常世


まだ、燃えている町


 星空の中を、私は落ちていた。

 頭上を見上げると、私がくぐったドアが見えた。ドアの中には、電波塔にかかった満月が小さく見えていた。まばたきをすると──そこにドアはなく、大きな満月だけがあった。私は月をくぐって うつし から とこ へと落ちたのだ──目覚めながら夢を見ているような奇妙にくっきりとした感覚の中で、私はそう思った。

 私の両隣では、黒いサダイジンと白いダイジンが、毛並みを風にはためかせながら同じように落下していた。眼前には まばゆ い天の川があり、眼下には黒い雲が地平線の 彼方 かなた までを覆っていた。雲にぴたりと ふた をされたように、地表の様子はうかがい知れなかった。私の体は、その雲の中に落ちていった。雲が頭上の星を隠し、私は いつ とき 暗闇に包まれた。

 やがて、眼下の雲の隙間からうっすらと地表が透けて見え始めた。何かがちらちらと光っていた。それは最初、真っ暗な大地を流れる何本もの光の川のように見えた。赤い光が、葉脈のように複雑な模様を地表に描いていた。

「──え?」

 その葉脈が、ゆっくりと動いていた。ひときわ光が集まっている大地の一点が、こちらに向かって盛り上がってくるように見えた。大地全体がとぐろを巻くようにゆっくりと回転し、地面の一部が、私に向かって鎌首をもたげてきていた。

「……ミミズだ!」

 目を見開いて、私は叫んだ。眼下の大地の全てが、一体の巨大なミミズだった。無数の発光する葉脈は、その体内を流れるマグマだった。現世での濁流のような体とは異なり、常世でのミミズにはくっきりとした実体があった。それは名前の通り、どこまでも巨大な一匹のミミズだった。

うし から出るつもりだ!」

 ミミズの頭の向かう先を見上げて、私は叫んだ。ミミズは月に向かって、その巨大な体をゆっくりと伸ばしていた。

 その時突然に、獣のような たけ びが聞こえた。

 サダイジンだった。黒猫が、昇ってくるミミズに向かってアオォォンと一声 えていた。次の瞬間──サダイジンの全身が小刻みに震えたかと思うと、突然に はじ けるように、その体が一気に膨らんだ。

「──!」

 私は目を みは った。サダイジンは、家ほどの大きさの獣になっていた。黒かった毛並みは、一瞬で塗り替えられたように純白になっていた。尾と ひげ が長く伸び、まるで白い翼が生えたかのように黒い空にたなびいていた。

 落下していく私の目の前で、昇ってくるミミズの頭と、落ちていくサダイジンが、激突した。サダイジンはミミズの体に爪を立て、その体を押し戻そうとするかのように地表に向かって落ちていく。旋風が巻き起こり、私の体は洗濯機に放り込まれたようにぐるぐると あお らられる。ダイジンは私の肩にしがみついている。でたらめに回転する視界の中で、目の前をよぎった白い毛を私は必死に つか んだ。

「きゃああっ!」

 体が急速に下に引っぱられ、私は思わず悲鳴を上げた。強風の中で何とか目を開けると、眼下にはミミズを押し戻していくサダイジンの巨体があった。私が摑んでいるのは、サダイジンの髭だった。落下のスピードが増していき、地表がぐんぐんと近づいてくる。地上ではミミズの長い胴体が巨大なとぐろを巻き、うねる丘のようになっていた。その丘の中心に、ぽつんと青く光るものがあった。

「あれって──」

 吹きつける風の中で、私は必死に目を凝らした。

そう さん!」

 それは椅子だった。赤く燃えるようなミミズの体の中で、椅子の周囲だけが塗り固められたように黒い丘となっていた。その黒の中心で、かすかに脈打つような青い光を、椅子が放っていた。それは以前、後ろ戸の中に見た、ミミズを抑え続ける孤独な草太さんの姿だった。

 と、地上から ごう おん が響いた。ミミズの頭が、ついに地面に接したのだ。サダイジンがミミズの頭を踏みつけ、大地ごと激しく揺れる。サダイジンが頭を振り、摑んだ髭ごと私も振り回される。手から、するりと髭が抜けてしまう。

──っ!

 私は空中に放り出される。地面に頭から落ちていく。私の のど がまた悲鳴を上げている。ふいに肩にしがみついていたダイジンが、ひゅっと息を吸った。ばんっと弾けるような音がして、次の瞬間、私は柔らかな毛並みに包み込まれていた。直後、激しい衝撃に体が突き上げられて、落下が止まった。

「……ダイジンっ!?

