鏡に映る自分がかざりの髪型になっている夢を見て、飛び起きた。

 息も整わないうちにベッドからはい出て、あわてて現実の鏡で確認する。いつもの自分の髪型で、ほっと体の力が抜ける。日々のなかで記憶に強烈に焼きつけられるものがあると、昔からそれが夢になって出てくる。私の悪いクセだった。

「……あんな髪になってたまるか」

 いつもより丹念に髪をとかす。クシでなでて手ごたえを感じなくなっても、汚れを落とすみたいに繰り返す。頭を左右にふると、一緒に髪がついてくる。ぴたりととまると、数秒遅れで髪も休憩する。ばっちりだった。準備を終えて、家を出る。

 幽霊だった元テニスサークルの三年生、明智さんをじょうぶつさせた事件から、ようやく週が明けた。あのときの記憶はいまだに鮮明だ。どのシーンにも優劣はないほど衝撃的だったが、今朝の私の様子を見る限り、特に四ツ谷の髪型が脳裏にこびりついているらしい。

 それだけじゃない。

 四ツ谷飾は同じサークルのメンバーにもなった。部員が入らないとつぶれる危機に、見事につけこまれた。

 隙さえあれば、あいつはまた幽霊がらみの話題を持ち出すに決まっていた。そんなのはごめんだ、と訴えても無視して強引にひっぱり出すことをすでに知っている。

 彼女の所属記録だけあればいいのだ。どこかにいなくなってくれないだろうか。ラボのドアを開けたら四ツ谷がいるかと思うと、ゆううつでしょうがない。かといって私が避けるとなんだか負けたような気分になるから、行かないわけにもいかない。ラボを占拠などさせるものか。

 一号館のつきあたり、実験室の隣にあるドアにたどりつく。なかで物音がした。彼女がいるのがわかった。いよいよ覚悟を決める。

 体の皮膚やDNA、骨に血液、それらが時間の経過とともに入れ替わるように、人は日々生まれ変わって生きている。四ツ谷飾自身が、まさにそれを体現しているとも言える。

 いまの私は、先週の私ではもうない。

 大丈夫。もう、あいつにペースを乱されたりはしない。

 深呼吸してから、ドアを開ける。茶髪の天然パーマと、感情を隠さない笑顔がとびこんでくる。

「おはよーはなちゃーんっ」

「おはよう四ツ谷さん、今日はいい天気だね」

「一限が急に休講になっちゃってさ、ここで時間つぶしてたんだけど」

「メンバーの一員だからね。気楽にどうぞ」

「遅刻しそうでせっかく走ってきたのにね。おかげでおなかすいちゃったよ。でもこのゼリーがしくて、ちょっと幸せ」

「おい待てそれ私のゼリーだろ!」

 急いで冷蔵庫を開けると、予想通り、袋で買っておいたこんにゃくゼリーがほとんどなくなっていた。色々な味が入ったフルーツタイプを置いていたはずなのに、オレンジ味だけしか残っていなかった。

「あたしオレンジ苦手なんだよね」

「出せっ! いますぐ出せ!」

「おろろろ」

「本気で出すな!」

 手のひらに出したゼリーを、あわてて四ツ谷の口に押し込む。朝から年齢規制のかかりそうな光景だった。

 ペースが乱されまくりだった。

 もうまともに取り合うのはやめた。こちらも私流にいかせてもらう。そもそもここはもともと私の居場所だ。主張する権利がある。

「四ツ谷、ルールを決めましょう」

「ルール?」

「その一、名前が書いてあるものはそのひとに権利がある。だから触っちゃダメ。そのこんにゃくゼリーも私が名前を書いておかなかったから、ということで、今回は見逃す」

「先生ひとつ質問です」

「どうぞ」

「華ちゃんのほっぺたにあたしの名前を書いたら、どうなりますか?」

「あんたの額にバカって書いてやる」

 続ける。

 ルールその二。私にとってはむしろこっちが本題だ。この部屋で、四ツ谷に絶対にやってほしくないことがある。

「その二、実験器具はいじらないで。この部屋には戸棚が三つあるけど、危険なものも多いから絶対に開けないで」

「でも鍵かかってたよ?」

「開けようとしたのか!」

 こいつあぶない。

 絶対に部屋にあげたくないタイプだ。

「質問は以上? 四ツ谷」

「じゃあ、あたしからもひとつ提案したいな」

「…………言ってみて」

「ルール三、お互いを名前で呼び合うこと。友達同士だし、ね?」

「質問は以上?」

「スルーひどい!」

 ぶう、とふくれっつらを見せたところで、講義終了のチャイムが鳴った。

 四ツ谷がカバンを肩にかけ、準備をする。

「次の講義は出なくちゃ。ひとりでさびしいと思うけど、お留守番しててね?」

「二度と来るな」

「というか、華ちゃん講義は?」

「私はいいのよ。サボるから」

「だめだよー、ちゃんと出なきゃ」

 四ツ谷が有無を言わさず私のカバンをさぐる。時間割を見つけ、次の教場を確認してくる。奪い返そうと思ったら、その手をつかまれた。

「や、やめろ! いきなり触るなぁ!」

「教場、隣だったよ。ほら一緒にいこ」

 そのまま連れ出され、無理やり引っ張られていく。私の自由時間が奪われていく。居場所が遠のいていく。踏ん張ってみるが、靴が床をすべり、まったく歯がたたなかった。こいつの筋力ってどうなっているんだ。

 結局、教場の目の前まで連れて来られた。

「講義後、待ち合わせしよ。一緒にお昼食べようね」

「食べないよ。講義にも出ない、帰る」

「出るまで見張ってるから」

 私の一日が、着実に四ツ谷に侵されていく。朝の自分が情けなかった。何がペースにはまれない、だ。やられっぱなしだった。

 退屈な九十分がって講義が終わり、学生の波に呑まれて教場の外に押し出される。圧迫感がすごかった。もう本当につらい。早くひとのいない場所に行きたい。

 波にまぎれながら、ラボに逃げかえろうとすると、「華ちゃーん!」と、大声で名前を呼ばれた。びくん、と反射で肩が震えた。振り返らずにダッシュで逃げるが、すぐに追いつかれた。四ツ谷に腕をつかまれそうになって、あわててひっこめる。

「いきなり触ろうとするなってば!」

「どうして?」

「幽霊がえたらどうするんだ! 私が困るだろうが!」

「大丈夫だよ、視えてたら報告するよ。そんないつも視えるわけじゃないよ」

「……信用できない」

「じゃあ、あたしの家に来ない?」

「なんでそうなるんだ」

 ついていけない。

「親睦を深めようかと思って。さっき講義中に思いついた。いいじゃない、どうせ華ちゃん、一人暮らしの友達の家とか遊びに行ったことないでしょ? 大学の思い出つくろうよ」

「あんたはサークルのメンバーになってくれていればそれでいいの。そもそも関わらないって約束したじゃん。そして私に友達はいる」

「え~、小学生のときはクラスでひとりっきりじゃなかった?」

「あんたどういうメンタルしてんの?」

 元凶はお前だ。お前の弾劾がきっかけで私は孤立したんだ。

「じゃあ、どんな友達?」四ツ谷があらためていてきた。

「男子だよ。物知りで、話し相手になってくれる」

「ふうん」

 見下された。いま絶対に見下された。妄想だとか思われた。

 覚えてろよ。証明してやる。と、息まいたのはいいが、気付けば学食で四ツ谷と昼食を取っていた。すっかりつきまとわれていた。彼女の狙いは明らかだ。幽霊に出会ったとき、すぐに協力させられるよう、私のそばにいるのだ。

