の役に立つと思って言ったのに。社長令嬢と友だちってことにしといたら、あのおばさんたちも千種に一目置くようになるよ」

「すぐにバレるに決まってるじゃない。あのねえ、あんたはいいかもしれないけどわたしは明日からも毎日あの人たちと顔つきあわせないといけないのよ。ていうか今日の午後だってまだ仕事あるのに、どんな顔してデスクに戻ればいいの。もう、どうせつくならもう少しバレにくい噓つきなさいよぅ」

 落ち着かないメンドリみたいにわたしはオブジェの前を行ったり来たり。

「千種ったら、そんなに心配しなくてもいいのよ。わたし、社長さんとは本当に知りあいなんだもん。電話もメアドも知ってるよ」

「なんであんたのその口は根拠のないことをそうぽんぽん創作できるのよ」

「もう、本当だってば。じゃあ電話して証明したげる」

 あくまで頑固に鞠子は言い張って高級ブランドのハンドバッグをごそごそやりはじめた。

 昼休みで社外にでていた社員たちが正面にどっかり構える邪魔なオブジェを左右にけてビルへと吸い込まれていく。わたしもあと五分もしたらデスクに戻らねばならない。かかとの低いパンプスでうろうろしながらそればっかりを気にしている。

「わたしもう行かないといけないから、帰ってよ」

「えー。終わるまで待ってる」

「ついてきた犬じゃないんだから。まだ当分終わらないわよ。待ってられないでしょ」

「へーきへーき。暇そうな人捕まえてカラオケで遊んでもらってたらスグよ」

 口をすぼめて言ってから、鞠子にしては珍しく〝しまった〟という顔をした。

 わたしの声音が一段階低くけんのんになる。

「……あんたいつもそんなことしてたの? そんな、援交みたいなこと」昼間わたしがいないあいだ一人で何をしているのかと思ったら。

「いつもじゃないよ。ときどき」

 オブジェの土台に背中をつけ小さくなって答える鞠子。覆いかぶさるように詰め寄るわたしをチワワを連想させる潤んだひとみですがるように見あげてくる。この瞳で見つめられたら確かにそこらへんのサラリーマンなんか簡単に引っかかってしまいそうだ。

 わたしは心底あきれ返った。謎の三千万を持った自称強盗殺人犯で、社長令嬢をかたる身分詐称者で、援交の常連。平凡なわたしの日常を引っきまわす押しかけ同居人。子どもっぽくて無邪気で奔放で、でもぼうという自分の武器をちゃんとわかって使いこなしている。

 わかってはいたけど、この子は昔とぜんぜん変わっていない。

 それに対してわたしは大人になったのだ。会社ではなるべく目立たないよう集団に埋没し効率よく自分の業務だけをやりこなし、休日は家でごろごろして気力と体力の回復に努め、たまのエステで解放気分に浸ることが生きの、つまんない大人になってしまった。わたしにはわたしの生活があって、鞠子に振りまわされるのは迷惑なのだ。鞠子の口から紡がれる魔法にわたしはもう無邪気にどきどきしたりはできなくなったのだ。

「鞠子、今日でもう……」

 でてってよ。

 決定的なひと言を突きつけようとしたとき、

「いづみちゃん?」

 思いがけない声に呼びかけられた。

 京本さんだった。夏も近いというのにセンスのいいスーツをきちんと着込み重たそうなビジネスバッグを提げて、同僚の男性社員と一緒に歩いてくる。営業の帰りだろうか。同僚の男性とひと言交わすと京本さんはわたしたちがいるオブジェの前で立ちどまり、同僚の男性のほうは会釈を残してそのままビルの中へと消えていった。

「珍しいね、こんなところで会うなんて」

「お疲れさま。営業? 暑そうだね」

 鞠子を気にしつつわたしはあいまいな笑顔で京本さんに答えた。気取りのない仕草でネクタイをゆるめつつ京本さんは朗らかに笑い、

「いや、暑いことは暑いんだけど。これは今の同僚と昼飯に激辛ラーメンなんか食ってきちゃったからなんだよな。ところでちょうどよかった。今日、食事に誘おうと思ってたんです。話したいことがあって……」

 そこまで言ってから、わたしの肩越しにちょこんと顔を突きだしている鞠子の存在に気がついた。わたしのベストのすそを引っ張って「ねえ誰? ねえ誰?」と言い続けていた鞠子が上目遣いに京本さんの視線を受けとめて何やらタコみたいに口をとがらせる。

 鞠子と京本さんを鉢あわせさせる結果になるとはつくづくついてないとわたしは胸中で天を仰いだ。

「この子、高校時代の友だちで」

 脇腹を軽くつついてあいさつを促したが鞠子は会釈一つせず、部外者を警戒するチワワの瞳で京本さんを凝視している。

「ごめんなさい。今日はちょっと、友だちも来てるし……」

 京本さんとのデートにまで鞠子に乱入されたらたまらない。もごもごした口調でわたしが断ると、水玉ワンピースにチューリップハットの謎のチワワ女にじろじろ見られて京本さんは若干たじろいだ様子を見せながらも、

「うーん、そっか……ちょっと急ぎで相談したいことがあるんだけど、無理かなあ」

 彼にしては珍しく粘って誘ってきた。無理強いするような人ではないはずだが。

「どうかしたの? 何か大事な話?」

「うん、まあ……。もしよかったらだけど、彼女も一緒でもいいから、時間作れないかな」

 ぎゃあ!

 京本さんの人がいいがゆえの命知らずな提案にわたしは心の中で悲鳴をあげて「それはあのでも、邪魔になったら悪いし、この子のことはおかまいなく……」しどろもどろに断る口実を探すわたしの胸中など知ったふうもなく(いや知っているのかもしれないが。というか絶対知ってる)、強盗殺人犯で身分詐称で援交の常連である鞠子は拾ってもらったチワワさながらにぱあっと表情を輝かせ、

「ご一緒しまあす」

 どう考えても引っ搔きまわす気まんまんの満面の笑みで答えやがった。

 わたしにしてみれば何をしでかすかわからない時限爆弾を抱え込んだようなものである。わたしのOLライフはいよいよ絶体絶命のピンチに陥ろうとしていた。


    


 美味おいしい地中海料理の店があるんだけどどうかという京本さんの提案に鞠子が真っ向から対抗していわく、

「わたし、焼き肉がいいなあ」

「鞠子ってば」

 横からひじをつねりあげてわたしはたしなめたが、ザ・いい人である京本さんは気を悪くしたふうもなく笑って「いいよ。俺も肉は好きだし」と言ってくれた。まったくもって京本さんはいい人すぎる。

 しかしおかげで鞠子はわたしの隣でおとなしく肉をかっ込むことに執心してくれた。きやしやはかなげな外見に反して高校時代から鞠子はばりばりの肉食動物である。細い身体のどこに大量の肉が収まっていくのやら相変わらずミラクルな消化器官を持ちあわせている。わたしの懸念とうらはらに、幸いにして今日の鞠子はどうやら不発弾のままで終わりそうだった。

 そんなわけで、白煙と脂のにおいと肉が焼ける音が店いっぱいに充満する中で京本さんの大切な話とやらを聞くことになった。あとになって考えてみると焼き肉屋で肉をつつきながらするような話ではなかった。やっぱり地中海料理にしておいたほうがよかった。

「結婚してください」

 上カルビをじゅうじゅうあぶりながら京本さんが言った。

 わたしはそのとき骨つきカルビの硬い関節の部分をハサミで切り分ける作業にちょっと必死になっていて、さぞや間抜けな顔で問い返した。

「はい?」

「結婚してください」

 焼けたカルビをわたしの小皿に載せてくれながら真面目な顔で繰り返す京本さん。ばちんと音を立てて切り離された骨つきカルビのひと切れが皿から跳ねて、隣でうにーっとハラミにかぶりついていた鞠子の小皿に突っ込んだ。小皿のタレがばちゃんと跳ねて、ハラミの切れ端を口の端から垂らしながら「むぎゃあ」と鞠子が奇声をあげた。

