かざりえる視界のことを、ふと考えた。常に幽霊が視え続ける世界というのは、どんなものなのだろうか。

 彼女はまったく幽霊におびえたりしない。久々に会った友人と話すみたいに、簡単に距離を詰めている。同じ人間として、接している。他人に見えないものが自分に見えるという不安を、飾からはあまり感じない。

 飾が幽霊を視始めて、彼女自身のなかで一番変わったのは、きっと死生観だと思う。そこばかりは、私にもたどりつけない境地(解釈)に、きっと立っている。

 ひとは、同調から外れたものから順番に疎外していく。幽霊が視えるというのは、充分、同調から外れる理由になるはずだ。飾はその部分と、どう向き合っているのだろうか。何か、苦労はしているのだろうか。

「この桜プリン、すごいしい! 華ちゃんも食べる? ねえ。ねえ、ねえ?」

「…………」

 飾はソファにくつろぎ、コンビニで買ってきたプリンを食べて、満面の笑みを浮かべている。足をおおげさにじたばたさせて、床からほこりも立たせている。少しでも心配した時間を設けた自分を、硫酸で溶かしたかった。

「色もピンクで可愛かわいいし、これ最高だよ。一口でいいから食べてみなよ」

「いらない、そんな合成着色料にまみれた添加物満載の加工食品」

「うわ、ひねくれてるぅ……」

 火曜日は二限がいているので、お互いに部室ラボで時間をつぶすことが多い。ここにいる間、私は実験やソラのメンテナンス、もしくはサイエンス誌や実験器具カタログの講読で、飾はいつも何かしら食っている。

「私はこんにゃくゼリーで充分なの」

「でもこれ限定品だよ? もう売られないかもしれないよ」

「限定品?」

「そう、限定品。いましか食べられない。手の届くのはこれが最後かも」

「…………一口だけなら、食べなくもないけど」

「いいよ。ほら、あーん」

「なんでスプーンに載せてよこすんだ。普通にカップごとで……」

「だってそのほうが可愛いじゃん。あと、一口の量をこっちで調整したい」

「後半が本音だろ」

「もー、食べたくないの? あげないよ、ほら、あーん」

 スプーンに一口分を載せて、差し出してくる。私が口を開けるのを待っている。こんなところ、誰かに見られたらたまったものじゃない。ここが部室で本当によかった。

 口を開ける。

「あー、う……」

 そのときだった。

 ドアが開き、まぶたをこすりながら、眠そうなきょうさんがやってきた。

「華、あんたがこの前、ヨウ化銀を貸せだのロケットを使わせろだのちゃ言うから、またあの研究グループのアシスタントをする羽目になったんだけど、これがもう地獄で……」

 言い終える前に、私と飾の光景をとらえ、口を閉じる。まぶたをこすり、もう一度確認してくる。その間、ごまかせばいいのに、なぜか飾も私も動けなかった。

「ごめん、出なおす。お取り込み中だったね」

「違うから!」

 出ていく杏子さんを慌てて追う。その前に桜プリンもちゃっかりいただく。そんなに美味しくなかった。可愛いだけだった。

「ちょっと杏子さん、何を想像しているか知らないけど、誤解だから」

「あんたと飾ちゃんがそこまで発展してたとはね。ごめんなさい気付けなくて」

「だから違うって!」

「友達ができない子だとは思ってたけど、そっちの気があったのなら仕方ないわよね。わきあがる衝動を必死に隠しているのは、さぞかしつらかったことでしょう」

「頭をなでるな!」

 手をはたいて、抗議する。杏子さんはこらえきれずに演技をやめて、高笑いを始める。ひとは他人の弱みを握ると、これほどまでにすがすがしい笑い方ができるのか。

「いつものねっちょり観察の仕返しよ」

「ねっちょりとか言わないでください」

「広められたくなかったら、プライベートな詮索はしないこと。いい?」

「わかりました、最近彼氏ができたけどほかの男も気になって少し揺れている杏子さん。今日、その彼氏とはまた別の男と会う約束がある杏子さん」

 スキャン結果の理由もきかず、私のほおをつねってこねくりまわしたあと、杏子さんはさっさと行ってしまった。

 痛む頬をさすりながら、部室に戻る。飾はプリンを食べ終えていた。

「ところで華ちゃん、昨日からなんだけどね、学食にちょっと怪しいひとがいるの。幽霊じゃないかなって」

「…………」

 私のなかの辞書から、休息という言葉はきっともう消えた。

 一度話しだしたら、話題が一区切りつくまで飾は絶対にゆずらない。だからここは聞くフリだけをして、関わらないと決めておく。

「学食って、どっちのほう? 構内? 中庭?」

「講内、三号館のほう。中庭のほうはみんな、食堂って呼んでるね。教授さんとかがよく利用するから」

「ちょっと怪しい、っていうのはどういう意味? ひとめでわかるんじゃないの?」

「その子、ひとりでお昼を食べてたの。幽霊だったら、その、もう少しまわりの目を気にしたり、気をつかう態度を取ったりするんだけど、それもない。だから純粋に、寂しく食べてるだけかもわからないから」

「あんた、もしそれが勘違いだったら失礼すぎる……」

 遠目だと、単純にひとりでいる人間なのか、幽霊なのかを見分けられない。飾の力の思わぬ欠点だった。

「話しかけようと思ったら行っちゃったし。それにね、幽霊との最初のコミュニケーションは結構大事で」

「だから話しかける前に、あんたの力のことを知ってて、かつ一般人の私を同行して確かめさせようって? お断り」

「手伝ってくれなかったらここを辞めてサークルをつぶしちゃうよ」

「ストレートに脅すなよ……」

 ふふん、と鼻をならしなぜか得意げだった。これで決まったとでも言いたそうだった。実際そうではあるけど、それにしたって芸がない。そして私がそんな脅しを予測していなかったわけがない。

「ここを離れたら、飾のほうこそ私に協力してもらえなくなって困るんじゃない?」

 予想していなかった反論に、わかりやすく戸惑う飾。勝ったと思えたのはしかし一瞬だった。彼女の携帯がふと振動して、メールを確認した飾の表情があっという間に変わる。

「これをプリントアウトして構内にばらまいてもいいんだけどなぁ」

 飾が見せてきたのは、さっきの私たちの写真だった。飾のスプーンに向かって、目を閉じて口を大きく開ける私の姿。杏子さんがあの一瞬に、こっそり撮影していたのだ。

 言葉に詰まっていると、チャイムが鳴った。二限が終わり、昼休みの時間になる。

 飾が立ちあがり、これ見よがしに言ってくる。

「おなかが空いたから、学食にでも行かない?」



 たまに音程のずれる飾の鼻歌と一緒に学食へ向かう。音程がずれるのは、携帯をながめて、うふっ、と笑うからだ。杏子さんから送られてきたさっきの画像を、もう何度も見ている。途中で操作を始めて、待ちうけにしようとしていたので、全力で止めた。

 学食につくと、二限終わりのピークだからか、学生で列がごったがえしている。話し声で常に音がやまない。私には一時間もいれば限界の場所だった。食券を買う列は外にまではみだしている。列を見て諦めたように、近くのコンビニに進路を変える学生も出てくる。

 食券を買ってから、今度は食事が差し出されるカウンターにまた並びなおす。定食やどんぶりもの、麺もので列を分けだしたのは今年からだ。去年はもっとひどかった。

「そういえば、その幽霊候補は食事を取っていたって言ってなかった?」

「うん。アジフライ定食を食べてたよ」

「定食を取るには券売機で食券を買って、カウンターで配給係に渡し、食事を受け取る必要がある。生きてる人間とのやり取りが成立してるってことは、人間じゃないの?」

 そうとも言えない、と飾は首を横に振る。

「幽霊は、いろんなときの自分を記憶で再現できるから」

「どういうこと? 死んだ当時の自分の状況や服装を再現できるっていうのは、この前聞いたけど、……って、ああ、そういうことか」

 死んだ当時の自分も、つまりは記憶の一部で、再現が可能だったのだ。

 意識的か無意識かは別として、過去の自分の服装や、その場所で食べていたものを記憶していれば、その場に再現して体験することができる。飾が言いたいのは、そういうことだろう。

「夜河さんはずっと同じ服装だったけど」

「あのひとは大人しそうに見えて、意外と面倒くさがりだったから」

 飾が思い出して笑う。

「幽霊は体臭もないから、別に汚さとかも気にならないけどね」

 彼ら彼女らにとって、幽霊でいる間は時間が止まっているのと同じことなのだろう。食事を取ったところではいせつはしない。記憶を呼び起こそうとすれば別だが、究極、食事すらも必要ない。

 飾が室内の奥まで進む。問題の学生を見つけたのか、途中で足をとめた。

 指をさす先には、この込み合ったなかで奇跡的に空いている窓ぎわの席がある。たぶん、その手前のスペースでグループがはしゃぎながら食事を取っているから、誰も奥に行こうとしないのだろう。

