専有面積二十二㎡。八畳ワンルームにユニットキッチンを兼ねた心ばかりの廊下が附属。キッチンには蚊取り線香そっくりの電気コンロが一つ。必要最低限の狭さのユニットバス。五階建ての二階部分。築二十年だがリフォーム済みでそこそこの外観。一階にオートロックあり。最寄り駅から徒歩八分。コンビニまで徒歩二分半。

 これがわたしのお城である。わたしが自分のお給料で住んでいる、誰の支配下にも置かれていない、わたしだけのお城は良くも悪くもないありふれたマンションの一室だ。このお城を維持するためにわたしは月曜日から金曜日まで働いている。

 三泊四日の帰省を終え、連休の最終日、特急に二時間揺られて東京の自宅に着いたのは夜の八時を過ぎた時間だった。三日ぶりにかぎを使ってドアをあけると空気が少しよどんでおり、普段の会社からの帰宅時には気にならない自分の部屋のにおいを意識した。

 ボストンバッグを床におろし、帰りがけに寄ってきたコンビニの袋をテーブルに置き、携帯電話だけ充電器に載せたが荷物の片づけは後まわしにして、ベッドに倒れ込んでひと息。使われていなかった布団は冷たくてどことなく湿気ている。しかし枕に顔をうずめて自分の布団のにおいをぐと安らいだ。

 このまま眠ってしまいたい欲求に駆られつつ、少し休むとのろのろと起きあがってベッドを離れ、クッションの上に移動して夕食を済ませてしまうことにする。おかずを詰めてやるから持って帰れと母に言われたが荷物が増えるので断った結果、実家での甘えた生活から独り暮らしに復帰して最初の食事はコンビニ弁当になった。まあ毎食母親の手料理にあずかっていた味覚にはひさしぶりのジャンクフードもなんとなく懐かしくていいものだ。ちなみに普段のわたしの一週間の夕食は自炊が二日、弁当が三日、外食が二日といったところである。

 口を使って割りばしを割りながらリモコンに手を伸ばしてテレビをつけた。二巡ばかりザッピングしたがこれといって見たい番組はなかった。惰性でテレビはつけっ放しにしたまま、床に放りだしてあったボストンバッグを身体を伸ばして引っ張り寄せ、外側のポケットからピンク色の携帯ゲーム機をだす。特急の中でずっとぴこぴこやっていたので取りやすいところに入れていたのだ。

 テレビを垂れ流しながら右手でぼそぼそと弁当を口に運びながら左手に持ったタッチペンで携帯ゲーム機を操作。ながら食いの極致である。しかし二十四歳独り暮らしの夜の風景なんてこんなものではないだろうか。

 座布団がわりの大きなビーズクッションの上が、眠るときを除いてわたしの主な居場所だ。クッションの前にローテーブル。壁際のチェストの上にテレビとオーディオ機器がひととおり。化粧品の小瓶やCDケースや携帯ゲームのソフトがあいたところにばらばらと載っている。チェストの前には捨てそびれている雑誌の山(このせいでチェストの引きだしが一つあけられない。中に何をしまってあったか忘れてしまった)。それから寝床であるシングルベッド。八畳ワンルームの家財道具はだいたいそれくらいだ。服やバッグは備えつけのクロゼットに全部突っ込まれている。

 これが高校時代にあれほど憧れていた東京での独り暮らしのなれの果て。実に愛想のないものである。

 ああ、それからペットがいた。携帯ゲーム機の中で育てている、やんちゃな茶色いしばいぬ。名前は実は……イッシという。いや、このゲームをやりはじめたときはなんだかちょっと、わけもなく寂しい時期だったので、なんとなくこの名前をつけてしまったのだ。今は後悔している。それはそれとしてイッシはかわいい。わたしが呼ぶとすぐに寄ってくるし、物覚えがよくてもういくつも芸を覚えた。ときどき何日か世話を忘れても餓死することはない。信頼度のパラメータはさがるけど。

 イッシに餌をやり、はいせつの始末をし、タッチペンでぐりぐりとでてやり……そんなことをしているうちに弁当も食べ終えた。ちくわの磯辺揚げの脂っこさが口の中に残っているだけで味はぜんぜん覚えていない。

 空の容器をコンビニの袋に突っ込みなおしてクッションから腰をあげたとき、インターフォンが鳴った。

 こんな時間に誰だろう。新聞の勧誘かと一瞬思ったが、すぐに訪問者に思いあたった。

 思いあたったので無視した。

 インターフォンが二回鳴らされ、少ししてから充電器の上の携帯電話が着メロを歌いはじめた。インターフォンを二回鳴らし、応答がないと電話。いつものパターン。

「イッシ、お前の元ネタが来たよ」

 液晶画面の中の柴犬にそう話しかけてゲーム機を閉じ、着メロを歌い続ける携帯電話は放置したまま、財布だけ持ってわたしは部屋をでた。


 マンションの一階はオートロック式のガラス戸になっていて、中からでるぶんには関係ないが外から入るときには暗証番号が必要になる。上着をはおらずにでてきたので、ガラス戸があくと五月初旬の夜風が肌寒かった。