 はて、京本さんはこういうあまり趣味のよくない冗談を言う人だったろうか。わたしの頭に最初に浮かんだ感想はそんなことだった。

 だってわたしたちまだキスもエッチもしていないのである。いやそういう行為を経てからでないと結婚の話をしてはいけないわけではないが、とにかくそんなところまで関係が進んでいるとは、少なくともわたしは思ってもいなかったのだ。

「もう、エプロンしててよかったあ」

 ぶうぶう言いながら自分のところに飛んできた骨つきカルビをすかさず焼き網に載せる鞠子の隣でわたしは骨断ちバサミを片手に固まっており、京本さんがしゃちほこばったせきばらいをして説明を加えた。

「急な話ですみません。驚いたよね。ええと、籍を入れるのはあとでもいいんだ。ただ、結婚を前提にしておつきあいしてくれませんか。返事はもちろん今日じゃなくてもかまわない。でもできればなるべく早くに……」

「ちょっ、待って。ちょっと待って。何か事情があるの?」

 籍を入れるのはあとでいいけど返事はなるべく早くとか、言っていることにところどころ不自然な点がある。だいいちまだキスもエッチもしてないし。何かいろいろ置き去りにして話がぶっ飛んでいる気がする。話を遮ってうろんげにわたしが問うと、案の定何かあるようで京本さんはいったん言葉に詰まってから、

「うん……実は」

 と、ことの次第を白状した。

「赤川真理子さんって、いづみちゃんは知ってるかな」

 京本さんの口から飛びだした名前にわたしは寒気を感じてつい鞠子のほうを見た。一日に二度も別の人の口からその名を聞くことになるなんて。鞠子が適当についた噓が何かを予言していたのか、あるいは得体の知れない何かの力が働いたのか……。

 とにかく、鞠子の噓が思いがけず現実を呼び寄せたのだった。

 赤川社長には四人の息女がおり、赤川真理子は社長の四女、末っ子である。年齢はわたしたちと同じくらいになる。上の三人の娘はそれぞれ一流企業の若社長やら政治家の御曹司やらのもとに、いわゆる政略結婚というやつですでに嫁いでいる。さて、社長が末娘の真理子をとりわけできあいしているというのは社内で公然の話である。社長は最後に残った真理子だけは自分の手もとに置くために、社内の有望な若手社員と結婚させようと考えたらしい。

 営業統括の担当常務と営業部長との推薦で、そのお相手として白羽の矢が立ってしまったのが、京本さんだった。

 なるほど、京本さんは営業部随一の有望な若手であり、学歴も申し分なく、性格もルックスも好感にあふれている。年齢差もちょうどよい感じで、社長が望む愛娘のお相手としてこれ以上の適任はないだろう。すっかり乗り気になった社長と常務と部長のあいだで再来週にもお見合いがセッティングされてしまったとのことだ。

 結婚する気はまだない旨、京本さんは営業部長に主張したものの、今特定の相手がいないんだったらおつきあいしてみればいいじゃないかと部長はおそらく個人的なもろもろの野心もあってやる気まんまんであり、困った立場に立たされた京本さんには早急に〝特定の相手〟が必要になった……。

 と、いうわけである。

 なんとまあ、わたしは下手したら社長令嬢の恋敵だ。転び方によっては社長令嬢と婚約者を奪いあい、勝とうが負けようがいずれにしろ令嬢の鶴のひと声でリストラ街道まっしぐら。平凡な事務職のままいずれゆるやかにリストラされて終わるはずだったわたしのOL人生が、よくも悪くもこんな波乱に巻き込まれることになろうとは。

「もちろん、誤解しないで欲しい、いづみちゃん。婚約者を偽装するために誰でもいいから頼んでるわけじゃない」

 焼き網の上に身を乗りだして京本さんが言う。熱く焼けた鉄網が京本さんの普段は穏やかな顔を炙ってどことなくぎらぎらした激しい雰囲気に変えていた。

「今回のことは背中を押すきっかけになっただけなんだ。俺なりに本気で考えています。いづみちゃん、俺と結婚してください」

「すいませえん、特上カルビ二人前とユッケ一つとピビンバ一つくださあい」

 京本さんがテーブルに両手をついて頭をさげているあいだに鞠子が通りかかった店員に追加の注文を申しつけた。それを聞いてわたしもそろそろご飯ものを注文したいなあと頭の隅で考えた。ゆらゆらと熱気を立ちのぼらせる焼き網が京本さんの前髪を軽く焦がしていた。

 この場で一つ、わたしが答えをだせるとするならば。

 プロポーズに焼き肉屋を使うのはやめたほうがいい。


 いつもどおり帰りはタクシーでマンションの前まで送ってもらった。鞠子が先にぴょんと身軽に地面に降り立ち、わたしもそれに続いてタクシーを降りると、助手席の窓の前に立った。京本さんが助手席の窓をあけ、普段よりも控えめに微笑んだ。前髪がほんのひと房縮れていた。

「突然あんな話をして、今日は本当にごめん。でも、考えてみてくれるかな」

「うん、わかった。おやすみなさい」

 数秒、京本さんはもう少し何かわたしの言葉を待っている感じだったが、

「うん……おやすみ」

 と会釈して窓を閉めた。

 早いうちにお返事すると言いつつわたしは今日のところは返事を保留したのだった。お見合いが迫っていることもあり京本さんとしては本当であれば今日にでも返事が欲しかったのだろう。二人きりだったらその場で返事をしなければならない流れになっていたかもしれず、不本意ながらも鞠子が一緒だったことに感謝するしかない。

 去っていくタクシーを見送ってから振り返ると、鞠子はマンションの入り口にある植え込みのぐるりのコンクリートブロックにのぼり、細いヒールで危なっかしくバランスを取って遊んでいた。牛タン二人前、カルビ、ロース、ハラミをそれぞれ四人前、骨つきカルビ二人前、特上カルビ二人前、ユッケにワカメスープにピビンバ、最後にデザートのシャーベットまで胃に収めておいて、水玉模様のワンピース姿は呪わしいほどすとんとスレンダーで、いったいどこの異次元に消化されたのやら。腹ごなしにラーメンでもとか言いだしそうなさっぱりした顔だ。わたしのほうは少しばかりウエストがきつい。

「千種のカレ、いいじゃない。優しいしかっこいいしお金あるし、将来有望で老後も安心そうだし。玉の輿こしってやつね」

 片足立ちでふらふらしながらふわふわと歌うような抑揚で鞠子が言う。

「そうね。いい人よ、すごく」

 年のない行動にあきれつつわたしは答える。

 夜風が寒くも暑くもなくいちばん心地いい季節だった。服に染みついた焼き肉のにおいが洗い流されるような気がして、わたしはしばらく鞠子の遊びにつきあって夜風に身をさらした(実際は洗濯してもにおいが落ちるかどうか怪しい。ファンタジックな体質を持つ鞠子と違ってわたしの現実は厳しい)。

「千種があの人とケッコンするんなら、わたしも安心だわ。千種、寂しがり屋さんだし、案外おっちょこちょいなところあるし」

「あのねえ。あんたに心配してもらう覚えはないわよ」

「あの人なら千種を幸せにするわよね」

「そうね」

「でも、千種はあの人を選ばないのよね」

 それまでと変わらない口調で、さらりと鞠子は言ってそれまでの自らの台詞せりふを全否定した。

 言葉を失ってわたしは鞠子を振り仰いだ。コンクリートブロックの上で鞠子はチューリップハットのつばを押さえて鼻歌なんか歌っている。

「……どうして、そう思うの? 今さんざん誉めたじゃないの。京本さんは優しいしかっこいいしお金もあるし将来有望だし、わたしを幸せにしてくれるわよ」

「ぷふっ」

 と、突然鞠子が吹きだした。

「な、何よ」

「千種ってば、一生懸命になっちゃって。うふふ、ぷふふふ、あはは、うぷふふふっ……」

「……」

 そうびようなのではないかこいつは。何がツボに入ったのか知らないがぺたんこのお腹を両手で抱えてなんだかもう笑いだけにでもあたったかのように笑いだし、しまいには身体を折り曲げてしゃがみ込みひいひいあえぐ始末。わたしはますます憤然としてその醜態をにらみつけた。これが知らない人だったら絶対見ないようにするぞ。「しっ、見ちゃ駄目よ」と子どもにも注意するぞ。

 わたしが京本さんを選ばない?

