五月が終わりに差しかかっていた。校舎裏の雑木林に射すれ陽は生い茂る葉に遮られて日増しに細く、しかし鋭く強烈になり、じりじりと地面をいていた。

「わたしのお母さんはとても美しい女子学生だったわ。お母さんと宮下先生は出会ってすぐに恋に落ちた。でも二人の交際は周囲には秘密にしていたの。お昼休みや放課後、この清水会館で人目を忍んで会っているあいだだけが、二人が愛を確かめあう時間だった」

 中学時代に少女小説をむさぼり読んだ時期もあったわたしには、まりが話す当時の情景を鮮明に、ただし少しせたセピアの風景として脳裏に描きだすことができた。

 若い頃の宮下先生と、鞠子とよく似たセーラー服の美少女。当時の清水会館はまだ今のように打ち捨てられておらず、古い書籍や資料が書架にいっぱいに詰まっている。放課後、細くだるく射し込む夕陽に照らされる書架の陰に身を潜めて二人は互いの存在を確かめあう。指が軽く触れあっただけで頰を赤らめて避けてしまったかもしれない。一度離れた指が少しずつ再び距離を狭めて、絡みあう。そしていずれ身体が重なり……。

 鞠子の指がふいにわたしの指に触れ、想像から現実に引き戻された。隣に座った鞠子がきやしやな白い指をわたしの小指に絡めてくる。鞠子の指は死人のように冷たくて、薄いピンクに色づいた爪だけがかろうじて生気をともしている。

「な、何?」

 女子どうしなのに少々どきっとしてしまいながらわたしがくと、

「ねえ、わたしたちも同じこと、しようか」

 鞠子の台詞せりふの意味を一瞬考えたあと、

「……なっ」

 わたしは鞠子の指を振り払い、しりもちをついて距離を取った。

「あのねえ、わたしたち、女どうしじゃない」

「別にいいじゃない。わたしはぐさのこと、好きよ?」

 真面目な顔で鞠子はそんなことを言ってにじり寄ってくる。彼女の制服から漂うお線香のにおいがわたしのこうをくすぐって麻酔のように手足の先をしびれさせ、一方で心臓だけが変に激しく脈打ちはじめた。床に手をついて迫ってくる彼女のセーラーの胸もとから白いキャミソールとスポーツブラがのぞく。

 しゅるり……と彼女はセーラーのスカーフを抜き取って。

「なあんて」

 と、ふいに悪戯いたずらっぽい笑みを作った。

 わたしは硬直したまま彼女の顔を凝視したあと、どっと肩の力を抜いてうなだれた。

「やめてよ、もう……」

「うふふ。どきどきしたでしょ?」

「馬鹿」

 生まれもっての自分の魅力を過不足なく自覚している鞠子はときどきこんなふうに、その魅力でもってわたしのことをからかった。わたしは鞠子にかれていたと認めざるを得ない。それは恋愛感情ではなかったと思うがそれに近いぎりぎりの、かなり危ういものではあったかもしれない。わたしは鞠子のつかみどころのない魅力に取りかれて逃れられなくなっていた。

 宮下先生と鞠子の母親との甘く秘めやかな日々がやがて破られるときが来た。十七歳にして鞠子の母親は赤ん坊をはらんでしまったのだ。日に日に顕著になる身体の変化を隠しとおすことができず、いずれそれは周囲の人々の知るところとなった。

「お母さんのお父さんは激怒した。お母さんのお母さんは赤ん坊をろすようにとお母さんを説得したわ。まわりの人たちの中には露骨にお母さんをさげすむ人、いんらんののしる人もいた。今よりもそういうことに理解がない時代だったから、周囲の風当たりは強かった。お母さんは耐えたわ。愛する人と一緒なら子どもを産んで育てていけると、お母さんは強い決意と覚悟を持っていたのよ。

 けれど思いも寄らない裏切りがお母さんを襲った。誰よりも愛し、信頼していた恋人、宮下先生が、子どもを堕ろしてくれとお母さんに頼んだのよ。先生はお母さんと赤ん坊よりも自分の人生を取った。信じていた先生に裏切られてお母さんは絶望したわ。

 お母さんはこの清水会館で、自らその身に油をかぶって火をつけた。火はたちまち勢いを増してお母さんの身体中に燃え広がり、お母さんの服を、髪を、肌を、肌の下の肉を焼いた。お母さんの美しい顔は醜悪に焼けただれ、長い髪は見る間に灰になり、焼け落ちた衣服が溶けた皮膚に張りついた。