 入り口の脇にある植え込みの前にヤンキー座りしていた人影が顔をあげ、耳にあてていた携帯電話を閉じた。

ぐさあ、お前やっぱりいるじゃん。なんででないの?」

 携帯電話をジーンズのしりポケットに突っ込みながら文句を言う、見るからにフリーター然とした男は都丸一志。高校時代からの腐れ縁。

「不審者を家にあげたらいけないっておかーさんに言われたもん」

 しれっとしてわたしは答えつつ、三ヶ月半ぶりに会う都丸のふうぼうにちょっとあきれた。明るい色に脱色していた髪は根もとのほうがだいぶ伸びてきてプリン状態。バイトで力仕事をしているせいか以前よりもたくましくなったように見えるが、筋肉がついた以上にせたようにも思う。

 国立大学に受かった都丸とは進路は別々になったが同じ都内だったので、高校時代に引き続きつきあったり別れたりを繰り返していた。しかし結局四年間都丸の浮気癖は治らず、同じ大学やサークルの女子大生にしょっちゅう手をだしていたので、四年の夏に今度こそ引導を渡してやったのだ。

 その都丸は大学卒業直前に突然役者になると言いだし、内定を飛ばして劇団の養成所に飛び込んだ。せっかくいい大学をだしたのに就職もしないでと親御さんは嘆いていたものである。昼間は劇団のけい、夜のバイトで食いつないでいるが、どうしても生活に窮するとわたしのところにヘルプを請いにやってくる。親の希望をまずに収入不安定な道を選んだ以上は親に心配はかけたくないという孝行心のようだがわたしに心配をかけるぶんには良心は痛まないということか。

 都丸は実家の親御さんとほとんど連絡を取らず帰省もしていないので、都丸のお母さんからときどきわたしのところに息子の近況をたずねる電話があるくらいである。「いづみちゃん、ご迷惑でしょうけど、一志のことどうぞよろしくね」とわたしは都丸のお母さんに頼まれている。自分の親ではないものの郷里のお母さんに心配をかけるのも心苦しいのでわたしは「迷惑なんてとんでもないです」とついつい請けあってしまっている。どうしてもわたしはこの男とは縁を切れない運命らしい。

「十年来の恋人を不審者呼ばわりとは、ひどい女だなあお前」

「わたしたち今、恋人でもなんでもないじゃない。だいたい三ヶ月半もおとなしでひょっこり連絡してきて金貸してなんていう男が不審者以外のなんなのよ」

「三ヶ月半もたってたっけ?」

 ……これだ。連絡がないあいだ生きてるのかのたれ死んだのかとわたしがどんなに気をんでいるかも知らずにこいつは自分の稽古やバイトでいっぱいいっぱいのあいだはわたしのことなんか何ヶ月でも忘れていられるのだから。

「あっちどうだった?」

「変わってないよ。あ、まるまえベーカリーがつぶれてた」

「まじで?」

 丸前ベーカリーは高校の近くにあったパン屋で、昼休みには昇降口の前にワゴンをつけてパンを売っていた。わたしも都丸もたいへんお世話になったパン屋だ。だいぶ高齢のおじいさんが一人でやっていたので店をたたんだのだろうか。わたしたちの在校中は一日も欠かすことなく来てくれていたものだが。

「そっかあ。とうとうあのじいさんくたばったのかなあ」

「そういうこと言わないの。で、いくらいるの?」

 単刀直入にわたしは切りだした。今さらオブラートに包む関係でもない。

「一万、いや、できれば二万。月末のバイト代入ったら返す」

 ぱんっと両手をあわせて拝む都丸。わたしは財布から諭吉さんを二枚引き抜き、頭をさげた都丸のおでこにぺしっと張りつけた。「へへぇ」とささげ持つみたいにして都丸がそれを受け取る。

 返済は期待していない。都丸は借りた金をふんだくるような人間ではないが、何日もろくに食べないまま夜間のバイトでくたくたになって徹夜で稽古に行こうという朝にほうほうていでなけなしのバイト代を持ってこられたところで受け取るこっちの心が痛む。結局「そのお金でご飯食べて電気代と水道代を払いなさい」と言ってしまうわたしである。

 こんなぎりぎりの生活が長続きするわけはない。役者の夢なんていうのも突発的なものですぐに飽きるだろうと踏んでいたのだが、意外にも二年以上続いているのには感心しないでもない。よく頑張ってるなあ。

