小学校六年生までに更生されたはずの偏食が二十歳を過ぎてから復活した。好き嫌いに関して誰かにうるさく言われることがなくなったからだ。食べたい部分にだけ口をつけ嫌いなものを残したところで小学校の給食みたいに居残りにされることはない。たとえスナック菓子でお腹が膨れて夕食を抜こうとも誰にも文句は言われないし、一日や二日であれば健康的にも重大な問題にはならないだろう。学校もない。たるい授業を毎日受ける必要はなく、テストも体育も宿題もない。休日の午前中から親に起こされるなんてこともなく、好きな時間まで布団の中でまどろんでいてもかまわない。
大人は自由で、気楽だ。
五月の連休を利用してひさしぶりに帰省したわたしは、そういうわけでまあ、実家ですっかり
昼ご飯にだされたチャーハンの中からピーマンだけを脇に
「あら、いづみ、あんたピーマン嫌いだった?」
と母が不思議そうに
「嫌いだったよ」
「そうだったっけ」
「うん。そうだった」
ピンク色の携帯ゲーム機をぴこぴこと操作しながらわたしはおざなりに答える。居間の座卓にほとんど突っ伏すような体勢で、右手に握ったスプーンでチャーハンを口に運びながら目線はチャーハンの隣の携帯ゲーム機。左手に持ったタッチペンで液晶画面をつつく。とっくに成人した娘の非常に大人げない態度に母は特に苦言を呈することなく台所に戻っていった。
わたしが子どもの頃から母が作るチャーハンには神経質なくらい細かく刻んだピーマンが入っていた。母は
たまの連休に帰省した娘に母は甘い。わたしは遠慮なく母に甘やかされて、三泊四日の帰省中率先して母を手伝うこともなく、暇
実家の居心地を十分に
家の近くのバス停まで母に見送られ、一時間に三本しか来ない市バスに乗った。特急が停まる駅まではバスで三十分ほどかかる。ライムグリーンのスプリングコートをはおり、中くらいのボストンバッグひとつ提げて、自由と窮屈という相反する現象が不思議と当たり前のように共存している大都会へと舞い戻るために。
地元の高校を卒業後、実家をでて東京の大学に進んだわたしはそのまま東京で就職した。けっこう大きな製薬メーカーの、しかし会社の業種とは別に関係のない事務職である。今年で入社三年目。同期入社の女子社員にはぽつぽつと結婚する者がではじめている。明日の朝からまたラッシュに
ああ、明日は給湯室の当番だから少し早く行って電気ポットにお湯を沸かしておかないといけないのだった。いっそサボってしまいたい。だけど先輩社員が目を光らせているのでそういうわけにもいかない。我が社のOL社会には、給湯室の当番がきちっと仕事をこなしているか監視するための当番というよく考えなくてもだいぶん馬鹿馬鹿しい係が慣習的に存在しているのである。来月あたりには給湯室の当番を監視する当番をさらに監視する当番が自然発生しているかもしれない。
山沿いにまばらに家々が建つだけの物寂しげな住宅地から比較的建物が密集する駅周辺の市街へと、とろとろした速度でバスは進んでいく。アスファルトの溝を踏んで時折り軽く跳ねる。この地方は周囲を山に囲まれた盆地であり、五月初旬のこの時期、青灰色に
前の席に座っていたおばさんの荷物がバスの振動で座席から滑り落ちた。ナイロン製のエコバッグの口が開いて、大振りのピーマンが七、八個、
「ああ、
「いえ」
母と同年代くらいの人だった。土汚れが染みついた小花模様のかっぽう着姿に長靴履きの、いわゆる田舎っぽいおばさんだ。わたしが差しだしたピーマンをあかぎれの
「畑で採れたばっかだけんど、娘んとけぇくれに行かって思って。ほうだ、よけりゃああんたにもくれらっか?」
渡したピーマンをわたしの手に押し戻そうとするのでわたしは慌てて(母がスーパーで買ってくるのの数倍の大きさだ。わたしにしてみれば巨大な敵である)、
「いえ、わたしこれから東京に帰るので……」
「あぁ、ほうけぇ、東京……ほうずらねぇ、おしゃな娘さんだでねぇ」
東京という単語に
なんとなく気まずい空気になってしまい、おばさんが荷物を抱えて座席に座りなおすとわたしもボストンバッグを抱えなおして、おばさんの白髪まじりの後頭部を視界に入れつつ窓ガラスに頭をつけた。
山すその斜面にへばりつくように密集した市街の風景がゆっくりと車窓を流れていく。