 胎児のわたしは子宮の中で悲鳴をあげたわ。外の世界に産み落とされる前に、世界の光を見る前に死にたくはないって。けれど炎はお母さんの命と一緒に容赦なく小さなわたしの命をも焼き尽くした……」

 鞠子のひとみに宿る闇がいっそう深く陰湿になる。深紅の唇に彼女は笑みを浮かべる。決して天使の笑みなどではない。

 彼女は悪魔だった。ひどく美しい少女の皮をかぶった悪魔だった。

「でも、わたしは帰ってきた。ふくしゆうのためにわたしはここに、帰ってきたの」

 彼女が抱く黒々とした執念がわたしの手足をもからめ捕りとりこにした。

 母親を責めた人間たちに、母親と自分を裏切って死に追い込んだ男に、衆人の祝福を得てこの世に生を授かることを許されなかった彼女の無念を思い知らせるために、彼女はこの世によみがえったのだ──。

 十七年と数ヶ月ばかり生きてきて、わたしは自分を現実主義者リアリストだと思っていた。雑誌の後ろのほうにもれなく載ってる占いなんて信じない(星座や血液型だけで運命や相性が決まってたまるか)。テレビの霊能力番組なんか絶対にヤラセだと思う。こっくりさんで十円玉が動いたことはなく、スプーンが曲がったこともない。

 十七年前、よわい十七にして赤ん坊を身ごもり、お腹の赤ん坊を道連れにして自殺した女子学生の、そのときの赤ん坊が蘇った──そんな話を、だから現実主義者が信じるわけがないと思うだろう。

 ところがわたしは鞠子の話を信じた。それは鞠子のあかい唇から紡がれる言葉の魔力のせいだったのかもしれない。あるいは五月の木洩れ陽が彼女の頰に焼きつけた紋様が魔方陣みたいに魔力を発していたのかもしれない。

 とにかく鞠子の周囲にはなんらかの魔力を帯びた不思議なフィールドがあり、その魔力の効果が及ぶ範囲では非日常なことが現実になるのだった。地方都市の漫然とした日常が、鞠子の魔力のフィールドの中では鏡映しのようにどこか奇妙な空間になる。日常が非日常になる。虚構が真実になり真実が虚構になる。漠然としたその感覚にわたしの心はこうようし、鞠子の魔法の空間に自ら足を踏み込んでいった。

 彼女の〝復讐〟を見届けたいとわたしは思った。


    


 昼休み、清水会館で鞠子と密かに会う日々が続いた。外の石段に腰かけてお弁当を食べながら、清水会館の中に潜り込み少し焦げたにおいがする板張りの床に座って涼みながら、鞠子の話をかじりつくようにわたしは聞いた。

 そんなある朝、事件が起こった。

 社会科準備室でぼや騒ぎがあったのだ。消防車が出動する事態になり一時校内は騒然としたが、幸い社会科準備室のカーテンが焦げた程度で大事には至らなかった。

 学校側の説明によると、出火原因は教師の煙草の火の不始末とのことだった。社会科準備室を利用する教師のうち喫煙者は宮下先生だけだった。宮下先生はクビにこそならなかったが厳重注意を受けたらしい。

 しかし生徒たちのあいだではある噂がささやかれていた。

 ぼやを起こしたのは宮下先生と不倫関係にある、三年七組古池鞠子──二人の関係が表面化するのを恐れた宮下に関係の解消を求められた古池鞠子が、要求に抵抗して準備室に火をつけたのだと。

 早朝、ぼやの直前に校内に入っていく鞠子を見たとか、いや、ぼやの直後に騒ぎを眺めて笑っているのを見たとか、町の産婦人科からでてくるのを見たとか妊娠五ヶ月でお腹が大きくなりはじめているとかいや宮下に求められて中絶したのだとか、盛大に尾ひれがついた噂がさくそうして流れた。とにかく鞠子が何かしらぼやに関わっているというのだけはかなりのしんぴようせいのある話となっていた。教室の内外で囁かれるさまざまな風説に、わたしは表面的には興味のない顔をしつつも耳をそばだてた。