 駄目だ、こいつの顔を見ていると情がわいてしまう。

「用が済んだら帰ってよ。わたし明日仕事だし、お入ってもう寝るんだから」

「おおい、もうちょっとこう、積もる話とか」

「君と話すことなど別にありません」

「なんでそんなにつんけんしてんの? 生理? つわり?」

「バーカ。高校生みたいなこと言うな、エロ」

「コーコーセイ。あー俺、高校んときそんなことばっか言ってた。今も言ってるけど」

 わたしの冷たい切り返しに都丸は素直に納得なんかして楽しそうに笑う。都丸のそういう無邪気なところがなんだかわたしをもやもやした気分にする。うまく言えないけれど、わたしの中にだけうつうつとした醜い何かが積み重なっていく気がして。

 都丸は高校時代からぜんぜん変わっていない。お調子者でマイペースで素直で(素直すぎてちょっとかわいい子を見つけるとふらふらと寄っていってしまうところも含めて)、いまだに純粋な少年みたい。大人としては間違いなくかなり駄目なほうなのだけど、わたしはそれをうらやましいと思ってしまう。そしてわたしだけが一年一年確実に歳を取っていくのを実感させられるのが、すごく嫌だ。

「……あのさ、もううちに来るのは最後にしてよ。お金いるなら電話してくれればどっか外で会うし」

 我ながら苦い顔をしていたと思う。わたしがそう切りだすと、都丸は笑顔のままきょとんとして目をしばたたかせた。わたしは居心地の悪い思いで視線をらす。

「わたし今、いいなって思ってる人がいて……会社の人なんだけど。つきあうかもしれない、んだよね。だからあんたに家の前まで来られるのとか、迷惑だし、相手にも悪いし」

「ふうん……?」

 都丸の声の調子から笑いが消えた。わたしは目をあわせられない。

 マンションの前の夜道を通る人影はなかった。会話が途絶えると一本向こうの大通りの交通の騒音が少し大きく聞こえてくる。

 都丸はなんて言うだろうか。他の男とつきあうくらいならヨリを戻そうって、もし言ってきたら……わたしはなんて答えるだろう。

「うんまあ、それもいいんじゃね?」

 都丸のリアクションはあっけらかんとしたものだった。自分のこめかみがプチンと音を立てるのを聞いた気がした。

「はあ?」

 思わず半ギレでわたしがき返すと都丸は何やら小難しい顔で腕組みをしてうんうんうなずいたりする。馬鹿かこいつは。いや昔から馬鹿だというのは知ってるけど。

「他の男とつきあってみるのも悪くない。お前そういうとこ、今までちょっと真面目すぎたもんな。でもお前は最後はやっぱり俺んとこに帰ってくると思うけどな」

「あんた馬鹿でしょ? ふらっと他の女のとこに行っては結局わたしんところに帰ってくるのはいっつもあんたのほうでしょうが。あんたがわたしに貧乏神みたいにへばりついてるんじゃない」

「でもさあ、それは千種が俺がいないと駄目だから」

「何その寝言。いっぺん死ね。ていうか生命保険の受取人わたしにしてから死ね。誰のおかげで今まで生き延びてこられたと思ってんの。きようもとさんはあんたよりずっとしようあるし定職ついてるしお金も将来性もあるし優しいし、浮気とかぜったいしないし、いい人だし……」

「千種、声、マンション中に聞こえてるぞ」

 冷静に指摘され、げつこうしていつの間にか大声になっていたわたしははっとして口をつぐんだ。背後の自分の住まいを振り返ると、並んだ窓のカーテンの隙間から何ごとかとのぞいている顔が二つ三つ。

 顔がかあっと熱くなった。

「とにかく、そういうことだから」

 びしっと都丸に人差し指を突きつけて、

「もう来ないでよ。それからバイトで怪我とかしないように。あんた健康保険入ってないでしょ。病院にでもなったら洒落しやれにならない自己負担食らうわよ。それから夜は抜いても朝と昼はできるだけ食べなさい。倒れたらもとも子もないんだから。ラーメンの汁をとっといてね、朝あっためなおしてご飯と卵入れると手軽だし美味おいしいし腹持ちするから。それから、それから……」

 きびすを返してオートロックをあける。暗証番号を押し間違えて手間取った。二度目の入力でがちゃんと音がしてガラス戸のかぎがあく。

「おやすみ」

 勢いにされてぽかんとした顔で突っ立っている都丸に最後にそう言い残し、もう二度と振り返らずに走って二階の自分の部屋に戻り、ベッドに潜り込んでそのまま寝た。

 まずい、メイクを落とし忘れた。明日のお肌が荒れてしまう。


    


 朝七時十五分起床。八時に家をでる。十三階建て自社ビルの四階にあるロッカールームまでは徒歩と電車とエレベーターの待ち時間をあわせてきっかり三十五分。通勤ラッシュで痴漢に遭遇したことは過去に二度。

