プロピンに水を加えてアセトンをつくる。経済的には購入したほうが安い代物だが、私がこれでいいと言ったらこれでいいのだ。実験とは料理にも似ている。ミートソースパスタをつくるとき、ミートソースをインスタントで済ませないで自分で調理するのと同じで、手間をかければそれだけいとおしい。

 髪がミートソース、ではなくアセトンにつかないように首の後ろにかきあげて、慎重に移動させる。横にはシャーレに載せた過塩素酸カルシウムという無機化合物がある。これに生成したアセトンを加えると。

「おはようはな

 集中を散らすように、ドアが乱暴に開く。たてつけが悪いので、きいいい、と金属が不快にこすれる。実験器具、液体をすべてわきにどけて、客人に目を向ける。といっても、大学に通い始めて以来一年間、部室(実験室)に来るのは一人だけである。

「どうも、きょうさん」

 この大学の教授を務め、叔母でもある杏子さんは、メガネのフレームの色を日ごとに変えるのが趣味。適当に進学先を探していた私に、ここを推薦してきたひとでもある。

 私の後ろをひょいとのぞき、流しに隠した容器をしっかり見つけてためいきをついてくる。探しものでもしているのか、きょろきょろとあたりを見回し始める。何を探しているのかと思っていたら、あきれた答えが返ってきた。

「あなたって友達はいつできるのかしら? もう二年生になるけど」

「この先も予定はありませんが」

「友達のつくりかたは教科書には書いてないものね」

「教科書に載せないってことは、わざわざ知るまでもないってことです」

「この部室をゆかいな仲間たちでいっぱいに埋めたくはない?」

「ぞっとするようなこと言わないでください」

 この部室を、自分以外の誰かの姿が埋めているのを想像する。数人がそこのソファでくつろいでポテトチップスを食べる姿。整理して並べた実験器具を無闇にいじってはしゃぐ姿。悲鳴をあげそうだ。注意しようにもできず、部屋の隅でうずくまっている自分すら容易に想像できる。ああ、起こってもいないのに泣きそうになってきた。

 最後の意地で、杏子さんにこう返した。

「友達はできないんじゃなくて、つくらないんです。それにこのスペースを与えてくれたのは杏子さんのほうでしょう。私がひきこもることくらいわかるはず」

「華が実験に集中できる場所が欲しいって言うから、この秘密基地を提供したのよ。青春まっさかりの学生生活をおろそかにしろなんて言ってない」

 杏子さんが私の髪に触れ、持ちあげる。その手の間を水がぬうように、するすると落ちていく。毎日、寝る前と起きたときの手入れは欠かさない。自分の髪に一番合うトリートメントも五十種類は吟味した。結局最後は材料を集めて、自分でつくったけど。

 髪の手入れをしているのは、そこに秩序があるから。

 伸ばし続けているのは、それを体感するため。

 今日も世の中は科学の仕組みどおりに動いていると、安心するため。

 髪を持ちあげて手を離せば、髪は重力に従って落ちていく。歩けば遠心力に振られて、左右に行ったり来たり。ドライヤーの風力を受ければ、流されて浮かぶ。科学が機能していることを、体感できる。

 杏子さんは続いて、私の右目の下あたりをやさしくなでてくる。

「髪もきれいだし、この泣きぼくろだってチャーミングなのに。容姿に自信がないなら、取り越し苦労だとアドバイスしたいけど」

「メラノサイトが重層して表皮が持ちあげられたものにすぎない色素性はんに、自信を持つのもどうかと思いますけど」

「うわーまた。そういうの引かれるよ。どうせキスのことも、唾液と唾液の交換、とか表現するんでしょ?」

「愛情表現、広義での友愛表現。性行為を助長する手段のひとつ。室町時代では口吸いとも呼ばれていて……」

「あーはいはい、もういい。あなたを褒めるのはもうおしまい」

 博物館の展示でもるみたいに、杏子さんは部屋を歩き始める。自分の内臓をじろじろ見られているようで、あまり好きじゃない。展示品だってそれほどない。杏子さんが自分の教授室で使っていたおさがりのソファとミニテーブル。ひとり用の冷蔵庫。部屋の両わきをうめる木製の棚には薬品と実験器具。本棚はすべて科学雑誌と資料集。

「うわ、なにこれ、カナブン?」

 窓ぎわに置いてあるのに気付いた杏子さんが、うめき声をあげながら言った。

「死骸です。自然分解の様子を観察してるんです。風化中なのでいじらないで」

 もとは緑色の体をしていたが、いまは色素も抜けている。実験は順調だ。

「この科学オタクは……」杏子さんはうめいて舌を出す。

「もう、いいから放っておいてください」

「悪いけど、そうもいかない」

 取り出してきたのは、一冊のパンフレット。まるめてしわくちゃ、がさつな杏子さんらしい持ち方だった。

 パンフレットの題には『新入生サークル説明会』とある。それぞれのページにサークルの簡単な説明と、会の日時が示されている。サークル人数が多いところでは優先的に枠が大きくもらえたり、写真の掲載もしたりしている。

「説明会、今日の午後二時、わかってる?」

「覚えてますよ。プレゼンも一応用意してます。ひとが来るとは思えませんけどね」

 むしろ来てほしくないという希望も、かすかにこめて答えた。私以外の部員がいなければ、ここでひとり、自由に活動ができる。

「あなたはラボだなんだと言っているけど、一応ここ、サークル部室だからね。その実験器具だって、あなたひとりのためのものじゃない」

「今年も私はひとりがいいです。誰もこの場所にいれたくない」

「そうやって反抗すると思ったから、ここに来てるの。サークルが二人に満たないところは、閉鎖処分される決まりになってる。今年は見逃さないからね」

「ちょ、そんなっ!」

 なるほど、杏子さんがさっきからしつこく、私に友達のことをさんざん追及してきた理由がようやくわかった。そういう状況に慣れろという意味だ。慣れざるを得ない状況になると、警告しに来たからだ。

「去年なんてあの花形のテニス部ですら、つぶれたくらいだから。気をつけなさい」

 杏子さんが去ろうとする。ショックも癒えていないのに、ひとりきりにするなんてひどい。ドアのあたりで一度振り返り、最後に彼女は聞いてきた。

「ちなみにどういう発表をする予定だったの?」

「……あるテーマにもとづいた、研究の結果報告です。冊子にも書いておきましたよ。長くなるので省略バージョンを予定していますけど」

「テーマは?」

 答えようか少し迷う。自分の髪をつまんで離す。床に向かって落ちる様子をながめて心を落ち着かせ、そして答えた。

「幽霊」



 小さいころ、両親に子どもがどうやってできるのかを尋ねた。木の下でピクニックをしていたら、鳥が運んできてくれたのだという。

 小学生になって図書カードをつくれる年齢になり、さっそく図書館で子どもができる方法を探した。一週間かけて、「せいしょくき」が必要なことをつきとめた。その夜、両親に「せいしょくき」を見せてほしいと頼んだら、二人ともケンカを始めてしまった。どうやらお互いにどちらかが私に教えたと勘違いしたらしい。

 太陽をあびるとどうして温かいのか。雨がふると、どうしてれるのか。走るとどうして疲れるのか。転んでけがをするとどうして血が出るのか。そういうあれこれが、ひとよりも多く気になった。小学校の通知表には、好奇心旺盛と書かれることが常だった。

 だけどどれも、科学というものにのめりこむにはきっかけが弱かった。

 決定的だったのは、小学三年生のころ。

 ひとりでトイレに向かおうと部屋を出たところで、階段のきしむ音がした。当時、私は自分の部屋を一階にもらっていて、両親は二階で眠っていた。てっきりどちらかが起きてきて、私と同じようにトイレに行こうとしているのだろうと思った。

 階段のほうをのぞきこむと、窓からもれた月明かりに照らされた少年が立っていた。私に少年の友達はいないし、もちろん泊めた記憶もなかった。少年の右腕だけが、おかしな方向に曲がっていて、くぎ付けになった。

 両親を呼ぼうにも、二人は少年がいる階段を上った、さらに奥の部屋にいる。へたに刺激したくないなと思っていたら、少年が叫んでこちらに飛んできた。階段の段差に何度も体をうちつけながら、転がり落ちてきた。悲鳴をあげて、思わずその場で身をかがめた。衝撃がいつまでたってもやってこないので、顔をあげると少年は消えていた。

 両親が部屋から飛び出して、下着を濡らした私を抱きかかえた。怖い夢を見たのだろうとなぐさめてくれた。

 翌日、学校のクラスメートにさっそくその話をした。

 当時の私には、それなりに友達と呼べる人がいた。自分で言うのもなんだけれど、クラスのなかでも、きっと人気者だった。昼休みは女子の友達と昨日観たテレビの話をするときもあれば、気分が違えば校庭で男子のドッジボールに交ざることもあった。今の私からは、想像もできない姿だと、よく杏子さんに言われる。

 クラスメートの皆に、幽霊を見たことを語って聞かせていると、ひとりの女子が私に近づいてきた。普段は教室の窓際で本を読んでいる子で、特に話すこともなく、印象の薄い子だったのに、そのときはものすごいけんまくで、責め立てられた。

「あんた、バカじゃないの」

「え、え?」

「みんなに注目されたいからって、でたらめなこと」

「違うよ。私、本当に……」

「幽霊なんているわけないじゃん。適当なこと言うな」

 もう名前も覚えていないけど、とにかくその子の言葉がきっかけで、私はクラスでうそを広めて人気を取ろうとしているどうとみなされた。それから上履きを隠された。鉛筆やシャーペンが折られていたこともあった。机の引き出しの見えにくいところに落書きもされた。教科書が一枚だけやぶられて、幽霊のわざだよ、と笑われた。給食の最中、転んだフリをして牛乳もかけられた。

 悔しいと思うのと同時に、恥ずかしさがこみあげた。体中に熱がこもり、爆発してしまいそうだった。ああ、なんで自分はあんなものを信じてしまったのだろう。幽霊を見たなんて、口走ってしまったばっかりに。仲が良いと思っていた子も、みんな好きになれなくなってしまった。

 それ以来、私は科学というものにのめりこんだ。幽霊を否定するために。誰に頼らなくてもいいように。疑問を抱えたら、ぜんぶ自分で解決できるように。

 世の中が教科書通りに動いているのなら、幽霊は存在しえないはずだ。

 あんな恐ろしいものなど存在しない。

 私はそれを信じたくて、科学オタクになった。



 気付くと二時をまわっていた。サークル説明会の時間だった。場所は化学実験室。このラボの、壁一枚をへだてた隣の部屋にある。移動しやすいように、ラボから直接つながったドアがある。そのドアを開けてこっそり実験室を見ると、七人ほどが用意していた席についていた。意外に多くてびっくりした。そして七人という数は、私を緊張させるには充分な人数である。