「古池鞠子ならやりそうな感じするよね」

 同じく噂話に耳を傾けてさっつんが言った。わたしと鞠子との関係はさっつんにも秘密にしている。

「んー。そうかな。よくわかんない」

 あいまいに受け答えしつつわたしは早く鞠子と話したくてそわそわしていた。その日、鞠子は午前中で早退したとかで、わたしはまだ鞠子に真相を聞くことができていなかったのだ。

 そして事件の翌日の昼休み。今日は来ているだろうかと少々心配しながら清水会館に行くと、いつもの東側の壁際に腰かけてイチゴミルクをちゅうちゅう吸っている鞠子の姿があった。

 肌の白さと同化して近くに寄るまでわからなかったが、イチゴミルクの紙パックを持った右手に白い包帯が巻かれていた。

「どうしたの、それ」

 わたしの問いに鞠子は「ああ、これ」と右手の包帯に目を落とし、

「ちょっとね。火傷やけどした」

 ぞくりとした風がわたしの背筋をでた。

「ねえ……社会科準備室の火事って、本当に……」

 梅雨が終わりに差しかかり夏が間近にい寄ってきつつある、じめっとした冷気となまぬるい空気とが入り混じった奇妙な天候の日だった。トーンを落としたわたしの声に鞠子が顔をあげ、その紅い唇に、その日の天候と同じようなねっとりとした笑みを浮かべた。

「次はぼやじゃあ済まないかもね……」

 いよいよ鞠子の復讐がはじまったのだ。わたしはそう確信した。

 ぞくぞくした。それは鞠子へのせんりつでもあり、そしてこの学校で何かが起こっているということに対する昂揚感でもあった。何もない地方都市のつまらない高校で、今確実に何かが起こっている。

 その中心にいるのが古池鞠子。誰もがどことなく敬遠して遠巻きにする、ようえんで摑みどころのない魅力を秘めた美少女。

 わたしだけが彼女の親友であり、彼女の秘密をわたしだけが知っているという事実が、わたしのささやかな自尊心を満足させた。


    


 ところで最近わたしと都丸一志との関係がどうなっていたかというと、どうもなっていなかった。わたしは鞠子に夢中で都丸のことなんかすっかりどうでもよくなっていたのだ。五月の半ば、都丸とけんして泣いていたわたしが清水会館で鞠子と出会ってから二ヶ月になろうとしていた。これだけの期間都丸のことをころっと忘れていられたのはわたしにしてはたいへん珍しいことだ。

 それだけわたしの頭の中は鞠子でいっぱいになっていたのである。それはやはり向こう見ずな恋慕と言ってもよかったのかもしれない。

 そんなわけなので七月初旬のある日の放課後、帰り支度をしていたところを「千種あ」という間延びした呼び声とともにいきなり背後から抱きつかれたときもわたしはきわめて素っ気なく、

「重い」

 と斬って捨てた。

「なんだか最近楽しそうだね、君」

 わたしの肩にあごを乗せて恨めしげに言ってくる都丸(こいつは密着しないと会話ができんのか)。帰り支度を続けながらわたしはおざなりに応対する。

「そう? いつもと同じだと思うけど」

「受験生のくせに肌のハリが違う。ぴちぴちしてる」

「そりゃあぴちぴちの十七歳だからね」

「ふうむ……」

 と、都丸は至近距離からわたしの横顔をじっとりとにらんで一人でうなずき、

「オトコができたか」

「違うよ。ていうかあんたに言われる筋合いないわよ。わたしたち今つきあってないんだから、関係ないでしょ」

「関係ある」

「なんでよ」

「つきあおう、千種。やっぱり俺、お前がいないと駄目なんです。愛してる」

 都丸の言う愛してるほど重みのない愛してるも世界中探したってそうそうないと思うが、吐息と一緒に耳もとにその台詞せりふを囁かれると少しくらいはどきっとしてしまった。つまりはこんなふうに流されてわたしは過去六回も都丸とやりなおしているわけだ。

「じゃあうっしーに吐いた暴言はやきもちだったって認める?」

「認める認める。やきもちだった」この変わり身の早さと言ったら。

「ふうん。どうしようかなあ」

 首を反らして都丸の密着攻撃をかわしつつわたしは思案顔をする。今回のわたしは今までのわたしとはひと味違ってそう簡単に流されたりしないのである。何故なら今のわたしの心に都丸が入り込む隙間はせいぜい一ミリくらいしかあいていないので。