 馬鹿なことを言ってもらっては困る。わたしが京本さんのプロポーズを受けない理由がどこにあるっていうのだ。

 いずれにしろリストラ寸前のわたしはこれで晴れて全女子社員あこがれの寿退社コースに乗ることができるのだ。ハンカチをみしめて悔しがる大野さんに「お先にぃ」と嫌味たっぷりにブーケなんか投げつけちゃうのだ。しかも相手は女子社員からの人気も高く誰が見ても非の打ちどころのない好青年である京本さん。相性はばっちり。お互いに好みも息もあう。生涯をともにするパートナーとしてこれ以上望むべくもない相手ではないか。故郷の両親なんかありがたさのあまり卒倒しちゃうかもしれない。わたしはきっと素敵な奥さんになって、いずれ素敵なお母さんになるだろう。今のところはきっちり家事をこなしているとは言いがたいけれど、家庭に入ったら愛するだんのために料理も掃除も頑張れるはずだ。たぶん。

 だから、わたしはわたしのために、京本さんを選ぶのだ。迷うことなんて何もない。

「噓つき」

 まだ苦しそうにお腹を抱えながら鞠子が言った。鞠子に噓つき呼ばわりされるとは心外中の心外である。

 全部本当のことだ。噓なんてついてない。

 わたしは京本さんと結婚する。

 ……だったらどうして、わたしは今日、返事を保留にしたのか?

 どうしてその場でよろこんでプロポーズを受けなかったのか?

「それはね、千種」

 鞠子が言った。水銀灯をうっすらと浴びた顔色は普段よりもいっそうあおじろく、ひとみは夜陰に沈み、その中で唯一彩度のあるもの、深紅の唇に小悪魔的な笑いを浮かべて。

「あの人は、千種を泣かせないだろうから」


    


 高校時代、わたしは甚だろくでもない男子とつきあっていた。お調子者で浮気性でスケベでずけずけとものを言う奴でぜんぜんわたしにあわせてくれない唯我独尊男で、わたしは何度となく傷つけられ腹を立て、さんざんけんもしたし、そのたびに大泣きした。当時恐ろしいまでに気合いを入れていたギャルメイクをぐちゃぐちゃにして、悲しいとか悔しいとかいらたしいとか寂しいとか、いろんな感情で頭の中をぐちゃぐちゃにして。鞠子とはじめて話をしたのも、例によってそいつと喧嘩してひっぱたいて一方的に別れ話をして、今度こそ本気で別れるつもりで一人で泣きじゃくっていたときだった。

 だいたいにおいてそいつは本と言えば少年漫画かエロ漫画しか読まず、そのうえわたしが好んで読んでいた少女漫画については「女に好都合なドリームだらけの無駄にふわふわキラキラしたやつ」と容赦なくこきおろしやがった。少年漫画だってエロ漫画だって男に都合のいいドリームでできているではないか。映画の趣味もあわなかった。珍しく同じ映画を見たとしても抱く感想は毎回面白いように正反対だった。ちなみにわたしが住んでいた地方では新作映画が公開日にやってくるなんていうことはなく、都会での公開を終えた少し古い映画がようやくぼちぼちとまわってきた。おばちゃんが一人で切り盛りしている小汚い映画館で、二本立てで学生料金一六〇〇円。線路脇にあり、電車が通ると上映中であろうがおかまいなしにがんがん揺れた。

 喧嘩の末にわたしが泣きだしても(不本意ながらわたしはけっこう涙もろいのだ。悲しいときだけじゃなく怒ったときとか悔しいときにも涙がでてきてしまう)優しくなだめることなんてなく、そういうときはふらっと距離を取ってどこかに行ってしまったり壁を向いてふて寝したりする。そしてわたしの感情の波が収まった頃に何ごともなかったみたいな顔でひょこっと戻ってきたりする。

 そんなぼろぼろの恋愛をして、すっかり懲りた。もう二度と泣かされる恋愛はするまいと心に決めた。紳士的で包容力があって女心をわかってくれる優しい男性と、今度は泣かない恋愛をするのだ。

 京本さんならわたしを泣かせないだろう。

 それなのに、わたしはまだ京本さんのプロポーズに答えていない。そして三千万円の強盗殺人犯はいまだわたしの部屋に居座っている。

 微妙に増えた二人分の生活費をまかないつつ(鞠子の三千万は生活のための地味な費用には基本的に提供されないので)地道にお金を稼ぐしかないわたしはある晩、ベッドの上で就職情報誌を眺めていた。コンビニで目にとまってついつい買ってしまったのだ。

「千種、転職するの?」

 ビーズクッションにうずまって、これもわたしがコンビニで買ってきたポテチをあけながら鞠子。居候の身分でこのくつろぎよう。いておきながら目線のほうはテレビのお笑い番組に向いており「あふっ、うぷふぅ」とへんてこりんなかわいらしい笑い声を立てる。火曜日の夜は鞠子のお気に入りのお笑い番組がやっている。

 無視してわたしは就職情報誌のページを繰る作業を続けた。

 今すぐ必要なわけではないが、来たるべきリストラに備えて次の仕事について考えはじめておくのに越したことはないだろう。幸いにしてわたしは四捨五入すれば未だ二十歳、十分若者の部類であり、未来はまだまだ開けているのである。転職するのに遅いということはまったくなく、これからはじめられる仕事だってたくさんあるはずだ。わたしは融通が利く人間だと思っているし、仕事についてそれほどぜいたくは言わない。

 どうしても譲れない条件は一つだ。すなわちダサい制服がないところ。……もう少し言うなら、できればお洒落しやれなイメージの仕事。寿だいかんやまあおやまおもてさんどうあたりが勤務地だと素敵かも。社会保険完備はもちろんのこと長期休暇が取りやすい仕事で、やりがいがあって手に職がつき、でも残業はないほうがよくて、安定してるけどこれから成長しそうな業界で、将来は独立できる可能性もあったりして。

 ……そんな仕事あるもんか。

「エステティシャン、ネイルアーティスト……ちょっと憧れるなあ。未経験者歓迎ってあるし……あ、でも経験者と未経験者じゃ給与格差が……。歯科助手、医療事務……経験者優遇……ああ、何か資格取っとけばよかったよ。オフィス事務、エクセル・ワード経験者優遇……今の仕事とおんなじじゃん……。ショップスタッフ……一日中立ち仕事はちょっと……。おお、商品企画って面白そう? でも厳しそうだし残業多そうだなあ……」

 雑誌一冊分の求人が載っているというのにページを繰るにつれ自分にできそうな仕事のあまりの少なさにへこむばかりだ。社会にでてから二年と数ヶ月でわたしに身についたスキルといったら少々のパソコン操作程度。小学校でもパソコンの授業がある今日び、こんなのスキルのうちに入らない。学生時代にこれといった資格も取得していない。

 いっそ派遣登録でもして派遣スタッフとしてもとの会社に涼しい顔で舞い戻ったりして、なあんて。絶対にご免こうむる。

 そもそも最大の問題はなんだかんだいってわたしのやる気の欠如にあるのかもしれない。

 寿退社……その単語がきらきらした薔薇ばら色の輝きを帯びて頭の中に浮かんでしまい、その甘美な魅力でもって面倒くさい労働を押しのけようとする。

 京本さんのプロポーズ、受けてもいい、のかもなあ……。

「ふうん。いろいろ楽しそうなお仕事があるのね」

 いつの間にやら鞠子がベッドにいあがってきてわたしの横から雑誌をのぞき込んでいた。お笑い番組はちょうどCM中だ。六十秒間の暇つぶしでわたしの深刻な人生計画に口を挟まないで欲しい。