「おはよう」

「おはよ。連休どうだった?」

「大学の同期の披露宴が二つもあってさあ」

「眠ーい」

 制限時間は十五分。続々と出勤してくる女子社員たちが朝からだるい会話を交わす中、制服に着替え、ロッカーの鏡で髪とメイクをチェックする。


「知ってる? 経理のむらさん、今月いっぱいで辞めるんだって」「なんで?」「結婚」「ほら、広報室のかみさんと」「まじで?」「結婚?」「次は誰かなあ」「三上さんかあ。わたしはパスだなあ」「千種」「誰?」「営業の京本さんといい感じだって」「京本さんってあの?」「えー、素敵だよね、京本さん」「うんうん」「うそ、京本さん、わたしも狙ってたのにぃ」「だから誰?」「千種」「千種いづみ。総務の」「誰それ?」


 ……わたしだよ。

「う……キツイ……」

 制服のスカートのファスナーがウエストのお肉に微妙に引っかかってわたしは朝から大きなショックを受けた。連休中実家でごろごろしていても勝手にご飯が用意されてくる幸福に甘えていた報いか。今日はランチを抜こうかなあ。昨夜ゆうべ都丸に口酸っぱく言っておいて自分に関してはそんなことを考える。

 事務職の女子社員の制服は紺のベストにひざたけのタイトスカートという、ファッションはあきらめろと言わんばかりのあまりにもスタンダードなものだ。この制服に濃いメイクが似合わないこともあり、学生時代よりも自然と薄化粧になった。高校時代あれほど執着していたアイメイクもごくごく控えめで、髪も落ち着いた茶色にしかしていない。昨夜メイクを落とさずに寝てしまったのでどことなく肌がくすんでいる。二十四歳はお肌の曲がり角って言うし。

 ロッカーの鏡に映るのはいっそ標本にして博物館に飾って欲しいくらいの〝正しいニッポンのOL〟が具現化したものだった。地味、平凡、無個性の三拍子。昔の自分は意固地なくらいに頑張って〝自分〟を主張しようとしていなかっただろうか。いつの間にかそんなのは面倒になってしまった。

 八時五十分、始業。わたしの勤め先は製薬メーカーだが、総務部所属のわたしの仕事に会社の業種はほとんど関係がない。ルーチンワークとたまに差し挟まれる雑用で一日が過ぎる。

 わたしの主な担当業務は就業管理。全社員の出退社時間、休暇、欠勤、残業時間、休日出勤などのデータを管理集計し、給与を算出して経理の担当者にまわす。出退社時刻は各フロアのオフィス入り口にある読み取り機にIDカードを通すことで記録され、わたしはそのデータをパソコンで管理する。だいたいそんな感じだ。全社員の勤務状況、遅刻が多い社員、残業が多い社員なんかもだいたい把握している。

 外注スタッフや同じビルに出入りしている関連企業の社員を除いた全社員、約千五百人の人間の流れを、人間としてではなく単なるデータ上の数字としてわたしは眺める。たいていは何も感じることなく、アリんこみたいな人類の愚かな営みを天上からただ無感情に眺める神さまみたいに。

「あれ、京本さん、連休も出社してたんだ……」

 たまには感情が動くこともある。データ上の数字がひょっこりと肉体と体温を持った人間の形になる。

 営業部営業一課、京本ひろゆき。五月一日と三日にも出社記録がある。仕事が残っていたのだろうか。連休明けに社内プレゼンがあるってそういえば言っていたっけ。たいへんだなあ。なまじ仕事がデキる人だから余計に仕事をまわされちゃうんだよな。自分が実家でごろごろしながら携帯ゲーム機のしばいぬに「オテ」とか「フセ」とかのコマンドを教え込んでいるあいだ、ひとのないオフィスのぽつんと一つだけともった蛍光灯の下で缶コーヒーを脇に置いてパソコンに向かっている背広の背中が脳裏に浮かんだ。

 私物の携帯電話がバイブでメールの着信を知らせたのは午後三時を過ぎた頃だった。明確に禁止はされていないが勤務時間中の私用のメールはもちろんあまりよろしいことではない。隣のデスクの先輩社員が離席しているのを見計らって手早くメールを確認した。

 京本さんからだった。

 ──プレゼン成功。今日は早くあがれそうです。食事どうですか?