「じゃあ四限が終わったら、ラボで待ち合わせね。待っててねっ」

「いるわけないだろ。帰る」

「帰ったら杏子さんに華ちゃんの住所聞いちゃうからね」

「…………」

 もしかしたら四ツ谷は、幽霊よりも恐ろしい存在かもしれない。



 ラボを出ようと準備していると、杏子さんがやってきた。

「ちょうどよかった杏子さん!」

「はいはい、ちょうどよかった杏子さんですよ。ご用件は?」

「私いまから帰るけど、家の住所を四ツ谷に教えないでっ」

「四ツ谷って?」

「先週、新しく入ったメンバー。髪がぴょんぴょんと跳んでて、なんというか、縦横無尽なやつ」

「ああ、それってこの子のこと?」

 杏子さんの背中からひょい、と四ツ谷が顔を見せてくる。幻覚であってくれと願ったが、元気に手を振ってやってくる。どんまい、と肩をぽんぽんたたかれて、ご満悦な様子だ。

「せっかく入ってくれた貴重なメンバーなんだから、もっと大事にしなさいな。ここに来るまでのわたしみたいに、仲良くなっておくのよ」

 杏子さんは言って、四ツ谷の頭をなでる。言葉通り、ここに来るまでに打ち解けたらしい。すでに懐柔されている。なんてことだ。

「杏子さんの裏切り者。私の髪にぞっこんだったくせに。泣きぼくろにれていたくせに」

「あんなの、メラノサイトが重層して表皮が持ち上げられたものにすぎない色素性母斑でしょ? まあ髪は好きだけど」

「ああ言えばこう言うんだ。そんなだから、彼氏と別れるはめになる」

「なんでわかったのよ。いや、いいわ。言わないで。どうせ観察が始まるから」

「靴が新しい。杏子さんが別れたときにストレスで衝動買いするのはまずは靴。でもオシャレがしたくて偶然かもしれない。そこで唇を見る。彼氏とのデートはたいてい夜だから、いまのうちに化粧をしておかないと乗りきらない。だけど口紅をしていない。目の下にクマ。ここに来たとき、上着のポケットから落ちたレシートはレンタルビデオ店の貸し出しレシート。タイトルは女性向けの海外ドラマで料金は千円以上。長時間も視聴にかかるものを一気に借りてるということは、最近、自分の時間が急に増えたということ」

「飾ちゃん、とっととこいつを連れてって。こうやっていじわるされても、仲良くしてあげてね。基本的におこちゃまだから」

「おまかせを」

 四ツ谷がぐいと身をよせ、腕を全身で抱きとめてくる。そのまま強引に外に連れ出される。いやだ、助けて、ごめんなさい! 叫んでもとまらず、そのまま外に出ていく。

 大学の門をくぐり、坂を一気に下っていく。自宅に帰るなら右だが、容赦なく左を向かされる。

「わ、わかったから離して。あんた歩くのが速いのよ。足がもたない」

 観念すると、ようやく四ツ谷が解放してくれる。息を切らした私を見て、かけているカバンを代わりに持ってくれた。彼氏かお前は。

「そんなに嫌がらなくてもいいじゃん。可愛かわいい子も紹介しようと思ってたし」

「可愛い子?」

「ひとりで置いておくと、さびしがるの」

「もしかしてペット? え、なに、猫とか?」

「気になる?」

「……き、気にならない」

 うちは小さいころからペット禁止だった。両親が、私が責任を持って飼える子だと信じてくれなかったから。あと、根本的に父親が動物アレルギーだったというのもある。家族で動物園に遊びに行ったこともない。高校に入ってからは二週に一回は水族館か動物園にひとりで行った。私のお気に入りはマヌルネコだ。

「まあ、見るだけなら見てあげなくもない、かな……」

「ツンデレさんだ」

「うるさい。触ってもいい?」

「うん、触れるよ」

 四ツ谷がスキップをしながら進んでいく。彼女がいなければ私もスキップをしたい気分だった。動物に触れる。この年だと動物園のふれあいコーナーに行っても、大学生で浮いてしまうから行きづらかった。まさかこんな形でふれあいがかなうなんて。

 いったいどんな動物だろうか。一人暮らしで飼える動物。フェレットかな。ハムスターかもしれない。ネコだったらうれしい。まさか犬ってことはないだろう。デグーとかでも歓迎だ。四ツ谷が動物を飼っているなんて。ちょっと評価が変わった。今度、こんにゃくゼリーを差し入れてやろう。

「あ、待って。あそこはちょっと……」

「え?」

 道の途中で、四ツ谷がとまった。何事かと彼女を見ると、やけに神妙な顔つきだった。基本、笑顔なやつにこういう険しい表情をされると、余計に怪しく感じる。本人は隠しているつもりだろうが、ばればれだ。

 目をこらすと、先には交差点があった。四ツ谷の視線の先をさぐると、やはり同じ交差点を見ている。まだ五十メートルも先にあり、何を警戒しているのかはわからなかったが、やけに俊敏にすぎると思った。

「何があるの? ……まさか幽霊関係?」

「いや、その、あれだよ」

「なんだよ」

「とにかく、遠まわりしてもいいかな」

 明らかにはぐらかされていた。本人は自然な流れを演出しているが、わざとらしすぎる。そのわざとらしさを指摘するのも大人げない気がして、結局、無視してやることにする。まさか、そこまで含めての計算か。

 四ツ谷が変な雰囲気を出すせいで、背後に何かの気配を感じた。だけど四ツ谷が少しも反応しないということは、しょせんは気のせいだとわかる。彼女の力は、こういうときに少し役立つ。

 そんな風に、交差点のことは一度忘れることにした。

 地理的に見ても大きく回り込んでいることを実感しながら、道を進む。路地をいくつか抜けて、再び通りにでる。さっきの交差点が右の奥に見えた。通り抜けたらしい。

 さらに十五分ほど歩いて、一棟のこぶりなマンションにつく。緑のレンガを模した外観で、上京した大学生が安心して飛びつきそうな場所だった。大学が近いからと、大家さんが不動産のコンサルタントにリフォームのアドバイスをもらったのだろう。それもおそらく最近だ。目につきやすい外観はすっきりしているが、地面近くを見ると雑草に隠れて壁にヒビが入っていて……

「ほら、観察してないで入るよー」

 四ツ谷に呼ばれてエントランスまで移動する。部屋番号の入力と暗証ロックを外し、ロビーのドアを開ける。自分の知らない機械を操作する四ツ谷が、少し優秀に見える。仕組みは知っているが、ひとがやるのを見たのは初めてだった。きっと、小学生のころに友達がいて遊びに行っていたら、こんな場面もあったのだろう。

 エレベーターで四階にあがる。

「この四階だけ、ほかの部屋よりも家賃が少し安いんだってさ」

「心理的でしょ。四階だし」

「かし? なにそれ?」

「……なんでもない」

 思えば四ツ谷には無縁の言葉かもしれない。縁起が悪い数字とか、事故物件とか。幽霊そのものと関わっているくらいだし、まったく気にしなさそうだ。と、そこまで考えて何かを見落としているような気分になる。なんだろう、この違和感。彼女に訊き忘れたことがあると、本能が告げているような。

「ねえ四ツ谷、あんたのペットってさ……」

「ついたよ」

 つきあたりの部屋、カギを開けて四ツ谷が入っていく。お邪魔します、と小さくつぶやいて私もなかに入る。実家暮らしだから、その玄関の狭さが少し新鮮だった。四ツ谷と二人でおさまれば、もうぎゅうぎゅうだ。

 そして。

 一瞬、理解が遅れるほどスムーズに、ものすごく自然な動作で、四ツ谷が私の手を取った。私が何かを言う前に、四ツ谷は紹介を始める。

「こちら、同居人」

「は?」

 暗がり。なにもいなかったはずの廊下に、とつじょ姿をあらわす長身の女性。髪が垂れて、その奥からひかえめで細い瞳が見つめてくる。ゆっくりとした動作で髪をかきあげて、にたりと笑ってくる。鼻のあたりにはそばかすがある。

 凝視して固まっていると、その額から、音もなく血が流れていく。後ろで四ツ谷が、小さく、ごめんね、とつぶやいたのが聞こえた。女性が口を開くのがわかって、それどころではなくなった。

「初めまして、かわさきです。死んで七年になります。どうぞいらっしゃい」

 悲鳴をあげた。

 自分の悲鳴にさらに驚いて、最後に気絶した。



 あとから聞いた話によると。

 あのマンションは一室八万五千円を月の家賃にしているが、四階は心理的瑕疵によって五千円の値下げがされていて、さらに四ツ谷の住むこの部屋の家賃にいたっては格安の五万円になっていたそうだ。