「楽しい仕事なんてないわよ。楽しそうだと思ったって、やってみたら幻滅するようなことばっかり。しよせん仕事に楽しさや夢なんて求めないほうがいいのよ」

「そうかなあ?」

「あんたにはわかんないだろうけど」

「あら、わかるわよう」

 と、かわいらしく口をとがらせつつあおけに寝っ転がって片手いっぱいにつかみだしたポテチをばりばりむさぼる。この自堕落であけすけでふてぶてしい感じが、下手すると嫌味なブリッコになるぎりぎりのところでうまい具合にバランスを取って天然の愛らしさに変えている。

 苦労なんてしたことありませんという顔をしている鞠子が地道に労働しているところなんて想像できない。お腹をすかせて座っていたらきっと親切なサンタクロースが立ちどまって三千万円をぽんと置いていってくれるのだ。鞠子に関して言えばそのほうがよほど現実味があるような気がする。

「へえ。じゃああんたは今までどんな仕事してたの?」

 想像はできないが、しかしここに転がり込んでくるまでまったく何もしていなかったということはないだろう。興味を覚えて話題を振ると、鞠子は寝っ転がって指についたコンソメパウダーをめ取りながら、

「だから強盗殺人」

 などとひようひようとのたまう。

 鞠子がそう来るならこっちにも考えはある。わたしは就職情報誌を脇に追いやり、鞠子に半眼の視線を送って意地悪く問いを重ねた。

「へええ。それじゃあ殺されて三千万を奪われた不幸な誰かのニュースがまだわたしの耳に入ってこないのはどういうこと?」

「死体が見つかってないからよ。誰にも見つからないところに埋めたから」

 あくまで顔色を変えずに鞠子は答える。

「行方不明者のニュースも聞かないけど?」

「ケーサツが情報規制してるのよ。きっと今ごろ極秘に被害者の行方を追ってるところよ」

「なるほど、わかった。つまり被害者は、殺されたことがわかったら世間が大騒ぎになっちゃうような重要人物ってことね」

「そ、重要人物なの」

「政治家? いや、わかった、芸能人ね?」

「そ、芸能人。テレビ界の大物よ」

「わかった。タモリね」

「そ、」

 なめらかに受け答えしていた鞠子の声が固まった。ポテチを貪る手をとめて、なんとも表現できない、しいて言うなら昔流行はやったゴマフアザラシの漫画のキャラクターみたいな困った顔を向けてきた。

 いきなりタモリをだしたことにこれといった理由はない。鞠子の興味にあわせた結果、最初に思いついたお笑いの芸能人がタモリだったというだけだ。わたしは鞠子と違ってお笑いには疎いのだ。

「ね、そうなんでしょ?」

 身を乗りだしてたたみかけると鞠子はゴマフアザラシの顔をしたまま、

「そう。タモリ」

 かなり棒読みで肯定した。

 かかった。わたしは胸中でほくそ笑んだ。七年間のブランクがあるとはいえだてに高校時代からのつきあいではないのだ。鞠子の扱い方は心得ている。

 表向きは素知らぬ顔を装ってわたしは小首をかしげ、

「あれ? でもタモリなら今日のランチのとき、お昼の生番にでてるのを見たけど」

 途端に鞠子の表情がこわっていっそう困ったゴマフアザラシになった。

「そ、それはね」

「わかった。テレビにでてるのはきっと影武者なんだ。タモリくらいの大物なら影武者くらいいるわよね。そして今、警察と関係者が必死で本人を捜してるんだ。とっくに殺されてるとも知らずにね」

「そう。そう。そうなの。すごいのね千種。よくわかったね」

「わかるわよ。わたしたち親友じゃないの」

「そうよね。親友だもんね」

 わたしが笑いかけると鞠子も安心してにこっと笑う。ああ鞠子、あんたは七年間本当に成長していないよね。わたしは歳を取って大人になって、こんなにひねくれた根性を身につけちゃったのにね。大好きだよ、鞠子。でもわたしはもうあの頃みたいにあんたが紡ぐ夢物語に無邪気にのめり込めなくなってしまったよ。残念だけど、あの頃には戻れなくなってしまったんだよ。わたしはつまんない大人になっちゃったから。

 一抹の寂しさと、大人にならない彼女へのいとおしさと恨めしさという相反する感情を同時に抱きつつ、わたしは彼女に次のひと言を突きつけたのだった。

「じゃあ今から死体、掘りに行こうよ」

 にこにこしていた鞠子の顔が目に見えて硬直した。

「え?」

「わたしもタモリの死体見てみたいもん。埋めたところに案内してよ」

「で、でもほら、今頃もう腐ってどろどろのぐちゃぐちゃになってるよ。白骨死体になってるかもよ。それにすっごい深いところに埋めたから、掘るのは無理だと思うよ」

 わたしがベッドから起きあがると鞠子も慌てて跳ね起きてわたしのひじを摑んでくる。わたしは軽く鞠子の手を払って自分の携帯電話に手を伸ばした。

「どこにかけるの? ケーサツ?」

 視界にまわりこんでくる鞠子を身をひねってかわしつつとある番号を呼びだす。今はバイトの時間だろう。案の定、少ししてから留守番サービスにつながった。

「もしもし? わたし。今日バイト終わってから時間ある? 夜中でも別にいいから、うちに来て欲しいの。手伝って欲しいことがあるんだ。あ、シャベルと懐中電灯持ってきて。バイトで使ってるでしょ? お願い。待ってるネ」

 我ながら珍しく甘えた声なんか作ってメッセージを吹き込み、電話を切ると、鞠子がもう逮捕状を突きつけられた犯人みたいな哀れっぽい顔でこっちを見ている。

「千種、本当に死体、掘りに行くの?」

「もちろんよ。今、男手を調達しといたから、掘るのもまかせて。あとはタクシー拾って現場に行くだけね。スニーカー履いてったほうがいいかな。山の中でしょ? どこらへん? 中央道のほうかな」

 中央自動車道はわたしたちの故郷へと帰る道だ。わたしたちが地理に明るい唯一の方面だから、もしわたしが死体を埋める場所を探すとしたら第一に候補に浮かぶだろう。衣装ケースの奥をあさって普段めっきり穿かなくなったジーンズを引っ張りだすわたしの背中におずおずと鞠子が声をかけてきた。

「千種、あの、噓なの……」

「ん?」

 あくまでとぼけてわたしはき返す。

「噓? 何が噓?」

「ええとね、タモリは殺してない」

 殊勝な態度で床に正座し、両手の指を絡めあっていじくりながら答える鞠子。ふうんとわたしは相づちを打ち、衣装ケースを閉めて鞠子に向きなおった。

「じゃああんたが持ってる大金、どこからでてきたの?」

「それは、……強盗」

「鞠子」

 低い声で名前を呼ぶと鞠子は身をすくめて居心地悪そうにひざこぞうに視線を落とす。CMはとっくに終わって番組の続きがはじまっており、テレビから漏れてくる笑い声に誘われて鞠子の視線が微妙にそっちに引き寄せられる。わたしがリモコンに手を伸ばしてテレビを消すと「あー」と未練がましい声を漏らし、テレビを消されたことで逆ギレしたのか口をとがらせて反論してきた。

「何よ、千種には関係ないでしょ。わたしのお金なのは間違いないんだから」

 一ヶ月も居候してタダ飯食らっておいてこの言い草。そのうちに鞠子のほうから事情を話してくれるだろうと今まで無理に訊きださずに甘やかしていたわたしが馬鹿だったのか……自分自身にあきれ果てて語調が投げやりになる。