「やっぱり駄目」

 思案顔で引っ張ったあげくのわたしの返事に都丸は捨てられた子犬みたいな情けない顔をした。珍しくわたしのほうが都丸をほんろうしているのが痛快である。これもきっと鞠子の魔力の余波をわたしがほんの少し浴びているおかげだ。

「なんだよそれ。やっぱりオトコだろ。誰だよう。何組の奴?」

「違うってば」

 都丸の腕の下からすいっと抜けだしてわたしは悪戯いたずらっぽい笑みを作った。鞠子がよくやるニヤリ顔の真似だ。上手にできているだろうか。

「西校舎の幽霊」

 謎かけみたいなわたしの答えに都丸はぽかんと間抜け面をして、

「って、赤ん坊はらんで自殺したっていう、あれ?」

「そ。わたしの恋人」

 にやにや笑ってわたしは鞠子のことをそんなふうな遠まわしな言い方で表現した。わたしだけが鞠子の秘密を知っているという優越感に浸りつつ、その一方で本当は誰かに言いたくてたまらなかったのだ。わたしだけが鞠子と共有している秘密を。わたしの親友の正体が素敵な魔物であることを。

 都丸は話についていけないというふうにまゆを寄せて、

「えー、あー、そうか……いやまじで? お前、そういう趣味だったんだ。知らなかったなあ。それは確かにショックだわ、俺……」

 なんて腕組みをしてぶつぶつうなる。リアクションできないという感じの都丸のリアクションが面白くてわたしはにやにやする。

「びっくりした?」

「うん。さすがにびっくりした。まさか千種が売店のおばちゃんとつきあってたなんて」

 わたしはにやにやしていた。

 どうもみあっていないらしい話の意味がみ込めず単にその顔で固まっていた。慣れないニヤリ顔をずっとほっぺたに張りつけていたので戻し方を忘れてしまった。


 売店のおばちゃんこと牛山トミコさんは近所の民家から通ってきている四十七歳のおばちゃんだ。三組のうっしーとは無関係で、この地方に多いみようなのだ。

 八方美人の都丸は校内のいろんなところに顔がきく。売店のおばちゃんも都丸の〝コネクション〟の一人である。

 都丸の話によればこうだ。今をさかのぼることおよそ三十年、ここ清陽高校に通う女子生徒だったトミコさんは、恋人であった男子生徒とのあいだに赤ん坊を身ごもった。三十年前といえばわたしたちからすれば一世代も昔のこと、それはもう破廉恥な事件であり、学校関係者やトミコさんの親類一同にはたいへんな衝撃が走った。もちろん周囲の人々は子どもをろすことを強く勧めた。しかしトミコさんは当時の娘さんにしてはたいそう豪胆な人柄をしており、周囲の反対など気にもとめずに子どもを産み落としてしまった。売店を仕切るトミコさんは現在でも笑い声が大きな豪胆なおばちゃんである。

 恋人であった男子生徒はトミコさんのだんさんとなり今は市役所に勤めている。三十歳になるトミコさんの娘さんは数年前に嫁いで元気に暮らしている。

 ……悲劇はどこにもない。恋人に裏切られたという話も、焼身自殺を図りお腹の赤ん坊とともにごうに焼かれたという話も、トミコさんのエピソードにはどこにもない。ついでに言うと丸顔にちりちりパーマのトミコさんは、失礼だけれど〝西校舎の幽霊〟のはかなげなイメージとはかけ離れている。

 元ネタとなる事実は確かにあったものの、〝西校舎の幽霊〟の怪談は三十年の時代を経るあいだにずいぶんとねじ曲がって伝わったものだった。この学校で焼身自殺した女子生徒などいないのである。そしてもちろんわたしは売店の牛山トミコおばちゃんに夢中になっているわけではない。

「でも、それじゃあ清水会館の火事は? あそこ、今でも焦げ臭いし、焼け跡もちゃんとあるじゃない。あそこにあったものが新しい図書室に移されたのって、やっぱり火事があったからじゃないの? 焼身自殺しようとした生徒がいたんじゃないの?」

