「十七年前に、わたし、一度死んだの。センセのせいで」

 彼女は言った。

 高校三年、五月。比較的寒冷なこの地方にもようやく遅い春が来たところだというのに気の早い夏の虫が頭の上で盛大に鳴いていた。「せーよー、ふぁーい、おー、せーよー、ふぁーい、おー……」野球部のランニングの変に間延びしたかけ声がグラウンドのほうから聞こえていた。

 せっかく頭に詰め込んだ英単語も日本史の年号も、虫の声と野球部のかけ声との奇妙なハーモニーであやふやになり、そして最後に彼女の唐突な告白がどかんと大砲に乗って突っ込んできてすべてを頭の中から吹っ飛ばしてしまった。

 放課後の雑木林に射すれ陽が彼女の頰の片側に焼けただれたような模様を作り、長いまつ毛がくっきりと影を落として彼女のひとみをいっそう深い漆黒に沈ませていた。彼女の瞳の引力に捕まってわたしは視線を引きがすことができなかった。

 死人のようにあおじろい肌、黒い瞳、まっすぐ伸ばした漆黒の髪、濃紺と白だけで構成される制服──そんな彼女の容姿の中で唯一彩度のあるもの、血の色のようなあかを帯びた唇の鮮やかさが際だっている。

 その唇から紡がれた〝死〟という単語は、不吉な予感と同時に不思議と甘美な響きを持ってわたしの耳に強く残った。


    


 当初、わたしとまりにはなんのつながりもなかった。わたしは四組で、ちょっと派手めではあるがべつだん話題性のある女子生徒ではなかった。

 一方で、二年の終わりに七組に転校してきた古池鞠子は、そのお人形さんみたいな端整なぼうと地元に染まっていないあか抜けた雰囲気でもって転校早々から校内でけっこうな有名人になっていた。

 そしてこれは風の噂に聞いた話だが、古池鞠子には複数の男子をたぶらかしているとか既婚の男性教師と不倫しているとかいう悪評もあった。その点でのみわたしは少し彼女を警戒していた。つまり、都丸一志が噂の美少女転校生にちょっかいをだしやしないかと。

 同じクラスの都丸一志はその頃わたしの延べ七人目の彼氏であり、実質的には一人目の彼氏であった。ようするに六度別れて七度目のつきあいをはじめたところだったのだ。都丸にとってわたしが何人目の彼女になるのかは知らない。少なくともわたしと六度別れるあいだに都丸の戦歴には三、四人の女子が増えたようだ。都丸一志はそういう男だった。

 しかしさすがの都丸も古池鞠子には〝何か違う〟というオーラを感じたらしく、つばをつけようとしなかった。自分の手に負える女ではないときゆうかくで感じ取ったのか、感心していいのやら知らないがそのへんの感覚においては都丸は身のほどをわきまえていた。

 とにかくそういうわけで、古池鞠子は田舎の高校生であるわたしたちとはどことなく住む世界が違っていて近寄りがたい存在だった。それにわたしだって自分のことに精いっぱいで、離れたクラスのちょっとかわいいことで有名な転校生に関心を向けている暇もそんな理由もなかった。

 自分のことというのはたとえば、三、四限の合同体育が終わったあとの昼休み、化粧なおしに精をだすことであった。

ぐさあ、食い物あまってないぃ?」

 死にかけの坊さんのきようみたいな哀れっぽい声とともに背後からしがみつかれてわたしはぎゃあっと声をあげた。真剣に塗っていたアイラインが盛大にはみでてしまい、

「ちょっとお、バカ都丸」

 ひじ打ちを食らわせて突き放しておき、ぶうたれながらメイク落としではみでたアイラインをき取りにかかる。床にへたばった都丸一志が「食い物……死ぬ……」とひもじい声で訴えてくる。

「まだパン売り切れてないんじゃないの? 買ってくればいいじゃん。わたし今日お弁当だから、あまってないよ」

「金がありません」

「八十円恵んであげるから、あんパンを買っておいで」

「もう一歩も歩けない」

「……」

 床にほっぺたをつけてぐずぐず言う都丸にわたしはあきれてもう同情する気にもならない。

「都丸、わたし、パン半分残したからあげようか?」

 席をくっつけてお昼をともにしていたさっつんが見かねて救いの手を差しのべた。さっつんはわたしと同じくメイクに執念を燃やす少女であり、一年のときからよく行動をともにしている気があう友人だ。

「さすが俺のさっつん。天使みたいな子だ。愛してる」

 恵んでもらったクリームパンにかぶりつきながら都丸は調子のいいことを言う。誰がお前のさっつんだ。お前の彼女はわたしだろうが。

 都丸一志は八方美人のお調子者であり、それでいてどうにも憎めない奴という天性の才能でもってさっつんを含めクラスの女子にけっこう甘やかされている。正直に言えば、他の女子にづけされるというのは〝彼女〟であるわたしにとっては気分のいいことではない。もちろんそれでさっつんとの友人関係にひびが入るということではないのだが。

「女子はいいよなあ、ちんたらバレーボールだろ。楽しいだろうなあ」

「男子は何やったの?」

「十五キロ走った」

「十五キロお?」

「十キロタイム計ることになってたんだけどさ、集合悪かったから五キロペナルティ」

 クリームパンはあっという間に胃の中に消え、わたしの飲み残しのイチゴミルクを勝手にすすりながらぼやく都丸。心なしかやつれて見えるのも十五キロマラソンのあとなら気のせいではないだろう。どうりで体育のあと男子が戻ってくるのが遅かったわけだ。ばらばらと教室に戻ってきた他の男子も確かに生気をぎ取られたような顔をしている。お昼のパンや弁当のにおいに汗のにおいが入り混じって、教室には何やらむっとする混合臭が漂いはじめている。