斜面を山のほうへとのぼっていく比較的幅の広い坂道が見えてきたとき、わたしはふと座席から腰を浮かせた。
『次は
車内アナウンスがまもなく通過するバス停の名前を告げた。運転手さんのマイク越しのだみ声が
腕時計に目をやる。バスを一つ遅らせてもまだ特急列車には間にあう。
別に用事があるわけではないけれど……。心の中で誰にともなく言い訳しつつ、わたしは地元をでて以来たぶんはじめて、そのバス停で降車ボタンを押した。
高校在校中の三年間、わたしは自宅からバスで通学していた。盆地を囲む東側の山肌に校舎を構える我が母校は県下でもわりあいレベルの高いほうに属する進学校である。県立校だ。東京と事情が違って地方では私立よりも公立のほうがレベルが高い場合が多い。
学校へと向かう約五十メートルの急
盆地は寒暖の差が激しい地形だ。夏場は熱気と湿気が平地に
三年間、この坂道はわたしたちの前に権力の象徴のごとく
そんなことを考えながら歩いていると、当時は一歩一歩がひどく重くて何百回呪いの言葉を吐いたか知れない五十メートルを意外にあっさりとのぼりきってしまっていた。毎日デスクワークしかしていない今に比べたら現役時代のほうが確実に体力はあったはずなのに、奇妙なことだ。懐かしさに背中を押されたのだろうか。それはそれで、この坂道に感じる自分の気持ちはもう完全に部外者としてのそれなのだなあという漠然とした
坂をのぼって突きあたりを右手にまわり込むと職員・来客用の駐車場と玄関がある。生徒の昇降口は左手にまわったところだ。休日だが部活動で出入りする生徒がいるのだろう、八つ並んだガラス張りの扉のうち端の一つだけがあいていた。薄暗い屋内に背の高い下駄箱が等間隔で列を成しているのが見える。平日の朝、約九百人の全校生徒を
校舎に入ってみようか少し迷った。さすがにもう現役には見えないであろうわたしが休日に勝手に校内をうろついていたら
かわりに七年前の自分を脳裏に浮かべ、制服を着せて立たせてみた。襟に白の二本線が入った濃紺のセーラーに、同じく紺のスカーフ。今ではほとんど見かけなくなったごくスタンダードなセーラー服だ。
当時のわたしは〝体制に反発したい年頃〟というやつで、校則で規定されているよりもスカート丈をだいぶ短めにして、ちょっとばかり派手めの化粧をしていた。いや今思えばちょっとどころかだいぶ派手だった。とりわけアイラインとマスカラヘの執着といったら尋常ではなかった。七年前のわたしは都会というものにむやみに
脳裏で作った七年前のわたしが、現在のわたしから分裂してまっすぐ前へと歩いていく。セーラー服の後ろ姿が軽やかな足取りで昇降口をくぐる。
おはよう。
おはよ。眠いねえ。
うーっす。
クラスメイトと合流し、昨日見たドラマの話や一限の予習の話なんかしながら教室に向かう。
クラスメイトと歩きながらわたしはふと別の方向に視線を向ける。
眠たげな朝の会話が交わされる中、誰とも行動をともにすることなく下駄箱の前で立ちどまっている一人の女子生徒がいる。周囲のざわめきから彼女一人が切り離され、その場所にだけ何十年も昔の擦り切れたフィルム映像が映しだされているみたいな、どこか異質な雰囲気を放っている。
視界を遮って歩き過ぎる他の生徒たちの存在をまるで眼中にないみたいに素通りして彼女はまっすぐわたしだけを見て、肌の白さと対照的に赤い色素を強く帯びた唇に笑みを乗せる。
お・は・よ・う。
彼女の声が空間を超えてわたしの耳だけに直接響く。その甘やかな声にわたしは少しどきりとしながら、素っ気ない態度で
わたしと彼女だけの、それは秘密の朝の手続き。
今思いだすと背中がむずがゆく、七年前の自分の幻影を脳裏から
耳に響く少年少女のざわめきも消え、再び五月の連休の最終日、ガラス扉が一つあいているだけの閑散とした昇降口と、部外者になってしまった大人のわたしがその場に残った。
……いや、もう一つ人影があった。
ガラス扉の向こう、ちょうどわたしが七年前の彼女を思い描いていた下駄箱の前に、幻影ではない誰かが立っていた。
黒髪と黒っぽい服装が薄暗い昇降口に
わたしは知らずに
ブラックホールのごとく強烈な引力を持った
コートのポケットの中で突然ぴろぴろと鳴りだした着メロに心臓が跳びあがった。
慌ててポケットに手を突っ込む。二年くらい前に