「ふざけるな! 帰る!」

「まあまあ」

 四ツ谷がなだめようと腕を取ってくる。少しでも触れれば発揮される、彼女の力。振り払う一瞬前に、またもや幽霊の夜河さんが視界をよぎって背筋が冷える。

「ハムスターもフェレットも猫も犬もデグーもいないじゃないか」

「ペットを飼ってるなんて一言も言ってないよ」

「そう思わせたんだ。同罪だ」

「でも、可愛かわいい人だよ?」

「あれは怖いい人だよ!」

 四ツ谷が懲りずに私の体に触れようとしてくる。触れれば夜河さんが視えてしまうので、逃げようとする。その恐怖を逆手に取られ、どんどんと部屋の奥に追い詰められていった。楽しみながらも、あきれ笑いを見せる四ツ谷。

「この前の明智さんと佐々木さんの件で、克服したんじゃなかったの?」

「怖いものは怖いんだよ」

 恐怖の源流は未知だ。そして恐怖の度合いレベルは、それが自分の常識からどれだけ外れた光景であるかで決まる。

 たとえば自分の部屋のドアを開けたら、知らないひとが立っているだけで恐怖を感じる。それはその人物の正体が未知だからだし、普段過ごす常識のなかではありえないと思っている光景だからだ。そして私は、まだ幽霊に関して、知っていることが少ない。

「まあ座りなよ、大丈夫、触ったりしないから。座んないと触るけど」

「さりげなく脅すなよ……」

 あらためて四ツ谷の部屋を見渡す。

 特に黒魔術の紋章や、タロットのポスターが飾ってあるとかはなかった。いたって普通の、ひょっとしたら私の部屋よりきれいかもしれない、女子大生の部屋。ところどころにスナック菓子の袋が落ちているのだけが気になる。

 座れと言われても椅子がなかった。ローテーブルを中心に、カーペットの敷いてある床に腰をおろすことにする。

「あ、そこ夜河さん座ってる」

「おおおい!」

 飛びのく。彼女の姿が視えないので、もはや部屋中が地雷だった。

「あたしに触れれば、姿が追えるんだけどなー」

 にやにやと笑ってくる。こいつ、何か弱点とかないのだろうか。高いところが苦手とか。もしそうなら連れて行って、叩き落としてやるのに。絶対にいつかさぐりだしてやる。

「……私が離してって言ったらすぐに離してよ」

「はいはい」

 四ツ谷が手を差しだしてくる。見たくないのに、関わりたくないのに、今回も結局こんな目にあっている。うかつについてきた私がバカだった。

「また私を関わらせるつもりだな。最初からここに連れて来ようとしてたんだろ」

「思いついたのは昼休みのときだよ。これの解決を手伝ってほしいのもあるけど、仲良くなりたかったのもホントだよ、華ちゃん」

 まだまだ言いたいことがたくさんあった。裏切り者とののしってやりたかった。あらゆる手を使ってこいつを悪者にしたかった。

 そんな四ツ谷は、一言、言ってくる。

「だましてごめんなさい」

 素直に。こちらの目をまっすぐ見て、謝ってきた。そういう直球に私が弱いことをすべて熟知したみたいな仕草だった。

 たじろいでいると、まるで自分のほうが悪いみたいな心地にさせられる。だだをこねて、まわりを困らせているのは私なのではないかという気分になってくる。悪魔だ。

「あたし、華ちゃんに嫌われたくない」

「わ、わかったから。もういいから」

「じゃあ、話きいてくれる?」

「……話はきかない。けどまあ、幽霊のことは知りたい。私は幽霊に関する情報を収集するだけ。あくまでも個人的な好奇心。それでいい?」

「うん! それでいい! ありがとう!」

 おひとしとか、言われるんだろうか。

 そういうことじゃなくて、人見知りだから、単にい断りかたが見つからないだけだ。普段のやり取りならまだしも、こういう真面目な場面で、相手をいかに傷つけずに回避できるか、わからないから。

 四ツ谷の差し出された手のひらに、そっと指を乗せる。指先から彼女の体温が伝わり、それとは別の何かが、体中を静かに満たしていくのを感じた。彼女の力のざんだろうか。一度ゆっくりとまばたきをしたところで、向かいに正座する夜河さんがあらわれた。

 目を合わせると、ぺこりとお辞儀が返ってくる。年齢は二十代の後半。杏子さんと同じか、上くらい。動作が丁寧でこちらを尊重してくる態度だから、まるで自分のほうが年上にすら感じる。

 夜河さんの額から、静かに血がしたたっている。私の視線でそれに気付いた夜河さんが恥ずかしそうに自分の袖で血をぬぐう。

「ごめんなさいね。気を抜くとつい死んだ当時の状況になって、気付いたら頭から血が垂れちゃって」

「そうですか……」

 どんなギャグだ。幽霊にしかできないから、高度すぎる。

 固まる私を、隣の四ツ谷がゆっくりと座らせる。三人でお互いを見つめ合うが、誰もしゃべりださない。沈黙のなかで、四ツ谷のおなかが鳴った。恥ずかしそうに席を外し、その辺のスナック菓子をつかんでパーティー開けにする。準備万端という風に、ようやく四ツ谷がしゃべりだした。

「夜河さんは七年前に亡くなってるの。交通事故で、車にかれたんだけど、残った体力でここまで戻ってきて、この部屋で」

 続いて夜河さんが補足する。

「いまにして思えば事故現場で亡くなっておけばよかったのよね。大家さんに迷惑かけちゃった」

「あたしは家賃安くて助かるけどね。ラッキーだった」

「うふふふふふ」

 笑っていいのか。ここは笑っていいのか。わからないぞ、幽霊ジョーク。

 流れに乗り切れていなかったので、今度はこちらから質問することにした。

「それで、四ツ谷は引っ越してきて夜河さんと出会ったってこと? それからずっと一緒に住んでるの?」

「家事も手伝ってくれるよ」四ツ谷が言った。

 明智さんの件のとき、四ツ谷が幽霊の強度について語ったことがあるのを思い出す。

 とどまっている年数が長いほど、現実のものに影響力を与えることができるらしい。この夜河さんは、家事を手伝うことができる。それは皿やフォーク、スプーン、スポンジといった類いのもの。洗濯機のスイッチを入れることだってできるかもしれないし、服を取り出し、ベランダの窓を開けて、洗濯ばさみを使って干すこともできるかもしれない。明智さんよりは、動かせるものや、影響を及ぼせる範囲が多いのだろう。

 そこまで考えて、さらに思い出す。

「ここに来る途中の会話で、触れるって言ってなかった? あれはうそ?」

「ほんとだよ。あたしに触れているのが条件だと思うけど」

 夜河さんが会話に反応して、そっと手を出してくる。

 注射を待つ患者のようなしぐさだった。彼女を見つめると、どうぞ、と小さく声が返ってくる。

 四ツ谷に触れつつ、夜河さんの腕に指を置く。確かに物体に触れる感覚があった。弾力があるが、反対の手で四ツ谷に触れているときのような、人間の体温を感じない。

 血管が透き通って見える部分があるが、強めに押してみても、脈がないことがわかる。皮膚の表面をなでると、上質な紙をなでているような、不思議な心地がした。限りなく人間に近く、そしてどんな動物よりも離れている。そんな存在。

 しばらく触れていると、夜河さんがくすくすと笑いだした。どうやら、くすぐったかったらしい。

「ごめんなさい。あ、ありがとうございます」

「先週から髪のきれいな友達ができたって、飾ちゃんが喜んでたの。あなたのことよね。よろしく」

 とうの本人である四ツ谷は、気にもせずスナック菓子をむさぼり食っている。勢いが強すぎて毛先にまで菓子のクズがついている。言わないでおいた。

 四ツ谷が菓子の手をとめたところで、さらに訊く。

「成仏を手伝ってほしいとか言ってたけど、さっき交通事故で亡くなったとも答えたよね。それって死因は判明してるんじゃないの?」

「うん、だから今回の夜河さんの未練は、別のもの」四ツ谷が言った。

 別の未練。

 自分の死を知る以外の、やり残したこと。

 夜河さんが静かに答える。

「星が見たいの」



 夜河さんの言う星とは、流星群のことだった。

「毎年、彼氏の誕生日に流星群が降るの。前に見たとき、といっても、もうずっと前だけど、すごくきれいだった。あれをもう一度だけでいいから、見たい」

「彼氏さんの誕生日は?」私が訊く。

「四月。四月の二十三日」

「それなら、こと座流星群ですね」

「すごい、その通り……」

「華ちゃんは物知りだからね」と、なぜか四ツ谷が得意げになる。

 流星群はめずらしいものという認識が強いが、実はほぼ、毎月降っている。だが星の数が少なかったり、天気に恵まれなかったりと、人間の目に届くものは少ない。気付かないだけで、見えないだけで、それでも確実にそこにある。