「ひとがたくさんいてわからない。一応、特徴を教えて」私が言った。

「あたしの髪を少し暗くして、ストレートにした感じ。あと白いヘアピン。服装は、灰色のパーカ。大人しげな感じのひと。どう、華ちゃんにも見える?」

「ううん……」

 手がかりを頼りにもう一度、指をさした周辺を探してみる。やはりそれらしい女子はいなかった。

「食べてるのは、今日もアジフライ定食だと思う」

「やっぱり見つからない」

「なるほど。じゃあやっぱり、あのひとは幽霊だ」

「本当にそうな……」

 言いかけたそのときだった。

 飾ーっ! と、私の声を圧倒的な声量でかき消す女子の声が、背後で聞こえた。

 飾がそれに反応して振り返る。おそるおそる私も続くと、女子の四人組が近寄ってくる。顔を知っているひとは一人もいなかった。

「ゆみ、めい、つかさ、なつき。みんなもお昼?」

 それぞれの顔を見ながら、飾があいさつを交わす。飾の言葉に、ゆみか、めいか、つかさか、なつきとやらが答える。

「いやー、やっぱり混んでるから大学の外のラーメン屋さんにしようかと。あ、この前ノートありがとね」

「ぜんぜんいいよ、あずは?」

「あの子はまたサボリ」

「ねえ、あいつ起こしがてら、あずの家に昼食買いこんで突入するのはどう?」

「いいねっ。飾もくる?」

「そういえばこの前、めいが講義中にね……」

 誰がどんな言葉を発しているか、その会話の話についていけなくなる。飾も四人も、私の存在など見えていないかのように、話題を続ける。

 飾がちらりと私を見た。もしくは、私の後ろにいる幽霊を見た。

「ごめん。また今度にしとく。用事もあるし」飾が言った。すぐに納得したように、それぞれが去っていく。

「あれ? そういえばその子は?」

 女子のひとりが残り、私を見つめてくる。内臓をくまなく観察されるような、変な気分になる。見つめないでほしい。

うきしまはなちゃん。同じサークルの子なんだ」

「そっか、飾もサークル入ってたか! なんていうサークルだっけ?」

 飾が答えようとしたところで、先に歩きだした女子三人が、残ったひとりを呼んだ。飾が手を振って四人を見送ってから、ようやくこちらに向き直る。

「ごめんね、華ちゃん」飾が言った。

「なんのこと」

「その、時間取られちゃって」

「別にいいけど」

「……華ちゃん、なんか怒ってる?」

「なんで? 私が怒る理由とか別になくない?」

「やっぱり、なんでもない」

 私はいまどんな顔をしているのだろうか。いつもはしつこく追及してくる飾が、それをしてこないところに、手がかりがある気がした。

 怒ってる? と聞いてきた。なんでそんな質問が飛んでくるのか。

 不機嫌そうな顔でもしているのか。なんで飾のことで私が怒らなくちゃいけないのだ。時間を取られたから? ああ、それは少しあるかもしれない。うん、きっとそのせいだ。

 目の前のことにとりかかる。こんなことを思う日がくるとは思わなかったけど、幽霊がいてくれて、なんだかちょうどよかった。

 飾が机をはさんだ向かい側に移動する。私はそのまままっすぐ、窓際へ進む。幽霊が座っていると思われる席の目の前だった。

 二手に分かれる直前、飾が「お互いが話していると見える風にしよう」と提案してきた。確かに私と飾が二人並んで、何もない空席に向かって会話をしていれば、さすがに隣のグループの誰かに怪しまれる。

 私が席につくと同時、目の前の空席に向かって、そっと飾が語りかけた。

「横、座ってもいいですか?」

 少しの間があいて、ぺこりとお辞儀をし、飾も席につく。机の下で飾が自分の足の向こうずねを押しつけてくる。すねのあたりでその皮膚の感触を受け止めると同時、目の前に問題の幽霊があらわれた。

 こげ茶色の髪に、白のヘアピン。服装は灰色のパーカ。目の前に、さっきまで存在していなかったはずのアジフライ定食があらわれる。彼女は箸をつかみ、アジフライの切れ端を口に運ぼうとしていた。

 あまり気分のよさそうな顔をしていなかった。幽霊に、「顔色いいね」と言う機会もなさそうだけど。目が合いかけたところで、携帯が鳴った。メールの相手は目の前の飾からだった。

『自分が幽霊だと気付いていないひとも多い。このひとはたぶん、幽霊になったばかり。あたしに少し話させてくれる?』

 返事をせずに携帯を閉じる。足で飾を小突き、促してやる。

 飾が女子にほんの少しだけ寄り、さっそく話しかける。

「アジフライ、おいしいです?」

「……え?」

「ごめんなさい。いつもここにいるひとじゃないなって思ったから、つい話しかけちゃいました。講義が少ない三年生とかですか?」

「二年生よ。もしかしてここ、あなたの席だった? ごめんなさい」

「いいえ、そんなんじゃ。あたし一年生で、友達とかいないから、いま手当たり次第にきれいなひとに声かけたりしてるんですよ。気持ち悪いですよね、あは」

 うそつき。

 と、誰かの言葉が頭をよぎる。それは自分の声で、再生されたものだった。

 飾の言葉に、女子が笑う。顔が少し明るくなり、今度はむこうから飾に話しだす。

「わたしもよく学食で話しかけてた。一年って必修が多いからクラスかぶるでしょ? だから知ってる顔のひとのところに行って、その定食、美味しい? とか言って」

「あはは! あたしもまったく同じことしましたっ」

 女子の声はがらがらとしていて、のどに何かがつまっているみたいだった。ときどきかすれて、聞こえにくくなる。飾も気付いているはずだが、たぶん気にしないフリをしている。

「学部はどこですか?」

「心理学部。あなたは?」

「人間環境学部です。系統が近いから、かぶってる講義、あるかもですね。あたし、飾っていいます」

「わたしはことぶき。名前は七音。七つの音って書いて、ななね」

 まだ話し始めて五分もっていない。それなのに、すっかり知人みたいに会話を続けている。おまけに学年と、名前まで聞き出した。私の知らない四ツ谷飾がそこにいた。

 そしてわからなくなっている。私に見せている顔が本物なのか、それともいままで話していた飾が偽者で、こちらが本当の顔なのか。あの四人組、飾の友達。あんなの、私は知らない。聞いていない。

「素敵な名前ですね。音楽か何か、やってるんですか?」

「んー? 秘密」

「そこ隠すんですかっ! 気になります」

 わいわいとはしゃぐ二人。そばから見れば、そこには飾しかいない。向かいには無口な女である私が座っているだけで、とても会話をしている風には見えない。そのはずなのに、なぜか周囲は誰も飾のことを気にしない。気付かない。ひとりでしゃべっている光景なのに、まわりのけんそうと溶けこんでいる。どうやったらこんなことができるのか。

「飾ちゃんの話も聞かせて」

「いいですよ。悩みがあるんです、あたし。この癖っ毛が、何を試してもなおらなくて。もう高校生のころからおしゃれは諦めてます」

「そう? かわいいけど、なんだか愛されキャラって感じで」

「琴吹さんは悩みとかないんですか?」

 飾がようやく踏み込んだのがわかった。やっと聞き出す気でいる。遅い。まわりくどい。いままでの会話はなんだったんだ。見せつけようとしてるのか。

「わたしか、わたしはねぇ……」

 飾と触れていないほうの右膝が気付けば揺れている。貧乏ゆすりなんて、実験に失敗したときくらいしかやらないのに、どうしていま、こんなにもいらついているのか。

 我慢できなかった。こんなところ、早く抜け出して終わりにしたかった。

「アジフライ」

「え?」

 琴吹さんが私の声に反応して、向いてくる。さっき一瞬、目が合ったはずなのに、もう存在を忘れていたような顔だった。いつの間に座っていたのだと、不思議そうだった。

 予想外の行動だったのか、飾が言葉を失っていた。口が開きっぱで、少し間抜けだ。

「そのアジフライはどうやって取ってきたんですか?」「あなた、は?」

「いいから教えてください。アジフライ定食は今日、どうやってそこに置いたんですか?」

「ふ、普通に食券を買って、カウンターに並んで」

「本当に? 本当に並びましたか? 食券を買いましたか?」

「ちょっと、華ちゃん……っ!」

 身を軽く乗り出し、小声で訴えてくる。琴吹さんに気付かれずに抗議したかったようだが、あせりが先行してうまくいっていない。知り合い? と隣の琴吹さんに聞かれ、飾が答えに困っている隙にさらに続ける。

「本当は買っていないんじゃないんですか? 座っていたら、自動的に、無意識的にそこにあったんじゃないんですか?」

「なにを、言ってるの」

「思い出してください。つい、さっきのことでしょう?」

「…………ちゃんと、食券を買って」

「記憶に自信がないのでしょう。ほら、もう机から消えている」

 手元をさして、琴吹さんに視線を向けさせる。いままでそこにあったはずの定食と、握っていた箸は消えていた。記憶があいまいになったからだ。自分のなかでの整理がつかず、混乱をきたしたから、再現が不可能になった。理屈がわかれば、こんな風に揺さぶれる。少し強引な方法ではあるけど、このほうがてっとり早い。