 そんな文面が、絵文字や顔文字を使わずに、けれどぶっきらぼうな感じもしない誠実な言葉でつづられている。一行あけて最後に打ち込まれていたひと言に、思わず頰の筋肉がゆるんでしまった。

 ──ひさしぶりに顔が見たいです。

 京本尋之とはこういう台詞せりふを軽薄っぽくもなくナチュラルに言ってしまう人である。

 ランチはおにぎり一つで済ませたし、夜はちゃんと食べてもいいかなあという日和ひよった考えにもとづいて「OK」の返事を打ち込んだときちょうど先輩が戻ってきたので慌ててメールを送信し、携帯電話をデスクの引きだしに突っ込んだ。

 先輩が隣のデスクに座った瞬間、香水のつんとしたにおいが鼻をついた。トイレに行くたびに香水をつけなおしてくるこの人はおおさんという。歳は三十をいくつか過ぎたところ。事務職の女子社員としては古株で、古い言い方をするとおつぼねさまというやつだ。

 わたしは彼女が好んでつける香水のにおいが嫌いである。微妙に鼻をゆがめつつそそくさと仕事に戻り、バインダーに書類をじようとしたとき、ばちっと金具がねて指を攻撃した。

たっ」

 つい声をあげてしまったわたしに大野さんが反応した。

「どうかした、千種さん」

「あ、いえ、挟みました、だけです」

 彼女と話すときわたしは妙にしどろもどろになる。蛇ににらまれた蛙というか、これはもう仕方のないことで、どうにも彼女とは生理的に相性が悪いのである。正直言ってわたしは彼女が苦手だし、彼女のほうも間違いなくわたしのことが嫌いだ。

 左手の親指の爪が割れてしまった。今朝ネイルを塗りなおしたばかりだったのに。ウエストはきついわ肌の調子は悪いわ、連休明け初日からついてない。

「はい、これ。あげるわ」

 と、大野さんが自分のポーチからばんそうこうをだして渡してくれた。わたしが目を白黒させているうちに大野さんはもう自分のパソコンに向きなおっている。

 彼女がわたしに親切にしてくれるなんて、明日は雪が降るのではないだろうか。それとも彼女はわたしが思っているほどにはわたしのことが嫌いではなかったりして?

 まだぽかんとしているわたしを大野さんが横目でうっとうしそうにいちべつして言った。

「その爪、伸ばしすぎなんじゃない? そんなんじゃ業務の邪魔になるでしょう。社会人としての自覚が足りないんじゃないかしら」

 やっぱりわたしは彼女が苦手で、彼女も間違いなくわたしのことが嫌いである。


    


 京本尋之さんと親しくなったのは、年度末が近い今年の二月。会社の経費削減運動の一環で、就業担当であるわたしは総務課長の補佐として、残業が極端に多い社員にヒアリングするという任務を仰せつかっていた。営業一課の京本さんの残業時間はその頃月間百時間に達していたので文句なくヒアリング対象になった。

 わたしのどこを気に入ってくれたのか、その後京本さんのほうから話しかけてくるようになり、今までに四、五回食事や映画をご一緒している。今のところはそのくらいの関係だ。

 わたしよりも四期上の二十九歳。関西の有名大学出身。中部地方の雪国育ちのわたしにとって関西といえば修学旅行で訪れた京都・奈良がすべてだ。

 渋谷の創作イタリアンのお店に夜七時に予約を取ってあり、わたしたちは七時きっかりに店に入った。わたしがおまかせすると京本さんが手際よくワインと料理を注文し、わたしにあわせて京本さんが選んでくれた飲み口の軽い白ワインで乾杯し、前菜から順に料理が運ばれてきた。いくらくらいするコースなのだろうと一瞬頭をよぎったが気にしないことにした。京本さんのお給料はわたしのお給料よりずっといいのである。仕事柄わたしは京本さんが毎月もらうお給料をおおむね把握してしまっている。

 一緒に食事をする女性に財布の実態を把握されているというのは嫌なものなのではないかと思うが京本さんはあまりそのへんを気にしないようだ。仕事に関してやこういうデート(になるのだよな、やっぱり一応、たぶん)のセッティングには非常にちようめんなのに、性格そのものはけっこう大ざっぱでおおらかな人なのだ。取りたててかつこうつけてるふうではないのにナチュラルに恰好いい。スーツやネクタイ、靴やかばんのセンスもとてもよく、社内で男性社員の人気投票をやったとしたらかなり上位に食い込むことは間違いない。話し方も物腰も柔和な感じで人柄のよさがうかがえる。

 そう、京本さんはたいへんよくできたオトナの男性なのだ。都丸と違って!