 私は身を起こした。熊ほどの大きさの白い獣の腹に、私は乗っていた。ダイジンが大きく膨らんで、落下の衝撃から守ってくれたのだと私は気づく。ぎゅっと目をつむった大きなダイジンの顔が、痛みにぷるぷると震えていた。もう限界とばかりに、膨らんだ体がしゅるしゅるとしぼみ始める。私は猫の体から降り、地面に ひざ をついた。そこはぬかるんだ泥で、あたりにはトタンや木材などが散乱していた。ダイジンは れき の中に あお けに倒れたままの格好で、元の ねこ の大きさに戻っていた。

「お前、私を守って──」

 ダイジンが、ぱちりと目を開いた。

「すずめ だいじょうぶ?」

 そう言って、元の俊敏さで体を起こす。私はほっと息をついた。あらためて周囲を見渡しながら、私は立ち上がった。

「なに、ここ……?」

 私を取り囲んでいるのは、燃えている町だった。ある家は横倒しになり、ある家は完全に崩れ、ある家は傾いて屋根 がわら を落としていた。斜めになった電柱から、信号機がぶら下がっていた。あちこちに群生する植物のように、車やトラックが固まって倒れていた。すこし離れた場所には、何隻もの漁船が陸に打ち上げられて黒いシルエットとなっていた。足元は、潮水と油をたっぷりと含んだ、黒いヘドロだった。

 そしてそれら全てが、まるで数時間前にそれ が起こったばかりのような生々しさで、燃えていた。人の姿はどこにもなかった。人間から切り離されたあの夜の風景だけが、ここにあった。

「ここが常世なの……?」

 常世は見る者によってその姿を変える──草太さんのおじいさんに聞いた言葉を私は思い出していた。そうか、と奇妙な納得が私を打った。まだ燃えていたんだ 。十二年間、ずっと──あの日の夜の町は、私の足元に り続けていたのだ。深い地面の底で永遠にあの日のまま、燃え続けていたのだ。

「──!」

 視界の端に、青い光が見えた。

「……草太さんだ!」

 私はその方向に走り出した。ダイジンが肩に飛び乗ってくる。燃える屋根の隙間に、黒い丘があり、その頂きに光が見えた。それほど遠くじゃない。ヘドロを り上げ、炎の合間を縫って私は走った。背後で地響きが鳴り、サダイジンの ほう こう がした。振り返ると、再び月に伸び上がろうとするミミズの頭を、サダイジンが引き戻そうとしていた。食い止めてくれている──私は丘に視線を戻し、走るスピードを上げた。

 次の瞬間だった。私の目の前に燃える柱が倒れ込んで来た。

 私は思わず しり もち をつく。吹き上がった火の粉が私の顔をざっと洗い、誰かの家の匂いが一瞬私を包む。遅れてやって来た熱波に、私は慌てて後ずさる。目の前で柱が、食器棚が、テーブルが燃えている。ヘドロに埋まった私の手の横に、きりんのヌイグルミが落ちている。ごうごうと音を立て、炎が眼前で暴れている。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 肺が勝手に あえ ぐ。吸い込む空気に、奇妙な匂いがあることに私は気づく。 ただ れたように甘くて、焦げ臭くて、生臭い潮の匂いが混じっている。今までに何度も いできた、それはミミズの匂いだった。あの甘い匂いは、あの日の夜の匂いだったのだ。

 目に映った炎が、ふいに にじ む。私はまた泣き出しそうになっていた。涙が目の表面いっぱいに まっている。なぜこんなにも、私は弱いのか。腹立ちをてこ にして私は立ち上がった。炎を かい し、走る。ただ走る。ばちばちと ぜながら燃える乗用車の脇を走り、居間のカーテンがはためく誰かの家の庭を横切り、屋上に漁船を乗せたビルの横を走り抜ける。燃える町の夜空には、奇妙なクラゲのような白いものが幾つもひらひらと舞っている。それはタオルやハンカチ、シャツや下着の切れ端である。無数の布が、この場所にしかいない珍しい空の生き物のように、黒い空の中をぼんやりと光りながら舞っている。

 やがて、周囲からはだんだんと家が減り、瓦礫が減り、炎が減ってくる。車が減り、船の姿が目立ち始める。町の中心部を抜け、郊外に来つつあるのだ。サダイジンとミミズの頭はずっと遠くの風景となり、代わりに黒い丘が目の前に迫っている。丘に近づいたことで、頂上の青い光は斜面に遮られて見えなくなっている。

 ぐちゃぐちゃと音を立てていたヘドロの足元は、気づけば凍った霜のようになっている。ザッザッと霜を踏む音が、次第にパリンパリンという薄氷を踏む音に変わっていく。温度が下がっている。全身を湿らせていた汗は冷たく乾き、吐く息が真冬のように白くなっている。

 私は丘の斜面を駆け登る。黒く凍りついたミミズの体には灰が降り積もっている。やがて斜面の向こうに、青い光が見え始める。

「草太さん!」

 椅子の背板が下からの青い光に照らされて、シルエットとなって見えていた。三本の脚は黒いミミズの体に深く突き刺さっていて、その箇所が脈打つように青く光っているのだ。何か冷気のようなものが、椅子からミミズの体内に流れ込んでいるように見える。私は抱きつくように椅子に駆け寄った。二つの目が彫られた懐かしい背板を、両手で つか む。