 深呼吸を何度か繰り返し、白衣を着て準備する。ひとと話すときは、この格好でいるのがいくらか落ち着く。包まれ、守られているような感覚になるので、お気に入りだ。

 新入部員。科学に熱心な学生がひとりでもいるなら、良質な議論が日々できるのなら、受け入れられないこともなかった。ひとりきりの空間が失われるのは確かに残念だけど、複数人でないと成立しない実験がいくつかあるのも現実だ。そして科学という専門分野に限っていえば、私は緊張しないですむし、むしろじょうぜつにすらなれる。

 いくらかモチベーションを高めたところで、説明会開始。ドアを開けて実験室に入る。抱えたパソコンを手際よくホワイトボード横の映写機につないで、スクリーンを下ろす。

 私が準備している途中で二人が退出した。どうやら昼食の場所にただ使っていただけらしい。説明会が始まることを察知して、退散したようだ。残り五人。

 用意しておいたマイクのスイッチをいれる。マイクを通して流れる自分の声はあまり好きではないが、声を張るのはもっと苦手だった。スクリーンに『サークル説明会 科学研究サークル』の文字が映し出されたところで準備完了。

「お、お集まりいただいて、ありがとうございます。私は……」

 いきなりどもってしまう。最悪だ。何か別のことに意識を向けようと思った。自己紹介がてら、残った五人を観察しようと視線をめぐらせる。

 そうして、最前列に座る女子を見たとたん、思わず言葉がとまった。

 ひとりの女子に、くぎ付けになる。

 瞳は大きく、興味しんしんな様子で、彼女はまっすぐこちらを見つめていた。

 開いた脚の間に両手を置いて、前のめり。

 紙芝居を観にやってきた純粋な子どもみたいで、これからすごく面白い物語が語られると、信じて疑わない様子だった。口元がゆるみかけていて、少し小突いてやれば、けらけらと笑いだしそうだった。派手なおもちゃを見ているような気分になる。科学に興味を持ってくれている女子なのかとも思ったが、しかしどうも、知性の匂いがしない。

 茶髪の髪はところどころで毛先が跳んでいて、天然パーマなのかぐせなのかはわからない。けれど地上の重力にあらがおうとするその髪型は、見ていてあまり愉快じゃなかった。

 ひとと目を合わせるのは得意じゃない。それなのに、そらすタイミングを完全に見失ってしまう。それほどまでに、くっついて、なぜか離れない。不可解なものを見たとき、反射的に目をそらせなくなるのと、少し似ていた。その正体を体が勝手に探ろうとする。

 向こうも目が合っていることははっきり認識しているはずなのに、ぴくりともそらそうとしない。良識のある人間なら、目が合ったら気をつかってそらすものじゃないのか。遠慮というものを、彼女からはまったく感じられなかった。どれだけ意識を奪われていたのかわからない。だけど数秒は沈黙してしまったことに気付き、あわてて、自己紹介を続ける。

「私はこのサークルの唯一のメンバーを務めています、二年生のうきしま華です。現段階では一応サークル長も務めています」

 二、三度、小さな拍手が鳴り、まあこんなものだろうと思っていたら、そんな空気を壊すように大きな拍手を鳴らすものがいた。またしても、あの茶髪娘だった。ほんとに誰? きみ友達だっけ?

「科学と聞くとどんな印象を持ちますか? 何か怪しい薬品を配合し、実験をする学問? それは限りなく、不正解に近い正解です。みなさんが想像してるのは、おそらく化学と呼ばれている部門のことではないでしょうか? 薬品で化学反応を見る実験。そういうことも、もちろんできます。だけど科学はそれだけじゃない。科学とは、人類の共通認識によって生まれた、世の中の仕組みを説明する学問のことです」

 最近観たテレビの話や好きなゲーム、マンガ、お気に入りのスポーツ、そんな話はまるでできないけれど、唯一、科学に関することなら私は饒舌になれる。

「物理学、電子工学、生物学、地質学、数学。私の解釈にゆだねていいのなら、国語さえも科学にいれていいかもしれない。とにかくこのサークルではすべてが自由です。たとえば私はいま、この裏でカナブンの死骸を日干しにして風化速度を観察しています」

 誰もが握っているその携帯が、どうやって電波を受信しメールや電話のやり取りをするか知っていますか? 技術を当たり前のように享受して、その仕組みの理解を後回しにしていませんか? 普段かけているメガネが、どうやって物をよく見えるようにできているかを知っているひとは? 使っているワックスが髪を固めているのはどういう成分が作用しているから?

「前置きが長くなりましたが、今回はサークルの活動成果を報告させていただきたいと思っています。テーマは『幽霊の存在に関する考察と研究』」

 スクリーンに映したパワーポイントの資料をスライドさせて、次の画面へ。タイトルから、続けて仮定、実証・実例、根拠、結果と説明していく。

 幽霊はいないという仮定を元に、幽霊の目撃者十人の資料を集めて、彼らが精神疾患をわずらっていた過去を説明した。ただ、それだけだと味気ないので法律的にどの国も幽霊の存在を認めていない事実と、加工がほどこされた幽霊の映像の矛盾点を指摘した。研究成果として発表するには正直、客観性に欠けている部分も多いけど、どうせ発表の相手は、自転車やメガネの仕組みを知らない連中だ。

 いつの間にか時間も終わりに近づき、そろそろ締めにはいる。

 スクリーンの電源を切り、片付けの準備をしながら続ける。

「結論として幽霊は存在しない。ただし、幽霊という『現象』は存在する。人が恐怖にとらわれたとき、幽霊と解釈をする事実自体は、いまもまだ根強く残っている。ひとつだけはっきり言えるのは、もしも人類が消滅し、世界の人間が私ひとりだけになれば、そのときは幽霊も一緒に消滅するということです。ご静聴ありがとうございました。サ、サークル入会、お待ちしております」

 誰の拍手も起きず、説明会が終わる。参加者が静かに退出していく。一応、「サークル入会希望書」は作成しておいたが、そんなものを出すまでもないだろう。

 杏子さんへの義理は果たした。私はここで説明会はした。去年の自分であれば、これさえもきっと断っていただろう。きっと許してくれる。それに罰を受けるのは自分自身だ。仕方がない。

 今年からラボが取りあげられたら、どこに行こうか。

 杏子さんの教授室に入りびたらせてもらうのはどうだろう。ラボの器具も少し移動させて、自宅から持ち込んだ薬品もそっちに置いておいて。それなら簡易的な実験は続けられる。カナブンは無理だろうな。ほかにもたくさん、処分しないと。

「いるよ」

 ラボに引きあげようとしたところで、背中から声がかかった。ぞっと寒気がした。ゆっくり振り向く、なんてことはせず、素早く究明しようと振り返る。

 やはりというか、いたのは茶髪娘だった。さっき、最前列で説明会を聞いていた女子。なんとなくしゃくにさわる、重力に逆らう天然パーマ。

 発表中もずっと目を合わせないようにしていた。だから彼女がどんな表情を浮かべているかなんて、考えもしなかった。

 目の前の彼女は私をにらみつけていた。発表前に浮かべていた期待の色はもうない。わくわくもそわそわもせず、ただまっすぐと立ち、私を逃すまいとしている。

 向き合ってみると、彼女のほうが背が高かった。もともと私の身長は高いほうではないし、見降ろされることのほうがほとんどだけど、彼女に見降ろされると、いつもよりも強い悔しさを感じる。

「いるって、なにがですか?」私がく。

「幽霊」

 なるほど。不機嫌の原因はそれか。

「幽霊はいるよ」

「いないよ」

 気付けば断言していた。おかしい、そんなつもりはなかったのに。こういう争いは、過去に何度か経験していた。だから正解も知っている。相手を真っ向から否定せず、適度に対応するのが正解で、効率がいい。

 そのはずなのに、どうして自分はいま、ムキになったのだろう。

「幽霊の存在に関する証明、っていうから来てみたのに、否定ばっかり。浮島さんは、信じていないんだ」

「そうですね。そしてあなたは信じている。それでいいじゃないですか」

「よくない。なんか悔しいもん」

 彼女を苦手な理由がわかった。さっきの説明会の間中、避けようとしていた私の本能はやはり正解を告げていた。本能が非科学的な概念ではなく、無意識の経験によって裏付けられていることがまたひとつ証明された。そんなことはどうでもよく。

 この茶髪娘は、感情をむきだしにするタイプだ。隠すことを恥とせず、むしろ主張しないとおかしいという正義感を持っている。「悔しい」と感じても、思うだけにするのが私で、口にするのが彼女。理論や仕組みで納得させられないのが人間だ。

「あなたの名前は?」私が訊いた。

 かざり。ねえ、あたしのこと、覚えてない?」

「……前に会ったこと、あるの」

 四ツ谷と名乗る女子は溜息をつく。それほど期待をしていた風でもなかったが、やっぱりそうだよね、と小さくつぶやくのが聞こえた。ますます困惑する。

 記憶を探ってみるが、やっぱり彼女との面識はないはずだった。それにこれだけ印象が強い女子なら、覚えているはずだ。もしくは出会っていたのが、遠い昔だからか。

 いや、そもそも嘘である可能性も捨てきれない。興味をひかせるためのハッタリかもしれない。過去に会っていようがいまいが、結局、関わらないのが一番いいなと思った。

「四ツ谷さん。悪いけど私、このあと用事があるから。お話ならまた今度来てくれるとうれしい。隣のラボにいつもいるから、気分がのったときにでも来てよ」

「だめ、いまじゃないとやだ」

 気持ちいいほど話が通じない。

 早く自分の居場所に帰りたい。ラボにこもりきりたい。説明会をしただけでも成果なのに、これ以上の苦労はごめんだ。ここで断ち切る。

「四ツ谷さん、あなたの言う通り私は幽霊を信じてない。そしてあなたはそれが気に入らない。だったら、私を信じさせる証拠を持ってきて。次会うのはそれが条件ということにしましょう。そのほうがお互いにとって建設的な議論にも結びつくはず。さあ帰って。それともなに、あなたが幽霊だとでも言い張るつもり?」