 夜河さんが続ける。

「あの年も、彼氏と見る約束をしていたんだけど。雨が降ったの。それから……」

「交通事故にあって、亡くなった」

 彼女は首を横に振る。

「彼氏のほうは病気だった。長くはなかったけど、必死にドナーを探してた。わたしはショックで、しばらくボーっとしてた。だから車に轢かれちゃったのね」

 彼氏のすぐあとを追うように、夜河さんも亡くなった。

 果たせなかった約束が胸をよぎり、いま、夜河さんだけがここにとどまっている。

「本当はすぐにでも彼氏の、こうのもとに行きたい。でも、どうしても星のことが頭から離れない。あのとき、流星群を見られていたら、何か変わっていたのかなって、どうしても考えちゃう。すがってしまう。だからせめて、あと一度でいいから」

「この七年間は、一度も見られなかったんですか?」

「最初の三年は雨が降った。二年は晴れたけど、住宅街からだと明るすぎて見られなかった。去年は曇りだった」

「どこか暗いところに移動は?」

 これには四ツ谷が答えた。

「長くとどまっていると、移動できる範囲が、どんどん狭くなるの。最初はあちこちに行けたはずだけど、いまはもう、この部屋にいるのが精いっぱいのはず」

「じゃあもう流星群は……」

「でも、ひとについているなら別。夜河さんを認識できていれば、そのひとについていって移動することができる」

「汎用性高いな、幽霊って。なんでもありか」

「逆だよ、複雑なだけ」四ツ谷が笑った。夜河さんも笑った。

 夜河さんを認識できる人物。一緒についていき、移動させることができる人物。つまり、ここでいうなら四ツ谷のことだ。

「わたしが死んでから、ここには誰も住んでこなかった。そんなときに先月、飾ちゃんが来てくれた。飾ちゃんにはわたしが視えた」

「だから夜河さんにとっても、ラッキーってこと」四ツ谷が言った。

「ラッキーなんてものじゃない。奇跡よ」

 大家さんは前の住人が部屋で亡くなったとき、これから居住を検討している人に対して、それを伝える告知義務がある。心理的瑕疵物件を扱うときの法律だ。いくら家賃が安くても、なかなか入ってくれるひとはいなかった。そこへ四ツ谷がやってきた。幽霊を認識できる、彼女が。

「でもあたし、ここに来たばかりで、地理にうといんだよね」

 四ツ谷がそこまで言ったところで、自分が求められていることが何なのか、ようやく理解した。

「このへんに長く住む私に、流星群が見える理想の場所を導き出してほしい」

「科学オタクのちけん、ってやつでさ」

 四ツ谷がおどけて笑う。この様子だと、夜河さんもこのあたりの地理には詳しくないらしい。

 壁のカレンダーを見る。今日は四月十六日。二十三日まではたっぷり一週間ある。

 正直、前回ほどの苦労はなさそうだった。それにしゃくではあるが、話しているうちに、夜河さんへの恐怖も徐々に薄らいでいた。見事に四ツ谷の狙い通りになってしまっている。

 せめてもの抵抗で、ためいきをひとつついてから応えた。

「私でよければ、協力します。明日までにいくつか場所をピックアップしておきます」

 四ツ谷がとびきりの笑顔になって、飛びついてきた。そのあと夜河さんまで感情をあふれさせ、のしかかってきた。非科学にまみれた光景だった。



 夜、帰りに途中まで四ツ谷がついてきた。見送りと言いつつ、さりげなくまたあの交差点から遠ざかった道を選んでいた。何か危険があって、遠ざけようとしてくれていた、のかもしれない。夜にぶっそうな話はごめんなので、気付かないフリをしてやり過ごす。

「流星群、見られるかな?」四ツ谷が訊いてきた。

「さっき天気を確認したけど、晴れだった。必ず当たるわけじゃないけど」

「夜河さんはもう七年も、あそこにいる。あたしが会ってきたひとたちのなかでも、長いほうだよ」

 四ツ谷の口調が変わる。彼女の緊張が伝わり、思わずつばをのみこむ。ただごとではない事情があるのだと気付く。

「長くとどまると、どうなるの? 活動範囲が狭まったり、触れたりって、強度があがるだけじゃないってこと?」

「長くとどまる幽霊は、理性を失って、ひとに危害を加えるようになる。正直、もうその兆候が出てる。真夜中になるとね、たまに暴れだすんだ」

「暴れだす?」

 私と話をしている間は、大人しく、気品すらも感じさせたあの夜河さんが。

 その姿は、正直、想像できなかった。

「叫び声をあげるし、物も飛ぶ。だきしめてあげると少し落ち着くけど、いつまでもつかわからない。だから成仏するなら、今年が最後のチャンスだと思う。もう時間がない」

 流星群の見やすい場所を探してやる。ただ、それだけでいいと思っていた。明智さんのときほど苦労はしないと、気楽な気持ちでいた。

 逃げ出したいという本音と、放っておけないという義務がせめぎあう。最近、こういう感情をよく味わう。ひとと関わってこなかった私が、味わってこなかったもの。味わい慣れていないもの。

「流星群は、見られるかな?」四ツ谷があらためて訊いてくる。

「絶対とは言えない。けど、友達に協力してもらおう」

「え? 友達?」

 きょとんとする彼女が面白く、思わず笑った。

 できることは、なるべくする。

「そう、物知りの男友達。明日連れて来るから、ラボに来て」



 早めに通学し、ラボで準備をしていると、ノックもせずに四ツ谷が入ってくる。ソファにカバンを放り「友達は、ねえ友達はっ?」とせかしてきてウザかったので、もう少し遊ばせたかったが、早めに種明かしをすることにした。

「ちょうど組み立てと充電も終わった」

「じゅ、充電?」

 ひとめでバレないよう、かけていた布を外す。中心部の四角い機体からは、四本の腕が天井に向かって伸びる。腕の先端には耐火性素材の羽根。機械の上部に飾りで丸い頭部とカメラを搭載。充電のクレードルにおさまっている姿は、動物が自分の寝床におさまっているようにも見える。

「こ、これって、ドローン?」

「正確には違う。ドローンに人工知能を搭載してる」

「人工知能?」

「知り合いに人工知能の専門家がいて、その研究を引き継いで、私がつくったの。未完成な部分も多いけどね。自律型無人航空機兼高性能人工知能、名称は『ソラ』」

 頭の上のスイッチマークに触れると、蛍光色に光り、とたんに起動音が鳴る。中学生の頃に遊んでいた携帯ゲーム機の起動音に少し似ている。起動すると、まず頭がぐるりと回転し、周囲の状況を分析、スキャン。私の姿を認識したところで、挨拶をよこしてくる。

