白衣に着替え、作業を進める。フラスコ、ビーカー、メスシリンダー、それからさまざまな容器にしまわれた薬品を順番にながめる。頭のなかで薬品名をすべて解読してひとしきり満足したあと、元の位置に戻していく。
ふと目についた薬品は、飾と出会う直前につくりかけていたものだった。プロピンに水を加えてつくったアセトン。過塩素酸カルシウムという無機化合物に、アセトンを加えると。
「おはよーう」
声がして振り返る。昨日の夜、彼氏にフラれてやけ酒に突入し、二日酔いぎみの顔の
「いまなんか失礼な観察をしたでしょ」
「気のせいですよ」
会話を早々に切り上げた私の様子に興味を持ったのか、その作業をのぞこうと、座った私の頭にあごを乗せてくる。息が酒臭い。二日酔いどころか朝も
「すごい薬品の数ね。ずっとしまっておいたの?」
「はい。一度整理をしようと。今度、廃棄したいものもあるので、頼らせてください」
「ほかにもわたしに隠していることがあったりしてね」
何か含みがあるような口調だったので、また作業の手をとめて、杏子さんのほうに向きなおる。頭に乗せていたあごをどけて、お互いに見つめ合う。
薄くほほ笑んで、杏子さんは言った。
「あなたは、いつ
「…………………………はぁ?」
途中で無表情をつくりこらえていたが、もう限界だった。わけがわからなくて、思わず
「なんてね。うそうそ、冗談よ」
「でしょうね」
「でも、
「ノーコメント」
考察するための手掛かりはいくつもあったのだろう。流星群のときや、夜河さんのときも頼ることになったし。
極めつけはおそらく、この前、ガラスと特殊フィルム、それから映写機を返却したときのことだ。無傷で返せと言われていただけに、けっこう叱られた。砕けたガラスに適当な理由をつけたが、どこで壊したのかを問いただされて、とうとうあの交差点の場所を白状した。杏子さんはきっと交差点を調べて、あそこで起きた事故や
「まあ、華が認めるなら本当にいるんでしょうね、幽霊」
「ずいぶんあっさりしてますね」
「そこまで興味ないし。生きている人間のほうがわたしは好き」
「生きている男、でしょう」
「うるさい。ねえ、ところでそれは何の薬品?」
杏子さんが話題を変えて、私の手元のメスシリンダーを指さしてくる。中に入っているのは透明な液体。
「アセトンです。過塩素酸カルシウムに加えようと思って、とっておいてました」
「は?」
杏子さんはその意味をすぐに理解したらしかった。表情が
過塩素酸カルシウムにアセトンを加えれば、できあがるのはクロロホルムである。
「漫画やフィクションの世界ではよくひとを眠らせるのに使っていたりしますけど、実はそれほど睡眠作用はないんですよね。ハンカチに染み込ませて下手にかがせようとしたら、液体が気化して自分が吸って頭痛を起こす、とかありそう。治療では麻酔剤としても利用されてますが、一定量を超えて服用したら呼吸や血圧の低下は避けられないでしょうね。最近の研究じゃ、発がん性も疑われている液体ですよ」
「あんた、そんなものつくろうとしてたの? 意味わかってるの?」
「もちろんです」
クロロホルムは特定化学薬物の一種だから、資格免許を持たない私がつくれば法律違反であっという間に逮捕だ。もしバレるとしたら杏子さんにだったから、もし私があの四月の時点でクロロホルムをつくっていれば、杏子さんは自分の家族を警察に通報しなければいけなかったことになる。いま考えればどうかしていたけど、少し前の私は別にそれでもいいと思っていた。
クロロホルムの次は硫酸の生成にも興味があったし、重クロム酸や三酸化ヒ素もいずれはと思っていた。亜硝酸アミル、硫化水銀、ヒドラジンなんていうのも、私の携帯の生成予定メモに残っていた。すべて劇薬だ。
よいストレス解消になると思ったのだ。たとえば、外から聞こえてくる構内の学生のはしゃぎ声がうっとうしいとき。コンビニで並んでいたら、同じ大学のグループにレジ前で
「あんたって、強いのか弱いのか、わからない」
「私もです」
杏子さんは私を叱ることなく、そして冗談めかして笑うこともなく、そのまま去って行った。
いまの私には、飾がいてくれる。
だから大丈夫。
ほら、足音が聞こえてきた。
「おはよー華ちゃんっ」
いつものように毛先を跳ねさせて、軽快に飾があらわれる。ドアの開け方が相変わらずうるさい。あやまってこいつが割らないよう、薬品を端に寄せる。
「なにしてたの?」
「いいや、別になんでも」
「そんなことより、朝ごはん買ってきたよ、カロリーメイト、メロンパン、しゃけのおにぎり、こんにゃくゼリー、華ちゃんはどれがいい?」
「こんにゃくゼリー」
飾がソファで一緒に食べようというので、仕方なく移動した。食べていると、横からデジカメを取り出してきた。幽霊の成仏を証明するために使ってきた、あのデジカメだ。どうしていま、そんなものを出したのだろう。
「一緒に撮ろうよ。自撮り、自撮り」
「嫌だよ」
「ええぇ~、なんで、いいじゃん」
「光を電気信号に変える個体撮像素子を使って撮影されることになんて、価値を感じない。それに旧式のデジカメはファインダーの精度だって……」
「あーはいはい、もういい。わかったから、撮るよ」
飾は話をさえぎり、強引に身を寄せてくる。驚いたせいで、思わずこんにゃくゼリーを押しつぶしてしまった。ふたからこぼれそうになって、あわてて口に含む。その間に飾はカメラの準備を終える。いまにもボタンを押しそうだった。
「ほら、華ちゃん。もっと寄ってよ」
「う、うるさいな」
飾が、ぎゅうと、
飾が画像を確認しようと離れて、ようやく落ち着く。ひとに密着される経験がないから対応に困るのだ。
確認していた飾が、あ、と声をあげた。何事かと顔をあげる。
「どうした?」
「あ、えーっと」
歯切れの悪い返事だった。写りでも悪かったのだろうか。ブレるか何かしたのだろうか。
いや、違う。そういう反応ではない。
飾のその微妙な表情を、私はよく知っていた。頼みごとをする前に、そうっとこちらの機嫌をうかがってくる顔。科学オタクの私から協力を引き出そうと、しのびよって、やさしく肩を
幽霊とカメラと聞けば、事情にうとい私でも、さすがに思い当たった。どうやら化学実験をする余裕もないらしい。
霊感女は言ってくる。
「とりあえず、視てみない?」
(了)