「今日、どうやってここまで来ましたか?」

「家から」

「本当に? どんな服を着て?」

「なんで、なにこれ、わたし、パーカと白のスカートで」

「それは亡くなった当日の服装ではないでしょう?」

「当日って、なにが……」

 声がかすれて、途切れる。琴吹さんの顔が青ざめていた。

 瞬間、琴吹さんの服装が変わる。茶色のネックセーター。秋、もしくは冬の格好。自分の服装の変化に驚いた琴吹さんは、はっと、息を吸いすぎたのか、苦しそうになる。

「最後に覚えていることはなんですか?」さらにく。

「どうしてそんなこと訊くの?」

「あなたのことを訊いてるんです。最後の記憶は?」

「……文化祭があった。つい先週。でもおかしい、あっという間に構内が片付いてる。わたし、委員会で、片付けがあったはずなのに。参加した記憶がない。出店のテントも、看板も、どこにもない。どうして?」

 喉を震わせ、声をかすれさせながら、それでも続ける。

「ねえ、今日は何日なの? いったいどういうこと? いまは十月でしょ? 二〇一七年の十月でしょ?」

 私は携帯を開き、その画面を見せてやる。

 表示されているのは、『2019年5月8日』の文字。

 黙って固まったままの琴吹さんに、告げる。

「いまは梅雨前です。秋の服装をしているのは、あなただけ。琴吹さん、自分が亡くなったときのことを覚えていますか?」

 そこで琴吹さんが立ちあがる。その勢いでイスが動く。何人かがこちらに視線を向ける。とつぜん動いたイスを眺めるだけで、誰も琴吹さんを見ようとしない。飾の言うとおり、お世辞は抜きでほかの学生よりも整った容姿をしている琴吹さん。そんな彼女を誰も見ない。彼女にとっては、違和感を、ますます助長させることになる。

 琴吹さんが走りだし、あっという間に姿が追えなくなる。私に目もくれず、飾もそのあとを追っていく。

 いつまでもここにいる理由はないので私も席を立つ。ひとの混み合う出入り口でなく、裏口からこっそり学食を出た。

 部室ラボに戻る途中で、背中から大声で名前を呼ばれる。振り返らずにいると、肩をつかまれた。走ってきたせいか、いつも跳ねている毛先が、さらにからまっている。

「華ちゃん、さっきの何っ、どういうこと?」

「別に。どうせ宣告するから、早いほうがいいでしょ」

「あたしにまかせてくれれば……」

「じゃあもう私が手伝わないほうがいいんじゃない? 足を引っ張りたくないし」

 何か言いかけて、口を閉じる。ひとの多いところに行ったからだ。だからストレスがまった。それだけ。

「華ちゃん……」

「用がないならラボに戻ってるから」

「琴吹さんを見つけて、明日もう一度、会ってくれることになったの。華ちゃんも、手伝ってくれる?」

「……手伝えることなんてあるの?」

「話を聞いてみる。一緒にいてよ。気になることもあるんだ」

「気になること、って?」

 なんだか不吉な含みを感じて、思わず訊き返した。

 飾自身もいまだにみ込めていない様子で、語りだす。

「さっき華ちゃんと話していたとき、琴吹さん、いまが二〇一七年って話したでしょ?」

「二年近く勘違いしてたね。それが?」

「あたしがいままで会ってきた幽霊とは、違う。こんなのありえない。普通は亡くなった直後に幽霊になって、さまよい始める。あたし、毎日構内を歩きまわってるけど、あのひとはつい最近、ここにあらわれた。二年以上、ずっといるようにも見えなかった」

「つまり?」

 さらに促すと、飾にしては珍しく、簡潔に答えた。

「琴吹さんには亡くなってから二年間の記憶がない。それはいったい、どうして?」



 大学に向かう途中、昨日のことを思い出して、うー、あー、と変な声がもれる。声だけじゃなく挙動もおかしかったのだろう、前から来るひとにも露骨に距離を取られた。

 昨日の自分の暴走がよくわからなかった。感情的になっていたのは確かなのに、何に対して感情のスイッチが入ったのかがあいまいだった。昨日の段階であれば整理もできたはずなのに、いまは夢から覚めたみたいに、かけらの記憶しか残っていない。

 ラボがある一号館の前で飾と会ったとき、すごく恥ずかしい気分になった。できれば顔を合わせたくなかった。昨日と今日で、きっと飾のなかで私の評価が変わっている。まともに会話をする関係は、続いているのだろうか。

「おはよ、華ちゃん。ほらいこ、琴吹さん待ってるよっ」

「……あ、うん」

「その前にお腹すいたから、学食のおにぎり買ってきていい? 生きている人間は食べないとね」

「いきなり不謹慎だな」

 私の心配など的外れであるかのように、飾はいつもどおりにふるまってきた。彼女にしてはブラックなジョークまでたずさえている。私に合わせようとしているのだろうか。

 おにぎりを食べる飾に誘導されながら、進んでいく。

「どこで待ってるの?」

「中庭。ベンチに座ってるって」

 構内の坂を少し下り、目的の中庭につく。あるのはテーブルとイス、校舎の壁に沿って設置されたベンチ。それから食堂。学生は学食を使うが、この食堂は教授のようたしという暗黙がある。

 周囲を講義棟に挟まれていて、ここで見る空は少し窮屈だ。いまは講義中だから、学生の数も少ない。特に朝の一限の間は静かだ。何人かがテーブルについて、トランプに興じている。風が吹いて、カードが何枚か飛ばされていった。

「ほら、あそこにいる」

 何気ない動作で、今回もいつのまにか腕を取られていた。飾の手の温度が伝わり、しみわたると同時、視界が変わる。指した先のベンチで琴吹さんが座っていた。学生カバンも何もない、ネックセーターを着た、シンプルな格好。うつむいていて、表情は見えない。

「おはようございます、琴吹さん」

 飾が話しかけると、琴吹さんが顔をあげる。小さな針で刺されているみたいに口をゆがませて、そっと語ってくる。

「家に帰った記憶がないの。昨日、飾ちゃんと待ち合わせの約束をして、しばらく考え事をしていたら、もうここにいた。やっぱりわたし、死んだの? いったいどうして?」

「それを一緒に探す手伝いを、させてください。こっちの華ちゃんはすごく物知りで、いろんな手がかりや答えに気付いてくれます」飾が言った。

 琴吹さんが私を見る。何か言うべきだと思って、最初に思ったことがそのまま言葉になって出た。

「昨日は、追いこむマネをして、すみませんでした」

「いいの。気付かせてくれようとしていたんでしょ? 本当はわたし自身も、きっとどこかでわかってた。わかってたけど、見ないフリをしてた」

「……見ないフリ」

「気持ちも、昨日よりは落ち着いてる。いまは自分が、どうして死ぬことになったのかを知りたい」

 琴吹さんの声が、それに合わせていきなり変わった。声のかすれがぴたりとやんで、口調がはきはきとする。

「飾ちゃんと華ちゃんは、わたしのことを手伝うって言ってくれたけど、具体的には、どうすればいい?」

 これまでの動揺が嘘のようだった。がらがらと、ひり出すようなしゃべり方ではなくなっている。一切の無駄をそぎ落とした、澄んだ声になっていた。まるで別人だ。この声が、きっと琴吹さんの本来の声なのだと直感する。声の印象が変わるだけで、見た目まできれいに見えてくる感覚は新鮮だった。

 横の飾も声の変化に気付き、ぽかんと口を開けたままだ。飾は戸惑ったり驚いたりすることがあると、よく間抜けに口を開ける。肘で小突くと、我に返り、質問を始める。

「きっとよくは思い出せないと思うんですけど、亡くなる直前の記憶を再現することって、可能ですか?」

「ここなの」

「え?」

「わたしが死んだのは、たぶん、この場所。この中庭の、いまちょうどあなたたちが立っているところ」

 思わず身を引いてほかの地面に移ろうとしたが、飾にじっとにらまれてとめられた。なるほど、デリカシー。

 琴吹さんは自分の死を思い出そうとしていた。だから昨日の段階で、ここを待ち合わせ場所に指定した。

「何かが飛んできたの」

 琴吹さんが言う。

「虹みたいなのが、飛んできた」

「虹、ですか?」

「それが体に当たった。すごい衝撃で、急に、苦しくなった」

「そういえば昨日、文化祭の話をしていましたよね。亡くなったのは、文化祭のとき?」

「二年前、わたしはここで設備の片付けをしてたの。委員会に入ってたから。設備の準備をしたり、片付けを手伝うボランティアみたいなものね」

 琴吹さんの記憶には二年間のタイムラグがある、それが幽霊的には普通じゃないことを、飾は琴吹さんに告げようとしない。なので私もその意思に従う。

「当時の文化祭のこと、私たちで調べてみます」

「わたしはこのへんをぶらぶらしてようかな」

「その、えっと、大丈夫ですか?」

 どう気遣えばいいかわからなくて、ストレートな質問になってしまう。琴吹さんは察してくれたのか、そっと笑い、自分の話をしてくれた。

「まだまだ納得できないこと、いっぱいあるよ。けど、自分がどうして死ぬことになったかも知らないのは、なんだか気持ち悪いから」

「死の原因を突き止める以外に、なにか未練はありますか?」

 少しの沈黙があり、琴吹さんは恥ずかしそうに頬をかいて、告白してきた。

「わたし、歌手を目指してたの」

「……なるほど。確かに声がきれい」

 ぼそりと、本音がこぼれる。言うつもりはなかったのに、言葉に出ていた。琴吹さんは一番の笑顔を見せた。

「中学生のころ、いまの華ちゃんみたいに、わたしの声を褒めてくれる友達がいたの。高校の終わりごろにそれを思い出して、ちょっとした思い出づくりにオーディションを受けたの。そしたら事務所に来ないかって。大学の進学も決まってたから、通いながらレッスンにも行ってた」