「ああそう。関係ない人間のうちにいつまでも居座ってることないんじゃない? お金だってあるんだからさ、でてってくれてかまわないのよ」

「イヤ」

「はあ?」

 思わず声がひっくり返った。

「イヤってねえ、駄々っ子みたいなことを言わないの」

「イヤ。わたし、まだここにいる」

 言うなり鞠子はベッドに跳び乗り、意地でもろうじようするつもりか布団をまくって頭っから潜り込んだ。掛け布団の上から就職情報誌と食べかけのポテチの袋が滑り落ちる。と思ったら布団の端から手が伸びてポテチの袋だけをつかみ、すぐにまた布団の中に消えた。

 布団の膨らみの下でぱりぱりとくぐもった音が聞こえはじめた。ふて寝しながらもポテチは食うわけか。

 子どもを叱っているみたいで馬鹿馬鹿しくなってわたしはもう何を言う気にもならず、やけくそ気味にビーズクッションに身体を沈めた。落ちていた就職情報誌を拾って再び眺めはじめたものの、ページの表面を目が滑るだけで情報は頭を素通りしていく。

〝キャリアアップを目指せ〟

〝あこがれのギョーカイで働こう〟

〝やりがいのある仕事〟

〝仕事もプライベートも充実〟

 目につく求人広告のキャッチコピーがどれも白々しく見えた。


    


 翌日、週の中日の水曜日。月曜日と並んでゆううつな日。朝から体調は最悪だった。というのもベッドを占拠してふて寝してしまった誰かさんのせいで家主であるわたしはベッドを追いだされ、クッションの上で身体をたたんで寝るはめになったからだ。朝になったらフローリングにはみだしていたので背中が強烈に痛かった。

 ベッドの上で平和な寝息をたてている鞠子を横目に、勤め人であるわたしは会社を休むわけにもいかずシャワーを浴びて支度をし、いつもどおり仕事に向かわねばならないのだった。

 行きがけにコンビニでお値段高めの栄養ドリンクを買って景気づけし、通勤ラッシュを乗り越えて会社に着くとダサい制服に着替えて大野さんの香水のにおいを浴びつつ日々のルーチンワークをこなし、水曜日のランチは会社のそばのイタリアンカフェのランチセット七百八十円と決めていて、午後も再び事務仕事(赤川真理子嬢とわたしのレズ疑惑は意外にもまだ社内に広まっておらず、わたしのまわりはむしろ奇妙なくらい静かだった。大野さんもその件には触れてこなかった)。足がむくんできた頃に終業時間を迎え、私服に着替えてメイクを軽く手なおしし、帰りがけに駅ビルの書店やブティックを冷やかす。駅ビル五階のマッサージ店で三十分のマッサージを受けて背中をほぐしてもらうと身体はだいぶマシになり、一階のデリカで二人分の弁当を買って帰路についた。

 しかしマンションの部屋は真っ暗だった。鞠子はまた一人でぶらぶら遊びに行ったのだろうか。鞠子の寝相を反映して布団は乱れたまま、その上に部屋着が脱ぎ散らかしてあり、昨夜ゆうべ鞠子が抱えて眠ったポテチの袋までぐちゃぐちゃになって放置されている光景に帰宅するなりげんなりした。

「まったくもう。わたしは鞠子のお母さんか?」

 毒づきつつゴミを捨て布団と服を簡単になおし、待っていてやる義理もないので一人で弁当を食べはじめた。テレビをつけるとたまに見ているドラマがやっていたが先週と先々週を見逃しているので話の筋がわからない。主人公が想い人だった男の兄貴のほうといきなりくっついていた。

 テレビにも飽きて消してしまうと、アナログ式の目覚まし時計の秒針が振れる音が妙に大きく聞こえた。

 一人で過ごす夜というのは考えてみるとひさしぶりだ。静かで平穏で、少し退屈。

 ふと思い立ち、ここのところすっかり鞠子の専有物と化していたピンク色の携帯ゲーム機に、隠しておいたペット飼育ゲームのカートリッジを入れて立ちあげた。

 しばいぬイッシはどうしているかな?

「あ……家出してる」

 ゲームの中はもぬけの殻になっていた。

 め息をついてゲーム機を閉じた。ゲームの中の犬にまで逃げられるなんて、わたしってあわれではないだろうか。いや別に鞠子には逃げられたわけではないのだが。最初に持ち込んできた巨大なトランクやここに来てから増えた服などもすべて置きっぱなしだし。

「遅いな、あの子」

 もう九時をまわっている。このあたりは治安が悪いというほどではないが、変質者がでたという騒ぎが前に一度だけあった。

 あけっぱなしにして部屋の隅に置いてあるトランクに目をやる。服やら下着やらがたいへんガサツに突っ込まれ、端からてろてろとはみだしている。白やピンクのせいな下着の上下セットの他、布地の部分が極端に少ない紫色のまであったりする。どういうときに着用するのだろうあれを。

 いや鞠子の手持ちの下着のこうなどは今は問題ではなく、下着の下に無雑作に詰め込まれていたはずの──。

 膝立ちでトランクに寄り、はみだしている下着をき分けてみると、鞠子がさんざん無駄遣いしたとはいえまだおそらく数百万は残っていたはずの札束が、トランクの底から消えていた。

 この部屋に空き巣が入った形跡がない以上、現金は鞠子本人が持ちだしたのだろう。

 荷物はそのまんまで現金だけ持ちだして、鞠子はいったいどこで何をしてるんだ?


    


 深夜一時、インターフォンが鳴った。起きて待っていたわたしはほとんど飛びつくようにインターフォンの受話器を摑んだが、

『千種あ』

 受話器から聞こえた緊張感のない男の声に途端に気が抜けた。

「都丸? なんだ……」

『なんだとはなんだ。土産持ってきたぞ』

「土産?」

『珍獣』

 などと答えた都丸の声の背景で、ろれつのまわらない歌声が途切れ途切れに聞こえている。

『やぁつぅー、がぁねぇのぉ、すそのぉ、とおくぅー、まなびぃやぁのぉー……』

 音程が狂いまくっているが、記憶の底に引っかかっているその歌詞は、実に七年ぶりに耳にする我らが母校の校歌であった。


「いやあ、中流のマンションでお恥ずかしい。まあまあ遠慮なくあがってくだしゃれ、親切なおにーしゃん」

「中流で悪かったわね」

 怪しいろれつで酔っぱらいの中年みたいなことを言って都丸を勝手に招き入れる鞠子にわたしは冷たく突っ込んだ。あがってくだしゃれも何もわたしの部屋だ。わたしの部屋についてあんたにけんそんされる筋合いはない。

「じゃあ遠慮なくー」

 へべれけの鞠子を背負った都丸が右足と左足でかかととつま先を踏んづけあって脱ぐというやり方でスニーカーを脱ぎ散らかして部屋にあがる。かぎをかけてからわたしもあとに続き、都丸が鞠子をベッドに降ろすのを手伝った。

「酔っぱらった酔っぱらったあ。ぐわんぐわんする、ぐわぁんぐわぁん……」

 ふにゃふにゃしたことを言いながら鞠子はスカートのすそを派手に散らし、その美脚を惜しげもなくさらしてベッドの上に大の字になった。「あっつぅい」となまめかしい声であえいでブラウスのボタンをはだけようとするのでわたしは横目で一度都丸をにらんでから布団をかぶせてやった(「てて」と腰をたたいていた都丸が首をすくめた)。この天然フェロモン放出女め……顔の上にぞうきんを載せてやりたいくらいだ。

「ご苦労さま。まあ座って。何飲む? インスタントコーヒーしかないけど。灰皿ないから何か空き缶持ってくる」

 背負って送ってきてくれたのを無下に追い返すわけにもいかず、わたしは都丸に一服勧めてキッチンにコーヒーを淹れに行った。

 わたしと鞠子が普段使っているクマの絵柄のマグカップをだすのもどうなのだろうと少し考え、作りつけのり戸棚に収められている必要最低限の食器を眺めて、一応、お客さま用のカップ&ソーサーのセットを棚の上のほうから降ろした。カップに気を遣ったところでしよせんそれに注ぐものはインスタントコーヒーなのだが。

 お客さん用のカップとクマのマグカップにそれぞれコーヒーを淹れて部屋に戻ると、床に座って所在なげにしていた都丸が何気なくテーブルの上の携帯ゲーム機に手を伸ばすのが見え、