「草太さん! 草太さん、草太さん!」

 答えない。それはただの、木の椅子だった。でもそれは、私のための椅子なのだ。この椅子のどこか深いところに、草太さんは確かにいるのだ。

 私は椅子の座面を両手で摑み、思いきり引っぱった。ミミズから引き抜こうと、力を込める。椅子は氷のように冷たく、しっかりとミミズの体に食い込んでいる。歯を食いしばり、もっと力を込める。ガコ、と音を立てて、一本の脚が数センチだけ持ち上がる。ミミズとの間に出来た隙間から、青い光が まぶ しく漏れる。私の頰を照らすその光も、刺すように冷たかった。

「すずめ」左肩に乗っているダイジンが、その光に目を細めて私に言う。

「いしをぬいたら みみず、そとにでちゃうよ」

「私が かなめ いし になるよ!」

 考えるより前に、私は叫んでいる。

「だからお願い、目を覚まして──草太さん──!」

 叫びながら、私は こん しん の力で椅子を引く。冷気が椅子から手に伝わり、 しも となって肌を昇っていく。私の両腕が、白い霜に覆われていく。

 突然に、ダイジンが私の腕を駆け下りた。

「え?」

 ダイジンは大きく口を開け、椅子の脚をくわえる。

「お前……!」

 手伝ってくれているのだ。ダイジンのくわえた脚が、すこしだけ持ち上がる。隙間から青く冷たい光が漏れる。ダイジンの体も霜に覆われていく。私は息を吐き、吸って、もう一度思いきり力を込める。またすこし椅子は持ち上がる。青い光がもっと眩しくなり、私たちの浴びる冷気はもっと強くなる。ずっと遠くから、サダイジンの咆吼がまた聞こえてくる。暴れるミミズの地響きが、さっきから断続的に地面を揺らしている。椅子を引きながら、私は必死に叫ぶ。

「草太さん、私、こんなところまで来たんだよ──!」

 霜が肩を越え、顔に昇ってきている。 まつ にまで細かな氷が付いていく。

「答えてよ草太さん、草太さん、草太さん──!」

 私の体からは、さっきからもう感覚が消えている。睫毛は凍りつき、まぶたは開けなくなっている。それでも私は力を緩めない。草太さんを抜こうとする気持ちだけが、私の体に熱い しん を通している。ガコン、とまた脚がすこし持ち上がる。冷気の光が、私をもっと凍らせる。それでも私は──。


 ねえ、きみ。


 その時、草太さんの声が聞こえた。どこから? 椅子からじゃない。耳から聞こえた声じゃない。

 このあたりに、 はい きよ はない?

 この声は──体の内側で響いている。

 ハイキョ?

 と私の 声が聞こえる。凍ったまぶたの内側に、不思議そうな顔でこちらを見ている私が映っている。自転車にまたがっていて、その後ろは朝の青い海だ。これは──四日前、最初に出会った時の、草太さんの記憶だ。

 君は──死ぬのが怖くないのか!?

 そう言って、草太さんは私を見上げる。旅に出て二日目、廃校での戸締まりの時だ。

 怖くない!

 椅子に覆い かぶ さってアルミ戸を押す私が、泥だらけの顔でそう叫ぶ。

 ねえ、私たちってすごくない?

 戸締まりを終えた後の、私の得意げな顔。

 うん、きっと大事なことをしてる!

 民宿の部屋で にそう言う、浴衣姿の私の背中。

 ね、草太さんも一緒に!

 強引に草太さんに座ろうと、私はいたずらっぽく笑っている。

 人気者なんですね、草太さんって。

  しつ ねた顔をぜんぜん隠せてない。

 草太さん、待って!

 そう言って橋から飛び降りた時の私は、一人になりたくなくて必死だったのだ。

 ああ──これで──。

 悲しそうに、草太さんが つぶや いている。泣き出しそうな顔で、私が のぞ き込んでいる。

 これで終わりか──こんなところで──。

 東京上空のミミズの上で、徐々に要石となっていく草太さんが言っている。視界が、だんだんと氷に閉ざされていく。

 でも俺は──君に会えたから──。

 私の顔が泣いている。ばかみたいに涙をだらだらと流している。

 君に会えたのに……!

 私の泣き顔を最後に、草太さんの視界は黒く閉ざされる。

「草太さん!」

 私は思わず叫ぶ。でも当然、その声は草太さんには届かない。私が聞いているのは、過去の──要石になってしまった時の、草太さんの心だ。暗闇に閉じ込められたまま、草太さんは薄れていく意識の中で、必死に叫んでいる。もう現世には届かない声で叫んでいる。

 消えたくない。

 もっと生きたい。

 生きていたい。

 死ぬのが怖い。

 生きたい。

 生きたい。

 生きたい。

 もっと──……

「私だってそうだよ!」

 私は摑んだ椅子に向かって叫ぶ。

「私だって、もっと生きたい! 声を聞きたい。ひとりは怖い。死ぬのは怖いよ──草太さん……!」

 だからお願い、目を覚まして。私は凍った体を動かして、まぶたを氷に縫い付けられたまま、椅子の背板に顔を近づけていく。まぶたの裏で かい 見た草太さんの記憶を、慈しむようになぞる。あんなにも、見てくれていたんだ。ずっと私の姿を見つめ、私の声を聞いてくれていたんだ。まぶたの内側に まった涙が、焼けるように熱かった。草太さん──彼にだけ聞こえるように、私は ささや く。