 この京本さんが現在フリーというのは不思議なことだが、去年までは仕事に夢中で彼女を作るタイミングを逃していたのだと京本さんは笑って言う。入社七年目、仕事が少し落ち着いて心に余裕ができてきたところに、入社以降同じくフリーであったわたしがちょうどお目にとまったのであった。わたしはたいへん幸運なシンデレラガールだったのだ。

「京本さんって、関西なのにぜんぜんなまってないよね」

「もうこっちに来て七年だからね。でもあっちの家族や友だちと電話してるといつの間にか関西弁丸だしになってるよ」

「へえー。わたしも帰省するとちょっと訛りがでるかもなあ」

「いづみちゃんは長野だよね」

「うん。田舎だよ。なんにもないところ」

 京本さんはわたしのことをいづみちゃんと呼ぶ。高校の頃からみようのほうで呼ばれることが多かったので、下の名前で呼ばれるのはくすぐったい。

 京本さんは先輩だが気兼ねがいらない人なのでわたしは普通の言葉遣いで話している。大野さんが聞いたら例によって〝社会人の自覚が足りないんじゃないかしら〟とまゆをひそめるのは間違いない。

 食べ物のこと、最近見た映画やテレビ、音楽のこと──食事を進めながらなごやかに会話ははずみ、ワインも美味おいしくてわたしはほろ酔い気分になってきた。カボチャのコールドスープもキャビアのパスタもブロッコリと白身魚のタリアテッレも美味しかった。メインディッシュの牛フィレ肉のロースト、オレンジソースも。

 都丸に食べさせてやりたいなあとふと考えてしまった。こんな分厚くてやわらかいお肉、きっとあいつは何年も口にしていないだろう。あいつにとって牛肉イコール三百円そこそこの牛丼ではないだろうか。

「いづみちゃんには話すけど、俺、本当はハンバーグとかオムライスとか、子どもの頃好きだったもののほうが今でも好きなんだよなあ。こんな洒落しやれた店に連れてきておいて、こんなこと告白するのもなんだけど」

 照れくさそうに苦笑する京本さん。わたしもそれには即座に同意する。

「それ、わたしも。どっちかっていうと庶民的なもののほうが口にあうんだよね」

「それは奇遇だね。ラーメンなんかはどう?」

「ラーメンも大好きだよ」

「ほんと? じゃあ今度はラーメン食いに行こうか。うまい店があるんだ。俺、雑誌のラーメン屋特集なんか見ながら店をハシゴするのが実は好きでさ。最近はやってないけど、学生時代は京都のラーメン屋制覇を目指したりとかね」

「ラーメン屋のハシゴ、わたしもやってみたかったんだあ」

 流れるように会話ははずむ。京本さんはわたしにとってとても居心地がいい人だ。話していて楽しいし疲れないし安らぐし、気を遣わなくていいし、なんでも同意してくれる。映画や音楽の趣味もぴったり。わたしたちってすごく気があう。波長があいすぎて、ゆらゆらしたぬるま湯にかっているみたいに気がゆるむ。なんでも受け入れてくれるから、いらいらすることも気をむことも胸が詰まるようなこともない。

 京本さんはいい人だ。

 だからほら、京本さんにしておけ。なんの問題がある? 何もない。京本さんとだったらこれからもずっとこんなふうに心安らかに過ごせるだろう。京本さんにしておけ。

 ほろ酔い気分でにこにこと笑いながら心のどこかで冷めている自分に向かって、わたしは繰り返し言い聞かせていた。


「どうもありがとうございました。すごく美味しかった」

 帰りはタクシーでマンションの前まで送ってもらい、わたしはお礼を言ってタクシーを降りた。後部座席の窓から京本さんが顔をだし、

「どういたしまして。次回はラーメンでディナーにお誘いしてもよろしいでしょうか?」

「ええ、ぜひ。よろこんでおつきあいしますわ」

 気取った誘いに冗談めかしてわたしも答える。

 まだ少し早い時間だ。こういうときって部屋に誘ったほうがいいのだろうか。短い別れのやりとりのあいだにわたしの頭は忙しく働いていた。よかったらあがっていきませんか。コーヒーでもどうですか。なんて、露骨な誘惑と受け取られるだろうか。でも京本さんももしかしたらわたしの誘いを待ってたりして。京本さんは紳士だから部屋にあがったからっていきなり何かしてくるとは思えないが、雰囲気によってはそういうことにならないとも限らない。ああ待て、しまった、今日の下着は上下ばらばらだ。考えてみるとそれ以前に部屋が汚い。帰省の荷物もまだ片づけてないし昨夜ゆうべのコンビニ弁当のゴミなんかそのへんに置きっぱなしだ。これは最悪である。

 挙動不審気味に視線をさまよわせたとき、マンションの入り口付近に人影が見えた。植え込みの陰にしゃがみ込んでいる、あきらかな不審者。

 あいつ、もう来るなって言ったのに。昨日の今日でまた来たのか。

「いづみちゃん?」

 京本さんの不思議そうな声で、鬼のような顔で植え込みをにらんでいたわたしは我に返って慌てて強張った頰をやわらげた。

 京本さんと都丸を鉢あわせさせるわけにはいかない。これだけは何がなんでも。

「ごめん、なんでもない。酔っぱらっちゃったから、早めに寝るね。おやすみなさい」

 作り笑いを頰に張りつけて苦しい言い訳をする。部屋に誘われなかったことについて京本さんは気を悪くしたふうもなく、

「うん。おやすみ。明日メールするよ」

 と、人のいい笑みでこたえてタクシーの窓を閉めた。やっぱり京本さんは紳士の中の紳士だ。

 ウインカーをだして走りだすタクシーをわたしはてろてろと手を振って見送り、テールランプが夜闇の向こうに消えてから、さて、とあらためて鬼の顔を作った。まっすぐマンションの入り口には向かわずに気配を潜めて植え込みの裏にまわり込み、