『こんにちは、ハナ。ここはたまに連れて来てもらえるラボですね』

「ええ、ここはラボだけど、あなたが話しかけているのはサボテンよ」

 窓際のサボテンを見つめていた頭が再度動き、ようやく私のほうを向く。

『失礼しました。それにしても、いつもの散らかったハナの部屋を見ずに済むと思うと、今日は目覚めもすっきりです』

 ドローンのソラから発せられるのは、男性の声だ。四ツ谷がぜんとしているままなので、説明を補足してやることにした。

「言葉を覚えさせている途中で、なぜか一言多い性格になったのよ」

『そちらのかたは?』

 頭が稼働し、カメラが四ツ谷に向く。びくっと体を弾ませる様は、私が彼女に幽霊を見させられているときのようで面白い。いまだけは立場が逆転だ。

「こ、これってどうなってるの? すごい……」

「挨拶してみて。もう少しすごいものが見られるから」言いながら、そっと四ツ谷の背中を押してソラに近づける。

「顔を近づけて名前を言うと、次回から覚えてもらえる。五秒間は動かないで」

 たどたどしいしぐさで、四ツ谷がソラに顔を近づける。言われたとおり、律義に五秒間以上じっとしていた。

「よ、四ツ谷飾でス。はじめまして」

『認識しました。よろしくカザリ』

 四本の腕先の羽根を回転させ、浮上する。体を傾け、お辞儀のジェスチャーを見せる。わ、わ、わ、と四ツ谷が感激するように手を叩いた。

「友達ってこれのことだったんだ」

「誰も人間とは言っていない」

 昨日の意趣返しのつもりで答えた。

「はは、確かに男のひとの声だね。物知りで、話し相手にもなってくれる」

「自動的にネットワークにアクセスして、目的の情報を探してくれる検索機能もある。ちなみに検索エンジンも既存の企業のものじゃなくて独自のものを使っていて……」

 説明に興が乗りかけていたところで、ソラが割り込んでくる。

『カザリはハナのお友達ですか? 主人の友達というものに初めてお目にかかりました。知っていますかカザリ、彼女は夜に眠れなくなると私を起動して、自分が眠るまでこもり歌を聞かせろと……』

「電源落とすぞお前」

『失礼しましたご主人』

 ソラは人間よりも記憶力も膨大で、容量も桁が違う。自律機能には特に気をつかって設計したから、なまじ記憶を消そうとすると、プロテクトをかけてくることもある。

「ねえ華ちゃん、素人のあたしでもわかるけど、これってすごい発明だよね……?」

「ぜんぶ私がつくった、って言えればよかったけどね。残念ながらそうじゃない」

 設計には知り合いの研究者がたずさわった。制作には七年かけたと聞いている。私が関わったのは一部で、あとはテスター扱いでこうしてそばに置かせてもらっている。

「ソラっていう名前は?」

「それは私がつけた」

「どういう経緯で名付けたの? 何かの英語の頭文字とか?」

「え、普通に空を飛ぶから」

「……台無しなネーミングセンス」

 ソラは会話に飽きたのか、散歩がてら飛行し、ラボ内をうろうろし始める。四ツ谷や私にはぶつからないよう、ときどき静止しては、常に一定の距離を計測し飛行を保っている。飛行音が少しうるさいので、まだ改良の余地があった。

「あのソラの声って、どこかで聞いたことがある。加工してあるけど、誰かに似てる気がする」ぼそりと、四ツ谷がつぶやいた。いやな予感がした。

「き、気のせいじゃない? 適当に、気分でネットから男性の声をとって、ボイスサンプルにして再構成しただけよ」

「わかった、ジョニー・デップの吹き替えの声のひとだ。確か声優の名前が……」

「この話もうおしまい!」

 思わぬところで、プライベートな好みまで露呈するところだった。ソラも放っておけばしゃべりだしそうで、全体的にここに連れて来たのが、マイナスなような気さえする。早いところ、目的を完遂しよう。

「ソラ、戻ってきて。あなたを呼んだのは調べてもらいたいから」

『どんなことでしょう?』

「来週の月曜、こと座流星群があらわれる。この地域の、そうね、半径二キロ以内で観測に適している場所をピックアップして」

『ご主人が星の観測? 冗談でしょ? 何かの少女漫画にでもハマりましたか?』

「十秒以内に調べ終えないとスクラップ」

 ぴぴぴぴぴぴぴぴ、と胴体がけたたましく起動音を鳴らす。必死にネットにアクセスし、該当条件を調べているのがわかる。四ツ谷がぷっと噴き出して笑った。

『検索が終わりました。この周辺だと、かげびしやまの山頂か中腹付近をおすすめします。ハナがランニングを始めると言って挑戦してリタイアした山です。地図情報をメールで送っておきますか?』

「ありがとう、あとうるさい」

 メールを確認し、ソラから送られてきた地図を確認する。

 四ツ谷の自宅からも、それほど遠くはない。歩いて三十分もかからないだろう。一応、彼女にも確認してもらう。夜河さんがついてこられる距離であるかどうかが問題だ。

「うん。これくらいなら大丈夫だと思う。へえ、このへんってこんな山があるんだ」四ツ谷が言った。

 とにかく、これで観測場所も決まった。問題は解決だ。ソラが測定したなら間違いないだろう。私の検索よりも正確だ。だからこそ連れて来た。

「ありがとうソラ、もう休んでいいよ」

『ハナ、私この周囲を散歩してみたいです』

「学生の注目を引くからだめ。ばいばい」

 自分で眠ろうとしないため、電源ボタンにタッチし、起動をオフにする。

 四ツ谷のほうに向きなおろうとすると、再びソラの起動音が鳴る。

「こらぁ! 自分で起動する機能なんて教えてないっ」

『この前、自分でプログラムしました。一分だけなら、私の意思で起動できるようになってます』

「この会話が終わったら、その機能は消すこと。命令」

『承知しました。では最後にひとつだけ』

「なに?」

 ソラには空気を読む、という機能がそなわっていない。当たり障りのない気遣いはぎりぎりできるが、細かい機微を読むには、学習も足りていないし、そのあたりが機械と人間の壁の高さにもなっている。だから彼はあくまで端的に、事実だけを読み上げた。

『私の予想では、来週の月曜日は曇りか雨になるはずです。過去十年間のデータでは、四月の一週間前の天気が予報通りになる確率は二十パーセント以下です』



 ソラの予想の三日後には、テレビの天気予報も、月曜日の天気を曇りのち雨と変更してきた。当然だが、日付が近づくたびに予報の精度は高まる。これがさらにくつがえされることは少ないだろう。ソラならまたパーセンテージを用いて説明してきそうだ。

 現状を伝えるために、四ツ谷に夜河さんをラボに連れて来てもらった。影菱山への移動が本当に可能なのかを、彼女の自宅からここまでをテストコースとして検証したかったのと、もうひとつは、四ツ谷が電話で、ひとりで報告するのが心細いと漏らしてきたからだった。常に自分のペースに巻き込み、陽気に笑って物事を片付けていくような四ツ谷が心細いというあたり、夜河さんの深刻さが見て取れた。

 ソファに私と四ツ谷が座る。組み立てイスを用意して、向かいに夜河さんに座ってもらう。姿を確認するたびに手を握るのもなんだか恥ずかしかったので、今回は四ツ谷に私の髪に触れてもらった。どこまで力の作用が及ぶのか、ちゃっかりと、ある種の実験もかねていた。夜河さんの姿はちゃんと見えた。体の一部であれば、どこでもいいらしい。

 四ツ谷が切り出す。

「夜河さん、いいニュースと悪いニュースがあるんです」

「こうしていままで成仏できず残っているだけで悪いニュースみたいなものだから、どちらから話してもらっても平気よ」

 強がりなのがわかる、感情の薄い笑顔だった。四ツ谷が不安である以上に、きっとこのひと自身も、自分の変化におびえている。四ツ谷が話していた真夜中に暴れるという話。それはきっと、彼女も制御できないものなのだろう。

「いいニュースは観測できる場所が見つかりました。影菱山の山頂です。悪いニュースは、天気が今年も微妙なこと」

「わたしね、あのひとと結婚する予定だったの」

 会話の内容を無視して、四ツ谷の言葉など聞こえていなかったかのように、夜河さんがしゃべりだした。少し唐突な気がして違和感を抱いたけど、指摘することなく、聞くことにした。

「結婚すれば、あのひとを救えるはずだった。もう少しだったの。どうしてかわかる?」

「え、あの、えっと、なんだろ……」

 四ツ谷がたじろいでいたので、私が代わりに回答する。

「親族の優先提供、ですか?」

「さすが華ちゃん。本当に物知りね。物知り、物知り、物知り」

 夜河さんがまた笑う。壊れた機械のように、最後の言葉をリピートさせる。ん? と四ツ谷と顔を見合わせようとするが、彼女は夜河さんをじっと見つめたままだった。

 親族の優先提供が理解できていない様子の四ツ谷に、説明する。

「夜河さんの恋人は病気だと言っていた。話を聞くかぎり、臓器提供が必要な病。ドナー登録をしても結局は順番待ちになり、提供がまわってくるのが数年後とかになったりする。普通は特定のひとを指定して、自分の臓器を提供するということはできない。だけど、親族の優先提供は別。親族間であれば、臓器が適合している場合にかぎり、優先的に臓器を移植できるの」