「ちょっ、勝手にさわんないでよ」

 うわずった声をあげてカップをがちゃんとテーブルに置き、都丸の手からゲーム機を引ったくってチェストの引きだしに突っ込んだ。柴犬イッシは逃げだしてしまったので隠すこともなかったと気がついたのはあとになってからだ。

「煙草、吸わないの?」

「やめた。声でなくなるから」

「へええ。いつまで続くのやら」

「なんとでも言いたまえ。今回の俺の決意はひと味違うのだ」

「はいはい」

 ローテーブルにはすかいに座り、ちょっとしたやりとりが途切れると、それから妙に無言になってしまった。コーヒーをすする音とベッドの上で鞠子がむにゃむにゃつぶやく声が気まずい空気をかろうじて緩和する。都丸を部屋まであげたのはかなりひさしぶりだ。社会人になってからははじめてかもしれない。

 どうやら鞠子、今日は一日中パチンコ屋でビールを飲みながらギャンブルに興じていたらしい。あのけんそうに一日中浸っていたら頭ががんがんするのも当然だ。へべれけになって道端でへたりこんでいたところをちょうどうちへ向かう途中だった都丸に拾われ、運んできてもらったというわけだ。なんというかもう人生投げやりになったリストラお父さんみたいだ。

「なんで鞠子がうちの居候だってわかったの?」

「お前、ちょっと前に電話で変なこと言ってただろ。古池鞠子を見たとかって」

「言ったけど……」

 五月の連休で帰省していたとき、母校に立ち寄って鞠子を見かけたのだった。考えてみるとあのとき鞠子は何故帰省していたのだろうか。

「そういえば、あんたはなんでうちに来るところだったの?」

「おいおい、千種さん?」

 わたしの素朴な疑問に都丸はベタなボケっぽくコーヒーを噴きだす真似なんかして、

「うちに来て欲しいの。お願い。待ってるネ。なんてカワイコぶって呼びだしてくれたのはどこのどちらさまでしたか? 留守電入ってるの気づかなくてバイト終わって徹夜のまんまけいでてさっきやっと留守電聞いて、どうにか時間あけて駆けつけた俺さまの優しさの行き場はどこへ? 俺、一時間仮眠しただけなんだけど?」

 恨みがましく一気に言い立てられてわたしはいつとききょとんとしてから、

「ああ」ぽんとひざを打った。思いだした。「そういえば留守電入れといたんだっけ。あれはもういいんだ。ごめん」

「お前、俺をなんだと思ってるの?」

「フリーター。芽がでない役者。貧乏人。借金苦」

「……もういいです」

 打ちひしがれたみたいに都丸はテーブルに突っ伏した。

 だって本当に来るなんて思っていなかったのだ。昨夜のあれは鞠子への脅しのために都丸の留守電を利用しただけで、バイトと稽古で忙しい中いきなり呼んでも時間を作れるわけはないと思っていたから。

 そうか、でも、来てくれたのか……。わたしが呼んだから。わたしが駅ビルでマッサージしてもらってまったりうとうとしているあいだ、都丸は稽古をこなしてバイトをこなして、寝る暇もないまま駆けつけてくれたのだ。

 なんだかちょっぴり、それはうれしい。

 床屋に行く時間も金もないのだろう、テーブルに広がっている頭髪はだいぶうざったいくらいぼさぼさに伸びてほとんどもとの黒髪に戻っている。学生時代よりもはっきり言ってかなり小汚い。

「……わたしさあ、プロポーズ、されてるんだよね。こないだ言った、会社の人に」

 何気なさを繕って言ってみた。

 都丸に相談する気なんてまったくなかったにもかかわらず、なんとなくリアクションを聞いてみたくなって話してしまった。

 この期に及んでこいつはまだ自信過剰なことをのたまうだろうか。ふうん、まあ他の男と結婚してみるのも悪くない。お前そういうとこ今までちょっと真面目すぎたもんな。でも最後はやっぱり俺んとこに帰ってくるとは思うけど、なんて調子に乗って言うだろうか。ばーか、結婚しちゃったらもう帰ってくるも何もないだろうに。ほんとに馬鹿なんだから。あと何年わたしを待たせるつもりなんだろう。

「……そいつ、いい男?」

 頭髪の下からくぐもった声が聞こえた。わたしは答える。

「けっこういい男かな」

「俺よりも?」

「あんたよりも」

「噓だ。俺より男前つったら今現在地球上に三人しかいないんだぞ」

「誰よ、三人って」

「ベッカムとチャン・ドンゴンとジャッキー・チェン」

 ジャッキー・チェンは面白いし好きだけど男前という部類には入らない気がする。

「そいつ、金持ってる?」

「あんたよりはずっとね」

「いい奴?」

「いい人よ。優しいし思いやりあるし、気さくで話しやすいし」

「じゃあ駄目だ。やめたほうがいい」

「なんでよ」

「俺的な統計によるとそういう場合はまず間違いなく母親が息子にべったりだ。お前ぜったいしゆうとめ問題で苦労するぞ。うちの息子は小さい頃から朝はパンよりご飯党なのよとか靴のサイズは二十七じゃなくて二十六・五なのよとか汁は白味噌に決まってるでしょうとか、夫婦のことにいちいち口だしてくるんだ。千種にそんな苦労をさせるのは忍びない」

「勝手に妄想膨らませないでよ。京本さんに失礼じゃない」

「だいたい千種には不釣りあいだ。お前バリバリ庶民出身なんだから、欲張らないでもっと身のほどをわきまえた平凡な幸せってものを求めるべきだ」

「だんだん何言ってるかわかんないわよ。庶民で悪かったわね、あんたんちだってウルトラ庶民じゃない」

「庶民は庶民を知るという名言がある」

 意味がわからん。

「……都丸」

 こめかみにちくちくと痛みを感じつつわたしは声のトーンを落として呼びかけた。都丸はまだテーブルと額をごっつんこしたまま顔をあげない。

「遠まわしな言い方しないで、はっきり言えば。男らしくないわよ。いてるんでしょ? 引きとめたいんでしょ?」

「うん。結婚しないでください」

 もうちょっと粘るかと思ったら、拍子抜けするほどあっさり都丸は敗北を認めた。不意をつかれてわたしはどきっとしてしまった。都丸相手に心臓が跳ねるなんてこととっくになくなっていたはずなのに。

 寝不足で疲れているから、弱っているのかもしれない。わたしもたぶん少し疲れていて、心が弱っている。だから都丸がそう言ってくれたことが、いつもみたいに意地を張って突っぱねる気力もなく今日は素直にうれしい。ああ、結局わたしはこうやってこいつのところに戻ってきてしまうのだ。都丸本人に言われたとおり、離れよう離れようと思ってもやっぱり捨てきれなくて。

「……顔、あげたら?」

 わたしの声に、都丸はテーブルにつけていた頭をのろのろとあげた。

「ほら、赤くなってる」

 赤いあとがまあるくついた都丸のおでこにわたしは軽く手を触れる。本当にひさしぶりに、間近で顔を見た。

「カッコ悪い?」

「うん。カッコ悪い」

「ベッカムより?」

「うん」

「チャン・ドンゴンより?」

「うん」

「ジャッキーより?」

「ジャッキーよりは少しはかっこいいかな」

「まじ? じゃあいいや」

「それでいいのかよ」

 突っ込みを入れたところを遮るように、抱き寄せられて唇で唇をふさがれた。

 わたしはあらがうことなくそのまま身をまかせて目を閉じた。都丸とキスするの、ひさしぶりだ。こんな感触だっただろうか。人の舌ってこんなに熱かっただろうか。ああ、本当にやめてるんだ。煙草のにおいがしない。かわりにほのかに汗のにおいがした。体育のあとによく抱きつかれたときと同じ、都丸のにおいに間違いない。そういえば京本さんは体臭を感じられない人だったな、とふと思う。