「亡くなったとき、やりかけてた仕事があったんですか?」

「なかった。去年、何度かライブはやったけど、それきり。両親も音にちなんだ名前をつけてくれたから、せめて音に関わる仕事で恩返ししたいなって」

 歌手になりたいという夢が、亡くなったことでついえる。それはここにとどまる未練には、充分理由になる気がした。

 死の原因がわかっていないこともいまは問題だが、いざ解決したとき、琴吹さんはそれだけで納得するのだろうか。



「という感じで、なんとなく今回も巻き込まれてるのが気に食わない」

「ええぇ……。いまさらですか。どうやったら華ちゃんの機嫌はよくなりますか」

 ラボに戻りながら、飾に小言を連発してやった。昨日の時点で巻き込まれることはわかっていたけど。琴吹さんの言葉を借りるなら、見て見ぬフリをしていた。だからせめて、飾を困らせてやろうと思った。

「私が幽霊が苦手なのを、改めて肝に銘じておいて。気安く頼んでくるな」

「でも知り合ったら怖くなくなるでしょ?」

「知り合う前が怖いんだよ。ファーストコンタクトでびびるんだよ。今回はまだマシだからいいけど」

「それはびびらせてみろという、前フリ?」

 いたずらに笑いながら、講義があるからと言って飾は去っていった。私が講義に出るかどうかを気にしていたが、ラボに教材を置いていると言ってごまかした。あってもなくても講義には行かない。ときどき、自分が何学部なのかも忘れるくらいだ。

 ラボに戻り、冷蔵庫からこんにゃくゼリーをひとつ取る。口に放りながら、窓際の実験スペースに設置している相棒のドローンを起動する。

『おはようございます、ハナ。知識の格納庫にご用件ですか?』

「あんまり飛べていないからってねないで。今度散歩させてあげるから。早速だけど調べてほしいことがあるの、二年前のこの大学の文化祭について」

 じじ、とソラの内部で機械の動作音がする。五秒もしないうちに返事がくる。

『二年前の文化祭は十月二十三日です』

「やけに早いね」

『ツイッターで調べました。こういう地域性に特化した情報は、SNSでの収集が便利なんです』

「え、あなたツイッターなんてやってるの? ドローンなのに……」

 私ですらやっていない。身近な人工知能に、思わぬ先の越され方をした。

『フォロワーは二〇二四人います』

「地味に多いな!」

『いまも募集中、なう、です』

「ツイッターのことはよく知らないけど、あなたが無理をしているのはわかった。それで、文化祭の情報は?」

『この年の文化祭は台風で中止になっています』

「中止?」

 じゃあ琴吹さんが言っていた片付けとは、文化祭後のことではなく、中止による当日の撤去だということか。

「その日に大学でひとが死亡したっていうニュースはない?」

 また数秒の間があいて、検索を終えたソラが答える。

『死亡の記事はありません』

「本当? 文化祭って二日間は行われるけど、両方とも?」

『死亡の記事は見つかりませんでした』

 機械的な報告を済ませるソラだった。

 メディアが報道していない。最近の死亡事故とは、案外そんなものなのだろうか。

「休みながらでいいから、当時のテレビのニュース映像を検索して、この大学での死亡事故がないかを探してみて」

『了解、結果はメールでお送りしておきます』

 カメラの機能がオフになり、体の光の点滅が消える。だが内部では、各パーツの機械がいまだに稼働している音がする。サボってはいないようだ。基本的に命令は無視できないので、当たり前だけど。

 ソファに腰を下ろす前に、もうひとつ情報収集。今度は杏子さんに電話をかける。今日は確か休みだと言っていた。応答するか微妙だったが、三コール目で出た。

「あんたの弱み写真なら消去に一万円」

「自分の大学の学生をゆするな。そうじゃなくて、教えてほしいことがあるんです」

「それは休みを返上しても得があること?」

「……一か月、観察しないことを約束します」

「言ってごらん」

「二年前ってすでにここの大学で教授やってましたよね? 二〇一七年の文化祭、覚えてませんか?」

「わたしが文化祭に参加するタイプだと思う?」

 サボる絶好の機会だととらえるだろう。話題と聞き方を変えたほうがいいかもしれない。もっと直接的な情報が欲しかった。

「心理学部の学生に、琴吹七音さんっていたと思うんですけど、そのひとについて、知っていることを教えてほしいです。教授特権でいろいろ調べてください」

「別にいいけど、華が思ってるほど教授って偉くないよ」

「じゃあ、杏子さんが偉いことを証明してください」

「またかけなおす」

 電話が切れた。これで情報を待つだけ。飾は今日は三限までと言っていたから、そのときまた中庭に集合すればいい。

 おそろしくスムーズに進んだ。飾が抱えている問題なのに、彼女がいないとここまで手早く済む。とはいえまだ情報が足りない。何かを検証するにしても、まずは正確な状況を教えてくれないと進まない。ほかにも情報が得られそうな場所を考えながら、あとは余った時間で、実験でもしながら待っていよう。

「そうだ。ねえ飾。今度やろうと思ってる実験が……」

 振り向くと、誰もいなかった。言いかけて口を閉じる。さっきまで彼女はいないと自分で認識していたはずだったのに、もう忘れている。こんな感覚を味わったのは、いつ以来だろう。

 飾のいないラボは、少しだけ広い。



 三限終了のチャイムが鳴り、学生が教場からごったがえして出てくるのを、建物の震動と、外の会話や笑い声の多さで悟る。十分経つと少しマシになり、そこで待ち合わせ場所をまた中庭にして、白衣に着替え、飾と再会した。飾は朝と同じベンチに座っていた。

「琴吹さんはいるの?」私が訊いた。

「うん、来てるよ。会う?」

「大丈夫」

 飾の伸ばしてきた手をかわす。さっきのラボ内でのスムーズな流れをかし、不必要な会話は極力しないことに決めた。聞きたいことがあれば飾を通してもらう。やり取りが何往復もしそうになったら、会うことにする。私は今日中に片付けるつもりだ。これが終われば、きっと変なモヤモヤも解消されるはず。

「ソラと杏子さんに情報収集を手伝ってもらってる。飾は何かわかったことあった?」

「琴吹さんにお願いして、どこまで移動できるか確かめてもらってた。ひと駅以上先には移動できなくて、やっぱりこの場所で、亡くなったみたい」

「あとは?」

 飾は少し黙って、それから答えた。

「やっぱり琴吹さんは、少しおかしい。今まであたしが遭遇してきた幽霊とは少し違う。二年もいるなら、状態が悪化してひとに危害を加え始めてもおかしくない。それなのにそんな兆候もない。二年の記憶が飛んで、いきなり、ここにいる。どういうことなんだろう?」

 飾の今までの経験に当てはまらない、特殊な幽霊。基本的には未練を解消することによってじょうぶつしてきたけど、今回もそれが、当てはまるのだろうか。

「もっと情報を集めよう」私が言った。

「どうやって?」

 あそこに聞く、と指さす先にあるのは、食堂。学生よりも教授が多く利用するという場所。レンガ色の屋根と、食堂のまわりに派手なヤシの木。おもちゃの世界からそのままひっぱってきたみたいな、小さな家だ。窓からちゅうぼうカウンターにいる従業員のおばさんがひとりだけ見える。

「あのひとに聞いてみる。私は人見知りで無理だから四ツ谷がやって。きっと退屈しているだろうし、話も聞いてくれると思う」

「なんでわかるの?」

「カウンターに肘をついて天井を見てる。ここからだとわからないけど、何かのリモコンをいじってるから、きっと天井にテレビがそなえつけられている。チャンネルをしきりに変えていて、面白いものがないので退屈している。それから……」

「ああ、わかった。もういいです」

 飾が私の観察を妨害し、先に進む。琴吹さんはどこにいるのだろうか。わからないので、ひとりぶんのスペースをあけて飾の後ろに続いた。

 食堂に入り、素早く四ツ谷の後ろに隠れ、対応を彼女に任せる。食堂のおばさんは快く質問を聞いてくれた。二年前の文化祭のこともしっかり知っていた。エプロンからいろんな食べ物や油のにおいがすることを我慢すれば、有力なひとだ。

「すごい風だったよ。台風が来てたんだっけね。次の日来てみたら、いろんなものが飛ばされてた。ここからちょうど向かいに岩があるでしょ? ヒビがはいって砕けてるんだけど、備品が飛ばされて当たったのよね。松の木のそばにあるあの岩、庭園の一部みたいで好きだったんだけど。でも、ヤシの木は折れなくてよかったな。ねえ、ところで木っていうのはね……」

 話がそれ始めたので私は外に出ることにする。ちょっと! と小声で四ツ谷が訴えてきたが、聞こえないフリをした。私の観察を妨害せずに最後まで聞いていれば、おしゃべり好きだという回答を聞き逃さずにすんだのだ。