 質実剛健をうたう(理想に実態がともなっているかは別として)わたしたちの高校には三年になっても二時限連続の体育がある。女子は六キロ、男子は十キロくらいならざらに走らされるのだ。

 シャツのボタンを三つめくらいまであけっぴろげた都丸の首筋にはまだ汗の玉が光っていた。ちなみに三年男子の制服はオーソドックスな黒の詰め襟だが、詰め襟は着ずにワイシャツの上から自前のトレーナーやセーターだけを着る男子が多い。都丸などは入学したときから詰め襟を着ていたためしがないので(買ってもいないのかもしれない)一、二年の頃は上級生に目をつけられることもあった。

 男子は学ラン、女子は紺のセーラー服。これが二年と三年の制服である。しかし都会の流行がとうとうこの地方都市にも到達し、今年入学した一年生からは男女ともブレザーの制服に切り替わった。自分たちとは違う制服を着て入学してきた一年生はいまいち後輩という感じがしない。あか抜けた制服に身を包んだ一年生たちが、時代の流れに取り残された地味な制服を着ているわたしたちを見下しているように思えるのは、被害妄想だろうか。

「千種、うっしー来てるよ。千種に用事じゃない?」

 と、さっつんが教室の後ろの戸口に目配せをした。

 振り返って見るとアイボリーのカーディガン姿の男子が戸口からうちの教室をのぞいている。少々不安げにきょろきょろしていたが、わたしと目があうと表情を明るくして「ちぐさ」と唇の動きだけで言った。

 うっしーことうしやまくん、隣の三組の男子だ。わたしはそっと都丸のほうに視線をやってから席を立った。都丸はべつだん興味なさげに床に座ったままイチゴミルクをすすっていた。

「うっしー、何?」

「日本史のプリント、うちのクラスのぶん集めてきたから。今日の昼までにみやしたに提出だったろ」

「やば、忘れてた。あれって今日だっけ」

 上品なアイボリーのカーディガンが似合ううっしーは背が高くてがっしりした体格をしているが、顔立ちは優しい感じで性格のよさが表れている。うっしーとは日本史の選択が一緒であり、わりあいよく話した。さっつんも日本史は一緒だ。

 三組の男子も合同体育で都丸たちと一緒に十五キロを走ってきたはずだが、うっしーは疲労も見せず、シャツも第二ボタンまでとめてきちんとしていた。

「じゃあわたしが預かるよ。うちのとあわせて宮下んとこ持ってく」

「なら一緒に行こう」

「でもわたし、まだ四組のぶん集めてないから……預かるよ」

「そう……? じゃあこれ、頼む」

 心持ち残念そうにうっしーは三組のぶんの十数枚の課題プリントをわたしに手渡した。

「ところで千種さ、志望校決めた?」

「千ぃ種ぁ」

 まだ立ち去らずに話を変えたうっしーの声に都丸の間延びした声がかぶさって、汗臭い子泣きじじいがわたしの背中にまた負ぶさってきた。

「もう、重いってば」

「八十円ちょうだい。パン買いに行くから」

「結局買いに行くんじゃん」

「成長期の十七歳がクリームパン半分で足りるわけない」

「一歩も歩けないって言ったくせに……」

 呆れるわたしの肩にあごをのっけて都丸はちらりとうっしーに視線をやった。うっしーと比べると都丸は取りたてて大きいほうではなく、うっしーを斜め下から見あげるかつこうになるのだが、態度のでかさでは都丸のほうが数段上を行く。見下すような半眼を向けられてうっしーはムッとした顔で口を閉じた。

 わたしの肩越しに都丸の声が普段よりも低くなり、

「志望校くらい自分一人で決めようよ、ホルスタインくん」

「ちょっと、都丸」

 何をいきなりけんを売っているのだこいつは。冷や汗を浮かべつつわたしは都丸の腹筋にぐりぐりと肘を入れる。薄々感じてはいたが、男女問わず八方美人のこいつにしては珍しいことに都丸はうっしーが嫌いであり、そして温厚なうっしーにしても珍しくどうやら都丸が嫌いである。

「ごめん、うっしー。じゃあ明日の選択で」

 挑発的にわたしの肩越しに身を乗りだしてくる都丸を肘で押し返しつつわたしが取り繕うと、うっしーは都丸をうっとうしげににらみやったあと、わたしに対してはいつもの穏やかな笑顔を向け、

「うん。じゃあ明日」

 と戸口を離れていった。

 うっしーの大きな背中がすぐ隣の三組の教室に消えてからわたしはほっと息をついた。都丸はうっしーがいなくなってもまだわたしの背中に負ぶさって三組のほうにうーっと犬みたいに歯をいてみせている。

「あんたねえ」

 身をよじって突き放すと都丸はようやく子泣きじじいをやめた。

 自分は他の女子にも平気でなつくし仲良くするくせに、わたしが他の男子とちょっと親しく話していたら邪魔をするこの身勝手ぶり。しかも自分の都合や気分によって気まぐれにやったりやらなかったりする。

 ひようひようとして「八十円」と手をだす都丸に百円玉を握らせてやりながら(わたしもわたしで都丸に甘いのである。いてくれるということについて結局のところ嫌な気分はしないのだ)わたしは文句を言った。

「日本史取ってないのは都丸のせいでしょ。わたし、誘ったじゃん。うっしーにやきもち妬かないでよね」

「やきもちじゃないよ。ホルスタインくんが嫌いなだけ」

「なんで嫌いなのよ」

「私立文系取る男なんてやわいもん」

「はあ? わたしも私立文系なんだけど?」

 やきもちじゃないとあっさり否定されたことがわたしのささやかな自尊心を逆なでし、険悪な声色で言い返した。都丸は軽く肩をすくめただけで気にしたふうもない。さっつんが鏡を覗いてマスカラ塗りに精をだしつつちらりとこっちに視線をやって「またやってる」という顔をする。