シルバーホワイトのオーソドックスな携帯電話をポケットから引っ張りだして視線をあげると、そのときには昇降口に見えた人影はいなくなっていた。
「あれ……」
確かに今、あそこに……。
いたと思った場所にもその周辺にも人の気配はなく、のっそりとした下駄箱の影がすのこの上に落ちているだけだった。
着メロを鳴らし続ける携帯電話を手に持ったまま、狐にでもばかされた気分でわたしはしばらく突っ立っていた。
着メロが一巡して最初のフレーズに戻ってきたところでようやく、まだ若干放心したままフリップを開いて耳にあてた。
『
電話口から聞こえてきたのは殴りたくなるほど調子の軽い男の声だ。
「俺なんていう知りあいはいません。振り込め詐欺なら間にあってます。切るわよ」
『ちょっ、待って待って、俺。
「都丸? さあ、誰だっけ?」
『千種あー……』
反対側の手をコートのポケットに突っ込んで肩で大きく息をつき、わたしはきわめて冷たい応対をする。俺、俺などと名乗る電話相手など他にいないのでわからないわけがないだろうに。相変わらず馬鹿だ。
「なんの用?」
『お前、はなっから用件を聞く気がなさそうなその態度は何かね。かわいげがないなあ』
「あんたにかわいくしたってしょうがないじゃない。あんたの最近の用事なんてどうせ金貸してばっかりだし」
『うわ、ひどい言い草。今どこにいる?』
「今? 帰ってるよ、実家に」
『まじで? いつこっち戻ってくんの』
「今日これから戻る」
『あ、ほんと。助かった。金貸して』
迷わずわたしは切断ボタンに指を伸ばした。遠くなった電話口から都丸の慌てた声が『いやちょっと待って連休出費が多くてバイト代入るの月末だしぜったい返すからほんとまじで今回は噓つかない一生のお願い命
普段だったらなんの
「ねえ、都丸」
『千種、お前ってやっぱりいい奴。愛してる』
まるで心に響かない愛の告白はスルーして、
「今、
『まりこ? いつの彼女?』
「あんたの女の遍歴の話はしていない」
どうもこいつとは昔から会話のキャッチボールがまともに続いた記憶がない。電話を投げ飛ばしたくなる衝動をぎりぎりでこらえて(わたしの電話なのだから損害を被るのはわたしである)我ながら辛抱強く話を続けた。
「
『古池……?』
「
殺気のこもったわたしの声に
『古池鞠子……あー、あの子か。七組のチョーかわいい子』
お前にとって女子の分類方法はあくまでそれか。ともあれ思いだしたようだ。わたしは電話に向かって頷く。
「あの子、こっちに帰ってきてたの? 東京の短大だか専門学校だかに行ったんだと思ってたけど」
『知らね。ていうか俺に
「……別に、仲よくなんてない」
答える声が口の中でこもった。
「知らないならいいよ。それだけ。じゃあね」
『って、千種、金はあ』
無視して今度こそ電話を切った。了承しようがしまいがどうせ今夜あたり無心に現れるだろうから放っておいたってかまわないのである。
携帯電話をポケットに戻して
校舎の壁に跳ね返る風がスプリングコートの
コートの前をたぐりあわせてもう一度昇降口に目を凝らしたが、彼女の姿はやはりなかった。
部活帰りであろう、スポーツバッグを肩にかけた女子生徒が二人、昇降口からでてくるのが見えた。創立から続いていたセーラー服はわたしたちの二学年下の代から廃止になり、今は黒のブレザーにタータンチェックのスカートという
さっき見かけた人影は本当に鞠子だったのだろうか。ほんの数分ばかり前のことなのだが自信がなくなってくる。鞠子がわたしに気がついていて声をかけずに立ち去るなんていうことがあるだろうか。そう、逆ならともかく。
卒業前の数ヶ月間、わたしは鞠子を故意に避けていた。だから卒業後の彼女の行方はなんとなく噂に聞いただけではっきりとは知らない。
それに考えてみると、いずれにしろ鞠子とわたしのあいだに交流があったのは、高校三年の五月から七月までの二ヶ月程度にすぎない。実際のところわたしは鞠子のことをほとんど知らないのである。
腕時計に目を落とす。そろそろ行かないと特急列車に間にあわなくなる。
わたしは校舎に背を向けた。束の間の連休も終わり、明日から仕事だ。嫌いなものをより分けて食べようが叱ってくれる大人はいない、自由で気楽で単調だけれどそれなりに忙しい日常がまたはじまる。