 腕、こんなにたくましかったっけ。昔の都丸はどっちかというともやしっ子で、体格のいいうっしーなんかと比べるとすごくきやしやに見えたはずだが。少しがさがさした硬い手のひらがわたしの肩をすっぽり包み込んでしまう。バイトで荒れたのかな。身体を酷使する仕事ばかりやってるから。

 不思議だった。都丸なんかとはもう惰性で腐れ縁が続いているだけの伸びきったパンツのゴムみたいな関係で、緊張感なんてかけらもないと思っていたのに、わたしは今少し緊張している。心臓がとくとくとくとく脈打っている。

 四方を囲む部屋の壁が遠ざかっていくような錯覚にとらわれた。急にあたりが静かになり、自分たちの鼓動ときぬれの音だけがやけに大きく耳につく。

 自分の部屋が意識から消失し、かわりに懐かしい場所にいた。

 高校の教室だ。

 放課後、オレンジ色の夕陽が射す教室。

 都丸とは一年のはじめに席が前後になって、よくしやべるようになった。はっきりコクられた覚えはないまま気がついたらつきあいはじめていた。その頃からわたしたちの関係は根本的には変わっていない。今みたいにたるくて中身のない会話をだらだらして、都丸は馬鹿なことばっかり言っててわたしはメイクに精をだしながら適当に突っ込んで、そんな日々は退屈だったけれど心地よかった。一年のはじめ、わたしの席は窓際の後ろから二つめで、都丸は後ろから三つめで、そのあたりは授業中もっとも先生から見えにくい特等席だった。

 中庭に面した窓いっぱいにけるような夕陽が射し込む放課後の教室で、都丸と初めてキスした。

 その頃、わたしたちの世界は放課後の陽射しのようにだるいけれどきらきらとまぶしく輝いていて、わたしたちのこれからの人生にはたくさんの楽しいことや刺激的なことがあって、なんでも好きなことができると信じて疑っていなかった。

 今のわたしはだいぶあきらめてしまったけれど、都丸は奇跡的に高校生のままでいる。役者になるだなんていきなり目覚めて厳しいだけで現在も将来の保証も何もない世界に一人で飛び込んでいって、今も頑張っている。発声のために禁煙までする根性が都丸にあるなんて正直思わなかった。

 わたしはたぶん、お金とか将来の安定とか優しい人とか口では言いながら、大人になってもいまだに自分の目の前のことしか考えていない、馬鹿なことばっかり言ってて馬鹿なことばっかりやってる、そういう都丸が好きなのだ。わたしのことを大切にしてくれる人よりも、自分の夢を追っかけてわたしをほっぽってあっちこっちに行ってしまう馬鹿のことが好きなのだ。それって我ながら不幸まっしぐらな好みだと思うけど。同じ理由で鞠子の奔放っぷりに振りまわされながらもつい許してしまう。

 損な性格というか間違った体質というか、そういう人に振りまわされるのが気持ちいいっていうのはあれだ、マゾなのかなあ……と思う。

 でも、そうすることでわたしもまだあの頃のままでいられるような気がするのだ。悪あがきかもしれないけど、わたしもまだいろいろ諦めてしまったつまらない大人にはなっていないと思えるような気が。

「してもいい?」

 都丸の声が耳もとでささやいた。ふわっと胃が浮くような落下感とともに周囲の風景が現在の自分の部屋に逆戻りした。

 熱い吐息を耳に感じて少しぼうっとしながらわたしは答える。

「寝不足でくたくたなんじゃないの?」

まってるからダイジョーブ」男のカラダというのはそんな都合のいい仕組みになっているのだろうか。

 都丸は紳士ではないので言ったときにはすでに片手でわたしのブラウスのボタンをはずしにかかっている。

「ちょっと待って、駄目、鞠子がいるし」

「へーきへーき。起きない」

「適当なこと言って……」

 堅苦しいことを言って一応自己正当化しつつもわたしも強くは拒絶しない。わたしもなんだか今日はそういう気分になってしまっていた。都丸がブラウスのボタンを全部はずして半ば引きちぎるようにスカートを脱がしにかかっているあいだにわたしの手ももどかしげに都丸のベルトをはずしている。互いの首筋や耳たぶにみつきあいながら発情した動物みたいに、あるいは興味と欲情を半々に初めてする高校生に戻ったみたいに。

 実際わたしの初体験は高校生のとき、都丸の部屋でのことで、手狭な借家だったのでふすまを隔てたすぐ隣の茶の間には都丸のお母さんがいて、ちょうどこんなふうに十五歳の二人が発情してやり方もよくわからないままお互いの制服を脱がしあっているときに「一志、いづみちゃんにケーキでも買ってきなさいよ」と茶の間からお母さんの声がした。当時の都丸は「あとで行くー」と声だけは何食わぬ感じで襖に向かって答えながら、あえぎ声をあげそうになるわたしの口を片手でふさぎ、エロビデオとエロ漫画でしっかり事前学習した知識でもってわたしのパンツの中にもう片方の手を入れていたのであった。五分後にもう一度「一志、早く行ってきなさいよ」とお母さんの声がすると都丸もまた「あと五分で行くー」。いつお母さんが襖をあけるかと生きた心地がしないまま十五歳のわたしは初体験に臨んだのである。今にして思えば特殊な経験だ。

 予告どおりその後きっかり五分でことを済ませた都丸はケーキ屋さんの先の和菓子屋さんまでチャリを飛ばして、わたしのためにと紅白まんじゅうを買ってきた。奴はおそらく何かと何かを混同していた。

 鞠子は幸いなことに壁のほうを向いてくうくうと寝息をたてていた。

 放りだしてあったハンドバッグをいつの間にか手もとに引き寄せてコンパクトミラーをだしていたことにわたしが気づくのは翌朝になってからである。

 わたしはすっかり忘れていた。高校時代に知りあった当初から、鞠子の趣味が男女の情事ののぞきであったことを。この覗き趣味について鞠子がたいへんしたたかな執念を持った女であるということを失念していたわたしがかつだったと認めよう。


    


 京本さんのプロポーズには、その週のうちにお断りのお返事をした。京本さんは微苦笑をして「そうですか」とだけ言った。最後に二人で食事をした金曜日、多くは話さなかった。こればっかりはわたしのけじめとしてその日は割り勘で支払った。本当はわたしが全額持つ気でいたのだが京本さんは断固として割り勘以上は譲ってくれなかった。

 京本さんは最後まで紳士だった。そんないい人をわたしは振ったのだ。

 きっと一生のうちに何度も後悔するだろう。きっとどころか間違いなく後悔する。なんであのとき京本さんにしておかなかったんだろう、あれほどいいお話はなかったのに、そうしたら今頃もっと楽をしていたはずなのに、幸せになっていたはずなのに、と。自分でも馬鹿な選択をしたと思う。

 京本さんは上司からの話を断りきれず、セッティングされていた予定どおり二週間後に社長令嬢赤川真理子とお見合いをしたらしい。お見合いが発展的な結果に終わったのかまでは知らない。結婚の話がまとまるようなことになったらわたしの耳にも入ってくるだろう。そのときわたしがまだこの会社をクビになっていなくて、わたしのデスクにわたしよりも優秀な派遣スタッフが座っていなければだけど。

 気味が悪いことが一つある。大野さんがわたしに少し優しくなったのだ。

 その理由はしばらくたってから判明した。鞠子が社長の娘のかたりだったということが、驚いたことにまだバレていないのだ。どうやら社内の噂では、わたしは親友である赤川真理子に政略上の理由で京本さんを奪われたあわれな失恋女ということになっているのである。さて、本物の赤川真理子嬢がわたしの友人でもなんでもないことがバレた暁には、わたしの運命やいかに、である。