 都丸は未練がましくちゅうちゅうしすぎて内側からひしゃげたイチゴミルクの紙パックをゴミ箱に投げ込んで、

「そう、千種もやわい。やわすぎるね。つまんない人生だね」

 都丸の脇腹にわたしは握ったこぶしを力いっぱい突き入れた。


 四組の日本史選択者のぶんのプリントを集め、三組のぶんとあわせて社会科準備室に持っていったのはその日の放課後だった。昼休みのうちに提出しないといけなかったのだが、日本史の宮下先生はそんなに厳しい先生ではないのでわたしは別に恐縮していなかった。

 宮下先生のそういう人柄もあり、社会科の選択授業を適度に楽にこなしてしまおうと考える生徒にとって日本史は人気がある。〝やわい〟という都丸の言いようは部分的には的を射ていて、それゆえにわたしの神経を逆なでした。いまだ志望を絞っていない都丸に言われる筋合いはない。

 二年の後半に進学コースを決める際、迷わず私立文系を選択したわたしには、都丸と違って明確な将来のビジョンがあった。わたしには東京の私立大学に進学するという目標があるのだ。その目標を馬鹿にされた気がしてわたしは都丸に本気で腹を立てていた。さっつんがあきれ顔をしたとおり都丸と喧嘩することなど日常茶飯事なのだが、その日ばかりは放課後になっても都丸と口をきいてやらなかった。

 社会科準備室はクラス教室がある東校舎とは別棟、西校舎の三階の端っこというへんぴな場所にあり、放課後の早いうちからほとんどひとがなくなる。五年ほど前のことだから、わたしたちが入学する少し前、東校舎は現代的な鉄筋コンクリートに建て替えられたが、西校舎はまだ予算の恩恵にあずかることができず、創立当時から使われているという木造校舎がなんとか持ちこたえている。

 今年の新入生から切り替わった制服といい、わたしたちの世代はちょうどこの学校が古い時代から新しい時代へと移り変わる過渡期にあたっていた。古いものと新しいものとが同時に存在する、こんとんとした時代。せっかくなので日本史的に言えば、西洋文化を積極的に取り入れはじめた文明開化の時代にあたるのだろうか。

 わたしたち三年の古風な制服にはぴかぴかした新校舎よりも薄暗くじめっとした旧校舎のほうが似合っている気がする。旧校舎のひんやりとした板張りの廊下をわたしは一人で歩いていく。

 学校という場所に必ず存在する怪談とか七不思議とかは新校舎の堅いコンクリート壁に跳ね返されて入り込むことができず、こっちの校舎に全部引っ越してきていたので、旧校舎にはまゆつばものの話も含めて数多くのいわくがある。

 たとえばありがちなのが、夜中に涙を流す美術室のせつこう像、ひとりでにぞうきんがけをする呪いの雑巾(それは何が怖いのかよくわからない。そんな雑巾がたくさんいたら便利だ)、それからずっと昔にこの学校で自殺したという女子生徒の霊──彼女は同じ学年の男子生徒と恋に落ちて赤ん坊を身ごもったものの、周囲から激しく非難され、赤ん坊の父親である男子生徒にも子どもをろすよう求められ、苦悩の末にお腹の赤ん坊もろとも命を絶ったと伝えられている。噓か本当か知らないけど。

 女子生徒の幽霊と不幸な対面をしてしまうことはなかったが、社会科準備室の戸口で一人の女子とばったり遭遇した。わたしが扉をノックしようとしたタイミングでちょうど中からでてきたのである。

 三年七組、古池鞠子。

 噂の美少女と正面衝突しそうになりわたしは一瞬固まってしまった。古池鞠子も少し驚いたふうにこっちを見たので、わたしたちは社会科準備室の戸口に鏡を置いたかのように向かいあって見つめあう恰好になった。

 遠くから姿を見かけたことはたびたびあったが、はじめて間近でたいした古池鞠子は噂にたがわぬれいな女の子だった。綺麗というか、印象的だったと言ったほうがいい。整った目鼻立ちはもちろん、この距離で見ると毛細血管がうっすらと透けるくらいに色素の薄い肌、制服から伸びる手足は簡単に折れそうなほどに細い。それだけであればとてもはかなげなのに、あおじろい肌と対照をなして血の色のようにあかく染まった唇と、そしてわたしみたいにアイラインとマスカラでがっちり武装する必要などない大きく黒々としたひとみには一度見たら忘れられない、強烈に印象に残る存在感がある。儚さとふてぶてしさとがその細い身体に絶妙なバランスで同居していた。

 彼女の雰囲気についくぎづけになって見つめるわたしを彼女のほうもその大きな瞳で見返して、人形の頭がちょっと傾いたみたいにかわいらしく小首をかしげ、

「ああ、千種いづみだ」

 わたしは仰天した。彼女の記憶にわたしの姓名が登録されているなどと思ってもいなかったので。

 紅い唇をほんのりとほころばせて彼女はわたしに微笑むと、準備室を振り返り、

「じゃあね、先生」

 と、声を投げかけてわたしの脇をすり抜けていった。

「あっ」

 とっさに呼びとめようとしたものの用事は何もなかったのでわたしは結局言葉を失ったまま、板張りの廊下に軽やかな足音を響かせて去っていく彼女の後ろ姿を見送った。寂れた木造校舎の風景に彼女のセーラー服はじんわりとにじむように奇妙にんでけ込んでいき、やがて階段の角へと消えていった。

 微笑みを形作った彼女の紅い唇が、光の残像みたいに網膜に焼きついていた。古池鞠子がどうしてわたしを知っているのだろう。

 に落ちない気分を味わいつつわたしは鞠子と入れ違いに戸口をまたいだ。

「鞠ちゃん、まだいたのか。遅くなるから帰りなさい」

 途端、準備室の奥からそんな声が飛んできた。

 ごちゃごちゃとした社会科準備室をいっそう狭苦しく分断している本棚の向こう側から顔をだした宮下先生がわたしの姿を見てぽかんと口をあけたまま言葉を失い、

「ああ、なんだ、ええと、千種か」

 と、かなり挙動不審な態度で取り繕った。

 わたしの気配を鞠子と間違えたのだろう。しかし〝鞠ちゃん〟とは……?