「そうじゃない。違うよ。あたしは幽霊がえるの」

 私が言い返す前に、四ツ谷の瞳がとつぜん、かっと見開いた。

 そうだ、とつぶやいて、わざとらしく手をたたく。核心の一手がひらめいたように、最後に、にいい、と口をにやけさせた。

「一緒についてきて!」

「ちょ、は? ちょ待って!」

 四ツ谷は私の腕をいきなりつかみ、そのまま実験室の外に連れ出そうとする。

 冗談じゃなかった。私はラボに帰るのだ。なんとかふんばろうとするが、靴底がすべりどんどん引っ張られる。というかこれだけ抵抗しているのにやめない彼女もどうかと思う。

 実験室の外に出たところで腕を振り回し、彼女の手から逃れる。四ツ谷が再び私の腕をとろうとするので、思わず一歩後ろに退く。

「どこに連れて行く気なの!」

「証拠を見せてあげる」

「しょ、証拠?」

 そんなもの、用意できるわけがない。そう決めつけていた。

 だから反論が返ってくるなんて、思ってもみなかった。

「幽霊を見せてあげる」

 四ツ谷はそう、はっきりと言い切った。ありえない、と口に出そうとするが、うまく声が出なかった。動揺しているうちに、再び腕をつかまれた。



 構内を駆けぬける。いや違う、引きずりまわされている。四ツ谷の、嘘みたいに強い力で引っ張られている。振りほどこうとするとさらに力が強くなった。どんなごうもん道具だ。

 幽霊が視えると自称する女子には、中学、高校と、いままで何度か遭遇してきた。大抵は髪の手入れも雑で、部屋にはオカルト誌があふれていて、腕に何か印をつけている子もいた。だが目の前の四ツ谷は、そのどれにもあてはまらない。少なくともああいう子たちは、外を全力疾走したりはしない。髪も染めたりしないし、感情もできるだけ隠そうとする。彼女は何もかもが真逆だ。それなのに、視えると言い張るその根拠は。

「バスケ部いかがですかーっ! 体育館の一部スペースで模擬試合やってまーす!」

「登山サークルでーす! 部室で登山道具展示してます、お気軽にどうぞー」

「大道芸やってます! 文化芸能部です! 見に来てくださーい!」

 あちこちでサークル部員たちが勧誘合戦を繰り広げていた。誰かを責めているようにも感じる、その気合いの入った大声に脳が揺れる。感情を思いっきりぶつけられたようで、気分が悪くなる。のどまで胃液がこみあげてきた。

 四ツ谷はなおも走りつづける。サークル勧誘がもっとも白熱している中庭をつっきり、棟の間を抜けていく。けんそうから離れ、やってきたのは大学の敷地内の奥、七号館の前だった。息を切らしてひざをついている私の横で、四ツ谷はきょとんとしていた。

「どうしたの浮島さん、息がすごい切れてる」

「あ、あなたが、連れまわしたから……」

「だらしないなぁ。そんなんじゃ生きていけないよ」

 握りかけた拳を、すんでのところでおさえる。やっぱり会ったことがあるというのは嘘だ。こんな神経を逆なでするやつ、覚えていないはずがない。

 さて、七号館。ほかの棟ほど講義も行われない場所だから、めったにひとは来ない。まわりの雑草も生い茂り、コンクリートの間から突き抜けて、その生命力の強さを見せつけてくるものもある。

 呼吸が落ち着いたところで、ようやく追及する。さっさとケリをつけて帰りたい。

「それで、見せてくれる幽霊って? 草むしりでもすればでてくるの?」

「見るべきは下じゃなくて、ほら、上」

 四ツ谷は空を見上げ、一番きれいな星を見つけたみたいな笑顔になって、指をさす。さした場所に視線を向かわせようとすると、彼女が手を握ってきた。

「え、な、なに?」

「あたしに触ってないと、普通のひとは見えないから」

「……ああ、なるほど」

 そういう設定か。これは初めて聞くタイプだな。ひとの想像力は興味深い。ますます嘘くさくなったところで、再び指さす先を見る。

 七号館の屋上。

 そこに人影があった。

 は? と声が出た。日差しのせいで顔はよく見えないが、男性なのがわかった。柵を乗り越えていた。

 思わずあとずさりして、四ツ谷と握っていた手を離す。すると人影が一瞬で消えてしまった。日差しのせいで蒸発現象が起きたのか、いや、そうじゃない。

「大丈夫だよ」

 四ツ谷がゆっくりと近づいて、また私の手を握ってくる。特別なメガネをかけたみたいに、ぱっと、視界にまたあの男性があらわれる。男性が動き始め、こちらに手を振った。四ツ谷があいさつするみたいに、それに返す。

 そして男性が飛び降りた。

 ひょい、と水たまりを飛び越えるみたいに、あっさりと踏み出して。

 その体を広げて、こちらに向かってくる。服は風で揺らめかない。だが重力の影響を受けてしっかりと落ちてくる。何もかもがいびつな落下で。男はまっすぐこちらに向かっていて。避けなければいけないのに、くぎ付けになり、足が硬直していた。

 死のふちに走馬灯を見ると聞く。私の場合は景色ではなく、計算だった。頭が生き延びようと、高速で計算を始めた。七号館、地上から屋上までの高さは十五メートルほど。男の身長は一七五センチ前後で、体形は一般的。体重は六八キロと推定。空気抵抗係数を〇・二四として計算すると、落下までの時間は約一・六七秒。時速は六十キロ。

 計算を終えるころには目の前に男性の顔があって。彼は笑っていた。

「んぎゃああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 耐えきれずに悲鳴をあげる。

 四ツ谷の手を振りほどき、バランスがとれず、後ろに派手に転ぶ。左手をひねり、嫌な痛みが走る。すぐに恐怖が勝って、体が震えだす。

 両腕で頭をガードする。すでにそんな対応は遅いとわかっているのに、なぜかそうしてしまう。ああ、死んだ。最悪な形で死んだ。ひとの自殺に巻き込まれて死ぬなんて。前に死にたくない方法を十通りほど考えたことがあったが、この死に方はベスト五にランクインしていた。いや待ておかしい。死んでいるのなら、どうしていつまでもこうやって思考することができているのだ。

 おそるおそる頭を抱えた腕をゆるめ、あたりを見渡す。近くに死体は転がっていなかった。四ツ谷がくすくす笑いながら、手を取って起こしてくれる。すると後ろで、四ツ谷以上に腹を抱えて笑う男の姿があった。身長一七五。一般的な体形。最後に見た笑顔。間違いなく、いま屋上から落ちてきた男だった。

 ありえない。普通の人間はあの高さから何もつけずに落ちたら即死だ。どんな幸運が訪れても複雑骨折はまぬがれない。あんなぴんぴんと、立ってなんていられないはずだ。私も巻き添えをくらい、死んでいたはずだった。それなのに生きている。男は生きて、あろうことか私のことを爆笑している。いたずらに成功したみたいな笑顔だ。

「浮島さん、紹介するね」四ツ谷が言った。

 四ツ谷に促されて、男が近づいてくる。のけぞる私の背中を、そっと彼女が支えた。やめろ。これ以上、情報を与えるな。まだ整理しきれていない。何もしゃべるな。いますぐ立ち去れ。できないなら私が逃げる。そうやって去ろうとするが、四ツ谷の怪力が今回も私を離してくれなかった。支えてくれていたのではなくて、逃がさないようにしていたのか。性格が悪すぎる。

 男は笑ったまま、挨拶してきた。

「はじめまして。元テニス部のしんです。約一年前に、死にました」



 昨日のことが頭から離れず、日課の実験も手につかなかった。顕微鏡で細胞分裂を観察しようとして、プレパラートを六枚割った。

 目を閉じると屋上から笑いながら落ちてくるあの男の顔がよぎる。考えるほど恐ろしくなり、布団から足を出せなかった。おかげで体温調節がうまくいかず、汗を無駄にかき、寝不足になった。それもこれも、すべて四ツ谷飾のせいだった。

 白衣を着てみるが、妙に体が重かった。自信がわいてこない。ひょっとして近くにあの男がとりついているのではないだろうか。ありえない。とりつくなど、科学的ではない。

 今日は誰とも会いたくない。講義もさぼろう。

 ここで静かに心を落ち着かせたい。サイエンス誌でも読んで、コーヒーにたっぷり砂糖を加えて味わいたい。午後になれば昨日のこともぜんぶ忘れて、いつものように実験生活が戻ってくる。ああ、そういえば杏子さんに邪魔された薬品実験が残っていた。

「おはよう浮島さーんっ」

 勢いよくドアがあき、金属がこすれる音を響かせ、あっという間に四ツ谷飾が侵入してきた。警戒する暇もあたえず、距離をつめてくる。何かの幻覚かと思ったが、すべて現実だった。

 言葉が出てこない。心の準備がまったく間に合っていなかった。

 会うたびに脅かしてくる彼女は、もはやわざとやっているようにしか思えない。

「うわあ、意外と快適そうな部屋。ソファまである。昨日も思ったけど、科学研究サークルって、サークル棟にはないんだね。あ、浮島さん今日も白衣着てる。可愛かわいいね」

 四ツ谷は自分のカバンをソファに置く。放っておけばくつろぎかねない体勢だった。そんなことさせるか。出ていけ。

「浮島さん、昨日あのあと、とつぜん走っていっちゃうから心配した」

「あんな目にあえば誰だって逃げるでしょ」

「そんなにひどいことしたかな?」

「ほんとに両目ついてるの?」

 計算じゃない。狙ってもいない。純粋にそんなことを言っている。なおさら苦手だ。早く追い返してやる。

「出てって。あなたと会いたくないの」

「どうして? 昨日はいつでも来ていいって言ってくれたのに」

「幽霊を私にぶつけてくる前の話でしょ」

「あ、幽霊って言った。ついに認めた」

「認めてない。話を合わせてあげただけよ。オカルトマニアと話すには、こうやって乗ってあげるのがちょうどいいの」

「じゃあ会話をする気はあるんだ?」

 にい、と得意げに笑ってくる。

 不思議な感覚だ。人と話すことが苦手な私が、ここまで会話を継続させていること自体が珍しい。私が緊張しないで話せるのは過去に実験でお世話になった研究グループの人たちと、あとは杏子さんくらいのものだった。なのにこの四ツ谷とは、なぜか出会って一日もたないのに、会話がたびたび成立してしまっている。なんとなく、心理的に負けたような気分になり、屈辱的だった。

 こうなったら裏ワザだ。

 科学にのめりこみ、気付けばひとよりも磨かれた力を使うことにする。あまり他人にやりたくはないけど仕方がない。

 四ツ谷の体を下から上まで、ゆっくりスキャンしていく。とつぜん無言になり、見始めた私に、なに? と恥ずかしそうに身をくねらせる。気持ち悪いがいまは無視。

 スキャンが終わり、結論が出る。

「学生支援センターなら、ここを出て右へつきあたった棟の一階にある」

「え?」

「上着の両腰のあたりがわずかに濡れている。それと手の甲に水滴。いまさっき手を洗ってきて、ハンカチがないから服で手のひらを拭いたということ。がさつな性格。髪の毛先にパンくずがからまっている。その髪の長さと、普通の姿勢でパンを食べればそうはならないけど、パンをくわえながら通学の準備をしていたなら話は別。うつむけば髪は垂れるから。今日は急いで家を出た。スカートの右ポケットにパスケース。わずかに見える学生証はオレンジ色。今年の一年生はみんなオレンジ色だから、今年入学は間違いない。だけどカバンのなかのファイルに、年金手帳と、国民年金の支払書がしまってある。どうしてカバンにあるか。学生支援センターで学生である証明書を発行し、支払いの免除を申請しようとして持っているから。結論、あなたは今年二十歳はたちになったばかりで、つまり一度は浪人してここに入学した」