「都丸、あんたねえ」

 不意打ちのわたしの声に、植え込みの陰にしゃがんでいた人影がぴょこんと跳びあがって振り返った。

 続く台詞せりふをたたみかけようとしてわたしは絶句した。

 てっきり都丸だとばかり思ったその人影は、

「……まり……?」

 ほんのりとチークを乗せただけでも十分に映えて見える、毛細血管が透けるくらいの白い肌。マスカラなんて使わなくても長く豊かなまつ毛に黒目がちのひとみ。グロスをたっぷり乗せたみたいに自然なつやと色味を帯びた唇を笑みの形にして、高校卒業以来だというのにそのブランクをつゆほども感じさせない、先週借りたDVD返しに来たよおとでも言いだしそうなやすさで、彼女は言った。

「遊びに来たよお、千種」


 わたしの部屋にあがり込むなり鞠子は「おお、たいへんスタンダードなお部屋だね」と素直な感想を述べ、えらく巨大なトランクをどかっと床に降ろすとこの部屋の世帯主、つまりわたしの指定席であるビーズクッションを陣取ってくつろぎはじめた。

 スタンダードな部屋ですみませんねとわたしは胸中で毒づきつつ、別にもてなしてやる義理もないのだが自分と鞠子のぶんのコーヒー(インスタントだけど)を用意して、ローテーブルの斜め向かい側に座った。なんでお前が女王さま気取りでクッションの上でわたしが床に正座なのだ。

「なんでうちがわかったの?」

「千種んちに電話したら、お母さんが教えてくれたよ」

「だからっていきなり来なくても、携帯に連絡とかしてくれればよかったのに」

「いきなり来たほうがびっくりするでしょ?」

「そりゃあびっくりしたよ」

 不機嫌な声を作ってわたしは言う。そんなわたしの態度を鞠子は気にしたふうもなくビーズクッションに身体を沈めて自分の家みたいにすっかりリラックスしている。

 わたしは鞠子の意図を測りかねていた。

 七年前に何があったか、鞠子だっておぼえていないはずはない。それが今さら親友面して訪ねてくるなんて、どういうつもりだ。

 不審な点はもう一つ。鞠子の身なりは嫌にけばけばしかった。季節はずれの革のコートはなんの動物かわからないが上等そうだし、ハンドバッグもトランクも有名なブランド物。きやしやな手首にまっているリストウォッチはわたしのそれとはゼロの数が二つ三つ違いそうな、たぶんブルガリ。じゃらじゃらした金のネックレスは彼女の首が折れそうなほどに重たげでアンバランスなことこのうえなく、真っ赤な丸い石がついたぶかぶかの指輪もそう。どっちかというと下品な方向に派手なおばさんがつけるようなやつで、鞠子にはまったく似あわない。

 そのくせクッションから投げだされた細い脚を包む黒のストッキングはつま先からふとももまで盛大に伝線していた。ごくナチュラルな化粧と高級ブランド品ばかりの所持品とのバランスも悪く、どう見ても持ち慣れていない。見てくれだけ豪華に仕立てあげようとして失敗しちゃった見本みたいである。

「おお、これ持ってるんだ。いいなあ。今手に入らないんだよね」

 鞠子がテーブルの上の携帯ゲーム機に目をつけたので、

「あっ、これはだめ」

 危うく鞠子よりも先に引ったくってチェストの引きだしに突っ込んだ。「さわらしてくれてもいいじゃん。つまんないの」と鞠子が口をとがらせる。だってこの中で飼っているしばいぬイッシを見つかるのはなんとなく恥ずかしい。

「ねえ、今日泊まってもいい?」

「どうしたのよ、あんた。今何してるの?」

「ああ、ダイジョーブよ。歯ブラシもパジャマも持ってるから。お気遣いなくね」

 会話のキャッチボールをしようという気がないのか。床に手をついてトランクを引っ張り寄せ、すでに泊まる気まんまんで洋服や小物がぎゅうぎゅうに詰まった荷物を引っきまわしはじめる鞠子。