 あなたがいない世界は、私には怖くてたまらない。

 だから起きて。目を覚まして。

 強く願いながら、私は冷たい椅子に唇をつけた。


    ❖ ❖ ❖


 その時草太さんがいたのは、常世よりもずっと深い場所にある、 辺土 リンボ の波打ち際だった。

 彼は椅子に座ったままの姿で、分厚い氷に覆われていた。そこにはもう、音も、色も、温度もなかった。 かん ぺき な静寂に彼は包まれていた。あるのはただ、奇妙に甘やかな無感覚だけだった。

 ……。

 なかったはずの場所に、突然に、何かが生まれた。それは、熱だった。そこは、まぶたの裏だった。それは涙の熱さだった。

 ……。

 音だ。今度は耳が、熱を持ち始めていた。遠い場所からの誰かの声が、彼の耳に意味を与え始めていた。

 ……。

 唇だった。誰かのかすかな体温が、彼の唇に色を取り戻させようとしていた。切れていたはずの彼と世界とを結ぶ糸を、誰かが一本一本、 つな ぎなおしているかのようだった。

 彼はゆっくりと目を開いた。

 目の前に、一枚の古びたドアが立っていた。

 ああ──唇から息が漏れる。その息も熱い。

 ドアが、がちゃりと開いた。 まぶ しさに、彼は目を細める。そこには誰かがいる。こちらに手を伸ばしている。彼の世界に入ってくる。彼も腕を伸ばそうとする。氷が割れて、指先同士が触れる。互いに手を握る。熱が流れ込んでくる。その きや しや な手が、力強く彼を引っぱる。熱い涙が、彼のまぶたから あふ れ出す。氷が溶ける。砕けていく。

 そして彼の体は、ついに椅子から離れる。そのドアを、彼はくぐる。


    ❖ ❖ ❖


 青い光が ぜて、椅子が抜けた。

 私は椅子を持ったまま、後ろ向きに はじ き飛ばされた。丘の斜面をごろごろと転がり落ちていく。回る視界の中に、椅子の脚をくわえたままのダイジンの姿もちらりと見えた。 すべ なく転げ落ちながら、体を てつかせていた冷気が抜けていくのを、私は感じていた。と、背中に強い衝撃を受け、ふいに意識が遠のいた。

 しかしそれは一瞬だった。

 体が止まったことを感じ、私ははっと目を開いた。

 目の前に、彼がいた。

 草太さんが、目をつむって横たわっていた。人の姿の 草太さんだった。伏せられた長い まつ が、切り立った頰に淡い影を落としていた。左目の下の完璧な位置に、小さなほくろがあった。白く滑らかな肌には、あたたかな血色があった。彼はゆっくりと呼吸をしていた。自分たちの体に熱が戻ってくるのを、私は日の出を眺めるような気分で感じていた。彼が、うっすらと目を開いて私を見た。

「…… すず さん?」

「草太さん──」

 草太さんがゆっくりと上半身を起こす。私も起き上がる。

「俺は……」

 夢から覚めたばかりのような顔で、私を見ている。私は微笑む。

 その時、草太さんの肩越しに横たわる白い毛並みに、私は気づいた。

「ダイジン!?

 私は慌てて駆け寄る。白い ねこ が、泥の中にぐったりと倒れ込んでいる。私はその小さな体を、両手ですくい上げた。その体は、まだ氷のように冷たかった。

「どうしたの、大丈夫!?

 ぷるぷると小刻みに震えながら、ダイジンは細く目を開けた。すずめ、と かす れた声を出す。

「だいじんはね──すずめの子には なれなかった」

「え?」

 うちの子になる? 何気なく言った自分の言葉を、私はとっさに思い出す。うん、とあの時ダイジンは答えたのだ。一度開かれたダイジンの ひとみ が、また閉じていく。軽かった仔猫の体が、石のように重く、ますます冷たくなっていく。

「……ダイジン?」

「すずめのてで もとにもどして」

「──!」

 私の手の中にあるものは、石像だった。私が九州で抜いた時と同じ、短い つえ のような形をした石の像だった。冷たい要石に、ダイジンは戻ってしまった。ふいに涙が溢れ、私は声を押し殺した。この旅の間中ずっと望んでいたことだったのに──私は泣いていた。

 その時、苦しげな獣の悲鳴があたりに響いた。頭上からだった。見上げると、サダイジンがミミズに巻き付かれ、空に持ち上げられていく姿が見えた。

「あれは──二つ目の要石か!?

 草太さんが声を上げ、驚いた顔で私を見る。

「君が連れてきたのか!?