 いよいよというときに備えてわたしは引き続き就職情報誌とにらめっこをしている。鞠子の噓がバレるのが先か、わたしがリストラされるのが先かはわからないが。


 六月下旬、梅雨に入っていた。雨不足だのなんだのと毎年のように言われているがそれなりに不景気な雨天が続いた。

 しかしわたしたちにはうれしい知らせがあった。なんと都丸がこの夏の公演でわりあいいい役をもらえることになったのだ。

「かんぱーい」

 都丸のバイトがない日、わたしの部屋でちょっとした祝杯をあげた。もちろん相変わらず居座っている鞠子も一緒だ。

「まいったなあ。これで俺という秘密兵器の存在がとうとうギョーカイの目にとまっちゃうね。主役を食う演技で注目を集めた若手実力派俳優・都丸一志、次は銀幕デビュー確実か、なんちゃって」

 調子に乗ってドリームを語っているのはたいへんおめでたい思考回路を脳に備えた都丸本人。わたしは適当にあしらってレモンチューハイをめる。都丸は景気づけに一気に一本目の缶ビールをあけ、鞠子もわたしのとお揃いのライムチューハイをこくこくとのどを鳴らしてあっという間に空にしてしまった。そろそろいい分別のある二十四歳の大人三人でけっこうな勢いでアルコール類を減らしていく。

「ま、チョイ役なんだけどさ。うちの演出家が俺を気に入ってくれちゃってさ。これで俺という秘密兵器の存在がとうとうギョーカイの目にとまっちゃうね」それ、さっきも聞いた。もう酒が脳までまわってきたのか。

「役がもらえたのはおめでたいけど、つまりチョイ役なんでしょ?」

「駄目だなあお前は、なんにもわかってない」

 一刀両断で都丸に駄目認定される筋合いはない。都丸のこの根拠のない自信と厚かましさはいったいどこの底なし沼からわきあがってくるのだろうと本気で不思議だ。

「真の演技派っていうのはみんな端役の演技で注目されてきたんだぞ。ぶっちゃけ主役は誰にだってできるけど、脇を固める役者には主役以上の演技力が求められるわけだ。今回俺はそのいぶし銀の渋さを認められてのばつてきというわけで」

「はいはい、すごいのね、未来の大スターさん」

「千種あ。お前、なんだそのどうでもよさそうな態度。我がことのようによろこぶところだろ、ここは」

「よろこんでるよ」

「態度にでてない」

 めいっぱい不満げにぶうたれる都丸。どうしろというのだとわたしは少し考えたあと、軽く身を乗りだして都丸のほうに顔を寄せ、

「おめでと。一志」

 ささやいてほっぺたにちゅっと口づけた。

 自分で言うのもなんだがわたしから都丸に積極的に愛情表現することはめったにない。かわいげがないと自分でもわかっているのだが、いつもつい素っ気ない態度を繕ってしまう。しかし今日はいつになくわたしもけっこう酔っぱらっていた。わたしだってちゃんと都丸の出世をよろこんでいたのでアルコールが心地よく身体に吸い込まれていく。

 珍しく愛らしいわたしの仕草に心打たれたのか、ちゅうされたほっぺたに手をやって都丸は目を丸くし、

「千種、お前ってかわいいなあ」

 感動のあまり涙ぐみすらして。こいつも相当酔っている。がばっとオーバーに両手を広げて抱きついてこようとしたとき、ふいにわたしのほうが横から引っ張られて都丸の抱擁をすり抜けるかつこうになった。都丸の腕はむなしく空をいだき、勢いあまった都丸は額から床に突っ込んだ。漫画みたいな奴だ。

 わたしの腕に鞠子が自分の両手を絡めさせ、わたしの陰からひょこりと顔を覗かせて都丸に向かって舌をだした。わたしと違ってその仕草は普段からナチュラルに愛らしい。

「千種にべたべたしないでよ。千種はわたしのなんだから」

「む……古池鞠子」

 額をさすりつつ起きあがった都丸と鞠子がわたしをあいだに挟んでにらみあう。わたしはいわば両側から狙われる獲物みたいなものだ。獲物をめぐってけんせいしあう二匹に挟まれてわたしはやれやれと首をすくめた。

 都丸となんとなくヨリが戻って部屋に来るようになってからというもの、鞠子のほうまで妙にわたしにべたべたひっつくようになり、二人はしょっちゅう対抗意識をきだしにしてわたしを奪いあっている。都丸と鞠子は馬があわなかった。……と、本人どうしは思っているようだが、わたしに言わせればそれは同族嫌悪というやつだ。同じリス科の動物であるモモンガとプレーリードッグが居あわせたみたいなものだろうか。わかりにくいたとえだけど。

 よくも悪くもこの二人は似ているのだ。自信過剰で唯我独尊でいつまでたっても大人にならずにふわふわしていて適当なことばっかり口走るところも、それでいて不思議と人をきつけてしまうところも。互いに警戒して正体の探りあいになるのも無理はない。わたしは自分の部屋でモモンガとプレーリードッグを一緒に飼っているような状態である。プレーリードッグ鞠子はわたしのまわりをうろちょろしつつ部屋に自分の巣穴を作っており、モモンガ都丸は普段は木の上にいるのだけどたまに木から舞い降りてくる。プレーリードッグ鞠子はモモンガ都丸にちょっかいをかけてはぴゅうっと巣穴に潜り込む。

 そんな騒々しい動物王国を、けれどわたしはすっかり受け入れていた。都丸はわたしの彼氏に戻って、鞠子は親友に戻って、この漫然とした幸福がずっと続くとすら考えていて、それもいいかと思っていた。

 あとになって考えてみれば、健全な大人の男女が三人いてそんな幼稚な関係のまま済むはずはなかったわけだが。……というか、むしろ動物王国ゆえのなりゆきだったと言うべきだろうか。

 同族どうしは交尾可能なのだった。


 二時間ほど飲み食いしたうえ動物王国の二匹がまだ飲み足りない食い足りないと言いだすので、だいぶ足もとがおぼつかなくなっている二人を置いてわたし一人でコンビニに買いだしにでた。

 雨あがりの夜道は湿度が高く、夏の気配を真近に感じた。アスファルトから蒸したなまぬるい空気が立ちのぼっている。もうすぐ社会人になって三度目の夏が来る。といっても勤め人にはろくなサマーバケーションはないわけで、今年はきっと特別な夏が来ると毎年わくわくしていた学生時代のような感覚もないわけだけど。

 ジャージにサンダル履きでマンションから二分半のコンビニまで歩き、缶ビールと缶チューハイ、それにスナック菓子やらイカの薫製やらを見繕い、買いすぎたかなあと思いつつだいぶ重くなった買い物袋を提げて戻った。

 かぎをかけてでかけなかったことを帰ってきたところで思いだした。まあ部屋には一応男手がいるし、もう一人は自称強盗殺人犯だし、短時間だったから何もないだろうけど。

 ドアをあけると部屋の中は変に静かだった。人を買いだしに行かせておいて、二人とも酔いつぶれて寝てしまったのだろうか。買ってきてしまった大量の荷物にちょっとせつない思いをせつつサンダルを放って部屋にあがった。

「ただい……」

 ローテーブルの向こう側に不自然な体勢でうずくまっている都丸の背中が見えた。

 その都丸の身体の下から、都丸の脚にしては白くて細い、つまり女の素脚が二本の曲がった触覚みたいにのぞいていた。鞠子が着ていた白のワンピースと、そして鞠子のトランクに入っているのを見たことがある例の布地が少ない紫色のショーツが、中に入っていた人間の形を微妙にとどめつつ抜け殻みたいに床に落ちている。

 重なりあった二つの肢体がローテーブルの向こう側で規則的な運動を繰り返し、それにあわせて甘やかなあえぎ声がかすかに聞こえた。

 部屋の戸口で立ちどまったわたしの手から買い物袋が滑り落ち、床の上でどさっと重い音を立てた。缶ビールや缶チューハイが足もとから放射状に転がっていく。

 なんとなく緊張感がないまま、わたしが最初にした行動といえば時間を確かめることだった。

 往復七分。

 たった七分、留守にしているあいだに。

 ……京本さんのプロポーズ、受けておけばよかった。わたしはその日、さっそくそれについて人生で一度目の後悔をしたのであった。