 ほとんど責めるように、実際に胸ぐらをつかみあげんばかりに詰め寄ってわたしは都丸を問い詰めた。

「なんなの、お前? 何を深刻になってんの?」

「いいから答えて」

 わたしの剣幕にされてのけぞり気味に都丸は火事の真相についても教えてくれた。

 確かに清水会館で火災はあった。しかしそれはごく最近、ほんの四年前の話で、トミコさんの妊娠とはなんの関係もないという。数人の男子生徒が清水会館で喫煙しており、その火の不始末が火災の原因。ちょうど新校舎の図書室が完成していたので焼け残った蔵書はそっちに移された。これは都丸がかわいがってもらっている先輩が実際に在校時に起きたことなので間違いのない情報だ(というか当事者の男子生徒の一人が都丸の先輩であった。さすが都丸の先輩というべきか)。

 四年前の清水会館の火災。

 三十年前の女子生徒の妊娠。

 そして十七年前の女子生徒の焼身自殺。

 時代はまったく違っており、それぞれの話に関連性は見られない。

 それでは鞠子の話はいったいなんなのか? 十七年前に清水会館で焼身自殺したという鞠子の母親とは実在する人物なのか?


 校内に顔がきく都丸にとって、親しい先生に頼んで資料室のかぎを借りてくることは難題ではなかった。放課後、校内の生徒はほとんど下校した時間、わたしと都丸は資料室にいた。

 資料室は新校舎の一階、職員室の並びにある小部屋だ。過去の在校生の名簿や個人情報など、許可を得ないと閲覧できないものが収められている(とはいえ都丸が鍵を借りてこられるくらいだから管理はけっこうずさんのようだ)。設計段階ではすっかり忘れられていてあとで気がついて慌てて場所をこじあけたみたいな、部屋と部屋との隙間に無理矢理こしらえられた細長い部屋であり、両側の壁に分厚いファイルが詰め込まれた書架が向かいあわせで並んでいる。人間が腰を落ち着けられるスペースは書架と書架に挟まれた一人ぶんの幅くらいしかない。

 新校舎ができたのは五年前だが、書架のどの段にも厚く積もったほこりが過去五年間におけるこの部屋の利用頻度を物語っていた。書架からファイルを引き抜くと季節はずれの雪のように埃が舞った。

 ファイルを何冊か見繕って床に積み、それを前にしてわたしも床に座り込んだ。

「狭いなあ」

 などとぼやきながら背中にぴったりくっついてくる都丸に一冊押しつけて仕事を与えておき、わたしも別の一冊に目を通しはじめる。

 じられた個人情報のはじめのページから、いま、牛山、牛山、牛山、えんどう、……ざきとう、宮川、牛山……ん? 呪わしいことに五十音順で揃っていたのは最初のほうだけで、残りは規則的に綴じられていない。おかげで一ページずつ名前を確認しながら繰っていくはめになった。

 書架から引っ張りだしてきたのは十五年前から二十年前あたりにかけての在校生の個人情報である。本命だった十七年前のファイルに古池という姓の生徒は見つからなかった。

「都丸、そっちはどう?」

「何があ?」

 背後の都丸から返ってきたのはまったくもって不真面目なリアクション。ちらりと振り返るとさっき預けたファイルの上に自前の漫画雑誌を開いてギャグマンガにうひゃうひゃ笑っているではないか。これが曲がりなりにも勝負の夏を控えた受験生の顔だろうか。都丸からファイルを引ったくってわたしは結局一人で仕事に取り組むことになった。

 十七年前からさかのぼって十八年前、十九年前、二十年前、逆にたどって十六年前、十五年前と確認したが、目的の女子生徒が在校していた証拠は見つからなかった。念のため十四年前と二十一年前にも手を伸ばしたが結果は同じ。

 いつの間にか文字を認識しづらくなっていることに気がついて顔をあげると、周囲がだいぶ薄暗くなっていた。書架で半分がた遮られた窓の向こうが黄昏たそがれ色に呑まれはじめている。

 都丸はわたしの背中を背もたれがわりにくつろいで相変わらず漫画を読んでいる。たいして事情も説明しないでとにかく協力するようにと引っ張り込んだわたしもわたしではあるが、それにしたっていっそすがすがしいほどにわたしを手伝う気はないようである。ヨリを戻してくれと泣きついてきておいて。