 社会科準備室は日本史、世界史、地理の三人の先生が共同で使っており、本棚とパーティションで仕切られたそれぞれの先生のデスクスペースはほんの一畳ぶんくらいしかない。今はちょうど宮下先生しかいないようだ。

「先生、三の三と三の四のプリント持ってきました」

「そうか、うん、ご苦労さん」

 提出が放課後になったことは案の定まったくとがめられなかった。

 プリントの束を先生に手渡しながら、このときわたしの頭に浮かんだことがあった。

 宮下先生は三十代後半から四十歳くらいになるはずだが、中年臭いところがなくて若々しく見える。若い頃はなかなかのイケメンだったのではないかと想像できる面影が今でも残っている。噂によると綺麗な奥さんがいるらしいが、子どもはいない。ほどほどにゆるい人柄であり、女子の髪の色やスカート丈、男子の制服の乱れにも口うるさくないほうなので、生徒に人気がある先生だった。今のご時世、生徒に厳しいタイプの先生はもちろんのこと、何かにつけてテンションの高い熱血漢の青春先生なんていうのも流行はやらないのである。

 今思いだしたのだが、古池鞠子の不倫相手と噂されている教師というのが、宮下先生だったのだ。

 それがわたしと古池鞠子との実質的な初対面と言える日だった。古池鞠子が〝噂の美少女転校生〟という存在以上の強烈な印象を持って、わたしの中に刻み込まれた日であった。


    


〝私立文系はやわい〟発言以降まるまる一週間ばかり、都丸との仲はつんけんしていた。いつもだったらわたしの憤りのほとぼりが冷めた頃に都丸のほうからへらへらしてすり寄ってくるのに、今回の件に関しては都丸は自分の発言を撤回しようとしなかった。

 我慢できなくなってわたしのほうから言った。

「あんた、それ八つ当たりでしょ? 自分に目標がないからって、わたしやうっしーに八つ当たりしないでよね」

 都丸は動じたふうもなく小憎たらしい横柄な態度で、

「目標? お前には目標があるの?」

「当たり前でしょ。わたしははじめから東京の大学に志望を決めてるじゃない」

「お前、それは目標って言わないよ。お前は単に〝東京の女子大生〟ってのにあこがれてるだけだろ。厚化粧してキレイなカッコして、うちみたいに九時には駅から人がいなくなっちゃうような田舎じゃない、ハラジュクとかシブヤとかで夜中まで遊んでチャラい男にナンパされてねずみランドとか行きたいとか、そんなつまんねえこと考えてるだけじゃないの? だいたい発想が平凡だねお前は。へーへーぼんぼんだね」

 わたしは都丸をひっぱたいた。

 そして別れた。

 おめでとう、記念すべき七度目の破局だ。

 私立文系をやわいとぬかす都丸の選択は国立コースだ。二年のコース選択のとき、わたしは都丸を誘いはしたのだ。一緒の大学に行けたらいいねって。わたしにしては珍しく〝かわいい彼女〟的態度だったのではないだろうか。〝彼氏〟であれば普通そんなことを言われたら彼女をいとおしいと思うのではないか?

 しかしいざ三年になってみたら、都丸は一人で勝手に国立コースに進んでいた。なんで教えてくれなかったのかとわたしが文句を言うと「俺まだ大学行くか決めてないし、どっちにしてもうち、私立にだしてくれる金ないから」とあっさり言った。それならそれで相談してくれればいいのに。そうしたらわたしだって頑張って国立志望にしたかもしれない。つきあっていたら同じ大学に行きたいと思うのは当然の心理だろう、その努力をしようという気のかけらもないのかとわたしは憤然としたものである。

 これが三年のはじめ、六度目の破局の原因だ。

 二年の頃までの破局の主な原因が都丸が他のクラスの女に手をだしたことだったのに対して、三年になってからはその原因に進路がからむようになった。

 悔しいけれどわたしはやっぱり都丸が好きで、高校を卒業して都丸と進む方向が違ってしまうことに不安を感じていたので、卒業しても別れないという確約を、噓でもいいから都丸の口から聞きたかったのだ。しかし普段はお調子者の権化で平気で噓をつく都丸が、ことこの件に関しては何も言ってくれないのだった。


 一人になりたい気分のとき、わたしはみず会館に行くことにしていた。都丸やさっつんにも言っていない、わたしだけの穴場だ。

 西校舎裏の雑木林の中にひっそりと建っている、小屋と言ってもいいくらいの粗末な平屋の木造建築、清水会館。西校舎と同時期からある建物は相当ガタが来ている。創立当時の偉い人が建てたもので、その偉い人が寄贈した書物だとか地域の資料だとかが収められた記念図書館として機能していたらしいが、東校舎に造られた新しい図書室の一角にその機能は引っ越して、今はもうこの建物は使われていない。

 建物の内部には入れないが(忍び込む生徒はいるだろうが)、建物を囲って積まれた石段がちょうどいい高さのベンチになっていて、わたしはいつもその東側の面を陣取るのだった。西校舎から完全に死角になる西側と北側の面には近寄らないようにしていた。男子生徒が女子生徒を連れ込んで秘めやかなことをしていたりするからだ。遭遇してしまったら両者ともにたいへん気まずい空気になる。