 今度は背後から地響きが聞こえ、私たちは振り返る。固まっていたはずの黒い丘が、ゆっくりと動き出していた。

「ミミズの尾が自由になったんだ──後ろ戸から全身が出てしまう!」

 と草太さんが叫ぶ。そうだ、と私も今さらに気づく。ミミズには今、要石は刺さっていないのだ。私は両手に持った石像を、思わずぎゅっと胸に抱く。

 頭上で、サダイジンがまた えた。大きく口を開け、赤黒く光るミミズの胴体にかぶりつく。上空のミミズの体から、血とも溶岩ともつかないものが噴き出る。ミミズが激しくのたうち、地上の黒い丘も波打つようにほどかれていく。足元が、立っていられないほどに激しく揺れる。

「きゃあああっ!」

 私は思わず悲鳴を上げた。ミミズの黒い尾はみるみるうちに赤みを取り戻しながら、 れき をなぎ払うように地表を でていく。車や家や電柱が、まるで木の葉のように宙に舞う。そしてばらばらと頭上に落ちてくる。私は反射的に頭を抱えて、泥の中にうずくまってしまう。

「──え?」

 その私の体を、大きな手がふわりと持ち上げた。草太さんだった。私を両腕で抱えたまま走り出す。走る彼のすぐ後ろに、すぐ横に、目の前に、巨大な瓦礫が落ちてくる。彼はその間を縫って走る。泥と瓦礫の破片が、私の目の前を目まぐるしく過ぎていく。私は一瞬だけ、その たくま しさに陶然となる。草太さんの本来の姿に、その体の確かさに、その力強さに、めまいのような感動を覚える。と、すぐ目の前にコンクリートの塊が落下し、草太さんはバランスを崩す。転びそうになる。私は自分で彼の腕から飛び降り、泥に片手をつき、走り出した。

「鈴芽さん!」並んで走りながら草太さんが心配そうに言う。

「平気!」と私は叫ぶ。そうだ、私たちは戦友だった。二人ならば無敵だった。世界の裏側でだって、私たちならば戦える。

「これからどうするの!?

 燃える瓦礫の中でヘドロを って走りながら、私は たず ねる。

「声を聴き、聴いてもらう」

「えっ?」

「付いてきて!」

 そう言って、草太さんは周囲でもひときわ小高い瓦礫の山へと向かって行く。積み重なった車を登り、倒れた雑居ビルの壁を走り、横倒しに打ち上げられた漁船の船底によじ登る。私は必死に彼の背中を追う。漁船の上から、草太さんが手を伸ばしてくれる。片手で要石を抱えている私は、もう片方の手で彼の手を取り、何とか船の上に登る。息を切らせながら、彼の隣に並んで立つ。瓦礫の頂上であるこの場所からは、燃える町が一同に見晴らせた。

「かけまくもかしこき の神よ!」

 と、草太さんが大声で叫んだ。彼の見つめる先には燃える町があり、その奥ではミミズとサダイジンが絡み合っている。草太さんの深い声が、常世の大気に朗々と響きわたる。

とお 御祖 みおや うぶ すな よ。久しく拝領つかまつったこの やま かわ 、かしこみかしこみ、 つつし んで──」

 草太さんが、まるで町全体を抱きしめるかのように、大きく両手を広げた。目を閉じたその顔には、いくつもの玉の汗が浮かんでいる。

「お返し申す!」

 そう叫びながら、ぱん! と両手を打ち鳴らす。次の瞬間──眼前の光景に、私は目を みは った。

 燃える夜の町が、薄いカーテンを透かしたかのようにゆらゆらと揺れていた。瓦礫の黒と炎の赤が溶け合うように淡くなっていき、代わりにゆっくりと、 みず みず しい色彩が浮かび上がってくる。

 それは朝日に照らされた、かつてのこの町の姿だった。色とりどりの屋根が陽射しを反射し、道路には何台もの車が走り、信号機の赤や青がちらちらと瞬いていた。ずっと奥の青い水平線には、白い漁船が光を散らしたように浮かんでいた。空気は澄み渡り、来たるべき春の予感をたっぷりと含んでいた。そこには生活の匂いも豊かに混じっていた。 汁の匂いがあり、魚を焼く匂いがあり、洗濯物の匂いがあり、灯油の匂いがあった。それは早春の、朝の町の匂いだった。

 やがて風に運ばれるようにして、小さく声が聞こえてきた。幼い声、老いた声、頼もしい声、優しい声。様々な人の声が、幾重にも折り重なって私の耳に届き始めた。

 おはよう。

 おはよう。

 いただきます!

 いってきます。

 ごちそうさま。

 いってらっしゃい。

 早く帰ってきてね!

 気をつけていっておいで。

 いってくるね!

 いってきます。

 いってらっしゃい。

 いってきます。

 いってきます。

 いってきます!

 それは様々な人たちの、朝の声だった。あの日の朝の声 だった。

「──命がかりそめだとは知っています」

 草太さんの大声が頭上から響き、私は我に返る。眼前の町は、燃える夜の姿に戻っていた。草太さんは目を閉じて両手を合わせたままの格好で、祈るように叫んでいた。

「死は常に隣にあると分かっています。それでも私たちは願ってしまう。いま一年、いま いち じつ 、いまもう いつ とき だけでも、私たちは なが らえたい!」

 常世の火の粉まじりの熱風が、彼の黒髪と白いロングシャツをなびかせていた。

たけ おお おお かみ よ! どうか、どうか──!」

 草太さんが目を開き、一層に大きな声で叫ぶ。彼の視線の はる か先には、ミミズの頭に乗ったサダイジンの姿がある。その巨大な白い獣も、動きを止めたままじっと草太さんを見つめている。