 少しの沈黙があって、拍手が鳴った。想定していたリアクションとは違った。

「いまの、一瞬で見抜いたの? すごいね浮島さん!」

「……そ、それだけ?」

 気持ち悪いと引かれる予定だった。これ以上、観察されたくなければ今すぐ出ていけと脅すつもりだった。本当なら昨日の私みたいに、彼女はいますぐ逃げだすはずだった。それなのにここに居続ける。あろうことか、すごいと言って褒めてくる。

「それじゃあ、あたしもひとつだけ。浮島さんは幽霊が怖い」

「なっ」

「科学にのめりこんだのは、もしかして、それが理由だったりして」

「ち、違うもん」

 動揺してんでしまう。いやん可愛い、と目の前で四ツ谷がはしゃぐ。うっとうしい。

「すべての幽霊がひとを襲うわけじゃないよ。あたし、いろいろ見てきたんだ。昨日のあのひとは、元々ここの学生さんだった。ひとを楽しませるのが好きで、昨日もちょっとからかっただけだよ。許してあげて」

 いろいろ見てきた。四ツ谷のその言葉になぜか、説得力を感じてしまった。言葉のニュアンス。発言のリズム。嘘をついていれば出せないような雰囲気。科学者のシンポジウムの発表を何度か見学したことがある。みんな、それぞれの理論を信じて疑わず、その目や口調で研究成果を語っていた。自分はいろいろ見てきたのだ、だから知ってほしい、共有させてほしい、と。その目と同じだった。

「会話はできるの? ……その、幽霊と」

 訊くと、四ツ谷はゆっくりとうなずいた。

「入学した初日、一週間前に初めて会ったんだけど、あのひとは退屈をまぎらわすために、いろんな死に方をして遊んでる。昨日の高いところから飛び降りるのもそう。生きてるときじゃできないからだー、ってはしゃいでる。確かに陽気なひとだけど、不安を感じていない幽霊なんていないよ。何かを思い残しているから、まだ、ここにいるの」

 ここにいる。この世界にいる。

 つまり、本来はいるべきではない。四ツ谷はそう語っている。

 幽霊という概念につきまとうキーワードは多々ある。

 心霊スポットやお墓、それにおんりょうじゅばくじょれい。そして、じょうぶつ

「手伝ってほしいの、浮島さん」

「嫌だ」

「明智さんはここの三年生だったひとで、テニス部のなかでもムードメーカーだったみたい。いろんな後輩に慕われてて」

「いや、だから嫌だって」

「亡くなったあと、一年間このあたりでさまよってた。明智さんは部を見に行ったらしんだけど、もぬけのからだったみたい。みんな部を辞めちゃって」

「話聞けよ! やりたい放題かお前!」

 ついにツッコんでとめる。何年ぶりに人にツッコんだのだろう。私の聖域がどんどん幽霊に侵される。

 黙っていればまた話を進めかねなかったので、くぎを打っておくことにした。

「嫌だ。成仏なんて手伝わない。私にそんな義理はない。ここにいる。ここでずっと実験して過ごす。私の日常に幽霊はいらない」

「目の下にクマができてるよ。昨日寝られなかったんでしょ、あのひとが襲ってくる夢でも見たんじゃない?」

 図星で驚いていると、「浮島さんのマネ」と言って自慢げにピースしてきた。その指を順番に折りたくなる。だけど、彼女が言おうとしていることはわかった。

「悪夢を見ないためにも、もう一度だけ、会ってみてくれないかな。さっきの観察力とか、説明会で見せてくれた知識とか、浮島さんはすごいと思った。その力を貸してほしい」

「あなたはどうして、幽霊と関わってるの」

 不安を感じていない幽霊などいないと彼女は言ったが、彼女自身にも何か、抱えているものがきっとあるはずだった。

 少し考えたあと、四ツ谷は笑って答えた。あくまでも笑顔は忘れない。

「一緒に来てくれたら、あたしのことも話してあげる。観察するだけじゃわからないことも、あるでしょ?」

 四ツ谷は手を差し出してくる。それに触れれば、昨日と同じように、幽霊を見る彼女の力の影響を、自分も受けることになる。手を取るということは、受諾と同じだ。その手を見つめ、私は答える。

「今回きりよ。これが終わったら、私に関わらないで。あと、ただの科学オタクにあまり期待もしないで」

「うん。わかった」

 あっさりと返事がくる。ほんとにわかっているのか。だけど元々が、こういう人間なのだろうなと諦めてしまう。出会って一日も経っていないのに、何か月も一緒にいる気分だった。それくらいの疲労度という意味だ。

 四ツ谷の手のひらの上に、そっと自分の手を乗せる。

「ごめんね、浮島さん」四ツ谷が言った。

 気配を感じ、振り向くと、目の前に男の顔があった。昨日の男、明智だった。はろー、と笑顔で挨拶してくる。そこでもう限界だった。

「んぎゃあああああああああああああああああああああああああああっ!」



 幽霊に触れることはできない。だから代わりに、爆笑する四ツ谷をぼこぼこに殴った。最後に顕微鏡を持ちあげたところで、彼女が本気で土下座をしてきたので、許してやった。

 私がろうばいし暴れたせいで、ラボ内はめちゃくちゃだった。ソファもひっくり返っている。四ツ谷に指示し、ぜんぶ元に戻させた。幽霊の明智さんも軽いものなら少しは力を発揮できるようで、書類の片付けを手伝っていた。物が宙に浮くさまを見て、ああ、本当にいるのだと諦める。

「片付けが終わるまで成仏は手伝わないからね」

「ねえ、このソファ重いよぉ浮島さん。そもそも自分の部屋なんだから、ふんぞりかえってないで少しは……」

「はあ?」

「すみませんでした浮島様」

 態度をあらためようとしていたので、顕微鏡をおろしてやる。

「あたしが片付けている間、お暇でしょうから、そこの幽霊の明智さんと話されてみるのはいかがでしょうか?」

「あなたがいないとしゃべれないでしょ」

「どうぞあたしに触れてください」

「触れられにここまで来てよ」

「片付けが終わり次第、向かわせていただきます」

 出会って一日も経っていない女子と幽霊一人をコキ使い、ようやく、片付けが終わる。自分のメンタルと適応力の高さに驚くのは置いておき、さあ本題。

 ソファに腰掛ける。横に四ツ谷が座り、幽霊の姿と声が聞こえるように、私の手を握る。考えてみれば、幽霊がえていないひとにとっては二人きりの密室で女子同士が手をつないでいる光景だ。いま杏子さんが入ってこようものなら、絶対に仲良しと勘違いされる。仲良しどころか、次のステップに進んでいるとも思われかねない。怖くなったので、ラボに鍵をかけることにした。

「ごめんなさい。浮島さんのことは尊敬しているけど、あたしたちまだ、そういうのは早い気がするんだけど」

「違うわ! 一生来ねえよ!」

 別のやつに勘違いされた。

 気を取り直して、今度こそ本題。目の前に明智さんが立ち、状況を説明してもらう。一度せきばらいし、真面目な顔で語りだす。

「な、なあ、なんかこの立ち位置、いまから女子二人の前で恥ずかしいことをする男子みたいだよな? おれ、芸とかしたほうがいいかな?」

「成仏する気ないなら出てけ」

 敬語も忘れ、怒りでソファを投げ飛ばしかける。もう片付けるのは嫌だ、と四ツ谷に懸命にとめられる。絶対に今日中に解決してこいつらと縁を切ってやる。らちが明かないから、こっちから質問することにした。

「成仏って、私知識はないけど、具体的にはどうするの? 思い残したことが解消されれば消えるってこと?」

「……おれは一年間、このあたりをさまよった。やり残したことを考えてみたけど、どれも諦めがついてるんだ。死にはほとんど納得してる」

「じゃあ、どうして」

「自分がどうして死んだかを知りたい」

「情報は集められなかったんですか?」

「夜、車にかれて死んだんだ。大学の前の道で」

「おーい四ツ谷。これもう解決してるわよー」

 早くもうんざりしてきた。

 立ちあがりかけたが、まあまあ、と彼女に引き止められる。話は最後まで聞けということらしい。明智さんが続ける。

「車が向こうから突っ込んできたんじゃない。おれのほうから車道に飛び出したんだ。自分がどうして、そんなバカなマネをしてしまったのかが知りたい。覚えてるのは、頭が急にくらくらしたってこと。あと、なんだか胸が苦しかった」

「お酒は飲まれました?」

「酔うほどは飲んでない」

「貧血による目まい」

「そんなの今までなかった」

「なら発作が起こったっていう過去は? 両親のどちらか、なにか持病は?」

 明智さんは首を横に振る。父が高血圧だと、唯一漏らしたが、そんなものはどこの家庭にもある事情だ。この件にはおそらく関係ない。

 原因不明の目まい。それから発作。しかもその体は、健康そのものの大学三年生男子の体。本人の体が丈夫だということは、何か外部から影響を受けたということ。なるほど少し面白い。

「移動してみよう」

「どこに?」四ツ谷が訊いてくる。

 その手を離し、とたんに明智の姿が消える。証言を聞くのはひとまずいい。実地調査のほうに興味がわいてきた。白衣のずれを整え、ラボのカギを外す。

「死亡現場」



 構内を歩く。四ツ谷がなぜか手を握ろうとしてくる。そんなに常時、明智さんと話したいわけじゃなかったが、そうするべきだと彼女がゆずらない。頑固さは昨日で思い知っているので、無駄な体力は消耗しないようにする。