 その先は夜河さんが続けた。

「ある知り合いの医者に頼んで、わたしの肺が彼のものと適合するかを検査してもらうことができたの。適合した。奇跡だと思った。移植は肺の一部だし、わたしも彼も生きられる。だから自分からプロポーズした。彼も最初は渋ったけど、んでくれた。結婚すれば配偶者になって、わたしと彼は親族になる。だからわたしは自分の肺を彼に移植させることができる。婚姻届も書いて、あとは役所に提出するだけだった。それなのに」

 間に合わなかった。

 あと少しのところで、彼は亡くなった。

 夜河さんとの会話で気付いたことがある。彼女はよく、奇跡という言葉を使う。無意識のなかで、夜河さんが求めているものなのだとわかる。最も彼女が望んでいたものだった。不運にあい、あのときの流星群が見られていれば変わったはずと、自分をなぐさめる。

 科学的に言えば、見えていようがいなかろうが関係ない。そこに因果関係はない。けれど夜河さんにとっては、それが救いなのだ。

「だから、だから、だから」

 夜河さんの様子が、またおかしくなる。のどに何かを詰まらせたように、次の言葉が出てこない様子。

「か、彼が、彼が、かかっかかか」

 夜河さんの体が震えだし、誰の目から見てもおかしい状態になる。どういう現象なのかとらえかねているうちに、四ツ谷が立ち上がり、私の腕をつかんだ。同時に夜河さんが叫んだ。

「彼がいてくれたら! もうすこぢだったどに!」

 叫びは止まらない。

「医者が医者が医者が! 適合してた! 間に合ってた! 星さえ見られたら、見せて、見せて、見せて! せてせえええって、がうががが星ほしほほほあああ!」

 夜河さんの真上にある蛍光灯が割れる。

 さらに空間全体が揺れていた。地震かと思ったが、そうではない。四ツ谷の慣れた機敏な動きでようやく理解した。これが言っていた、夜河さんの暴走なのだ。

 四ツ谷に引っ張られ、ドアに移動する。だが開かない。カギもかかっていないはずなのに、固定されていた。仕方なく部屋の隅に避難する。

「たんじょおおおびに! 生きられなくなって! うずくまって! お願いだから星を見せて! こちら夜河です、車くるまクルマにひかれて、ひかれて、ひかれて」

 戸棚が一斉に開く。なかのビーカーや器具が倒れ、床に落ち、割れていく。蛇口から水があふれだす。窓にヒビが入る。カーテンが炎みたいに揺れる。

 それからぷつりと、糸が切れたように、すべてがおさまった。

 夜河さんの姿が消えていた。四ツ谷の腕はつかんだままだ。

「家に、帰ったんだと思う。あたしも一度戻る。そばにいてあげなきゃ」

 慣れた様子の四ツ谷はすぐに立ち上がり、開くようになったドアを開けて出ていこうとする。が、直前で振り返ってきた。

「どうしよ、ごめん、いっぱい散らかっちゃった」

「こ、ここはいいから。行って」

「……ありがとう」

 四ツ谷の姿が消えたところで、体が震えだした。天井の、蛍光灯のあった場所から煙が立っている。強い衝撃が加わった証拠だ。床には器具が割れて、一面がガラスの海になっている。落ちるものはすべて落ちきっていた。蛇口の水はとまり、一滴だけ水が流しに落ちる音がする。しばらく自分の体を抱いて、心を落ち着かせた。

 三十分してようやく体が動き、片付けを始める。終わるころには思考がまわり始め、四ツ谷からの電話にもスムーズに出られた。

『華ちゃん、大丈夫?』

「なにが? ぜんぜん平気だけど」

『怖かったよね』

「別に怖くないし」

『片付け、手伝えなくてごめんね。こっちはなんとか落ち着いたよ』

「そう、よかった」

 お互いが沈黙する。電話の奥で、四ツ谷の息使いが聞こえてくる。体力はどっと奪われていたが、私たちは夜河さんの暴走に遭遇しただけで、いまだに問題は解決していない。

『当日、晴れることはないんだよね? どうしよう』

「……私に考えがある」

 落ちるものはすべて落ちきる。

 荒れた部屋をながめて、思いついたことがあった。

 使えるとすれば、この策だけだ。

「土日の二日で準備するから、ちょっと待ってて」

『もしかして、なんとかなるの?』

 つい一時間前まで、非科学な光景にただ圧倒され、震えていた私だけど。

 策を思いついたのも、ついさっきだけど。

 それでも、いつだって活路はちゃんとあって。

 だからこれだけは、自信をもって言える。

「科学オタクをなめんなよ」



 土日の間に時間があったので、こと座について少し調べた。神話にこんなものがあった。

 発明の神であるヘルメースが琴をつくりだし、その琴はやがてオルペウスという人物のものになり、彼は音楽家として活躍したそうだ。彼の妻であるエウリュディケーがあるとき、蛇にかまれて死んでしまう。悲しんだオルペウスは冥界ハデスのもとにいき、琴を聴かせて妻を戻すように懇願する。ハデスは琴の調べの美しさに免じて、これを許可した。ハデスは帰る途中に振り返ってはならないという条件をつけて、妻をオルペウスに返す。だがオルペウスはあと少しというところで振り返ってしまい、妻を再び奪われてしまう。オルペウスはそのあと、後を追うように亡くなる。

 この話を知って、私は夜河さんの影を重ねた。奇跡という言い方はできないかもしれないけど、何か運命的なものを感じる。

 これまでの人生で、科学で説明できないものはすべて否定してきた。

 だけど否定という行為は、同時に自分の視野を狭めるという意味でもある。科学者のスタンスには適さない考え方だ。だから最近は、少し認識を変えている。



 影菱山のふもとの登山口の前で、四ツ谷と集合することになっていた。家を出る直前、四ツ谷から電話があった。

『華ちゃん、ふもとに向かう途中、あの交差点は通らないようにね』

「交差点?」

『ほら、この前、あたしの家に向かう途中で、さ』

 ああ。とすぐに思い出す。

 四ツ谷が警戒していた交差点。そしていまも、わざわざ電話で警告してきている。

 いまさらだが、どう考えても幽霊関連の何かだ。普段はおおざっぱに見える彼女がこういう手まわしをしてくるあたり、相当やっかいなものなのだと、あらためて気付く。

『華ちゃん家とあの山へ向かう道、ちょうどはさむ場所にあるから』

「ちょっと待て。なんでうちの場所知ってる」

「じゃあね、あとでね」

 一方的に切られた。

 とりあえず、四ツ谷の忠告通り、例の交差点を避けてふもとに向かった。途中であの交差点の名前を検索して調べることにした。事故、という言葉がまずとびこんできた。記事を追っていくうち、事故多発、死傷者、重傷、カーブミラーの設置、など気になる単語が増えていく。

 そうやって情報を追っているうち、ふもとにたどりつく。四ツ谷と目が合い、あわてて携帯を閉じた。忘れることにする。

 四ツ谷は背負っている私の荷物を見てぎょっとした。

「な、なんでリュックを二つも背負ってるの? すごいパンパンだし……」

「必要だから」

 ちなみに四ツ谷はポーチひとつで実に身軽だった。

 時間が夜中でよかったと、いまさら思う。昼間だったら通り過ぎる何人に凝視されたことだろう。リュックが大きすぎて、私の体をほとんど覆っている。かなり重い。肩にはリュックのひもが食い込んでいる。ずきずきと、さっきから鈍い痛みに襲われている。

「あたし、ひとつ持つよ」

「できれば両方持ってほしい」

 山頂を目指しながら歩きはじめる。途中で息が限界になり、本当に四ツ谷に二つ背負ってもらった。まったくもう、とさすがに呆れられた。ふもとまで持ってきただけでも私の体力を褒めてほしい。