 おばさんが指していた岩に向かう。松の木、地面の芝が整備されていて、確かに庭園に似ている。岩もそういう雰囲気をつくるための一部だったのだろう。

 しゃがみこみ眺めると、確かに無数のヒビがあった。ある一点からヒビが伸びていて、スプーンですくったみたいにえぐられていた。年月が経ち、もとの岩の形と同調して見えるが、確かにここに何かの衝撃が加えられたのがわかる。

 それほど面積の大きいものではない。どちらかといえばとがったもの。だけどここで矛盾が起きる。台風の風で飛ばされるには、質量が軽かったり、それなりに面積の広い物体だったりでないと実現しない。この岩を傷つけられるほどの細く尖った何かを持ち、かつ台風の風に吹き飛ばされるほどの軽さと面積を持っているもの。

 食堂に戻ると、飾とおばさんがプレーリードッグの話をしていた。会話がひと段落してから口を挟もうと思ったが、いつまで経ってもおばさんが話をやめず、あげくに飾も興味深そうに聞きだしていたので、諦めて切り出した。

「岩になんの備品が当たったかとか、覚えてますか?」

「さあ。なんだろう」

「同じ日にここで女子学生が事故にあってると思うんですけど、それは?」

「ごめんね。あたしがここに赴任してきたの、今年なの」

「…………」

 そういえば昔、杏子さんが別れた彼氏のことを話していたときに聞いた言葉がある。おしゃべり好きは、自分が知っていることを、まるで自分が見てきたかのように言うそうだ。私も観察不足だった。

「あなたたち、そんなに二年前の文化祭のことが気になるの?」

「友達が関わってて。いろいろ調べてるんです。事故にあったのが、もしかしたら、その友達かもしれなくて」飾が平然と嘘を言った。

 少し考えるそぶりを見せて、おばさんが答えた。

「備品倉庫のカギは預かってるんだけど、見てみる?」

「えっ」

 飾と同時に声をあげる。ただの食堂の従業員が、どうしてそんなものを持っているのだろう。

「食堂から倉庫が近いから、一緒に管理をまかされてるのよ。食堂の備品も置いていいっていうから、ひきうけた。たぶん、そのなかに文化祭の備品はしまわれてるはずよ」

 言いながら、食堂のドアにかけた看板をクローズにひっくり返し、外に出ていく。あわててついていくと、問題の倉庫がすぐに見つかった。階段のわきにびた扉があり、なんきんじょうが二つかけられている。あまりにも風景に溶け込んでいたので、日常のなかで見逃していた場所だった。

 砂をこするような音とともに扉が開く。なかの空気を無防備に吸い込み、むせる。このひとは料理やおしゃべりに向いていても、倉庫の管理には向いていない。誰もなかに入ろうとせず、外から中身を確認する。

 一番奥に業務用の冷蔵庫。メモを張ってがしたセロハンテープのあとがいくつもある。早く処分しろ。食堂につかっていたであろう垂れ幕。やぶけて、ペンキをこぼしたような濃いシミがある。早く処分しろ。脚が折れたイス数脚。早く処分しろ。

 しばらく眺めて、ようやく文化祭の備品が見つかりだす。パイプイス、ラックテーブル、大量の段ボール資材。それぞれ何かの文字が書かれていて、祭りという一枚を見つける。パーティー用の飾り。大型のスピーカー、ラジカセ。

 そして、見つかった。

『虹みたいなのが、飛んできた』

『虹、ですか?』

『それが体のどこかに当たった。すごい衝撃で、それから急に、苦しくなった』

 思わず倉庫内に入り、それを手に取る。埃がまとわりつくが無視。

 まわりの備品の山を崩しながら引き出し、確認する。胴体は鉄パイプ。軽いから中は空洞。胴体の先にあるビニールは、広げれば風にあおられるだけの面積にはなる。

「虹色だ」

 出店に設置するための、大きなパラソル。

 傘の部分は、埃に埋もれ、風化してやぶけかけながらも、あざやかな虹色を保っていた。

 飾が続いて中に入ってくる。毛先に埃がからまるのが見えた。

「待って、じゃあそれが琴吹さんに当たったってこと?」

「当たったんじゃなくて、刺さった。あの岩のくだけかたや、ヒビの入り方もたぶんそう。台風の風速とパラソルの重量、傘の面積を測れば、これが飛ぶ速度や衝撃を計算することもできるけど」

 パラソルは他にも二十本ほどあった。それぞれがたたまれて、重なって収納されている。胴体部分のパイプにシールが貼られていて、管理番号が振ってある。ひとつずつ確認すると、14番だけが抜けていた。

「パラソルが一本だけ抜けている。使えなくなったから処分した。冷蔵庫や垂れ幕、そういう大きいものよりも先に処分したのは、そうするべき理由があったから。ひとに刺さり、事故が起きたものをいつまでもしまってはおけない」

 飾が横の空間を見つめている。視線を少しあげて、誰かの声を聞くような態度だった。そこに琴吹さんがいるのだと悟る。よく見ると、そのまわりにある埃だけが不規則な方向にただよっていた。この程度の非科学では、もう驚かなくなっている。

 やがて飾が私に向きなおり、こう言ってきた。

「琴吹さんが知りたがっている。自分のどこに、そんなものが刺さったのかって」



 食堂のおばさんが私たちの会話をいぶかしみだしたので、一度引きあげることにする。私たちが去ったあとも、後ろからじっと眺めてくるので、食堂からの視線が避けられるベンチに移動した。

 飾が黙ったまま、じっと私を見つめてくる。琴吹さんが話したがっているのだと悟り、飾の手を取る。

 目の前に、ベンチに座る琴吹さんがあらわれる。その体が震えていた。自分の肩をだいている。寒さにではなく、のしかかる現実に、震えているのだ。歯をならしながら、息をあえがせながら、琴吹さんが言ってくる。

「け、計算なんかいらない。あんなものが、わたしの体のいったいどこに刺さったの? なんでわたしは、……死ぬことになったの?」

 ここに移動するまでの間に、仮説は組み立て終えていた。あとは検証し、確かめるだけ。すなわち、琴吹さん自身に質問し、答えをさぐる。

「以前から、声がかすれたり、ガラガラとした声になったりするクセがありましたか?」

「え?」

 聞かれたことに覚えがなく、なんのことか、本当にわからない様子だった。自分の声の変化に、気付いていなかった。もしくは。

「無意識のうちに当時のことを思い出して、声がかすれるんじゃありませんか?」

「そんなこと……」

 言いかけて口を閉じる。その声がガラガラと、かすれる。普段の澄んだ声が、見る影もなくなる。

「琴吹さんが自分で言っていたように、見て見ぬフリをしていた可能性は? 気付いていないと、思い込んでいた。だけど無意識が、強引に当時の自分を再現する。そして再現されたのは服装だけじゃない。傷を受けた体も、同じように……」

 琴吹さんが言葉の意図を察して、ネックセーターの首元にそっと手をかける。服をひっぱり、肌があらわになる。むきだしになった首には、ぽっかりと赤黒い穴が空いていた。私と飾の視線で、琴吹さんはすべてを察したようだった。嫌、嫌、そんな、と言葉にならない単語をつぶやき始める。

 文化祭の実行委員だった琴吹さんは、台風で中止になった構内の片付けに追われていた。広い中庭には出店やそこに設置されるパラソルの数も膨大だった。そのうちのひとつが風にあおられ、琴吹さんのもとへ飛んでいく。鉄パイプの先が首を直撃し、つらぬく。ほかのパラソルも固定に耐えられず飛び、跳ねて、近くの岩を傷つけた。

 音楽を好む親がつけた七音という名前。彼女は自分の名前を誇りに思い、音につながる仕事につきたいと、歌手を志した。台風の風力、鉄パイプの硬質、ときの運、さまざまな科学は、彼女の命とともに、声さえも奪った。

「こんなの認めない! 死にたくない!」

 琴吹さんが叫ぶ。夜河さんのときに幽霊が自分の感情を制御できなかった場面を見ているが、それとはまた別のように思えた。今回は琴吹さんという人間個人の性格が、混乱を引き起こしている。そして生きている人間や幽霊にかかわらず、混乱したひとは、何をしでかすかわからない。

「死にたくない! 嫌だ、嫌だ、嫌だ。まだ死にたくない! もっと、生きていたい! こんなの、こんなの、こんなの」

 私と飾にそれぞれ視線を向けてくる。いま初めて、私たちがそこにいるのに気付いたかのような表情。何かに耐えられなくなった琴吹さんが、走りだす。その服装が、生にしがみつく彼女の感情に呼応するように、数秒置きに激しく変わっていた。退屈な神様が、チャンネルを変えているようでもあった。