 そろそろ昼休みが終わる時間だったが教室に戻る気分になれなかった。視界を遮る木々の向こうに西校舎の壁を見やりながらわたしはぐずぐずしていた。

 五月半ば、天気はよい日だったが空気はまだ肌寒い。遅い春の訪れを感じてようやく芽吹きはじめた枝々の隙間から昼さがりのれ陽が多めに射している。季節の移ろいに感傷を覚えるわけではない、見飽きすぎた自然にだって別に何も感じはしないのだけれど、そんな風景の中に一人で座っていると、ふとまた泣きたくなってきた。

 しかし昼休みいっぱい使って泣いたところなのでもう涙は使い切ってしまっていた。目のまわりの皮膚が突っ張るだけで水分はでなかった。

 このまま午後はサボってしまおうかと思う。わたしは意外と真面目な生徒であり授業をサボることなどほとんどないのだが、泣き疲れたし、今絶対にひどい顔をしている。

 七度つきあって七度別れた。いつものことだ。さっつんも他のクラスメイトもあきれて静観しているだけで、誰も深刻に考えていない。

 それでもわたしにとっては人生の大事件なのだ。何度経験しようとも、その毎回が死にたくなるほどにつらい。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、都丸と別れ話をするたびに毎回真剣に今度こそこいつとは終わりだ、終わりにしようと心に決めて、たくさんたくさん泣くのだった。都丸のほうは間違いなく鼻水ひとつすすりやしないであろうことが非常に悔しい。

 なんであんな奴と七度もつきあったのだろう。お調子者で浮気性で自分勝手でわたしの気持ちなんか考えてなくて、わたしが今までにどれだけあいつに傷つけられて振りまわされてきたか。あいつはわたしと違ってたいへん素直な性格をしているので、思ったことを口にだしていいか考える前に発言するのだ。

 ひとしきり泣いて涙が乾き、心の中も乾いてくると、都丸の台詞せりふを冷静に考えられるようになってきた。

 正論だった。都丸は何気に鋭い。

 わたしはとにかくこの田舎をでて東京に行きたかった。東京の大学に進学したいというのはそのための手段でしかなく、目標ではない。私立文系志望なのは受験科目が少なくて楽だからだし、そんなにレベルが高くなくてもほどほどのところに受かればいいと思っている。都丸の言うとおり、わたしに関して言えば確かに私立文系は〝やわい〟のだ。

 ここには何もない。メイクをばっちりキメたところで行くところなんて別にないし見てくれる人もいない。むなしいだけだとわかっている。学校帰りに遊ぶところと言えば駅ビルくらいしかなく、終電も終バスも八時台で、九時過ぎには駅の周辺ですら真っ暗になる。夏はぶよの軍団が顔面にぶちあたり、冬は手指のあかぎれに悩まされる。

 こんなつまらないところから抜けだしたいと思って何が悪い? 彼氏と一緒に東京にでたいと思うのが悪いのか? 一緒に渋谷で買い物したりねずみの国ではしゃいだり、部屋に行ってご飯を作ってあげたり、雑誌に載ってる評判のラーメン屋の食べ歩きとかしたいじゃん。普通だったらそこは愛おしいと思っていいところではないか。

 それをあいつはなあんにも理解していないのだ。わたし一人だけが二人のために卒業後のことに頭を悩ませているのだと思うと悔しくてしょうがない。

 鼻の奥がまたつんとしてきてティッシュではなをかんだ。スカートのポケットの中はすでに使ったティッシュでいっぱいだ。くそう。悔しい。

 こつこつ、と頭の上で音がしたのはそのときだった。

 わたしは洟をすすって顔をあげた。頭の上でまたこつこつという音がする。背中をつけた清水会館の東側の壁にある窓からその音は聞こえている。

 ほこりで曇った窓ガラスの向こうに、ひどくあおじろい人間の手がぼうっと見えていた。

 ぎょっとしてわたしは思わず壁際から跳びのき、枯れ葉が積もる湿った地べたにしりもちをついた。

 よくよく見ると、清水会館の中から窓ガラスをたたいているのはセーラー服の女子生徒、あの古池鞠子だった。わたしから見て右側のほうを指差してはガラスをつつき、ガラス越しにあの血の色のようなあかい唇を動かして何か言っている。「あっち」と言っているようだった。

「なんなの……?」

 立ちあがってスカートの尻をはたきながらわたしは鞠子が示した方向に目を向けた。何かを解体したざんがいおぼしき木の板が壁際に立てかけられている。その陰に窓があった。わたしがそれに気づいたことを悟ると鞠子は今度は人差し指をくいくいと自分のほうに向けてみせた。あそこから入ってこいと言いたいのか。

 いぶかしみつつわたしは身をかがめて木板の陰に潜り込んだ。示された窓の木枠に手をかけて揺らしてみるとかぎがかかっていないことがわかった。

 薄いガラスがびりびりと震える音に肝を冷やしつつそっと窓をあけ、自分の身体が入るくらいの隙間ができると、壁際の石段を足場にして窓枠によじのぼった。窓枠は土埃でひどく汚れていたが、頻繁に人の出入りがあるようで一部分だけ汚れがこすれ落ちていた。鞠子や、あるいは他の生徒が出入りしているのだろう。窓枠から中に飛び降りるとよく磨かれた板張りの床がみしっときしんだ。

 はじめて入り込んだ清水会館の内部にはひんやりとした古い空気と、どことなく焦げ臭さがこもっていた。

「あれ……?」

 隣の窓辺にいたはずの鞠子の姿がなかった。周囲を見まわしたが、がらんどうの木製の枠組みの書架がお化けの林みたいにのっそりと立ち並んでいるだけ。

 なんとなく足音を忍ばせてわたしは屋内を歩きだした。書架に遮られて全体は見通せないが、教室一つの半分くらいの広さだろうか。がらんどうの書架の他には古びた木の椅子が数脚、黒板、ひもで結ばれた古本の束が隅のほうにいくつか積まれている。目につくものはそれくらいだ。その他のものは新しい図書室に移されたのだろう。無駄に余生を送りながらいずれ解体される日をただひっそりと待っている、そんな感じがした。