「華ちゃん、体力もっとつけなよ。小学生にも負けるよ。ランニングとか始めたら?」

「私がランニングを断念した山でそれを言うか。ところで、夜河さんは来てるの?」

「うん。確認する?」

 返事の代わりに首を横にふる。会話するだけで息が絶え絶えになる。だが何もしゃべらずに歩き続けるのもつらい。だからハイキングは嫌いなんだ。

 ふと、気になる疑問をぶつけてみる。

「幽霊、というか、夜河さんは疲れたりしないんですか?」

 数秒遅れで四ツ谷の通訳を介して、答えが返ってくる。

「たとえ現実の体でも、華ちゃんよりは疲れたりしない、ってさ」

「冗談言う余裕はあるみたいですね……」

 携帯で時間を確認する。夜の十一時。見え始めるのは〇時からで、ピークは一時。時間は間に合うが、空は予報通り、曇りになっている。

 登山口にあった街灯も消え、やがて真っ暗になる。懐中電灯を出して道の先を照らす。舗装された道から、木の根が埋まる土の道になる。何度かつまずきながら山頂を目指す。

 風が葉を揺らし、ごおお、と木々の間を通るたびに不気味な音が降ってくる。ひとりで進んでいれば即リタイアだが、四ツ谷たちがいることで、不思議と怖くはなかった。怖いよりも疲労が勝っているからかもしれない。

 傾斜が激しくなり、いよいよ四ツ谷に引っ張られながらのハイキングになる。夜河さんが手拍子で私をはげましてくれた。今夜、流星群を見られないと夜河さんの成仏はかなわない。それをお互いに感じさせないように、わざと気楽な会話を繰り返した。

 土の道が終わり、景色ががらりと変わる、草の広場に出る。山頂だった。木々が取り払われ、頭上にもスペースができる。広場の隅まで進めば、町を一望できる。ベンチが一列に設置されていて、休憩ができるようになっていた。

 町を一望できる隅には移動せず、なるべく観測のしやすい暗がりのほうに進む。芝生にリュックから出したブルーシートを広げ、さっそく準備にとりかかる。

 時間は〇時十分。晴れていればそろそろ観測ができる時刻だが、空は曇ったままで、いまだにまともな星ひとつ見えない。だけどここであせらない。リュックを全開にして、パーツをすべて出す。組み立てているうちに、四ツ谷が答えにたどりつく。

「それって、ロケット?」

「そう。もう一本つくるから、四ツ谷も手伝って」

 四ツ谷が横に座り、私の手つきをて組み立てる。意外に器用で、すぐに同じ工程まで追いつく。

「このロケットをどうするの?」

 正直、説明している時間が惜しかったが、近くにいるであろう夜河さんを、安心させたい思いもあった。希望はあるのだ、と。

 リュックからさらに金属の箱を取り出し、なかを開けて見せる。一見すると周囲に落ちている土を砕いて砂にしたみたいな色の粉だが、中身は違う。

「これはヨウ化銀っていって、銀塩の水溶液にヨウ化アルカリを加えてできる沈殿物の結晶体。これを雲のなかに散布すると、周囲の雲を集めて雨の種になってくれる」

「雨の種?」

「雲を集めたその種は水滴になり、雨として地上に落ちる。雨雲が雨に変わり、すべてが落ちきると」

「もしかして、雲が消える!?

 四ツ谷の顔が明るくなり、そばにいた誰かと視線を交わす。触れていないからわからないが、そこに夜河さんもいる。四ツ谷と同じ希望を抱いてくれているといいけど。

「シーディングと呼ばれる行為で、いまから約七十年前には、アメリカですでに思いついているひとがいた。最近になっていろんな国が実用化を始めてる」

「成功はしそうなの?」

「最近の例だと、北京オリンピックの開会式に合わせて周囲で先に雨を降らせて当日を晴れにしたっていう話もある」

「でも、どうやって雲のなかに」

 言い終えるよりも前に、四ツ谷が手元のロケットに気付く。北京オリンピックでは国家規模で動くプロジェクトだったから、それこそ一〇〇〇発のロケットを発射したそうだ。私が集められたのは二発だけ。手製のもので、威力も弱い。それでも、可能性はある。

 もうひとつリュックから金属のパーツを取り出す。重い金属を運び、膝をぶつけながらも苦痛に耐えて組み立てる。五分もしないうちに発射台が完成する。用意しておいたガス燃料をロケットの後部に搭載し、あとは遠隔でスイッチを押せば発射する。ロケットの頭にはヨウ化銀の入ったカプセルがあり、発射後、自動で分解される仕組みだ。

「でも、これだけのものを、どうやって用意したの?」四ツ谷が訊いてくる。

「中学生と高校生のころ、不登校になって、きょうさんと一緒にある研究グループのアシスタントをしてたの。そのころのよしみというか、コネを今回使った。集めてくれたのは杏子さんだから、あとで一緒に愚痴を聞いてあげて」

 時間は〇時四十分。急がなくてはいけない。

 カウントダウンも省略。ボタンを押して、ミサイルを発射させる。

 ばしゅっ、と発射台がうなり衝撃と風を与えてくる。一瞬の耳鳴りに耐え、思わずつぶった目を再び開けるころには、ロケットはすでに上空に飛び立っている。

「二発目! 用意して!」

 四ツ谷に二発目のロケットを持ってこさせ、素早く発射台に固定し、再びボタンを押す。激しい衝撃と一緒にロケットが打ちあがった。しかし発射台のほうは衝撃に耐えきれず、パーツがくずれて大破した。いくらロケットがあっても、どのみちもう打てなかった。

「ロケットは?」

「大丈夫! 飛んでるっ」

 四ツ谷が指さす先に目をこらすと、かすかにロケットの一部分が見えた。雲めがけて飛び、あっという間に姿が追えなくなる。

 あとは待つだけだ。



 不安のせいか、四ツ谷が空を見たまま寄り添い、腕をつかんでくる。力が作用し、私の目にも夜河さんが映る。私たちよりも少し前に立ち、祈るように見上げていた。

「どれくらいになったら、効果が出るの?」

「最低でも十分は」

「もう十分ったんじゃない?」

「もう少し、待ってみよう」

 携帯を確認する。〇時五十分。もうすぐピークの一時を迎える。空中で分解したロケットの一部が、そろそろどこかに落下してきてもいいはずだが、それも見つからない。何かあったのだろうか。

 さらに五分が経ち、手をかざしてみるが、そこに水滴は落ちてこなかった。

 ピークの一時を迎える。雨は降り出さない。

「失敗したんだ……っ!」

 四ツ谷がうめく。ああ、ああ、とその声が震えだす。ここまでろうばいする彼女を初めて見た。前に四ツ谷の弱点をあばいてやると決めたことがあったが、こんな形で露呈するとは思わなかった。幽霊のじょうぶつに、彼女は異常な執念を燃やしている。

 四ツ谷が腕を強くつかんでくる。本人は無意識だろうが、恐ろしい力だった。痛みで声をあげそうになった。

「どうしよう! このまま晴れなかったら、夜河さんが……」

「落ち着いて、四ツ谷」

「成仏させてあげられない! このままじゃ! ああ、あたしはまた失敗するんだ! どうしよう、どうしよう、どうしよう」

「落ち着け、飾!」

 思わず叫んだ。はっとした彼女が、つかんだ腕の力をゆるめる。

「まだ作戦は終わってない。実験は失敗しないことのほうがめずらしいの。プランのAが失敗しても、Bを用意するのが当たり前」

「え?」

「大丈夫、そろそろ来るはず」

 本命がやってきたのは、私がそう答えるのとほぼ同時だった。木々の間から稼働音を響かせ、光を点滅させるそれが飛行して近づいてくる。

 徐々にスピードと高度を下げ、目の前まで来てホバリングをしたところで、飾がようやく正体に気付き、声をあげる。

「あれって、ソラ!?