 飾がとめる間もなく、やがて姿が追えなくなる。

「どうするの?」

 横にいる飾に尋ねて、その顔をみて、ぎょっとした。

 飾は自分の髪をなでながら、泣きそうな顔になっていた。その手が震え、いまにもかきむしり始めてしまいそうだった。

「どうしよう。どうしよ、こんなの、どうしたら。ええと、まずは」

 幽霊に向ける感情移入が極端に強い。幽霊と関わるたびに飾の新しい部分を見ている気がする。普段でさえ表情が豊かな彼女が、さらにその幅を見せてくる。

 飾は深呼吸をして、いくらか冷静さを取り戻す。

「いままでもああやって、混乱してる幽霊を何人か見てきた。けど、できることは少ない。本人が納得するまで、そっとするしか……」

 できることがないのなら、私の役目はここまでだろうか。

 とはいえ不安そうにしている飾を、このまま置いていくこともしたくない。

 電話が鳴ったのは、そうやって悩んでいるときだった。着信の相手は杏子さんだった。情報収集を任せていたから、その結果の報告だろう。

「琴吹七音について調べてみた」

「ああ、うん。ありがとう。でももう、必要ないかも」

 琴吹さんが亡くなっている当時の状況の報告がくるものだと、てっきり思っていた。だが返ってきた答えは違っていた。むしろ真逆のものだった。

「二年前の文化祭で、パラソルが首元に刺さって意識喪失。それからずっと、こん睡状態でおおくま西にし病院に入院中」

「にゅ、入院中?」

 思わず声をあげる。気付いた飾が顔を寄せてくる。スピーカーに設定して、聞きとりやすくする。

「つい三日前に容体が悪化して、一度心停止になった。それからずっと不安定な状態。いつまた心停止になってもおかしくない。そうなったら……。ねえ、この子は二年前から一度も大学に来ていない。華はどこで、この学生を知ったの?」

「それは……」

「この前の頼みはまだ納得できた。ヨウ化銀をいきなり用意しろとか、ロケットを使いたいとか、また何かの凝った実験だろうと思った。けど、今回のこれはわからない。華、あなたいま、いったい何と関わってるの?」

「ごめん。かけなおす」

 電話を切り、内容を聞いた飾が一歩、二歩と遠ざかろうとするのをとめる。腕をつかみ、問いただす。ぼうぜんとしている彼女を目覚めさせるために、その肩をゆさぶり、なるべく強めの口調で語りかける。

「どういうこと? 幽霊は完全に亡くなった人間のことを指すんじゃないの? こういうケースは、前にはなかったの?」

「こんなの、あたしも知らない。でも一度心停止したなら、そのときに……」

 言いかけて、飾の言葉がとまった。何かに気付き、はっとした顔になる。彼女の表情で、同時に私の脳も真実にたどりつきかける。ああ、そうか、もしかしたら、と。

「琴吹さんには二年間の記憶が抜けている」

「事故が起きて、こん睡状態になったのが二年前。心停止が三日前。飾が琴吹さんをこの大学で目撃した日付と一致する」

 こん睡状態から、心停止した三日前、琴吹さんはここにあらわれた。そしてただよい続けている。病院にある体は、ずっと不安定なままで。

「琴吹さんはいま、自分が死んだと思いこんでる。自分が入院している記憶なんてないから、思い出せるはずもない」

 つまり。

 私たちが見逃していた事実とは。

「琴吹さんは、まだ生きてる」

 たまらず飾が走りだす。とっさに腕をつかまれ、私まで走るハメになり、その勢いで転びそうになる。まだ状況確認の途中だろうが、と怒るための息をつかせてもくれない。飾は誰にともなく叫ぶ。

「急いで探さなくちゃ! いまならまだ、助けられるかもしれない!」



 幽霊の気持ちになったことはないから完璧な観察はできないが、死の事実から逃れたいのなら、なるべくそこから離れたいと思うはず。彼女はきっと、大学の外に出ている。

「どうしよう、外なんて広すぎる。時間がないのに」

 一秒いちびょうが、琴吹さんの命を着実に削っている。助けられるかもしれないと叫ぶ声は、しかし彼女には届かない。姿さえ見つけられれば、飾が説得に行ける。

「飾、画面越しで幽霊を追うことは可能?」

「どういう意味?」

じかに目で見るんじゃなくて、あんたは画面や映像を通してでも、幽霊は認識できるのかどうかってこと」

「できる!」

 それなら考えがあった。

 構内を駆けて、一号館の奥、ラボに入る。窓際の実験スペースに置いてあるクレードルで、すやすやと眠るソラの頭を小突いて起動させる。

「ソラ、起きてっ、出番よ」

『文化祭の件ですが、当日の死亡者は確認できませんでした。代わりにその日の夜のローカル番組に十秒間だけ、大学で事故が起きたことを知らせるニュースが流れたのを見つけました。動画を用意していますが、いかがなさいますか?』

「そんなのいいから、いまは飛んで!」

『それは許可ですか? 命令ですか?』

「命令よ。この付近をできるだけ広範囲で飛んで、ライブカメラは常に地面に向けて、私と飾の携帯に配信するようにして」

『承知しました。窓を開けてもらえますか?』

 ソラの四本の腕が稼働し、羽根がまわり始める。テーブルから浮き上がり、そのまま開けた窓から飛び立っていく。十秒もしないうちに私と飾の携帯が同時に振動し、動画の画面が送られてくる。

「これでちょっとは見つけやすくなったんじゃない?」

「うん! あたしたちも外に出て探そうっ」

「それは無理。私が見つけるには飾に触れていなくちゃいけないでしょ」

 幽霊は特定の相手にしか認識されない。私は飾に触れているかぎりはそれが許されるが、走ってあとを追い、一緒に探すには不向きだ。走る速度は飾のほうが速いし、ついていけば足手まといになる。ここで待機するべきだ、と思っていたところで、飾が行動に出た。

「この部屋、ハサミはどこ?」

 理由を聞く前に、戸棚を開けて差し出してやる。何をするのかと見ていたら、自分の後頭部にハサミをあてて、じゃきじゃきと切りだした。

「ちょっと! なにしてんの!」

「少しくらいなら見た目はわからないよ」

「いや、そういうことじゃなくて、それをやる意味!」

 ハサミを通し終え、片手に茶色の髪の束が握られる。上着のポケットからヘアゴムを出し、それを巻きつけてひとまとめにする。まさかと思いつつも、彼女の説明を待ちながら、作業が終わるのを見守る。

「体が離れたばかりの私の一部になら、まだ力が残ってる。三十分くらいはつはず。華ちゃん風に説明するなら、電池だね。これで一緒に探して」

 飾はさっきまで自分の体の一部だったものを、いとも簡単に手渡してくる。

 正直、他人の髪の束を持つのに抵抗があった。緊急だとはわかっていても、どうしても意識が手の上の髪の感触に引き寄せられる。生きている人間から伸びているものではない。すでに切り離された物体。体温の一部をまだ感じ取れる気さえする。絶妙な違和感。幽霊を見ることができる、髪の電池。こんなことまでできるのか。

「ほら早く!」

 飾に促され、ラボを出る。片手に髪の毛と携帯を握り、ライブ配信されたソラの映像を確認する。住宅の屋根、道路、裏路地、庭、いまのところ琴吹さんの姿はない。

 構内を出て坂を下りたところで、飾と二手に分かれた。別れ際に電話をかけ、彼女と常時つながっている状態にしておく。見つかったとき、すぐにお互いにかけつけられる。

 飾ほどの体力はないので、走ってはとまりを繰り返す。途中で学生の何人かとすれちがう。白衣を着た、両手に髪の毛と携帯を持った女子を、誰もが見つめてきた。視線に思わず息がつまるが、その人影のなかに琴吹さんがいるかもしれないと考え、そらすことができない。

 画面にも集中し、捜索を続ける。はやく。はやく見つかれ。いつもの時間に戻ってラボで実験をさせてくれ。

 道を手当たり次第に曲がり、見まわしていく。景色とソラから送られてくる画面を交互に見ていたそのとき、ついにとらえる。

「飾、ソラの画面に映ってるアレ、そうじゃない? 道を泣いて歩いてる」

「うん! あたしも見てる!」

「ソラ、あなたがいまいるのはどこ?」

『四丁目の大通りから、一本それた住宅街です』

「いま映ってる道をまっすぐ進んで」

『承知しました』

 ソラはなんの疑問も、文句も抱かず、従ってくれる。機械だから当然だけど、そういう割り切りのよさが好きだ。将来、ほかの人工知能の機械が発達したとしても、私はソラと過ごすだろう。

 飾との会話に意識を戻す。

「四丁目ならきっと私の位置のほうが早いから、向かってみる」

「いまどこにいるの?」

 携帯で調べるのも手間だったので、目を閉じて頭のなかで地図を再生させる。近くの電信柱で特定した現在地から、最短ルートを導き出す。

「三丁目の歯医者がある通り。西日が丘の交差点があるから、右に曲がればすぐのはず」

 あとは走りだすだけだった。そこで飾が叫んできた。

「だめ! 待って! その交差点は行っちゃだめ!」

「どうして?」

「……とにかく、行っちゃだめ」

 そういえば、と進みながら気付く。

 この道と、先にある交差点に見覚えがあった。以前飾の家に行くときに通りかけた道だった。彼女がことあるごとに警戒し、避けていた交差点がまさに目前にあった。

「あそこは危険なの」飾が言った。自分自身にいましめるような口調だった。

「でも、このルートが一番近い。遠回りなんかしていていいの?」

 沈黙。

 携帯の奥で、口をゆがめて悩んでいる飾の姿が浮かんだ。

 ライブ配信の映像にはまだ琴吹さんがとらえられている。四丁目の路地をまっすぐ進んでいる。どこに向かおうとしているのだろうか。どちらにしても、これ以上、離されれば途中で髪の効力も切れる。