 書架と書架のあいだを抜けて向こう側にでたとき、鞠子の姿を再び見つけた。さっきの窓辺のちょうど反対側、西側の窓辺に立って外を見ている。雑木林に射す木洩れ陽が逆光となり、きやしやなセーラー服の後ろ姿が焦げたマッチ棒みたいにたたずんでいる。

「古池……さん」

 突っかかり気味に声をかけると、鞠子が振り返って唇に人差し指をあてた。

「しぃ」

 ささやいて手招きをする。口をつぐんで窓辺に歩み寄ると、鞠子はわたしのそでを引いてかがみ込み、ひざ立ちで窓の上に半分だけ顔をだして再び外をのぞきはじめた。

「何してるの?」

「しぃ。いいところなの」

 うろんげにくと鞠子はえらく真剣なまなざしで窓の向こうを凝視したままそう答える。興味を覚えてわたしも鞠子の横から同じく膝立ちで外を覗いてみた。

「わ……」

 声をあげてしまい、また鞠子に「しぃ」とたしなめられた。ついつい息を殺して鞠子と一緒になって真剣に目を凝らしてしまう。

 ようするにまあ、窓の下の壁際で、男子と女子がいちゃいちゃしていたのである。一年生だった。わたしたちの学年の制服とは違う、男子はグレーの学生ズボン、女子は同じくグレー系のタータンチェックのプリーツスカート。そのスカートのすそをあられもなくまくりあげて男子の膝にまたがっている。今どきの高校一年生は大胆だ。

 わたしは心の中でうわあと声を漏らして少しのあいだことのなりゆきを見守ってしまい、我に返って慌てて窓の下に引っ込んだ。鞠子のセーラーの襟を引っ張って一緒に頭を引っ込めさせた。

「何よう、これからが本番なのに」

 鞠子が不満げにぶうたれて唇をとがらせる。

「本番って……覗きじゃないの、これ」

「覗かれるようなところでやってるのが悪いのよ」

 悪びれたふうもなく鞠子。この自己正当化っぷり、どこか既視感を覚えた。

 ああ、都丸だ。あいつに似ているのだ。今は考えたくもない男の顔が浮かんでしまい、頭の中からしっしと追い払っているあいだにまた腰を浮かせて窓の外の情事を覗こうとしている鞠子をわたしは再び引っ張り戻して床に座らせた。

 木造の壁を隔てて背中あわせに一年生の男女がいやらしいことにふけっていると思うとなんだか背中がかゆくなる。わたしの隣で鞠子は体育座りをした膝にほおづえをついて「つまんないの」とむくれてみせた。

「千種、興味ないの?」

「そりゃ、ないわけじゃないけど……覗きはよくないよ」

「ふうん。千種って真面目なんだ。意外」

「古池……さんは、」

「古池さんなんて、変なの。鞠子でいいよ」

 まともに会話をするのはこれがはじめてのはずだが気心が知れた友人みたいに接せられ、わたしは今ひとつ空気に乗り切れずに戸惑った。男子生徒とのふたまたや宮下先生との不倫関係が囁かれている魔性の美少女、古池鞠子のわたしの中でのイメージは、もっと近寄りがたい感じというか、取り澄ましていてつきあいにくい感じの女子だったのだが、思っていたよりもずっと気兼ねがなくて親しみやすい子のようだ。想像とのギャップに拍子抜けしてしまった。

「古……、鞠子は、」

 言いなおしたとき、壁越しに一年生女子のなまめかしい声が聞こえ、「しぃ」と鞠子がわたしの唇に自分の人差し指をあてがって聞き耳を立てた。鞠子の顔が嫌に真剣なのでわたしもつい一緒に聞き入ってしまう。覗きは駄目だけど、まあ聞こえてしまう声を聞くくらいなら……。

 鞠子の白く細い人差し指がわたしの唇に触れている。セーラーの袖口からふわりと何かのにおいがした。なんだろう、懐かしいにおい。少し考えてからお線香のにおいだとわかる。わたしにとってお線香のにおいはお祖母ばあちゃんの家のにおいだ。小さい頃よく遊びに行っていたお祖母ちゃんの家にタイムスリップしたような不思議な錯覚に襲われた。

 解体寸前の古い建物と、お線香のにおいと、魔性の美少女。これ以上ないほどにぴったりとはまる、怪談じみた組みあわせ。しかしその美少女が真面目に聞き耳を立てているのが壁の向こうの情事というのがこつけいなコメディみたいで妙におかしくてたまらなくなり、わたしはつい小さく笑ってしまってから慌てて口をつぐんだ。

 鞠子は今度は「しぃ」とたしなめることはなく、わたしの唇にあてていた人差し指を自分の唇に持ってきて、〝にやあ〟という感じの小悪魔っぽい笑みをその紅い唇に乗せた。

「泣いた鬼が笑った」

 と、言われてわたしは一瞬ぽかんとしたあと、「あっ」と両手で顔を覆った。

 そういえば今、マスカラがぐちゃぐちゃに崩れたひどいパンダ顔をしているはずだ。校内随一の美少女相手にこんな不細工な顔をさらしていたのかと思うと今さらだが猛烈に恥ずかしい。泣いた鬼が笑っただなんて古くさい言葉がナチュラルにでてくる鞠子のほうもどうかとは思うけど。