「──お頼み申します!」

 グオォォォ、と こた えるようにサダイジンが吠えた。ミミズの体を蹴り降り、私たちのいる場所に向かってまっすぐに走ってくる。一蹴りで何軒もの家を飛び越え、一蹴りで燃える川を渡り、一蹴りで校庭をまたぎ、みるみる私たちに迫ってくる。夜の町を吹き抜ける一筋の風のように、白い獣の体が眼前に押し迫る。思わず後ずさる私の手を、草太さんの大きな手がそっと握った。

「身を委ねて」

 サダイジンがその口を大きく開いた。燃えるように赤い舌と、鋭く並んだ きば がすぐ目の前にある。飲み込まれる──思わず目を閉じた次の瞬間、

「──え!?

 空の中を、私は落ちていた。

 両耳の中でごうごうと風が逆巻き、スカートがばたばたと暴れ、地平線がでたらめに回っていた。風に飛ばされていくヘアゴムがちらりと見えた。ポニーテイルがほどけて、髪が風に暴れていた。私は要石を両手で持ったまま、常世の空を落下していた。

「……ああっ!」

 ずっと遠くの空に、同じように落下する草太さんの姿があった。その手にも、要石があった。サダイジンが要石の姿に戻ったのだと、 はじ かれるように私は理解した。サダイジンは草太さんの手に、ダイジンは私の手に。草太さんが、要石を両手で頭の上に振り上げた。彼の落ちていくその先には、空に鎌首を持ち上げているミミズの頭があった。私も眼下を見下ろす。私の落ちていく先にも、空に昇ってくるミミズの尾がある。

 何をすべきかを、私は知った。

 彼と同じように、私も要石を振り上げる。ミミズの尾が私に迫ってくる。その体は、 き出しになった無数の血管が絡み合っているように見えた。一本一本の管の中に、ちらちらと瞬きながら流れる赤い小川がある。私が振り上げた要石からも、まるで静脈のような青い光がたなびき始めた。赤と青の光の線が、まるで求め合うかのようにそれぞれに向かって伸びていく。それは美しい眺めだった。まるで花火の中を落ちていくようだった。落下の勢いと体の重さの全てを乗せ、

「お返しします!」

 と声の限りに叫びながら、私は要石をミミズの体に振り下ろした。

 とたん、ミミズを構成する全ての血管が沸騰し、泡となり、弾けた。


    ❖ ❖ ❖


 二本の青く長い光の やり が、ミミズの頭と尾を同時に貫いた。

 次の瞬間、その長大な体は弾け飛び、光の雨となって地表に激しく降りそそいだ。同時に空を重く覆っていた雲も吹き払われて、 まばゆ い星空が地上を照らし出した。 をたっぷりと含んだ にじ 色の雨が、きらきらと輝きながら れき の町を で、炎を しず めていく。空に架かった橋のように空中に残っていたミミズの ざん も、ゆっくりと地上に落ちていく。それは土だった。雨と土を存分に浴びた地表からは、みるみるうちに草花が芽吹き始めた。まるで町全体を抱きしめるかのように、緑が瓦礫を埋めていく。そして現出したのは──深い草に覆われ、 まぶ しい星空に照らされた、 せい ひつ はい きよ だった。


ぜんぶの時間


「鈴芽さん──」

 柔らかく優しい声が、私の名前を呼んでいる。ひんやりとした指先が、私の頰をそっと撫でる。目を開くと、草太さんが心配そうに私を見下ろしていた。

「草太さん……」

 私は草の中から、上半身を起こした。草太さんが白いロングシャツを脱ぎ、私の肩にそっと掛ける。制服がぼろぼろになってあちこち破れていたことに、すこし遅れて私は気づいた。

「私たち……」

「土に戻ったミミズと一緒に、地上に落ちたんだ。怪我はない?」

 どこも痛くもなく、体も動く。うん、と言いながら私はゆっくりと立ち上がった。


 ペットボトルとか空き瓶とか、木材とかプラスチックのおもちゃとかに混じって、その黄色い椅子は落ちていた。私は草地にしゃがみ込み、見覚えのあるその椅子を手に持った。間違いない。お母さんが作ってくれた、背板に ひとみ の彫られた私のための子供椅子だった。くるりと裏返すと、やはり脚が一本欠けている。でも、すこしだけ違和感があった。新しいのだ──すこしだけ考えて、私はそう気づく。座面の欠けたその傷口も、鮮やかな黄色いペンキも、記憶にある椅子よりもずっと新しかった。作られて間もない みず みず しさが、傷ついたばかりの生々しさが、その椅子にはあった。

「あの日津波に流されたこの椅子を──」

 頭に浮かんだ言葉を、私は独りごちた。

「私はここで拾ったんだ……」

 私はあらためて、椅子を拾ったその場所を眺めてみた。草の中に、まるで波打ち際に打ち上げられた遠い国からのがらくたのように、様々な小物が一列にずらりと並んでいた。全部が、誰かから誰かへの遠い手紙のようだった。

「──鈴芽さん!」

 すこし離れた場所で、草太さんが驚いたような声を上げた。

「誰かいる!」

「えっ!?