「じゃあ華ちゃん、ひとつだけ約束して。通るときに、絶対に振り返らないこと」

「どういう意味?」

「女の子が、いるの。きっといろんな方法で語りかけてきて、振り向かせようとすると思う。でも、絶対に振り向かないで」

「女の子?」

「おねがいだから」

「……わかった。いまは後ろを向く余裕もないし」

 多くを聞かず、そこで会話を切る。

 走って、そのまま交差点にさしかかる。右に折れれば軽い坂道だ。通り過ぎるにしても、時間にすれば三十秒もかからない。飾が言うほど危険な場所なのかと疑いかけた、まさにそのとき、声が聞こえてきた。

《ねえ、どこにいくの?》

 足を踏み入れた瞬間のことだった。

 周囲には誰もいない。そのはず。だけど背後で、振り返れば五メートルもきっとないところで、誰かが呼んでいる。

《わたしの話をきいてよ》

 飾の忠告通り、それは女の子の声だった。

 振り向くなと飾は言っていた。

《おなかがすいたな、道にも迷った。助けてよ》

 あらためて、自分に言い聞かせる。振り向かない。振り向かない。振り向いても、いいことなどない。あの飾が、おびえるほどだから。

 交差点の中心までたどりつき、そのまま走って右に曲がろうとする。私にとっては全力で走っているはずなのに、その声がぴたりとついてきた。私よりもずっと幼いとわかる声の少女が、同じ速度でついてくる。

《ねえ、髪がきれいね。顔を見せてよ。ねえねえ、わたしの顔を見てよ》

 無視して右に曲がる。坂をのぼって、交差点から離れる。

 もう大丈夫だ。

 幽霊にも移動できる範囲がある。この女の子はきっと、交差点のなかにしかいられない。そうやって安心しかけた、そのときだった。

《こっちむけよ》

 どす黒い、同じ少女とは思えない声が、耳元で聞こえてきた。

 離れていたはずの声がはりつくような距離にいた。思わず体が跳ねて、足がとまってしまう。

 動けなかった。動けば、たちまち体のどこかをちぎられるような、そんな恐怖があった。呼吸もできない。息を吐けば、きっと私の首に触れてくる。

 抵抗を続けたから、怒らせてしまった? こっちむけよ、と黒い声は言った。このまま振り返らないほうが、もしかしたら危ない目にあうのではないか。

 あと一秒遅れていれば、振り向いていたであろうその瞬間、ライブ配信の映像に、動きがあった。

 見ると、琴吹さんがまっすぐ画面を向いて睨んでいた。追っているドローンが、私たちのものだと気付いたのだろう。泣き続けていたのか、目が真っ赤にはれている。

 琴吹さんが工事現場のすぐ近く、道の脇に置いている何かを拾った。プラスチックのチューブ管。資材トラックからこぼれたものだろうか。ソラは琴吹さんを認識できない。気付かずにゆっくりと近づき、頭上を通り過ぎようとする。

「ソラ、逃げて!」

『どういう意味ですか?』

「いいからそこから離れて!」

『承知し』

 ぶつりと、ソラが答える声が途切れる。琴吹さんの放り投げた鉄パイプが当たってしまった。画面にノイズが走り、大きくぶれる。

「ソラ!」

『ぼ、ぼ、ボディーと羽根のににに二枚にダメージを受けました。げ、原因が不明です。七秒後に地面に衝突ししします』

 画面の揺れがひどくなる。制御がきかなくなり、激しくまわりだす。まともに景色がとらえられなくなる。映像のみなので音は聞こえてこない。落下の瞬間、思わず目を閉じてしまった。

「ソラ! 大丈夫!?

 応答がなかった。

 カメラが横向きに倒れ、走りさっていく琴吹さんをわずかにとらえる。ピントがあわなくなり、近くの地面と電信柱、工事現場を行ったり来たりする。やがて電源が落ち、画面が真っ黒になる。

 そんなバカな。幽霊は動かせるものがとどまっている日数によって限定されるんじゃないのか。そういうルールじゃないのか。そういう秩序じゃないのか。琴吹さんは事情が特殊だから? それとも感情の強さで動かせるものも変わっていくのか? 違う違う違う、分析するな、そんなの、いまはどうでもいい。

 我に返り、走りだす。この先にソラがいる。語りかけてくる少女の声ももう聞こえなかった。

 ソラ、ソラ、ソラ。

 自分の体力をうらむ、もっと筋力があれば、もっと速く走れれば。

 画面に出てきた工事現場が見えてくる。道の端に黒い機械のざんがいがあり、ソラだとわかったところで吐き気がした。足がき、転びかける。

 ソラのもとまで寄り、崩れるように倒れる。膝を強く打ち、すりむく。痛みか、それとも目の前の光景のせいか、涙がこみあげてくる。世界で一番みじめなのは自分だという気がしてくる。

 手でって、ソラを抱きかかえ、必死に呼びかける。

「ソラ、ねえソラ、ソラ、お願いしゃべって……」

『キ体の四割、内部ハ心臓部のエンジンの破損を確認。ゲンゴの選択モ不安定。ご迷惑かけ、このママ回収をおねがイしま、スススス』

「わかった。大丈夫。必ず元に戻すから、いまは眠ってて」

『ハナは、任務を遂行シて、クださい』

 琴吹さんの顔が頭にちらつく。

 どうでもいい。そんなの、もうどうでもいい。

 薄情だと言われてもかまわない。どれだけ冷酷だろうと、ののしられようと知らない。私は飾の手伝いや琴吹さんよりも、ソラのほうがずっと大切だった。どれだけたくさんの友達が去ろうが、ソラだけは裏切らない。ソラだけが近くにいてくれる存在だから。

「琴吹さんを見つけた! 西日が丘公園にいるっ」

 携帯から飾の声がした。電話を切った。

 そのままソラを抱いていると、また電話がかかってくる。飾かと思っていたら、杏子さんだった。

「杏子さん、ソラが……」

 言いかけたところで、電話口の杏子さんが急いだ声で説明してきた。

『病院の医者が知りあいで、問い詰めてみた。さっき琴吹七音が危篤状態になった。もってあと数時間。もし華が知り合いか何かなら、行ったほうがいい』

 返事も待たずに電話が切れた。

 遂行してください。ソラの言葉がよぎる。私がずっと、ここで抱きかかえていたと知ったら、なんて言うだろう。またバカにしてくるだろうか。機械のくせに妙にセンスのある、いつもの軽口が、また聞けるだろうか。

 立ちあがると同時、すりきれた膝から血が垂れる。痛みに口をみ、静かに耐える。

 ソラを抱えたまま、ゆっくりと公園に向かう。



 公園にたどりつくと、飾と琴吹さんが見えた。二人は広場の真ん中にある、時計が設置されたポールの下で向かいあっていた。

 会話が聞こえる距離まで近づいていく。公園には私たち以外にはおらず、たまに自転車に乗ったひとが通行のために通り過ぎて、不思議そうにこちらを見つめてくるだけだった。

「だからまだ助かるんです! 一緒に病院に戻りましょう」

 飾が叫ぶ。説得をしている最中だとわかったが、琴吹さんはちょう気味に笑い、下を向いたままだった。もうぜんぶ、終わりにしてほしい。そんな顔だ。

「この公園でよく、ボイストレーニングをしてた。部屋で大きな声も出せないし、スタジオを借りるお金もないし、昼間からめったにひとが来なくなるから、ちょうどいい場所だった。もしわたしが生きたとして、またここに来られる?」

 飾は答えない。ここにいる、誰もが気付いている。

「同じように練習ができるの? 事故を受けた私の首を見たんでしょう? 喉がつぶれて、まともに声も出せない。回復なんてのぞめない。夢だって捨てるしかない。それでも生きろって言うの?」

「生きてください」

「なら飾ちゃん、あなたはわたしが生きたら、その責任を取ってくれるの?」

「いいえ、取りません」

 断言した。いやおい、と思わず心のなかでつっこむ。

 琴吹さんもあきれて、ためいきをつく価値もないという顔をする。笑いながら、ただ首を横にふる琴吹さんに、飾はそれでも続けた。

「テレビでよく流れるじゃないですか。負けないでとか、逃げないでとか、諦めないでとか。あたし、あれ大嫌いなんですよ。どうして負けちゃいけないんですか。どうして逃げちゃいけないんですか。どうして諦めちゃいけないんですか」

 勝たなくちゃいけない、立ち向かわないと道がない。そうしなくちゃあなたの人生は良いものになりませんよ。そんな風に、強要される気分になる。その気持ちは、私にも理解できた。だって、そもそもひとは、死ぬことから逃げ続けているじゃないか。

「飾ちゃん、結局あなたはわたしを引きとめたいの? それとも諦めてくれたの?」

「違います。諦めることも逃げることも、きっと間違いじゃない。悪くない逃げ方や諦め方だってある。けど琴吹さんがいましていることは、そういう諦め方じゃない。あとになって必ず思い直して、悩んで考えてしまう逃げ方です。だから引きとめるんです」