 手をそっと握ると、指先から四ツ谷の体温が伝わり、少しだけ、くすぐったくなる。最後にひとと手をつないだの、いったいいつだろう。

「成仏は早いほうがいいの。明智さんの一年はまあまあ長いほう」四ツ谷が言った。

「ど、どうでもいいけど周囲からの視線が痛い」

 すれ違う何人かが必ずひそひそ話を始める。特に男子が笑うのが嫌だった。春だなぁ、と誰かがつぶやいていた。耐えきれずうつむいてしまい、耳元も熱くなっていた。

「いいじゃん。浮島さん、うわさされるほど友達いないでしょ」

ようしゃないな……。まあいないけど。そういうあなたこそ、まだ友達と話してるところ見ないけど?」

「まあ、あたしはこの体質だから」

 友達づくりは諦めているらしい。早々に見切りをつけるあたり、その思い切りの良さと大学生活の反対を行こうとする態度は、悪くない。少し四ツ谷の評価が変わった。

「四ツ谷ができるのは、幽霊を視ることと、話すことだけ?」

「長くとどまっている幽霊なら、触ることもできるよ」

「明智さんは?」

「触れない。一年だと、そうなるにはまだ短い」

「四ツ谷のその力は、すべて、ほかのひとにも共有できる?」

「肌に触れている間はね」

 構内を出て坂を下る。二限からの講義の学生数人とすれ違う。ひともいなくなったところで、今度は明智さんに話しかける。

「さっき、酔うほどは飲んでないって言ってましたよね。少しは飲んでいた?」

「あの夜は、サークル棟の一階で、テニスサークルの新歓パーティーをやってたんだ」

「パーティーが終わったあと、帰り道で轢かれた」

「そうだ。でも酒のせいじゃない。そんな理由で死んでたまるか」

 明智さんが立ちどまる。坂を下りきり、通りに出る。二車線で、車もそれなりに通る。近くには学生用の食堂や飲食店、ヘアカット、不動産店がつらなっている。

 ここが問題の場所らしい。というか、いつもの通学路だ。信号機と横断歩道。周囲に植え込みがある。近づいて植物を観察する。毒性のあるものは、当然生えていない。地面からはどうだろうか。七号館で見たように、植物の生命力はあなどれない。セメントをつきやぶる雑草にまぎれて、何か有害な植物がないとも限らない。

「何か探してるの? あたしも手伝うよ」

「アリでも観察してて」

「ぶー」

 ふてくされる四ツ谷を置いて、周囲を見渡す。信号が青になる。信号が変わる間隔は約一分。通りのむこうに大きめの交差点がある。連鎖的にそちらも青になる。反対側からやってくるドライバーは促されて、アクセルを踏むだろう。充分、致命傷の速度になる。

「パーティーでは何か出し物をしたんですか?」

 明智さんに質問するが、返事がなかった。振り返ると、姿がない。手元を見て、四ツ谷の手を握っていないことに気付く。彼女に触れていないと幽霊は視えず、声も聞こえない。意外と面倒なシステムだ。

 近くにしゃがんでアリを数えている四ツ谷のほうに近づく。その腕に指でつつくように触れる。すると何もないところに、ぱっと明智さんがあらわれる。あらためて理解のおよばない現象だが、さらに理解できなかったのは、彼がタバコを吸っていたことだった。この人、くつろいでやがった。

「ごめんごめん」

 私に見つかり、ばつが悪そうにそれを投げ捨てる。地面に落ちる途中でタバコの姿が消える。なるほど、彼の持っているタバコも現実のものではない。ちょっと面白かった。

「死んだときにポケットに入ってた。これ、吸っても吸ってもなくならないんだぜ。死んでみて唯一よかったのは、タバコ代に困らないことだな」

 幽霊は死んだときの状態を維持できるらしい。四ツ谷からいろいろ聞けば、もっといろいろな法則がつかめるかもしれない。その研究に興味はそそられるが、いまは置いておく。

 死んだときの状態を維持している。つまり、明智さんの今の状態は、死んだ当時の体や服装という意味だ。

 四ツ谷を引っ張り、明智さんのもとに近づく。

「いまから近づいて観察しますけど、大きな声とかで脅かしたら許しませんからね」

「きみ、大きな音嫌いなの?」

「黙ってください」

「はい」

「四ツ谷、あなたもだからね」

「ぎくり」

 集中できる環境が整ったところで、明智さんをスキャンする。匂いはない。触れることもできない。実体とはいえ、なんだか映像を見ているのに近い。なるほど、だから私は幽霊である明智さんとも、あまり緊張せずに話すことができているのか。人と対面で話すときのような、あの独特のプレッシャーを明智さんからは感じない。ひとつ発見である。

 観察を続ける。茶色のワイシャツにジーンズ。髪にワックスなし。肌ににきび。視界を下に移動。ジーンズの根元、靴が濡れている。

「当日は雨が降ってました?」

「あ、ああ。一瞬だけ降ってたんだ。帰るときにはやんでた」

「傘は?」

「持ってなかった」

 傘がない状態で、靴だけを濡らして歩く方法。誰かに横で傘をさしてもらった? 違う、ひとりで帰ったと言っていた。靴は雨が降ったあとの地面や、浅い水たまりにつかってできたもの。服やジーンズ、髪も濡れていない。つまり。

「帰るとき、防水スプレーを使ったんだ」

 明智さんは一瞬だけ驚いた表情を見せて、それから答えた。

「確かに使った。でも帰るときじゃない。そのずっと前だ」

「どういう意味ですか?」

「おれ、パーティーのときに出し物をしたんだよ。そのときに手品をしたんだ」

「どんな手品?」

「パーティ会場の向かいの棟から、瞬間移動するっていうトリック」

 明智さんが内容を説明する。

「窓から向かいの棟をみんなにのぞいてもらうんだ。で、おれは棟の三階にいる。カーテンをしめて影だけになる。一瞬しゃがんで立ち上がるんだけど、そのすきに隠れていたもうひとりと入れ替わる」

「体格の似たひとを用意して、影にはそこにいてもらう。その間に明智さんはサークル棟に移動」

 私の補足に、明智さんがうなずく。

「だけど当日、雨が降りだしたんだ。移動している間に濡れて、ばれてしまうと思った。だけど誰も傘を持ってなかった。だからその協力してくれるやつに頼んで、近くのコンビニに行って傘を買ってきてもらおうとした。だけど傘が売り切れてて、代わりにそいつは防水スプレーを買ってきたんだ」

「体中にスプレーをかけて、雨をしのいだ」

「タイムリミットもあったし急いでたから、さすがに足元はおざなりになった。でも気付かれずに、うまくやれたよ。みんな楽しんでくれた」

 明智さんの説明が終わる。生まれた仮説を検証していると、二人も気付いたのか、まさか、という顔をしてくる。

「もしかしてスプレーを吸いこんだから、頭がくらくらして、道に飛び出した、とか?」四ツ谷が言った。

「でもスプレーを浴びてから、一時間以上は経ってたぞ? 吸ってすぐなら苦しいかもしれないけど」続く明智さん。

「二人とも落ち着いて。安易に飛びつきすぎ。たぶんそのスプレーは……」

 先を続けようとしたところで、視界の隅に映ったものに気を取られた。車道を渡った先の、歩道沿いの店と店の間。隠れるようにしながら、男性がこちらを見ていた。年齢は六十代か七十代。腰は曲がっておらず、つえも使わずにまっすぐ立っている。

 何者だろう。怪しいやつだと指摘したいが、怪しいのはいまの私たちも同じだった。大学の門の前でしゃがみこんでいる私たちを監視しているのかもしれない。

 男性と目が合い、そして一歩、こちらに近づこうとしてくるのがわかった。

「どうしたの華ちゃん、黙っちゃって」

「のわ」

 いきなり視界を四ツ谷の顔が占めた。その近さに、のけぞる。

「いや、変な人がいたから。というかさりげなく華ちゃんとか呼ぶな」

「あ、やっぱりバレた」

 四ツ谷がそこからどかないので、顔をずらして車道の先を見ると、男性は姿を消していた。直前までこちらに来る雰囲気を見せていたのに。もしかしたら、この事故の目撃者だったかもしれない。それなら私たちを監視していた理由もわかる。ひょっとしていま、すごく大事な証人を逃してしまったのではないのか。

 理由を一から説明するのも面倒くさかったので、何も言わずにげんこつを食らわせた。四ツ谷が「なんで!?」と叫ぶ。当然の反応で、横の明智さんも苦笑いしていた。目撃者に話が聞けないなら、引き続き当事者に質問するしかない。

「とりあえず、その使ったスプレーを見てみたいです。明智さん、どこにあるかわかりますか?」

「たぶん、処分していなければ部室に。最後にそこに片付けたんだ」

「部室に行ってみましょう」

「でも鍵がかかってるぞ。たぶん顧問の教授が管理してる」

「それならまかせて」

 四ツ谷がつないでいた手を離して、勢いよく挙手する。明智さんがとたんに消える。彼女は自信満々に続ける。

「交渉は得意だよ」



 四ツ谷と明智さんが当時の顧問の教授を訪ねている間、人見知りの私が手伝えることもないので(足手まといになるとさえ四ツ谷には言われた。本当にあいつは言葉を選ばない)、中庭のベンチで大人しく、いちごミルクを飲んで待つことにした。二人が鍵をもらってくるまではしばし休憩だ。

 ちょうど講義が終わり、まわりを囲む棟から学生があふれてきた。スポイトで吸って押し出した、カエルの卵が水中にあふれる様子にちょっと似ている。

 学生の種類はさまざまだ。友人二人と談笑しながら歩くもの、集団で昼食をどこで取ろうか話し合っているもの、ひとりで歩いているもの、すれ違いざまに友人と出会い、立ち話を始めるもの、ベンチで休憩している二人のところに、三人が集まって談笑しているところ。白衣を着ていちごミルクを飲む私は、そのどれにもあてはまらない。

 私はこの空間で見事に浮いていた。誰にも気付かれず、全員が通り過ぎていくのを眺める。生きているのに、幽霊と大差がないなと思う。そんなことはわかりきっていたし、だから外に出たくないのだ。

 ひょい、と持っていたいちごミルクを取りあげられる。後ろを向くと四ツ谷だった。

「返せ霊感女」

「ぷひー、甘いものって幸せな気分になるね。肺が満たされる」

「飲みきりやがった。そして満たされるのは胃よ。死ぬから、肺だと」

 満足そうに口元をぬぐう四ツ谷に、追及してやる。

「私の糖分を代わりに摂取したからには、成果は持ってきたんでしょうね」

「見つけてきましたよ、お嬢さま」

 指さすほうに、男性がいた。顧問の教授だとわかった。こげ茶色のスーツがよく似合う、頭皮の後退と腹部の肥大がいよいよ深刻化しているジェントルマンだった。

「鍵は貸せないけど私がついていく分にはかまわない。部員に貸したままの私物があるんだろう? 早く済ませてしまおう」

 不機嫌そうな声だった。そしてなぜか私が責められている風だった。目が細いので、なんだか余計に怒って見える。

 軽く四ツ谷に目くばせすると、教授の見えないところで、手を合わせて無言で謝るポーズを見せてきた。どうやら交渉のときに私の存在を使ったらしい。人間関係で生まれるトラブルはごめんだ。私には、そういうものに対処するスキルはない。

「部員の友達に貸したままだって気付いたときにはもう、鍵がかけられてて、ほんと、もうこの子がすみません」

 四ツ谷が私への伝達の意味も暗にこめたのだろう、教授に説明する。

 私を相手にふざけているときとは、口調の雰囲気がずいぶん違っていた。明智さんのときのようにくだけてもいない。相手の気持ちを瞬時に判断して、逆なでしないように、決して高すぎない声で訴えていく。彼女はきっと、そういう会話の仕方を経験で心得ている。感情に従順だから、計算で切り替えているのではなく、本能でそうしている。私にはできないことだった。