 彼の目線を追う。ずっと遠くの丘の りよう せん に、白っぽい あり あけ の満月がかかっていた。その方向に向かって、小さな人影がゆっくりと歩いている。

「子供……?」

 と草太さんが言う。

「私──」湧き上がってくる驚きと戸惑いに、

「行かなきゃ!」

 いても立ってもいられずに、私は椅子を手に持ったまま駆け出した。

「鈴芽さん?」

「ごめん、ちょっと待ってて!」

 草太さんは何も たず ねず、その場に とど まったまま見守るように私を見送ってくれた。


    * * *


 頭の上で、星がぎらぎらと光っていた。

 誰かのミスで光量つまみを十倍に引き上げられてしまったみたいに、その星空はばかみたいに眩しかった。満天の星と白い雲と夕日とが入り混じった空の下、遠くに見える子供のシルエットを目指して、私は歩き続けていた。ひたすらに草を踏みながら、私は必死に涙をこらえていた。

 ──そうか、と私は思う。

 やっと分かった、と私は思った。

 知りたくなかった。でもずっと知りたかった。

 あれはお母さんだと、ずっと思っていた。いつかまた会えると、心のどこかで信じていた。同時に、もう会えないことも本当はずっと知っていた。草原の風は冷たく、吐く息は白かった。草太さんに着せてもらったロングシャツは私には大きすぎたから、私は制服の赤いリボンで腰の位置をぎゅっと絞っていた。そう着ると、それは白いワンピースのようだった。私の足元は、東京から履いてきた草太さんの黒い大きなブーツだった。ポニーテイルがほどけた髪は、肩下までのストレートだった。私の髪はいつのまにか、あの頃のお母さんと同じくらいの長さにまで伸びていた。

 視線の先に、草にうずくまっている小さな背中があった。私は椅子をそっと草に置き、泥だらけのダウンジャケットの背中に近づき、 ささや くように声をかけた。

「すずめ」

 歩き疲れ、探し疲れて絶望に沈んでいたその少女は、ゆっくりとこちらを振り返った。それは、四歳の私だった。母を探して、偶然に後ろ戸をくぐり、常世に迷い込んでしまっている私だった。驚いたように私を見つめるその瞳には、長く続いた悪夢の出口をようやく見つけたような期待と不安が揺れていた。私はどんな顔をしたら良いのか分からなくて、でもすこしでも悲しみを減らしてあげたくて、必死に口元に笑みを作っていた。

「……おかあさん?」

 とすずめが訊ねる。私は迷う。すずめの欲しい言葉が、私には痛いほどによく分かった。でも──。

「ううん」

 そう言って、私は首を振った。すずめの瞳に涙が盛り上がっていくさまを、どうしようもなく私は眺めた。でも、彼女は泣かなかった。

「すずめのおかあさん知りませんかっ?」

 かじかんだ小さな手をお腹の前できちんと組んで、精一杯に姿勢を正して、強い口調で彼女は言った。

「おかあさんもすずめを探してて、きっとすごく心配してるから、すずめ、早くおかあさんのところに行かなきゃいけないんです!」

「すずめ──」

「すずめのおかあさんは、病院のお仕事をしています。お料理と工作がじょうずで、いつもすずめの好きなものを何でも作ってくれて──」

「すずめ、あのね──」

「すずめのお家が……!」

 だめだ。すずめの目からはもう、涙がぽろぽろとこぼれてしまっている。鼻水をすすり上げながら、幼いすずめは必死に しやべ り続ける。

「お家がなくなっちゃったから……おかあさん、すずめのいる場所が分かんなくなっちゃってるだけだから──」

「もういいの!」

 もう、聴いていられなかった。私は草に ひざ をつき、すずめを両腕で強く抱きしめた。

「私、本当はもう分かってたんだ……!」

 私たち に向かって、私はそう言った。

「なんでっ!?  おかあさんいるよ! すずめを探してるんだってば!」

「すずめ!」

 すずめは体をよじり、私をはねのけて走り出した。逃げるように私から遠ざかっていく。走りながら、星空に向かって叫んでる。

「おかあさーん、どこーっ? おかあさんー!」

「ああっ!」

 私は思わず手を伸ばす。すずめが、前のめりに思いきり転んでしまう。しかしすぐに、草の中から上半身を起こす。

「おかあさあああーん──!」

 母を、私を、世界全部を責めるような激しさで、すずめは大声で泣いた。吐くように苦しそうに、体全部から絞り出すように、すずめは泣き続けた。激しく体を震わせ続ける彼女の向こうで、常世の赤い夕日が沈もうとしていた。まるで彼女の絶望を映しているかのような、血のように濃く重々しい夕景だった。その風景が、ふいにぐにゃりと にじ んだ。私も、泣いていた。

「お母さん……」

 そう口に出してしまうと、涙が止まらなくなった。目の前で泣き続けるすずめの苦しみは、私の苦しみだった。両者は等しく同じものだった。彼女の絶望も寂しさも、窒息するような悲しみも燃えるような怒りも、全部がその強さを保ったままで、今でも私の中にあった。吐くように、私も泣いた。私たちは、草に座って泣き続けた。