「ギャルは泣くとすげえ顔になるのね」

「ギャ、ギャルじゃないよ」

 微妙に汚い言葉遣いを交えて鞠子は言ってまたにやあと笑う。わたしは若干しどろもどろになって否定する。

 鞠子に比べたらそりゃあわたしはギャルっぽいかもしれないが、それは致し方ないことなのだ。悲しいかな、わたしは鞠子のようにすっぴんでも十分に魅力的な大きなひとみと長くてたっぷりしたまつ毛を持ちあわせて生まれてこなかったのである。

「わたし、四月のはじめにもここから千種を見てたのよ。すげえ顔して泣いてるギャルがいるなあって」

「え? ああ、あれは……」

 四月のはじめといえばちょうど都丸と進学コースのことでめたときだ。新学期早々からわたしは同じ場所で昼休みのあいだじゅう泣きじゃくった(しかしこの子、この建物の各方面の窓からしょっちゅういろんな生徒たちの秘めごとを覗き見しているということか。とんでもない悪趣味だ)。

「彼氏とけんして、さ……」

 ぼそっと愚痴をこぼした直後に後悔したが遅く、

「千種の彼氏って、誰? 四組の子?」

 鞠子が興味を持って訊いてきた。

「いや、もう彼氏じゃないから……」

 ティッシュで目のまわりのマスカラをぬぐおうと無駄な努力をしつつわたしはむにゃむにゃと言葉を濁す。つまらない防衛本能みたいなものだが、鞠子に都丸のことを話すのはためらわれた。鞠子が都丸に目をとめてしまったら困る。魔性の美少女に誘われたりしたらあいつのことだからころっと行くのは間違いない。……別れたからもうどうでもいいんだけど、さ。

「鞠子……は、彼氏とかいるの? なんかいろいろ噂、聞くけど……」

 話題を都丸かららすため、やや不自然ながらわたしは鞠子のほうに話を振った。

 訊いたらまずいことだっただろうか。今知りあったばかりの子にいきなりこんな突っ込んだことを言うものではなかったかもしれない。根も葉もない噂を立てられて本人は傷ついてるかもしれないし……。

 なんて考えたのはわたしの気のまわしすぎで、

「いろんな男とつきあってるっていう話? うん、そんな噂もあるねえ」

 と、鞠子は気に病んだふうもなくのほほんと答えた。

「ほら、こないだ宮下のとこで会ったじゃん。だから本当に不倫、してるのかなって」

「本当だったらどうする? 千種はそういうの、嫌い?」

 逆に訊かれてわたしはまごついてしまった。

「あんまり好きじゃないな……不倫とか、二股とか、サイテーだと思う」

 鞠子のペースにいつの間にか乗せられてこんなことを話している自分が奇妙だった。さっつんとだってこんな話をしたことはないのだが。

 わたしは見た目が派手なほうなので、異性関係にもリベラルだと思われがちだ。しかし自分で言うのもなんだけれど、本当のわたしはたいへん一途な性格なのである。あんまりどころか不倫も浮気も断固として許せない。だから都丸の馬鹿が幾度となく浮気するたびに愛想を尽かして本気で別れようと心に決める。しかし一途な性格が災いしてなかなか完全に吹っ切ることができず、ずるずるとヨリを戻してしまうというのの繰り返し。この救いようのないジレンマといったら、自分で自分が嫌になる。

「ふうん」

 と鞠子は相づちを打って何やら考え込むようにかわいらしく小首をかしげ、

「ねえ、明日も来る?」

「え?」

 唐突な話題の転換に目を白黒させるわたし。

「千種ともっと話したい。明日もお昼に、ここでね。決まり」

「え、いや」

 決めるなよ。一方的に言っておいてわたしに答える暇を与えることなく鞠子はぴくりと片耳をそばだて、「しぃ」とまた真剣な表情で人差し指を立てた。

 壁の向こうのあえぎ声はクライマックスを迎えようとしていた。わたしもついついかたんで聞き耳を立ててしまう。

 鞠子の制服からほんのりと漂うお線香の香りと外の男女のみだらな行為との組みあわせがホトケサマにたいしてたいへん罰当たりな気がして、聞いているこっちに罪の意識を植えつけつつ、壁の向こうの男女の声は絶頂を迎えたのであった。


 それ以来、わたしと鞠子は昼休みごとに清水会館で会うようになった。わたしがテリトリーにしていた東側の壁際でお弁当を食べたり、鞠子に誘われて清水会館の内部に忍び込み、相変わらず趣味ののぞきに精をだす鞠子にあきれつつわたしのほうは窓の下に座って参考書を読んだりした。曲がりなりにも受験生なのだ。ちなみに鞠子のほうはまったく勉強している様子がない。

 鞠子の〝魔法〟をはじめて見たのは、鞠子と知りあってそれほどたたないある日の昼休みのことである。日直の仕事があったのでわたしが少し遅れて清水会館に行くと、いつもの東側の壁際に鞠子が細い背中を丸めてしゃがんでいた。

「鞠子? どうしたの?」

 具合でも悪いのだろうか。心配して覗き込むと、しゃがんだ鞠子の足もとに小さな生き物がいた。背中側が灰色っぽいブルー、お腹側が黄色の、かわいらしい小鳥だった。種類はわからないがこのあたりの山林や村落でよく見かける小鳥だ。

「キセキレイ」

 鞠子が不思議な言葉をつぶやいた。

「この鳥の名前」

 キセキレイ。そのれいな名前と綺麗なからだを持つ小鳥は、微動だにせず翼をたたんで落ち葉の上に横たわっていた。

「どうしたの……それ」

「落ちてた」

「へえ……」

 スカートのすそを押さえてわたしも鞠子のそばにしゃがんだ。校舎の窓やなんかにぶつかって死んでいる小鳥を見つけることはときどきあった。晴れた日の空を映した窓ガラスを鳥は障害物と認識できないようなのである。