「ちなみに聞くが、きみが私物を貸した部員の名前はなんというんだ?」教授が私に訊いてきた。少しちゅうちょして、答えるのに時間がいてしまう。四ツ谷の体のどこかを触り、適当に明智さんから部員の名前を聞き出してもよかったが、結局、私が知ってる唯一の部員の名前を答えることにした。

「明智さんです」

「明智くん……か。なるほど」

 教授が続ける。

「去年、明智くんの不幸があって、部員はみんな辞めてしまった。廃部になった。二人未満の部やサークルはつぶれる決まりになっているからな。おかげで私は少し暇だ」

 教授の機嫌の悪そうな声は、そのさびしさを隠しているようにも聞こえた。二人未満のサークルはつぶれる。思わぬところでタイムリーな話題にでくわした。さっき、杏子さんが誰も救われないと言ったのは、辞めていった部員たちのことを指していたのだろうか。

「彼がいると部が華やいだ。辛い練習でも、何度も彼がみんなをはげましている姿を見てきた。本当に、楽しかったよ。明智くんの件は、本当に、誰も救われない事故だった」

 明智さんは顧問の教授の言葉を聞いて、どんな表情を浮かべているだろうか。四ツ谷の手を握り、それを確認する勇気は、私にはなかった。



 教授の案内で部室棟へ移動して、二階のつきあたり、元テニス部の部室までたどりつく。ドアの入り口の張り紙も、合宿の予定表もそのままだ、と教授がつぶやいた。

 ドアを開けると、空気がこもっていた。汗のすえた臭いもする。微生物のすみかだった。幽霊のように姿は肉眼で追えないが、確かにそこにいる。

 床にいろんな備品が転がっていて、教授がそのなかをゆっくりと進み、窓を開ける。普段は見えないはずの風が濁った空気のおかげで形となって、通り過ぎていくのがわかる。

 電気をつけてみるが、蛍光灯がちかちかと鳴るだけで、まともに機能しない。どこを歩いてもほこりが舞いあがり、空間全体が時間を消費しているのがわかる。ガットのゆるんだテニスラケットをわきにどけて、ようやくなかから、目的のスプレーを掘り出す。

 スプレーの成分表を確認する。はっすい性のあるフッ素樹脂。溶剤のnヘプタン、噴射剤のLPガス。直接の吸入であれば危険極まりないが、体に吹きかけた程度では、どれも人間の意識をすぐにこんとうさせる威力はない。だけど。

 目をつぶり、視界をしゃだん

 仮説の検証だ。余計な情報をシャットアウトし、これまでの会話と、明智さんの言葉を記憶のなかで反復させる。

『あの夜は、サークル棟の一階で、テニスサークルの新歓パーティーをやってたんだ』

『酒のせいじゃない。そんな理由で死んでたまるか』

『死んでみて唯一よかったのは、タバコ代に困らないことだな』

『パーティー会場の向かいの棟から、瞬間移動するっていうトリック』

『体中にスプレーをかけて、雨をしのいだ』

『ぷひー、甘いものって幸せな気分になるね。肺が満たされる』

 目を開ける。結論が出た。

 視野が広がり、情報があふれる。窓の奥に、向かいの棟が見えた。七号館だった。昨日、四ツ谷に出会い、連れてかれて幽霊の明智さんを見せつけられた場所。

「見つかったか?」

 いつの間にか、邪魔にならないよう部屋の外に移動してくれていた教授が訊いてくる。私の代わりに、はい、と四ツ谷が元気よく答えてくれた。

 私と四ツ谷が部室を出たところで、教授は言ってきた。

「近くに明智くんは、いたりしないだろうか」

 思わず四ツ谷を見る。ごくり、とつばを飲んだのがわかった。見えるのは四ツ谷だけ。だけど、彼女も私も、説明はしようとしない。

 幽霊が視えることに関して、昨日は積極的に私に証明しようとした四ツ谷が、今度は顧問の教授に関しては隠そうとしている。何かわけがあるのだ。

 私たち二人がしばらく黙っていると、すがるようだった目つきが変わり、やがて諦めたように溜息をついた。

「すまない。変なことを言ったな。久々にここに来られたよ。ありがとう」

 私はもちろん、四ツ谷すらも、そのお礼に返事はできなかった。黙っているうち、教授は先に去っていった。その背中が完全に消えてから、四ツ谷に尋ねた。

「明智さんはここにいまいるの?」

「あの教授を追っていった。いまはいないよ」

 四ツ谷は続ける。

「過去に仲が良かったひとと会わせると、それ自体が未練になることがあるの。だから、極力は会わせたくない」

 未練。この世に残りたいと思う理由。それが増えてしまう。長くいればいるほど、誰かに会えば会うほど、募っていく。

「明智さんは追っていったんでしょう。引きとめなくてよかったの?」

「あんまりよくない。だから、彼のなぞを早く解いてあげてほしい」

 彼女の瞳と向かい合う。大きく、こちらを射抜いてくる。茶髪で天然パーマの髪、その毛先はどれも重力に逆らっている。見るたびに、話すたびに腹が立つ。それなのに、彼女にも悩みがあることをなんとなく知り、それに同情しようとしている自分がいる。

 一呼吸おいて、私は口を開く。

「法則がよくわからないけど、死の原因が明らかになったら、明智さんはその場で成仏を始めるの?」

「うん、本人が納得したタイミングで、始まる」四ツ谷が答えた。

 それなら、質問を変えよう。

「成仏の場所はどこがいい?」



 四ツ谷が明智さんを探しに行っている間、私はコンビニに行って必要なものを準備していた。買い物を終えたところでメールが入った。七号館の前で待っている、とのこと。どうでもいいが、流れでメールアドレスを交換してしまった。これが終わったら削除しよう。

 構内を進み、中庭を抜けてさらに奥、七号館の前にたどりつく。四ツ谷が待っていた。

「明智さんは連れて来た?」

 四ツ谷が返事の代わりに手を差し出してくるので、触れてやる。彼女が視線を上げ、私もそれにならう。昨日のことなのに、もはやなつかしさを感じる光景。屋上に明智さんがいて、手を振ってくる。手を振り返すと、飛び降りてきた。

 時速六十キロで私たちのもとへ向かってくる。着地まで二秒もない。だが今度は避けて、彼との衝突をかわす。地面のなかに彼が消えて、すっと、近くに浮上してくる。地面をくぐけられるなら、ずっと潜り続ければ地球の核をのぞくことができるのだろうか。

「今度はもう叫んだりしないか」そう言って、けらけらと笑う明智さん。

「一度体験してますから」

 本当は少し怖かったけど、教えない。

「つまらないお嬢ちゃんだ」

「あなたの死の原因も、そうでないといいですけれど」

「……わかったんだってな。聞かせてくれ」

 四ツ谷から一度離れ、両手を自由にする。明智さんの姿が消えるが、そこにいるのはわかっている。腕にさげたコンビニ袋から、それを取り出す。

 死のプレゼンを始めよう。

「明智さんが車に轢かれる直前、意識が混濁した理由。死の原因のひとつとなった理由は、これとこれです」

 左右の手にひとつずつ、掲げてみせる。

 ひとつは防水スプレー。

 そしてもうひとつは、タバコの箱。

「明智さんがさっき取り出したのと同じ銘柄のものを買ってきました。防水スプレーも、パッケージは違いますが、成分は同じものです」

 四ツ谷の表情が変わる。明智さんが何かを語ったらしい。私には聞こえない。つくづく、会話が不便だ。両手はふさがっているので、四ツ谷に腕をとってもらうことにした。明智さんと、その声に再会する。明智さんは少しいらだっている様子だった。

「きみはさっき、スプレーが原因じゃないって言ったじゃないか」

「言いました。原因はスプレーだけじゃないんです」

「じゃあタバコが原因だって? おれが肺がんだとでも?」

 それも違う。もっと、直接的なものだ。

 サークル説明会のときのように、もう専門用語を連発して戸惑わせるようなことをするつもりはなかった。丁寧に、なるべくわかりやすく、説明しようと努める。だってこれは、ひとの命に関わる問題だから。

「明智さんが使用した防水スプレーの成分のなかには、フッ素樹脂と呼ばれるものが含まれていました」

「フッ素樹脂?」

「多量に吸い込めば毒になる物質です」

「多量って……。おれはそんなバカみたいに吸いこんだ覚えはないぞ」

「ええ。それに意識が混濁するまでには、時間もかかった」

「そうだ、時間が経ってる」

「そこに仕掛けがあるんです。たとえ吸い込んだのが微量であっても、フッ素樹脂には、熱分解を起こしたときに有害物質を生み出すという性質があるんです。ひとの肺のなかにその有害物質があると、呼吸困難、頭痛、意識の混濁を引き起こすことがあります」

「ね、熱分解ってなんだよ。そのフッ素樹脂をおれが吸い込んだのか」

「微量だったと思いますが」

「だとしても、それがどうやって熱で分解され……」

 言い終える前に、明智さんも気付いたようだった。

 彼はあの夜、ひとりで帰ろうとした。

 ひとりになったのは、サークルメンバーがタバコを吸わなかったため。サークルのなかで唯一、彼は喫煙者だった。

 明智さんの肺のなかに残った微量のフッ素樹脂は、吸いこまれた「タバコの煙」によって熱分解を起こす。肺のなかに有害物質が発生し、彼の意識を混濁させた。

 どれだけ見えないものでも、必ずそこにある。

 見えないという事実は、しかし存在しないということにはならない。

 それは私自身が、ここ数日で学んだことでもある。

「めずらしい例というわけじゃありません。全国にもこういう事故は起きてる。防水スプレーの缶によっては、噴射直後の喫煙は避けるようにという注意書きもある」

 浮島さん、と、四ツ谷が私をとめようと声をかけてくる。彼女を振りほどくと、明智さんの姿が見えなくなる。それでも説明をやめられなかった。どう言葉をかければ、救いになるのかが、わからなかったから。どうなるのがベストなのか、わからなかったから。

「スプレーのノズルに触れていた指をなめたり、その指で触れたタバコから肺に入ったという可能性もあります」

「浮島さん、もう大丈夫」四ツ谷が言った。

「もし納得いかないなら、実証してみせます。密封した容器にスプレーを吹き付けて、タバコの煙を通す。それで」

「浮島さん!」

 四ツ谷が近づき、とうとう腕をつかんでくる。

 あらわれた明智さんの姿を見て、言葉を失った。体のところどころが灰となり、形を失おうとしていた。とっくに燃え尽きた炭の塊が、何か巨大な力によって砕かれているようだった。

 両脚は、膝から下がもう見えなくなっている。肩のあたりも消えて、その灰が空にのぼる。ぜるように、たまに灰が青色に輝いたりもする。何かの化学反応を見ているかのようだった。