 め息をつき、二十二年前のファイルを手に取った。かすんできた目を制服のそででこすり、ファイルを開く。

 もう一冊だけ見てみよう。もう一冊だけ。

 わたしは信じたかったのだと思う。鞠子の話が噓じゃないっていうことを。わたしが夢中になって聞き入った鞠子の話がでたらめなんかじゃないっていうことを。鞠子と過ごした昼休みの清水会館、あの特別な時間を否定されたくなかったのだ。だからどうしても証拠を見つけたかったのだ。

 背後で漫画雑誌を閉じる音がした。わたしは気にせずファイルに目を通す作業を続けようとしたが、

「わっ」

 後ろから突然抱きしめられて、開いていたページを見失ってしまった。

「千種あ。しよーぜ」

 わたしの腰に手をまわしつつ耳もとで都丸がささやく。明るいうちは漫画を読み、暗くなったら発情する男、都丸一志。

「悪いけど今、そういう気分じゃないの」

「いいじゃん。ケチ。俺ここんとこずっと我慢してたんだぞ」

「自業自得でしょ。自分のモノは自分で処理すれば」

「こら、女の子がそういう下品なことを言うんじゃない」自分から振っといて。「お前はぜんぜんわかってないんだ、健全な十代男子にとってそれがどんなにつらいことか。もっと男ゴコロについて勉強しないといかんよ」

「知らないわよ。なんで偉そうなのよ……ちょっ、んっ」

 腰にまわった手がブラウスの中に潜り込んでくるのでわたしは身をよじって変な声をあげてしまった。その拍子にファイルの山を倒して、積みあげたファイルが埃を立ててなだれ落ちた。

 ひょいっと腰を抱きあげられてもらわれてきたばかりの子猫みたいに都丸のひざに乗っけられてしまい、

「こらっ」

「千種あ。なあ、しよーぜ」

「馬鹿、もうっ……」

 まずい、これはいつものパターンだ。しよーしよーと耳もとで猫なで声を繰り返されるとついつい流されそうになる。我ながら腹立たしいことになんだかんだでわたしは都丸のこういうやり方に弱いのである。絶対にそれを知っててわざとやっている都丸は決して馬鹿ではないわけでそれがまた腹立たしい。

 床に崩れたファイルの一ページが視界の端にふととまった。

 そのページに見えた文字が、危ういところでわたしの理性を目の前の仕事に引き戻した。

「ストップ、都丸。タイム」

 腕を突っ張って都丸の膝の上から逃れ、ひざまずいたかつこうでわたしはそのファイルに飛びついた。「ちょっ……生殺し? なあ、生殺し?」泣き声混じりの都丸の声は完全に無視して、暗くなった部屋の中でその開かれたページを凝視する。

 見つけた。

 古池……。

 ……古池、すず

 一度ファイルをひっくり返し、ボール紙の背表紙の年度を確認する。二十四年前に入学した生徒の個人情報が綴じられたファイルだった。

 二十四年前……? 中途半端な数字がわたしの頭に混乱を生じさせる。

 しかし入学願書に添付されている、せたモノクロ写真の生徒の顔は──陶器の人形をほう彿ふつとさせる整った顔立ちの美少女は、確かに古池鞠子とそっくりだった。

 古池鈴子という名前で、二十四年前に入学した女子生徒。彼女が清水会館で焼身自殺したという人物? でも、二十四年前って? 新たに浮かびあがってきた数字にわたしはすっかりわけがわからなくなってしまった。鞠子の話がでたらめじゃないという証拠を見つけるどころか、まらないピースがさらに一つ増えてパズルが複雑になっただけ。

 背後でそうっとブラのホックをはずそうとする都丸の手だけは無言でひっぱたき落としておいて、わたしはただぼうぜんとファイルの中の少女の写真を凝視した。

 古池鈴子という名前の古池鞠子が、写真の中でいつものようににやにや笑っているような気がした。


    


 わたしは混乱していた。それでもこの時点でわたしはまだ鞠子の魔力にとらわれていて、ばらばらのピースを無理矢理にでも鞠子の話にあわせて嵌めこもうとしていた。

 鞠子に直接けばいいのだが、タイミングの悪いことに土日の連休に入ってしまったのでやきもきしながら二日間を過ごした。

 わたしと鞠子が親友であることは、たぶん間違いないはずなのだが、わたしは鞠子の家の電話番号すら知らなかったのである。貴重な週末にもかかわらず受験勉強はろくに手につかず(鞠子の魔力でもって刺激的な高校生活を手に入れたわたしは、いずれにしろこの頃、東京の大学に行くことに以前ほどの執念を持たなくなっていた。娘を東京の私立大学にやるつもりで働いてくれている両親にはまったくもって申し訳ないことだが)、月曜日が来るのを待ちわびた。