 ……でも。

 壊れてしまいそうなすずめの泣き声を聞きながら、私は思った。でも、だめだ。このままじゃだめだ。私は泣きやまなくてはならない。すずめと私とは違うのだ 。私は今も弱いままだけれど──すくなくとも、あれから十二年は生きたのだ。生きてきたのだ。すずめは一人きりだけれど、私はもうそうではないのだ。私がいま何かをしなければ、すずめはこのまま本当に真正に、この世界に一人きりになってしまう。生きていけなくなってしまう。

 私は顔を上げた。すると目の端に、黄色いものが映った。私は手の甲で押し込めるようにして両目の涙を ぬぐ い、その子供椅子を手に取り、すずめへと駆け寄った。

「すずめ──」

 泣きじゃくる少女の傍らに、私は椅子を置いてしゃがみ込んだ。

「ねえ、すずめ、ほら!」

「え……?」

  ひとみ からぽろぽろと涙をこぼしながら、すずめが驚いた顔をする。

「すずめの椅子だ……。え? あれ?」

 そう言って、不思議そうな顔で私を見上げる。

「……なんて言えばいいのかな」

 私は笑顔を作りながら、言葉を探す。気づけば太陽は雲の下に沈み、あたりは透明な群青に包まれている。

「あのね、すずめ。今はどんなに悲しくてもね──」

 私に言えることは、本当のことだけだった。とても単純な、真実だけだった。

「すずめはこの先、ちゃんと大きくなるの」

 強く風が吹き、私たちの涙を頰から空に吹き上げた。空が暗さを増し、星たちが輝きを増した。

「だから心配しないで。未来なんて怖くない!」

 すずめの瞳に、星が映っている。私はその場所までまっすぐに言葉が届くように願いながら、声を強くして、唇に笑みを作って、言った。

「ねえ、すずめ──。あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る」

 時が早送りをしているように、星空が目に見える速度で回っていた。

「朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの。誰にも邪魔なんて出来ない。この先に何が起きたとしても、誰も、すずめの邪魔なんて出来ないの」

 幾筋もの流れ星が空で瞬き、やがて草原の向こうの空がピンク色に染まりはじめた。朝だ。私は朝日に照らされていくすずめを見つめながら、もう一度繰り返した。

「あなたは、光の中で大人になっていく」

 そう言って、私は椅子を手に取り、立ち上がった。すずめは私を見上げながら、不思議そうに たず ねる。

「お姉ちゃん、だれ?」

「私はね──」

 あたたかな風が吹く。足元の草花が吹き上げられ、踊るように私たちの周囲を舞っている。私は身をかがめ、すずめに黄色い椅子を差し出しながら言う。

「私は、すずめの、 明日 あした

 すずめの小さな手が、しっかりと椅子を つか んだ。


    ❖ ❖ ❖


 幼い少女の目の前には、ドアがあった。

 片手で椅子を抱え、片手でドアのノブを握り、少女は扉を開けた。

 ドアの向こうは灰色の世界だった。まだ夜明け前で、薄暗く、粉雪が舞っていた。真新しい れき が、あちこちで黒々としたシルエットとなっていた。まだ される前の悲しみに満ちた三月の土地が、ドアの向こうには広がっていた。

 そこをくぐる前に、少女は一度だけ後ろを振り返った。

 遠くの丘の上に、二人の大人のシルエットがあった。一人は背の高い男性で、一人はワンピースを風に膨らませた女性だった。彼らはまっすぐに、少女を見つめていた。風になびく草原で銀河に照らされているその二人の姿は、まるで絵のように美しかった。それは四歳の少女のまぶたに、永遠に焼きついた。

 少女は再び前を向き、しっかりとした足どりでドアをくぐった。黄色の椅子を大切そうに抱えて、灰色の世界へと、少女は戻っていった。そしてしっかりと、幼い手でそのドアを閉めた。


    ❖ ❖ ❖


「──私、忘れてた」

 石垣に立てかけられたドアを閉めた後で、まだそのノブを握ったまま、私はそう つぶや いた。

「大事なものはもう全部──ずっと前に、もらってたんだ」

 隣に立っている草太さんが、穏やかな微笑みで うなず く。空は、夜明け直前の淡い水色だった。現世の空は、常世のそれよりもずっと薄く穏やかだった。それでもここには、あちこちに生命が満ちていた。あたりでは、朝の鳥たちが せわ しそうにさえずっていた。遠くの道では、仕事に出かける軽トラックがゆっくりと移動していた。防潮堤の向こうから、寄せては返す波音が小さく聞こえていた。

 私はドアノブから手を離し、首から掛けていた閉じ師の かぎ を握った。ドアの表面に浮かんだ光の鍵穴に、鍵を挿し込む。それから、朝の空気を胸の中いっぱいに吸い込んだ。草木と海と人の生活が混じった、朝の町の匂いだった。私の生きていく世界の匂いだった。

「行ってきます」

 そう言って、私は私の後ろ戸に、鍵を掛けた。