 明智さんは笑っていた。怒るでも悲しむでもなく、ただ、自分をあざわらうように。

「明らかになったら、なんてことはなかった。結局いつもの、自分のドジだ。ひとを楽しませるのは好きだけど、身を滅ぼすことになるとは」

 そのまま明智さんが消えていくのを、私たちは眺めているのだろうと思った。最後まで見送るのが、役割であると。しかし四ツ谷はそうしなかった。

「待ってください」

 一歩進んで、続ける。

「行く前に会ってほしい方がいるんです」

「会ってほしい方?」

 四ツ谷のその言葉を合図に、校舎の陰からひとがあらわれる。その男性の姿を見て、あっと、思わず声をあげた。

 大学の校門前で明智さんの事故現場を観察していたとき、隠れて私たちを見ていた、あのお年寄りだった。

「どうも。私、ゆうろうと申します」

 佐々木と名乗る男性はその場で深くお辞儀をする。世界中の礼儀がぎょうしゅくされたような、丁寧な頭の下げ方だった。その体が、少し震えているのがわかった。

 明智さんはその男性に覚えがあるようだった。消えかけた体でも、その驚いた表情ははっきりと見えた。

 佐々木さんは自分の正体を告げる。

「あなたを轢いた車を、運転していました」



 運転手。明智さんが道に飛び出し、彼を轢いてしまった車の運転手。

「あのときは本当に申し訳ありませんでした」

「あなたを、覚えています」

 明智さんが答える。記憶をたどるよう、そっと、言葉をつむいでいく。

「そうだ。覚えてる。車の運転席で、驚き、おびえたあなたの顔を、覚えてる。おれが、いきなり飛び出してしまったから……」

 佐々木さんは頭を下げたまま続ける。

「今日まで、顔すら見せられなかった私を、どうか許してほしい。この一年間、ずっときみの行方を案じていた。きみが成仏できそうだとわかって、いまになって顔を出す私は、本当に、きょうな存在だと思う」

 自分よりもずっと若い命をみ取ってしまった。そう言って、佐々木さんは泣き始める。私は自分がどうしたらいいのかわからなかった。この場にいるには、ふさわしくない存在のように思えた。彼らの会話を耳にする資格はない気がした。四ツ谷から離れようとしたが、それでも彼女は私の手を握り続け、離さなかった。

 彼らの気持ちに寄り添えない代わりに、私の心は冷静に物事を整理し始めていた。そう、何かが不自然だ。道を飛び出した明智さん。それを轢いた運転手。運転手である佐々木さんは、いま、成仏しようとしている明智さんの前にあらわれた。

「あ」と、それでようやく気付く。

 幽霊である明智さんの姿を、佐々木さんは認識できている。四ツ谷の力を使わず、自分で認識している。それはつまりどういうことか。佐々木さんが四ツ谷と同じ幽霊を視る力を持っている? 違う、そうじゃない。

 佐々木さんの肩のあたりから、ぼろっと、灰の塊がこぼれ落ちていった。地面に灰が落ちる前に、灰は空へと吸い込まれていく。明智さんもそれを見て、ようやく、佐々木さんのもう一つの正体に気付いたようだった。

 大学前の交通事故。

 去年起こったあの事故で亡くなったのは、明智さんだけではなかったのだ。

 明智さんを轢いた運転手である佐々木さんも、亡くなっていた。

 部室に案内してくれた教授の言葉を思い出す。

『明智くんの件は、本当に、誰も救われない事故だった』

 誰も救われないとは、つまり、そういう意味だ。

 あの場で生還していたものが、誰もいなかったという意味だ。

 明智さんは動揺し始める。同時に、彼の体が崩れるペースが、少し遅くなったような気がした。

「おれはなんてことをしてしまったんだ」

「違う。私だ。私がきみを轢いてしまったんだ。許されないのは私なんだ……」

「そんな。お、おれが飛び出したからです。くだらない理由で、意識が遠のいて、ふらついて、それで馬鹿なことをした。謝らなくちゃいけないのは、おれのほうなんだ」

 一本のタバコと防水スプレー。たったそれだけのもの。たったそれだけの化学変化が、救われない事故を起こした。二人はお互いが加害者であると思っている。そして同時に、二人ともが被害者であると、私たちは気付いている。

「頭を上げてください」

 明智さんが佐々木さんに近づき、手をそえた。触れた手と、佐々木さんの腕が、両方同時に壊れて、灰になる。

「あなたを許します。その代わり、おれにも謝らせてください。取り返しのつかないことをしました。本当に、すみませんでした」

「きみのことが気がかりだったんだ。きみがどうなったか気になって、気付けばこうなっていた。きみが大学でさまよっていることを知って、きみが成仏するまでは絶対に先に行くものかと決めていた」

「それなら一緒に。上でゆっくり話でもしませんか」

 明智さんはそう言ってほほ笑む。私が見てきた他人のなかで、一番やさしい笑顔だった。

 佐々木さんが頭をあげる。シワの刻まれた顔。流れる涙が、灰となり、のぼっていく。

「タバコに付き合うよ。いい喫煙所があるといいな」

 明智さんが声を出して笑った。被害者と加害者は、笑いあっていた。

 そうやって、二人は同時に消えていった。



 明智さんと佐々木さんが成仏し、完全に姿を消したあと、四ツ谷はおもむろに何かを取り出し始めた。出てきたのはデジカメだった。コンパクトな最近売られているようなモデルではなく、十年前にあったような、形のごつごつしたデジカメだった。

 まさかと思っていると、四ツ谷はデジカメの電源を入れて、さっきまで明智さんがとどまり、成仏した場所を撮影した。

「悪趣味……」

「あはは、確かに印象は良くないかもね」

 四ツ谷はそれ以上、語ろうとはしなかった。だから私も追及はしなかった。幽霊の成仏した場所を記録するのには、きっと何か、彼女なりの理由があるのだろう。それは簡単に、関わっていいたぐいのものではない気がした。

 撮影が終わり、私と四ツ谷もその場を去る。どちらから言いだすこともなく、並んで歩いていた。意外なことに、最初に口を開いたのは、私のほうだった。

「大学の前で佐々木さんが立ってるのを見つけた。あのとき、あなたが私の視界をふさいだのは、わざとだったのね」

 とんきょうに距離を縮めて、「どうしたの?」と聞いてくる彼女を思い出す。四ツ谷はあのタイミングで、佐々木さんの存在を知られたくなかったのだろう。

 四ツ谷は観念するように答える。

「明智さんと出会うより前に、実は佐々木さんに出会ったの。今回の事故を知ったのも、佐々木さんから事情を聞いたから」

「出会ったのはいつ?」

「受験のとき。佐々木さんは悩んでた。『自分が殺してしまった青年が成仏できずにいる』。それで、解決しなくちゃって思った。ほかの大学も受かってたんだけど、放っておけなかった」

 四ツ谷が救おうとしていた幽霊は一人じゃなかった。明智さんと佐々木さん。被害者と加害者。最初から、両方を救おうとしていたのだ。

 そして私はさらに気付く。彼女の行動の異常性に。

「ちょっと待って。じゃあ成仏できない幽霊がいるからっていう理由で、ここへの進学を選んだってこと?」

「そうなるね」

 平然と答えた。叔母の杏子さんに勧められただけの私が言うのもなんだけれど、少なくとも大学は、適当な理由で簡単に選んでいいものではないだろう。自分を犠牲にして、入学する場所ではないだろう。それなのに彼女はここを選んだ。躊躇なく。そこに成仏できない幽霊がいたからという理由だけで。四ツ谷を突き動かす、その執念の正体はいったい何なのだろうか。

 ラボまで近づいたところで、唐突に四ツ谷が訊いてきた。

「ねえ。浮島さんの小学校ってさ、小学校だったでしょう?」

 は? と声が出る。とぼけたのではなく、単純にとまどったからだ。彼女の指摘どおり、それは私が通っていた小学校の名前だった。どうして知っているのだろう。

「あたし、浮島さんと同じクラスメートだったの。小学校二年生、覚えてない?」

「ごめん。あなたに限らず、私、ほとんどのクラスメートの顔は覚えてないの」

 でも、四ツ谷は演技をしているような表情でもなかった。そもそも、そんな器用なこと、四ツ谷にはできない。

 本当に、前に会っていたのだ。

「逆にあなたは、どうして私を覚えてたの?」

「浮島さんに、ひどいことを言っちゃったから」

「ひどいこと?」

 四ツ谷は一瞬だけ躊躇したあと、再び私の目を見つめながら、まっすぐに、こう答えた。

「こう言ったの。『幽霊なんかいるわけないじゃん』って」

 あ、とようやく、その姿に思い当たった。

 私は教室で、クラスメートに自分が見た幽霊のことを話していた。それを言われたのを、覚えていた。

『あんた、バカじゃないの』

 その顔も、姿も、ほとんど忘れてしまったけど。

『みんなに注目されたいからって、でたらめなこと』

 声だけは、言葉だけは覚えていた。

『幽霊なんているわけないじゃん。適当なこと言うな』

 なぜならその言葉は、私が孤立するきっかけになったものだから。

 教室の窓際に座っていた女の子。いつも本を読んでいて、印象が薄かった子。あれは、四ツ谷だったのだ。目の前にいる、彼女だったのだ。

「あたしのおちゃんは、幽霊が視えるひとだった」

 頭に浮かぶ景色をそっとたどるように、四ツ谷が語り始めた。

「お父さんもお母さんも仕事が忙しくて。家に誰もいないとき、あたしはよくお祖母ちゃんの家に遊びに行ってた。小学生のときは友達なんていなかったし、放課後も誰かの家に遊びに行くことなんてなかったから、いつもお祖母ちゃん家に行ってた。やさしくて物知りで、すごく穏やかな人。そばにいるとホッとする人だった。お祖母ちゃんはあたしの居場所で、誇りだったの」

 あるとき、幽霊が視えることを聞かされたの。四ツ谷はぼそりと、そう言った。

「お父さんやお母さんには内緒だよって。あたしは喜んで秘密を守った。たまに縁側で庭に向かってひとりでしゃべっているときがあったけど、あれはきっと、やってきた幽霊の相談に乗って、ひとりひとり、成仏させていたんだと思う」

 祖母のことを語っている四ツ谷は、自然な笑みを浮かべている。たぶん、本人は気付いていない笑みだ。自然と出ている感情なのだ。それほどまでに深く、彼女の祖母は、四ツ谷のなかにいる。

「あるとき、学校に行くとクラスの女の子が幽霊を視たって、怯えた顔をしてた」

 四ツ谷は私を見つめてくる。私は誰のことか、すぐに理解する。

「その子は明るくて活発で、女子にも男子にも友達がいるような、クラスの人気者だった。友達がいなくて、本だけが時間をつぶしてくれる相手だったあたしとは、正反対のような女の子が、幽霊のことを話題にしていて、すごく腹が立ったの」