 月曜日の朝、登校してすぐに七組に鞠子を捜しに行ったが見つけることができないまま予鈴が鳴ってしまった。午前中のたるい授業をやり過ごし、四時限目終了のチャイムが鳴ると、八十円貸してという都丸の声と、あんたたちいつの間にヨリ戻したのというさっつんの声とを置き去りにしてわたしは早々にお弁当を持って教室を飛びだした。

 清水会館に向かう途中、昇降口前の廊下の自動販売機でイチゴミルクを買った。気がいていたにもかかわらずなんとなくこれだけは習慣で。取りだし口に落ちてきたピンク色の紙パックを拾いだしてから、少し考えて、もう一つ同じものを買った。鞠子のぶんも買っていこうと思って。

「ん……?」

 新旧二種類の制服に身を包んだ生徒たちが次第に増えて騒がしくなる中、昇降口の一番端のガラス扉からひょこりと入ってきた人影に注意を引かれた。制服ではなかったので自然と目についたのだ。

 戸惑いがちにきょろきょろしながら生徒用の昇降口でパンプスを脱ぎ、ストッキングのままで校舎にあがってきたのは、白っぽいサマーワンピースを着たきやしやな感じの女の人だった。年寄りではないが、そう若くはない。三十代か、ぎりぎり四十になるかどうかというところだろうか。

 どこかで会ったことがある気がした。テレビにでていた人とかかもしれない。テレビにでるような人がこんな地方の高校を訪問するとは思えないが。

 昼休みでざわつく生徒たちのあいだを女性は少し肩身が狭そうに抜け、しかし足取りは迷わずに西校舎のほうへと向かっていった。どう考えてもどこかで見たことがある気がして引っかかり、わたしはお弁当の包みの上に買ったばかりの二つのイチゴミルクを載せて、彼女のあとについていった。

 肌色のストッキングに包まれた細い脚が西校舎の板張りの廊下をぱたぱたと踏んでいく。少し距離をあけて彼女の後ろ姿を追いかけるうち、嫌な予感を覚えはじめた。

 大人なのに子どもっぽい、ふわふわと泳ぐような歩き方が、わたしが知っている人物を彷彿とさせたのだ。

 これ以上は追いかけないほうがいい。あの人の正体を知らないほうがいいとわたしは直感した。しかしわたしの足はわたしの警告に従わない。彼女の足取りに誘われるように、彼女の脚だけを視界に入れて廊下を進む。お弁当箱の上のイチゴミルクがぶつかりあってかすかにぱこぱこという音をたてる。

 彼女の脚が廊下を折れて階段をのぼっていったので、小走りになってわたしもあとを追った。階段の下から見あげると彼女の脚は踊り場を折れてさらに上へとのぼっていく。板張りの床をきしませながら、彼女のストッキングから半階ぶん遅れてわたしの上履きがあとを追う。

 三階についたところで彼女を見失った。しかしそのときには、わたしはもう彼女の行き先を予想していた。

 西校舎の三階の端、社会科準備室。

 引き戸が少しあいていた。無意識にお弁当箱を強く抱えなおして、わたしはそうっと引き戸の隙間に顔を寄せた。

 部屋の奥から若干めいりような話し声が聞こえてきた。

「びっくりしたよ。まさか君が来てくれるなんて」

「会わないでおこうと思ってたんだけど……やっぱり来ちゃったわ」

 一つは宮下先生の声、もう一つは女の人の声だ。どことなくぎこちない、わたしにはきっとまだ理解できないのであろう微妙な感情の揺らぎを帯びた、それはたぶん大人の会話というやつだった。

 わたしの嫌な予感はもう確信に変わっていた。

「鞠ちゃんがよく遊びに来てくれるよ」

「ええ。鞠子から聞いて。ぼやがあったって」

「ははは、なんだ、心配してくれるほどのことじゃなかったのに……」

 宮下先生の声が、彼女の名前を呼んだ。

「元気だった? 鈴子さん」

 ぱこん

   ぱこっ……

 お弁当箱の上から二つのイチゴミルクが滑り落ち、わたしの上履きにぶつかって間が抜けた音をたてた。