 自律型無人航空機兼高性能人工知能。

 私が改造し、AIを搭載したドローン。通称ソラ。

『遅れてすみません。道に迷いました』

「ドローンが言うと笑える。ラボの窓はちゃんと閉めてきた?」

『そうしてほしいなら、次から私に腕を搭載するようにしてください』

 今日の昼間、ラボで一度ソラを起動させた。夜のこの時間に、影菱山の山頂に来るように設定(命令)しておいたのだった。彼が飛び立つスペースを用意するために、ラボの窓は開けておいた。

『ハナ。ご用件は? 一緒に天体観測ですか? いまのところ、雨雲の観測には好条件の空です』

「だからあなたを呼んだの。いまからヨウ化銀を背負ってもらうから」

『要課金?』

「ソシャゲか。違うわよ。ヨウ化銀だってば」

 細かい発音をまだ拾えていない。改良する必要がある。が、それはいまはどうでもいい。

「来てもらって早々だけど、時間がないの。薬品を載せるから、雲の上まで飛んで」

『夜間の飛行と、指定区域内を一五〇メートル以上の高さで飛行すると、航空法に抵触しますがよろしいですか?』

 そんなこと言ったら、ここまで遠隔で飛行してきていること自体がアウトだ。いろいろギリギリなことをしていることくらい、最初からわかっている。

「大丈夫よ。もしバレたら罰金は四ツ谷が払うから」

「え、あたし!?

『承知しました。それでは飛びます』

「飛ぶ前にちょっと話さない!?

 四ツ谷を無視し、会話を進めながら、ソラの体の下にヨウ化銀のはいった金属の箱を装着する。一定時間、振動を与えれば箱の底が開き、徐々にヨウ化銀が漏れ出していく仕組みだ。ソラにはあたりを飛び回り、雲のなかで散布してもらう。

 ソラが飛び立ち、高度をゆっくりとあげていった。羽根の駆動音が徐々に遠ざかっていく。やがて暗闇に呑まれ、その光の点滅が雲のなかに消えていった。正真正銘、これがラストチャンスだった。

「今度こそ」



 つないだ飾の手に、熱と汗の湿気を感じる。その緊張が伝わってくる。ソラが飛び立ってすでに十分が経った。

 時刻を確認しようと、携帯を開く。一時十二分。ピークを迎えた。雨が降り、雲が取り除かれる時間を逆算すれば、ここがタイムリミットだった。祈ろうと目を閉じかけたそのとき、携帯の画面に、水滴が落ちた。

「華ちゃん……」

 飾がいた手を空にかざす。見上げると、鼻先にぽつんと、冷たい一滴が落ちてきた。

 ぱさ、ぱさ、ぱさ、と周囲の草が音をたてる。雨が降りだした。少し前に立つ夜河さんも、見上げて手をかざす。その体を雨が通り抜けていく。

 本格的に雨が降りだす。空から光の点滅がゆっくりと降りてくる。ソラだった。左右に揺れながら、ゆっくりと戻ってくる。中途半端に開いた金属の箱のせいで、バランスが取りづらいのだろう。

「おかえり」

『電力を使いすぎました。まもなく電源が切れます。帰りは運んでください』

「もちろんよ。ご苦労さま、ゆっくり休んで」

 ソラがホバリングをやめて、その場に着地する。数秒もしないうちに言っていた通り電源が落ちて、動かなくなる。本当によくやってくれた。

 飾も夜河さんも、そして私も、誰ひとり木陰に避難することもなく、ただ降ってくる雨を浴びつづけた。作戦を知らなかった飾はともかく、成功を目指していた私まで傘を持ってきていないのは、いまにして思えば不思議だった。だけどたとえ傘を持ってきていても、きっとささなかったと思う。この雨は、肌に触れたい種類のものだ。

 見上げていると、水滴がまぶたに落ちるので厄介だった。なのでうつむき、ただひたすら、やむのを待った。

 やがて周囲で地面や葉を叩く水の音がなくなり、そうっと、上を見る。

「……わあ」

 息をはくだけだったのに、思わず声まで出た。空一面を、星が覆っていた。地元の町で、これだけきれいに見られるのを初めて知った。そこにあるのに、気付かなかった。見えていないだけだった。

 人間は生まれる何世紀も前から、そこにあった存在。

 自分が生まれる何年も前から、ひたすらに頭上で光り続けていた星々。

 電気のない時代、ひとびとは星明かりを頼りに生活をしていた。届けられた光の先には、すでに存在しない星もある。空に浮かぶのは、彼らが存在していた証明の、残滓だ。

 点と点になり、結びつけるひとがいた。空に物語を見いだすものたちがいた。それは星座という名前がつき、いまに浸透している。

 科学は地球だけにあるものじゃない。その空にも、しっかりと秩序がある。

「見て、華ちゃん!」

 飾が腕を取り、ひき寄せてくる。指をさされなくても、わかっている。彼女が指した反対方向にも、それが流れ始める。

「流星群だ」

 写真を見ているように止まっている景色のなかを、まばたきの間で流れる光がある。英語ではメテオシャワーと呼ぶ。センスがいいと思った。初めて眺めたそのひとは、体に浴びたいくらい、きれいだと思ったのだろう。

「ああ、見られた。やっと見られた。高貴、ねえ高貴」

 夜河さんが手を広げる。伸ばせばつかめると思いこむ子どもみたいに、夢中につぶやき、その腕をあげつづけている。

 あそこ。ほらあそこ、そこにも。気付けば四ツ谷と一緒に指をさし合っていた。やがて二人の指でも足りなくなり、ついには数えるのをやめた。観測予想では、一時間に十個見られればいいほうだと記述があった。この空は、そんなものじゃなかった。

「ねえ、夜河さん、これでやっと……」

 四ツ谷が夜河さんのほうを向き、会話を投げようとした。途中で言葉をとめたので、同じ方向を振り向く。彼女の姿はすでになかった。消えていた。

 飾と目を合わせる。ラボで暴走したときと同様、家に戻ったのだろうか。いいや違う。言葉を交わさなくても、飾に確認しなくても、私にはわかった。夜河さんは願いをかなえていたから。

 空にはまだ星が流れている。誰かがスイッチを切るまで、とまらないのではないかとすら思えてくる。だけどピークは過ぎ、やがて消えていくだろう。次に同じ流星群が見られるのは、来年だ。

「また見にこようよ」飾が言った。

「疲れるから嫌だ。というか、ここからまたふもとまで下りなきゃいけないのも嫌だ」

 風情ふぜいがないなぁ、とばかにされる。

 さて。星があるうちに帰ろう。



 山頂を下りる前に、飾がポーチから何かを取り出した。明智さんのときにも見せた、あの旧式のデジタルカメラだった。彼女は頭上の星には一切ピントを合わせず、夜河さんがさっきまで立っていた、その周辺の土や草を撮影していた。フラッシュがたかれて、撮影が終わったことを悟り、近づく。

「前も撮ってたけど、それなんの意味があるの?」

「んー、まあね」

 飾のあいまいな返事が気に食わなかったので、先に山を下りてやることにした。私の不機嫌に気付いたのか、すぐに飾が追ってきた。

 帰り道、何度か足をすべらせて転びそうになった私を見かねたのか、飾が手を差し出してくる。彼女は私のリュックを二つも背負っているくせに、一度も足をぐらつかせない。

「ほら、早くつかまってよ。手を取って」

「ゆ、幽霊が見えたらどうするのよ」

「平気だって。心霊番組でよく森は特集されたりするけど、よっぽどな場所じゃない限り、こういうところにいるのは少ないよ。むしろひとが集まる駅前とかスーパーとか……」

「それ以上言うな! 考えさせるな!」

「じゃあつかまって。するほうがよっぽど怖いよ」

 仕方なく、手をつなぐことにする。歩きだして、雨でぬかるんだ地面にまた足を取られる。今度こそ転ぶと思ったが、飾が踏ん張ってくれた。

「手、離さないでよ、飾」

「わかってるよ。華ちゃんはお疲れでちゅもんね」

 飾は終始、ふふふと笑いつづけていた。にやけ顔が気色悪かった。見つめるとさらに変な顔になるので、目を合わせるのをやめた。ついに悪いやつにとりつかれたのかと思ったが、そうではないらしい。何かを思い出しては、それに喜んでいるみたいだった。いったいどんなうれしいことがあったのだろう。私は気付かないフリをする。



 星がまたひとつ、頭上を過ぎた。