 彼女のなかで語られる私は、いまの自分とはあまりにもかけ離れた存在で。気を抜けば、自分のことではないような錯覚に陥りそうになる。

 だけどその感想は、同じように四ツ谷にも当てはまる。友達がおらず、本だけが友達という当時の彼女の印象は、いまの彼女からはあまりにもかけ離れている。だからこそ、私はすぐに四ツ谷のことに気付かなかったのだ。

 当時、小学生の四ツ谷は私に腹が立ち、その憎しみをぶつけてきた。自分のお祖母ちゃんだけが持っている特殊な事情を、私が話題にしているのが嫌だったのだろう。気持ちがわからなくはない。それはきっと、大切にしていた宝物が、あるときあっさりと、他の人の手に渡ってしまっていたような悔しさだ。

「小学校を卒業してすぐ、お祖母ちゃんが亡くなった。お祖母ちゃんが亡くなる寸前、あたしはお祖母ちゃんの手を握ってたの。その日から、あたしにも幽霊が視えるようになったの。すぐにわかった。お祖母ちゃんから引き継いだ力なんだって。だったら、お祖母ちゃんがしていたことを、あたしもしなくちゃって思った」

 四ツ谷は一度、浪人している。それは単に彼女の学力不足が原因だと思っていたが、理由はそれだけではないらしい。私に幽霊を信じ込ませようとしたときと同様、ひとつのことに夢中になり、ひとの成仏を追いかけるあまり、気付けば受験の季節が過ぎていたのだろう。

「いろんな幽霊に会ってきた。みんな、いろんな事情があって成仏できずとどまっていることを知った。なかには怖い幽霊もいて、苦労することもあった。そうやって過ごしていて、たまに思い出すことがあったの。あたしが責めてしまったあの子は、どうしているだろうか? いつか、謝れる日はこないかな。あの子もきっと、幽霊を視て、怖い思いをしたに違いない。どうしてあのとき、やさしい言葉をかけてあげられなかったんだろう。ずっと、そういう後悔があった」

 受験当日、四ツ谷は佐々木さんを見つける。そして入学後に明智さんとも関わる。

 サークル説明会では私と再会し、そして幽霊と関わることになった。

「浮島さんの名前を見たとき、何かの運命みたいに感じた。会うとき、すごくドキドキした。覚えているかな。どんな子になっているかな。ちゃんとあのときのこと謝れるかな、もしまだ幽霊が視えているなら、同じ仲間になれるかな。なんて、思ったりした」

 まっすぐこちらを見つめてきた、あのときの四ツ谷を思い出す。異常なほど、目をそらそうとしなかった彼女。あの視線の意味は、あたしを覚えているか、と、問うていたのかもしれない。

 そこで出会った私は、幽霊を真っ向から否定する存在になっていた。悔しかったのかもしれない、戸惑いもあったかもしれない。だけど四ツ谷は私に向き合ってきた。そして、幽霊の存在を証明してきた。こうして一緒に明智さんと佐々木さんの成仏に立ち会い、そしていま、並んで歩いている。

 四ツ谷が深く、頭を下げてきた。

「あのときのこと、本当にごめんなさい。浮島さんを傷つけました」

 被害者と加害者。

 二人が向かい合う光景は、ここにもあった。

「別に。いいよ」

 意外なほどすらすらと、自分が答えられたのが意外だった。四ツ谷も私の即答に驚き、顔をあげてきた。

 思い出してみればなるほど、確かにあのときはつらかったかもしれない。たくさん理不尽な目にあったかもしれない。だけどあの言葉の主が四ツ谷だとわかっても、それほど怒りがわいてこなかったのも事実だ。驚きはしたけど、憎むことはなかった。

「あれがきっかけで、いまの私は科学が好きになれた。多少人間不信にはなったかもしれないけど、でも、それで人生が不幸になったとは思ってない。科学のことを考える日々は、私にとっては幸せ。だから謝られるどころか、むしろ感謝してもいいかもしれない」

 でも。過去のことと、これからの私たちの関係については、また別の話である。

 ラボがある部室棟の前にたどりつく。ちょうどいいタイミングだったので、私は話題を、これからのことに戻した。

「始まる前も言ったけど、成仏の手伝いは今回かぎりだからね。四ツ谷のことはもう恨んでない。だけど、もう関わってこないで」

「うん、わかった、そうする。ありがとう」

 てっきりもっと粘るのかと思いきや、やけにあっさりと、四ツ谷は去っていった。

 なんだか私のほうが置き去りにされた気分だった。



 明智さんを成仏させたその日の夜、家に帰ってから自室の押し入れを開けた。一時間かけて、ようやく奥から小学校の卒業アルバムを出すことに成功する。

 めくってみると、卒業アルバムの後半ページがところどころ、ハサミで切り取られていた。いじめでやられたのではなく、自分でやった跡だと思い出す。裏切られたクラスメートが笑ってピースしている写真が載っているページだったからだ。

 生徒の顔写真のページに移動し、クラスごとに確認していく。そして、ようやく『四ツ谷 飾』の文字を見つけた。

 撮られている写真の四ツ谷は、カメラを睨んでいて、ひどく不機嫌そうな顔だった。おさげの黒髪と、メガネまでかけていて、いまと同じところがある部分を見つけるほうが難しい姿だった。

「こんなの、わかるわけないだろ。変わりすぎだ」

 でも、確かにこの子だった。写真を見てようやく実感した。私は確かに、この子とかつて同じクラスにいて、言葉を交わしていた。みんなに幽霊を見たことを相談していると、窓際の席で四ツ谷は立ち上がり、こちらに近づいてきた。

『あんた、バカじゃないの』

『え、え?』

『みんなに注目されたいからって、でたらめなこと』

『違うよ。飾ちゃん、私、本当に』

『幽霊なんているわけないじゃん。適当なこと言うな』

 光景がフラッシュバックし、思わず頭を抱えた。

 私、飾ちゃんとか言ってたのか……。



 落花生の皮をき、ピーナツを取り出す。

 はかりで重さを測定。次にアルミはくを巻いた段ボール紙を土台にして、針金を使い、ピーナツをろうそくのように固定する。上部を切り取った空き缶をつりあげ、室温より十度程度冷たい水をいれる。温度計がそこに触れないようになかにいれる。ピーナツに火をつけ、空き缶の下にさしこむ。あき缶内部の水の温度が二十度前後になったところで、ピーナツの火を消す。残ったピーナツをはかりで測定すると、油分が消化されたぶんだけ、軽くなることがわかる。ひとの魂も、これに近いものがあるのだろうか。

「おはよう華」

 がらりとドアが開き、杏子さんがあらわれる。今日の朝、油をさしたので金属のこすれる音はもうしない。はずだったが、代わりに加減を間違えて乱暴に開けられたせいで、大きな音に怯えるはめになった。そろそろノックというものを教育したい。

 杏子さんが近づき、私の横に立つ。ちらりと顔をのぞく。今日の眼鏡のフレームは白。あまり似合わないが、黙っておく。

「何してるの?」

「家に落花生があったので、ひとつ拝借して、ピーナツのカロリー測定を」

「ほかのサークルは新迎会の準備をしてるわよ」

 溜息と一緒に、そんな言葉が返ってくる。

 ここに来たのは親戚同士の朝の挨拶、というわけでは、やはりないらしい。わかってはいたけど。だから顔をそらしていたのだけど。

「華。これは規則よ。親戚でも例外はない」

「ここを奪われたら、居場所がありません」

「だから入学したときに、友達もつくっておきなさいって言ったじゃない」

「化学実験に使えるなら喜んでつくりますけど。皮膚を採取して細胞の動きを……」

 すとっぷ、とジェスチャーされたので、口をつぐむ。

 だめだ。いつもの杏子さんとは違う。これは譲ってもらえないケースだ。こうなるんだったら、説明会でもう少し態度を和らげるべきだった。大衆に迎合するべきだった。ひとりでもいいから籍を置いてもらう、という対応でもよかったのに。

「今週中にここの荷物をまとめてちょうだい」

「でも……」

 言いかけたそのとき、ドアがまた開く。杏子さんと同時にそちらを向く。ひとりの女子が立っていた。大きな瞳と、茶髪の天然パーマ。毛先が跳ね、重力を小気味よく無視している。いたずらを常に模索しているような、わずかににやついたその口。小学校の卒業アルバムの写真にいた彼女とは、似ても似つかない姿。

「四ツ谷」

「おはよう浮島さん」

 入れとも言っていないのに、ずかずかと進入してくる。杏子さんは黙って四ツ谷を見守る。誰だったかを思い出しているらしい。

一昨日おととい、華が手をつないでいた女の子?」

「はい、その仲良しの女の子ですっ。四ツ谷飾といいます」

「誰が仲良しだ嘘つき! 関わらない約束でしょうが!」

 四ツ谷の自己紹介にも文句はあるが、何より不覚なのは、杏子さんが私と四ツ谷が手をつないで歩いていたシーンを目撃していたという事実だ。もしかして昨日の時点ですでに知っていて、さぐりを入れようとしていたのか。

「なにしに来たのよ」

「入部しに」

 四ツ谷はカバンから、一枚の用紙を取り出す。「サークル入会希望用紙」。学生番号と個人連絡番号、そして四ツ谷飾の文字。

「ふ、ふざけんな。誰があんたなんか入部させ……」

「あれぇ? そんなこと言っていいの? あたしが入部しないと、この居心地のいいスペースがなくなっちゃうんじゃないの?」

「……ぜ、ぜんぜんへいき。友達がたくさんいるし」

「へえ、友達? そのピーナツとか?」

 四ツ谷がからかい、杏子さんが大笑いする。むかつく! 霊感女め。

 入会者がひとりでもいないとつぶれる危機に、よりにもよって希望者が四ツ谷しかいないとは。彼女に関われば間違いなくまた幽霊がらみの事件に巻き込まれる。そんなのはごめんだ。ここで悠々と、ひとり実験生活をおうしたいのに。

 四ツ谷は入会希望用紙を、私のかけるテーブルのすぐ横に置く。すぐに蹴散らさない様子の私を見て、満足げに手を差し出してくる。

「よろしくね、華ちゃん」

「なにが華ちゃんだ。マッハで距離縮めてくるな」

 その手を取れば。

 彼女の力を介して、幽霊が視えるようになる。それらの声を、聞くことになる。

 私のなかの科学が揺らぎ、世の中の仕組みががらりと変わる瞬間である。教科書にのらないあらゆることが、私の日々を取り巻いていくことになる。

 四ツ谷の手の温度を感じながら、しぶしぶ私は、こう告げる。



「ようこそ科学研究サークルへ」