 鞠子がそうっと両手を伸ばし、すくいあげるように小鳥をその手に包み込んだ。小鳥はやはり動かない。

「死んじゃったのかなあ」

 鞠子の手の中を覗き込んでわたしも少ししょんぼりする。鞠子も落胆しているものとばかり思ったのだが、鞠子は嫌に自信ありげに、

「見てて」

 そう言うと、手の中の小鳥に顔を寄せ、唇をすぼめてふうっと息を吹きかけた。

 ぐったりしていた小鳥がぴくっと反応し、あっという間にばたばたと激しく羽ばたいて鞠子の手から飛び立った。わたしはぽかんとしたまま首をめぐらせ、お礼を言うようにわたしたちの頭上をひと巡りしてからすっかり元気を取り戻して木々の隙間へと飛び去っていく小鳥の影を見送った。

「どうして、何、今のっ」

 目をまんまるにして興奮気味に鞠子を振り返る。鞠子はスカートの裾で両手を払って立ちあがり、

「魔法」

 と、あかい唇の端を悪戯いたずらっぽくりあげた。

 キセキレイ。

〝奇跡〟れい……。

 その小鳥の名前はそんな響きでもってわたしの記憶に刻みつけられた。


 そうしてわたしは鞠子のきやしやな身体に秘められた不思議な魅力にどんどんかれていった。

 鞠子と親しくなるのに時間は要しなかった。鞠子とわたしは正反対と言っていいほどタイプが違う者どうしだったが妙に気があい、すぐにさっつん以上の親友と呼べる存在になった。

 都丸との七度の破局の話を鞠子は食いつくように聞きたがり、中学時代のわたしの太眉黒髪おかっぱ写真に笑い転げ(わたしは当時生活委員なる、いわゆる生徒の風紀の乱れを監視する委員会の副委員長を務めていたのだ)、わたしのほうは鞠子の突拍子もない言動に振りまわされては呆れ返り。

 鞠子といると退屈することがなかった。都丸と別れた空白を埋めるようにわたしは鞠子と一緒に過ごすようになった。わたしの中で今まで都丸がいた場所が、鞠子で埋めあわされていった。

 しかし鞠子はわたしのエピソードを面白がって聞きたがるくせに、そういえばわたしのほうは鞠子の中学時代や転校前のエピソードを聞いたことがないのだった。

「鞠子って、転校してくる前はどこにいたの? 東京?」

 心当たりがあって東京を挙げたわけではない。ただ鞠子の口調にはなまりがまったくなく、テレビの人がしやべっているのと同じ標準語だし(わたしたちの世代にももうこの地方の訛りは薄くなっていたが、標準語だと思って使っていたものがときどき思いがけず方言だったりすることはあった)、それに鞠子が東京に住んでいたのなら素敵だなという単なるわたしのあこがれもあった。そうしたら鞠子から東京暮らしの話を聞けるだろうし。東京の人は鞠子みたいに自由であけっぴろげなのだろうかと勝手に想像した。

 その日、わたしたちはいつものように清水会館の東側の石段に座っていた。わたしはお昼を食べ終え、次の模試に向けて英単語と日本史の年号を頭に詰め込んでいた。鞠子は紅い唇にストローをくわえてイチゴミルクをちゅうちゅうすすっていた。白い頰が心なしかイチゴミルクみたいなピンク色に染まっていた。

 まだ梅雨も来ていないというのに気の早い夏の虫が頭の上で盛大に鳴いていた。「せーよー、ふぁーい、おー、せーよー、ふぁーい、おー」野球部の昼練のかけ声が木々の隙間を縫って届いてくる。五月半ばにここではじめて鞠子と会ったときと同じように天気のいい日だった。しかしあの頃よりも色濃く葉をつけた雑木林に射す陽は細く強く、湿った地面に明確なコントラストを作り、鞠子の顔にもれ陽がまばらに落ちて、彼女の白い頰の片側に焼けただれたような模様を刻みつけていた。

「千種はこんな話、知ってる?」

 鞠子は例の人形がこくりと首を傾けるような仕草をし、わたしが期待していた答えとはまったく関係のなさそうな話をはじめた。長いまつ毛をやや伏せて視線を横に泳がせると、大人びた憂いを帯びた表情が表れる。

「今から十七年ほど前、この学校で起こった話です。ある女子生徒が、同じ学年の男子生徒と恋に落ちました。二人は交際を重ねるうちに深く愛しあい、女子生徒は男子生徒の子どもを身ごもってしまいました。今よりもずっと古い時代の話です。高校生の妊娠など許されることではなく、周囲の非難はそれは厳しいものでした。けれど彼女は恋人と一緒なら乗り切っていけると思い、子どもを産む決心をしました。

 ところが思わぬ裏切りが彼女を襲いました。恋人であり子どもの父親である男子生徒が、周囲の非難に耐えきれず、子どもをろすようにと彼女に求めたのです」

 聞いているうちにわたしはすぐに気がついた。転校生である鞠子が誰から聞いたのか知らないが、それは有名な〝西校舎の女子生徒の幽霊〟をめぐるエピソードである。

 話にでてくる女子生徒は周囲の非難と恋人の裏切りを受け、身ごもった子どもと一緒に自ら命を絶ったという。

 どうしていきなりこんな話がはじまったのか理解できず、まゆをひそめて微妙な顔をするだけのわたしに、鞠子が微笑みを向けた。形のいい深紅の唇にあのにやっとした感じの笑みが乗る。長いまつ毛がくっきりと影を落として彼女のそうぼうをいっそう深く底の見えない漆黒に沈ませている。

「その男子生徒って、宮下先生のことなのよ。宮下先生はこの学校の卒業生なの」

 はじめて聞かされるそのエピソードの新たな事実にわたしは目を丸くした。

「そしてわたしは、そのときの女子生徒が身ごもった赤ん坊。十七年前に、わたし、一度死んだの。センセのせいで」