「鞠子、いいからとりあえずここに座りなさい」

 語調を強めてテーブルの表面を平手でたたくと鞠子はぴたっと動きをとめた。何やら深刻な顔になってわたしの顔をのぞき込み、

「千種、お母さんの声に似てきたね」

 わたしは一瞬ぐらりと斜めになった。

 そ、そうなのだろうか。それはだいぶ、ショック、かもしれない。

 気を取りなおして身体をまっすぐに立てなおし、

「……あんたは変わってないよね、鞠子」

「マイ枕もちゃんとあるよ。枕が変わると眠れないのよね、わたし」

 やっぱり会話は成りたたず、どうやって中に収まっていたのやら鞠子は続いてトランクの底から羽根枕を引っ張りだす。ひらひらレースの枕カバーの隙間から、ばさばさと音を立てて紙切れが舞った。

 わたしは目をみはった。

 紙幣だった。新札ぴんぴんの諭吉さんが大量に、鞠子のマイ枕カバーの隙間からでてきたのである。

「あら」

 などと言っただけで鞠子は平然として紙幣を搔き集め、ぞんざいな扱いでトランクに放り込んだ。驚いたことにトランクの荷物の隙間にはまだまだ大量の紙幣が埋まっていた。

 うろんげなわたしの視線に気づくと鞠子は笑って紙幣を数枚、無雑作な手つきでつかんでみせ、

「お金はあるのよ。さんぜんまんえんもあるの。けっこう使っちゃったけど、まだまだたくさんあるからダイジョーブ。千種に迷惑はかけないわ。そうだ、明日買い物に行こうよ。千種が欲しいものなあんでも買ったげる。千種もこんなの、欲しい?」

 細い指にはまった不釣りあいにどでかい指輪を悪戯いたずらっぽく掲げてみせた。

「わたしは明日も仕事だってば」

 自分の日常とはあまりにかけ離れた大金にくらくらしてきながらわたしは努めて冷静に答える。鞠子のおかしなかつこうはそのお金で豪遊した結果なのかと納得が行った。伝線したストッキングをいちだんとみすぼらしく、まるで落ちぶれた風俗嬢みたいにみだらに見せてしまう、彼女には似あわないコート、バッグ、時計、アクセサリ……。

「そんなお金、どうしたのよ。三千万って……」

 自然と低く慎重な声になってわたしが問うと、鞠子は枕と札束を床に降ろした。

 彼女の顔からいつとき、それまでの無邪気な表情が消え、

「人を殺したの」

「……え?」

 わたしは返す言葉を失って彼女の顔を見返した。

「人を殺して、お金を盗んだの。だから千種、しばらくかくまってくれるわよね?」

 表情を消した深紅の唇の両端がりあがり、にやあっとしたあやしげな笑みを作る。すべてをみ込むブラックホールのような、深い深い闇を宿した彼女の瞳がその強烈な引力でわたしを捕まえようとする。

 計ったように窓の向こうで遠くパトカーのサイレンが聞こえはじめた。フラットなサイレンの繰り返しが三半規管を狂わせて、距離感の摑めないゆらゆらとした感覚にわたしを引きずり込んだ。


 女どうしとはいえシングルベッドに大人二人は狭い。あっちを向いてもこっちを向いても体勢が落ち着かなくてわたしはなかなか寝つけなかった。

 一方の鞠子はと言えば、持参した羽根枕に頰をうずめて平然と寝息をたてている。カーテン越しに射す青みがかった街灯りが彼女の白い顔をいっそうあおじろく浮かびあがらせている。陶器の人形みたいに端整で、そしてな寝顔だった。これが強盗殺人を犯して逃亡中の犯人の寝顔だろうかとわたしはめ息をついた。

 あがりのまだ少し湿った髪からシャンプーの香りが漂い、自分が使っているシャンプーはこんな香りだったのかと普段気にもとめていないことに気づかされた。ファンデなんかつけたこともないんじゃないかという肌のきめの細かさが近くで見るといっそうはっきりとわかる。わたしなんかコンビニに行くときですらすっぴんでは気後れするというのに、そんな悩みなんか鞠子は感じたこともないのだろう。くそう。うらやましいぞ。

 高校を卒業して地元をでてから、七年たつのだ。

 わたしは東京で独り暮らしをはじめて、大学時代には恋愛も一つ二つは経験して(もちろん都丸以外にだ。しかしどれも長続きしなかった)、大学を卒業して就職して三年目になる。あれほどあこがれていた東京暮らしにもすっかりんで、刺激を感じることもなくなった。大人になったのだ。それに比べて鞠子のねたましいほどにあの頃と変わっていないことといったら。外見はもちろん自由奔放で昔とぜんぜんペースが変わっていないところも。

「ふう……ん……」

 つやを帯びたあかい唇から愛らしい寝息が漏れる。

 馬鹿だなあ、鞠子は。

 自分が変わっていないからって、わたしまでまだ昔と同じだと思っている。わたしは大人になってしまったのに。

 寝返りを打ってわたしは鞠子に背を向けた。鞠子はともかくわたしは明日も仕事だ。

 目を閉じているとそのうちにわたしも眠りの底に落ちていった。