 諦めることにも種類がある。

 答えない琴吹さんの代わりに、飾は言う。

「琴吹さんが言ったんです。死にたくない、って。あれが本心だと、あたしは思っています。だから助けにきました。偽善だと言われてもへっちゃらです。琴吹さんが諦めるまで、あたしは追い続けます」

 目の前で祖母の死を見た飾。

 幽霊と会い、関わり、たくさんの死と成仏を見てきた彼女。

 前にも考えたことがある。飾の死生観は、私たちのものとは、きっと比べ物にならないほど違う次元にいると。

「大きな夢はなかったけど、あたしにも大事な人がいました。おちゃんを失ったとき、自分の人生が半分欠けてしまうくらい、悲しい気持ちになりました。いまはお祖母ちゃんに自分が立派だって安心してもらうために、こうやって幽霊とも関わっています。説教臭いことをいろいろ言いましたけど、結局あたしは、目の前であなたに死んでほしくないだけなんです。死にたきゃほかで死ね。でも、あたしはどこまでも追いかけますよ」

 飾は最後に笑った。こんなときでも笑えるのが、四ツ谷飾という人間だった。

 琴吹さんが空を見る。

 視線の先には時計がある。針がひとつ動いて、また、時間が刻まれていく。この先をどうするのか、琴吹さんは決めるために、目を閉じる。

 答えが決まったように、やがて琴吹さんは小さく笑った。それから琴吹さんは歌いだした。無理をしていない、心地のいい英語。どこかで聞いたことがある洋楽で、目を閉じれば誰もが救われていくような曲。風にまつわる、ボブ・ディランの曲だと思い出す。

 どこまでも透き通り、響く声だった。



 病院までついていったところで、琴吹さんを飾に任せ、私はラボに帰った。幽霊の琴吹さんが病院の壁を抜け本人の体に戻っていく場面は科学的にも興味がそそられるが、いまはソラの安否確認が最優先だった。

 ラボの実験スペースに寝かせ、パーツを分解しチェックする。大体の状態は、本人の自己申告通りだった。心臓のパーツの一部と、内部の半壊、羽根が二枚。頭をなでても起動しないので、電源部分も破壊されている。

 唯一の救いは、人間の脳にあたる部分の損壊がほとんど見られなかったこと。最深部に配置しているから、それだけ防御も厚かった。脳の部分は、開発を担当したのが私じゃないから、ここを壊されていたら、もうどうしようもなかった。

 パーツの取り寄せなどをもろもろ計算し、一週間前後の完治と予測する。めどが立ったところでようやくほっと息をつき、気付けば深夜になっていた。

 携帯に何件かメールが入っていて、どれも飾からのものだった。琴吹さんは無事、というところまで読んで、眠気に負けて携帯を閉じた。



 三日後、琴吹さんとの面会が許されたと聞き、飾と二人で病院に向かった。

 案内された病室に、病院着のままベッドにもたれる琴吹さんがいた。彼女は幽霊でいる間の記憶をちゃんと持っていて、生きている体では初対面の私たちにも手を振ってきた。現実の琴吹さんの体は、幽霊のときに会ったときよりも、ずっと痩せていた。

 検査の結果、琴吹さんの声帯は元には戻らないそうだ。

 つまり、もう二度と自分の声でしゃべることはできない。しばらくはリハビリもしないと、自分の口で呼吸するのも難しいという。そんな自分の状態を、琴吹さんはすべて自分のノートに書いて見せてくれた。ペンで字をつづる、細い指が妙に印象的だった。

 喉元に巻かれた包帯と、酸素チューブのつながった体。何度か視線をそらしかけて、それでも私は琴吹さんを見続けた。いつもの観察ではなく、記憶として、焼きつけるためだった。

『つらくないといえばウソになる。でも、生きてみようと決めたから』

 琴吹さんは最後にこう書いた。

『ありがとう』



 病院を出て最初の十分は、お互い無言で歩き続けた。途中で道沿いのレストランからただよう匂いにさそわれて、飾がお腹をならした。それから気分よく、毛先を跳ねさせてスキップを始めた。まるでぜんぶが解決したみたいな顔だった。それが正しい態度なのか、私にはわからない。

「お腹すいたから、何か食べない? あたしおごるよ。今回も手伝ってもらったし」

 いまだ整理されない、心。

 彼女の言葉を無視して、私は質問することにした。

「飾には夢はある?」

「え? ……いまのところは、まだ、ないけど」

「私にはある。自分が教えられてきた科学の分野で、世の中のまだ知られていないことを解明して、みんなにつきつけてやりたい。もしくはいまある技術を応用して、新しいセンスを生み出して、鼻を明かしてやりたい。わたしをあざ笑っていた連中に、ざまあみろって言ってやりたい」

 私は続ける。

「それはできれば、自分の手でなし遂げたい。だからもしもいま、この場で両腕を失ったら、脳みそが残っていようと、自殺を考えるかもしれない」

「……華ちゃん」

 もしもあのとき、琴吹さんの説得を私がしなければならなくなっていたとしたら。

 私には、それをやり遂げることはできなかったかもしれない。私は飾とは違って、彼女の死を、完璧に否定することはできなかったはずだ。

 それだけじゃない。

 今回の件でわかった。私はずっと、幽霊が見える体質の彼女を、孤立しているものだと思い込んでいた。霊感女は孤独だと。

 だけど彼女に友達がちゃんといて、それに戸惑った自分がいた。ショックを受けていた。いまなら答えがいくらでも出せた。あの感情の正体は、焦りでもあり、寂しさでもあり、悔しさでもあり、怒りでもある。科学オタクとして孤立した自分と彼女は、同じ境遇だと思っていた、それを裏切られたと、感じてしまった。

 この思いは、閉じ込めておかなくちゃいけない。飾はきっと反応に困るから。

 ひとと関わるということは、きっとそういうことの繰り返しだ。

 だから納得する。胸のなかに、そっとしまう。

「ああそうだ。写真を撮りにいってもいいかな」飾が言った。

「写真?」

「琴吹さんを見つけたあの公園がいいかな。いや、病院を写してもいいかも」

「ああ、いつものやつ」

 自分の関わった幽霊がらみの事件がひと段落したあと、必ず飾は写真を撮る。自分の成果のように、記念にするみたいに。

「どうして写真なんて撮るのよ」

「それは、まあ、いろいろだよ」

 いつものように、はぐらかされる。私は信頼されていない。彼女にとって、私の立ち位置って、いったい何だろうか。あの学食にいた大勢のうちの、結局は一人にすぎないのか。だめだ、違う、考えるな。

「そういえば、ソラはどうなった?」

 飾が話題を変えてきた。そらしてきた。ソラ、という言葉を聞いて、胸がざわつく。心のなかで、感情にふたをしようとした手が、別の誰かにとめられたような違和感。

「大丈夫だった?」

「ソラは頑張ってくれたよ」

「うん。そうだよね。万が一のことがあっても、機械だし平気だよね」

 歩きながら、横で告げられた。

 何気ない一言。

 本人に悪気はなかったのかもしれない。

 ひょっとしたら、いつもの軽口の延長だったのかもしれない。

 普通の精神状態なら、いまの飾を知る前なら、私も適当に反論するだけですんだのかもしれない。そもそも勘違いだったのかもしれない。

 でも、できなかった。感情にふたをさせまいと妨害していた手が急に消えて、代わりにふたにヒビが入り、粉々に砕け散った。気付けば自分の力とは思えないほどの強さで、飾を壁にたたきつけていた。

「機械なんて言わないで! 友達なの! 私の唯一の友達なの!」

「……え、違っ、……ごめ」

 飾が何かをしゃべろうとしたので、それをさえぎるために、もっと力をいれて押さえつける。苦しそうに彼女があえぐ。その目が怯えているのがわかった。

「あんたにはわからない。ひとりの不安なんて、感じたことないくせに」

 もっと言ってやりたかった。

 ぶちまけてやりたかった。自分の醜さを吐露することになるけど、それでもかまわない気がした。ソラのことで怒ったことさえ、所詮はきっかけにすぎなかった。私は何でもいいから、飾につっかかりたかったのだ。

「私を孤独にしたくせに! クラスメートから迫害されるように仕向けたくせに! 自分だけぬけぬけと、友達とつるむんだ!」

 違う、そんなこと思っていない。過去のことなんて、もう気にしていない。

 それなのに、どうしてこんなに、言葉があふれる。

 考えて、とうとう途中で理性が戻ってきてしまった。飾を押さえつける自分の手が震えているのが見えて、我に返ってしまった。

 飾を離し、うつむく。均等な強さで揺れる自分の髪を見て、必死に忘れようとする。

 呼吸を落ち着かせた彼女が、私に手を伸ばしてきた。その手を思わず叩き、距離をとる。違う、違う、違う、謝れ。いまのは私のミスで、彼女はきっとわるくない。でも、どうしても、許せなくて。

 なんだこれ。なんでこんなに、苦しいんだ。

「もう嫌だ。こんなのごめんだ」

「え?」

「あんたとはもう関わらない。ラボにももう来るな。どうして私が毎回苦労しなくちゃいけないんだ。幽霊がらみもごめんだ。二度と話しかけるな」

「華ちゃん……」

「近寄るな!」

 叫んで、もうとまらなかった。



「あんたとは絶交だ、四ツ谷飾」